高笑いする会話が多くの支援者を引き寄せた「オモロイ坊主」藤川さん

◆仏門に関わった仲

これまでに仏門に関わった人や藤川さんと関わった人とどれだけ出会っただろうか。どこかで何らかの原因があり結果がある。人生は因果応報である。

2007年夏頃、加山至という人から突然メールが届いた。誰かはすぐに分かった。加山氏が御自身の名前の検索から藤川さんのオモロイ坊主を囲む会ホームページの、私の仏門日記に辿り着いたようだった。

加山至さんは由井太氏と1989年4月にTBSの新世界紀行「アジア秘奥三国探検」で、バンコクのワット・パクナムで渋井修氏の指導を受けて出家し旅に出た人である。

私が出家に興味を深めた番組で、当時の旅の様子を聞きたかった私はお会いさせて頂きたいと申し出て対面に至った。そして当時の番組の進行、旅の様子の大変貴重なお話を伺うことが出来た上、テレビの中のスターに出会った嬉しい想い。加山至(芸名=加山到)氏は役者が本業で、度々ドラマにも登場し、舞台演劇出演とその稽古を続ける日々が多い人であった。

そしてお二人の師匠となる渋井修さんは藤川さんの師匠でもある。1990年頃より、タイからカンボジアに渡った渋井修さんは比丘として、ポルポト派に虐殺された人々の霊を慰めながら、在籍する寺で現地の子供達に日本語を教えて居られる様子だったが、後々には還俗されたという藤川さんの話だった。

各々が進む道もそれぞれだが、我々もそんな遠くて近い縁がある仲であった。

歩け歩け、疲れを引きずる巡礼の途中、左が加山至氏、右が由井太氏

◆サネガン・ソー・パッシンは可哀想な死に方やった

サネガン氏との出会いは立嶋篤史選手と一緒に

藤川さんの支援者は出家後、タイに於いても日本人会をはじめ、年を追うごとに多くの人脈が広がっていた。キックボクシングとは立嶋篤史くんと出会うまで何の縁も無い藤川さんだが、支援者に導かれて訪れた、バンコク・スクンビット通りで“居酒屋まり子”を経営するオーナーさんとの出会いがあった。このまり子さんは日本でヌードダンサーとして生計を立て、ベトナムの戦争時代に米軍キャンプで踊ってからアジア各地を回ってタイへ渡り、ムエタイボクサー、サネガン・ソー・パッシン氏と知り合い、互いが再婚に至った人だった。

サネガン氏は日本系(TBS系)キックボクシングで、沢村忠や富山勝治と荒っぽいファイトを全国ネットで盛り上げた知る人ぞ知るチンピラボクサー。日本でも目黒界隈で事件を起こしたエピソードも多い。その風貌と日本で稼げた恩があるせいか、水商売に苦戦する日本人のまり子さんを支える用心棒にもなり、持ちつ持たれつ助け合う仲となっていた。大酒飲みで肝臓を悪くしたらしいが、評判悪いサネガン氏を診ようとする病院は無く、行く先の町医者や病院で門前払いを受け、最後に訪れた病院のドアノブに手を掛けたまま倒れ、そこで息絶えたという。

そんな事情を知った藤川さんから聴いた話だったが、サネガン氏にはタイ人の本妻との間に息子が二人居て、まり子さんのお店を手伝うこと多いという。私が沢村忠vsサネガンのビデオを藤川さんに渡したことがあるが、そのビデオをまり子さんのお店で観て、二人の息子は腹を抱えて笑っていたという。私はまり子さんも二人の息子さんも会ったことは無いが、藤川さんによると、「父親によく似た人相悪い二人やったが、悪い評判も無い真面目ないい子やったで!」と笑う。

私も一度だけ、1993年8月にバンコクで知人の結婚披露宴でサネガン氏に会ったことがあるが、人相は悪いが、すでに目が優しくなった笑顔で接してくれた想い出がある。しかしその3年後に永眠されていた。また改めてジックリお会いして日本での試合のこと聴きたかったが、すでに遅かったのだった。

日々、読経する姿の藤川さん(左)(2003.3.11~21)

◆早死にの運命!?

「このワシの身体は誰のもんや?、お前の身体は誰のもんや?、お前のもんか?、お前が死んだら、その身体はどうなるんや?、土に還る訳やろ、つまりは地球のもんやろ、ワシらはこの地球から栄養を摂った身体を借りて今生きとる訳や、そんな諸行無常の世の中、いつかは返す時が来る訳やな、みんな平等に与えられた命や、それを全うして人生のゴールを目指さんとイカンのや。こんないろいろ仏教のお経の中に書かれとるんや、それをひとつひとつ読み解いて関西弁にしたら漫才のネタみたいなオモロイこと書いてあるで。『山に登ったら岩肌に足をぶつけて血が流れて痛かった』とかごく当たり前のような文言も、それは即ち御釈迦様も血の通った普通の人間だった訳で、その2500年前に生きた人間として今、生きている人への導きとなる仏教は、葬式で亡くなった人を送るお経だけやないんやで!」

そんな藤川さんのいろいろな声が頭を過ぎる。いろいろなことを教えてくれた(勝手に喋ってたこと多いが)このジジィは小学校以降、クラスで1~2位のトップクラスを取って来ただけあって感性や探究心は良くも悪くも高いレベルにある。地上げ屋で荒稼ぎ、酒と女遊びに欲しい物は何でも手に入れた日々から人間は欲が尽きないことを知り、唆されて一時出家に導かれると今度は仏陀の生き方に惚れ込み、仏教専門書を読み漁る日々。尚且つ、地上げ屋時代の営業力も発揮する支援者の拡大技。何でも欲張って人の150年分の知識や欲求を詰め込み過ぎたから早死にしたのかとさえ思う。

私はこんな生き方真似出来ない。運が良ければ、せいぜい藤川さんよりのんびり長生きすることしか勝れないだろう。

日々、托鉢に向かう神聖な時間

◆藤川さんの最終章

この「タイで三日坊主!」は当初から仏教の在り方や御釈迦様の残した教えを説く高度なものではありませんでした。三日坊主の私は寺に居ても藤川さんと正反対。その貪欲な学習はしておらず、出家前も還俗後も現在も相変わらず三日坊主です。それでも今後、私の経験談や藤川さんの発言と活動を通じて、修行寺や学問寺の敷居の高い寺ではない、タイの一般的お寺の様子を感じ、タイで出家してみたい人が居れば参考になる程度として捉えて頂ければ幸いです。それは藤川さんが望む、私への依頼でもありました。

「お前の文章読んで一人でも出家に興味持って、出家してみたい人が居れば、それはまた仏教の発展に繋がるんやからな。ワシの悪口でもええから思いっきり書け!」とも言われており、そんな機会をデジタル鹿砦社通信さんに導いて頂き、再び寄稿となってものの、私の出家体験談から藤川さんの活動へ、論点ズレする纏まりのない展開になって行き過ぎたので、この辺で「タイで三日坊主!」は終止符を打つことにします。

最後に、ザ・ドリフターズの志村けんさんの突然の訃報に誰もが驚いたことでしょう。

人生はいつ終止符がやってくるか分からない。志村さんが残した功績は計り知れない大きいものでしたが、まだまだ動けるはずだった身体でやり残したことは沢山あることでしょう。我々もこのように突然の人生の終止符がいつ訪れるか分からない日々を、悔いの無いよう送らねばならないというのが藤川さんが語って来た、これまで大勢の人々への贈る言葉でもあります。

今後、藤川さんの残した足跡から新たな展開が見られた場合は、また機会を与えて頂ければ拾ってみたいと思います。これまで長く諄い物語にお付き合い頂き有難うございました。[完]

夕方のリラックスした姿での会話はオモロイ坊主そのものだった(2003.3.11~21)

◎[カテゴリーリンク]私の内なるタイとムエタイ──タイで三日坊主!

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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