奥本被告が拘禁されている宮崎刑務所

JR宮崎駅からタクシーで約30分、宮崎刑務所は山すそに広がる田園地帯にあった。広々とした敷地には県木のフェニックスなど南国の木があちらこちらに立っていて、のどかな雰囲気を醸し出していた。筆者が奥本章寛被告(26)と面会するため、この刑務所を訪ねたのは9月12日のことだ。

妻と生後5カ月の長男、養母(妻の母)の3人を殺害し、裁判員裁判で死刑判決を受けた奥本被告。あす16日、最高裁で上告審の判決公判が開かれるが、地元では減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族の1人(妻の弟。奥本被告にとっては義理の弟)が奥本被告と面会したうえで「第一審からのやり直し」を希望する上申書を最高裁に提出する異例の事態になっている。

そんな異例の事件の張本人、奥本被告はどんな人物なのか。その人となりに触れてみたく、筆者はこの日、宮崎まで面会に訪ねたのだった。4日前の9月8日、最高裁で開かれた公判で弁護側、検察側が弁論して上告審も結審しており、奥本被告にあとは判決を待つばかりとなった心境を訊いてみたいという思いもあった。

面会室に現れた奥本被告はタンクトップに短パンというラフな姿だった。第一印象を率直に記せば、朴訥な田舎の青年というイメージ。顔写真はマスコミ報道で目にしていたが、報道のイメージより色白であるように思った。小柄で細身だが、タンクトップから伸びた腕は筋肉質で、均整のとれた体つきをしている。それは小学校から高校まで続けた剣道、高校卒業後に入隊した自衛隊で鍛えられた賜物かもしれない。

「はじめまして、片岡です」というと、奥本被告も「はじめまして。奥本です」と挨拶してくれた。「健康そうですね」というと「そうですね」と笑顔で返してくれた。筆者はこれまでにマスコミで「凶悪犯」と騒がれた人物にはけっこう会ってきたが、そういう人物たちの大半が実際に会ってみると、「普通の人」だった。奥本被告もまたそうだった。

◆「みなさん、普通の人だと言ってくれます」

奥本被告とは事前に少し手紙のやりとりをし、8月末に中津市であった支援者たちの集会に行ってみたいという考えを伝えていた。そして実際にその集会に行ったことを伝えると、「中津に来られた話は聞いています。いっぱい写真を撮っていたとか」と言われ、少し恥ずかしかった。筆者は取材に行くと、たいてい普通の取材者より多く写真を撮ってしまう。元来心配性で、ちゃんと良い写真が撮れているか不安になり、ついシャッターを多く押してしまうのだ。

「集会には随分大勢来ていましたね」と言うと、奥本被告は「椅子が足りなかったと聞いています」とてらいなく言った。筆者は集会に来ていた人たちの雰囲気から、奥本被告が生まれ育った地域の人たちが多く集まっていたのかと思っていたのだが――。
「いえ、地域の方々はむしろ少なくて、知らない方々のほうが多いと思います」と奥本被告は言う。

── そうなんですか?
「控訴審が終わってから支える会ができて、知らない人から手紙をもらったり、面会に来てくれたりして、人数も増えて行ったんです。中心でやってくれている人達も元々面識がなかった方々ばかりなんですよ」

── 荒牧さん(※中津市の集会で司会役を務めた人)とかもそうなんですか?
「そうですね」

── そうだったんですね。知らない人から手紙がきたりするのはどういう思いですか?
「とてもありがたいことだと思い、嬉しいですね。応援してくれるようなことを書いてくれていますし」

奥本被告は何を聞いても、率直に答えを返してくる青年だった。遠方からふらりとやってきた見ず知らずの取材者に対し、わりと最初から心を開いて話してくれているような印象を受けた。以下、取材メモに基づき、この日の筆者と奥本被告のやりとりを紹介しよう。

── 面会にきた人たちの反応はどうですか?
「みなさん、(自分のことを)会ってみたら普通の人だと言ってくれますね」

── やっぱりみんな怖い人だというイメージを抱くんですかね?
「そうですね。やはり(自分は)犯罪者ですから。ぼくの場合、大きなことをやっていますし。ぼくだって自分が犯罪者になる前は、犯罪者は怖い人なんだろうと思っていました。この事件で警察の留置場に入り、初めて犯罪者も普通の人だとわかったんですよ」

── 最高裁の弁論が終わりましたが、どういう思いですか?
「……(考えて)判決の日が決まってないんで(※面会時点の話)、早く判決の日が決まって欲しいというのはありますね」

── 死刑が怖いとか、そういう思いはないですか?
「正直、死刑が怖いという思いは今のところ、あまりないんですよ。まったく怖くないわけではないですが、今は支える会の人のこととか、遺族の方へ生活再建援助金を払うために絵(※連載3回目に出てきたポストカードにするための絵のこと)を描いたりとか、そういうことのほうばかりに気持ちが向いているんです」

── 遺族というのは(最高裁に上申書を提出した)義理の弟さん?
「……法律的にいうと、そうですね」

── 向こうのほうが年上なんですか?
「そうですね。学年は一緒なんですが、ぼくは早生まれなんで。ぼくが昭和63年2月生まれで、向こうは62年の4月なんで、10カ月早いです」

── 面会に来てくれたんですよね。
「そうですね。ありがたかったです」

支援者が製作した小冊子『青空―奥本章寛君と「支える会」の記録―』

── 奥本さんのことはみなさん、いい人だと言われますが、やはり会ってみると、そういう評判なのがわかります。
「『青空』とかですね。黒原弁護士はぼくのことをよく書いてくれるんで、よく書きすぎじゃないですか、と伝えました。黒原弁護士もいい人ですよね。七福神でしたっけ? ぼくは、黒原弁護士は仏様・神様の化身だと思っていますので、黒原弁護士が七福神の中にいてもまったく違和感がありません」

『青空』とは、『奥本章寛君を支える会』が事件の実相、奥本被告と会の歩みなどをまとめた小冊子。弁護人の黒原智宏弁護士が奥本被告の人柄、出会いから現在までを綴った文章も掲載されている。この黒原弁護士とは中津市の集会で会ったが、たしかに根っからの善人という印象を受ける人物だった。

◆「すべての原因は自分」

すでにお伝えした通り、家族3人を殺害する事件を起こすまでには、同情すべき事情があった奥本被告。そのあたりのことも少々踏み込んで、訊いてみた。

── やはり事件を起こした時は、わけのわからない感じになってしまったんでしょうか。
「……う~ん、わけのわからない感じではなかったと思います。事件当日、仕事にはちゃんと行っていましたから」

── 心理鑑定をして、その時に視野狭窄みたいになっていたと聞いています。
「そうですね。心理鑑定の鑑定書は読みましたが、鑑定書通りだと思いました。視野狭窄というのは、自分は元々視野などが狭かったと思いますが、その時はいつも以上に視野狭窄になっていたと思います。すべての原因は自分にありました」

── あの時に時間を戻したという思いはありますか?
「ありますね。それはいつも思っています。ドラえもんが現実にいて、時間を戻してくれたらいいのに、と。映画やドラマでもよくそういう話がありますよね。ただ、あの時に戻れるとしても、今の自分で戻りたいですね。あの時に戻れても、自分まで当時の自分に戻ってしまったら、また同じことをやってしまいそうなんで」

── 義理のお母さんから叱責されていたのは、航空自衛隊を辞めたのが原因なんですか?
「いえ、今思うと、それ以上に結納と結婚式をしなかったのが理由だと思っています。それから義母との関係が悪くなりました。義母は『結納もしてくれなかった』とずっと言ってましたから。ぼくは、事前の話し合いで、『結納・結婚式は行わない』と決まりましたので、結納をしなくてもいいものだと思っていたんですが」

── ぼくも結納はしませんでしたね。
「そうなんですか。しない人が多いみたいですね。20代前半で結婚したら、貯金がそれ程できていないはずなので、できないほうが普通なのではないかと思います。ぼくの周りもみんな、今のところ、できちゃった結婚が多く、結納・結婚式はしていないほうが多いです」

── 結婚直前に航空自衛隊を辞めたのはなぜだったんでしょうか?
「それまで自衛隊は『一生は続けたくない仕事だな』と思いながら、中途半端な気持ちで続けていたんです。自衛隊にいた3年間、パチンコばかりしていましたからね。自衛隊では、いつまでも組織に残るためには昇級試験に受かっていかないといけないんです。法律的にそうなっているわけではないのですが、慣例として、ここまでの階級に昇級しておかないと自衛隊に残れない、というのがあるんですね。で、自分はそこまで昇級できないと思ったんで。一生できる仕事を自衛隊の外に探そうと思ったんです。今考えると、考えが甘かったですね」

── そんなことはないと思います。パチンコはクセになっていたんですか? 事件の日も事件のあとでやっていますね。
「クセというか、当時は、自衛隊を辞めてからは生活費を稼ぐためにやっていましたね。給料が少なかったんで、前借りや借金をして、そのお金をパチンコで増やしてから、もとのお金を(妻の)くみ子に渡していたんです。もとのお金より増えたぶんを自分の小遣いにしていました。それで幸いにもなんとかうまくいくことが多かったです」

── そんなにパチンコで勝てていたんですか?
「トータルでは大きく負けています。それに、友人に借金をしていたんで、その時点で負けていたと考えられるかもしれませんが」

妻子ある男がパチンコのために借金をするというのは決して良い印象の話ではないだろう。しかしこの頃、奥本被告はまだ21~22歳である。筆者は同じ年齢の頃、親から仕送りをもらって大学に通いながら麻雀屋に入り浸っていた自分の学生時代を思わずにはいられなかった。事件の伏線になった「自衛隊の退職」が奥本被告にとって、結婚するのを機に一生できる仕事を探そうと考えた結果としての選択だったという話も身につまされた。

◆「出会い系サイト」利用問題の実相

── 裁判員裁判については、どう感じましたか?
「短い印象を受けましたね。自分としては短い審理で死刑と言われてしまったなと思いました。判決文の内容が不満で、控訴したんです。ただ、今思うと、制度なんで仕方ないようにも思いますね。それに裁判員裁判じゃない裁判を受けていないので、裁判員裁判がそうじゃない裁判と比べてどう違うのか、わからないんですよ」

── 奥本さんは人の悪口を言わなそうですね。
「今は言わなくなりましたね。以前はよく言っていましたが」

── どういう悪口ですか?
「自衛隊の時、同期の悪口ですね。その同期は悪口・陰口を誰からも言われていた人でしたが、ぼくもついそれに悪乗りしてしまっていました。今、(人の悪口を)言わなくなったのは仏教を勉強するようになったからです。今、主に勉強しているのは、浄土真宗の親鸞聖人の教えです。心の中で人のことを悪く思うことは制御できません。しかし、口で人のことを悪く言うのは制御できますから」

宮崎刑務所の面会時間は他の刑務所・拘置所に比べて長いほうで、30分くらいあったが、このあたりで立会の刑務官が時計を気にする素振りを見せ始めた。そこで最後にもう1つ、気になっていたことを訊いてみた。それは、奥本被告が事件前から「出会い系サイト」の利用を繰り返し、犯行後も「出会い系サイト」で知り合った女性と会うなどしていたかのような話が裁判員裁判の公判中に地元紙で何度も報じられていたことに関してだ。

── 出会い系サイトみたいことをされていたというのも訊いていいですか?
「出会い系サイトについては、あれが出会い系サイトというのかなあ、と思っているんですよ。SNSじゃないかと」

── あ、それはぼくも思ったんですよ。実はSNSみたいなもんではないかと。
「ぼくが利用していたサイトは、肉体関係を目的にしたやつじゃないですからね。くみ子とは、スタービーチで知り合ったんです。メル友募集の掲示板でした。スタービーチは出会い系サイトとは違いますよね。スタービーチを利用しなくなってから利用していたのはグリーやモバゲーです。メールしたり、ゲームをしたり、色々できるサイトですね。それを検察官は出会い系サイトだと言って、そういうふうになっていますが」

── 事件の日もされていたとか?
「メールですね。事件当日もぼくはグリーを暇つぶしで見ていました。その時、グリーで知り合った女性と時間つぶしで会って、少しの時間、会話をしました。この女性が、実際に会った2人目の女性です」
「会ったことがある人は2人だけです。1人目の人はパチンコ店に連れて行くために誘ったんですよ。でも、その人は彼氏を見つけるため、デートのつもりだったみたいで、おめかしをしていました。ぼくはパチンコ店に一緒に行くことが目的だったので、仕事着のままでした。仕事終わりでしたので、汗や油などの匂いがしていたはずです。パチンコ店に連れて行ったら、煙草を吸わない人だったんで、煙の匂いなどに耐え切れなくて、パチンコ店から出ることになりました」

── (その女性とは)もう会わなかったんですか?
「翌日、また一緒にパチンコに行こうと思ってメールしたら、彼氏を見つけたいとかどうのこうのと言われて断れました」

裁判員裁判の判決文を見ると、奥本被告が「出会い系サイト」を利用していたという話は裁判員たちの心証を悪くした可能性が読み取れる。また、裁判員裁判の公判中、奥本被告が事件前のみならず、犯行後も「出会い系サイト」を利用していたような話が地元紙で何度も報道されたことは奥本被告の悪いイメージを世間に喧伝する効果が間違いなくあったろう。だが、その「出会い系サイト」とは、実際にはグリーやモバゲーなど、世間一般ではSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)と呼ばれることが多いサービスだった。それを「出会い系サイト」と呼んだ検察官の印象操作がまかり通ってしまったということのようだ。

◆被害者の供養のため、毎日続ける勤行

面会では時間の都合上、聞きそびれたこともあったので、筆者は後日、奥本被告に手紙を送り、追加で質問をさせてもらった。それは奥本被告が仏教の勉強を始めた経緯は何だったのか、誰か勧めてくれたか人がいるのかということだ。届いた返事で、次のように説明されていた。

《仏教の勉強を始めたのは、被害者3名の供養をしたいとある日突然思い立ち、写経を始め、同時に仏教(主に浄土真宗)の勉強を始めました。写経・書写、朝と夕方の勤行を毎日行っています。命があるかぎり、続けます。私の反省のためにも、です。誰かに勧められたとかはなかったと思います。》

奥本被告とはまだ一度会っただけなので、軽々しくは言えないが、この青年はこの凄惨きわまりない事件を不器用なほどに誠実な性格ゆえに引き起こしてしまったのではないか。筆者は今、そう感じている。この青年なら本当に命あるかぎり、被害者供養のための写経・書写、勤行を毎日続けるのだろうとも思った。あす16日、最高裁がどんな判決を出そうとも何らかの形で続報をお伝えしたい。

【宮崎家族3人殺害事件】
宮崎市花ケ島町の会社員・奥本章寛被告(当時22)が2010年3月1日、自宅で妻(当時24)と長男(同生後5カ月)、妻の母(同50)を殺害した事件。奥本被告は同年11月17日、宮崎地裁の裁判員裁判で死刑判決を受け、さらに2012年3月22日、福岡高裁宮崎支部で控訴を棄却され、死刑判決を追認される。現在は最高裁に上告中だが、あす16日、判決公判が開かれる。地元では減刑を求める支援活動が盛り上がり、被害者遺族も最高裁に「第一審からのやり直し」を求める上申書を提出する異例の事態になっている。

▼片岡健(かたおか けん)
1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

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