日本のキックボクシングは統一ができないから、本場ムエタイの力を借りよう!──。皆がそう思っている訳ではありませんが、キックボクシングには団体がバラつき過ぎて、確固たる団体と王座が無く、原点となるムエタイに還り、その世界機構の傘下に入ろうという傾向が見られるようになったのは、ここ10年内のことでした。

日本、全日本、日本プロキック、日本ナックモエ、MA日本、日本ムエタイ、日本キック・イノベーションなど、日本のキックボクシングの歴史の中で、“日本”の国を象徴する名称の“王座”は、出尽くしたほど出て、その後は私的組織王座(国名、地域名ではないキャッチフレーズ的名称王座)で更に乱立していく中、本場ムエタイの傘下に入って権威付けに目を向けた手法にも乗り出しました。

古いルンピニースタジアム。トタン屋根の天井からぶら下げられたプロペラ式の扇風機などがなんともたまらない雰囲気

その傘下で作り出した最初の日本王座は、2009年に誕生したWBCムエタイ(母体はWBC)日本王座が各階級で誕生し、2010年にはWPMF(世界プロムエタイ協会/母体はタイ国ムエスポーツ協会)日本王座が各階級で誕生し、2015年にはムエタイ二大殿堂のひとつ、ルンピニースタジアム傘下の「ルンピニー・ボクシング・スタジアム・オブ・ジャパン」が発足しましたが、これは現在停滞中です。

そして今年3月1日、四つ目の国内ムエタイ組織が誕生。WMC(世界ムエタイ評議会)の日本支局が設立されました。WMC(当初はWMTC)は1995年にタイで幾つか存在した世界機構を統合した、当時では画期的団体でした。4月3日には第1回目のWMC日本支局認定試合が行われ、バンタム級とライト級の2階級で王座が決定しています。

関係者情報では、昨年初頭にはルンピニージャパンの発足計画は進んでおり、また古くには「ラジャダムナンスタジアム日本支局長にならないか」という打診が日本人関係者に伝えられていた話もあり、日本でビジネス戦略が成り立つなら、幾つでも本場ムエタイブランドを利用した日本組織が作れてしまう状況でもあります。

ラジャダムナンスタジアム。擂り鉢状の造りは観易く広く、歓声の響きは不気味なほど凄く反響します。2~3Fは立って歩き回る賭け屋が多いのでコンクリートの段差に座るのはキツイ

WBC含め、本場ムエタイ組織傘下として、キック系日本国内トップを目指しつつ、厳しく言えば、乱立している中の個々でしかない現状で、一般世間から見ればキック系競技は「訳わからん構造」であることに変わりありません。

過去、キックやムエタイやその他の競技に於いても、いくつもの認定組織が出てきては消滅したり弱体化した一例としては、その代表者が亡くなられたり、無責任に辞任されたりした後、しっかり継ぐ者がいなければ、急速に勢力が弱まる傾向がありました。王座があっても組織の存在が曖昧であれば、そこに人は集まりません。

国王生誕記念興行、王妃生誕記念興行、1774年にビルマとの戦争で捕らわれの身となった戦いで10名のビルマ軍兵士を相手にムエタイ技で勝利を納め生還し、タイに自由を取り戻した英雄としてナーイ・カノムトムの栄誉を称えられる記念興行など、国家イベントには盛大に記者会見も行われます

そういう形が残らない曖昧な組織に対し、タイ国の陸軍系ルンピニースタジアムや王室系ラジャダムナンスタジアムが最高峰の地位を築き上げて来た経緯には、終戦前後に建設され興行が行われてきたという、まだ競技場黎明期から伝統と権威を自然と築き上げてきました。

その土地・建物はそこから移動しないし無くならないという不動産であり、ムエタイとボクシング興行を行なう専門の競技場であるがため、大物プロモーターがそこで興行を打ち、選手が試合をして、そこで強者が就く王座が与えられれば、そこを目指して地方で有望なムエタイボクサーがバンコクに集まり競い合い、ファンや賭け屋が注目し、この業界皆が個々の思惑はあるものの、人の集まりが関わりあって、これらのスタジアムを世界的に有名なムエタイ最高峰へ育て上げた結果でしょう。

二大殿堂となったスタジアムの支配人が交代しても習慣化した日々のスタジアム風景が変わることなく続き、スタジアム自体が無くなることは、よほどムエタイ競技が衰退しない限り、人は集まり興行は続くでしょう。

新ルンピニースタジアムの初回興行は2014年2月11日。新しいスタジアムは冷房完備、リング上に四面スクリーンを設置するなど最新式の設備で約4,000名収容可能な新たな聖地としての再スタートを切りました

2年前、ルンピニースタジアムの老朽化による移転はありましたが、古きスタジアムの物質的消滅はあっても新ルンピニースタジアムそのものの価値と活気は変わっていません。

後発のスタジアムでは二大殿堂には敵わず、他の認定組織では所有するスタジアムは無く、形が残る価値としては、WPMFはタイ国で国家的イベントに起用され、国王生誕記念興行や王妃生誕記念興行、ナーイ・カノムトム興行などがバンコクの王宮前広場やアユタヤ県などで年間3回ほどありますが、そこではWPMF世界戦が3試合以上起用され、世界チャンピオンの防衛戦や挑戦者としての出場、傘下の日本チャンピオンとしてのビッグマッチ出場で、世界に名を売るチャンスがあり、WPMF傘下に居る特典とも言えるでしょう。

WBCはプロボクシングで広まった世界のネットワークがあり、ムエタイそのものの認知度は低いでしょう。しかし、元・WBCムエタイ世界スーパーライト級チャンピオン.大和哲也(大和)がロサンゼルスやラスベガスでの試合に頻繁に出場したように、アメリカ本土に渡って、まだ世間の小さな注目でも、ボクシングのメッカとなる聖地で試合出場することは今後重要な意味合いを持っていくでしょう。

新日本キックボクシング協会もタイ・ラジャダムナンスタジアム興行(Fight to MuayThai)を年1回実施した時期がありました。チャンピオンになれば与えられるチャンスをまた団体の価値としても重要で復活して欲しいところです。

日本の代表的格闘技のメッカ、後楽園ホール54年の歴史。プロレス、ボクシング、キックボクシング、プロダンス、笑点、欽ちゃんの仮装大賞などのイベントがメインでした。それぞれのイベントで会場の造りが大きく変化します

過去、スタジアムの利点を考え、日本でも昭和の時代に「後楽園スタジアムランキング」で王座を含む意味合いで作ろうと暫定ランキングを一部団体で作られたことがありますが、対抗団体としての意地もあり、どこからも賛同されず実現に至りませんでした。今の時代に“後楽園スタジアム認定ライト級チャンピオン”なんてあったら、後楽園ホールが格闘技のメッカと言われる歴史の価値から業界関係者・ファンは魅力的でしょうが、この実現には各方面で利害が絡み、難しいでしょう。

日本でキックボクシング系団体やプロモーション単位の王座で「必要無いだろう」と考え得る多くの組織誕生の中で、それらが今後幾つ生き残るのか不透明な現状ながら、皮肉にも乱立した王座があるからこそ、選手層が厚く、興行が増えている逆現象があります。

そんな経験を積める環境から、梅野源治のような突出した日本の多くのチャレンジャーたちがサバイバルマッチを勝ち上がって歴史に残って語り継がれる、そんな“形ある最高峰”を勝ち獲り、その世代が日本でのスタジアム理想論も実現する時代が来て、世間の「訳わからん構造」を分からせる構造に世直したら、我々、昭和の経済高度成長期経験世代が生きているうちに訪れたら、楽しみな物語になることでしょう。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

抗うことなしに「花」など咲きはしない『NO NUKES voice』Vol.7