終わりだ。2015年が暮れてゆく。読者諸氏と何かを共有できるとすれば、「お互い生きて年を越せそうだ」ということくらいだろうか。毎度毎度独りよがりで、偏屈な語りばかりの私だから大晦日ぐらい頬が緩むような明るい話題をお伝えしたい、何かあるはずだろう。「安寧」か「労い」か「希望」の欠片でもいい。大晦日なのだから「前向きさ」、あるいは誰にも口を割りはしなかった秘そやかな「喜び」のようなものはないのか。さらに言いつのれば「軽い嘘」でもいい。年の終わりなのだから腹を捩じらせないまでも、微笑ましい何かを献上できないものか。

田所敏夫「8.27反安倍ハンストの大きな意味」(2015年8月28日)より

結局ダメだ。書けない。やはり軽くても嘘はどうあがいても書けない。「2015年」の結びだからだろうか。

◆2015年の絶望は、他者を当然のように排除する「普通の人」たちの台頭だった

「2015年」私にとっては絶望を徹底化された年だった。キーワードは「普通」または「普通の人」である。

幼少時より自分が「普通」ではないとさんざん思い知らされてた私(個人)にとっては、「普通」または「普通の人」が持つ概念と語感の強制には慣れ過ぎていて、全く痛痒はない。けれども、ついに「普通」または「普通の人」という概念は私だけをターゲットにする域を大いに超えた。多数派が誰彼構わず意見や行動様式が異なる人びとを揶揄する際、実に無垢に聞こえながら底抜けに恐ろしい恫喝の用語として、こともあろうに「政府が行おうとしている暴挙に反対する場所」でさえまき散らされたのだ。「排除」の道具としてである。

田所敏夫「安保法採決直後に若者弾圧!ハンスト学生への『不当ガサ入れ』現場報告」(2015年9月25日)より

「警察」や「権力」、「国家」などという概念とその実態に少しでも思索を巡らせた経験があれば、語るのが恥ずかしいほど最低限の自明性すら死滅しているのだ(それは「戦後民主主義」と呼ばれたものと重複する)。実に基礎的な、幼稚園児程度の経験則も論理も社会構造への理解も知識もない自称主催者たち(誰も彼らを『主催者』と認めたことはないのだが)。彼らが振りまく「普通」あるいは「普通の人」を少し解読すれば、その意味するところ「彼らの行動方針に従う人か、従わない人か」のみを尺度とした分類であることに慄然とする。

彼らは「普通」または「普通の人」でなければその場所に留まらせることすら許さない。罵倒を浴びせて追い出そうとする。攻撃される人が持っているモノをぶっ壊す。暴挙に及ぶ「普通の人」たちを年格好から想像すれば、一応の経験もして来ただろうと思しき年齢の人たちが遠巻きに見ている。同罪だ。

田所敏夫「見せしめ逮捕のハンスト学生勾留理由開示公判」(2015年9月26日)より

◆2015年の病理は安倍でも自公でも警察でもなかった

「何をやってるんだ!やめろ!」と液晶の画面越しに私は怒鳴った。「普通」もしくは「普通の人」ではないから揉みくちゃにされ、あげくの果てに警察(!)に向かい「こいつら○○だから帰らせた方がいいですよ。逮捕してくださいよ」と口走った男とその仲間たち。この連中の妄動は「2015年」私にとって最も印象深い可視的な「罪」として記憶されている。「戦争推進法案」成立と同等もしくはそれ以上に深刻である壮大な病理だ。

安倍でもなく、自民党、公明党でもない。公安警察でも機動隊でもない。今年いよいよもってその本性を露わにしたのは権力者に命令されてもいないのに、権力者が内心期待する以上の自主的規制から、さらに踏み込み結果、公安警察並みの役割を果たした「普通の人」たちだ。

スマートフォンや各種の伝達媒体の普及で映像の伝達、風景を記録する機器が市民の手に備わった唯一のメリットは、権力があからさまな暴力を振るいにくくなったことだ。だから大集会や大勢のデモにおける機動隊の既得権であった暴力は圧倒的に抑えられている。だが、その逆の側では権力でさえ躊躇する思想弾圧や暴力を「普通の人」たちが代行する。もう機動隊など不要なのだ。

◆2015年の不快は、言葉と意味の不調和、背理の極まりだった

「民主主義ってなんだ」と壊れたレコードのように繰り返す大学生たち。「本気で止める」気など皆無のくせにデザインにだけは広告代理店並みの注意を払い、絶対に本質的な抗議を忌避する不気味な集団。その背後であれこれ采配を振るい、世間受けする配役や、あろうことか「金儲けに」にまでも抜け目のない腹黒い輩たち。それをあたかも何か新しい思想胎動の発芽のように繰り返し報じ、恥を知らない「東京新聞」や「週刊金曜日」を始めとする「良心的」メディア。そう「赤旗」も忘れてはいけない。

これらの塊が私には猛烈に不快でたまらない。悪意なさそうで計算高く、本当は欺瞞だと気づいていながらも付和雷同が処世訓として身に着いた「普通の人」たち。彼らをひとからげに「ファシズム・ファシスト」と呼びつける訳にはゆかない。彼等は冗談でなく「アンチファシズム」(!)を標榜しているのだ。こんなにも激しい言葉と意味の不調和、背理の極まりがあろうか。

計算高いことにかけては人後に落ちない「日本共産党」はついに来年の通常国会の開会式に参加することを表明した。「憲法の規定による国事行為の範囲を超える問題がある」を理由に天皇が主席する国会の開会式への出席を1947年から控えてきた「日本共産党」。12月24日わざわざ大島理森=衆議院議長を訪ねて、この意向を明らかにした。


◎[参考動画]共産党、国会開会式出席へ 約40年ぶり方針転換(共同通信社2015年12月23日に公開)

何故に「この時期」に、独自に発表するのではなく「わざわざ大島理森衆議院議長を訪ねて」表明しなければならなかったのか。そうしたのか。

「日本共産党」は自公政権に対抗するために「国民連合政府」を提唱し、野党に選挙協力を働きかけている。候補者擁立が決定していた熊本で既に公認候補の取り下げを決定し、今後さらに「野党共闘の柱」として存在感を誇示してゆきたいようだ。

田所敏夫「戦争法案『断固阻止!』──沖縄『祖国復帰斗争碑』に学ぶ反戦の哲学」(2015年9月15日)より

そのためには「現実路線」と冠される「日米安保反対の一時凍結」まで差し出している。

前述の「普通」または「普通の人」を名乗り全国の市民運動の背後でいそいそと糸を手繰っている人たちの中に「日本共産党」党員が少なからず入り込んでいることは偶然だろうか。

で、一体何がしたいのだ?「日本共産党」の諸君、ではない「普通の人」たち。
私は確信する。「普通の人」たちは来年、私や「普通ではない」人たち「まつろわぬもの」を血眼になって探し出し、排除にかかるだろう。

「2015年」を総括する。私(たち)は「普通の人」たちの成す勢いに敗北した。
「15年安保」などという成立しえない虚語が許されている。
「60年安保」、「70年安保」と並列で「15年安保」を語る心象は「普通の人」にしか能わぬ技だ。
「2015年」私(たち)は徹底的に敗北した。敗北し続けた。
負け続けた2015年が暮れてゆく。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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