一昨年の参院選に関し、大規模な買収を行った疑いで裁判にかけられている元法務大臣の河井克行被告(58)がついに公判で無罪主張を撤回し、買収を認めた。議員も辞職する。

これをうけ、安倍晋三前首相と菅義偉首相の政治責任が追及されることを期待する人が多いようだが、筆者はまったく別のことを期待している。それは、河井被告がその人生遍歴を自ら語ることである。

◆幼少期を過ごした地で無名だった河井被告

本人が公表しているプロフィールによると、河井被告は昭和38年広島県生まれ。広島市の山本小学校と安小学校(いずれも広島市立)を経て、私立の名門である広島学院中学・高校で学んだ。そして慶應義塾大学法学部政治学科を卒業後、松下政経塾、広島県議会議員を経て、衆議院議員に当選7回。絵に描いたようなエリート街道を歩んだ印象だ。

一方で報道では、性格に問題がある人物だったように伝えられてきた。たとえば2016年に秘書へのパワハラ疑惑を報じられた際には、広島市の小学校時代の後輩が取材に対し、次のようにコメントしている。

「河井先輩のアダ名は“スネ夫”。実家は薬局経営の裕福な家庭で、事あるごとに“僕と君らでは育ちが違う”みたいなことを言う嫌みなヤツでした。当然、皆から嫌われていました」(同年3月3日付け『日刊ゲンダイ』)

このように地元での評判は悪かったらしい河井被告だが、小学校入学前に広島県三原市で過ごした幼少期のことは意外と知られていない。そこで筆者は昨年4月、河井被告の生家があった香積寺という寺院の周辺で取材したのだが、河井被告の幼少期は報道のイメージと随分異なる印象を受けた。

まず何より意外だったのは、河井被告がこの地の出身者であることを地元の人たちがほとんど知らなかったことだ。道行く人たちに、河井被告の幼少期のことを取材しに来たのだと説明しても、「あの河井さんがこのへんに住んでいたんですか!?」「本当ですか?」などと逆に聞き返されるほどだった。

評判が良かろうが悪かろうが、幼少期を過ごした地で河井被告は有名な存在なのだろうと筆者は思い込んでいた。それはまったくの思い違いだったのだ。

◆生家は六畳二間で風呂無し

河井被告はブログで以前、生家が「六畳二間」だったことを明かしていたが、その家は50年以上経った今も入居者募集中の状態で現地に残っていた。だが、平屋の建物は玄関が引き戸になっていて、実につましく、「薬局経営の裕福な家庭」が暮らしていた家には、とても見えなかった。

近所で暮らす高齢の女性によると、「この家はこれまで、色んな家族が借りて住んでいます。以前はお風呂がなく、住んでいる人たちはみんな銭湯に行っていましたよ」とのことだった。河井被告の実家が広島市で薬局を経営するようになった経緯は不明だが、三原市で暮らしていた幼少期は裕福ではなかったのは確かだろう。

河井被告の生家。六畳二間の風呂無しの借家だった

そんな生家周辺で河井被告の幼少期を偲ばせるものが生家以外にも1つあった。上部が地表に露出した半地下式の防火水槽だ。河井被告は自身のブログで、幼少期に防火水槽の上で「黄金バットごっこ」に興じていたことを明かしているが、近所の高齢の女性によると、「このへんの子どもはみんな、ここで遊んでいましたよ」とのことだ。

小学校時代は「事あるごとに“僕と君らでは育ちが違う”みたいなことを言う嫌みなヤツ」だったと言われた河井被告も、幼少期は近所の子どもたちと無邪気に遊んでいたのかもしれない。

つましい幼少期を過ごした少年がその後、エリート街道を歩み、大規模買収事件の罪に問われる政治家になるまでに一体、どんな人生遍歴をたどったのか。裁判で罪を認め、議員も辞職する河井被告がいつの日か自分の言葉でそれを語る日がきたら、ぜひ拝聴したい。

河井被告が黄金バットごっこに興じた防火水槽

▼片岡健(かたおか けん)

全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

7日発売!タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年5月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)