1992年2月20日、福岡県飯塚市で小1の女の子2人が殺害された「飯塚事件」は、犯人として処刑された男性・久間三千年氏(享年70)に冤罪の疑いがあることで有名だ。久間氏は一貫して容疑を否認していたうえ、有罪の決め手とされた警察庁科警研のDNA型鑑定が実は当時技術的に稚拙だったことが発覚したためだ。

私は2016年に編著『絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社・2021年に内容を改訂した電子書籍も上梓)を上梓した際、この事件の捜査や裁判に関わった責任者たちを特定し、この事件にどんな思いや考えを抱いているかを直撃取材したことがある。事件から30年になる今、同書に収録された責任者たちの声を改めて紹介したい。

第1回は捜査関係者編(所属・肩書は取材当時)。

◆嘘をついて取材を回避した福岡県警本部長

まず、福岡県警が久間氏の逮捕に踏み切った際、県警本部長を務めていたのが村井温氏。取材当時は実父が創業した大手警備会社、綜合警備保障の代表取締役会長の地位にあった。私の取材依頼に対し、同氏の秘書はこう回答してきた。

「村井は警察時代の職務については、取材を受けないようにしているとのことです」

しかし調べたところ、「賢者グローバル」という無料動画配信サイトには、村井氏が同サイトの取材に応じ、福岡県警本部長時代に「一万何千人」もいた部下をいかにマネージしたか、当時の経験が今の会社でいかに役立っているかを笑顔で語っている動画がアップされていた。村井氏は嘘をついてまで取材を回避したわけで、それはつまり飯塚事件にやましい思いがあるということだ。

◆取材を断る理由も説明しなかった福岡地検検事正

一方、久間氏を起訴した福岡地検の村山弘義検事正はその後、法務・検察の世界では検事総長に次ぐナンバー2のポスト・東京高検検事長まで出世している。1999年に弁護士に転身後は三菱電機やJTに社外監査役として迎えられ、外部理事を務めた日本相撲協会では2010年の大相撲野球賭博騒動の際に理事長代行も務めている。

村山氏に手紙で取材を申し込んだうえ、返事を聞くために電話をしたところ、村山氏本人がこう回答した。

「実は昨日付けで返事を差し上げました。ご要望には沿いがたいということで、取材お断りの趣旨のことが書いてあります」

そこで取材を断る理由を尋ねると、「理由なんか申し上げることはありません。色々考えて、お断りしたということでございます」とのこと。この事件について何か語るべきことがないのかと尋ねても「そんなことを申し上げることもありません」、冤罪だと思っていないということかと確認しても「はいはい、すみません」という感じで、とりつく島がなかった。

後日、入れ違いで届いた返事の手紙には「取材お断りの趣旨」が簡潔に綴られているのみだったが、飯塚事件に関与した過去に触れられたくないという強い意思が感じ取れた。

◆問題のDNA型鑑定を行った科警研技官たちも沈黙

一方、有罪の決め手になったDNA型鑑定を行った科警研の技官は、坂井活子(いくこ)氏、笠井賢太郎氏、佐藤元(はじめ)氏の3人だ。警察庁によると、坂井氏は2007年3月31日付けで、佐藤氏は2011年3月31日付けでそれぞれ定年退職しており、同庁にはこの2人への取材の取次を依頼したが、断られた。

残る1人の笠井氏は取材当時も科警研で勤務していたが、手紙で取材を申し入れたうえ、意思確認のために科警研に電話をしたところ、総務課の職員に笠井氏への取次を頑なに拒否された。そこで笠井氏には再度、返信用の郵便書簡を同封した手紙により、取材を受けるか否かの返事をくれるように依頼したが、音沙汰はなかった。

以上の通り、久間氏を処刑台に送った捜査関係者たちの中には、冤罪処刑疑惑に関する取材に真正面から応じる者は皆無だった。(つづく)

福岡拘置所。ここで久間三千年氏の死刑が執行された

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。編著に電子書籍版『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(鹿砦社)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ[改訂版]―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

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