戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈3〉ある無名教師の記録

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫、竹内護画)

祈り(龍一郎 揮毫)

先日、母親から古びた文集のコピーをもらいました。3年前に亡くなった従兄の竹内護(まもる)さんが書いたものでした。護さんは長年宮崎県下で小学校の教師をし、これを全うされました。

護さんが終戦後朝鮮半島から命からがら栄養失調の状態で帰還されたことは生前聞いていました。

「先の大戦では、国民のみんなが何等かの形で戦争の悲惨さを味わったと思います。
わたしの体験も六才で孤児となり祖国日本へ向けて朝鮮半島を縦断するというありふれたものです。しかし、一面では特異なものかも知れません。」

こうしたことが「ありふれたもの」だった時代、護さんも幼くして戦争に巻き込まれます。

1943年(昭和18年)、護さんが4歳の時、一家3人は住み慣れた熊本の地より北朝鮮に渡ったそうです。北朝鮮で父は人造石油会社の社員として比較的裕福で「幸福に暮らしていました」。

「そんなわたしたちの家族に不幸が訪れたのは、昭和二十年の八月でした。」

「そして、八月十四日、会社の方より『明日から一晩泊りで社員ピクニックを催す』との連絡がありました。」

「何も知らないわたしたちは歌など歌いすっかりピクニック気分にひたっていました。
それが、八月十五日のことでした。ところが、社宅より相当離れた所まで来た翌朝、会社の幹部の人より『ピクニックに参加した人たちに話があります。』と告げられ、みんながやがや言いながらも一か所に集まりました。
その時の話は、『実は日本は、昨日戦争に負けました。そこで、これから日本へ向けて避難します。』と言う意味のことでした。
話を聞いたみんなはびっくりしました。楽しいピクニック気分も一度にふっとんでしまいました。」

そうして、日本へ向けて「避難」が開始されます。

長い逃避行の中で、身重だった母と、突然閉鎖された鉄橋で離ればなれになってしまいます。その後、母はなんとか故郷・熊本へ辿り着いたということです。

父と二人で逃避行を続け、興南で引揚船が出るというデマに乗って興南に行くと、そこは収容所でした。

収容所では強制労働の日々で、そのうち父は酷い凍傷にかかり、ますます酷くなり父は自殺を図り亡くなりました。

祖国への逃避行

収容所では、時折軍用トラックがやって来て、
「髪の長い人、つまり女の人を連れ去って行くのでした。女の人の悲鳴がいつも聞こえました。このようにして連れて行かれた女の人たちは、二度と帰って来ませんでした。」

「母と離別し、父とは死別して名実ともに孤児になったわたしは、お年寄りのグループに入れてもらい、収容所をぬけ出し再び祖国日本に向けて南下の旅を始めました。」

そうして何度も三十八度線を越えることを試みるも失敗を繰り返しますが、
「おとしよりたちが、色のついた大きな紙のお金を何枚か漁師に渡し」
「ヤミルートを通して、やっとのことで三十八度線を越えることができたわけです。」

一方、離別した母親は、身重だったところ途中で産気づき、双子の女の子(つまり護さんの妹)を山の中で生みましたが、1人はすぐに亡くなり、もう1人は1カ月ほど生きて亡くなったそうです。

「そんな時、母は心の中で、『たとえこの子が死んでも護は必ず生きて帰る』と信じて疑わなかったそうです。母のこの願いで、わたしは生きて帰れたのかもしれません。」

そうして、三十八度線を越えた護さんらはソウルの孤児院に入れられ、院での粗末な食事では耐えられず、時々街に物乞いに出たそうです。

物乞いは「子供心にも、みじめで恥ずかしい気持ちになったものです。」

「そんな中で、時々、夜になると孤児を慰問に来てくれるアメリカ軍の将校さんに会うのが、唯一の楽しみでした。
なぜかと言うと、チューインガムやチョコレートなどの美味しいお菓子やおもちゃを持って来てくれるからです。」

「地獄に仏」ということでしょうか。──

収容所にて

そうして、なんとか引揚船に乗ることができ、「なつかしの祖国日本の山々を見ることができ」たのです。

時に昭和21年6月11日のことでした。すでに終戦から10カ月も経っていました。

引揚船が博多港に着くと、孤児らは本籍地別に分けられ、両親の名前と本籍地を言うと熊本行きとして送られることになり、熊本に着いたらまた孤児院に入れられました。

「熊本市は、両親の出身地だし、母は元気で帰国したことを知っていましたので、母にはすぐ再開できると思っていました。
しかし、敗戦の混乱のせいかなかなか会えませんでした。」

ある子供のいない学校の先生が護さんを養子にもらいたいという申し出があり、この期限の日の昼すぎに母が孤児院にやって来たのです。実に11カ月ぶりの再会でした。

「思えば苦しい旅でしたが、そんな中で、私が無事帰国できたのも、名も知らぬ多くの人々の善意のおかげだと思います。」

そうして、

「敗戦という未曽有の混乱のさなか、人間の醜さを嫌という程に見せつけられた中で、きらりと光った同胞愛と人間性を、これら恩人たちのためにも知ってもらいたく、また、一人の一人の子どもが受けた戦争の悲惨な体験をも知ってもらいたく、そして、二度と再びこのような事が起こらないように念じペンをとった次第です。」

その後、護さんは鹿児島大学に進み、卒業後は宮崎で小学校の教師となります。在学中に60年安保闘争のデモにも参加したと聞いています。それは、

「これから先は戦争そのものは勿論、それにつながることへも常に反対し、教え子たちには、ずっと私の体験を語り継いでいきたいと思います。
それが、残留孤児として親探しもせず、幸せに暮らしているわたしの義務だと思うからです。」

正直、護さんがここまで苦労されたとは知りませんでした。この文集のコピーで初めて知った次第です。貴重な戦争の記録です。生前もっといろいろ聞いておけばよかったと悔いています。

私ごとになりますが、1972年夏、この年の2月に学費値上げ反対闘争で逮捕・起訴され、私なりに将来に向け苦悩していたところ宮崎の護さんを訪ねました。「お母さんも心配しとらしたぞ」と言って、宮崎の観光地をあちこち連れて行ってくれました。護さんなりの激励だったかもしれません。途中サボテン公園に行くと父兄が声を掛けてきました。朝も早くから子供らが家に来て騒いでいました。父兄や子供らに慕われた先生だったようです。

なお、護さんは昭和14年4月生まれ、同18年北朝鮮阿吾地に渡り、同21年帰国。同38年鹿児島大学卒業、以後宮崎県下で小学校教師を務める。この文集は戦後39年の1984年(昭和59年)に作成されました。

(松岡利康)

※本稿は昨年同月同日付けの原稿に一部加筆、修正したものです。

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

広島県知事・湯崎英彦さんは被爆80年の素晴らしい挨拶を花道にご勇退を!

さとうしゅういち

湯崎英彦広島県知事に対して2025年11月30日限りで勇退するよう勧告する署名運動

広島瀬戸内新聞は2025年7月31日、オンラインで広島県の湯崎英彦知事に対して2025年11月30日限りで勇退するよう勧告する署名運動を開始しました。右のQRコードから署名ができます。

湯崎さんが進退を決めるのが9月という説もあることからとりあえず、8月いっぱいを署名運動期間とします。

また、この署名運動に関連して、8月21日(木)11時から広島県庁県政記者クラブで筆者が記者会見を行います。ご注目ください。

「4期16年お疲れ様でした!広島県知事・湯崎英彦さんは勇退し、後進に道を譲ってください!」の署名運動の趣旨は以下です。 

広島県知事の湯崎英彦さんは2025年11月9日執行の広島県知事選挙に立候補せずに御勇退ください。

◆県外著名人も含め被爆80年の湯崎さんの8・6挨拶絶賛のいまこそご勇退の時!

さて、湯崎さんは2025年8月6日の被爆80年の平和記念式典で、素晴らしい挨拶をされました。

だからこそ、これを花道にご勇退を!と申し上げたいのです。タレントの荻野目洋子さんら、県外の著名人も湯崎さんの挨拶をほめておられます。

荻野目さんは「広島記念式典中継を見て。湯崎県知事の言葉に強い言霊があった。社会学者で、原爆についての調査をされていた父、湯崎稔さんから受け継いだ想いが含まれているのだと察する、重みあるメッセージ」と絶賛しています。

この他、「湯崎英彦広島県知事の内外で高まる「核抑止論」への全面批判のあいさつは、何よりもその内容と、時折参列者に目を上げる語り方も素晴らしかった」(県外の日本共産党支持者)など、湯崎さんを絶賛する声が広がっています。

筆者はだからこそ、湯崎さんには御勇退を!と申し上げたい。これ以上、知事を続投された場合、「本業」の県政で「ボロ」が続出し、せっかくの湯崎さんの平和メッセージの価値も損なってしまう、と危惧します。

◆当初はわくわくさせた湯崎さん

広島県知事の湯崎英彦さんは、2025年11月30日で4期16年の任期満了を迎えます。

2009年11月、湯崎さんが広島県知事に初めて当選した際、『「演説がうまいとか、プレゼンがうまいとかそういうことではない。子育てをしているお母さん、農業のおじいちゃんおばあちゃん、漁師さん……一人一人の広島県民の声を聞くことが出来る、そういう知事が求められている。」という彼の訴えに共感し、当時、中山間地や島しょ部の医療・福祉担当の広島県庁職員でもあった私(呼びかけ人)は彼に投票しました。

就任当初、湯崎さんは部下である私たち広島県庁職員に対し、『現場スタッフを局長が支え局長を知事が支える』とのお言葉を述べられ、私は胸をわくわくさせて期待していました。

当初は、湯崎さん自ら育休を取り、「共育て」へ向け、一石を投じました。私の故郷でもある福山市の鞆の浦埋め立て架橋問題では、市民との対話を通じて積年の課題に解決の道筋をつけた姿に、感銘を受けました。

◆県民・現場無視の「産廃」「病院」対応で失望へ

汚染水流出が繰り返される三原本郷産廃処分場

しかし、私はそれ以降の彼の県政運営には失望しています。

湯崎さんが知事に在任された16年間で広島県は多くの課題に直面しています。問題は、そうした中で、最近の湯崎さんがすっかり県民の声を軽視している点です。

特に三原本郷産廃処分場問題では、汚染水流出が繰り返される中、米農家を含む地元住民の声を無視しながら、問題がある産廃業者との一体化を疑わせるような行動を取っています。地裁判決を控訴し、汚染水被害を訴える住民に対して対抗する姿勢を見せました。これによって、県民と知事の間の信頼関係が大きく損なわれています。

また、県立広島病院問題における湯崎さんのアプローチも批判の的となっています。湯崎さんは同病院の独立行政法人化を進め、JR広島病院や中電病院との統合を進める巨大病院建設を推進し、「トップレベルの医療」や「断らない救急」を実現するなどと、大言壮語されています。しかし、財源確保の課題は解決されていません。周辺住民の反対の声、議会の懸念の声にも耳を傾けていません。

この県病院問題では「県立広島病院の職員の大部分は移転に断固反対しています。しかし関係者が内部から声を上げることは難しく」との公益通報を関係者からいただきました。湯崎さんが当初唱えていた「現場主義」はどこへいったのでしょうか?

県立広島病院

◆教育長問題に公益通報握りつぶし……身内びいきの弊害噴出

湯崎さんが肝いりで2018年に任命した平川理恵前教育長を巡る問題も解決していません。平川さんが進めた高校入試の「自己表現」導入は現場に混乱を招きました。また平川さんの下で起きた官製談合事件は明らかに平川さんなくして起きえない事件にも関わらず、部下の職員だけが刑事責任をかぶり、平川さんはのうのうと、東京に戻って広島での「改革」の成果を豪語されています。こうした中で教職員のモラル低下はとまらず、不祥事が相次いでいます。

西部建設局呉支所での公文書偽造事件では、本庁人事課長が、職員からの公益通報を「該当する事実はない」などと握りつぶしていました。これは公益通報者保護法違反ではないでしょうか?

「これはちょっとまずいのでは?」と声を上げた職員の意見が軽んじられる。そして、知事らが気に入った人物や県外の企業ばかりを重用する。処分すべき事案もうやむやにする。こんな体制は、県政の腐敗を象徴しています。

◆「湯崎五選」なら県政のヘドロが化石に!

湯崎さんの4期16年の長期政権のもとで、広島県政にはかくのごとく、ヘドロが溜まっています。もし、湯崎さんが5期20年在任されれば、ヘドロが今度は化石のようにこびりつき、広島は取り返しのつかないことになるのではないでしょうか?

湯崎さんの長期政権期間中に人口流出が続き、4年連続全国ワーストワンを記録し、本年6月には総人口が270万人を割ってしまいました。硬直した状態の県政をこれ以上続けて大丈夫なのか?

◆初心を忘れた湯崎さん、後進に道を!

広島県の未来を考える上で、初心をお忘れになった湯崎さんは知事職を後進に譲るべきです。広島県は新しいリーダーシップを迎え、県民の声を真正面から受け止め、県民ひとりひとりのための県政を進める必要があります。

湯崎さんには「4期16年間、お疲れさまでした」と申し上げます。その上で、湯崎さんには、新たな風を広島県にもたらすための一歩を踏み出していただきたいと願います。

署名を通じて、以下のことへの広島県民、また広島県を愛するすべての皆様のご賛同をお願いします。

・湯崎英彦さんは2025年11月9日執行予定の広島県知事選挙に立候補せず、御勇退されること。

・湯崎英彦さんをこれまで推薦・支持してこられた県内各政党におかれては、今回の県知事選挙における湯崎さんへの推薦・支持を見送ること。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈2〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

ここ甲子園では、今年も夏の高校野球が始まりました。私は毎日甲子園球場の周りを散歩していますが、日本中から多くの人たちが駆け付け賑わっています。ウクライナやガザでは日々人々が亡くなり悲惨な状況だというのに、地球の遙か遠くの戦火がまるで嘘のような平和な風景です。

一昨年、古くからの知人で児童文学・子どもの生活文化研究家の梓加依さんの著書『広島の追憶 ―― 原爆投下後、子どもたちのそれからの物語』を出版いたしました。梓さんとは不思議な因縁で1992年、『豊かさの扉の向こう側』(長崎青海名義)を出版して以来、一時期娘さんが当社で働いたり、細く長い付き合いです。1992年と言いますから、実に30年余り経っていますが、これもまた何かの縁です。

先の『豊かさの扉の向こう側』を偶然に教育委員会の方が読まれ県下の図書館に置きたいということであるだけ持って行ったり、また、ある国立大学の非常勤講師の話があったりし、もともと勤勉な方で、近畿大学の夜間課程に入学、さらには神戸大学の大学院修士を修了されました。

梓さんは終戦前年の長崎生まれ、その後広島に移住、高校を卒業するまで住まわれていました。戦後の長崎、広島の悲惨な風景に日々接していたはずです。

そうしたことを自著の中で述べてこられました。当社が昨年出した『広島の追憶』は、その体験に基づいたノンフィクション・ノベルで、ぜひご一読いただきたい一冊です。

そして梓さんは、この最後に、
「……そして、戦後八十年に届く日が過ぎた。でも、地球から核の脅威はなくならない。戦争もなくならない。風よ、届けてほしい。被爆地ヒロシマから世界中の子どもたちへ。この八十年の物語が、子どもたちの未来、いいえ、近い将来の物語にならないように……。」
と書き記しておられます。

一見平和な今の甲子園周辺の風景 ―― これはいつまで続くのか? いまや年老いた多くの先達たちが、時に血を流し闘いながら守って来た〈平和〉、ここで挫けることがあってはなりません。改憲の蠢動は断固粉砕しなくてはなりません。

8月6日に続き、再び〈反戦歌〉2曲、加筆し再掲載させていただきます。これらに表現された平和への想いを感じ取って欲しい。

◆ザ・フォーク・クルセダーズ『戦争は知らない』

よく『戦争を知らない子供たち』と間違えられますが、違います。『戦争は知らない』は、それよりも先にベトナム戦争真っ盛りの1967年にシングルカットされ、発売されています。作詞は、演劇の世界に新たな境地を開拓した劇団『天井桟敷』主宰の寺山修司、歌は『たそがれの御堂筋』で有名な坂本スミ子。意外な組み合わせです。

寺山修司は、いわゆるアングラ演劇の教祖ともされる人物ですが、彼がこのように純な歌詞を書いたのも意外ですし、また坂本スミ子に歌わせたのも意外、歌謡曲として売り出そうとしたのでしょうか。

その後、ザ・フォーク・クルセダーズ(略称フォークル)が歌いますが、こちらがポピュラーです。いわば「反戦フォーク」として知られています。私は坂本スミ子が歌ったのを知りませんでしたが、フォークルのメンバーだった端田宣彦(はしだのりひこ。故人)さんに生前インタビューする機会があり(かつて私が編集した『この人に聞きたい青春時代〈2〉』)この際に端田さんから直接お聞きしました。

誰にも口ずさめる歌ですので、みなで歌うことがあれば、ぜひ歌ってください。私たちも先日、コロナの感染で長らくイベントを休んでいましたが、20年余り全国の刑務所・少年院を回り獄内ライブ(プリズン・コンサート)を行っている女性デュオ「Paix2(ペペ)」のライブを行いました。そこでもみなで歌いましたPaix2のPaixとはフランス語で「平和」という意味で、これが2人なのでPaix2ということです。

だったら、今こそ、この曲を歌って欲しいという願いからでした。

◎[参考動画]ザ・フォーク・クルセダーズ 戦争は知らない (1968年11月10日発売/東芝Capitol CP-1035)作詞:寺山修司/作曲:加藤ヒロシ/編曲:青木望

♪野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

戦争の日を 何も知らない 

だけど私に 父はいない

父を想えば あゝ荒野に 

赤い夕陽が 夕陽が沈む

戦さで死んだ 悲しい父さん 

私は あなたの娘です

20年後の この故郷で 

明日お嫁に お嫁に行くの

見ていてください 遙かな父さん 

いわし雲飛ぶ 空の下 

戦さ知らずに 20歳になって 

嫁いで母に 母になるの

野に咲く花の 名前は知らない 

だけど 野に咲く花が好き

帽子にいっぱい 摘みゆけば 

なぜか涙が 涙が出るの

◆ネーネーズ『平和の流歌』

先に反戦歌として『戦争は知らない』について記述したところ予想以上の反響がありました。私たちの世代は若い頃、日常的に反戦歌に触れてきました。なので反戦歌といってもべつに違和感はありません。最近の若い人たちにとっては、なにかしら説教くさいように感じられるかもしれませんが……。

今回は、この記事を書いた年が沖縄返還(併合)50年ということで、沖縄についての反戦歌を採り上げてみました。

沖縄が、先の大戦の最終決戦の場で、大きな犠牲を強いられたこともあるからか、戦後、沖縄戦の真相や、戦後も続くアメリカ支配は歴然で、それを真剣に学んだ、主に「本土」のミュージシャンによって反戦・非戦の想いを込めた名曲が多く作られました。すぐに思い出すだけでも、宮沢和史『島唄』、森山良子『さとうきび畑』、森山が作詞した『涙そうそう』、阿木耀子作詞・宇崎竜童作曲『沖縄ベイ・ブルース』『余所(よそ)の人』……。

森山良子など、デビューの頃は「日本のジョーン・バエズ」などと言われながら、当時は、レコード会社の営業策もあったのか、いわゆる「カレッジ・フォーク」で、反戦歌などは歌っていなかった印象が強いです(が、前記の『さとうきび畑』を1969年発売のアルバムに収録していますが、当時は知りませんでした)。

『沖縄ベイ・ブルース』『余所の人』はネーネーズが歌っていますが、ネーネーズの師匠である知名定男先生と宇崎竜童さんとの交友から楽曲の提供を受けたものと(私なりに)推察しています。知名先生に再会する機会があれば聞いてみたいと思います。

それは以前、高校の同級生・東濱弘憲君(出生と育ちは熊本ですが親御さんは与那国島出身)がライフワークとして熊本で始めた島唄野外ライブ「琉球の風~島から島へ」に宇崎さんは知名先生の電話一本で快く何度も来演いただいたことからもわかります。熊本は沖縄との繋がりが強く『熊本節』という島歌があるほどです。一時は30万人余りの沖縄人が熊本にいたとも聞きました。それにしても、沖縄民謡の大家・知名先生とロック界の大御所・宇崎さんとの意外な関係、人と人の縁とは不思議なものです。

ところで、ネーネーズが歌っている楽曲に『平和の琉歌』があります。これは、なんとサザンオールスターズの桑田佳祐が作詞・作曲しています(1996年)。前出の『戦争は知らない』の作詞がアングラ演劇の嚆矢・寺山修司で、これを最初に歌ったのが『たそがれの御堂筋』という歌謡曲で有名な坂本スミ子だったのと同様に意外です。しかし桑田の父親は満州戦線で戦い帰還、日頃からその体験を桑田に語っていたそうで、桑田の非戦意識はそこで培われたのかもしれません。

この曲は、在りし日の筑紫哲也の『NEWS23』のエンディングソングとして流されていたものです。筑紫哲也は沖縄フリークとして知られ、他にもネーネーズの代表作『黄金(こがね)の花』(岡本おさみ作詞、知名定男作曲)も流しています。

岡本おさみは、森進一が歌いレコード大賞を獲った『襟裳岬』も作詞しデビュー間もない頃の吉田拓郎に多く詞を提供しています。岡本おさみは他にも『山河、今は遠く』という曲もネーネーズに提供しており、これも知名先生が作曲し知名先生は「団塊世代への応援歌」と仰っています。いい歌です。ネーネーズには、そうしたいい歌が多いのに、一般にはさほど評価されていないことは残念です。

さらに意外なことに、一番、二番は桑田が作詞していますが、三番を知名先生が作詞されています。

サザンは、最初に歌ったイベントの映像と共にアルバムに収録し、シングルカットもしているそうですが、全く記憶にないので、さほどヒットはしていないと思われます。サザン版では一番、二番のみで三番はありません。ここでは一番~三番までをフルで掲載しておきます。

【画像のメンバーは現在、上原渚以外は入れ替わっています。現在のメンバーでの『平和の琉歌』は未見です。】

◎[参考動画]『平和への琉歌』 ネーネーズ『Live in TOKYO~月に歌う』ライブDigest

一 

この国が平和だとだれが決めたの

人の涙も渇かぬうちに

アメリカの傘の下 

夢も見ました民を見捨てた戦争(いくさ)の果てに

蒼いお月様が泣いております

忘れられないこともあります

愛を植えましょう この島へ

傷の癒えない人々へ

語り継がれていくために

二 

この国が平和だと誰が決めたの

汚れ我が身の罪ほろぼしに

人として生きるのを何故にこばむの

隣り合わせの軍人さんよ

蒼いお月様が泣いております

未だ終わらぬ過去があります

愛を植えましょう この島へ

歌を忘れぬ人々へ

いつか花咲くその日まで

三 

御月前たり泣ちや呉みそな

やがて笑ゆる節んあいびさ

情け知らさな この島の

歌やこの島の暮らしさみ

いつか咲かする愛の花

[読み方]うちちょーめーたりなちやくぃみそな やがてぃわらゆるしちんあいびさ なさきしらさなくぬしまぬ  うたやくぬしまぬくらしさみ ‘いちかさかする あいぬはな

ネーネーズの熱いファンと思われる長澤靖浩さんという方は次のように「大和ことば」に訳されています。

「お月様よ もしもし 泣くのはやめてください やがて笑える季節がきっとありますよ 情けをしらせたいものだ この島の 歌こそこの島の暮らしなのだ いつか咲かせよう 愛の花を」

(松岡利康)

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315258/

2025年8月4日付け神戸新聞

日本で唯一の脱(反)原発情報誌『季節』2025夏・秋合併号が8月8日発売です! 

鹿砦社代表 松岡利康

すでにご報告させていただいている通り、本誌反(脱)原発情報誌『季節』創刊10周年/月刊『紙の爆弾』創刊20周年にあたり、4・5東京、7・12関西と二つの「鹿砦社反転攻勢の集い」は、お陰様で盛況裡に終了いたしました。

新型コロナによって厳しい経営環境の下での集いでしたが、当社の出版活動を支持される多くの皆様のご参加、ご支援にて次のステージへ再出発することができました。皆様方のご参加、ご支援、本当にありがとうございました。皆様方のご支援に応え、必ず復活いたします。この件につきましては、すでにご報告させていただいていますので、これに留めます。

そして、明日8月8日にお届けする『季節』夏・秋合併号ですが、合併号ということもありかなり増ページとなりました。とりわけ今号では、5月7日に衆議院第一議員会館にて行われた、われわれの世代のカリスマ、元東大全共闘代表で物理学者の山本義隆さんの長大な講演録が入りました。必読です!

また、本誌創刊10周年記念出版とし昨秋刊行予定だった、季節編集委員会・編『3.11の彼方から──「季節」(NO NUKES voice)セレクション集』ですが、前回お知らせしましたように、ようやく完成の目途が立ち、9月初め発売予定で急ピッチで編集作業を進めています。大幅に遅れての刊行となったことをお詫びいたします。

ところで、これも前回申し述べましたが、実際に編集作業に入ってみると、当初想定した以上にページ数が嵩み、一冊では収まり切れなくなりました。そこで3分冊に分けて出版することにしました。今回は、前身の『NO NUKES voice』創刊号から14号までから選りすぐり収録いたしました。ご予約よろしくお願い申し上げます ! 

なお、ページ数の大幅増により定価アップとなりますが、以前にご注文された方は、当時予告した金額のままで結構です。

(松岡利康)

amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B0FJXW1RPD/

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戦争が‟対岸の火事“ではなくなった2025年8月──今こそ〈反戦〉の意味を考える〈1〉

鹿砦社代表 松岡利康(龍一郎 揮毫)

八月の空は悲しい(龍一郎 揮毫)

今年も8月6日がやって来ました。── ここ甲子園では平和の象徴ともいえる夏の高校野球が始まりました。

今年は、ウクライナでの戦火に加えパレスチナでもイスラエルによる無慈悲な攻撃により戦火は収まるどころか拡大しています。日本にあっても、もはや‟対岸の火事”ではありません。解決の糸口はあるのでしょうか、絶望的になります。ほとんどの日本人にとっては今に至るも?対岸の火事”のように感じられます。果たしてこれでいいのでしょうか?

かつて1960年代後半から70年代にかけて(75年のベトナム戦争終結まで)全世界にベトナム反戦運動が拡がりました。これが和平への後押しになったことはいうまでもありません。今はどうか?

8月1日付けの本通信でも記しましたが、戦後79年、日本が曲りなりとも平和を維持できたのは、先の戦争の反省から、歴史の曲がり角にあった60年、70年の〈二つの安保闘争〉を中心として、これ以後も地道な抵抗運動があったからだと考えています。8月15日付けの本通信にて採り上げますが、私の従兄は異国で終戦を迎え必死で故郷熊本に戻り、その後大学生時代に60年安保闘争に参加しています。三里塚闘争はいまだに続いています。

異論もあろうかと思いますが、半世紀余り、時にみずから血を流し闘い、半世紀余り自分なりに社会の動向、反戦運動や社会運動の推移を見てきた上での感慨です。決して机上での平和談議ではありません。日本は、曲がりなりにも民主主義社会です(この規定にも異論はあるでしょうが、少なくとも独裁国家や専制国家ではありません)。まだ声は挙げれます。

大学に入った1970年、帰省の途中で広島に立ち寄りました。これまで長崎には何度か行っていましたが広島を訪れたのは初めてでした。8月6日に毎年広島で行われる抗議活動に参加し、その日は広島大学の寮に泊めていただきました。翌日は京都からやって来たべ平連の人たちと岩国の基地反対運動にも参加し右翼からの攻撃に広島大学の学生(中核派やね)らと一緒に対峙したことが、ついきのうのことのように蘇ります。もう55年かあ。この半世紀余りの間、日本の、そして世界の、言葉の真の意味での平和は維持されたのでしょうか ── もう50年余り前の若き日の記憶から思うところを書き記してみました。

翌年1971年の8・6は歴代首相で初めて当時の佐藤栄作首相が広島の慰霊祭に出席するということで荒れました。いまだに記憶に残るのは、ある女子大生が体当たりで佐藤首相に抗議したことです。これは報道写真でも残っています。この年の夏は三里塚闘争で仲間が逮捕されたり9月に予定されている第二次強制収容阻止闘争や沖縄返還協定批准阻止闘争の準備などで広島には行けませんでしたが、報道で観て非常に感銘を受けました。

1971年8月6日の広島平和公園に来た佐藤栄作首相(当時)に抗議の体当たりをする女子学生

今回は、3年前にウクライナ危機に触発されて、若き日に接した反戦歌について書き記した文章に加筆し、この3年間、状況がまったく変わらず、それどころかますます泥沼化し悲劇が拡大している中で、あらためて加筆、再掲載してみました。ぜひお読みいただければ幸いです。

◆矢沢永吉 『FLASH IN JAPAN』

私はこの曲を聴いて大変ショックを受けました。今こそみなさんに聴いて欲しい一曲です。日本のロック界のスーパースター矢沢永吉は広島被爆二世です。これも意外と知られていません。ご存知でしたか? 父親を被爆治療の途上で亡くしています。矢沢がまだ若い頃(1987年)、『FLASH IN JAPAN』という曲を英語で歌い、その映像(ミュージックビデオ)を原爆ドームの前で撮影し、これを全米で発売するという大胆不敵なことをしでかしています。


◎[参考動画]Longlost Music Video: Eikichi Yazawa “Flash in Japan” 1987

5万枚といいますから矢沢のレコードとしては少ないのでしょうが、矢沢にすれば原爆を人間の頭の上に落としたアメリカ人よ、よく聴け! といったところでしょうか。いかにも矢沢らしい話です。このエネルギーが、部下による35億円もの巨額詐欺事件に遇ってもへこたれず、みずから働き全額弁済し復活したといえるでしょう。やはりこの人、スケールが違います。私より2歳しか違いませんが、私のような凡人とは異なり超人としか言いようがありません。

ちなみに私たちの世代にはカリスマ的存在である秋田明大(日大全共闘代表)さんも被爆二世で、毎年8月6日に開かれる抗議集会には必ず実行委員に名を務められたり参加されています。

アメリカで発売されたこの曲に正式な日本語訳はないようですが、ファンの方が訳されていますので以下に掲載しておきます(英文は割愛。藤井敦子補訳)。私も時間を見つけて、あらためて訳してみたいと思います。

俺たちは学んだのか
 治せるのか
 俺たちは皆あの光を見たのか
 雷みたいに落ちてきて 世界を変えちまった
 稜線を照らし 視界を消し去った
 戦争は終わらないんだよ 誰かが負けるまでは
 人々の群れが塔をなぎ倒し
 敵がどこに隠れているのか知っている
 兄妹たちは炎の中をはいつくばったが
 出口に届くことはなかった
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 彼らに何と言えばよいのか
 子供たちよ聞いてくれ
 俺たちが全てを吹き飛ばしてしまったが
 君たちは再出発してくれ
 朝なのに今は夜のようで 夜は冬のようだが
 いくつか変わったこともある
 いつも忘れないでいてほしい
 戦争は終わらない 誰かが負けるまでは
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いのか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか
 あの空の光は 戦争なのか 雷なのか
 それともまた日本で光るのか
 雨は熱いか これで終わるのか
 それともまた日本で光るのか

◆忌野清志郎『花はどこへ行った』/ PP&M『Where Have All the Flowers Gone?』

当初電撃戦で一瞬にしてロシアの勝利と思われたウクライナ戦争が長引いています。電撃戦どころか、ウクライナの予想外の抵抗により(ウクライナとロシアの歴史を見れば、決して「予想外」ではないかもしれません)、もう3年半も続き、解決の糸口は見つからず、さらに長期化する兆しです。ウクライナの予想外の抵抗でロシア軍はなりふり構わず攻撃しウクライナの都市や大地を焦土化し泥沼化しています。かつてのベトナム戦争のように──。

1955年から20年続いたベトナム戦争は60年代には泥沼化し、同時に米国のみならず全世界的なベトナム反戦運動が拡がりました。あの頃の話が「遠い昔の物語」(忌野清志郎の詞)ではなかったことが今になって甦ってきました。ベトナム戦争は、私が幼少の頃に始まり、終わったのは大学を出る頃(1975年)でした。時の経過と生活に追われ長らく忘れていた悲惨な記憶が甦ってきました。

ベトナム反戦の叫びは多くのメッセージソングを生み出しました。

ピート・シーガーが作った『花はどこへ行った(Where Have All the Flowers Gone ?)』もその代表作の一つでした。ベトナム戦争が始まった1955年に作られ、1962年にPP&M(Peter, Paul & Mary)が歌い大ヒットします。日本ではPP&M版が一番ポピュラーのようですが、このほか、キングストン・トリオ、ブラザーズフォー、ジョーン・バエズらが歌っています。曲の遠源はウクライナ民謡(子守唄)ともいわれますが、なにか因縁を感じさせます。

しばらくして日本にも輸入され、「反戦フォーク」として当時の若者の間でヒットし耳にタコが出来るほど聴き歌いました。私もそうでした。また、私と同じ歳の忌野清志郎(故人)もそうだったのでしょう、みずから意訳し歌っています。激動の時代を共に過ごし、時に原発問題とか社会問題にコミットする清志郎の想いがわかるような気がします。

今、ウクナイナでの戦火に触発され加藤登紀子、MISIAらが、この曲を歌い始めました。加藤登紀子はともかく、ライブで『君が代』を歌うようなMISHAがこの歌を歌うのには違和感がありますが……。登紀子さんには、この際、今は全くと言っていいほど歌わなくなった『牢獄の炎』とか『ゲバラ・アーミオ』とかも歌ってほしいですけどね。

つい先日(2024年7月8日)、京都のキエフ(登紀子さんの実家経営)で、私がいた大学の学生運動、および寮の大先輩・藤本敏夫さんの23回忌が開かれました。私とは世代が全く異なり直接の面識はなかったので迷ったのですが、先輩に勧められ、資料コピー係(この世代の常として紙の資料が多いんです)を務め出席させていただきました。

その際、登紀子さんに「今はなぜ『牢獄の炎』を歌わないのですか?」と尋ねましたところ、「あなた、なぜこの曲を知っているの?」と驚かれました。「大学に入ってすぐに先輩に勧められ買いました。私に言わせれば『百万本のバラ』もいいが、『牢獄の炎』や、さらには『美しき五月のパリ』も復活させていただきたく熱望します。

ちなみに藤本敏夫さんは、ここ甲子園の出身です(甲子園三番町。鹿砦社は八番町)。

さて、『花はどこへ行った』は、日本でも多くの歌手がカバーしていますが、異色なところでは、古くはザ・ピーナッツ』や、今ではミスチルら、数年前、フォーククルセダーズが再結成された際のコンサートでは、わがネーネーズも一緒に歌っています。

ベトナム戦争が始まってから70年近く経ち、終わってからも50年近く経ちますが、ウクライナやパレスチナに見られるように、残念ながら、決して「遠い昔の物語」ではなくなりました。この曲は、ベトナム戦争終結とともに次第に歌われなくなっていきました。今後ウクライナ戦争のような戦争が起きるたびに歌われる名曲でしょうが、ウクライナやパレスチナに一日も早く平和が戻り、「遠い昔の物語」として、この曲が歌われなくなることを心より祈ります。


◎[参考動画]ピーター・ポール&マリー(PP&M)/花はどこへ行った(Where Have All The Flowers Gone)

『Where Have All the Flowers Gone?』
作詞・作曲:Pete Seeger、Joe Hickerson

Where have all the flowers gone
Long time passing?
Where have all the flowers gone
Long time ago?
Where have all the flowers gone?
Young girls have picked them everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the young girls gone
Long time passing?
Where have all the young girls gone
Long time ago?
Where have all the young girls gone?
Gone for husbands everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the husbands gone
Long time passing?
Where have all the husbands gone
Long time ago?
Where have all the husbands gone?
Gone for soldiers everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the soldiers gone
Long time passing?
Where have all the soldiers gone
Long time ago?
Where have all the soldiers gone?
Gone to graveyards, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?

Where have all the graveyards gone
Long time passing?
Where have all the graveyards gone
Long time ago?
Where have all the graveyards gone?
Gone to flowers, everyone
Oh, when will they ever learn?
Oh, when will they ever learn?


◎[参考動画]花はどこへ行った~トランジスタラジオ 忌野清志郎

『花はどこへ行った』
忌野清志郎詞、ピート・シーガー作曲

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

可愛い少女は どこへ行った
遠い昔の物語
可愛い少女は 大人になって
恋もして ある若者に抱かれていた

その若者は どこへ行った
遠い昔の物語
その若者は 兵隊にとられて
戦場の炎に抱かれてしまった

その若者は どうなった
その戦場で どうなった
その若者は死んでしまった
小さなお墓に埋められた

小さなお墓は どうなった
長い月日が 流れた
お墓のまわりに花が咲いて
そっと優しく抱かれていた

その咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
その咲く花は 少女の胸に
そっと優しく 抱かれていた

野に咲く花は どこへ行った
遠い昔の物語
野に咲く花は 少女の胸に
そっと優しく抱かれていた

※昨年同日に掲載のものを一部修正。

(松岡利康)

◎[リンク]今こそ反戦歌を! http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=103

【著者略歴】梓 加依(あずさ・かえ)。児童文学・子どもの生活文化研究家。1944年長崎生まれ、小学校から高校まで広島市内に在住。公共図書館司書、大学非常勤講師、家庭裁判所調停委員などの仕事を経て、現在は物語を書く会「梓の木の会」主宰。

青山透子氏インタビュー「日航123便墜落」真相究明に政治の言論封殺(紙の爆弾2025年7月号掲載)

 1985年8月12日に起きた「日本航空123便墜落」の再検証を求める世論が、ここ数年、あらためて盛り上がりを見せている。一方で4月10日、真相究明をリードしてきた元日航国際線客室乗務員の青山透子氏の著作に対し、自民党の佐藤正久参院議員が国会で「フェイク情報」であり「全国学校図書館協議会の推薦図書に選ばれているのはおかしい」などと発言。即座に青山氏と遺族の吉備素子さんが言論弾圧であるとして抗議声明を発表するも、その内容を伝えるメディアはほとんどない。そこで今回、7月に『日航123便墜落事件 40年の真実』(河出書房新社)を上梓する青山氏にインタビューした。(聞き手・文責/本誌編集部)

◆現場が物語る「真実」

──佐藤氏は参院外交委員会の質疑で、自衛隊が123便墜落に関与した可能性について、「防衛省・自衛隊の名誉」を問題にしていますが、青山さんは著書の中で、「(当初)私自身も自衛隊の誤射やミサイルという言葉すら不愉快で違和感を覚えていた」と書かれています。調査を始めた経緯について、まず教えてください。

青山 1985年の年末までに、当時の客室乗務員有志が作成し、関係者だけに配布した追悼文集(『悼歌』タイトル部写真)があります。ここに追悼文を掲載された客室乗務員12名、そして非番で乗り合わせた2名は、私がともにフライトをしてきた同僚たちです。
 私も先輩たちへの思いを込め、墜落から25年が経った2010年に出版したのが、最初の『日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ』(マガジンランド)でした。
 この本を書くにあたって新聞報道をくまなく読み込みました。すると、当時は単なる元客室乗務員だった私にとっても疑問に思うことが山ほど出てきて、それを時系列でまとめました。
 奇しくもこの本を出した10年に、日航が倒産。日航はずさんな管理体制の下で、軽微なものを含め様々な事故を起こしてきました。その中で最悪のケースが123便墜落であり、単独機で世界最大となる、乗員の殉職を含めて520名の死者を出しました。学校が1つなくなるほどの方々が亡くなられたのです。その精算をしないまま国内3位のJASと合併したら、今後も同じことを繰り返すことになる。あらためて123便をリマインドし、航空会社にいる人間として、その無責任な体制に警鐘を鳴らすべきだと思って、『天空の星たちへ』を書いたのです。
 同書では、第二次世界大戦中は零戦のパイロットであり、墜落時を含めて現場となった群馬県上野村村長を2005年まで40年つとめられた黒沢丈夫さんに取材し、帯文も書いていただきました。黒沢さんは墜落当日の夜、すぐに現場は上野村だとわかり、村民に情報提供を呼びかけ、県や政府関係者、NHKにも電話で連絡したにもかかわらずテレビでは「不明」で、隣の長野県など偽の情報が流され続けたと怒っておられました。その事実を書く人がいないとおっしゃったので、私の本にインタビューを加えたんです。
 また、上野村消防団や、猟友会の地元の皆さんも、真夜中から翌朝まで一晩中捜索しています。生存者である当時12歳の川上慶子さんらを発見したのは、報道されているような自衛隊員ではなく、地元の人たちです。しかし、担架を作り生存者を山頂へ運ぶも、最初に自衛隊のヘリが来てから2時間以上も真夏の山頂に放置状態にされたといいます。そうした方々に取材すると、彼らからも疑問をぶつけられたのです。
 私の問題意識は、こうして事実を集める中で生まれたものです。なにより、私にアナウンスを教えてくれた先輩の対馬祐三子さんが、アナウンスのメモを遺書として残して亡くなられました。そこに込められた同僚たちの意思を尊重するためにも、絶対に真相を突き止めなければなりません。

──墜落をめぐる「謎」の代表的なものとして、「遺体の完全炭化およびガソリンとタールの臭い」「航空自衛隊ファントム2機の数々の目撃情報」「墜落直前の機体周辺にみられたオレンジや赤の物体」が挙げられます。ほかにも疑問点は数え切れず、読者にもそれぞれの詳細を7冊の著書で読んでいただきたいですが、調査を進めた結果として、自衛隊や米軍の関与の可能性を指摘されました。

青山 慶子さんを発見した上野村消防団の話を聞くと、現場はガソリンとタールの臭いで充満していたといいます。ガソリンは危険物で飛行機には搭載できませんから、ジェット燃料はガソリンでもなければタールでもありません。それより引火点が高いケロシンという灯油の一種を使用します。引火点が常温より高いので、常温では引火せず、しかも、飛行時間にして2時間分の量しかないにもかかわらず、翌朝まで燃えていたというのです。
 ほかにも、隣県・長野の信濃毎日新聞が8月12日付の号外で「上野村」だと報道しています。黒沢村長も現場の人も正しかったのに、中央メディアが無視したということです。

※記事全文は↓
https://note.com/famous_ruff900/n/nf4f70999fc3f

《8月のことば》広島・長崎の青い空を見上げる……

鹿砦社代表 松岡利康

《8月のことば》広島・長崎の青い空を見上げる……(鹿砦社カレンダー2025より。龍一郎揮毫)

本年、8・6広島、8・9長崎の原爆投下、そして8・15敗戦からそれぞれ80年が経ちます。また、その後のベトナム戦争終結から50年です。歴史的にもエポック・メーキングの年です。

残念ながら、ウクライナ、ガザではまだ戦争が続いています。

私たち戦後生まれの世代は、もちろん戦争を知らずに生きてきましたが、私たちの青春時代にはベトナム戦争が激しく、そのベトナムへの米軍の出撃拠点となっていた沖縄の現実にも目を向け、ベトナム反戦の集会やデモに連日参加しました。それが当たり前のキャンパスの風景でした。

私が転がり込んだ寮では、戦中、学徒出陣で出征する寮生を母子で見送った寮母さんは反戦意識が強く、集会やデモの日に寮でくすぶっていると「何をしとん、早く行け!」と叱るような人でした。今はそんな寮母さんなどいません。

べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)など参加しやすい運動もありました。もっとラディカルな運動もあり、みずからの意志でどれにも参加できる環境でした。

今はどうか? 多様な運動自体がなくなり、参加しようにもできない状況です。私のいた大学は当時(1960年代から70年代にかけて)全国的にも中心となったところでしたが、その後、混乱と低迷の時代に入り学生みずから学友会(全学自治会)を解散するという前代未聞のことをやらかしました。

今、キャンパスは静かで綺麗です。戦争反対を謳う立看一つ立てれません。私たちが日夜切磋琢磨の拠点としていた学生会館も取り壊され、どでかい近代的な建物に変わっています。果たしてこれでいいのでしょうか? 建物は綺麗でも、なにか無味乾燥です。

8月は鎮魂の季節であると共に、私たちの心の中に<反戦>の火をふたたび燃やす季節にしなくてはなりません。

近く発売になる『季節』夏・秋合併号には、かつて東大全共闘代表を務めた山本義隆さんの長大な講演録が掲載されます。

かつての学生運動で、東大といえば日大ですが、日大全共闘代表は秋田明大さんです。あまり知られていないようですが、広島出身の秋田さんは被爆二世です。毎年、8月6日の集会にはいつも、こっそりと呼びかけ人に名を連ねられています。ご存知でしたか? その後の無骨な秋田さんの人生が想像されます。山本さんの次は秋田さんに登場いただきたいですね。

1970年の8月6日、この年の4月に大学に入学、帰省の際、広島で途中下車し広島大学の寮に泊めてもらい、反戦集会に参加したことが思い出されます。18歳の夏のことでした──。

(松岡利康)

介護保険についての女性団体アンケートに答えぬ参政党 本当に「反グローバリズム・反緊縮」なのか?

さとうしゅういち

◆神谷代表にお返ししたい「ふざけるな」

参政党代表の神谷宗幣さんは、参院選中は「日本人ファースト」を叫び、「外国人特権」をなくすかのようなイメージを醸し出し、バカ受けしました。比例代表では広島県内でも二番目の得票となりました。だが、選挙が終わったら「外国人特権?無いんじゃないですか?」と記者に答弁しておられました。

参院選中、街頭演説で、神谷さんは「ふざけるな」と反対派に対して反論しておられました。だが、そのお言葉はそっくりそのままお返ししたいの気持ちです。

◆介護現場の崩壊、忘れ去られる

そして、参政党ブームで十分議論されなくなった問題も多くあります。

その一つが介護現場の崩壊です。ご承知のとおり、介護職員が足りない。だけど他産業より賃金が低いからどんどん辞めていく。賃金が低いのに労働がきついからさらに辞めていく。そんな悪循環に陥っている実態があります。特に、訪問介護では、2024年の報酬改定で引き下げられてしまいました。ただでさえ、若い人が就職してこない中で、職員自身も高齢者が多いという笑えぬ実態がありました。今回の報酬引き下げで、撤退する事業所が相次いでいます。

こうした中、筆者が最近、勤務していた介護施設では、外国人労働者が全員正社員で、日本人のパート労働者より高い時給をだしていました。時給で言えば日本人派遣労働者>外国人正社員労働者>日本人パート という感じです。

いまは、参政党や一部の政治家が言うような、「外国人労働者がくるから日本人の給料が下がる」という単純な話でもないのです。無論、安く使い捨てにする狙いで自公政権が研修生→技能実習生という形で外国人労働者受け入れを進めてきたのも事実です。しかし、安く使い捨てにする仕組みを作ってきたのは日本人についても同様です。30年前の1995年、日経連の「新時代の日本的経営」が出てきて、非正規労働者は増えていたのです。

ともかく、介護の場合は、もともと安すぎて日本人が来ないところにやむを得ず、日本人より高めで外国人労働者に来てもらっているのです。今必要なことは、日本人も含めて介護に従事する労働者の給料を抜本的に上げることです。そうしないとそのうち日本人の若手労働者も海外に行くようになるでしょう。

介護現場が崩壊すればどうなるか?それは高齢者の家族を直撃します。それこそ、いわゆるビジネスケアラー(介護をしながら仕事)、ダブルケアラー(子育てをしながら介護)、ヤングケアラー問題をさらに深刻にします。

◆介護保険についてのアンケートに答えぬ参政党女性候補

こうした中、「高齢社会を良くする女性の会・広島」は介護保険についてのアンケートを行いました。 https://www.wabashiroshima.org/answer.pdf

この団体は別にいわゆる左翼団体でもなく、保守系の地方議会議長経験者も含む幅広い方が活躍される女性団体です。今回のアンケートについて、自民の男性候補さえも賛否は別として「それなり」の内容で回答しています。立憲の男性候補は「はい」「いいえ」の回答はされていますが、具体的な記述がありません。れいわ新選組のはんどう候補は、党の基本政策に基づき、「民間事業者だけでは必要なサービスの量と質がまかなえない、過疎地域で訪問介護サービス事業所がないなど、個別の事情により介護を断られる利用者等に対応するため自治体の福祉職を増員し、「公務員ヘルパー」を創設する。」「年間3兆円の財政投資で介護従事者の給与を月10万円引き上げ、介護現場で働きたい人を増やす」を掲げています。」などと回答しています。

ところが、今回、大健闘された参政党の女性候補は、アンケートに回答すらしていません。

◆「女性だからよい」時代は終わり

「れいわ新選組」と「参政党」で迷った、という有権者も今回は多数おられました。「どちらも反グローバリズム・積極財政だから」という方も多くおられました。しかし、今後は、個々の政策について、候補者のスタンスをきちんと精査していただきたい。また、今回の参政党は女性候補を多く出しました。女性の当選者は今回の参院選では125人中39人と過去最多になりました。そのこと自体は良いのですが、「女性だからよい」というわけでもないのも、留意しておく必要があります。

◆新自由主義グローバリズムの是正は当然だが……

1995年の〈新時代の日本的経営〉をスタート地点に竹中平蔵さん、小泉純一郎さんが推進し、野党第一党の支持基盤の労組も一時黙認してしまった感のある新自由主義グローバリズム自体は是正されるべきなのは、一定程度共通認識になっています。

また、米国主流派やイスラエル首相・ネタニヤフ被疑者が推進してきた急進的なポリコレもやりすぎで、貧困層のマイノリティーが置き去りにされてしまった。LGBTを推進しつつパレスチナ虐殺のネタニヤフ被疑者など、問題外です。

新自由主義グローバリズムとポリコレ両方の推進者であるバイデン氏ら米国主流派が、評判が悪くなったのも歴史的必然です。バイデン政権では、男子大学生が女性を自認して、女子水泳大会で優勝しまくるという事件がありました。差別はいけないが、これはやりすぎです。トランプがこういうことが起きないように大統領令を出したのは政策的には正しいと思う(ただし、手続き的には疑問がある。筆者は米国法には詳しくはないが、正々堂々、議会で法律で決めるべきではなかったかとも思う。)。

◆「プロの腐敗」から「ど素人の暴走」へ

また、日米欧問わず、超大手企業や高級官僚、既成政治家らいわば「プロ」による腐敗が目に余るのも事実です。小選挙区制を背景に、日本でも新自由主義グローバリズム・緊縮財政二大政党による実質的な独裁が続いてきました。身近なところでは広島県知事・湯崎英彦さんの4期16年にわたる長期政権の弊害は目に余るし、広島市長も、ほころびが目立ってきました。広島を、日本を市民、県民、国民の手に取り戻すのは緊急課題です。

参政党は「政治を腐ったプロから取りもどす」イメージを醸し出しています。しかし、「メロンパンを食べたら翌日に死んだ人がいた」という前共同代表のご発言。同様の小麦否定の文脈で「小麦は戦後に入ってきた」という神谷代表のご発言。ほとんど、カンボジアをかつて支配し、大混乱に陥れた農本主義政党・ポルポト派ではないか?と思われるような近代科学否定です。

そして、まるで、朝鮮(金氏)並みの権威主義国家にしようとする同党の憲法案。「プロの腐敗」から「ど素人の暴走」へ、ともいえるでしょう。その流れの中で今、バカ受けしているのが参政党、ということになるでしょう。

◆他党の課題 罵倒の応酬ではなく、「真の反グローバリズム・反緊縮」提示を

参政党支持者は、ネット上でもちょっとでも反論されると「お前、日本人か?」などと突っかかって来られる傾向が強くあります。ただ、他党の支持者がその挑発に乗ってしまうのはいかがなものか?

というか、そもそも、参政党の支持者がやっているような罵倒は、最近では日本共産党系の方がよくやっておられました。日本共産党は昔は、割と礼儀正しい人が多かったのですが、最近ではネット上でもリアルでも品の悪い罵倒をしてこられる方が目立ちます。実際、筆者自身も、複数の日本共産党系の活動家に酷い誹謗中傷に遭い、情報開示を請求。裁判所で日本共産党系活動家による筆者への名誉棄損が認定され、最終的に筆者が勝利的和解をしています。

特に日本共産党系の方に申し上げたい。参政党の選挙活動に、似たような口汚い言葉で抗議するくらいなら、対抗馬の選挙運動を応援された方が効果的ではないでしょうか?

また、前出の米国で男子学生が女性を自認しただけで女子水泳大会において優勝しまくる事件を正当化するような言動はやめた方が良いでしょう。参政党のメロンパン云々と同様に、失笑の的になりかねない。まして、同事件を批判した筆者らを誹謗中傷するような行為は慎むべきです。

自民党支持の70代女性は取材に対して「少子化対策というけど、介護も大事。参政党には怒りを覚える」とおっしゃいました。別の自民党支持で自民党候補を熱心に応援された50代女性も「参政党は途中からおかしいと思った。実際には広島でトップ当選の勢いがあり、自民党候補が落選の危機にあったが、参政党のおかしさに気づく人が増えて自民党候補が助かった」と証言します。

参政党自体は、自壊していくと思う。ただ、他党が、参政党の挑発に乗って、罵倒的な対応をすると思うつぼです。また、参政党の外国人問題云々の提起に過剰反応して、経済面での政策の打ち出しが弱くなるのも避けるべきでしょう。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
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飛松五男解説「川崎ストーカー事件」は警察の犯罪である(紙の爆弾2025年7月号掲載)

 神奈川県川崎市で4月30日、民家の床下から20歳の女性がバッグに入った遺体で発見された「川崎ストーカー事件」。事態が明らかになるにつれ見えてきたのは、女性本人や家族から再三の相談を受けながら、捜査を拒絶し続けた神奈川県警川崎臨港署の異様さだ。
 元兵庫県警刑事で、退職後も被害者や家族の依頼を受け、本件にも携わる飛松五男氏が、事件の裏側と「警察の実態」を明かす。(構成・文責/本誌編集部)

◆遺体発見までの遺族の努力

 私が今回の事件で亡くなられた岡﨑彩咲陽(あさひ)さんの遺族から相談を受けて、川崎市に赴いたのは4月10日。話を詳細に聞いて、まず考えたのは、本件が“対警察”の問題であるということでした。
 報道されているように、祖母の家で生活していた彼女が行方不明となったのは、昨年12月20日。それ以前から本人や遺族が、川崎臨港署にストーカー被害を繰り返し訴えていました。しかし警察は動かないどころか、彩咲陽さんの失踪後、捜索を求める遺族に対し、「事件の証拠をでっち上げた」などと、自作自演を疑う言葉まで投げつけています。それで遺族は探偵に大金を払って、元交際相手の白井秀征被告の動向を調べたり、自ら白井に会ったりするなど努力を続けたものの、事態の進展が見通せず、私に依頼したのです。
 ひととおり状況を聞いた私は、1カ月以内に警察に捜査させるところまでもっていくと遺族に約束し、翌日に改めて川崎臨港署に行くように言いました。その際に重要なことは、彩咲陽さんが「特異行方不明者」に当たるということです。
 特異行方不明者とは、国家公安委員会規則「行方不明者発見活動に関する規則」の第2条第2項で「殺人、誘拐等の犯罪により、その生命又は身体に危険が生じているおそれがある者」等と定義され、受理署長や本部長がとるべき捜査方法が定められています。関連資料を見た彩咲陽さんの父親は、「まさに娘のことだ」と驚き、警察署に向かいました。
 父親は資料ファイルに私の名刺も挟んでいたといい、それが功を奏したかはわかりませんが、それまで「事件性がない」と言って追い返す対応を続けてきた川崎臨港署で、すぐに刑事部の責任者が来て謝ったといいます。
 その後も遺族と連携して調査を続け、白井宅の見張りを続けていた父親から、家宅捜索が始まったと報せを受けたのは、4月30日の深夜のこと。夜11時半に最初の電話がかかってきて、翌朝まで14回にわたり状況を伝えられながら、私も翌朝の新幹線で川崎に向かいました。
 翌5月1日、遺族ら約50人が警察署の前に集まり抗議を行ないました。私も求められて加わったのですが、そこで言った重要なことは、神奈川県警をはじめ警察が起こした不祥事をきっかけに、2000年に国家公安委員会が出した「警察刷新に関する緊急提言」です。
 全9項目の第2に、「苦情を言いやすい警察に」とあります。苦情申し立て制度は、署長に対して文書または口頭、公安委員会に文書または口頭で申し立てる4種類に大別されます。遺族らの抗議には、「これだけ人数がいるのなら自分たちが容疑者を直接シメればよかった」といった、警察を擁護するような批判もSNSに溢れましたが、彼らは警察の制度に従った正当な手段で、苦情申し立てを行なったのです。そうである以上、署には受理する義務があります。
 “対警察”の闘いにおいて、遵法精神に則り活動するのが私のやり方です。たとえば張り込みをするにしても、私有地に入ればこちらの不利を招きます。一方で後述するとおり、警察の方に遵法精神を疑う手法がみられる事実があります。その場合には、警察の行為の不当性を突くことになります。だから、依頼者に対しても、法や制度を外れない活動をすることを、私は約束させます。そうしなければ警察とは闘えない、ということです。

◆「姫路バラバラ事件」との共通点

 では、この家宅捜索まで、川崎臨港署は何をしていたのか?
 彩咲陽さんの遺族から依頼を受けた私も、彼女が住んでいた祖母の家や、遺体が発見された白井宅を調査しています。川崎臨港署は指紋採取を1月7日に行なったと言っているようですが、私が祖母宅を実況見分した際には、行方不明時に割られたガラスに指紋を調査した痕跡は一切ありませんでした。父親も、失踪2日後にやって来た警察は、手袋すらしていなかったと言います。鑑識には専用の鞄を持ち込み、現場にシートを敷くものなのに、それも見なかったという。専用ケースに入ったカメラもない(ただしスマートフォンで撮った可能性はある)。それで女性警察官が「事件性がない」と言い、それどころか、ガラスは遺族が割ったのだろうと偽装工作まで疑ったのです。
 すでにストーカー被害を受けており、加害者が明らかである以上、窓ガラスが割られた時点で逮捕状、少なくとも捜査令状をとる十分な理由があります。特異行方不明者であることを示した時点で警察の態度が変わったことが、何よりの証拠です。
 この「川崎ストーカー事件」を調査する中で思い出したのが、私が退職を目前にした2005年に起きた「姫路2女性バラバラ殺害事件」です。23歳の女性会社員・畠藤未佳さんと、同い年で友人の女性が殺されてしまったケースです。

※記事全文は↓
https://note.com/famous_ruff900/n/nebde52086054

《緊急アピール!》対エル金訴訟、一審判決(東京地裁立川支部。被告森奈津子と鹿砦社に損害賠償11万円等)の取り消しを求め東京高裁に控訴! 人生を台無しにされ、いまだにリンチのPTSDに苦しむ大学院生(事件当時)М君に対する残忍なリンチ事件の主要暴行実行犯・エル金こと金(本田)良平の開き直りを私たちは人間として決して許さない! 圧倒的なご支持、ご支援をお願いいたします!

鹿砦社代表 松岡利康

別途「デジタル鹿砦社通信」で述べていますように、元大学院生М君に対する凄惨なリンチ事件(俗称「しばき隊リンチ事件」)の張本人、エル金こと金(本田)良平が、作家・森奈津子さんに粘着し、これから逃げるために、やむなく金良平らによる集団リンチ事件の「略式命令」書を晒したことが「プライバシー侵害」だとして110万円の損害賠償等を求める民事訴訟で、その一部を認容した一審判決の取り消しを求め、森さんと鹿砦社は7月25日、東京高裁に控訴いたしました。さっさと「はい、そうですか」と賠償金11万円を支払って終わりにすることの方が経済効率的には賢いのかもしれませんが、私たちは、くだんの集団リンチ事件によって人生を狂わされ、研究者の途を断念、いまだにリンチのPTSDに苦しんでいるМ君の胸中を思うとやり切れなく、ここはお金の問題ではなく、かの奥崎謙三級のしつこさを持って徹底的に闘うしかありません。

狂犬・金良平

「リンチはなかった」「デマだ」「街角の小さな喧嘩」などと吹聴し開き直る徒輩を私たちは決して許しません。リンチ直後に撮った被害者M君の顔写真を私たちは冷静に見れません。またリンチの最中の音声データも平常心で聴けません。時が経てば解決するなどということはありません。

被害者М君、リンチ前と後の画像を比べれば、これが「デマ」「リンチはなかった」「街角の小さな喧嘩」などではないことは歴然!

一審で原告・金良平は、関西から首都圏に移住したことは述べつつも実際の住所を明らかにせずして提訴しました。「住所」としているのは代理人の神原元弁護士の事務所の所在地です。

控訴状
控訴状
控訴状

かつて、あれだけの凄惨なリンチに手を染めた狂犬が、いったんは「謝罪文」をМ君に渡しつつも、すぐに反故にし開き直り、時を経て今度は森さんに粘着し、森さんの居住地の首都圏に移住したことで、森さんに危害を加える危険性が強く懸念され、私はやむなく、すでに〈公知の事実〉とされてきた罰金40万円の「略式命令」書を森さんに送り、これを大っぴらにしてでも身を守るように申し述べました。森さんは私のアドバイスに従い、それをX上に公開しました。これが「プライバシー侵害」だというのです。

それ以前には、先に森さんを提訴したグループの連中は森さんの自宅周辺を徘徊したり、昨年には正体不明の輩から殺害予告がありました。さらに、森さんや私も面識のある山梨学院大学の小菅信子教授は何者かに愛猫を殺され、またエッセイストの室井佑月さんは自宅前に汚物を撒かれたりしています。小菅、室井両氏とも、金良平に繋がる連中(いわゆる「しばき隊」とか「カウンター」といわれる)を批判したことが共通しています。こうしたことが脳裏を過りました。

森さんが、くだんの「略式命令」書を公開するや金良平による粘着はやみましたので効果はあったと思います。誤解を恐れず申せば、「毒には毒をもって制す」ということです。自分の身は他人が守ってくれるわけではありません。24時間介護の重度身障者の夫を持つ森さんの行為はみずからの身を守るためだったのです。

あれだけの凄惨なリンチをやった者が「プライバシー侵害」だって!? 笑わせないでいただきたい。

ところで、私たちが大学院生リンチ事件について被害者支援、真相究明に本格的に関わり始めるや、被害者周辺はもちろん、加害者周辺からも多くの資料が寄せられました。これらのうち一部は6冊の出版物に掲載していますが、掲載していないものも少なからずあります。くだんの「略式命令」書はそうで、この他には「カウンター」「しばき隊」界隈の活動家住所録なども寄せられ、取材に使わせていただきました。金良平など狂犬のような徒輩がいるので、多くの方々は面従腹背を装っていますが、代わりに多くの情報や資料を寄せていただきました。

今後、森さんら、しばき隊界隈に批判的な人たちに危険が生じるようなら、私は綺麗事は棄て、どんどんディープな情報を公開しても身を守ることを優先いたします。かつて「おっかけマップ」を出して芸能ゴロや原発貴族を震撼させたように──。

尚、一審係争中の本年正月早々、森・鹿砦社代理人の内藤隆弁護士(1996年から鹿砦社の東京方面の訴訟を依頼。主な事件に、日本相撲協会から東京地検特捜部への刑事告訴[不起訴]、「名誉毀損」に名を借りた出版弾圧の対アルゼ民事訴訟などがある)が急逝され、以後、内藤先生の先輩の清井礼司弁護士が引き継がれ、本件控訴審も清井弁護士が代理人を務められます。いずれも動労千葉弁護団であり、相手方の神原弁護士(ら日本共産党に近い者ら)からは「極左」と詰られる弁護士です。清井弁護士は、偶然ながら、私が10年間のサラリーマン生活を辞め本格的に出版の世界に入った際に、手取り足取り教えていただいた師匠=府川充男(装丁家、活字研究家)さんの親分で、ある新左翼党派の理論家でした。府川さんは軍団を率いこれには坂本龍一も加わっていたそうです。

ともあれ、私たちは一審判決取り消しを求め控訴しました。圧倒的なご支持、ご支援をお願い申し上げます。裁判の遂行を経済的に保障するご支援のカンパをお願いいたします。本件専用の口座を設けましたので、ご支援のカンパはここにご入金をお願いいたします。

三井住友銀行 甲子園支店 普通 0966462 口座名=別口株式会社鹿砦社

ちょっと奇異な口座名ですが、これが正式な口座名です。
皆様方の圧倒的なご支持、ご支援をお願い申し上げます! 勝利をわれらに!

(松岡利康)