《インタビュー》国境なき時代、日本語は国際語として通用するのか? 日本語教育の専門家、江原有輝子氏に聞く 黒薮哲哉

国際化の波が日本にも押し寄せている。ビジネスの世界でも政治の世界でも、国境の感覚が薄れ始めている。その中で浮上しているのが、コミュニケーションの問題である。世界の人口80億人のうち、日本語を話す人口はわずかに1億3000万人程度である。日本語は、グローバル化の中で生き残ることできるのか。

語学教育はどうあるべきなのか。国際化にどう対処すべきなのか。海外で長年にわたって日本語教育に取り組み、牧師でもある江原有輝子氏に、異文化とコミュニケーションの体験について話をうかがった。[聞き手・構成=黒薮哲哉]

◆世界の5か国で日本語を指導

── 海外で日本語を教えるようになるまでの経歴を教えてください。

 
江原有輝子(えはら・ゆきこ)氏

江原 わたしは早稲田大学の文学部を卒業した後、福武書店に入社して教育教材などの編集の仕事に就きました。しかし当時は、女性は結婚したら退職は当然というような社風があり、「この会社には長くはいられない」と思いました。そこで転職を考え、当時、国際交流基金と日本語教育学会がタイアップして設置していた日本語教師養成講座を受講するようになりました。1年目は日本語教育の基礎を学び、2年目には大使館の外国人職員などを対象とした教育実習を行いました。そして1988年に国際交流基金から派遣されて、メキシコシティーへ行きました。

希望する渡航先をきかれ、わたしは「どの国でもいい」と答えました。するとメキシコシティーへ行くように言われたのです。同市にある日墨文化学院(Instituto Cultural Mexicano Japones)で1991年まで日本語教育に従事し、いろいろなレベルのクラスを教えました。これが日本語教師としてのキャリアの始まりです。

── メキシコはスペイン語圏ですが、スペイン語は話せたのでしょうか。

江原 話せませんでした。最初は、午前中はメキシコ国立自治大学(Universidad Nacional Autonoma de Mexico)にある外国人のためのスペイン語講座に通い、午後から夜の9時まで日墨文化学院で仕事をしました。ハードな日程が裏目にでて途中で体調を崩したりもしました。

── 91年にメキシコから日本に帰国された後はどうされましたか?

 
メキシコ大学院大学(出典:ウィキペディア)

江原 お茶の水女子大学の修士課程(日本言語文化専攻)に入学しました。そこで第二言語習得の観点から日本語教育を学びました。在学中にメキシコ外務省の奨学金を得て、1年間メキシコシティーにあるメキシコ大学院大学(El Colegio de Mexico)に留学しました。この大学院で、自分が研究対象にしていたメキシコ人による日本語に関するデータを収集しました。たとえばどのようなレベルの日本語学習者がどのような語学上の誤りを犯す傾向があるかといったことを調べるために、外国人が書いた日本語の作文などを資料として収集しました。

日本語も教えました。日本研究をしている大学院生が7、8人いて、そのうちのひとりはコロンビアの人でした。もうひとりは確かキューバの人だったと思います。ラテンアメリカで修士レベルの日本研究ができるのは、おそらくメキシコ大学院大学だけでした。

── メキシコの次はどの国で日本語を教えましたか?

江原 お茶の水女子大学の修士課程を終えた後、国際交流基金の派遣で今度はドイツへ行きました。さらにその後、ニュージーランドとオーストラリアへ赴任し、政府機関で日本語アドバイザーとして働きました。さらに2019年5月からパラグアイへ行きました。これは国際交流基金の派遣ではなく、日本基督教団の宣教師として派遣されました。ピラポという日本人移住地にある教会の牧師として赴任したのです。日本語は、1年間だけピラポ日本語学校で教えました。

◆言語の違いと異文化

── 江原さんは外国語でコミュニケーションをされてきた期間が長いわけですが、それが自分の日本語力にどのような影響を及ぼしましたか?

江原 わたしの場合、メキシコへ行って初めてスペイン語を学んだわけです。その後、日本に帰ってきた時に、友人たちから以前に比べて話し方が分かりやすくなったと言われました。メキシコへ行く前、日本語でコミュニケーションしているときは、はっきりと要件や主張を伝えなくても分かってもらえる部分がありました。このあたりまで伝えれば相手は、わたしが言いたいことを察してくれると。

しかし、スペイン語はわたしにとっては外国語ですから、限られた語彙や表現で、相手に自分の意図を正確に伝える必要性が生じました。たとえば、水道屋さんに「水が漏れているから修理してほしい」という意思を伝える場合、はっきりと要件を言って、自分が相手に希望することが実現するように、説明しなければなりません。限られたボキャブラリーで、どう言えば相手が分かってくれるかということをいつも考えながら、話していました。その結果、日本語で話すときも、「こういったら分かってくれる」とか、「こういう言い方をした方がいいかも知れない」ということを常に考えながら話すようになりました。

外国人に日本語を教えるときも、限られた語彙で、どう表現すれば相手を理解させることができるかを考えなければなりません。普通の日本人を相手にするように話しても通じません。どういう言い方をすれば、相手は理解できるかを常に考えました。

◆幼児に対する外国語教育、指導者側の問題

── 早期からの外国語教育についてどう思いますか? 幼児期から英語を教えるべきだという考えと、まずは国語を十分に勉強すべきだという考えがありますが。

 
早期英語教育をPRするウェブサイト

江原 中途半端に英語を勉強した日本人の先生が、小学校で英語を教えるのはやめたほうがいいと思います。本当に子どもをバイリンガルにしたいのであれば、外国にいるような環境を準備する必要があります。日常生活の半分ぐらいを英語にする必要があります。それができるのであれば、幼時から子供を英語の環境に置いたほうがいいと思います。

日本語は特殊な言語なので、英語をちゃんと身に着けておくことは大切ですが、だからといって小学生を相手に不正確な発音で、「one, two, threeとか、red, white, yellow」などとやるぐらいなら、むしろなにもしない方がいいと思います。誤った発音を覚えてしまうと、矯正するのにかえって時間と苦労が必要になるからです。

この問題は日本以外の国にもあります。たとえばニュージーランドは、日本と違って小学校とセカンダリー(中学+高校)の教育制度になっており、セカンダリーでは外国語を教えるのが普通です。わたしが2000年にウェリントンに赴任したころは、生徒には5つの外国語の選択肢がありました。日本語、中国語、フランス語、ドイツ語、スペイン語です。ひとつの学校で全部を教えることはできないので、学校によって教える外国語が異なります。生徒も、自分が選択を希望する外国語のクラスがあるセカンダリーに進学します。

当時、ニュージーランドでは、教育省が小学校からの外国語教育を奨励していました。しかし、特に日本語の場合は教師の資質の問題がありました。フランス語とドイツ語はもともと学校で教えていた言語なので、ある程度、レベルの高い先生がいます。日本語がブームになってきたので、教育省は教える方針を打ち出しましたが、学生時代に日本語を勉強した教師はいませんでした。そこで、「日本語なんか分からなくても教えられるわよ」というような考えの人が、小学校教師を対象とした教え方の教材を制作したのです。

その教材は、「ひらがな」は難しいので、教えなくてもいいことになっていました。ローマ字で代用すればいいとされていました。それが教育省の方針だったのです。そこでわたしと、もう一人の日本人アドバイザーが、「こういうやり方ではだめです」とアドバイスしました。

限りなく日本語の知識がゼロに近い先生が、学校で「イチ、ニイ、サン」とか、「ワタシノ ナマエハ……」といったことをやるわけです。これは日本でよくある幼児を対象にした英語教室とよく似ています。

小学校でこうした教え方をしていると、「変な発音」や「変な表現」が身についてしまうので、本格的に言語の習得を始めたとき、それを矯正するのが大変です。その役割を担うセカンダリーの日本語教師にとっては迷惑なことです。

こうした観点から考えると、日本の小学校で中途半端に英語を教えるのはよくないと思います。不正確な発音や自己流の表現で、たとえばゲームをやるとそれが身についてしまい却ってマイナスになる。後年、矯正するのに大変な手間がかかります。

── 外国語を学ぶときは、最初が肝心だということでしょうか?

江原 はい。わたしはメキシコへ行くまでは、スペイン語をまったく勉強したことがありませんでした。ゼロだったわけです。そしてゼロからメキシコ人にスペイン語を習った。そうするとある時から、同じスペイン語でも、メキシコ人が話すスペイン語と、それ以外のスペイン語国圏の人が話すスペイン語との違いがはっきりと分かるようになりました。

ところが、英語に関しては、わたしは英語圏で7、8年生活しましたが、最初は米語と英語の違いを聞き分けられなかった。その原因は、日本の学校で受けた英語教育により、わたしの耳が「つぶれていた」からだと思うのです。間違った発音を身に付けていたからだと思います。

◆言語の背景にある文化的な土台の衰弱

── パラグアイの日系2世、3世の日本語はどんなレベルなのでしょうか?

江原 パラグアイのピラポへの移住は約60年前に始まりました。1世は今70代から80代です。1世は日本語しか話しません。家の中では、孫とも日本語だけで話します。ですから2世、3世の日本語力は、非常に高いレベルの人が多いです。わたしはそこで1年間、日本語を教えましたが、3分の2ぐらいの生徒は日本の義務教育で使われている国語の教科書をそれぞれの学年で教えることができるレベルでした。

子供たちは、月曜日から金曜日までは、現地の学校へ通学してスペイン語で学び、土曜日には日本語学校にきて日本語を勉強します。日本語学校では、当然、すべての場で日本語を使います。職員会議も日本語でやる。先生は2世と3世の日系人で、日本人はわたしだけでした。

多くの日系人がかなり高いレベルの日本語を使うことができます。しかし、日本文化についての知識は十分ではありません。たとえば森鴎外や夏目漱石は知っているが、太宰治などは名前すら知らない。日本文化のある部分が欠落しているのです。もちろん古文などは読んでいません。そこに何か欠落したものを感じました。教科書を使って問題なく日本語を教えることはできますが、言葉の背景となっている部分の知識が浅くなっているように感じました。

これに対して、日本で育った日本人は、日本についての十分な知識があり、その土台の上に言語が乗っています。ピラポでは、その土台の部分が浅くなっているのではないかと思います。2世、3世の方々ですから当然といえば当然ですが、世代を重ねるごとに土台の部分がさらに脆弱になり、日本語力も徐々に落ちていくのではないかと推測します。そして最後には、現地の公用語であるスペイン語だけになるのだと思います。日本語は消えるわけです。それが他国の日系人に起こったことです。隣国ブラジルには150万人の日系人がいると言われていますが、日本語を話す人はほとんどいません。

◆国際言語ではない日本語

── 日本語の普及は必要だと思いますか?

江原 わたしは、日本語はあまり役に立たない言語だと感じています。日本語を教える仕事は楽しいですが、もしわたしが日本人でなかったら、日本語を勉強しなかったと思います。第一に漢字の習得が大変です。数が多い上に、読み方がたくさんある。音読みと訓読みがあり、それを組み合わせると読み方も変化します。こうしたことを全部覚えて、本を読むのは大変なことです。日本語は、話すことに関してはそれほど難しくはありませんが、読み書きで日本人並みのレベルになるのはとても大変です。学習する外国語としては、非常にハードルが高いのが実態です。趣味でできるような言語ではありません。

これに対して、たとえば英語やスペイン語は、熱心に勉強すれば1年ぐらいで新聞が読めるようになります。頑張れば大学へも入学できます。少なくとも一定のレベルまでは到達できます。しかし、英語を母語とする人が、日本語の授業を聞いてノートを取り、日本語の参考文献を読むのは大変なことです。

── 海外へ出るとすれば、どの国を勧めますか?

江原 あえて言えばメキシコを勧めます。わたしは、自分が最初にメキシコへ行ったことは、非常に幸運だったと思っています。メキシコには、自分の想像とは異なった世界がありました。メキシコでは休日になると、かならず親族が集まってきて、一緒に時間を過ごします。日本にいる時には、「外国では大きくなると独立して親と別居する」と教えられましたが、「外国」と言っても、ラテンアメリカではそれは当てはまりません。

日本との文化の落差が大きな国へ行くと目が開かれて、学びが多いと思います。人生が大きく変わります。実際、わたしの人生はメキシコで変わりました。

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』

遠慮・忖度一切なし!《本音の対談》黒薮哲哉×田所敏夫〈04〉問題すり替えに過ぎない“SDGs”の欺瞞

◆SDGsに無批判なマスメディア

田所 国連が提唱するSDGsという「持続可能な成長」。耳障りは良いです。しかし本音は「持続可能」ではなく「成長」=「経済成長」です。成長を実現するために紛争をなくす、貧困をなくす、二酸化炭素を減らすといろいろ言いますがそのための市場や商品が国連により推奨され、あたかも人類や地球環境や生態系に良い効果をもたらすと札付きを与えている。たとえば電気自動車や二酸化炭素を出さないもののが、良いものだとされる。けれども二酸化炭素がなければ新しい空気ができません。この基本的な議論がSDGsからは見事に抜け落ちている。

 
黒薮哲哉さん

黒薮 環境をよくすることは大事だけども、それをビジネスに変えるのはおかしいでしょう。環境問題を企業に委ねれば、目的が達成できると考えるのは誤りです。

田所 綺麗な言葉で国連が新自由主義を擁護している。国連が発するのですからもう学校教育の場でも子どもたちに刷り込みが既に始まっている。

黒薮 「企業コンプライアンス」という言葉が重視されていますが、新自由主義の下で格差が広がり、様々矛盾が噴出してきたから、それをなんとなく誤魔化すための言葉だと思います。資本主義の枠内で、欠点を多少「手直し」して、基本的には同じ路線を突き進むための世論誘導です。現在の体制を巧みに維持するための戦略です。

田所 これは政策ではなくイメージです。そこがたちが悪い。イメージだから直接的に誰かが傷ついたり即座に誰かが困ったりはしない。けども分析すれば「貧困をなくす」のは企業がではないです。利益を追求しないと成立しえない集合体が企業であり利益を最大化したいのがもとからの企業の存在意義です。

黒薮 だからイメージをコントロールして世論を誘導する戦略が、非常に重視されるわけです。こうした財界の戦略に協力しているのがマスメディアです。

田所 マスメディアはSDGsにまったく無批判です。イメージでは我々よりも意識が進んでいるだろうと思いがちな欧州の国々でも、この問題に異議を唱える人が多くはなさそうで、右から左までがSDGsを認証することにより、新自由主義=格差拡大を地球規模で拡大させることにより事態がさらに悪化してゆくことは目に見えている。

◆「誰にでも起業のチャンスがある」というのは幻想

黒薮 今の資本主義は高度成長時代の資本主義と違い、国境がなくなっていますから資本主義の陣営が同じ方向性の戦略を取り、必要とあればどこかの国を共同で攻撃する。こうした戦略がどんどん鮮明になっています。

田所 資本に国境はないです。GAFAといっても米国だけが儲かっているわけで、製造業は工場を世界各国に置きます。利益は国境を越えて多国籍企業が儲かる仕組みです。彼らは大きくなりすぎているので新規参入の中小企業が入る余地はない。

黒薮 それが実態なのですが、メディアにより「誰にでも起業のチャンスがある」かのような幻想が広がっています。

田所 大嘘です。ビジネスチャンスとか、ドリームとか、頑張ればなんとかなるとか。はっきり言って頑張ったってどうにもなりませんよ。この寡占の現実は。原則が間違っていると認識し、違う方向を見出さない限り無理です。今お金を持っていて支配している人が作り出すからくりを綺麗に言いつのる現実を気持ち悪いと感じます。

◆政策を決定しているのは、グローバル化した資本主義

黒薮 防衛費の倍増や沖縄の基地化。これらの政策に反対している人々の多くは、自民党の政治が終われば問題は解決すると考えていますが、そんな単純なものではありません。政策を決定しているのは、グローバル化した資本主義です。

国際的な協力の枠組みの中で、日本も「役割分担」をさせられているわけです。ですから安倍政権が終わっても、グローバリゼーションを背景に、政策の大枠はまったく変わっていません。改憲と軍国化の方向で走り続けています。グローバル化した資本主義に合わせた政策をやっているわけです。

 
田所敏夫さん

田所 その側面があることに同意しますが、覇権を維持しよう、利益を維持しようとする層がいます。実は安倍元首相の場合は、彼の祖父の時代からその時々で、主張することは違いますが、岸信介は若い時代中国大陸で満州国を作り商工大臣をしていました。戦後戦犯として逮捕されたもののどういう訳か不起訴で出てきました。戦犯追放を潜り抜け総理大臣になり、昨年話題になった「勝共連合」の設立に尽力しました。それは米国の軍産共同体との利害が一致していたからでしょう。米国はベトナム戦争の際、韓国に参戦させることにより、韓国に特需を与えた訳です。今韓国にある財閥はベトナム戦争時に出来上がり、米国の財閥との結び付きを得た。次の世代が安倍晋太郎ですがこの人は中継ぎです。中曽根がレーガン、サッチャーとともに、重武装への転換点を作り小泉がイラク派兵を行った。その完成形の役割を安倍は長い期間にわたって担い続けた。黒薮さんが指摘されるように、必ずしも個人の思いつきではない部分も多いが、安倍晋三は小泉政権の副官房長官時代に早稲田大学で「敵地攻撃は違憲ではない」「核兵器保持は違憲ではない」と明確に話しています。だから一定程度そのような考えの持ち主であることは確かです。そのような人物で血統もそうだから総理大臣にさせてもらっていた側面もあると思う。

黒薮 どういう人物が首相になるかを決めているのが、時代の流れでしょう。

田所 単に投票行動だけではなく、投票行動を誘う諸政策、小選挙区制の導入や労組の無力化、政党助成金の導入などにより選択肢がない。こう言うと熱心に政治に関心を持っている方々に悪いかもしれないけども。

黒薮 政治家が劣化しています。どうやって次の選挙で当選しようか、そのことばかりを考えて、世論に迎合し、大胆なことはしない。バッシングされると困るので控えておこうという傾向が非常に強くなりました。1996年に小選挙区制導入されてからどんどん新自由主義が顕在化し、それにあわせて軍国化が進んでいます。ビジネスのグローバル化に伴い、多国籍企業を「国際協力」により防衛するための体制が拡大され続けています。

◆「リベラル保守」の罪

田所 それを可能にするには、世論の支えが必要です。一連の構造改革の中で派遣法の改正が行われました。改正以前、派遣労働は特別な業種に限定されていたが、ほぼすべての職種で派遣労働が可能になり、同じ仕事をしていても給与が半額の人が多数生まれる現象が起きました。

貧困で労働組合にも入れない。その人たちが自分たちの窮状を訴え、権利を求める方向に目が行かないように当時一番売れていたのは小林よしのりです。『ゴーマニズム宣言』です。評価は分かれますが宮台真司、宮崎哲弥、浅田彰も入れます。廃刊した『朝日ジャーナル』の負の部分が一役になっていたと思います。今30代、40代のひとがかつての革新陣営や社会主義に対して持っている嫌悪感や、日本や日本民族に対する論拠無き過剰なプライド。砂上の楼閣のような感情が見事に形成されたのを政府は確認して、投票年齢の18歳に引き下げたのでしょう。

黒薮 そうですね。これらの層は根本から日本の社会を変えようとはしないで、一部を手直しして基本的な枠組みにはメスを入れません。その典型が、「リベラル保守」と呼ばれる人々ですね。

田所 そう人たちの罪がとても大きいと思います。

黒薮 朝日新聞などもこうした路線だと思います。資本主義の枠は維持して、その中で「手直し」を提唱する程度です。ガス抜きはするが、本当に社会を変革しようというメディアではないと思います。こうした勢力は、日本を支配している人たちにとっては、むしろ必要なメディアなんです。世論誘導とはそういうものです。(つづく)

◎遠慮・忖度一切なし!《本音の対談》黒薮哲哉×田所敏夫
〈01〉「スラップ訴訟」としての横浜副流煙事件裁判
〈02〉横浜副流煙事件裁判のその後 
〈03〉禁煙ファシズムの危険性 ── 喫煙者が減少したことで肺がん罹患者は減ったのか? 
〈04〉問題すり替えに過ぎない“SDGs”の欺瞞
〈05〉「押し紙」は新聞にとって致命的

▼黒薮哲哉(くろやぶ てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。著書に『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社)がある。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学 消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY007)
月刊『紙の爆弾』2023年3月号

《3月のことば》今いる場所で咲け 鹿砦社代表 松岡利康

《3月のことば》今いる場所で咲け(鹿砦社カレンダー2023より。龍一郎揮毫)

あっというまに2月も過ぎ3月になりました。
まさに「1月は去(い)ぬ、2月は逃げる」です。気づくと3月も去って行ってしまうかもしれません。
春はもうすぐやって来ます。

コロナ禍で多くの人たちの生活が変わりました。
それまでの日常が一変した方もおられます。
私(たち)もそうです。

「今いる場所」から逃げたくなることも何度もありましたが、どこに逃げたらいいのか迷うまもなく年は過ぎて行きました。
「隣の芝生は良く見える」で、「今いる場所」よりも良い所があるかのように錯覚することもあります。

しかし、「隣の芝生」も実際には、「今いる場所」よりももっと厳しいかもしれません。むしろそのほうが多いです。
それならば、「今いる場所」で頑張って花を咲かせるしかありません。
私たちに逃げる所はありませんから──。

「今いる場所」も、今は冬枯れしていますが、頑張れば必ず花は咲きます。
これまで幾度となくそうでした。
春はもうすぐやって来ます!

(松岡利康)

月刊『紙の爆弾』2023年3月号

ロックと革命in京都1964~70〈05〉裸のラリーズ、それは「ジュッパチの衝撃」の化学融合 若林盛亮

◆音楽界にゲバルトをかける!

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと!──。「山﨑博昭の死」は私にそのことを教えてくれた。

「志」のようなものの芽生え? 向かうべき方向性が見えた、そんな感じだった。

だからといって当時の私に明確な志や行動目標があったわけじゃない。学生運動家が神々しく見えたといってもそれは私とは距離がありすぎた。「10・8羽田闘争」に共感はしても、ベトナム反戦、反安保というスローガンが自分の志になるには私はまだ政治的にあまりに幼すぎた。漠然と「戦後日本はおかしい」くらいじゃ、政治活動にはならない。一言でいって私にはまだ「学生運動の敷居」は高かった。でもそれに近づきたかったし、社会を革命する行動のとれない自分に焦れていた。

1967年10・8闘争はその後も11・12羽田闘争、佐藤首相訪米阻止闘争へと続き「権力の暴力に立ち向かう」意思表示として「ヘルメットとゲバ棒」は、新しい学生運動の誕生を象徴するものとして「戦後民主主義に疑問」の私たち戦後世代の若者の心を捉えていった。それは翌年1月の佐世保闘争(米原子力空母寄港阻止)、その後の東大、日大全共闘結成で頂点に達する……それは後日のこと。

そんな私の1967年晩秋、たぶん11月頃、同志社学生会館ロビーで所在なげに座っていた私に近づいてきた二人の長髪同志社大生、この二人は水谷孝、中村武志 ── この運命的な出会いが次の私の革命への一歩になろうとは! 

彼らからどう話しかけられたかは「記憶に遠い」。なぜ私に話しかけてきたのか? この時のことを中村武志は後にこう語っている。

「結成時のことねぇ……、まず水谷氏とは大学の軽音同好会で出会った。とにかく彼は当時まだ少なかった長髪でカッコよく、独特の雰囲気を持っていて一目で魅了された。たぶん僕から“一緒にバンドをやらないか”って声をかけたと思う。で、ベースとドラムを探さなきゃ、誰かカッコいいやつはいないか、ということになって一緒にキャンパスを探し、若林さんを見つけた。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

当時、私の長髪は肩にまでかかる真ん中分け、細身の黒のコーデュロイ上下、上着は5つボタンの袖がボタンで絞れるカーナビー風ファッション、しかも「お婆ちゃんの鼈甲(べっこう)丸眼鏡」風サングラスに黒ブーツ、全身これ「黒」で決めていた。同志社キャンパスでは嫌でも目立ったと思う。自分で言うのは何だが「誰かカッコイイやつ」という水谷、中村のおメガネにかなわないはずがない、「お顔」はともかく長髪が醸す雰囲気だけは「誰よりカッコよく決める」を自負していたから……一種の私の革命。

水谷、中村とは最初の出会いで瞬時に意気投合した。彼らと話しこんだのはだいたい以下のような感じ、多分に私の主観が入ってると思うけれど……。

いまロック界にも革命が起こっている。「へイジョー」、「紫の煙」のジミ・ヘンドリックスやピンク・フロイドは圧倒的な音の壁を作りだし、“Somebody to Love”がヒットのジェファーソン・エアプレーンはサイケデリックな映像も駆使した幻想的なライブを演出していた。


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Hey Joe (1967)


◎[参考動画]The Jimi Hendrix Experience – Purple Haze – LIVE (1967)


◎[参考動画]The Jefferson Airplane – Somebody To Love (Smothers Brothers, May 7 1967)

それはビートルズ「抱きしめたい」の頃とは完全に異次元のロック。エレキギター、ベースなど電子楽器の駆使であんな音が出せるのだ! ロックの可能性、革新に関する3人の想い、感覚は完璧に共鳴した。当時の日本のロックと言えば、グループ・サウンズ全盛、音楽業界が作りだした商業主義のアイドル・グループばっか、あんなのはロックじゃない。こんな日本の音楽界にゲバルトをかける(ゲバルト=戦闘)! 日本のミュージック・シーンを革命する! 誰のものでもない、自分だけのものを! 

これが私のハートに火を付けた。話す口調はぼそぼそ、でも3人の心と魂はギラギラ。

中村武志は当時を振り返ってこうも語っている。よく雰囲気を伝えているので少し長いが引用する。

「話をしてみると、彼(若林)も僕らと同じような音楽を聴いていて、ただ、楽器は何もしたことがない。でもベースやれ、と。つまり最初から楽器のテク以上に、感性や理念が大事だったってこと。……バンド名も含めて、“日本語でオリジナルをやる”っていうのは、最初から絶対にあった。当時、グループサウンズとかは日本語だったけれども、本当にロックを日本語でやるバンドはいなかったから。水谷さんは詩人で、すでに歌詞を書いていたし、それをロックでやりたかった。」(HP「Takashi MIZUTANI 1948-2019」

水谷、中村も「ジュッパチの衝撃」体験者。同志社軽音サークル時代の友人、久保田麻琴(「夕焼け楽団」など主宰)によると、水谷はこんな感じで軽音サークルを飛び出した。

「半年ぐらいで軽音辞めちゃって。気が付いたら、街をヘルメットかぶって、歩いてた。……学生運動にならって、演説っぽい、この軽音楽部は自己批判しろ、みたいな、そんなこと言って退部していった」(「ロック画報」25号 特集:裸のラリーズ)

1967年晩秋の同志社学館での出会いと意気投合、それは三人三様の「ジュッパチの衝撃」、それが化学融合を引き起こした一事変、ある意味これが「裸のラリーズ」の萌芽、その原点。私は勝手にそう思っている。

◆「“らり~ず“でいいのだ」、「”裸のまんま“で行こう!」

同志社学館での意気投合後、バンド結成をめざした3人だが音楽はやらず、3人でつるんでるだけの時間が多かった。私はベースギターすら持ってなかったし、ましてやギター素人だから練習しなきゃとも思わなかった。彼らもそれを要求もしなかった。

ある意味、3人の意思の統合、バンドの方向性の模索期。

中村武志の言葉を借りれば、こういうことだ。

「最初期のメンバーでミュージシャンとして通用するのは水谷さんだけ。僕らはミュージシャンになりたかった訳ではなくて、バンドをやりたかった」(「京都新聞」2022年5月4日付け)

当時、中村は「志望はカメラマン」とも言っていた。

 
「LES RALLIZES DENUDES“FRANCE”DEMOS」

水谷はこんな風にも言っている。フランス在住時の水谷と音楽評論家・湯浅学のファックス会話の一部、全く公式発言のない水谷の希有な資料だ。

「当時、水谷は(現在もそうだが)友人もしくはお仲間はどちらかと言えばミュージシャンより、絵描き、詩人、カメラマンと称する様な連中が大半。モダンジャズの店(“しあんくれ~る“だろう)にたむろしていた。こちらがもし何かに影響を受けたとしたなら、彼らとの遊び、会話、その他諸々からである筈だ。それらは常に刺激的であった。また、常に刺激的であるべきだ」(水谷×湯浅学ファクシミリ交信-1991)

私たち3人はミュージックだけでつながっていたわけじゃないということだ。

「鏡よ鏡、世界でいちばんカッコイイのは誰? それは裸のラリーズ」

こんな呪文が3人の信条。むろん誰も口に出したことはない、でも心は確実にそれだった。

水谷、中村、そして私、この長髪最尖端3人組がつるんで歩くだけで「空気が一変する」、要するにグループとしてとてもカッコイイ。京都の街を3人が歩くときは周囲を睥睨(へいげい)、「下にい、下にい……」の大名行列気分。無意識の意識、あくまでいま思えばという私の主観。それは単なるナルシズムかもしれないし、世間的には傲慢この上ない連中、「鼻につくヤツら」だっただろう。

なにかを声高に議論したこともなければ、そもそも会話自体とても少なかった。水谷の用語は「イカしてる」と「イカさない」、つまりカッコイイかカッコ悪いか、この二つで事は足りた。日常会話なんてダサイ、阿吽(あうん)の呼吸、最低限必要な言葉で成り立つ不思議な「黙示録」グループだった。

恰好にもこだわった。ロック界を革命する人間は誰よりも「イカしてる」、カッコイイ人間でなければならない。

当時、男物のない花柄のシャツがほしくてデパートの婦人服売り場を物色したり、野性味がほしくて米軍放出品の中古着屋をのぞいたりした。私は戦闘服とザック製や強化ビニール製の軍用ショルダーバックを買った。彼らもなにがしかのものを買った。

こんな3人が化学反応すればすでに「新しいバンド」の方向性は決まったも同然。

バンド名「裸のラリーズ」命名経緯についてはよく質問を受ける。

バンドが有名になってから命名に関するいろんな議論が交わされたと聞く。よく言われるのがウィリアム・バロウズの「裸のランチ」が由来だとかetc……。でもそんなややこしいことを考えて命名されたわけではない。事実は至って単純だ。

肌寒い初冬のある日、たしか「モップス」だったか何かの公演を「視察してやろう」とかで夜の京都の街を徘徊していたときに突然として産まれたものだ。別にバンド名を考えようなんて議論をしていたわけじゃない。

3人はハイミナールをやっていて精神ハイ、いわゆる“らりって”た。突然、「俺たちは“らり~ず”」! 的なことを誰ともなく言ったのがきっかけ。私? 水谷? 中村? 記憶はぶっ飛んでいる。“らり~ず”だけじゃ物足りないし語呂も悪い、なら“裸”はどう? 素(す)のまま、飾りっけなし、裸のまんま!-で、「裸のらり~ず」。 

“らりって”て何が悪い!?-「“らり~ず”でいいのだ」、「“裸のまんま”で行こう」! まあそういうことだったのかなあと思う。

正直、この辺の前後事情はまったくの「感じ」でしかない。いわば突然のひらめき、あるいは「神の啓示」としか言いようがない。霊感と言った方がいいのかも知れない。

この時から自分たちを「裸のらり~ず」と称するようになったが、私はこの命名だけで全世界を獲得した気分だった。そんな高揚感を持ったのは事実だ。

いま思えば、この「裸のらり~ず」という命名は「詩人」仁奈さんから教えられた「イメージの言語化」、その賜物かも知れない。たぶんそうだ。

当時の私の感覚では平仮名の「らり~ず」、いまは「裸のラリーズ」で通っているがカタカナの「ラリーズ」じゃ英語の「ラリー」、自動車レースみたいな語感で「らりってる」という着心地がしない。水谷が“Les Rallizes Denudes”とわざわざフランス語表記にしたのもそんな事情からかも知れない。このフランス語の語感は水谷風に言えば、「最高にイカしてる」。でもそんな解釈論議はどうでもいいこと、辞めた私があれこれ言うことではない。

◆萌芽期 ──「裸のラリーズ」の始動

ベースギターは冬に入ってようやく買った。安物だが黒のまあまあカッコイイもの、水谷の知り合いの楽器屋のおばさんに月賦にしてもらった。時折いじくる程度でそれほど練習した記憶はない。バンドの集まれる練習場もなかったが、それを求めようと焦ってもいなかった。

ようやくバンドの練習場が見つかったのは、翌年の2月頃。町内野球チームでバッテリーを組んだ私の幼なじみが草津駅前に百貨店を開き、国道1号線脇に作った倉庫を「これ使えや」と貸してくれることになった。そこに小さなアンプとギターを持ち込み、練習場とした。文字通りのガレージ・ロック。

私はナッシュビル・ティーンズのヒット曲「タバコロード」のベース音を練習曲にした。けっこう曲がカッコよくて初心者にも弾きやすかったからだ。水谷は足踏み式のワウワウペダルを使って音の歪みを試したりしていた。それぞれが勝手にやって3人で音合わせをするということはしていない、まだそのレベルじゃなかった。


◎[参考動画]タバコロード ナッシュビルティーンズ 1964

その頃だと思うが、同志社写真部にいた知り合いの女性が部主催ダンスパーティの演奏をやらないかと私に持ちかけてきた。私は「いいよ」と答え、水谷、中村も「やろう」となった。3人で音合わせも、やる曲の打ち合わせも事前練習もなし、そんな具合でずいぶん無謀な出演だったけれど、私も含めて何の心配も躊躇もなかった。これが初めてのバンドとしてのデビューと言えるが、ずいぶん無茶をやったものだと思う。

どんな曲をやったか全く記憶にない。ただ私がなぜかヴォーカルをとったローリング・ストーンズの“As Tears Go By”(涙あふれて)をやったことだけは覚えている。


◎[参考動画]As Tears Go By – The Rolling Stones 1966

たぶん演奏はハチャメチャだっただろう。案の定、場はシラケにシラケてみんなダンスをやめた。ただ数人の私たちのサポーターだけが勝手に踊ってくれていた。私たち3人はといえば「ダンパがつぶれてざまあ見ろ」の傲慢姿勢、そもそもダンス・パーティなどというもの自体、私たちのバンドとは対極のものだった。最初っから「ゲバルトをかけてやれ」くらいのつもりで引き受けたのかも知れない。出演を斡旋してくれた写真部女子には悪いことをしたと思う。

でもその写真部女子には「写真展に出品する作品のモデルになってくれない?」とまた頼まれて「おう、面白いね」と受け、大津市郊外の琵琶湖畔で3人の撮影会をやった。琵琶湖の西を走る単線「江若鉄道」の線路を背景にしたり、けっこう雰囲気のある写真が撮れた。写真展後、その彼女から線路に座る米軍古着戦闘服姿を捉えた私の大きなモノクロ写真パネルをプレゼントされた。天衝く意気だがまだ何ものでもない当時の「ラリーズ」の雰囲気をよく表しているとてもいい写真だった。彼女には心から「ありがとう」と言った。

いま国内のみならず海外でも一部に熱狂的なファンを持つバンドだから、「裸のラリーズ」萌芽期を捉えた彼女の大量のフィルムはファン垂涎の超「お宝写真」になったはず。事実「そのフィルムなんとか入手できないか?」という記者からの問い合わせも受けた。友人から聞くところによるとその写真部女子は2年ほど前に故人となり、彼女と共にその「お宝映像」も天国に召された。

この時期の唯一とも言える写真が存在する。

それは大学の春休みだったか3月頃、3人で鈍行列車東京遠征をやった時のものだ。遠征目的は「東京の音楽シーン」視察。ロックバンドの出演する劇場などを視察したが「どうってこともないロックだな」というのが3人の評価、新宿紀伊国屋ビルのピットインではモダンジャズの生演奏を聴いたりもしたがこれは刺激的だった。

 
「裸のラリーズ」萌芽期の水谷、若林、中村(下から上へ/『カメラ毎日』1968年6月号掲載)

視察後の夜を新宿の深夜喫茶で過ごしている私たちを見かけ話してきた人物があった。彼は写真家で私たち3人をモデルに撮影したいということだった。私たちは「いいよ」と答え、翌日、彼のスタジオや青山の外国人邸宅のような庭で撮影をやった。プロのカメラマンの依頼だから喜んでいいはずだが、「カッコよく撮れよ」というような対し方だったと思う。

その写真家の名前は大森忠、彼の作品は「グループ」との表題で『カメラ毎日』6月号にモノクロ写真3枚が掲載された。暗くしたスタジオで撮影され、ライトアップで暗闇から浮かび上がるようにピントもぼかし3人を捉えたその中の一枚は、萌芽期「裸のラリーズ」の匂いが香り立つような仕上がりになっている。日本の知り合いのカメラマンから送られたその写真はいま私のお宝映像、あの頃の3人の心意気を時折、切なくも懐かしく思い出させるものだ。

このように1968年は「裸のラリーズ」がバンドとして芽吹く季節として明けていった。

他方、この年初頭の1月には佐世保闘争があり、「プエブロ号事件」直後の朝鮮に向かう米原子力空母「エンタープライズ」寄港阻止の激しい闘いは警察機動隊の過剰な暴力を生み多くの重軽傷者を出したが、これが学生たちへの佐世保市民の大きな共感と支持を呼んだ。片や東大では医学部闘争が激化、これが全学に拡大し東大全共闘を生み、日大がそれに続き党派によらない学生大衆による学生運動、全共闘運動が誕生、1968年は熱い政治の季節に入ってゆく。

この年、「21歳の革命」に向かう渦中にあった私もこれに無縁ではいられなかった。1968年は私に再び大きな転機を促す年となる。(つづく)


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes – Enter the Mirror


◎[参考動画]Les Rallizes Denudes ’67-’69 Studio Et Live

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)
『一九七〇年 端境期の時代』

官製談合発覚で疑惑のデパート化する広島県教育委員会へ筆者らが申し入れ!「君、平川教育長に振り回され、討ち死にすることなかれ」 さとうしゅういち

「文春砲」を契機に、ご出身地・京都のNPO法人「パンゲア」との官製談合事件が発覚。ご自身が外部の弁護士に依頼した調査でも、地方自治法違反、官製談合防止法違反が認定された広島県の平川理恵・教育長。

その後、大阪の「キャリアリンク」や、児童文学評論家の赤木かん子さんとの不適切な取引など、疑惑のデパート状態となっていました。
※参照記事 http://www.rokusaisha.com/blog.php?p=45815

その平川教育長は、2月21日(火)、部下の当時課長級だった職員を不適切な契約に関与したとして戒告処分としました。そして、ご自身は給料3割を2か月返納することを表明し、教育長を続投することを表明しました。
 
◆図書館リニューアル、違法性はないが図書館の自由に関する宣言違反だ

この日、県教委が公表した内部調査結果では、県立学校の図書館リニューアル事業の指導を依頼している児童文学評論家の赤木かん子氏(東京)との取引に「違法性はない」と結論付けました。

ただ、赤木さんが関わった15校で、改装に伴い11万冊余りの蔵書を廃棄しています。

高校の先生などからは、廃棄した図書の代わりに小学生向けの赤木氏の著書を購入させられたなどといった不満の声が出ています。それはそうです。高校生が利用する図書館で、小学生向けの本を入れられても困ります。

赤木さんとの契約は、表面上は、法律違反では無いのかもしれません。しかし、全ての図書館の基礎となる「図書館の自由に関する宣言」には違反しています。

第1の2の(4)個人・組織・団体からの圧力や干渉によって収集の自由を放棄したり、紛糾をおそれて自己規制したりはしない。

まさに、県教委という組織、あるいは教育長とその腹心の圧力や干渉によって県立学校の学校図書館の図書館としての在り方を覆したわけです。

「人手がいなくて学校図書館自体のメンテナンスが進んでいない。傷んだ本も放置されていた。だから、図書館のリニューアルは必要だった」と教育長を擁護する方もおられます。

しかし、それなら、学校司書を例えば正規雇用で充実させるなどすれば良いのではないでしょうか?パンゲア、キャリアリンク、赤木かん子さんなど、県外にお金を渡すよりも、学校司書という形で県内に雇用を増やした方が、全国ワーストワンを記録し続ける広島の人口流出阻止にも資するわけです。

◆春闘の一環で教育委員会に申し入れ

2月24日、筆者らは、「ヒロシマ地域総行動」の一環として、広島県教委にも申し入れを行いました。このヒロシマ地域総行動は、毎年2月下旬くらいのこの時期、筆者も所属する広島県労連を含む県内の労働組合や市民団体などがいわゆる「春闘」の一環として、街頭で労働者・市民にアピールしたり、役所や企業、経営者団体と交渉したりするものです。

筆者は、この日は、「県教委『官製談合疑惑』をただす市民の会」の今谷賢二さんらと一緒に、県教委に向かいました。

県庁OBとして、平川教育長の横暴が許せないからです。もう一つは、平川教育長のまるで後醍醐帝のような横暴に振り回されている現場の先生や県教委の職員の皆様のことも、心配だからです。

対応されたのは、広島県教育委員会事務局管理部総務課秘書広報室長でした。

筆者らが2月24日に広島県教委に提出した申し入れ書
 
県教委の入っているビルの案内板

まず、教職員組合の方からは「少人数学級を早く拡大してほしい。広島県はいまや全国に後れをおっている」「先生の負担が増えないよう、ICT専門スタッフを拡充してほしい」「病休、介護休、産育休で教育に穴が開くことがないよう、代員を迅速に配置してほしい」などの切実な要望が出されました。

また、受験生の娘を抱える女性団体の方は「県立高校を安易に統廃合するのではなく、地元で安心して学べるよう存続を。」と訴えました。

筆者は、教育長の不正について要望。

「パンゲアの問題では不適切な契約に関与したとして部下が処分されたが、これは平川教育長の名前でされている。一番問題な人の名前でされている。」

「高校の先生がこの間、盗撮などで何人か懲戒免職になっているが、これも平川教育長の名前で処分されている。しかし、こんな問題を起こした人から処分されても締まらないのではないか?」

「赤木かん子さんとの取引は違法ではないと、県教委の報告書では言っておられる。しかし、11万冊も図書を廃棄させ、かわりに赤木かん子さんの本を買わせるとは、図書館の自由に関する宣言には違反している。違法でなければ何をしてもいいというわけではなかろう。」

「今の教育長のやっていることは後醍醐帝と一緒だ。現場を振り回しているだけで現場の先生もあなた方県教委の職員もしんどいのではないか?あなた方も、後醍醐帝に振り回された挙句、討ち死にした新田義貞や楠木正成のようにならないか、わたしは、県庁OBとして心配している。」
などと申し上げました。

元教員でもあり、教職員組合幹部を長年務められた今谷さんからも、
「教育長に不満があるから、それなりに責任ある立場の人から週刊誌などにリークがあるのではないか?」
「教育行政とはいったいどういうあるべきものか?ここに立ち返るべきだ。教育行政とは、現場が教育をやりやすいように、条件を整備していくことではないのか?上から教育の内容についてあれこれ指図をするものではないはずだ。」
「指導主事が何十人もいるのに、わざわざ外部の講師ばかり呼んでくるのもおかしいのではないか?士気が低下するのではないか?」
と畳みかけました。

また、今谷さんからは、今年から県立高校入試に導入された「自己表現」についても、
「プレゼンテーションを入試でやらせるのが、15歳という発達段階にあったものなのか?18歳の大学生がやっているからといって15歳でそれも入試の評価対象としてやらせるのは違うと思う。」
と苦言を呈し、筆者からも、
「広島の学校では、【寒い日でもジャンパーを着てくるな】という教育をずっとやっていたと先日ニュースで知りびっくりしている。そんな教育をずっと受けてきた子どもたちにいきなり、アメリカンなプレゼンテーションをさせる、というのは無理があるのではないか?」
と訴えました。

室長も、終始恐縮をされていました。

◆これで教育長を放免してはいけない

残念ながら、教育長も知事も、一連の事件についてこれで幕引きを図ろうとしています。本来ならば、教育長自ら同じビルの県警に自首すべき案件です。あるいは、知事が教育長を罷免した上で刑事告発するべき案件です。

また、自民、公明、立憲、国民などのいわゆる知事与党の県議も、表面上は教育長を批判しながらも、教育長の退陣までは求めていません。他の自治体では、教育長に問責決議を出した例もあります。(発議第四号 徳山順子教育長に対する問責決議について

だが、広島県議会ではそういう動きも見られません。

今後とも、筆者は、「現代広島の後醍醐帝」と化した平川教育長の退陣と事件の全容解明を求めていきます。そして、知事の湯崎英彦さんによる任命責任を追及していきます。

その上で、教育行政の在り方を、現場に上からあれこれ弄りまわすのではなく、現場がやりやすいように支援していくものに切り替えるよう提言していきます。また、県議選2023で当選した場合には、当然、議会で上記の方向でがんばっていきます。

▼さとうしゅういち(佐藤周一)
元県庁マン/介護福祉士/参院選再選挙立候補者。1975年、広島県福山市生まれ、東京育ち。東京大学経済学部卒業後、2000年広島県入庁。介護や福祉、男女共同参画などの行政を担当。2011年、あの河井案里さんと県議選で対決するために退職。現在は広島市内で介護福祉士として勤務。2021年、案里さんの当選無効に伴う再選挙に立候補、6人中3位(20848票)。広島市男女共同参画審議会委員(2011-13)、広島介護福祉労働組合役員(現職)、片目失明者友の会参与。
◎Twitter @hiroseto https://twitter.com/hiroseto?s=20
◎facebook https://www.facebook.com/satoh.shuichi
◎広島瀬戸内新聞ニュース(社主:さとうしゅういち)https://hiroseto.exblog.jp/

月刊『紙の爆弾』2023年3月号

わかりやすい!科学の最前線〈05〉生物種の生存圏 安江 博

読者の方は「生存圏」という言葉は、耳慣れないかもしれません。他の言葉に置き換えると生活圏といえるかもしれません。ヒトを例にとると、その生存圏、あるいは生活圏はヒトが住んで生活をしている空間を意味します。もう少し、文学的な表現で例えれば「ヒトの匂いのするところ」ということになりますでしょうか。英語にすると空間を意味するsphereにヒト、humanをくっつけてhumanosphereと現されると思います(英語の単語にhumanosphereはありませんが、おそらく科学的な基礎知識を持った人であれば、意味は理解されるでしょう)。

このヒトの生存圏の範囲をどのようにDNA的に定義したらよいでしょうか? ヒトは生活しているとその周りに、「ふけ」、「抜け毛」などの、死細胞片を無意識にばらまきながら生活しています。つまり、その人のDNAはその人の行動範囲に無意識にばら撒き続けられているのです。このことを示す私の興味深い経験をご紹介しましょう。

私が昔、農林水産省に在籍し、同省の研究機関で研究に従事していたしていた時のことです。昔も今も、乳牛を効率的に生産するため、卵子を採取し、体外で受精させて、雌牛の子宮へその受精卵胚を移植することは日常的に行われています。乳牛を効率的に再生産するためには、生まれてくる子牛は、雌であることが必須です。そこで、受精卵胚から、一部の細胞のDNAを調製し、PCR(Polymerase Chain Reactionの頭文字の略で、これを用いることにより、特定の配列を何百万倍に増やすことが出来ます)でオスかメスを判定できるかどうかをテストしていました。

その際に、用いた配列はSRY遺伝子と呼ばれる配列でオスに特異的な配列でした。この配列が検出されれば、その受精卵胚は、オスと判断され無価値になります。従って、この判定は、乳牛の受精卵胚移植で極めて重要なプロセスです。そのオス/メス判定の研究に、男性の研究員が携わっていました。判定結果は、検査した受精卵胚全てオスと判定されてしまったのです。普通は、オス/メスは概ね5:5になる筈です。

いろいろ検討した結果、SRY遺伝子はほ乳類共通ですので、男性研究員の細胞片(DNA)が解析対象となった牛受精卵試料に混入したためだと考えました。そこで、その研究員にシャワーを浴びてもらい、且つ、防塵服を着てもらって、再度判定してもらった結果、メスの受精卵胚も検出されました。

この例から、人の行動と共に、その周辺にその人のDNAを「まき散らして」いることが確実になりました。このことは他の生物種でも同じことだと考えられます。こうした経験と推測を踏まえて、特定の地域の大気中の生物のデブリ(空気中に浮遊している生物の細胞片、DNA)を集めて、そのDNAを調べれば、「調べようとしている生物種がその地域で生存圏を形成しているかどうか」が明らかになると推定しました。

例えば、調査対象をドブネズミにしたとします。しかし、ドブネズミは夜行性で、昼間、その生息を確認することは非常に難しいと思われます。そこで、その地域の大気中のデブリを解析することを考えるのです

◆大気中の生物デブリの捕集装置の開発

生物デブリの捕集装置としては、出来るだけ大容量の空気をろ過し、そして、デブリを効率よく”フィルター”に捕集する必要があります。フィルターに効率よく集めるためには、網目の細かいフィルターを用いることが重要ですが(図3.1、サイト1)、細かいほど抵抗が大きく、空気のろ過量が落ちてしまいます。フィルターについていろいろ検討した結果、フィルターは、HEPAフィルター (0.3 µmの粒子に対して99.97%以上の粒子捕集率)のフィルターを使うことにしました。

因みに、コロナウイルス感染防止のために、医療者が使用しているマスクのフィルターは、N95と呼ばれる規格の物です。N95は0.3 µmの粒子に対して95%以上捕集することを意味しています。医療者がHEPAフィルターを使えば、さらに安全性が上がりますが、HEPAフィルターは、空気通過抵抗が大きく普通のマスクシステムではこれを装着していると呼吸ができません。

装置の外骨格は、3Dプリンターで作製し、空気流量計とマイコンを組み込んで、一定量の空気をろ過すると停止するシステムを構築しました。大気中の生物デブリ捕集装置の完成品は、図3.2に示しました。

図3.1と図3.2

◆大気中の生物デブリ捕集装置を用いて、生物の生存圏を調べることはできるのか?

このことを確認するために、つくば遺伝子研究所の近くにある養豚場から420メートル離れたところで、大気中の生物デブリを捕集しました(図3.3)。そして、捕集したデブリからDNAを抽出し、ブタを検出するプライマーを用いて、抽出したDNAの中に、ブタのDNAが存在するか(ブタのデブリが存在するか)を調べました。

図3.3

その結果、図3.4に示しました様に、養豚場から420メートル離れたところの大気中の生物デブリから、ブタを検出することが出来ました。この結果から、大気中に浮遊する生物デブリのDNAを解析することで、その付近の環境に生息する生物種を明らかに出来ることが判りました。もし、ある地域の大気中の生物デブリを解析すれば、その地域で問題としている生物種がどの程度いるかを調べることができると思われます。

図3.4

次号では、外来種であるアルゼンチンアリ、そして、衛生上の問題があるドブネズミの解析についてご紹介します。

【文献】

サイト1)https://www.env.go.jp/council/toshin/t07-h2102/01-1.pdf

◎安江 博 わかりやすい!科学の最前線
〈01〉生き物の根幹にある核酸
〈02〉ヒトのゲノム解析分析の進歩
〈03〉DNAがもたらす光と影[1]
〈04〉DNAがもたらす光と影[2]
〈05〉生物種の生存圏

◎[過去稿全リンク]わかりやすい!科学の最前線 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=112

▼安江 博(やすえ・ひろし)
1949年、大阪生まれ。大阪大学理学研究科博士課程修了(理学博士)。農林水産省・厚生労働省に技官として勤務、愛知県がんセンター主任研究員、農業生物資源研究所、成育医療センターへ出向。フランス(パリINRA)米国(ミネソタ州立大)駐在。筑波大学(農林学系)助教授、同大学(医療系一消化器外科)非常勤講師等を経て、現在(株)つくば遺伝子研究所所長。著書に『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』(鹿砦社)等

安江博『一流の前立腺がん患者になれ! 最適な治療を受けるために』

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846314359/
◎鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?group=ichi&bookid=000686
四六判/カバー装 本文128ページ/オールカラー/定価1,650円(税込)

NKB王座、二人の世代違い新チャンピオンが誕生!野獣シリーズvol.1 堀田春樹

今回は年齢層の幅広い、ヤング対決と中年対決の存在感示したタイトルマッチ。カズ・ジャンジラと杉山空が戴冠。

WPMF世界王座獲得経験者同士のベテラン対決は片島聡志が一瞬のハイキックでテクニシャン藤原あらしを倒しました。

◎野獣シリーズvol.1 / 2月18日(土)後楽園ホール17:30~20:20
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会

◆第9試合 第16代NKBウェルター級王座決定戦 5回戦

3位.笹谷淳(team COMRADE/1975.3.17東京都出身/ 66.6kg)
62戦29勝(10KO)31敗2分
      VS
4位.カズ・ジャンジラ(ジャンジラ/1987.9.2東京都出身/ 66.4kg)
41戦20勝(4KO)16敗5分
勝者:カズ・ジャンジラ / 判定3-0
主審:前田仁
副審:亀川47-50. 鈴木47-50. 高谷47-50
※各戦績はこの日の結果を加えています。

笹谷淳vsカズ・ジャンジラ、ヒジ打ちと左ストレートの交錯
飛びヒザ蹴りを見せたカズ・ジャンジラ

47歳と35歳の戦い。両者は過去2020年10月10日に対戦し、カズ・ジャンジラが僅差ながら判定勝利している。

初回、ローキック中心にパンチを合わせて出ていく笹谷淳。第2ラウンドには組み合う接近戦が増え、カズの圧力が徐々に増していく中、第3ラウンドにはカズの左フックがヒットして完全に主導権を奪う。

笹谷は下がり気味の展開でも打ち返し、カウンターのヒジ打ちも返すが、カズの手数と前進は衰えず、計4度の飛びヒザ蹴りも見せたが、ノックダウンに至るヒットは見られず判定まで縺れ込んだ。採点は3ラウンド以降全て、カズが支配した流れでジャッジ三者とも50-47が付いた採点。カズ・ジャンジラが新チャンピオン。

◆第8試合 第8代NKBフライ級王座決定戦 5回戦

1位.龍太郎(真門/2000.12.25大阪府出身/ 50.6kg)11戦4勝(1KO)6敗1分
      VS
2位.杉山空(HEAT/2005.1.19静岡県出身/ 50.65kg)7戦4勝1敗2分
勝者:杉山空 / 判定0-2
主審:加賀見淳
副審:高谷49-50. 鈴木49-49. 前田47-50

22歳と18歳の戦いは、初回から蹴りの主導権争いから首相撲に移ると杉山の崩しが優勢な流れを作り、前蹴りから繋ぐ技が上回った杉山空が主導権を維持した流れで勝利を導き、新チャンピオン。

王座に就いて「これからがスタート」と言うとおり、団体枠を越えたトップスターへ進まねばならない。

幾つかの飛び技など大技も見せた杉山空
前蹴りが効果的だった杉山空
片島聡志の右ハイキックがヒットした直後、藤原あらしが倒れかかる直前

◆第7試合 54.0kg契約 5回戦

藤原あらし
(元・WPMF世界スーパーバンタム級Champ/バンゲリングベイ/1978.12.22和歌山県出身/ 53.8kg)
98戦63勝(41KO)24敗11分

      VS
片島聡志
(元・WPMF世界スーパーフライ級Champ/KickLife/1990.10.19大分県出身/ 53.95kg)
52戦27勝(KO数は不明)20敗5分

勝者:片島聡志 / TKO 2R 2:55
主審:亀川明史        

藤原あらしは昨年12月24日に続いて連続出場。

則武知宏(テツ)をKOしたムエタイ技でしぶとさを見せるか注目の中、初回、両者の蹴りからパンチでの様子見。

第2ラウンド終盤、それまでの落ち着いた流れから片島のいきなりの右ハイキックで藤原あらしのアゴにヒットするとバッタリ倒れ、ノーカウントでレフェリーストップ、そのまま担架で運ばれるも、後に控室で意識はしっかり回復した様子。

ノックアウトした瞬間の片島聡志
勝利した片島聡志と陣営

◆第6試合 59.0kg契約3回戦

NKBフェザー級4位.矢吹翔太(team BRAVE FIST/1986.8.2沖縄県出身/ 58.85kg)
14戦10勝3敗1分
      VS
KEIGO(BIG MOOSE/1984.4.10千葉県出身/ 58.75kg)20戦7勝8敗5分
勝者:矢吹翔太
主審:高谷秀幸 / 判定3-0
副審:加賀見30-29. 前田30-29. 亀川30-28

蹴りから組み合って首相撲に持ち込んだ矢吹翔太のヒザ蹴りがKEIGOのスタミナを奪い僅差ながら判定勝利。

ノックアウトした右ストレートカウンターの小清水涼太

◆第5試合 62.5kg契約3回戦

蘭賀大介(ケーアクティブ/1995.2.9岩手県出身/ 62.45kg)5戦3勝(3KO)1敗1NC
      VS
小清水涼太(KINGLEO/1999.3.30富山県出身/ 62.1kg)4戦3勝(2KO)1敗
勝者:小清水涼太 / TKO 1R 1:05 /
主審:鈴木義和

蹴り合いから接近した中での小清水涼太の右フックカウンター一発で倒すとカウント中のレフェリーストップ。蘭賀大介はマットに頭を打ち付けたか、担架で運ばれる衝撃の結末となった。

◆第4試合 バンタム級3回戦

シャーク・ハタ(=秦文也/テツ/1987.10.20大阪府出身/ 52.9kg)6戦3勝2敗1分
      VS
田嶋真虎(Realiser STUDIO/2002.6.28埼玉県出身/ 53.45kg)1戦1敗
勝者:シャーク・ハタ / 判定2-0 (30-27. 30-28. 29-29)

◆第3試合 バンタム級3回戦

橋本悠正(KATANA/1997.4.21福島県出身/ 53.5kg)3戦2敗1分
      VS
香村一吹(渡邉/2007.2.22東京都出身/ 53.2kg)1戦1勝
勝者:香村一吹 / 判定0-3
主審:前田仁        
副審:亀川27-30. 加賀美27-30. 高谷27-30

◆第2試合 フェザー級3回戦

堀井幸輝(ケーアクティブ/1996.11.7福岡県出身/ 56.7kg)2戦2勝
      VS
KATSUHIKO(KAGAYAKI/1975.11.13新潟県出身/56.9kg)3戦1勝(1KO)2敗
勝者:堀井幸輝 / 判定3-0 (30-27. 30-27. 30-27)

◆第1試合 ライト級3回戦

青山遼(神武館/1999.2.5埼玉県出身/ 60.65kg)2戦2敗
      VS
猪ノ川海(大塚道場/2005.9.3茨城県出身/ 60.35kg)1戦1勝(1KO)
勝者:猪ノ川海 / TKO 1R 1:47 / カウント中のレフェリーストップ

チャンピオンベルトを巻いて感慨無量のカズ・ジャンジラ

《取材戦記》

47歳で王座挑戦となった笹谷淳。敗れたが、これが最後の挑戦となるかは微妙。チャンピンとなったカズ・ジャンジラが「穴なので!」と挑戦者を募るとおりの狙い易さはあるだろう。

NKBフライ級タイトル戦は、2010年4月24日以来、ほぼ13年ぶりの開催。選手層の薄さが原因だが、活気が増してきた日本キックボクシング連盟に於いて、NKB全階級で定期的(期限内)にタイトルマッチを活性化させることが、この連盟の基盤となる部分かと思います。現在は極力高額の賞金トーナメントの方が盛り上がるとも言える時代の流れかもしれませんが。

片島聡志は昨年9月25日にNJKF興行で波賀宙也(立川KBA)に3ラウンド制判定負けしいているが、そこから原点のムエタイスタイルに返った戦略が今回活かされたか、藤原あらしの首相撲に持ち込まない流れで勝機を見出しました。

古き昭和の頑固気質を持つ渡邉ジムから令和の新星、この日まだ15歳の高校一年生、香村一吹がデビュー戦を判定勝利で飾りました。決して昭和の練習法という時代錯誤ではないが、渡邉会長の孫のような世代の存在は、周囲に可愛がられながら期待に応えられるか。

次回、日本キックボクシング連盟興行「野獣シリーズvol.2」は4月17日(土)に後楽園ホールで開催予定です。

新チャンピオン誕生の杉山空と陣営

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

「言論」論〈07〉犯行時少年の死刑囚にとって実名報道は不利益しかないわけではない 片岡 健

少年事件では、テレビ、新聞は通常、更生を目的とした少年法の趣旨を尊重し、被疑者の少年を匿名で報道する。ただ、例外的に裁判で死刑判決が確定した犯行時少年の被告人については、裁判が終結した段階で実名報道に変える社と匿名報道を維持する社にわかれる。

この際、前者は「死刑が確定することで更生、社会復帰に配慮する必要がなくなった」、後者は「今後、再審や恩赦が認められる可能性が全くないとは言い切れない」という具合にそれぞれ判断の根拠を表明するのが恒例だ。また、日弁連の会長や大学教授らの「有識者」も、一部報道機関が犯行時少年の被告人について死刑確定と共に実名報道したことに何らかの見解を表明するのが常だ。

だが、私はいつも繰り返されるこの光景をみていて、賛同できる意見に出会えたことがない。なぜなら、テレビ、新聞、有識者たちのいずれもが、死刑確定した犯行時少年の被告人本人にとって実名報道されることには不利益しかないと思い込み、それを前提に意見を述べているからだ。

実際には、犯行時の年齢に関係なく死刑囚にとって、実名報道されることに利益がないわけではない

たとえば、死刑囚は外部交通が厳しく制限され、親族や弁護人など一部の特別な人以外の人とは面会や手紙のやりとりができない。しかし、死刑囚に対しても、「本人の実名」と「収容先の刑事施設」が特定できれば、金品や切手などの差し入れは誰でも可能だ。収容施設内に売店があれば、飲食物も差し入れできる。死刑囚も実名が広く社会に知られていれば、こういう利益を受けられる可能性も高まるわけだ。

こんな話をすると、「死刑囚の実名がわかっても、差し入れなんかしたいと思う人間はそんなにいないだろう」と反論したくなる人もいるかもしれないが、その認識は正しくない。実際には、死刑囚になるような人に対し、判官びいき的な思いを抱き、あれこれと面倒をみてあげようとする人は決して少なくない。それは、とくに少年事件の場合に顕著だ。

その象徴的な事例が、男性4人を銃殺した永山則夫元死刑囚や、女性2人を強姦して殺害した小松川事件の李珍宇元死刑囚のケースだ。この2人は犯行時に少年でありながら死刑囚となったが、裁判中から(つまり、死刑確定前から)有名無名の多くの人に同情され、支援されていた。そんな2人に共通するのが、少年事件としては例外的に逮捕当初からメディアで実名も容貌も報道されていたことだ。

この2人はいずれも不遇な生育歴に同情が集まったが、彼らと一面識もない人はいくら彼らに同情しても、「本人の実名」がわからなければ、彼らに手紙を出したり、面会に訪ねたりすることはできない。彼らの実名が報道されていなければ、支援の輪は広がりにくかったはずだ。

私自身は死刑囚については、犯行時に少年だったか否かにかかわらず、原則、実名で報道すべきだという考えだ。国家に生きる権利を否定された人について、匿名で記号のように伝えるのはおかしいように思うからだ。いずれにしても、犯行時少年の死刑囚を実名で報じるべきか否かを考える際には、本人にとって実名報道には不利益しかないという前提が本当に成立しているか否かをまず疑ってみるべきだ。

※著者のメールアドレスはkataken@able.ocn.ne.jpです。本記事に異論・反論がある方は著者まで直接ご連絡ください。

◎片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。YouTubeで『片岡健のチャンネル』を配信中。

月刊『紙の爆弾』2023年3月号
「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

《特別寄稿》電磁波過敏症をめぐる各国の対策 加藤やすこ

微量の電磁波で、頭痛や睡眠障害、めまい、吐き気、鼻血など多様な症状を訴える「電磁波過敏症」の人々が、1980年代以降、世界的に増えています。柔軟剤の香料や消臭剤、抗菌剤、タバコの煙、農薬、殺虫剤などで体調を崩す「化学物質過敏症」との併発率が高く、日本で行われた疫学調査では、電磁波過敏症患者の約80%は化学物質過敏症を発症しています。

日本では電磁波過敏症はほとんど知られておらず、医師にすら「思い込みだ」と誤診されることも少なくありません。一方、海外では電磁波過敏症の存在を認め、医師会が診断治療ガイドラインを発表したり、政府や政府機関が具体的な対策を発表するなど、発症者の保護を目指しています。

 
5G基地局(著者撮影)

◆アメリカでは20年以上前に障害と認定

アメリカ連邦政府は、2002年に、化学物質過敏症も電磁波過敏症も障害として認められると判断しました。これを受けて米国立建築科学研究所(NIBS)が、化学物質過敏症や電磁波過敏症の人でも公共・商業施設などを利用できるようにする指針をまとめた報告書「屋内環境品質(IEQ)」を発表しました。

IEQでは、香料や殺虫剤、洗剤などの有害影響を認め、削減を求めています。電磁波については、携帯電話や基地局、無線通信機器、蛍光灯などの電磁波によって、電磁波過敏症の人たちは建物にアクセスできなくなることを認め、電磁波をできるだけ減らすよう勧告しました。

カリフォルニア州では、学校に設置されたWi-Fiで電磁波過敏症になり、皮膚の灼熱感や動悸、疲労感などに悩まされた教師が、2018年に裁判を起こし、働けるように教室に電磁波対策をすることなどを求めました。2021年、カリフォルニア州控訴裁判所は教師の訴えを認め、この裁判が「アメリカ合衆国で『Wi-Fiで病気になる可能性がある』ことを認めた、最初の判決であることは明らかなようだ」と判決文に記しています。

◆電磁波過敏症の診断治療ガイドライン

スウェーデンも電磁波過敏症を障害として認め、ストックホルム市は発症者の住宅の電磁波対策を実施するなどの対応もしていました。

また、2000年の北欧閣僚会議では、電磁波過敏症を病気として認めることを採択しました。WHOは各国の病気や死因などを分類し、統計を取るために、国際的に統一したコード番号を疾患ごとに割り当てています。北欧閣僚会議では、電磁波過敏症に国際疾病分類(ICD-10)コードR68.8「そのほかの明示された全身症状と兆候」を用いることにしました。

オーストリア医師会は、電磁波に関連する健康問題の相談が増えていることを受けて、2012年に診断治療ガイドラインを発表しました。症状を引き起こす主な電磁波発生源や、実施すべき血液検査や尿検査の項目も示しました。また、電磁波測定の専門家に依頼して、患者の自宅や職場の電磁波を測定し、その結果を患者と医師が共有することを勧めています。

具体的な対策として、ベッドや机を電磁波の少ない場所に移動することや、コードレス電話ではなく、昔ながらの優先電話を使うことなどを示しました。

2016年には、ヨーロッパ環境医学アカデミー(EUROPAEM)が、さらに詳細な診断治療ガイドラインを発表しています。

診断方法に関する研究も行われています。アメリカ、UCLA大学のグンナー・ヘウザー博士らは、電磁波過敏症かどうかを診断する際に、機能的磁気共鳴画像(fMRI)が役立つだろう、と2017年に提案しています。

ヘウザー博士らは、30年以上前から頭痛や平衡感覚の異常など、神経学的な症状に苦しむ化学物質過敏症患者を1000人以上、診療してきましたが、近年は電磁波過敏症の患者も増えているそうです。

電磁波過敏症患者10人のfMRIを見ると、過去の記憶などの情報を処理する前頭前野が過度に活発になるという、共通した異常が確認されました。

ヘウザー博士らは論文のなかで、かつて、てんかん患者が「悪魔付き」と診断されていた歴史があり、脳波図によって、ようやく本当の病気だと認められたことに言及しています。そして「fMRIが、電磁波過敏症における脳波図の役割を果たすことを望む」と述べています。

◆EUではリスク評価と対策案を発表

ヨーロッパ議会の下部機関「科学技術選択評価委員会」(STOA)は、5G(第5世代携帯電話)の安全性を検証し、報告書『5Gの健康影響』を2021年に発表しました。5G通信では、従来の携帯電話通信でも使われてきたマイクロ波(5Gの場合、周波数3.7GHzと4.5GHz)の他に、より周波数が高く生体影響が懸念されているミリ波(5Gの場合、28GHz)も使用されています。

「科学技術選択評価委員会」(STOA)ホームページ(https://www.europarl.europa.eu/stoa/en/document/EPRS_STU(2021)690012)

STOAは、2G(第2世代携帯電話)から5Gに関する文献を調査し、周波数450MHz~6GHzのマイクロ波は「ヒトに対しておそらく発がん性がある」と結論し、男性の生殖能力に明らかに影響があり、女性の受胎能力と胚・胎児・新生児の発育にも悪影響を及ぼす可能性がある、と認めました。

一方、周波数24~100GHzのミリ波に関する研究は非常に少なく、発がん性と生殖影響を評価するだけの十分な研究が行われていない、と判断しました。そのため、STOAは「適切な研究が終わるまで5Gミリ波の導入を一時停止すること」も求めています。

また、電磁波の少ない携帯電話を開発することや、学校、職場、公共施設、住宅などに有線回線(光ファイバー)を設置し、子どもや高齢者、電磁波過敏症患者を保護することも提案しました。「タバコの禁煙区域を設けたように、電磁波の受動被曝を防ぐ」ためです。

なお、日本弁護士連合会も2012年に『電磁波問題に関する意見書』を政府に提出し、「電磁波過敏症の方々がいることを踏まえ、人権保障の観点から、公共の施設及び公共交通機関にはオフエリアを作る等の対策を検討」すること、高圧送電線や携帯電話基地局周辺での健康被害を調査することなどを求めています。

日本では、電磁波の影響や電磁波過敏症について大手メディアがほとんど報道しないので、誤解や偏見によって大勢の患者が困難に直面しています。電磁波のリスクを知り、適切に防御することで自分や家族の健康を守り、より安全な生活環境をつくれるはずです。

▼加藤やすこ(かとう・やすこ)
環境ジャーナリスト、過敏症患者会「いのち環境ネットワーク」代表。化学物質や電磁波、低周波音などの環境問題をテーマに執筆。著書に『5Gクライシス』、『スマートシティの脅威』、『シックスクール問題と対策』、『再生可能エネルギーの問題点』(いずれも緑風出版)など。訳書にザミール・P・シャリタ博士著『電磁波汚染と健康』(緑風出版)。患者会ホームページ(https://www.ehs-mcs-jp.com)では、オーストリア医師会ガイドラインを含め、海外の研究の訳文を多数掲載。

最新刊! 月刊『紙の爆弾』2023年3月号

遠慮・忖度一切なし!《本音の対談》黒薮哲哉×田所敏夫〈03〉禁煙ファシズムの危険性 ── 喫煙者が減少したことで肺がん罹患者は減ったのか?

◆禁煙ファシズムと複合汚染

田所 違う角度で伺います。タバコについては昨年ニュージーランドで首相が、近い将来18歳以下の人に喫煙をさせないとの法律を作ると報道されました。たしかにタバコは健康への一定の害はあるでしょう。私は現在タバコを吸いませんがかつては喫煙者でした。私が大学生時代は男女含め6~7割の人間はタバコを吸っていた記憶があります。黒薮さんは喫煙歴はないですか。

 
田所敏夫さん

黒薮 20代の初めの頃、合計3年くらい吸っていました。

田所 ですから継続的な喫煙者は減少しているにしても、タバコを吸う習慣は100年、200年ではなく、相当大昔から習慣としてあったですね。嗜好品としては世界的に酒と同様に嗜まれていた。今はタバコが「健康に悪いから止めましょう」と言われていますが、一方、肺がん罹患者の数が減っていません。タバコが直撃する臓器は肺だと言われています。喫煙者が減り副流煙もほとんどないのに肺がんが増えている。これを医学的に説明している証拠はあるのでしょうか。

黒薮 医学的な説明はないけども、一般的に考えればそれだけ化学物質による空気の複合汚染が進んだ結果、肺がんが増えた可能性が高いでしょう。

田所 タバコだけが原因であれば、肺がんの数は減るはずです。けれども喫煙者、受動喫煙も激減しているのに肺がん罹患者が増加するのは化学物質や環境ホルモン、または黒薮さんが追っていらっしゃる「電磁波」などタバコ以外の要因を求めないと合理性が保てない。

 
黒薮哲哉さん

黒薮 ブラジルの大学が携帯電話の基地局でどれぐらいのガンが発生しているか、という統計を取ったことがあります。有名な疫学調査が、発表されたのは2011年です。病気の種類別の統計が出ていましたが、多かったのが肺がんと胃がんでした。化学物資による大気汚染に加え、電磁波などの要素が重なっていると考えられます。空気がおかしくなっているから肺にがんが増えたと言えるかもしれません。複合汚染の結果だと思います。

◆厚労省はなぜ「国民の二人に一人はガンに罹ります」などと予想できるのか?

田所 24時間呼吸をして肺は空気を取り入れているのですから、空気になにが含まれていて、どうして発病するかのメカニズムを明示してもらわないと「タバコが悪い」という単純なものではないでしょう。胃ガンにしても乳ガンも減っていない。ガンの総数が増えていてこれから先は「国民の二人に一人はガンに罹ります」と早くから厚労省が言っていました。どうしてそんな予想ができるのか不思議です。

黒薮 私はタバコを吸わないし、嫌いなんだけどもそれを前提にしても、タバコだけを取り締まってなにかが解決するのではなく、規制するのであれば化学物質による汚染や電磁波による被曝などを総合的に見直さないと、何の解決にもならないでしょう。

田所 サンプルとしては疫学統計が充分とれる肺がん患者の症例数は整っていると思いますから、肺がんが発病する本当のメカニズムを解明して欲しいです。薬はかなり開発されましたが、本当の発病メカニズムが解明されてないことの課題が、この問題と様々な社会問題との共通項です。(つづく)

◎遠慮・忖度一切なし!《本音の対談》黒薮哲哉×田所敏夫
〈01〉「スラップ訴訟」としての横浜副流煙事件裁判
〈02〉横浜副流煙事件裁判のその後 
〈03〉禁煙ファシズムの危険性 ── 喫煙者が減少したことで肺がん罹患者は減ったのか? 
〈04〉問題すり替えに過ぎない“SDGs”の欺瞞
〈05〉「押し紙」は新聞にとって致命的

▼黒薮哲哉(くろやぶ てつや)
ジャーナリスト。著書に、『「押し紙」という新聞のタブー』(宝島新書)、『ルポ 最後の公害、電磁波に苦しむ人々 携帯基地局の放射線』(花伝社)、『名医の追放-滋賀医科大病院事件の記録』(緑風出版)、『禁煙ファシズム』(鹿砦社)他。
◎メディア黒書:http://www.kokusyo.jp/
◎twitter https://twitter.com/kuroyabu

黒薮哲哉『禁煙ファシズム-横浜副流煙事件の記録』(鹿砦社)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。著書に『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社)がある。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学 消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY007)
月刊『紙の爆弾』2023年3月号