7年前の今日。2006年1月10日。沢口友美が、44歳という若さでこの世を去った。
朝早く東京を発った筆者は、彼女が入院する広島の呉の病院に、昼頃に着いた。
見舞いに来たつもりだった。彼女の病室を看護師に訊くと、「今朝亡くなりました」と告げられた。霊安室で、遺体となった彼女と対面した。

沢口友美は「反戦ストリッパー」として、皆に愛されていた。
彼女は高校を卒業して、自衛隊に入隊した。配属されたのは、隊内の通信を扱う「基地通信」という部署。
1979年から呉駐屯地で2年勤務し、埼玉の朝霞駐屯地に配属された。

クラブで躍るのが好きな、彼女。独身者は、隊内の宿舎に住む。
そこから、ミニのドレスなど、派手な格好で出かけるのは御法度だ。同じ趣味の女性隊員と、基地の近くに借りたアパートに衣装を置き、そこで着替えて出かけた。
だが、門限も厳しく、十分に踊りが楽しめない。
それで、自衛隊を辞めた。

渋谷を歩いていて、スカウトされる。
言葉巧みに踊りのレッスンに誘われ、ストリップ劇場のステージに立つことになる。
幼い顔の「自衛隊出身・美人ダンサー」は、たちまち人気を博する。

ある劇場の照明係が、新右翼「一水会」のメンバーだった。
彼に誘われて、沢口友美は「一水会」の演説を聞きに行く。
彼女は、被曝2世だった。
看護学生だった彼女の母親は、原爆投下の時、広島にいた。割れたガラスが体に刺さっているにもかかわらず、焼けただれた人々の救護にあたった。残留放射能を浴び続けながら、働き続けた。

「一水会」との縁で、2001年頃から、彼女は母親の被爆体験を、各地で語り始める。
イラクのバクダットの国際会議場で、閣僚も出席する中、講演したこともある。
2003年のアメリカによるイラク攻撃の直前にも、バグダットに赴き反戦行動を行った。

2005年頃より、微熱が続く、脚がむくんで痛い、などの症状が出始める。
白血病と、診断された。
放射能は、DNAを傷つける。
被曝2世である彼女の体内で、放射能は冷酷に時を刻んでいたのだ。
被曝した本人である、彼女の母親は元気だ。むごいことだが、放射能の影響は、どこでどのように現れるか、分からない。

沢口友美は入院し、2005年12月、骨髄移植が無事に終わり、快癒するかに見えた。
だが、しばらくすると、高熱、咳、吐き気が続いた。
「水だけでもゴクゴク飲めるようになりたい 透明なグラスで氷一杯で」
2006年1月10日、その言葉をブログに残して、彼女は逝ってしまった。

彼女が被曝2世であることと、白血病に罹患したことの関連性は、もちろん医師でさえ分からない。
放射能による人体への影響は、長年に渡る追跡調査の集積が必要だ、と言われるが、彼女には、いかなる調査も及んでいなかった。

原発推進へと向かう安倍政権を見て、沢口友美の生と死を、今一度、心に刻みつけたい。

(FY)

★写真は、イラクの国際会議場で講演する、沢口友美