1983年、「ドジでノロマな亀」の日本航空の客室乗務員訓練生、松本千秋を『スチュワーデス物語』(TBS)で演じ、大ブレイクした堀ちえみは、その4年後の87年3月、20歳の誕生日を迎えた直後に芸能界から忽然と姿を消した。


[動画]堀ちえみ『青い夏のエピローグ』

ちえみは、81年にホリプロタレントスカウトキャラバンで優勝し、ホリプロに所属し、翌年82年、『潮風の少女/メルシ・ボク』でレコードデビュー。そして、その翌年には『スチュワーデス物語』の放送が始まり、大ヒット。ちえみの存在は社会現象となった。一見すると順調なタレント人生のようだったが、あまりの人気でちえみはプレッシャーに押しつぶされた。

87年3月、ちえみは、体調の悪化を理由に芸能活動を停止し、以降、実家のある大阪で休養し、事実上の引退状態となった。

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◆作曲家=後藤次利との不倫スキャンダル

確かにちえみの体調は極度に悪化していた。デビュー当時、50キロあった体重は、1年ほどの間に14キロも減って35キロになり、「拒食症ではないか」と囁かれ、慢性的な不眠や胃痛にも悩まされた。

その主な理由とされたのが、作曲家の後藤次利との関係だ。86年7月、深夜、後藤がちえみのマンションから2人で出てくる写真を『FRIDAY』が掲載し、波紋が広がった。後藤は妻子ある身であり、2人の関係は許されざるものだった。

また、当時、後藤はおニャン子クラブを始めとするアイドルの楽曲を多数、手掛ける売れっ子であり、ちえみは芸能界を代表するホリプロに所属していた。業界でホリプロを敵に回して仕事をすることはできない。2人の関係はあっけなく破局した。

◆ホリプロにコキ使われ、身も心もボロボロに

休養宣言をした際のちえみの発言を当時の週刊誌から抜き出してみよう。

「もう東京に戻ってくることはないでしょう。それに2年、3年経ってからも受け入れてくれるのかわからないし、それが通じるほど甘くないですからね、この世界は」

「アイドルは人形じゃないんだし、私は自分の主張をもって生きてきましたから」

「芸能界に入ったのが間違いだった。今は体を治すことに専念したい」

「大人たちのトラブルに疲れました。芸能界に未練はありません」

「忙しいときには毎日、二、三時間しか睡眠がとれませんし、食事も楽屋やスタジオなんかでは、十分ぐらいで折り詰めのお弁当をかき込まなければなりません。ぜいたくいうわけじゃありませんが、毎日毎日、同じような幕の内じゃ食欲もなくなりますよ」

「(『スチュワーデス物語』出演中には、1シーン撮影するのに3度も4度も倒れたことさえあったが)だからといって、簡単に休んだりはできないわけです。私が穴をあけると、制作会社とホリプロの間がこじれちゃう。ホリプロには先輩や後輩もいるから、私のために迷惑はかけられないと、無理を重ねることになるんです」

「おカネですか。何も残りませんでしたね。私の場合、親も元気に働いているから、収入は少なくてもいいと思っていたんです。いま思えば、もう少し親孝行をする方法があったんじゃないかと……」

ちえみはアイドルとして大成功を収めた。だが、ホリプロにいいようにコキ使われ、稼ぎは搾取され、私生活も制限され、文字通り身も心もボロボロになってしまった。バカらくしてやってられない、というのが本音だったのだろう。

ホリプロの常務、石村匡正は、「休養して健康になり、ちえみがもう1度芸能活動をやりたいと考えたときの受け皿を用意しておいてやるべきだと私たちは思っています」と言っていたが、ホリプロとちえみの亀裂は修復されなかった。

◆大阪拠点で芸能界に復帰した理由

ちえみは外科医との結婚を経て休養宣言の2年後の89年、松竹芸能に所属して芸能界に復帰した。ホリプロの圧力で芸能界復帰は絶望的という説もあったが、松竹芸能の本拠地である大阪はホリプロの勢力圏外だったのだ。

今でもちえみが出演するのは、大阪のテレビ番組が多いが、その背景にはホリプロとの確執がある。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

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