保守系の論者や天皇主義者のみなさんは「ひとつの民族、ひとつの王朝」と、ことさらに日本史を「美化」するのが好きだ。なんと狭い島国根性であろうか。日本の歴史はもっと汎アジア的であり、心を躍らせるほどダイナミックなのである。今回は万世一系とされる天皇家に断絶(王朝交代)があり、しかもその断絶が朝鮮半島からの「血」によって行なわれた史実を明らかにしよう。

あまりにも高齢であるがゆえに、神代の天皇たちは神話のフィクションであろうと考えられている。しかし中国の史書や日本の「記」「紀」に事蹟が明確に残されている天皇たちを、居なかったことにするわけにもいかない。そこには天皇家のルーツが秘められているに違いないのだから。

実在したとされる十代崇神天皇をはじめ、応神天皇ら事蹟の明白な天皇たちにおいてもしかし、困ったことに干支と年号(大化以前は、天皇の名前が元号)でしか、編年がたどれないのである。

第十四代仲哀天皇は「古事記」では、52歳で亡くなったとされる。在位は9年間であり、その末年に息子の応神帝が生まれたとされる。ところが、没年の干支(壬戌の年)を西暦に換算してみると、おかしなことになってしまうのだ。仲哀の崩御年を302年とし場合、応神の生誕年は330年ということになる。元号と干支の不便きわまりない点である。そこで、神話物語の脈絡から、ナゾを解いて行こう。

三韓征伐の神話では、西(朝鮮半島)に行けば「金銀をはじめとして、目燃えかがやく珍宝の国あり」という神託があったとされる。神功皇后はそれを信じたが、仲哀帝は「熊襲を討つべし」と主張した。仲哀は神の祟りに遭い、熊襲に討ち取られてしまう。神功皇后は熊襲を討ったのちに、朝鮮半島に三韓征伐をおこなう。半島の陣中で臨月を迎えるものの、そこはグッと我慢して(石を腰に巻いて)九州に帰還してから応神を産んだ。半島で2年ほど過ごしたとすると、神功皇后は半島で身ごもったことになる。そこで「応神の父親は誰だ?」ということになるのだ。

応神が九州で生まれたことから、応神王朝は九州の勢力だとする説が有力である。なぜならば、神功皇后は故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺しているのだ。これは王朝交代劇である。九州の勢力が大和にのぼり、旧王朝を打ち倒す。三韓征伐の神話は、半島出兵と畿内への帰還という二つの物語で構成されているのだ。ここから明らかになるのは、神功皇后が朝鮮半島で妊娠したこと、九州の勢力が「東征」したという暗喩だ。神武東征の再版であろうか?

この神話を、現実の史実(ナゾの四世紀)と照らし合わせてみよう。三世紀の卑弥呼が死んだのは248年とされている(倭人伝)。そして男性王のもとで乱があり、台与が女王として邪馬台国を統(す)べた。ここで倭人伝は「倭国」の様子を伝えるのをやめる。中国も大乱の時代となったからだ。

四世紀の記録としては、366年に倭国が百済に使者をおくり、369年ごろに任那(日本府)が成立したことが明らかになっている。そして381年と404年に倭国が百済と新羅を攻めているのだ(広開土王碑)。これが神功皇后の三韓征伐であろう。そしてこの時期から巨大な前方後円墳が造られ、馬の埴輪が出現する。卑弥呼の時代には「倭には馬がいない」(魏志倭人伝)とされていたのに、日本に馬があらわれたのだ。どこからか? 

大陸もしくは半島からであろう。銅鐸が作られなくなり、鉄器が盛んに造られる。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった勢力で、大和に攻め上ったのであろう。江上波夫氏の「騎馬民族説」である。おそらく百済および任那にいた、馬と鉄器をあつかう人びとが日本にやって来て、大和王朝を創ったのであろう。応神天皇は朝鮮半島系である、ということになるのだ。天皇家のルーツの少なくとも半分は、朝鮮半島だったことになる。

◆天皇家が認めた朝鮮半島の血

もうひとつは、平安遷都で知られる桓武天皇の母親が、百済人の末裔だった史実である。その史実は、平成上皇の天皇時代に日韓ワールドカップのときの所見(お言葉)としてマスコミに報じられ、保守派のとりわけ嫌韓派に衝撃をあたえたものだ。引用しておこう。

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。(平成天皇談)

桓武天皇の母親は、高野新笠(たかののにいがさ)という女性である。光仁天皇の側室となり、山部王(のちの桓武帝)と早良王(のちに藤原種継事件に巻きこまれ自殺する)を生んでいる。父親は和乙継で、百済系の渡来人である。平成上皇が言うとおり、武寧王の子孫とされる。百済人がふつうに貴族の高官だった時代から、200年ほどを経た時代のことだ。日本の皇室が中国王朝と朝鮮王朝とふたたび交差するのは、清朝および李朝の時代である。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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