「早くからキック中心に修行していれば名チャンピオンになれた」と言われるほど惜しい存在だった昭和のキックボクサー、弾正勝(だんじょう・まさる)──。立嶋篤史選手が兄貴と慕うジムの先輩で、幼い頃から選手になっても続いた苦労と天性の才能には「弾正さんの人生を本にしてくださいよ」と言われたこともありました。

この弾正勝氏を記事として取り上げることにしたのは、先日、電話が掛かってきて、「今度、東京方面に行く用があるので、久々に逢いましょう」と誘われてのことでした。以前、ある出版物でのコラムで紹介した内容の再録の部分もありますが、更に細かく紹介したいと思います。

島津昇吾戦のリング上へ 1986.9.20

◆本業は左官工、実戦で力を培う一流選手

元・日本ウェルター級1位選手、弾正勝の生い立ちは、幼いまだ記憶にも残らぬ頃、両親が離婚。そして5歳の時、母親を交通事故で亡くし、母方の親戚に預けられて育った弾正勝は、貧乏な生活環境から中学卒業の翌日には左官工見習いとして働き出しました。

1973年に20歳でデビューしたのも、大金を稼ぐためでした。しかし次第に業界の在り方を知り、キックボクシングではチャンピオンになっても思うような大金は稼げないことを知ってからは、キックに集中することは無くなりました。生活を支える左官業に重点を置いて地道に稼ぎ、キックは副業と位置付けつつも、一旦キックに魅せらたら辞めることはできませんでした。

ロッキー武蔵戦での勝利のファイティングポーズ 1985.3.16

日々、左官の仕事がある中、試合日以外は休みなく毎日働き、試合中ダウンした時でさえ「明日の仕事に響く」という思いが頭を過ると、そのままテンカウントを聞いてしまうこともあったといいます。

弾正勝のデビュー戦は1973年(昭和48年)、ベンケイ藤倉ジムに所属し、後の全日本ライト級チャンピオンの大貫忍(相武)戦で判定負け。その当日は育ての親だった親戚の叔母さんが病気で亡くなり、告別式を終えての試合でした。

1977年には挙式と転居と共に高葉ジムに移籍。更に1981年には習志野ジムに移籍しました。本業と家庭の事情で通算5年のブランクを作りつつ、5回戦キックボクサーとしての実力は実戦で培っていく勝負勘を持つ一流選手でした。

◆30歳過ぎて強くなる異色の存在

転機となったのは1982年に葛城昇(後の日本フェザー級チャンピオン/MA日本キック連盟認定)が西川ジムから習志野ジムに移籍して来た時でした。それまでは他に練習生もいないキック低迷期で練習はいつもひとり。ほどほどにサンドバッグを蹴って帰ることが多かったところ、元々“鬼の黒崎道場”で鍛えられた葛城が来てそうはいかなくなりました。試合が近いにもかかわらず、仕事を終え自宅でビールを飲んでくつろいでいると、葛城がやって来て「試合近いのに何やってんですか!」と怒鳴られジムに引っ張り出されました。

千葉昌要戦でセコンドを務める鬼の継承者・葛城昇と

葛城がロードワークを兼ねて弾正宅に乗り込むのは、試合が決まってる時期はほぼ毎日。年齢もデビューも5年以上も後輩の葛城に引っ叩かれることもありました。酒の臭いをさせながらも「弾正さんにミット蹴らせると重い蹴り出すんだよ~!」とは葛城の弁。後々の試合で勝利を重ね、30歳過ぎて強くなる異色の存在の裏には葛城選手の存在があったことは運命の導きだったかもしれません。

◆極真出身の竹山晴友に立ちはだかる弾正勝

1986年4月に竹山晴友(大沢)が極真空手の実績を引提げキックデビューし、9戦9勝(9KO)の連勝を続ける中、1987年4月、弾正勝は竹山に立ちはだかる存在としての対戦。一部には竹山を “潰してやろう”精神が密かに浸透していたのも事実。

千葉昌要(目黒)戦

黙々と前に出て来る竹山から左ストレートで初のダウンを奪ったのは弾正勝でした。竹山は立ち上がろうとするも足にきていて、すぐには立ち上がれず、完全に効いた印象の悪いダウン。しかし竹山は立ち上がり、また黙々と前に出る。弾正勝の欠点は練習不足からくるスタミナ不足。竹山は毎月試合が組まれる看板選手で、黙々と練習をこなすスタミナ抜群の選手。次第に形勢逆転し、ボディブローに倒されたのは弾正勝でした。

同年6月、更に日本ウェルター級王座決定戦に起用された弾正勝は、こちらも竹山に対抗する看板選手だった鈴木秀男(花澤)と対戦。ムエタイスタイルが浸透し始めたこの時代、タイボクサーのようなしなる蹴りを持ち、パンチもあった鈴木秀男に倒され王座奪取は成らず。

ロッキー武蔵(千葉八戸)戦 1985.3.16

後に全日本系に移った弾正勝の所属する習志野ジムは、1989年1月、全日本ウェルター級チャンピオン.船木鷹虎(仙台青葉)に挑戦。しかしここでも肋骨を折られるKO負け。これがラストファイトとなりました。

ここに至る以前のトップクラスと当たった試合では1983年に1000万円オープントーナメント62kg級準々決勝で元・ラジャダムナン系ライト級チャンピオン.藤原敏男(黒崎)と対戦した試合がありました。デビュー以来、試合が“怖い”と思ったことは無かったという弾正勝が、唯一怖いと思った試合がこの藤原戦だったと言います。キックに対する向き合い方の違いに委縮したか、蹴り足を掴まれ、押し倒されること十数回。4R・TKO負けとなりながらも精一杯蹴り合った試合でした。

藤原敏男(黒崎)戦 1983.1.7

◆アルンサックにKO勝ちした唯一の日本人選手

弾正勝はチャンピオンには縁がなかったですが、ひとつだけ知られていないエピソードがありました。“日本”では 8戦負け知らずで、日本ミドル級チャンピオンの竹山晴友を子供扱いした、アルンサック・チャイバダン(タイ)にKO勝ちしている“日本人”は弾正勝氏だけでした。

アルンサックがまだ来日前の1982年に香港で対戦。技術的には優ったアルンサックが、ナメてかかってきたところを接近戦で弾正勝が蹴りとパンチの連打でKO勝利してしまいました。

1977年に子連れ結婚という形で所帯を持ち、その子供が1985年に結婚し、孫が生まれたことにより、おじいちゃんキックボクサーとしても話題になっていました。活力はそこにあり、当時「まだ辞めないよ」と控室で笑いながらグローブをはめる弾正勝の表情は生き生きしていました。その結婚式には、幼い頃に別れた父親とも再会していました。不憫な思いをさせたことを父親は謝りましたが、弾正は親を恨んではおらず、育ての親だった叔母さんに躾けられたのは、親が居たから自分が存在するという命を与えてくれたことへの感謝の気持ちを持つことと“明るか貧乏”で、その人格は弾正を立派に育てられていました。しかしそのお父さんまでもその2ヶ月後に病気で亡くなられる運命を辿ってしまいました。

現在の弾正勝氏 本名・内田康夫

現役選手を続けつつ、本業は社長として内田工業(株)を経営し、引退後は現在も左官業を経営。現役時代は当時あまりいない刺青を腕にしていて強面で、一見近付き難い存在でしたが、後輩に引っ叩かれても穏やかにこなしたジムワーク。最近も逢って話せば穏やかな口調は現役時代と変わらず、歳も取ってより優しくなった印象があります。

そして出てくる話は昔のキック。「日本系・全日本系の2団体時代は交流戦があって盛り上がったね。今もそうなればいいのに」とは昔の選手共通の願い。

後輩の立嶋篤史に「タイには若いうちに行った方がいい」と助言したのも弾正勝氏でした。キックにあまり力を注がず、タイにも修行に行けなかった後悔を立嶋篤史にはさせたくなかった想いがありました。懐かしい昔話はそれだけで楽しい時間が経ってしまいます。

昔懐かしい選手との再会をまた話題を変えつつ触れて行こうと思います。昭和のキックボクサーと年齢的に、お互いがそう長くない人生となっていくことを考えると、後悔しないようまた記事にすること目標にしていきたいものです。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」