新世代公害の代表格といえば、化学物質による汚染と電磁波による汚染である。両者とも汚染が自覚できるとは限らず、透明な牙が知らないうちに人々の体を蝕んでいく。医学的根拠は迷宮の中。電話会社はそれを逆手にとって、「危険という確証はない」との詭弁をかかげて、大規模な電話ビジネスを展開している。NHKなどのマスコミがそれを全面的にサポートする。が、その裏側では、健康被害が広がっている。

東京都目黒区中央町は、中層ビルと民家が広がる都市部の住宅街である。最寄り駅から都心の渋谷まで5分。利便性が高い静かな街である。その街で楽天モバイルの基地局をめぐる係争が起きている。事業拡大に走る楽天と、生活環境を守りたいある女性のトラブルである。

両者の攻防は、わたしの眼には、かつて海外でエコノミック・アニマルと呼ばれた日系企業と現地住民の対立のように映る。外部から侵入してきて、開発と文明化を口実に資源を収奪する「よそ者」と、被害者意識と憎悪を抱く住民の壁である。日本製品に対する不買運動も起きた。

楽天モバイルとと女性の対立にも同じような構図がある。

 

化学物質過敏症で命を落としたはなちゃん

◆愛猫の死

伊藤香さんは、自宅の一部を改造して「はなちゃんカフェ」を主宰している。「はなちゃんカフェ」とは、化学物質過敏症や電磁波過敏症に悩む人々を救済するための憩いのサロンである。

2017年12月19日、伊藤さんの愛猫、はなちゃんが息を引き取った。化学物質による複合汚染が引き金だった。とりわけ猛毒のイソシアネートがはなちゃんを直撃したようだ。米国では厳しく規制され、日本では野放しになっている化合物である。化学物質過敏症の代表的因子である。

◆化学物質の透明な牙

発端は、2012年10月だった。この日、伊藤さんの自宅には、朝から作業員らが入り、床のフロアマニュアル(保護コーテイング)の剥離作業をはじめた。その数日前から伊藤さんは体調を崩していて、自宅で療養していた。剥離作業で使う化学薬品の匂いが家中に充満していたが、特に気にかけることはなかった。しかし伊藤さんは、剥離剤に含まれている化学物質を大量に吸い込んでいたのである。

午後になって体調の異変を感じた。頭痛や吐き気、それにめまいを感じたので、自宅のはす向かいにある目黒病院で点滴を受けた。しかし、この時も自分の体内で恐ろしいことが起きているという自覚はなかった。

作業員らは、次の日も剥離作業を続けた。しかし、工事はうまくいかなかった。伊藤さんによると、床が浸水するほど大量の剥離剤を使っていたという。

それが伊藤さんの家族全員が化学物質過敏症を発症した原因だった。作業員らも被曝・発病した。はなちゃんは、餌を受け付けなくなった。下痢が続き喀血した。そしてほとんど動かなくなった。水俣病が輪郭を現わしてくる時期、狂った猫が現れたように、化学物質は最初に弱者を襲う。しかし、企業の論理は医学的な根拠が分かるまでは事業を続けるというものだった。それが後日、水俣病の被害を拡大した。

伊藤さんは、25日になってようやくホテルに避難した。東京都や地元の保健所などから、猫の症状に鑑みて、強く避難を勧められたからだ。工事を請け負った業者が、責任を自覚してホテルを手配した。

◆化学物質過敏症から「電磁波過敏症」へ

この事故は、後日、行政機関から消費者庁へ消費者安全法に違反した重大事故として報告された。目黒警察署も作業を行った業者から事情を聴取するなどの対処を取っている。

伊藤さんは、ホテルや賃貸住宅を点々とした。香料など微量の化学物質にも身体が反応するようになっていたために、汚染の度合いが少ない住居を探す必要があったのだ。一旦、化学物質過敏症になると、最初の原因となった化学物質はいうまでもなく、あらゆる化学物質に身体が反応する。これは身体を守るための防御反応で、脳がそんなふうにプログラミングされてしまうからにほかならない。

症状は悪化していった。臭覚過敏、聴覚過敏、光過敏、皮膚過敏、添加物過敏などが現れ、生活に支障をきたしはじめた。勤務していた銀行も退職せざるを得なくなった。

さらに伊藤さんは、電磁波にも身体が反応するようになった。ある時、避難先の住居でスマホを使っていると、急に吐き気に襲われた。とっさにスマホを遠ざけると、吐き気は収まった。窓のすぐ外に携帯基地局が立っていた。

伊藤さんが言う。

「この日を境界に、電磁波にも身体が反応するようになりました。電車にも乗れません。ひどい吐き気に襲われることがあるからです。剥離剤による事故にあうまで、こんな身体になるとは想像もしませんでした。学生のころはよく海を見に湘南海岸へ行っていましたが、今はそれもできません」

ちなみに化学物質過敏症の患者は、「電磁波過敏症」を併発することが多い。

◆KDDIと楽天モバイル

伊藤さんが目黒区中央町の自宅に戻ったのは、事故から4年後の2016年9月1日だった。幸いに事故の賠償金は得られたが、かつての生活は戻ってこなかった。

自宅に戻って2か月後、最初の基地局問題がふりかかってきた。KDDIが伊藤さんの自宅近くのビルに通信基地局を設置する工事を始めたのだ。しかし、伊藤さんが事情を説明したところ、KDDIは工事を中止した。既に機材をビルの上に運び上げていたが、計画を中止した。

この時期に、わたしは初めて伊藤さんを取材した。「はなちゃんカフェ」はすでにオープンしていた。わたしは「はなちゃんカフェ」の片隅で横になっている猫を見た。この時は、すでに「寝たきり」の状態だった。死が近づいていた。わたしは化学物質による複合汚染の恐ろしさを痛感したのである。

その後、2020年11月になって、今度は楽天モバイルが伊藤さんの住居から120メートルの地点に基地局を設置した。伊藤さんがそれに気づいたのは、設置工事が完了してからだった。体調が悪くなり、住居近辺を観察してみると、基地局が立っていた。

 

(上)最初の設置された基地局。2021年11月8日に撮影。(下)基地局が増設された後。2022年3月30日に撮影

楽天に事情を説明した結果、対策を検討することになった。東京都議の齋藤泰宏さんも伊藤さんを支援するかたちで協議に加わった。こうして21年9月19日、伊藤さんと楽天モバイルはある確認合意書を交わした。

合意事項のひとつに楽天モバイルが伊藤さんの自宅に電磁波シールド工事を実施するというものがある。これは電磁波を遮断するための工事である。実際に、楽天は自社で費用を負担してシールド工事を行った。屋根や壁に塗料を塗る工法で、それにより電磁波による被曝量は軽減した。

これにより基地局設置をめぐるトラブルは一応決着した。ただし、合意書には、この件に関しては今後「異議申し立て等を一切行わない」という文書を盛り込んだ。さらに、この件については、「一切口外をしない」という文言も付された。

伊藤さんは、これで問題は解決したと考えて、確認同意書に捺印した。

◆オーナーはモデルガンの販売人

ところが今年の3月になって、伊藤さんは楽天モバイルが既存の基地局の横に、別の基地局の設置工事をしている場面を目撃した。伊藤さんは楽天に抗議したが、楽天が工事を中止することはなかった。電磁波や化学物質からの避難所としての「はなちゃんカファ」の意味がなくなってしまったのである。2階のサロンはほぼ元の汚染状態に戻ってしまった。伊藤さんは、同意書に騙されたと思った。

3月20日、わたしは目黒区中央町の現場を取材した。楽天モバイルの基地局の「台座」となったビルに向かった。1階にオーナーが住んでいるというので話を聞くことにした。オーナーは、モデルガンの販売を本業にしているという。本物の銃器を販売しているわけではないが、わたしはウクライナ戦争の武器商人を連想した。

玄関のインターフォンを押すと、小柄な丸顔の男が現れた。丸い小さな目が、警戒するようにわたしをにらみつけた。わたしは軍服を着て鉄兜をかぶった少年を想像した。

事情を説明した後、わたしは2、3の質問をした。

「楽天からいくら賃料を受け取っているのか?」

「答える必要はない」

「楽天の側が、基地局の設置を打診してきたのか?」

「そうだ」

「電磁波で健康被害が出ているが、それについてどう考えるか」

「電波はどこにでも飛び交っている。基地局からのものだけではない」

「近隣住民に健康被害が出たとき責任を取るのか?」   

「取る必要はない」

オーナーの男性について調べてみると、他にもマンションを経営していることが分かった。楽天モバイルが男性に提供している賃料の額は不明だが、それを推測するデータはある。大阪市浪速区の39階建てビルに楽天が設置を計画した基地局の場合は、月額10万円である。

わたしの元には、基地局設置に関する情報が大量に寄せられる。その9割以上が楽天モバイルについての苦情である。

楽天モは千葉県などで、小学校に5G基地局を設置する戦略に成功している。民家の直近にも、基地局を設置している。住民から抗議された場合は、設置計画を中止することが多いが、強引に工事を断行したケースもある。公営の公園内にも、基地局を設置している。その後ろ盾となっているのが、欧州評議会の1万倍もゆるい電波防護指針である。30年以上も前に総務省が定めてものである。

ベルギーのフレモール環境相は、2019年4月、ブリュッセルで予定されていた5Gの試験的運用を先送りにした。フレモール環境相は、メディアに対して次のようにコメントした。

「ブリュッセル市民はモルモットではない」

目黒区中央町の問題は、電話会社のコンプライアンスとは何かという問題を突き付けているのである。

◆楽天モバイルに対する質問

わたしは楽天モバイルに対して次の質問状を送付したが回答はなかった。

1,貴社と伊藤香氏の間で「確認同意書」(2021年9月19日)を交わした後に、貴社が別の基地局を設置したことについて、見解を教えてください。「確認同意書」を交わした時点で、現状の変更はできないと考えますが。

2,総務省の電波防護指針で、健康被害を防止できると考える根拠を教えてください。

3,近隣住民に健康被害が発生した場合、どのような対策を取るのかを教えてください。

4,貴社と総務省、内閣府の間で何らかの取引関係は存在するでしょうか。存在するようであれば、差支えない範囲で教えてください。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
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黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』