ニワカに脱原発を唱えて都知事選挙に臨むのが、立候補した細川と、応援する小泉の、両元総理である。しかし、その政策を見れば呆れる限りだ。全体的にニワカづくりなのだ。
もともと、この二人は、改革すると言いながら余計に悪くしたという評価が既に定まっていたのではないか。今の日本の政治経済および人心の荒廃という惨憺たる現実は、この二人が中心になって推進、あるいは後にそうなってゆく地盤を作ってしまった、という指摘もある。

なのに、脱原発と唱えただけで支持する人たちがいる。これが、かつての細川新党ブームだの小泉フィーバーだのという政治経済改革を、中身も見ずに乗せられる形で支持した「イノセント・ピープル」だけなら、むしろ当然だ。
しかし、こうしたポピュリズムに抗して批判してきた進歩的文化人と呼ばれるマスコミ人たちが、こぞって支持を始めた。

他の候補者たちは、原発だけでない様々な社会問題について質問を受けて回答したところ、舛添元厚労相、宇都宮元日弁連会長、田母神元空自幕、それぞれ共通点も違いもあるけれど、ほとんど総てにいちおうの見解を表明していたのだが、細川元総理には無回答が目立つ。回答もしているが、他の候補たちに比べて無回答が多すぎる。これでは、彼はしょせん脱原発ばかり、との批判も、もっともではないか。
そして、これを支持するということは、都政とか都民の暮らしより、とにかく脱原発ということになってしまう。

もっとも、ニワカ原発の支持者たちなんて芸能人だから、もともと眉唾もので、そんな人たちは鼻っから信用してない、と指摘する人たちがいる。その視点から細川支持の著名人たちを具体的に見てみよう。

瀬戸内寂聴は、戦争反対とか言いながら、石原慎太郎と仲良く雑誌で対談し、石原が好きな戦争とか女性差別には何も突っ込まなかった。イラクとアメリカの戦争に抗議する断食を、テレビカメラが取材に来て撮影している前でやって見せた人である。また、「小説は才能だ」と言い、しょせん芸事でしかないから社会的地位が低いはずの商売をしているのに、自分が偉いと思い上っていて、だから権力を批判しない。

菅原文太は、俳優だが政治経済にも関心があると、若い頃から言ってきた。そんな彼が細川支持といっても、もっとすごい人たちの支持をしていたから、驚くことない。かつて彼は、河野一郎邸焼き打ち事件・経団連襲撃事件で獄中生活18年の右翼・野村秋介が、アル中で芸能界を干された横山やすしを担いで選挙に出たさい、これを支持していた。
結果は惨敗で、特に横山は、マスコミに八つ当たりしたり、記者会見で泣きべそかきながら「国民はアホ」と罵ったりという醜態をさらした。
これについては、後藤民夫氏が『ビートたけしは死ななきゃ治らない』(鹿砦社)で、付き合わされたような形で支持表明していたビートたけしを皮肉るとともに、そもそも堕落した芸人を神輿に載せる愚と、それを支持する芸能人の愚を、厳しく指摘していた。

広瀬隆と鎌田慧は、すでに過去の人である。だが、これまでの仕事でさんざん批判してきた政治家たちを、今、彼らは支持しているのである。他にも、澤地久枝とか、高木仁三郎の記念館やたんぽぽ舎の代表者たちなど、その面々は、まさかこの人までがと驚く人もいる。

しかし、驚くことではない。これまでの原発反対運動には、根本的な欠陥があったのだ。だから、とっくの昔に実現していても良かった脱原発が駄目だったのだ。
まず、有名でマスコミに売れっ子だから成金という芸能人や文化人たちにとっては、カッコつける理念としての脱原発には関心があっても、生活不安を抱える多くの都民のための政策には無関心でいられる、ということだ。そうでなければ、とにかく脱原発を言っているから支持、という態度はできないはすだ。

また運動団体の人たちも、自分が関心をもつ範囲ばかりで物事を捉えている。だから「プロ市民」と揶揄されてしまうのだが、もっと問題なのは、庶民の生活の切実さについての想像力が欠けていることだ。まずなにより脱原発だ、という態度では、毎日の生活で苦労している庶民の琴線に触れない。
そこには生活者が在ることを考えない脱原発であれば、無意味であるだけでなく、罪でもある。

( 井上 靜 )