◆遺書に書かれた「3:40」の謎

西村成生氏(以下、成生氏)の遺書は3通とも、動燃の社用箋に書かれ、一番上に遺書を認めた年月日、曜日と時刻が書かれていたが、報告書のように「以上」と締めくくられていたり、「勘違い」を「勘異い」、「発展」を「反展」、「通り越し」を「遠り越し」などの漢字ミスがあるなど不可解なことが多かった。

というのも、成生氏は、行政などに提出する公文書の最終チェックを行う総務部文書課にも長く属しており、文章には非常に厳しく、残されたノートなどにも誤字などはまったくなかったからだ。

「夫がそんな間違いをするだろうか」

不思議でならなかったトシ子さんが、遺書に書かれた「勘異い」「反展」などの漢字ミスを、その後、ある文章で知ることとなった。 それは、秘書役T氏が書いた「西村職員の自殺に関する一考察」の中でだった。

「一考察」にはまた、「妻宛の遺書にはこう書かれていた」との説明も書かれていた。T氏は「一考察」を、成生氏が亡くなった直後の1月15日に書いていたが、トシ子さんは、警察から手渡された遺書を、その後1年間ほど、誰にも見せていなかったのだ。その遺書の内容を、何故T氏が知っていたのか? それはのちの裁判で明らかになる。

成生氏の死から1年後、聖路加国際病院の医師に、成生氏の遺体は死後10時間くらい経って病院に搬送されたと告げられたトシ子さんは、遺書に書かれた「3:40」の字も偽装されたのではないかと疑い始めた。その時刻、成生氏はもう亡くなっていたのだから、時刻を書きこむことは出来ないではないか。

3通の遺書に多く書かれた「3」の数字を改めて確認すると、大量に残された成生氏の生前の文書に記された「3」とは明らかに違っていることがわかった。しかも、何時何分と書く際、何分を何時より小さく書き、下に線を1本引くという成生氏のクセもないことにも気づいた。遺書の字は確かに成生氏のものだが、遺書を認めたという時刻は、誰かがあとで書き足したものではないか?その時刻に、あたかも成生氏が生存していたようにみせるために……。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さん

◆夫の死の真相を追及する闘い

夫の死の真相を何とか知りたいと、1年後、トシ子さんは宿泊していたホテルに宿帳を見せてほしいと求めたが拒否された。同じころ、聖路加国際病院の医師から、成生氏の遺体は死亡から10時間経過していたと聞かされたトシ子さんは、成生氏の遺体を処理した中央警察署に説明を求め訪れた。刑事課長は名前すら明かさなかったが、代わりに対応した課長代理が、成生氏の遺体に関する説明を行った。

トシ子さんは、「ホテルの部屋や8階の非常階段に成生さんの指紋はあったのですか?」と尋ねると、「指紋の資料はない」と答え、さらに「救急搬送する前に、警察で遺体を見ているのですか?」と尋ねると、「見ています」とファイルを差し出した。

そこには、成生氏の頭部と全身を写した写真が3枚あった。しかし、転落現場を撮った写真は1枚のみ、スーツ姿の成生氏が転落したコンクリートの地面ではなく、担架にうつぶせに寝かされているものだった。なお、ホテルにチェック・イン後、成生氏に動燃から送付されたFAX用紙について、中央警察署は把握していないとの回答だった。深夜2時過ぎにホテルに送信され、浴衣姿の成生氏がフロントに取りにきたという5枚のFAX用紙はどこに消えたのだろうか?

その後、トシ子さんは、死体検案書を作成した東京都監察医(当時)の大野曜吉氏に面談した。大野氏は、「検視は、1月13日午前10時55分頃。聖路加国際病院の霊安室で行った。立会人は、中央警察署の警部補だった」などと話した上で、難解な説明が長々話すので、トシ子さんはそれを止めるように、こう質問した。

「深部温度は計ったのですか?」

素人のトシ子さんから医学的な専門用語が出たため、顔色を変えた大野氏、「計ってません。なぜそんなことを聞くのか?」と聞いてきた。

トシ子さんはそれに答えず畳みかけるようにこう聞いた。

「じゃあ、どうやって死亡推定時刻を判断したのですか?」

すると大野氏は「遺体の発見は5時40分だと(立ち会った)警部補がいうから、それのやや前だろうと(考えた)」と答えた。

さらにトシ子さんが「転落したらしいと書いてありますが、なんで『らしい』なんですか?」と尋ねると、それも警部補からの伝聞だという。あまりにずさんな鑑定ではないか。

そのためトシ子さんは、監察医の大野氏を死体検案書の虚偽私文書作成で、秘書役のT氏を遺書の私文書偽造で、東京地検特捜部に告訴したが、2件とも「嫌疑なし」で不起訴となった。

2002年10月、トシ子さんは、東京都公安委員会に犯罪被害者等給付金請求申請を提出したが、翌年棄却。2004年10月13日、トシ子さんは2人の息子と、核燃料サイクル開発機構(旧動燃)に対して、成生氏の死が「自殺」というならば、動燃から虚偽の説明を強いられたためだとし、安全配慮義務違反の損害賠償を求める裁判を提訴した。

しかし、東京地裁は「動燃が虚偽の発表を強いたとはいえない」として請求を棄却、東京高裁も「動燃には自殺を予見できなかった」などとして一審を支持、2012年、最高裁は上告を退ける決定を下した。

しかし、高裁判決では「もし虚偽の回答をしてしまったことが発覚した場合には、もんじゅ現地のみならず動燃本社までもが嘘をついているとして、社会から厳しい指弾を受け、大石理事長の早期辞任はもとより、動燃の体質論から動燃の解体論にまで発展しかねない重大な事態を引き起こす危険性があった」と認定した。

成生氏の死が、まさにその「重大な事態」を食い止めたのだ。

2015年2月13日、警視庁中央署に対し、成生氏の全着衣、FAX、遺書作成に使用した筆記用品などの遺品について、返還を求める未返還遺品請求を提訴したが、2017年9月13日、東京高裁で棄却された。

さらに2018年2月22日、日本原子力研究開発機構と大畑宏之理事に対し、成生氏の全着衣、FAX、遺書作成に使用した筆記用品、手帳、事務机内の全遺品の返還を求める未返還遺品請求を提訴。その後大畑氏が死亡したため、現在トシ子さんは、同機構と大畑宏之元理事の遺族を相手取り、遺品返還訴訟を行っている。

前述した通り、トシ子さんは、葬儀に献花した国会議員らに、動燃本社内の成生氏の机の封印の嘆願書を提出しており、机は封印されていた。その事務机内の遺品とともにトシ子さんは、中央署員が大畑理事に渡した成生氏の遺品(ホテルで受信したとされるFAX受信紙、鞄に入れていた95年「どうねん手帳」、遺書を書いた万年筆、マフラー、ネクタイ、靴、着衣等々)の返還を求めた。

2021年9月30日、東京地裁は訴えを棄却したが、トシ子さんは、2021年10月14日、東京高裁に控訴し、今も闘い続けている。(つづく)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
〈1〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44727
〈2〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44733
〈3〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44851

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号