◆はじめに

核酸の中に保存される遺伝情報は、その構成要素である4種類の塩基、A(アデニン)、C(シトシン)、G(グアニン)、T(チミン)の配列、すなわち並んでいる順番にあります。連載1回目で述べましたが、核酸には、化学構造の違いからDNAとRNAがあります。配列解析に重要なRNAの塩基は、DNAでのT(チミン)がU(ウラシル)に置き換わっています。一部のウイルスを除く、すべての生物で、遺伝情報はDNAに格納されていますが、その塩基配列を読むためのDNA解析、その技術の進歩については何度も強調しますが、革命的に進歩した解析技術によって広範囲に膨大な解析結果が発表されています。今回は、技術が進歩する過程で、実社会での応用が進められたことで実社会にもたらされた、DNA解析の光と影について少しお伝えできればと思います。

◆DNA多様性解析の進歩

数多くの生物種のゲノム配列情報が明らかにされているように、多くのヒトのゲノム配列情報も明らかにされてきています。ヒトのゲノム配列でその多型性(個々人によって、対合する塩基配列が異なること)を示す領域は、ゲノム中に約1000万か所あるとされています(サイト2-1)。たとえば任意の二人を比較すると、多型性のある個所は10万か所以上あると推定されます。一卵性双生児であっても、遺伝的多型(DNAの配列の違い)があることが報告されています(文献2-2)。

DNA解析がはじまった初期、1980年代には既に、生物種内でのDNA配列の多型性についての研究が始まっていました。初期の方法はやや専門的な説明で恐縮ですが、DNAの特定の配列を認識する”制限酵素”でゲノムDNAを切断し、寒天ゲル電気泳動で、大きさ別に分けます。その後、ゲル内のDNAをニトロセルロース膜に移し取って、特定の配列を認識するプローブ(目印をつける目的の配列)で、目的の配列を顕在化させます。

細かい内容は説明しだすときりがないのですが、この工程は、約1週間かかります。扱える量としては、1回10試料ぐらいで、対象となる多型性は1つでした。掛かる費用としては、5万円ぐらいでした。従って、1サンプル、1多型性あたり、5000円ぐらい掛かる計算になります。この解析技術も格段に進歩し、現在は、一時に、96以上の試料、80万種類以上の多型性を解析できるようになりました。現在の解析価格は、1サンプル、1多型あたり、0.1円ぐらいで済みます。この価格推移をみて頂いても、お分かりと思いますが、解析に要するコストを比較すると現在は、1980年代の5万分の1になっていています。

◆DNA解析がもたらした過去の影

上述のように、1980年代からDNA解析が始まり、その進歩の過程で、DNA解析への期待と信頼は右肩上がりに高まっていきました。そんな中、DNA解析は親子鑑定や犯罪捜査にも、1990年には用いられ始めました。そうした中で、いろいろな問題も起こりました。その代表的な事件として、足利事件(サイト2-3)が挙げられます。

足利事件とは「1990年(平成2)5月12日夕、栃木県足利市内のパチンコ店で4歳の幼女が行方不明となり、翌朝同市内の渡良瀬(わたらせ)川河川敷において遺体で発見された事件。足利市内の幼稚園のバス運転手をしていた菅家利和さんは、DNA型の一致を有力な証拠として、有罪判決を受けて服役しましたが、その後、現在も用いられているDNA多型の精密度を上げた鑑定法で、DNA型が被害者の下着に付着した犯人の精液とは一致しないことが明らかになり、再審のうえ無罪が確定しました。」

この事件で、当時、証拠として用いられたDNA多型はMCT118と呼ばれる多型によるDNA型鑑定です。このMCT118はヒトの1番染色体の部位にあり、16塩基配列の繰り返し数が人によって異なるものです。当時のDNA型鑑定はこの繰り返しの回数を基にしたものです。その精度から判断しますと、現在の日本国内(1億2千万人)に同じDNA型の人が約12万人いるという精度になります(1000人を識別:サイト2-4)。これでは個人を特定する証拠、と断定するのは科学的には誤差が大きすぎます。

現在は、これまでと同様、短い反復配列の繰り返しの程度の差を利用する方法ですが、多くの多型領域を利用することで、識別可能数は、4兆7千億人(4.7x10の12乗)に向上しています。もし、遺伝病の研究によく使われている1塩基多型(SNP: Single Nucleotide Polymorphism)解析チップを用いた場合、市販で最もSNP数の多いものは約450万個です。識別能力は、1.3×10の130万乗にのぼり天文学的数値になります。つまり、足利事件当時用いられたDNA鑑定で、菅谷さんが冤罪を被った時代に比べれば解析制度は飛躍的に向上しました。上述しましたが、現在は、一卵性双生児でも、識別することができるようになりましたので、この技術が適性に用いられれば、法医学や犯罪捜査での利用で大きな問題は起こらないと思われます。

生物の死後、どれくらい地球上でその生物の配列情報が存在し続けるかという疑問に対して、一つの論文が報告されました(文献2-5)。約3万年前まで、生存していたとされるネアンデルタール人のゲノム配列の一部が解析されました。ネアンデルタール人は、37万年前に、現在の人類と別の進化をたどった人類です。この解析は、クロアチアで見つかった、3万8000年前のサンプルからDNAを回収し解析が進められた結果です。環境の条件によっては、極めて長い年月、生物の死後現世にDNA配列は存在し続けると考えられます。

【文献】

2-1 http://anal197.chem.tohoku.ac.jp/teramaelab/research/snp/snp.html 

2-2 Phenotypically concordant and discordant monozygotic twins display different DNA copy-number-variation profiles  Carl E G Bruder, Arkadiusz Piotrowski, Antoinet A C J Gijsbers, Robin Andersson, Stephen Erickson, Teresita Diaz de Stahl, Uwe Menzel, Johanna Sandgren, Desiree von Tell, Andrzej Poplawski, Michael Crowley, Chiquito Crasto, E Christopher Partridge, Hemant Tiwari, David B Allison, Jan Komorowski, Gert-Jan B van Ommen, Dorret I Boomsma, Nancy L Pedersen, Johan T den Dunnen, Karin Wirdefeldt, Jan P Dumanski Am J Hum Genet. 2008 Mar;82(3):763-71.

2-3 https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E4%BA%8B%E4%BB%B6-188776

2-4 https://seedna.co.jp/information/blog-dna-test/blog-forensics/ashikaga_case/

2-5 Sequencing and analysis of Neanderthal genomic DNA James P Noonan 1, Graham Coop, Sridhar Kudaravalli, Doug Smith, Johannes Krause, Joe Alessi, Feng Chen, Darren Platt, Svante Paabo, Jonathan K Pritchard, Edward M Rubin Science. 2006 Nov 17;314(5802):1113-8.

▼安江 博(やすえ・ひろし)
1949年、大阪生まれ。大阪大学理学研究科博士課程修了(理学博士)。農林水産省・厚生労働省に技官として勤務、愛知県がんセンター主任研究員、農業生物資源研究所、成育医療センターへ出向。フランス(パリINRA)米国(ミネソタ州立大)駐在。筑波大学(農林学系)助教授、同大学(医療系一消化器外科)非常勤講師等を経て、現在(株)つくば遺伝子研究所所長。著書に『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』(鹿砦社)等

◎[過去稿リンク]わかりやすい!科学の最前線 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=112

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