◆運命の目黒ジム入門

向山鉄也(さきやま・てつや/1956年11月27日生)は数々の打ち合いの名勝負で強烈なインパクトを残した昭和の名チャンピオンである。

決戦へ向けてのジムワーク(1983.1.30)

1978年(昭和53年)、電気職人としての仕事帰りに目黒駅に向かう途中、たまたま通りかかった権之助坂のガラス張り目黒ジムの練習風景が目に入り、気紛れにフッと扉を開けてしまったことから人生の運命は変わった。高校時代に空手の経験がある向山は戦う本能が蘇り、すぐに入門。翌年6月、22歳でデビュー。喧嘩スタイルで勝ち星を重ねるも、4戦目でガードガラ空きのアゴにカウンターパンチを受けて失神ノックアウト負けを喫した。負けて覚えるディフェンスの大切さ。それでも挫けることなく勝ち続け、デビュー1年後にはテレビ朝日の特番で放映された日米決戦のリングで、かつて富山勝治(目黒)を下したサミー・モントゴメリー(米国)と対戦も、パンチで額を切られて2ラウンドTKOで敗れたが、堂々たる戦いぶりには将来を嘱望されていた。

しかしこの時期はめっきり興行が減るキック界の低迷期に突入していたこともあり、強豪ひしめく中での戦いを求めて、単身タイに渡った。1981年から1982年にかけてムエタイランカーを打ち破り、1982年1月度のランキングでラジャダムナンスタジアム・ウェルター級8位にランクイン。自力で切り開いた本場の壁。あと2試合勝ち上がれば王座挑戦のところまで上り詰めていたが、あと少し手が届かなかった。
現地で国際式プロボクシングも経験し、ラジャダムナン系ライト級チャンピオンのラクテー・ムアンスリン(国際式でも同級チャンピオン)を右ストレートで1ラウンドKO勝利している。向山が語るベストバウトのひとつだという。

合宿を行なった1983年元旦のロードワーク、江戸川の土手を走る(1983.1.1)

◆埋もれた存在から浮上

帰国前には元・東洋フェザー級チャンピオン、西川純氏が興した西川ジムに移籍(厳密には自ら興したキングジムに在籍)し、帰国後、江戸川区北小岩のジム寄宿舎となる六畳一間のアパートに暮らし、テレビは持たず身軽な生活だった。日常は建設現場で電気配線を設置する職人として働きながら、キックブームが起きていた香港での試合に赴いていた。

西川純会長のミットを蹴る。新しいジムが出来た頃(1983.1.30)

独身時代の孤独な部屋はポスターだらけ、バンテージを巻きジムに向かう前(1983.1.30)

1982年(昭和57年)10月3日、閑散とする日本国内でも日本プロキック・ウェルター級王座決定戦で岩崎新吾(花澤)に1ラウンドKO勝利し王座獲得。初のチャンピオンとなったが、リングサイドに一社の報道関係者も来ない中では知名度は全く上がらなかった。しかしここから激闘の名勝負を残していくことで知名度、存在感は業界トップクラスに浮上していった。

1983年2月5日、業界が集結した1千万円争奪オープントーナメントの枠外ながら、他団体の日本ナックモエ・ウェルター級チャンピオン、レイモンド額賀(平戸)とのチャンピオン対決を迎えた。

しぶといファイトで定評あるベテラン、レイモンド額賀の顔面が向山鉄也のパンチ連打でボコボコに腫れあがり、普通ならすでに倒れているであろう状態から、しぶとく向かってくる額賀のヒザ蹴りで向山の鼻が“くの字”にひん曲げられた。カウンターパンチでダウンを奪った向山が判定勝ちしたが、内容は両者血みどろの凄絶な展開、向山が「最も疲れた」と語る一戦だった。

当時でも好カード、そして激闘となったレイモンド額賀戦(1983.2.5)

コーナーに帰った表情、しぶとい相手に次なる戦略を練る(1983.2.5)

両者は1985年1月6日に再戦。前年11月に4団体が統合されて設立された日本キックボクシング連盟の日本ウェルター級王座決定戦。前回に劣らぬ両者血を見る激闘の中、向山はガードも打ち破る強引なパンチとヒジ打ちの猛攻で、レイモンド額賀の額にはまたも大きなコブを作ったが、判定は三者三様のドロー。規定による延長戦で向山がパンチで滅多打ちにして額賀を戦意喪失に追い込みレフェリーストップ。この時代、最も統一に近い日本ウェルター級初代チャンピオンに認定された(公式記録は引分け)。マスコミも向山の過激なファイトをする存在として注目し始めた試合だった。

向山鉄也はこの前年に約1年間、アメリカ遠征もしていた。日本の低迷期とあって多くの強豪と頻繁に戦えない中では積極的に海外へ向かう冒険が必要だった。突然タイに行ったかと思えば次はアメリカに渡る風来坊で、1984年3月3日にミシガン州で、かつて富山勝治とWKBA世界ウェルター級王座を争い、KO勝利で王座獲得していたディーノ・ニューガルト(米国)に挑戦。これもパンチの打ち合いでダウンを奪い合う両者血みどろの戦いで12ラウンド2-1の判定で敗れている。

第2戦レイモンド額賀と乱闘寸前となった第4ラウンド終了後(1985.1.6)

ボコボコに殴り付けても倒れないレイモンド額賀との死闘(1985.1.6)

◆伝説の名勝負

1985年(昭和60年)11月にはヤンガー舟木(仙台青葉)に判定勝利で日本ウェルター級王座初防衛。翌年5月12日の2度目の防衛戦では、一時的ながらやっとテレビに映るまで復興したキックボクシングの目玉カードとして大役を任された向山鉄也の相手は、元・日本ライト級チャンピオンで名を馳せた須田康徳(市原)と死闘を繰り広げた。ノックアウトパンチを持つ両者の、蹴りがほとんどない打ち合いだった。一度ノックダウンを奪いながら須田康徳が底力を見せた逆転のノックダウンを奪われ、口が半開きの向山に、セコンドの西川会長がタオル投入を躊躇うほどのダメージを負いながら、向山はこの我慢比べを制し、第4ラウンドKO勝利。「もうこんな試合したくない」と語るほど疲れ、ダメージを負う激闘だった。この名勝負はこの年のMA日本キックボクシング連盟での年間最高試合となった。

ヤンガー舟木の挑戦を受けた第1戦(1985.11.22)

同年11月、向山鉄也はタイ国ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン、パーヤップ・プレムチャイ(タイ)とノンタイトルで対戦。両者は過去、タイと香港で対戦し、向山は1敗1分。パーヤップの大木のような重い左ミドルキックを何十発と受け、向山の腕と右脇腹から背中までの広範囲にケロイド状にまで腫れ上がっていく中、第4ラウンドにパンチでスリップ気味ながらダウンを奪った。それに反発して勢い増すパーヤップにより激しく蹴られ、結果は2-0の僅差判定負け。内容的には惨敗ながら、逆に強い向山を印象付けた試合となり、この試合もテレビ東京で放映され、年間最高試合の候補に挙がっていた。

パーヤップ戦。蹴られても最後まで倒れなかった向山鉄也。これが強さを印象付けた(1986.11.24)

向山鉄也にとって最後のビッグマッチは、1987年7月15日の全日本キックボクシング(旧・岡村系)復興興行のメインエベント。タイ国ラジャダムナン系ウェルター級新チャンピオンとなっていたラクチャート・ソー・プラサートポン(タイ)戦での4ラウンドKO負け。パーヤップのような強い蹴りはないが、オールラウンドプレーヤーの上手さに翻弄され、パンチで倒された。

ピークを過ぎた頃で怪我も伴いブランクを作ったが、ラストファイトは1990年1月、全日本ウェルター級チャンピオン、船木鷹虎(=ヤンガー舟木/仙台青葉)に挑むも、かつて勝利した相手に1-0の優勢ながらの引分けで返り咲きは成らず、引退を決意した。

◆世代交代となっても伝説の人

引退後の1993年(平成5年)5月、向山鉄也は所属するニシカワジムを受け継ぐ形で、かつて自ら持っていたキングジムを復興させ、江戸川区一之江でバラック小屋のジムを開き、後進の指導に当たった。2007年2月には、それまでの不便な立地条件から江東区大島の都営新宿線大島駅近くのビル2階に新設されたジムは近代設備を整え、女性も入門しやすい広くて明るく綺麗なジムとなっている。

現役時代にタイ人女性と結婚した後は、風来坊といった生活から一転して落ち着いた家庭を持ち、一男二女を儲け、日々自らミットを持って後進の指導に当たっている。長男の竜一は羅紗陀というリングネームでWBCムエタイ日本スーパーフェザー級とライト級チャンピオンに育て、他、スーパーライト級でテヨン(=中川勝志)、スーパーウェルター級でYETI達朗、女子アトム級でPIRIKAをWBCムエタイ日本チャンピオンへ育て上げている。

令和の時代となっても、苦しい境地から踏ん張り激闘となった昭和の名勝負は伝説となって今後も語り継がれていくだろう。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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