事件現場の被害女児宅マンション(奥の棟の2階)

2010年11月に発生した下関市6歳女児殺害事件は、昨年11月に被告人の湖山忠志氏が最高裁に上告を棄却され、懲役30年の判決が確定した。だが、この事件は決して終わっていない。湖山氏は再審請求により無罪を勝ち取りたいと考えている。そこで湖山氏に改めて事件発生から懲役30年の判決が確定するまでのことを振り返った手記を発表してもらうことにした。

以下、湖山氏が事件当日、別れた妻を原付バイクで探して回り、家に帰った時から警察に疑われ、濡れ衣を着せられていくまでの出来事を回顧した手記を[][][]と3回に分けて公開する。今回はその3回目でこれで全文完結だ。筆者は読者諸兄に自分の考えを押しつけようとは思わない。各自がこの湖山氏の話を読み、じっくり真相を見極めて欲しい。

◆取り調べは脅迫のようなことばかりだった

下関署まで車で連行され、取り調べ室に入ると、刑事が3~4人くらい入ってきました。そこで逮捕状を出され、刑事が何か読んだと思いますが、たしかな記憶はありません。やっていない事件でパクられるのは初めてだったんで、調書はどんなふうに書かれるのかわかりませんでしたが、刑事がまず、「私はRちゃん(筆者注:被害女児)を殺していませんし、捨ててもいません」と読み上げて、僕が「それでええよ」と言い、弁録ができました。

逮捕されてからの取り調べも任意同行された時と同じで、刑事は「こっちは科学的に証明できとるんやから認めろ」と、そればっかでした。「ヤクザの知り合いはおるんか?」と聞いてくるので、「おる」と言ったら、「そしたら、ヤクザの担当刑事から、ヤクザたちにお前の悪い噂を流して、下関に住めんようにしちゃろうか」と脅してきました。また、「今認めたら、生きとるうちに出られるけど、認めんかったら生きて出れんぞ」などとも言われました。否認していたほうが刑が長くなるという意味だったと思いますが、取り調べでは、そんな強迫のようなことばかりでした。

また、「弁護士を信用するな。本当にお前のことを思って言いよるのはワシらぞ。やけ、弁護士の言うことは聞くな」などと弁護士をバカにしたりと、とにかく精神的なゆさぶり、ダメージを与えようとしてきました。

捜査本部の置かれた下関署

逮捕前から悪かった体調は逮捕後もずっと悪い状態が続きました。取り調べは朝から晩までありますが、体調が悪くても早く切り上げてはもらえません。取り調べ中は当然、横になったりもできません。頭痛やめまい、疲労感がひどく大変でした。それは起訴までずっと続きました。

検事の取り調べは、最初は下関署でありました。しかし以降は山口地検の本庁で行われました。検事の取り調べがあるたび、拘禁されている下関署から山口地検の本庁まで車で連れて行かれるのですが、1時間半くらいかかり、車の移動だけでつらかったです。車の中では、両脇から警察官に挟まれいて、とても窮屈なんです。手錠に腰縄もされており、狭いから眠ることもできません。

また、一日に検事と警察の取り調べが両方あることもよくありました。朝から山口地検の本庁に車で1時間半くらいかけて連れて行かれ、検事の取り調べをうけ、夕方に下関署に帰ってからまた警察の取り調べを受けなければならかったこともありました。

刑事の威圧、脅迫をするような取り調べについては、弁護人が裁判所に違法な取り調べが行われている旨の文書を送ったりしていましたが、「ただの法令違反であって」みたいな文面が送られてくるだけで、裁判所は取り合ってくれませんでした。「法令違反なら、違反しとるんやから、やめさせろや!」と思いました。

さらに弁護人は山口県警の本部長に抗議する文書を送ってくれましたが、刑事の取り調べはまったく改められず、むしろ威圧、脅迫がひどくなりました。取調べ室に入るなり、刑事が赤い顔をしてケンカ腰で、「お前の思い通りになると思うなよ」と言ってきたこともありました。検事の取り調べで保木本(正樹。当時の山口地検三席検事)に民族差別発言を浴びせられ、僕が絶対に許すことができない思いでいるのは以前もお話した通りです。

◆1日も早く家族の元に戻って働き、子供の面倒をみたい

今改めて振り返ると、捜査も裁判も真実から目を背けた感じで、そのまま出来レースで有罪判決が出てしまったように思います。僕は裁判員裁判というのは、公平な裁判をするためにするものだと思っていました。しかし、ふたをあけてみると、裁判員は裁判員裁判の進行のために形式的にいるだけでした。裁判は僕を犯人と決めつけた上で進んでいったように思います。本当に最低の裁判員裁判でした。見せられるものなら、日本の国民の皆様に、どれだけ最低な裁判員裁判だったのかを見てもらいたいぐらいです。

あの日、あの場所に行かなければよかったとか、行くとしても別の日にしておけばよかったと思うこともあります。そうすれば、こんなことに巻き込まれずに済んだわけですからら。もしくはMを殴った容疑で逮捕された際、罰金30万円を払うのではなく、拘置所で労役として30万円分作業をしていれば良かったかなとも思います。そうしておけば、完全なアリバイが証明できたからです。

そういえば、拘置所で運動を一緒にやっている時に「青信号を渡っていたら、いきなり車が突っ込んできたようなものやな」と言ってくれた人がいます。こういう所に入る人というのは、目や態度をみれば、無実だと言っている人間が本当に無実なのかどうかわかるそうですね。ヤクザの人からも「お前の目は澄んどる。話す時も目をそらさん。じゃけぇ、やってないってわかるんや」と言われました。カタギの人、任侠道で生きる方々、みんなが励まし、支援してくれました。この思いや縁は一生大切な宝物です。

ただ、今は過去を振り返るより、再審で無罪を勝ち取って1日も早く家族のもとに戻り、働きたくて仕方ないです。そして早く娘、姪っ子、甥っ子に色んなものを買ってやり、色んなところに連れて行ってやりたいです。僕は子供の面倒をみるのが大好きなんです。保父さんになりたいと思ったこともあったぐらいです。実際今でもなりたいぐらいです。ただ、高校生の時に同じ年のヤツや後輩などにそれを言うと、「えっ!?」って顔をされて、「全然似合いませんし、子供が泣きますよ(笑)」と言われました。「一体周りのヤツらはオレをなんやと思っとるんや」と思いました。子供に泣かれたことなんか一度もないですし、むしろめちゃくちゃ懐いてくるんですけどね。

湖山氏の裁判員裁判があった山口地裁

親の助けにもなりたいです。とにかく僕は何もやっていませんから、今まで生きてきたのと同じ年数(筆者注:湖山氏は現在30歳、判決は懲役30年)を持って行かれるのは許せません。警察、検察は正義ではなく悪です。そして裁判官は地裁、高裁、最高裁問わず、稚拙で見識の狭い、ただの傀儡でしかない。保育園からやり直してこい!! [了]

【下関6歳女児殺害事件】

2010年11月28日早朝、母親は仕事で外出しており、小さな子供3人だけで寝ていた下関市の賃貸マンションの一室で火災が発生。火災はボヤで済んだが、鎮火後、子供3人のうち、一番下の6歳の女の子がマンションの建物脇の側溝で心肺停止状態で見つかった。女児は発見時、上半身が裸で、死因は解剖により、「首を絞められたことによる窒息死」と判明。翌年5月、被害女児の母親の元交際相手だった湖山氏が死体遺棄の容疑で逮捕され、翌6月、殺人など4つの罪名で起訴される。湖山氏は一貫して無実を訴えたが、2012年7月に山口地裁の裁判員裁判で懲役30年の判決を受け、今年1月、広島高裁で控訴棄却されていた。

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▼片岡健(かたおか けん)

1971年、広島市生まれ。早稲田大学商学部卒業後、フリーのライターに。新旧様々な事件の知られざる事実や冤罪、捜査機関の不正を独自取材で発掘している。広島市在住。

いつも何度でも福島を想う