天皇誕生日の12月23日は、東條英機らA級戦犯7人が巣鴨拘置所で処刑された日でもある。これは歴史通の間ではよく知られた話だが、1971(昭和46)年のこの日、他にも1人、有名な人物が処刑されている事実は歴史通の中でも知る人はマレだろう。その人物とは、あの「吉展ちゃん事件」の犯人、小原保(享年38)である。

この昭和を代表する誘拐殺人事件については、関連書籍や関連映像作品も少なくない。中でも傑作と名高いのが、元読売新聞記者のノンフィクション作家・本田靖春が1977年に上梓した「誘拐」(文藝春秋)だ。

「誘拐」は、1963年3月に東京都台東区の入谷南公園で被害者・村越吉展ちゃん(当時4歳)が誘拐されてから小原が処刑されるまでの顛末を時代の空気感まで再現しながら克明に描いた壮大な作品。小原を自白に追い込んだ警視庁の名刑事・平塚八兵衛ら捜査員たちの奮闘のみならず、犯人・小原保の不遇な人生の軌跡も丁寧に描いているところに感動の最大のツボがある。

東北の貧しい農家の第10子として生まれ育った小原は足が不自由な男で、出来心から非情な誘拐殺人に手を染めたものの、平塚の取り調べに観念して自白したのちは別人のように素直になり、裁判でも終始潔く罪を認めて死刑判決を受け入れる。そして、最後は「真人間になって死んで行きます」という遺言を残して処刑された……。「誘拐」でこのように描かれた小原のヒューマンドラマはこの作品が「傑作」ゆえ、これがそのままこの事件の真実であるように思っている人も世間に少なくない。

しかし、自白後の小原の心理や言動にまつわる「誘拐」の描写については、実は現実に忠実だとは言い難い。その最たる部分が、小原本人は第一審で死刑判決が出たあと、潔く刑に服する覚悟だったが、弁護人の説得で控訴し、控訴棄却によって死刑判決が確定したように書かれているところだ。実際には、小原は控訴棄却後、最高裁に上告しているからである。

当時の新聞報道などを改めて検証しても、「誘拐」に描かれたように小原が控訴審までは犯罪事実をすべて認め、ひたすら反省の態度をあらしていたというのは事実であるようだ。だが、小原は土壇場の上告審になって、「事実と違う告白をしてきたのは、警察官の取り調べが厳しすぎたのと、吉展ちゃんの両親の気持ちをおもんばかったからだ」(読売新聞縮刷版1967年10月13日夕刊)とし、自白を撤回。自白では、自分がしていたヘビ革のバンドで吉展ちゃんの首を絞め、さらに両手で窒息死させたことになっていたが、自白を撤回した上告審では、「吉展ちゃんが泣き出したので、両手を口にあてがったはずみに鼻もふさいでしまい、窒息死させたのが真相で、殺害する意思はなかった」(同前)という“新事実”を告白した。そして弁護側は、小原が取り調べで自白するまでに「拷問」「脅迫」があったとして自白の任意性を争った上、殺意を否定し、殺人罪ではなく傷害致死罪が適用されるべきだと主張していたのである。

半世紀近く前の話であり、小原も平塚も本田もこの世にいない今となっては、「本当の真実」を突き止めるのは難しい。だが、「誘拐」については、小原の上告が「無かったこと」にされていること以外にも気になる点が散見される。たとえば、本田が「自白に至る道程で、平塚が保を拷問したという噂が、新聞記者のあいだで流れたのは事実である」と認めつつ、それを確たる根拠も示さず、単なる「噂」と決めつけたような書き方をしていたりすることだ。

本田本人は文春文庫版のあとがきで、この傑作について、「吉展ちゃん事件の捜査陣の中枢にいた元警視庁幹部」と親交があった編集者との出会いから生まれたようなことを書いている。筆者は、本田が上告審で小原が自白を撤回する反乱を起こした事実を無視するどころか、「なかった話」にした上、平塚による拷問疑惑を噂話として片付けた一番の理由はこのあたりに隠されているのではないかと思っている。

(片岡健)

★写真は、小原が上告審で殺意を否認したことを報じた当時の新聞記事。

主な参考文献:朝日新聞縮刷版(1967年9月22日夕刊、同10月13日夕刊)、毎日新聞縮刷版(同前)、読売新聞縮刷版(同前)、小原保の最高裁判決(http://p.tl/yr87