鹿砦社創業50周年の集いに総結集し、次の50年に向けて出立しよう! 鹿砦社代表 松岡利康

いよいよ鹿砦社創業50周年の集いが近づいてまいりました。あらためて感慨深いものがあります。

 
最初の書籍、中村丈夫編『マルクス主義軍事論』

一般的にも、一つの会社が50年もつというのは大変な話だといいます。現在起業ブームだといわれます。若者が企業で束縛されるのは嫌だと簡単に起業しますし、また定年になった人が、これまでの経験やスキルを活かし起業することもあります。

しかし、会社を興すのは誰でもできますが、これを継続させることのほうが断然大変だし困難です。どれだけが成功し、長く続いているでしょうか、まさに「センミツ(千に三つ)」の世界だと思われます。

鹿砦社は、1969年に4大書評紙の一つ『日本読書新聞』(廃刊)の組合員4人で創業しました。また、2代目は2人の共同代表で、3代目が私ですが、私の前の6人の内5人は既に鬼籍に入られました。

このたび創業50周年を迎え、当時のことを調べました。わからなかったことが、かなりわかりました。唯一の生き証人、現在『続・全共闘白書』の事務局を務める前田和男さんが証言してくれ、これは創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に収められています。

私ももう若くはありません。やれることに限りがありますが、あと数年、頭が回り体力が続く限り、鹿砦社の創業前後のこと、その後のほうは私が先輩らの意志を引き継ぎ、日本の転換期に起きたこと等を記録していきたいと考えています。

 
こんなこともありました

来る12月7日(東京)、12月12日(関西)での集まりには多くの方が賛同され出席されることになっています。有り難いことです。これは、鹿砦社にもまだやるべきことが残っていることの証だと、自分なりに解釈しています。期待もまだ残っています。

私としては、まず第一にホリエモンや重信房子さんらも幽閉中に聴き感動したとされる「プリズン・コンサート」が、新年早々未曽有の500回を迎える「Paix2(ペペ)」の支援を継続・拡大していくことです。ギターができ作詞・作曲ができ歌を歌えても、また車を運転できても(各地の刑務所は辺鄙な所にありますから自前のワゴン車で向かいます)、まずできることではありません。芸能人のように一度二度は行けても100回も200回もできることではありません。ましてや500回も!「Paix2」の活動を見て、「日本もまだ捨てたもんじゃない」と感じますし、こういうピュアな志のある人をこそ応援しなくてはなりません。「Paix2」が紅白歌合戦に出るまで(一度ノミネートされたことがあるとのこと)支援していきたいと思っています。

歌う「Paix2」

記念本が続きますが、500回ののちに、500回のドキュメントも入れたプリズン・コンサート500回記念本を出版いたします(来年2月刊行予定)。さらにファン・クラブも強化し今後の活動をバックアップします。

次に、わが国唯一の反(脱)原発雑誌『NO NUKES voice』の継続です。2014年8月に創刊し、もう5年経ちますが、ずっと赤字です。当時イケイケの時期で、1千万円を準備しましたが、それもとうに底を尽きました。正直のところ、日本には反(脱)原発雑誌はないから、すぐに採算が取れ安定するだろう……という気軽な気持ちで始めましたが、反(脱)原発運動や住民運動に関わる方々からの期待が大きな反面、実売はなかなか伸びません。しかし、私たちは諦めずに粘り強く持続する所存です。関連して、設立30年を迎えた「たんぽぽ舎」についても、ささやかながら支援して行きます。

もう一つ、来年4月創刊15周年を迎える月刊『紙の爆弾』の拡大・継続です。同誌は、採算はトントンまで来ていますが、伸び悩んでいます。しかし、大小問わずメディア全体が腐敗・堕落・自己規制・権力迎合へと向かい、それに無感覚です。私たちは、いかなる困難があろうとも、小なりと雖も、あくまでも〈タブーなき言論〉の旗を掲げ続けていきます。

当面こうした三つを中心として、鹿砦社は、まさに雪崩打つ反動化の嵐に抗する〈砦〉として次の50年に向けて出立いたします。

12・7(東京)、12・12(西宮)での鹿砦社創業50周年の集いに圧倒的に結集し、まずは50年間、いろんな困難にぶち当たりつつも、これを乗り越え生き延びたことを共に祝い、気持ちを新たに頑張っていこうではありませんか!

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鹿砦社の出版活動を支持される皆様方

いよいよ鹿砦社創業50周年記念の集いが近づいてまいりました。
今回の集いは創業50周年というメモリアルな集いであり、〈特別な集まり〉です。毎年この時期にやっている忘年会(あるいは新年会)とは全く趣旨が異なります。これまで出席されなかった方こそぜひご出席をお願いする次第です。

◆ 鹿砦社創業50周年記念の集いのご案内! ◆

 
『マルクス主義軍事論』から50年後に刊行された『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

私たちの会社=鹿砦社は1969年創業、本年創業50周年を迎えました。決して平坦な道程ではありませんでした。その都度、心ある皆様のサポートで乗り越えてまいりました。これからも茨の道が待っているでしょうが、2005年の突然の出版弾圧を乗り越えたように、どのような困難にも立ち向かい乗り越えていく所存です。

また、創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』も去る10月29日に発売になりました(創業前後の経緯は文中、創業メンバーの1人、前田和男氏インタビューで明らかにされています)。

創業50周年と出版記念、さらに忘年会も兼ね、東西で集まりを持ちます。会場は、これまでの活動で縁(ゆかり)のある所です。たとえ狭くても(広くはない!)、質素でも(豪華ではない!)、私たちにとっては意味のある所です。

加えて、私たちが支援している女性デュオ「Paix2(ぺぺ)」が全国の刑務所・矯正施設を回る「プリズン・コンサート」も来年早々(1月18日、関東圏某刑務所)前人未踏の500回を迎えようとしています。これは大変なことです。「プリズン・コンサート」500回を目前にした「Paix2」も、多忙な中、どちらの集まりにも来て歌ってくれます。

創業50周年を皆様と共に祝い、次代に向けて気持ちを新たにスタートいたしたく思います。どなたでも参加できますので、ぜひ多くの皆様方のご参集をお願い申し上げます!

【東京】時:12月7日(土)午後3時から(午後2時30分開場)
    会費3000円(懇親会費用込み。学生2000円)
    於:スペースたんぽぽ
(東京都千代田区神田三崎町2-6-2ダイナミックビル4F。TEL03-3238-9035。JR水道橋から神保町方面へ徒歩5分)
「Paix2」ミニコンサートとトーク、その後懇親会(飲食有り)
[賛同人(出席される方のみ)]山口正紀(ジャーナリスト)/小出裕章(脱原発研究者)/立石泰則(ルポライター)/板坂剛(作家・舞踊家)/大口昭彦(弁護士)/足立昌勝(関東学院大学名誉教授)/森奈津子(作家)/林克明(ジャーナリスト)/横山茂彦(情況出版)/柳田真(たんぽぽ舎共同代表)/鈴木千津子(同)ほか。(敬称略) 
     
【関西】時:12月12日(木)午後6時から(午後5時30分開場)
    会費3000円(懇親会費用込み。学生2000円)
    於:西宮カフェ・インティライミ
(西宮市戸田町5-31。TEL0798-31-3416。阪神・西宮駅市役所口から川沿いに南へ徒歩5分)
「Paix2」ミニコンサートと懇親会(飲食有り) 
[賛同人(出席される方のみ)]山田悦子(甲山事件冤罪被害者)/新谷英治(関西大学教授)/水谷洋一(西宮冷蔵社長)/森野俊彦(弁護士)/大川伸郎(弁護士)/飛松五男(コメンテーター)/渡部完(元宝塚市長)/田所敏夫(ライター)ほか。(敬称略)
 
*どちらも、準備の都合がありますので、事前(東京=12月2日まで、関西=12月5日まで)に鹿砦社本社(matsuoka@rokusaisha.com 電話0798-49-5302)、もしくは東京編集室(nakagawa@rokusaisha.com 電話03-3238-7530)へお申し込みください。
**参加者全員に、魂の書家・龍一郎揮毫の2020鹿砦社カレンダー、記念品を贈呈いたします。    以上  

弾圧10周年に龍一郎が贈ってくれた檄
タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』
「風化」に楔を打ちこむ『NO NUKES voice』
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!──鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』 満を持して本日29日発売!〈4〉

学生運動に興味のない読者(本通信では少数であろうが)にとっては、「全学連」も「過激派」も「共産党」も同じに見えるかもしれない。けれどもそれらは個々ずいぶん違う性質のものであるので、本日の文章をご理解いただくために、最小限の用語の意味だけご紹介しておく。

 
鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

◆「全学連」と「全共闘」

「全学連」とは「全日本学生自治会総連合」の略語で、各大学の自治会が寄り合った組織である。当初は一つであったが、60年安保闘争を前にして主流派が共産党と訣別し死者をも出しながら激しく闘い世界に「ゼンガクレン」という名を広めるほど有名になった。一方、反主流派の共産党系も「全学連」を名乗って今に至っている。共産党ではない(主として共産党から離脱した)新左翼系の「全学連」は、60年安保闘争後いったん解体し66年に、いわゆる「三派全学連」(ブント、社青同解放派、中核派)として再建され、60年代後半の運動を牽引したが、党派による連合体の形をとったが故に、利害関係などから長続きせず、やがて各党派ごとの「全学連」に移行する。ブント系を除き今でも各派で「全学連」を名乗っている。

これに対して「全共闘」は「全学共闘会議」の略称であるが、上記の「全学連」が党派連合なのに対し、「全共闘」は、党派も抱き込みつつ、党派による弊害を感じた学生たちが、自由意思により、大学(高校)ごとに共闘する運動体を打ち立てた。その先鞭として有名なのが「日大全共闘」であり「東大全共闘」である。

日大は日本一の学生数を擁する大学であったが、学内での集会の自由を認めない、など大学としての最低限のレゾンデートルも、踏襲していなかった。60年代後半、それまで学生運動とは無縁だった日大で、30億円に上る使途不明金問題が勃発。それに呼応する形で自然発生的に「日大全共闘」が結成される。このように、最初から旧来の党派ありきではなく、自然発生的に生まれ、それゆえ瞬く間に広がったのが「全共闘」運動の特徴といえるだろう。「日大全共闘」をはじめ、全共闘運動については『思い出そう!一九六八年を?』(2018年、板坂剛と日大芸術学部OBの会編著、鹿砦社)で経験者、板坂氏らが詳しく紹介しているので是非ご一読いただきたい。

そして、まさに「全共闘」が全盛を極めたのが1969年であった。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は「全共闘最盛期」の報告と副題を付すことも可能かもしれない。1969年は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表を付しているが、年始から実に様々な事件や、のちの世代に影響を残す事柄が集中的に起きていることに驚かされる。翌1970年に70年安保という大事件を控えながら、大衆運動としての学生運動は、『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に寄せられた数々の原稿を目にすると、1969年でピークを迎えていたような印象すら受ける。
しかし、それはわれわれが、まだ1968年と1969年を解析したように、1970年(~代)についての充分な情報収集を行っていないからかもしれないが…鹿砦社では1968年・1969年に続き来年は1970年(~代)をテーマとした書籍を出版する予定だと聞いている。

◆同志社大学出身者たちが当事者として語る「東大安田講堂籠城戦」

さて、「全共闘」に話題を戻そう。全共闘は各大学で生まれ、参加者や議論の制約を設けない、新しい形の運動体だった故に、それまでの学生運動には距離を置いていた学生の中からも、参加者が劇的に増加する。

そんな中闘われたのが1月の「東大安田講堂籠城戦」だ。東大全共闘が中心であったが、全国から応援の部隊が駆け付けた。26日の本通信で、

《1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。》

とご報告した通り、証言者は当初見つからなかった。ところが偶然にも鹿砦社代表・松岡の先輩筋に、かつてその戦闘性で全国の学生運動を牽引した「同志社大学学友会」のOBの親睦団体「同大学友会倶楽部」でここ数年共に活動している方が安田講堂籠城組で、おそるおそる今回の出版企画への寄稿をお願いしたところ、単独の執筆は勘弁してほしいが「私の限られた経験でよければ」と“証言”を頂けるとのありがたい許諾を受けた。けっきょく6人の座談会となった。

松岡も私もかなり緊張し興奮しながら、取材当日を迎えた。“証言”を受けていただいた方は、2人が松岡と共に学友会倶楽部で顔を合わせたことのある方だったが、お二方はご親切にもご友人にもお声がけいただいて、取材には6名の皆さんがお集まりいただき「1969年」を振り返る「座談会」を催すことができた。いずれも同志社大学出身(中退・卒業)6名の皆さんに自己紹介からお話を始めていただくと、なんと3名が「安田講堂籠城組」であることがわかり、松岡もわたしも驚きの声を抑えることができなかった。

貴重な証言は細部に及んだ。同志社大学から、どうして東大闘争に駆け付けることになったのか? 京都を出発する時点で、「決死の闘争」へ参加する覚悟はできていたのか? 安田講堂内での守備位置はどこだったのか? 機動隊員が内部へ入ってきた時の様子は?われわれの質問は果てることがなく、参加いただいたみなさんのお答えにも、なんの躊躇もなかった。

これまでの報道では決して報告されなかった、いくつもの事実が初めて明らかになった。その多くは意外な事実であったが、中には例外的に大爆笑を止めることができないような“秘話”も含まれている。

現代史の発掘の妙味は、体験者に直接語って頂くことだ、とあらためて痛感した座談会であった。帰路松岡も、わたしも興奮が冷めやらなかった。お一人が語ってくれるだけでも望外だと思っていたのに3名もの証言者のご協力を得ることができ、それにより質疑ではなく経験者同士の対話も展開され、より事実の発掘が深まったからだ。この座談会「元・同志社大学活動家座談会   一九六八年から六九年」は間違いなくお勧めだ。

元・同志社大学活動家座談会

◆重信房子氏が回顧する「私の一九六九年」

さらにである。6名のうち5名の皆さんは、その後活動期間の長短はあれ、「赤軍派」に参加されていたことも判明する!

森恒夫、田宮高麿、遠山美枝子、坂東国男、重信房子…といった、多くの人たちがその名を知っている方々。

いずれも大事件に関係した、「あの時代」を知っている人であれば、興味のある人であれば何度も目にした名前が、直接の登場人物として話題に上る。上記4氏の中で、生死がはっきりしているのは重信房子氏だけである。森恒夫氏は赤軍派から連合赤軍を結成し、山岳ベース事件で多くの仲間をリンチ死に至らしめ、逮捕後、獄中自死した。

「あさま山荘事件」といえば、50代以上の誰もが記憶しているであろう、あの事件の前段での不幸ともっとも関係が濃密な人物である。坂東國男氏は、海外にいるとされるが、生死、消息不明だ。座談会出席者の中には森氏と、個人的に知り合いであった方もいた。そしてその方は森氏の危険性を予期していた!

田宮高麿氏は、「よど号」ハイジャックで朝鮮に渡ったグループのリーダーであり、遠山美枝子氏は山岳ベース事件で「自己批判」の末、命を絶たれることになった被害者だ。やはり座談会参加者の方からは遠山氏のお人柄も、証言されている。重信房子氏についてはさらに詳細な議論が交わされた。もうこれ以上本通信では明かすことはできない。

「おいおい、えらくコアな証言のようやな」と読者の声が聞こえてきそうだ。その通りだ。これだけでも読了後は結構な汗をかくのだが、最後的な決定打がさらに準備されている。

東日本成人矯正医療センターに収監されている重信房子氏も寄稿して頂けたのだ! シンプルに「私の一九六九年」という題で重信氏が回顧する原稿からは、一部マスコミのミスリードにより、「冷血なテロリスト」との印象を刷り込まれた読者諸氏に大きなショックを与えるに違いない。重信氏の人間性溢れる貴重な原稿だ。

いよいよ本日発売の『一九六九年 混沌と狂騒の時代』(税別800円、安すぎる!)にはその他にも「あの時代」の証言、告発、問題提起が詰め込まれている。
かつて松岡は『季節』という雑誌を発行していて、その5号、6号は電話帳のように分厚いもので、ある人に「奇妙な情熱」と揶揄されたというが、今回もA5判・224ページと、思った以上に分厚く、それでいて本体価格800円という安価――これもまた松岡の「奇妙な情熱」といえるだろう。

「絶対」という言葉は、よほど注意しなければ使わないが、あえて「絶対」にお勧めの一冊である。そして『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は歴史に名を残す書籍になるであろうことを確信する。この種の本には珍しく1万部ほどを発行したという。松岡は強気だ! 売り切れ要注意、すぐに書店に向かうか、ネット書店や直接鹿砦社(sales@rokusaisha.com)にご注文を!(了)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか ──『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈3〉

権力闘争、あるいは権力奪取闘争のなかで、意見の対立から、元は同志として同じ目的に向かっていた勢力が、分裂を起こすと近親感が憎悪へ変わり、激烈なぶつかり合いから、果ては殺し合いにまで行き着く。

この歴史は何度も教科書の上にすら登場させられることを忘れはしなかった。人間史の深く悲しい惨事の繰り返し。地層のように世界史、闘争史どの断面を切り取っても、対立→分裂→衝突→潰し合いは、人間が保持する克服しがたい、特質のように悲嘆に暮れるしかないのであろうか。

 
鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

そんな疑問や問題提起が、引き金になっているのかどうかはわからない。松岡利康はかねてより、日本の左翼(新左翼)運動内で発生した「内ゲバ」に、人一倍反応し、同志や弱者に向けられる「暴力」に対して、極めて敏感に反応を続けてきた。現在まで5冊の書籍を上梓する結果になった(最初はこれほど多数の出版を、松岡自身が想定してはいなかったであろう)「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」へ取り組む松岡の姿勢が、まさにその証左である。

松岡はどうして「内ゲバ」あるいは、同志や弱者に向けられる暴力に対して、黙していることができないのか。共に取材を進め方針を議論する中でも、この質問を、直接松岡にぶつけたことはない。なんらか、かなり大きな経験なり、思索が「確信」にまで高まり、この種の問題から目を逸らせることを、松岡は無意識に自身に禁じさせている。わたしにはそうであろうとしか推測できない。

そこにはもちろん松岡が学生時代、日本共産党=民青のゲバルト部隊に暴行を受け入院させられた、肉体的苦痛を伴う個人史が作用してもいよう。しかし、そういった経験のある個人は、日本にも世界にも相当数存命中であるはずであり、その点において松岡の体験がことさら特別のものかといえば、必ずしもそうとは言い切れない。

◆リンチ事件への怒りと異議申し立て

4年ほど前になるであろうか「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」が複数筋から鹿砦社に持ち込まれた日(あるいは翌日だったかもしれない)松岡から受信した電話口での語り口調は、明らかに通常時通話のトーンと異なるものであった。あれ以来鹿砦社は自身も血を流す(比喩的な意味である)ことになる、「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」の解明と支援に向かい合うことになる。

松岡はリンチ事件を論じる際に、感情が高じると「常識的に考えて」という文言を繰り返し使う、としばしば感じた。「常識的」は穏やかな一般に共有される概念を指す言葉であるが、松岡が使う「常識的」には、一般的ではない複雑な思いが込められている、と感じたことが少なくない。

それは先に述べた通り、人間史で繰り返されてきた「人間の悪性」ともいうべき、近親憎悪が衝突→潰し合いへと向かうことが、当たり前であるかのような解釈に対する、怒りと異議申し立てではないだろうか。極言すれば松岡は、彼の人生史のなか、とりわけ学生運動に関わった時代の個的経験だけではなく、同時代に発生した幾つもの「内ゲバ」事件を「他人事」と呑気に過ごしていることができず、自身に向けられた「解決策を見出すべき至上命題」として受け取っていたのではないか。

◆高橋和巳と重なる松岡のベクトル

学生当時の松岡が、彼の周辺にさえ「反内ゲバ」を感情ではなく、論理として構成し説き伏せることなど、できようはずはない。しかし『一九六九年 混沌と狂騒の時代』の最後の原稿として松岡が著した長文「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の冒頭で松岡は、一貫して「内ゲバ」に反対の意思を苦悶しながら表明し続けた高橋和巳「内ゲバの論理はこえられるか」から引いている。高橋和巳は苦悩する小説家として著名なとおり、内ゲバに対する論考も、常に原則的な否定論を維持しながら、しかし、ならば「いかなる論や行動が有効であるか」を示し尽くすことができないことに、重ねて苦悶する中で、人生を終えたのではないか……と、またこれも想像する。

おそらく、松岡を突き動かす原動力は、表現方法や行動において同一性は見られないかもしれないが、高橋和巳と重なる方向性とベクトルにあるのではないかと、わたしは感じている。

活動家ではなく研究者だった高橋と、一活動家だった松岡の反応とでは、当然大きな違いもある。そして、松岡が学生時代に生活していた学生寮が、卒業後に某悪質セクトに深夜襲撃され寮生が監禁・リンチされた際、松岡は即寮生支援に向かっている。まだ若かった松岡にとって「内ゲバ」あるいは同志、弱者に対する暴力は、許容できるものではなく、それへの怒りと反撃に激高するのは当然の生理的反応であったと理解する。その経験を松岡は否定はしまい。けれども、会社員から鹿砦社代表へ就任し、多くの出会いと出版物を編纂し、「暴露本」路線に一方では邁進しながら、突然の逮捕-勾留192日という辛酸を経て70歳近くの老境に至り、ふたたび松岡は彼特有の感性である「反内ゲバ」に立ち返ったのではないだろうか。

学生寮が襲撃された連絡を寮母さんから電話で受けた松岡の激高は、年月を経て「カウンター/しばき隊内における大学院生リンチ事件」に初めて接したときの「落胆を伴う驚愕」(これまた推測である)へと質的な変化を遂げていたのではないだろうか。2つの事件に共通するのは表層的な反応の違いではなく、「内ゲバ」=同志、弱者への暴力を「生来徹底的に嫌悪する」松岡の人間性である。

◆「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」

歴史と現状は、そのほとんどが闘争の歴史であることを証明している。闘争は必ずしも崇高なものではなく、私利や権力欲に由来する行為がむしろ主流であり、そこで振るわれる策謀、裏切りや寝返り、そして暴力や殺戮はそれこそ歴史的「常識」である。

ところが、松岡は本人が意識しているかどうか、まったく判然とはしないが歴史的「常識」に行動と言論で「異議あり!」との抗いを続けているように、私には思えて仕方がない。この壮大な作業に簡単な回答など準備されているはずもなく、したがって「死者を出した『7・6事件』は内ゲバではないのか?『7・6事件』考(草稿)」の最後にも「(草稿)」が付されているのではないだろうか。

本原稿は同志社大学の中心的活動家だった望月上史さんが1969年7月6日に、会議襲撃の報復として拉致され、約20日も監禁(軟禁)された末、脱出を試みた際に落下して、のちに死亡した事件を、関係者5名の証言(発言)を紹介しながら松岡が問題提起を行う形で構成されている。5名の証言(発言)をほぼカットなしで引用していることもあり長文となっているが、結論として「内ゲバ」について松岡がどう論を昇華させているかは、読者諸氏がお読みになって確認していただきたい。

人類史と必ず伴走する、闘争史。そしてそこに宿命的に付随するかのような「内ゲバ」と「排除の論理」への挑戦。無謀とも思われるが、人間にとっての一大命題への取り組みは松岡のライフワークなのかもしれない。

この他にも寄稿いただいた原稿はどれも力作の連続だ。松岡は(ストレスのためだろうと推測する)重篤な目の疾患の治療で、昨年秋から全く編集実務から遠ざかっていた。それにもかかわらず、片目1回4万5千円の注射を何度も打ちながら、ほぼ単独で編集した『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は、明日10月29日発売だ。(つづく)

「望月君死ぬ」(1969年9月29日付け読売新聞夕刊)
「また内ゲバの学生死ぬ」(1969年9月29日付け朝日新聞夕刊)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈2〉

◆1968年フランス「五月革命」と1969年「東大安田講堂」攻防戦

 
鹿砦社創業50周年記念出版!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

1968年から1969年末までの2年間は、日本にとっても、世界にとっても特別な時代だったようだ。米国が「共産主義によるドミノ現象」を阻止するために、参戦したベトナム戦争に対する「反戦」運動が、合衆国本国だけではなく、日本を含む世界中で湧き上がった。

「反戦」から出発した運動は、各国の政権の問題へと矛先を向けてゆき、フランスでは1968年に「五月革命」が起こり、日本でも「べ平連」(ベトナムに平和を市民連合)が全国で広がりを見せ、70年安保を迎え撃つべく、学生運動、労働運動も急激に高揚し、1969年1月には、「東大安田講堂」での学生対機動隊の激烈な攻防戦が展開される。

8,500名とも1万名ともいわれる機動隊が、学生めがけて催涙弾を、地上から発砲し、上空からはヘリコプタが学生を狙い、タンクに貯めた水を投下する。学生たちは火炎びんや投石で機動隊に対抗する。

どうして1969年の1月、2日間にわたり、東大全共闘を中心とする学生たちは、安田講堂に籠城したのか。その事情を詳述しだすと、書籍一冊でも足りない歴史と背景がある。それでも、20歳そこそこ(20歳以下の人もいただろう)の学生たちは、奇跡的に勝利しなければ、逮捕確実なあの籠城闘争に、どんな思いで参加したのか。1969年を知る上で、もし、「安田講堂」闘争参加者に直接お話を聞くことができれば、この上なく貴重な資料になるだろうと考えた。しかしことはそれほど簡単ではない。

あれからすでに半世紀が経過しているのだ。若くとも当時の学生は70歳前後になっているはずだ。しかも、ことがことだけに、簡単に質問にお答えいただける方は、なかなか現れない。当然だろう。当時の籠城学生は全員検挙されたのだから。探り当てては「勘弁してください」と“あのこと”については語ることを拒まれる方が続いた。

「安田講堂」籠城学生経験者探しは、ひとまず棚上げし、やはりベトナム反戦を闘った方のお話もしくは原稿が頂けないかと、思案していたころ望外の玉稿が鹿砦社に届いた。路上で「ベトナム反戦デモ」に参加した人であれば、簡単に見つけることができる。だが、それでは迫力に欠ける。

◆作家・高部務氏が綴る「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」

かつて都市伝説のように「ベトナムで戦死した米兵の遺体処理アルバイト」なるものがある、と東京を中心に語られていた。まさに「都市伝説」の走りともいえる、非日常性と恐怖感、そして野次馬根性によって彩られたような「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」。それは実在したものであったことを、経験者、高部務氏(作家・ノンフィクションライター)が詳細にご自身の経験を、綴ってくださった。

高部氏がどのような状況で「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」を経験したのか。高部氏は強制されたのか、あるいはみずから進んで、「ベトナム戦死米兵の遺体処理アルバイト」に携わらったのか。それらは『一九六九年 混沌と狂騒の時代』筆頭の回顧記事で明らかにされる。同書が読者にお送りする息をつかせぬ“衝撃”の幕開けである。すべては高部氏による「一九六九年という時代」で語りつくされている。読者諸氏は巻頭の高部解雇記事「一九六九年という時代」でまず、激烈な1969年のエッセンスに触れることになる。

1969年を語るには「ベトナム戦争」を外すわけにはいかない。そして1969年に視点を置けば、ベトナム戦争こそが、アメリカ合衆国を中心とする帝国主義の悪を象徴しているものであったし、南北問題の分かりやすい実例でもあった。

ただ、「反戦」を合衆国で、ベトナム現地で、欧州各国で、そして日本で叫びながら、解放勢力の勝利=米国の敗戦を、はっきりと確信できた人々はどのくらいいたであろうか。米国は建国以来内戦を除き、直接関与した戦争で敗戦経験のない国だ。その米国が、アジアの小国ベトナムに負けるなど、どれほどの人が1969年に予想しえただろうか。だが、一見無謀に見える“象とアリ”(このように表現するとベトナムには失礼かもしれない。ベトナムは米国以前にフランスに勝利した歴史もあるのだから。

でも国の規模から、あえてこの表現を選択させていただく)の闘いで奇跡が結果として訪れたのは、1969年(この年だけではないが)に最大級の盛り上がりを見せた、世界規模の「ベトナム反戦」運動が確実に影響していることは間違いない。世界最大軍事国の侵略戦争を小国が打ち破った。その背後には、世界の「反戦」の声があった。1969年はそんな奇跡が、現実化する前段階が無意識にも用意された年でもあった。(つづく)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社編集部編『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして〈1〉

「企業は創業30年がピーク」だとする、やや古めかしい言い回しがある。企業だけでなく、私立学校などにも結構当てはまるこの言い回しには、なるほどと思わせる根拠がある。起業時に経営者が30歳であれば、30年後は60歳を迎えている。40歳ならば70歳だ。平均寿命が延びて、給与所得と年金が減った今日、企業労働者は60歳定年退職後も、嘱託として半額ほどに減じられた俸給で元の職場にとどまるか、あるいは第二の職場を探さなければ、生活を維持するのが難しい。だが「人生50年」といわれた時代には60歳定年前に、人生の定年がやってきたわけで、つまり事実上の「終身雇用」が生涯続く、ケースも珍しくはなかった。

志や理想に燃えて起業した、あるいは開学した経営者。早々に行き詰まり、こけてしまえば別だけれども、堅調な経営が続いていれば、創業30年で足場は固まり、「攻め」から「守り」に入る時期に中小企業では、落とし穴が待っている。保守化した経営者は独善的になり、みずからの経験則を第一に置き、商品開発や、会社の運営に提言しようとする、新しい従業員の声を聞かない。そのくせに起業(開学)当初の理念を捻じ曲げてでも自己正当化を図ろうとする。だいたい、そんなパターンで30年は転機として訪れるようだ。

◆2005年7月松岡逮捕─長期勾留という分水嶺

今年は鹿砦社創業50周年にあたる。本通信を毎日のようにお読みいただいている読者のみなさんからは、驚きの声が聞こえてきそうだが、1969年に鹿砦社は創業したのだ。そこで「企業は創業30年がピーク」説を当てはめると、1999年に鹿砦社も分水嶺を迎えていたことになる。1988年に3代目社長に就任した松岡は、それまでの硬派一辺倒路線から、芸能界を中心とする「暴露」路線にもウイングを広げた。ジャニーズ、タカラヅカ、阪神タイガース、日本相撲協会などを相手に次々と「暴露」を連発。当時鹿砦社とのつき合いが皆無だったわたしは、てっきり「トップ屋」出版社とばかり思い込んでいた。

1999年はノストラダムスにより「人類破滅」が予想されていた年で、『ノストラダムスの大予言』で儲けた出版社は、夜逃げの準備をしていた(憶測である)。なにも起こるはずがない1999年はさらりと過ぎて、いまやノストラダムスの名前すら若い人は知らないだろう。鹿砦社は「暴露」に次ぐ「暴露」の対価として、多くの訴訟を抱えることになる。それでも起業30周年の1999年は無事経過することができた。

今年亡くなった『噂の眞相』編集長・岡留安則氏との対談『スキャンダリズムの眞相』(2001年、鹿砦社)のなかで、松岡は岡留氏から、係争についての忠告を受けている。そして岡留氏の予言的忠告は、鹿砦社創業30周年から遅れること、6年目に現実のものとなる。2005年7月12日、神戸地検特捜刑事部に「名誉毀損」容疑で、松岡は逮捕され、192日もの勾留を余儀なくされたのだ。『噂の眞相』も刑事告訴され、『スキャンダリズムの眞相』が発刊された当時は、一審で争っている最中だったが、岡留氏ともう1名の被疑者はいずれも在宅起訴であり、松岡の逮捕―長期勾留は出版界では大きな事件として、記録に残っている。

取締役や社員の何人もが、鹿砦社を見捨て、離れてゆく中で、入社2年目、まだ20代前半の中川志大、現『紙の爆弾』編集長がほぼ単身で、松岡不在の間踏ん張り続けたことは特筆されるべきだろう。中川に「どうしてあの時鹿砦社を辞めなかったのか?」と聞いたことがある。「みんな辞めて行っちゃったから、残ろうかなと…」と肩透かしのような答えが返ってきた。中川の強みは、松岡と対称的に「闘志や喜怒哀楽を表に出さない」ところだと推測する。『紙の爆弾』廃刊どころか、会社倒産か廃業の危機のなかから、鹿砦社は奇跡的な復活を遂げる。

◆鹿砦社創業50周年に〈1969年〉を掘り下げる

社員でもない無責任な立場から、鹿砦社の半世紀を、あれこれ論評するのはためらわれるが、ご心配なく。半世紀にわたる鹿砦社の歴史は『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に詳しい年表が収録されている。松岡から鹿砦社社長就任についての逸話は聞いたことがあった。しかし、鹿砦社創業に関わった方のお話は聞いたことがない。こちらもご心配なく。鹿砦社創業メンバーのお一人である、前田和男さん(現『続・全共闘白書』事務局)に松岡が直々に鹿砦社創業当時のお話を伺った。

このように『一九六九年 混沌と狂騒の時代』は鹿砦社創業50周年記念として、原点を振り返る。これをひとつの旋律としている。硬派出版社として出発し、芸能、暴露本路線にもウイングを広げ、会社存亡の危機を経て、危機から回復、日本唯一の脱(反)原発季刊誌『NO NUKES voice』を創刊するなど、近年地味ながらも存在感と、心ある識者からの評価を上げてきた鹿砦社。この不思議な出版社誕生から今日までの歴史を振り返るとき、1969年という“特別な年”を掘り下げずに、なにが語れるであろうか。

お定まりの社史編纂では、つまらない。鹿砦社の50周年出版物であれば、当然、鹿砦社視線の〈1969年〉を浮かび上がらせなければ意味はない。そしてそれは、予想以上の成果として貫徹された!『一九六九年 混沌と狂騒の時代』が鹿砦社の歴史をつまびらかにすることを、ひとつの旋律にしていることは述べた。しかし主旋律は違う。あの年、その後の日本、いや世界中を根底から揺さぶる運動体の胎動があったのだ。そこに迫らずして鹿砦社は〈1969〉年を語ろうとは思わない。(つづく)

◎鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈1〉鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』発売を前にして
〈2〉ベトナム戦争で戦死した米兵の死体処理のアルバイトをした……
〈3〉松岡はなぜ「内ゲバ」を無視できないのか
〈4〉現代史に隠された無名の活動家のディープな証言に驚愕した!

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』10月29日発売!

書家・龍一郎さんが長年の沈黙を破り、11月10日同志社大で語る「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」

本通信で「『体罰』ではなく、すべて『暴力』だった」を3回にわたり掲載した。個的な経験の紹介ではあるが、ある時期、公権力(教育委員会)の明確な意思にもづき、堂々と行われた「教育」に名を借りた「犯罪行為」であるから、私怨としてではなく、記録として留められる必要があると考えたからだ。

愛知県をはじめとする「管理教育」について『禁断の教育』(宇治芳雄、同時代叢書1981年)『虚構の教育』(宇治芳雄、同時代叢書1982年)など問題を指摘する書籍も発売され、校内暴力などで荒れる学校の問題と対極に、行政暴力により吹きまくる公立高校内での「犯罪」は限定的であるとはいえ、教育や社会問題に関心のあるひとびとの間では、認知されていた。

NHKも東海地方では教育テレビで特集番組を放送し、『ある小学校長の回想』(岩波新書1967年)の著者である金沢嘉市氏がゲスト出演し、学校内で行われる異常な「教育」の実態を記録したビデオ映像を目にして、「ついにここまで来たか……という感じです」と絶句していたことが思い出される。

わたしは運悪く(あるいはのちの人生を考えれば逆説的に「幸運にも」との評価も成立するかもしれない)管理教育の被害者になったことで、人格形成のかなり重要な部分に多くの傷をすりこまれた。かといって教育界にはわたしに接したような、最低レベルの人間ばかりが巣くっているわけではなく、教育者としてだけでなく、人物としても尊敬に値するかたがたが熱心に児童・生徒・学生のために献身的に身を削っておられることを、身をもって後に知ることになる。

「ゲルニカ事件」は、ウィキペディアに下記の通り、記載されている。

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1988年3月の卒業式の際に、卒業生たち卒業記念作品としてパブロ・ピカソの『ゲルニカ』を模倣した旗(以降、「ゲルニカの旗」と呼称する)を作製した。児童はゲルニカの旗を式典会場の正面ステージに貼ることを希望したが、校長の指示により、ステージ正面には日章旗が掲げられ、ゲルニカの旗はパネルに貼られた状態で卒業生席背面に掲げられた。なお、ゲルニカの旗をパネルに貼って掲げることは校長によって提示された修正案だが、職員会議での合意は得られていない。

これに対する抗議の意味で、卒業式当日には、卒業生代表児童挨拶での校長への批判発言もあり、「君が代」の斉唱の際に着席するなど児童がいた。この児童らに同調し、着席、また退場の際に右手こぶしを振り上げる行動をした教諭に対し、福岡市教育委員会は同年6月、教育公務員としての職の信用を傷つけるものとし、地方公務員法に基づき戒告処分を行った。(ウィキペディア『福岡市立長尾小学校ゲルニカ事件」の項)

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事件後報道もされたので、「へー、世の中には立派な先生がいるもんだな」と感嘆した記憶があった。その立派な先生の名前は井上龍一郎さんだ。わたしが井上龍一郎さんと初めてお会いしたのは、熊本で行われた鹿砦社も支援するイベント『琉球の風』だったと思う。3年ほど前だろうか。当時から鹿砦社のロゴやイベントの際の横断幕などを力強く書く「書家」としてお名前は伺っていた。ニコニコして人柄の優しい井上さんはみずからが出向いて書を描く行為を「テキヤ」と自嘲気味に表現される清々しい方、との印象があった。


◎[参考動画]龍一郎さん 書道 亥(2019年2月16日公開)

けれども、のちに鹿砦社代表の松岡氏から「龍一郎は『ゲルニカ事件』で有名だったんですよ」と聞かされるまで、井上さん(ご本人は「龍一郎」を仕事で使っておられるので以後の記載は「龍一郎さん」とさせていただく)が、まさか、あの『ゲルニカ事件』の先生だとは気が付くはずもなかった。

後日松岡氏の好意で『ゲルニカ事件 どちらがほんとの教育か』(井上龍一郎とお母さんたち1991年、径書房)をご紹介いただいき、即読了した。

井上龍一郎とお母さんたち『ゲルニカ事件 どちらがほんとの教育か』(径書房1991年)

龍一郎さんは1987年4月6日に長尾小学校に赴任して以来のできごとを、同書第一章「君は何をするために学校に来たのか」で克明に綴っている。若く情熱に溢れた教師が、すさんだクラスに赴任してから児童のこころをどうやって解きほぐしていったのか。いうことを聞かないやんちゃ坊主とどのように打ち解けたのか。実に細かく日々の学校生活と児童の様子・変化が記録されている。残念ながら『ゲルニカ事件 どちらがほんとの教育か』は絶版になっているので、簡単に入手することはできないが、できれば教育に携わるすべてのひとびとと、お子さんを小学校に通わせている、あるいはこれから通わせる保護者のかたがた全員に読んでいただきたい。心揺さぶられる名著だ。

龍一郎さんは個性豊かな(と表現しておこう)児童が集う6年3組の担任を任されることになるのだが、このクラスは校長や教務主任がいうには「問題の多いクラス」ということで、龍一郎さんも心配しながらの新学期が始まった。そして「問題の多い」原因が同じ児童が5年生(5年生と6年生はクラス替えがなかった)の後半に、担任の先生が産休となり、代わりに赴任してきた先生に「毎日叱られてばかいりた」ことが原因で、教師不信に陥って反抗的な態度をとるようになったことを知る。龍一郎さんは毎日手探りを続ける中で、児童「教師に対する猜疑心」を徐々に希釈してゆき、やがては圧倒的な信頼を得るようになる。

「卒業といってっても、何もあわてて特別なことやっても駄目だ。やはり、一学期、二学期の取り組みの延長線上に明確に位置付けるべきだ。私たちは、子どもの主体的活動を基礎に学級集団を作り高めようとしてきた。三学期は、これを土台に学年の集団をはっきりつくりあげていかなければならない。そして、何より子ども達が燃えて燃えて燃え尽きるまでものごとに取り組み卒業してゆくこと――。こんな当たり前のことにたどりついた。具体的な計画を立てるときは、子ども達の興味、関心を最大限に引き出せるように工夫した。何といっても学習の主体者である子どもの意欲が問題なのだから、当然なことではある。」

「何といっても学習の主体者である子どもの意欲が問題なのだから、当然なことではある」と龍一郎さんは当たり前に考えておられたが、その真逆の人間が「教師」を名乗っている事実があまたにこびりついているわたしにとって、龍一郎先生の言葉は、新鮮を通り超え驚愕ですらあった。

そして、子供たちは卒業の記念にゲルニカを作成することを決めて、見事に完成する。その過程で児童が戦争や差別など社会問題に興味を持ってゆく過程などは、「これがほんとうに小学生が、みずから考え行動したことなのか」と驚愕させられるほどレベルが高い。2019年、大学生でも龍一郎さんが担任を受け持った児童のレベルに遠く及ばない学生が大半ではないか。

宇崎竜童さん(左)と龍一郎さん(熊本「琉球の風」にて)

はたして、児童たちは見事な学年の旗ゲルニカを完成させ(その完成度も驚愕に値する)卒業式が行われる体育館のステージにいっぱいに、自分たちの小学校生活集大成を見つめながらの卒業式を楽しみにしていた。だが、柳校長は職員の総意と児童たちの思いを踏みにじり、ゲルニカを壇上から外し、代わりに日の丸を掲げた。

卒業式では、卒業証書を受け取った児童が思いを述べる。ある児童は「私は怒りや屈辱をもって卒業します。私は、絶対、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」と宣言した。

一連の出来事は「筑紫哲也のニュース23」で特集された。わたしはつい最近その映像を見る機会があった。失礼ながら一番印象深かったのは、わたしの知る、個性派書家龍一郎さんではなく「若い好青年」だったことだ。そして龍一郎さんは「処分」を受け、それを「不当」とし裁判闘争に立ち上がる。『ゲルニカ事件 どっちがほんとうの教育か』を読了するまでにも、わたしは何度もすなおに感激し落涙をおさえられなかった。

長年の沈黙を破り、龍一郎さんが11月10日、13時から同志社大学今出川キャンパス良心館で「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」をテーマに講演会を行う。(講演会参加者には龍一郎さん揮毫の来年2020年の鹿砦社カレンダーを進呈します!)

子どもに向ける情熱を書に切り替えても、龍一郎さんの情熱は変わらない。そんな龍一郎さんは30年前を振り返り、今日の教育問題をどのように感じておられるのだろう。いまからお話が楽しみだ。

同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」
同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

2019年 われわれの「ファンダメンタル宣言」

すべてのデジタル鹿砦社通信愛読者の皆さん! あるいはたまたま本通信をきょうご覧になった方々! 2019年を迎え、愛読者の皆さんのご多幸をご健勝を祈念するとともに、年始にわたり、そして鹿砦社創業50周年の記念すべきこの年の冒頭に、われわれは,“われわれのファンダメンタル(原理主義)宣言”をここに発するものである。

 
好評発売中! 板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

1969年、世界中にベトナム反戦運動は吹き荒れ、70年安保を控え、国内でも学生・労働者の運動が活発化したその時に鹿砦社は産声をあげた。昨年、板坂剛氏が上梓した『思い出そう!一九六八年を!!』が注目を浴びている。1968(あるいは1967)年から1970年までの数年間は、文字通り世界が揺れ動いた数年間であった。われわれの多くは当時、生は受けていたものの自我を獲得する年齢には至っておらず、「あの数年間」の雰囲気は伝聞や記録でしか知らない。

しかし、そんなわれわれにも、時代が(「若者たちが」と言い換えてもいいだろう)根底から価値観や、存在自体を問わざるを得なかった、地響きのような重低音は残響となって聞こえてくるのだ。われわれにとって1967、1968のエッセンスとはそのようなものであり、当時はそのようなことを言葉で確認する必要などこにもなかったのだ。

では、1967、1968そして1969のエッセンスとは何か。これについてはすでに様々な書籍や論文が世界各国で論じられているので、われわれごときがその論争に加わる、身の程知らずは辞退する。しかしながら、爾来50年にわたり紆余曲折の中読者に支えられ存続した鹿砦社のスピンオフである「デジタル鹿砦社通信」は、ここに改めてわれわれの原点を確認すべく“われわれのファンダメンタル(原理主義)宣言”を発する。

1.われわれは、あらゆる権力・権威から独立し、それらを批判する立場を基礎とし活動する。権力とは政治権力だけではなく、司法権力、行政権力、マスコミ、民間の既得権益なども例外ではない。

2.われわれは、あらゆる差別に反対する。人種、国籍、性別、出自、思想信条、貧富は言うに及ばず、「いわれのない差別」といった不十分な表現(「いわれのない差別」は「いわれ(原因)のある差別」を肯定する余白を残した表現である)へも疑問の目を向ける。

海外から低賃金で使い捨てにできる、単純労働者の受け入れを行う4月からの改正入管法施行には断じて反対する。反差別の立場からは、新たな「奴隷制度」を認めることなど断じてできない。

3. 同時にわれわれはあらゆる「表現規制」にも反対する。差別言辞には現行法で対応すればよい。一部勢力が画策する「差別禁止法」などは、耳触りは良さそうだが、内面の自由を侵害する危惧が大いに懸念される。

その類例は、しばき隊が「敵勢人物」と烙印を押したら途端に「レイシスト」認定される現状がすでに示している。この判断を権力にゆだねたらどのようなことが起こるのか。権力にとって不都合な言論が狩られることは明らかだ。

4.いまだに「原子力非常事態宣言」下に暮らすわれわれは、福島第一原発事故とその被害者の方々を忘れることなく、明白すぎる選択として、脱・反原発の速やかな実現に全力を傾注する。

トルコと英国への原発売込みが、採算が合わないことにより断念された。日立や三菱だではなく、世界中で原発はコストに合わないことが証明され、認知が広まっている。それ以前に事故を起こさなくとも、周辺住民に重大な健康被害を与え、廃棄物を100万年も管理しなければならない、人工物など、自然の倫理の観点からも許されるのではないことは明らかである。世界で初の原発4機爆発という、大惨事を経験した国として、また第二次大戦では広島・長崎に原爆投下を受けた国として、脱・反原発を実行するのは義務ともいえよう。

5.国政が停滞している。正確には自公に維新が癒着した巨大な極右勢力が盤石な与党を形成している。その元凶は小選挙区制である。「政権交代可能な制度」・「中選挙区制は金がかかりすぎる」との掛け声で小選挙区制が導入されたが、この制度ではさして主張の異ならない2大政党の存在を前提としている。その前提がまず全く妥当性を欠くのだ。

求められるのは、現極右政権に、真正面から反対・対立する野党の存在である。残念ながらそのような野党は現国会の中には見当たらない。「野党共闘」をいくら進めても無駄である。そもそも民主党が崩壊して出来上がった立憲民主党ほかの、泡沫野党は、いずれも「保守」を自認しているではないか。保守政党は自民党で十分なのだ。「保守」を名乗るのであれば、自民党に入党せよ。

必要とされているのは「保守」に対する「革新」諸政策を明確に掲げる政党の誕生である。その政策は、(1)護憲、(2)消費税の廃止と所得税累進税率の上昇(金持ちから多く所得税をとる)、(3)小選挙区制の廃止、中選挙区制の復活、(4)原発の即時廃止、(5)日米安保の破棄、(6)東京五輪、大阪万博の返上、(7)リニアモーターカー建設の中止、(8)カジノ法廃案、(9)集団的自衛権を認める「安保法制」の廃止などが基本政策に掲げられるべきだ。

6.そして、われわれは上記のような野党の誕生があろうがなかろうが、上記(1)から(9)の主張を展開する。ことしはこの国だけで通用する時間軸(元号と呼ぶらしい)が変わるとしだが、どうしてその代替わり儀式がメーデーに行われるのか。現憲法はそのような矛盾を包含してはいるが、巨大与党が目論む改憲は、さらなる反動的内容に満ちているのであり、差し当り前向きではないが、現憲法の精華である前文と9条を死守するために、「護憲ファンダメンタリズム」を提唱する。

われわれは、あらためて今日的問題の原点に回帰し上記の原則を維持発展しながら、言論戦線の先頭に立ち闘うことを宣言する!

2019年1月2日  
デジタル鹿砦社通信編集部  

 
 

新年1月7日発売!月刊『紙の爆弾』2019年2月号 [特集]〈ポスト平成〉に何を変えるか
『NO NUKES voice』Vol.18 特集 2019年 日本〈脱原発〉の条件

対李信恵訴訟 裁判所が「別訴」の併合審理を却下! 李信恵側弁護団、訴訟進行に混乱と遅延をもたらし大失態!  鹿砦社代表・松岡利康

 
『真実と暴力の隠蔽』

「反差別」運動の旗手と持て囃される李信恵さんによる相次ぐ「鹿砦社はクソ」発言に対し名誉毀損等で訴えた民事訴訟(大阪地裁第13民事部)ついて進展がありましたのでご報告いたします。

すでにこの通信でもご報告していますように、3月16日李信恵被告側代理人・上瀧浩子弁護士による「反訴」の意志表明→4月18日「反訴」提起→5月23日「反訴」取下げ→同日「別訴」提起(本訴との併合審理希望)と、李信恵被告側の動きは目まぐるしく流転しました。

「反訴」は本来本訴の内容と関連がなければ認められません。「反訴」における李信恵被告側の主張は、さすがに本訴との関連性が薄く、取下げはむべなるかなですが、これが鹿砦社側からの指摘によるものなのか裁判所からの指示によるのかは不明です。

いずれにしろ李信恵被告側は「反訴」を取り下げて、あらたに「別訴」を提起し、これを本訴との併合審理を希望したわけです。

鹿砦社が原告になっている本訴との関連が認められれば、併合審理の可能性があったわけでしょうが、その是非が注目されたところ、却下され別の部(第24民事部)で独立した訴訟(李信恵原告、鹿砦社被告)として審理されることになりました。

結局、3月の期日で双方ほとんど主張し終え、早ければ(本人尋問がなければ)次回で結審もあるかも、と思っていたところでの「反訴」の意志表示でしたが、結果として訴訟をいたずらに混乱させ遅延させたばかりでした。李信恵側弁護団の大失態といえるでしょう。「策士、策に溺れる」といったところでしょうか(万が一、この裁判混乱策動が意図的なものであれば、極めて悪質です)。

鹿砦社側代理人も他の知り合いの弁護士も、「こんなことは経験したことがない」ということですが、それほど異例のケースです。

ということで、鹿砦社が李信恵さんを訴えた「本訴」は次回期日(7月18日午後1時15分から。1010法廷)に李信恵被告側最終準備書面提出となります。本人尋問は未定、おそらく事実関係がシンプルなので尋問なしもありえます。

そして、翌7月19日午後1時10分から1007法廷で「別訴」の第1回口頭弁論期日となります。

「別訴」の請求の趣旨は、「反訴」と同じで、
1 金550万円を支払え。
2 リンチ事件関連出版物4点を「頒布販売してはならない」。
3 「デジタル鹿砦社通信」の中の李信恵氏についての「各記述を削除せよ」。
4 訴訟費用は被告(鹿砦社)の負担。第1項(=賠償金)の仮執行宣言。
です。

最新刊の第5弾『真実と暴力の隠蔽』にも追加の請求をしてくることも予想されますが、仮にそうだとしても、私たちは堂々と立ち向かうだけです。

特に、安易に出版物を「頒布販売をしてはならない」という請求には、憲法21条の「表現の自由」「言論・出版の自由」の見地からも徹底抗戦しなくてはなりません。これぐらいのことで「頒布販売」の禁止=出版差止めされたら、戦後ずっと守られてきた自由な表現、自由な言論・出版が蹂躙されることになります。いやしくも出版人としては、このような言論封殺を求める請求は到底許すことはできません。

ところで鹿砦社はこれまで大きな裁判闘争の煉火をくぐり、1億円超の訴訟費用(賠償金含む)を費やしてきました。判例集にも載っているものもあります。

特に警察天下り企業パチスロ大手旧「アルゼ」(現ユニバーサルエンターテインメント)を告発した『アルゼ王国はスキャンダルの総合商社』に対しては、出版差止め仮処分、3億円の賠償請求の巨額民事訴訟(600万円で確定)、刑事告訴がなされました。これに比べれば今回の裁判は屁のようなものですが、全知全能、全身全霊、総力で立ち向かいたいと、肝を引き締めるものです。「裁判は水物」ともいわれ、油断したら負けますから。

ちなみに、「別訴」は李信恵さんが原告になります。対在特会等に対し原告として訴え、毎回の弁論ごとに記者会見をされましたが、この訴訟でも毎回記者会見をされるのでしょうか?

ともあれ、リンチ事件についてM君が李信恵さんら5人を訴えた訴訟の控訴審も一審判決を詳細に分析・批判し長文の控訴理由書を提出し始まります。これと固く連携し、鹿砦社は断固として闘います!

鹿砦社代表・松岡利康
『真実と暴力の隠蔽』 定価800円(税込)

我慢の限界だ! 鹿砦社は「世に倦む日日」主宰の田中宏和氏と絶縁し、彼の出版物を絶版とする! 鹿砦社編集部

 
『真実と暴力の隠蔽――カウンター大学院生リンチ事件の闇を解剖する!』定価800円(税込)

田中宏和氏と鹿砦社の出会いは、2016年『ヘイトと暴力の連鎖』の取材で、社長松岡以下編集部2名が東京で顔を合わせたのが、初めてだった。ブログ「世に倦む日日」は独自の視点から時事問題、国際情勢、そして「しばき隊」批判を積極的に展開していたので、私たちは彼の意見を聞きたい、と虚心坦懐に初対面に臨んだ。

田中氏は博学であり、読書量もかなりの人物であろうことは数時間のインタビューのなかで松岡以下編集部も感じた。さらに彼がブログで現した数々の論考には、光るものがあり(すべてが鹿砦社の見解と同じではないけれども)、貴重な視点の持ち主であると判断し、鹿砦社から『SEALDsの真実』『しばき隊の真実』、2冊の単行本を出版する運びとなった。

実はこの出版は、初対面の際に松岡ではない編集部の1人が「田中さん、ここまでまとまった論考をお持ちなのに、なぜ出版されないのですか? 社長、鹿砦社から出版したらどうですか?」と出しゃばって、勘違いした発言が「過ち」のもとになっていたことを正直に告白しよう。

田中氏は初対面の時から、やや神経質な人柄であることは、松岡以下編集スタッフも感じていたが、まさか、鹿砦社(鹿砦社の許容範囲は一般の出版社に比べ、かなり広いように思われる)をこき下ろし、ここまで我儘ばかリ主張する人間であるとは想像できなかった。田中氏の我儘は『SEALDsの真実』編集段階から露呈し始める。自分を大御所の「論客」とでも勘違いしたような上から目線で、連日松岡に命令口調、あるいは極めて的はずれな言いがかりを連発するようになった。

『SEALDsの真実』が広告に掲載され、アマゾンのあるカテゴリーで1位になったことがある。その後1位は他の書物に取って代わられるのであるが、1位からの転落を見た田中氏は「これはしばき隊の陰謀に違いない!即座にアマゾンに抗議するなり対策をとるべきだ」と松岡にねじ込んでいた。ちょっと待ってくれ。1位はめでたいが、永遠の1位(それがあれば出版社にこれほどありがたいことはない)などあるはずがない。松岡がメールでその旨を伝えると田中氏は、さぞご不満であったようである。

ついで出版された『しばき隊の真実』は、辛うじて世に出ることができた書物といえよう。

田中氏の尊大な態度はますます増長し『しばき隊の真実』の編集を請け負っていた、業界では「仏の○○」さんと呼ばれるほど、余程のことでも感情を露わにすることない編集者の逆鱗を買うほどまでに至っていた。松岡に対して「もう、あそこまで失礼なことをされたのだから、出版することはないでしょう」と関係を知る周囲の人間は、進言したが義に熱い松岡は「それでもインタビューに応じてくださっている人もいるからね」と連日の田中氏からの罵倒電話、メールにもかかわらず、なんとか『しばき隊の真実』出版に漕ぎつけた。

しかし、田中氏の狼藉はそれでは収まらなかった。ある日、特別取材班が「デジタル鹿砦社通信」に書いた記事が気に入らなかった田中氏は、そのライターに電話で「記事を取り消すように」と傲慢にも要求してきた。記事の内容は「言論の自由は誰にでも保障されなければならない」という趣旨のものであったが、田中氏にはその「誰にでも」に野間易通氏が含まれていたことが、不満だったらしい。あまりにも馬鹿げた言いがかりにライターは当然要求を拒否。するとブチ切れた田中氏は「みんなツイッターの中に居るんだよ!」と大声を上げたので「あなたはネットの中にしかいないから、実際の社会と接点を持てないし、我儘で人と軋轢を起こす。『ツイッターにみんなが居る』などというのはSNS中毒者の発言だ!」とたしなめられるとしばらく言葉がなかったという。

通常たいした出版実績もなく、たて続けに2冊もの単行本を出版してもらえば、過剰になる必要はないが、筆者は出版社に恩義を感じるものであるが、田中氏は逆であった。彼の我儘、偏見、はその後もエスカレートし、あろうことか「リンチ被害者M君」と面会した際に、M君を詰問し(セカンド、もしくはサードリンチと言っても過言ではないかもしれない)年下のM君に飲み代まで押し付けて、言いたい放題M君を罵倒して店を出る、という大人とは言い難い醜態まで及んだ(その店の支払いを負担したのはM君である)。

さらには、現在田中氏は天木直人氏と仲良く、ビデオで対談を始めている。これとて、本人の希望もあり当社がつなぎ、『紙の爆弾』で2回対談を掲載もしたが、「ありがとう」のひと言もない。

ここでは紹介できないが田中氏の常軌を逸した、発信や暴言に鹿砦社だけではなく、編集者も辟易してしまったので、彼については「当たらず触らず」をスタンスとしていた。

ところが6月1日、『真実と暴力の隠蔽』について田中氏は、

 
 

などと、思い上がりと言論弾圧も甚だしい書き込みを行った。まるで「しばき隊」と同じ主張でわが目を疑った。さらに言いたい放題ツイートしている。読者はぜひ「世に倦む日日」をご覧になっていただきたい。

ことここに至り、遅きに失した感があるかもしれないが、鹿砦社はこれ以上田中氏の度が過ぎる独善と、鹿砦社への悪意を放置することはできない。『SEALDsの真実』『しばき隊の真実』の在庫を断裁処分し絶版にすると共に、田中宏和氏との絶縁するほか選択肢はない。版権は放棄するので他社で再刊いただきたい。

丸山真男主義者で、基本的にはマルクス・レーニンも読んでいる田中氏の思想には、今だから指摘するが、明らかな矛盾が多数包含されている。それは皇室への過剰なまでの賛美と、テレビメディアに一喜一憂する軽薄さである。個人の趣味、嗜好と言えばそれまでであるが、あそこまでの皇室賛美と丸山真男の総体の主張を、どう接着するのか。SNSばかりやっているから「しばき隊」同様の心理的な偏りを発症せしめているのではないか。

ここには書けないが田中氏の常軌を逸する、メールや電話については多くの証拠があることを再度明言しておく。著作を出してくれた出版社に、「頭を下げろ」などというつもりは毛頭ない。だが、どうして2冊の著作を出版したら、出版社が著者に「奴隷」のような物言いをされなければならないのだ? 田中氏の常軌を逸する言動を「大人の対応」でこれまであしらってきたけれども、今回の鹿砦社への決定的な攻撃を、われわれは断じて許すことはできない。

鹿砦社は田中氏からの修正も訂正も一切受け入れない。彼も批判する「しばき隊」同様の暴虐を鹿砦社に向けた田中氏に対して、鹿砦社はここに「田中宏和氏との絶縁と『SEALDsの真実』、『しばき隊の真実』を絶版」を揺るぎなく宣言する!

追記:上記紹介した書き込みに止まらず、田中氏は思い上がりも甚だしい、勘違いの発信を続行している。さすがに温厚な「鹿砦社」も、破格に的外れの発信は容認できない。

 

田中氏は持論を正当化するために、M君が「逃走しなかった」ことを問題にしている。被害者虐めもたいがいにすべきだ。そこまで言うのであれば田中氏が同様の状況におかれ、暴力を経験すればよいのではないか。空論は意味がない。

 

これも田中氏の思い込みに過ぎない。M君は所属する大学に「身辺に迫る危機」を報告し、大学当局もしかるべき対応をとっている。実態を知りもしないことを偏見で解釈することは控えるべきだ。

 

当事者でもない、傍観者の田中氏が不遜にも口を挟む筋合いはない。田中氏の決めつけによる判断の危うさと、被害者に対する結果的な攻撃はここでも明確に示されている。

以上は6月4日田中氏がツイッターで発信したものであるが、そのいずれも大いに的外れであり、被害者M君を傷つける、思い込みと勘違いであることを指摘しておく。

鹿砦社編集部

 

 

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