ウクライナ戦争は、ある意味で第二次大戦の残滓でもある。前回明らかにしたとおり、軍事大国(ドイツとロシア)に挟まれた、悲劇と言うべきであろう。

「共産党の過酷な政策からウクライナの住民は、ドイツ軍を『共産主義ロシアの圧制からの解放軍』と歓迎した。とくに東欧の反共産主義者は、ロシア国民解放軍やロシア解放軍としてソ連軍と戦った。プーチンが『ウクライナ民族主義者たちは、ナチスに協力した』とするのは、一面では当たっているのだ。」

「スラブ人を劣等民族と認識していたヒトラーは、彼らの独立を認める考えはなく、こうした動きを利用しようとしなかった。親衛隊や東部占領地域省は、ドイツ系民族を占領地に移住させて植民地にしようと計画し、これらは一部実行された。」

「ウクライナ戦争をどう理解するべきか〈2〉──帝国主義戦争と救国戦争のちがい」2022年5月13日

◆世界は分割された

ファシズム(枢軸独裁国)に対する民主主義世界(連合国軍)の勝利によって、第二次世界大戦は終結した。ドイツは東西に分割され、日本はアメリカの占領下に置かれたのだった。

これを「20世紀の悲劇」(民族分断と従属)と言いなすこともできるが、日本とドイツは戦争を仕掛けた、開戦責任をもって「平和に対する犯罪」として裁かれたのである。

概括すれば第二次世界大戦も帝国主義間戦争だが、開戦した側、侵略した側に全面的な責任が問われる。これは今回のウクライナ戦争においても同様である。

ところで、現在も日独は国際連合憲章において「敵国」なのである。したがって、れいわ新選組の山本太郎が指摘するとおり、独自の核武装は不可能である。安倍晋三が云う「核共有論」もまた、国連憲章の前では意味をなさない。

さて、ファシズムは敗戦によって裁かれたが、戦勝国もまた東西に分裂する。
ソ連(およびロシア共和国を中心にした連邦国家・その同盟国)とアメリカ(および西ヨーロッパ列強・その同盟国)が、ベルリンの壁、北緯38度線(朝鮮半島)、北緯17度線(ベトナム)で睨み合うことになったのだ。東西冷戦である。

◆ソ連はどのような国家だったのか

第二次世界大戦後の冷戦下で、日本の左翼はしばらくのあいだ、ソ連邦支持だった。ロシアではなく、ソ連邦である。ソ連邦の原爆や水爆も、欧米のものとはちがう「きれいな核兵器」だとされたものだ。そのソ連邦とは、そもそも何だったのだろうか?

ソビエト社会主義共和国連邦は、対外的(国際的)には単独の国家でありながら、15もの共和国からなる連邦である。

【旧ソ連邦構成国】
ロシア・ウクライナ・白ロシア(現ベラルーシ)・ウズベク・カザフ・グルジア(現ジョージア)・アゼルバイジャン・リトアニア・モルダビア・ラトビア・キルギス・タジク・アルメニア・トルクメン・エストニア

ソ連邦はロシアを中心としながらも、ソビエト(会議)という社会主義国の連合体であり、共産主義者にとっては世界革命の実質だった。

国民党との内戦をへて成立した中華人民共和国、中米に社会主義の旗を立てたキューバ、フランスの植民地支配をくつがえした北ベトナム、アメリカ軍(国連軍)と渡り合った朝鮮人民民主主義共和国、そして東ドイツをはじめとする東欧社会主義諸国が、ソビエト連邦の同盟国だった。1950年代から80年代にいたるまで、われわれの世界は東西両陣営に分断されていた。

時代は民主主義と科学的な進歩史観が支配し、帝国主義の旧体制は反動とされていた。社会主義・共産主義こそが、人類の未来ではないかと思われたのだ。

昭和30年代までの日本人の文章には「科学的」「進歩的」「反動的」「封建的」という言葉がおびただしく散見される。進歩的知識人とは、左翼系の学者や左派の評論家をさしたものだ。

しかし、スターリンの死去とともに、社会主義神話に亀裂がはいる。ソ連共産党の無謬性に疑義が呈されたのである。1956年のソ連共産党20回大会、フルシチョフの秘密報告、すなわちスターリン批判である。プロレタリア独裁の名の下の行きすぎた専制的支配、おびただしい粛清と収容所。鉄のカーテンと言われた、ソ連邦の秘密が暴かれたのである。

これを機に、東欧でソビエト支配から脱する動きがはじまる。ハンガリー動乱(1956年10月)がその端緒だった。

社会主義体制の閉鎖性、密告と強権的な独裁政治にたいする、自由の抵抗である。60年代後半のプラハの春や70年代後半のポーランド連帯労組の運動、80年代後半の東西の壁崩壊へとつらなる流れだが、ここでは多くは触れない。

◆共産主義運動の病根

今日的には、ソ連邦を中心とした社会主義国の独裁政治、全体主義と称される政治体制の淵源は、歴史的に明らかになっている。

労働者階級の団結がひとつである以上、指導政党である共産党も唯一(単一党)である。分派の自由はない(コミンテルン22年決議)というものだ。

その指導政党は「民主主義以上のあるもの(同志的信頼)」(レーニン『何をなすべきか』)にゆだねられ、選挙は行なわれない。あるいは党公認の候補者にしか投票できない。党という官僚組織が政治と文化のすべてを統括し、正しい指導のもとに国民をみちびくというのだ。

したがって、間違った行動をする者たち、党と政府に反対する者たちは秘密警察に密告される。これが民主集中制による一党独裁である。党と国家は正しいのだから、遅れた部分・間違った道を歩む者を取り締まる。強制収容所で正しく労働教育される。この単純な原理で、一党独裁は盤石なものとなった。ソ連は「収容所群島」(ソルジェニーツィン)と呼ばれたものだ。

スターリンを尊敬するウラジーミル・プーチンによって、いまもロシア連邦は事実上この政体を採っている。

そしてここが肝心なのだが、日本共産党をはじめとする日本の共産主義政党もまた、このレーニン主義・スターリン主義の組織原則を堅持しているのだ。党内選挙を行なわない、労働者階級の党は単一であるから分派の自由を認めない。したがって、党から離反する者は反革命分子とされるのだ。

ここに他党派の主張をみとめない、場合によっては内ゲバ(処刑)を厭わない、左翼の病根があるといえよう。内ゲバは感情や倫理ではなく、組織原理に基づくものなのだ。左翼においては、とくに排除の思想がいちじるしい。

つい最近のことだが、わたしが編集する雑誌「情況」において、「キャンセルカルチャー」を特集したときに、議論を封殺しようとする事件が起きた。

このキャンセルカルチャーとは、差別的な表現や社会運動にとって認めがたい表現は、キャンセル(取り消し)できる、という文化だと措定できる。ところがそのなかで、特定の人物への原稿依頼をもって、情況編集部が差別に加担したというのである。当該の掲載論攷には、直接的に差別的な内容はなかった。

いかに差別的な言動であれ、言論をもって批判・反批判をするのが理論闘争の原則である。言論誌としてのあまりにも当然な編集姿勢について、批判的な人たちは「情況誌をボイコットせよ」と呼びかけるに至ったのだ。このとんでもない主張も言論であるから、情況誌はボイコット運動の呼び掛けをふくむ論文も注釈付きで掲載した。

ここまではまだ、言論空間(雑誌編集・販売)の出来事である。しかるに、批判的な人たちは「情況編集部と関係のある人は、その人間関係を断ってください」なる呼びかけをしたのだ。関係を断たれても痛くも痒くもないとはいえ、日本の社会運動の深刻な病理を見る思いだった。

運動からの排除や人間関係を断てという呼びかけと、内ゲバ殺人のあいだに、それほど距離があるとは思えない。たとえば日本共産党が、彼らの云う「ニセ左翼集団」とはいっさい対話をしないように、無党派の市民運動や学生運動においても、この排他的な運動論は継承されてしまっているのだ。反対派を排除するソ連邦(手法を受け継いだロシア連邦)と同じ政治空間が、そこには現出する。

この話題を持ち出したのは、ほかでもないプーチンとアメリカ帝国主義(およびNATO)の評価において、日本の左翼は米帝を原理的(陰謀論的)に批判するあまり、プーチン擁護にまわってしまうからだ。内容を抜きに、アメリカなら許さないという無内容な決めつけである。おそらく彼らは、民主党政権と共和党政権の差異も論じることは出来ないであろう。国際社会におけるアメリカの役割の正否も、論評することはできないであろう。これを「教条主義」と呼ぶ。

毛沢東の云う「主要側面・副次的側面」(矛盾論)をみとめなければ、そこには「絶対悪」という硬直した思想が表象するのだ。

つぎに日本のとくに新左翼が陥った、民族解放戦争への客観主義について解説しよう。そこにも、硬直した原理主義があった。

◆民族解放戦争

帝国主義間の争闘、あるいはソ連邦とアメリカの覇権主義的な争闘は、第三世界諸国を巻き込んでくり広げられた。とりわけ旧植民地において、その対立は「代理戦争」の様相をおびたものだ。

だがここで注意しなければならないのは、帝国主義の植民地支配の残滓として傀儡政権に対する闘争は、民族解放闘争である事実だ。第二次大戦後の世界は、旧植民地国・従属国の独立と自立をかけた民族運動として顕われたのである。

この世界史的な動きに、マルクス・レーニン主義はじつに冷淡だった。反帝・反スタ思想も民族解放闘争には冷淡だった。

プロレタリアートの階級闘争は、先進国革命によって果たされる。史的唯物論は市民社会の進化によって、大工業化された資本と賃労働の関係において、プロレタリアートの形成が階級関係を高次に変化させ、社会主義革命へといたる(マルクス)。

あるいは、帝国主義段階に至った資本主義は市場再分割の戦争を引き起こすがゆえに、戦争を内乱に転化することで政治危機を社会主義革命に至らしめる(レーニン)。

そもそもヨーロッパ世界のみを研究テーマにしてきたマルクスは、東洋を「アジア的専制」と読んでいた。レーニンは帝国主義の市場再分割が、直接的な侵略戦争ではなく、協調と対立を内包しながらも超帝国主義に至ることを予見しえなかったのだ。

いっぽう、日本の左翼運動は、社会党系のソ連派、新左翼の反スターリン主義派(革命的共産主義者同盟)のほか、家元である日本共産党もソ連・中共と訣別していた。これらの党派は、おしなべて民族解放闘争の背後にスターリン主義がいることをもって、きわめて客観主義的な立場だった。

今回のウクライナ戦争にたいしても、帝国主義間戦争にすぎない、と新左翼の多くは腰が引けている。ウクライナ人民への支援や連帯を訴えるのでもなく、単に原則的な反戦運動(日米安保粉砕)を呼び掛けるだけなのだ。※個人においては、ウクライナ独立戦争を支持する人は少なくない。

◆国際主義の実体とは

かように、左翼は民族解放闘争に冷淡なのである。

60~70年当時、唯一といってもいいだろう。ブント系のみが中国共産党やキューバ共産党に、世界革命の現実性を見ていた。

そして旧植民地国の民族解放戦争が、社会主義革命を内包していることに着目したのである。その政治路線は、組織された暴力とプロレタリア国際主義、三ブロック階級闘争の結合による世界革命戦争と定式化された(ブント8回大会)。

世界的な組織を持っている第4インターや、早くからベ平連をつうじてベトナム反戦運動に取り組んでいた共産主義労働者党(プロ青同)などがこれに続き、やがて民族解放闘争が現代革命のキーワードとなったのだった。じっさいにブントは国際反戦集会に各国の革命組織をまねき、赤軍派においてキューバ・北朝鮮・パレスチナに同志たちが渡航した。

そして1975年4月30日、インドシナ三国(ベトナム・ラオス・カンボジア)の革命戦争が勝利を果たし、世界は民族解放社会主義革命戦争が規定するようになったのである。

にもかかわらず、いやそうであるがゆえに、世界は民族対立と宗教対立のカオスとなったのだ。いっぽうで、ナショナリズムを煽る右翼ポピュリズムの躍進によって、プロレタリアートの先進国革命は彼方に忘れられた。

ウクライナをはじめとする東欧情勢を、国民国家以前と評した評論家がいたが、けだし当然である。民族国家としての独立性を、いまだに問題にしなければならない人類の21世紀なのである。

ウクライナ戦争を理解するために、さらにわれわれは人民民主主義革命と救国戦争の諸相にせまってみよう。20世紀が「戦争と革命」の時代であったのに対して、どうやら21世紀は「民族と宗教戦争」の時代になりそうな気配だ。

◎[関連リンク]ウクライナ戦争をどう理解するべきなのか
〈1〉左派が混乱している理論的背景
〈2〉帝国主義戦争と救国戦争の違い
〈3〉反帝民族解放闘争と社会主義革命戦争

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

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