芸能界史上最大のタレント独立事件と言えば、森進一の渡辺プロダクションからの独立劇だろう。当時の渡辺プロダクションは芸能界最大勢力であり、森も演歌界を代表する歌手だったから、マスコミはこぞって、この「戦争」を採り上げた。

森は1972年以降、契約更新の時期になると毎年のように渡辺プロに内容証明を送付し、待遇改善を迫っていた。それによって、給料は上がったが、渡辺プロのお仕着せの曲でヒットしないことに不満を募らせ、次第に自分の歌は自分で選びたいと考え、79年、13年所属した渡辺プロから独立を果たした。

当時の渡辺プロの実力は、全盛期に比べると衰えていたが、音事協を中心とする芸能プロダクション勢力の結束は強く、森はテレビから締め出された。

『おふくろさん』(1971年5月ビクターレコード、作詞=川内康範、作曲・編曲=猪俣公章)

◆「つくづく変わった男だった」

音事協が特に神経をとがらせたのは、森が他のタレントに「独立するとオイシイよ。十年選手だったらやったらどう?」などとそそのかしたという。これが音事協で問題となり、共演拒否の動きが広がった。森は「音事協の天敵」と呼ばれ、芸能界で孤立した。

元渡辺プロ取締役、松下治夫の著書『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡―』(青志社)でも、森は批判的に書かれている。

森はラテン・ビッグバンドの東京パンチョスのリーダーだったチャーリー石黒がその素質を見込んで渡辺プロに連れてきてきたという。同書によれば、森の独特のハスキーボイスはチャーリーが開発したものだったとする。

当時の渡辺プロは、演歌歌手は森だけで、ポップス歌手が本流だったから、誰も森に期待はしなかったが、あれよあれよという間にスタートなってしまった。

松下は「森進一はつくづく変わった男だった」と述懐している。

森は渡辺プロからもらった給料を明細ごと封も切らないで、押入れに入れていたという。それが貯まって億というお金となり、さすがに心配した松下が社長の晋に相談したほどだった。そのうち森は「お金を増やす方法はないか?」とマネージャーに相談し、不動産に投資することとなり、自宅と事務所ビルを建てた。

さらに森はデビューして1年後の67年末、待遇の不満から木倉事務所に移籍しようとしたことがあった。この時は、音事協会長で政治家の中曽根康弘までが乗り出して調停する事態となり、結局、移籍の話はなくなった。

◆「極貧」からの脱出

なぜ、森はお金に執着したのか。

デビュー当時の森について回ったのが「極貧」という言葉だった。

森は本名を森内一寛という。47年生まれで、出身地は山梨県甲府市。父親は古着の行商をしていたが、それが行き詰まり、静岡県に流れ着いた。そして、小学校5年生のころ、父親と母親が別れてしまった。父親が間借りしていた家主の奥さんと不倫関係になったのを母親が苦にしたためだった。

母親は森と乳飲み子の弟、4歳の妹を連れ、親戚を頼り、下関に移ったが、やがてバセドー氏病にかかり、働けなくなってしまった。森の一家は、森が中学3年生のときに、母親のいとこを頼って鹿児島に移った。

貧しい森一家は、生活保護を受けなければならなかった。おかずはなかったから、ご飯に醤油をかけて食べた。森は朝4時に起きて、牛乳配達をし、それから朝刊を配り、学校へ行き、帰ると魚屋の手伝いをし、夕刊を配って働いた。中学3年のときの成績は音楽を含めてすべて「3」。備考には「気が弱い。特記事項なし」とあった。

高校進学をあきらめた森は中学校を卒業して、集団就職で大阪に行き、十三駅前通りの寿司屋「一花」で働いた。住み込みで給料は1万2000円。だが、4ヶ月もすると、「ぼく、この仕事に向かんと思います」と言って、辞めてしまった。それ以降、十円でも給料の高いところを目指し、職を転々とした。15歳から17歳まで21回も転職した。

森は17歳のとき、フジテレビののど自慢番組『リズム歌合戦』に出場し、優勝した。番組のバックバンドをしていたチャーリー石黒に拾われ、レッスンに励み、66年、18歳のとき、『女のためいき』でデビューした。

たちまち森はスターとなったが、渡辺プロが森に払った給料は、年間4億円の稼ぎがあると言われながら、68年1月まで8万円だった。森はそのうちから3万円を母親に仕送りした。また、森は早くから家を買いたいと考え、給料の半分は貯金に回した。

木倉事務所から1000万円の契約金で移籍のオファーが舞い込んできたのは、そんなときだった。結局、移籍の話は潰れたが、森の月給は50万円となり、仕送りの額も10万円になった。

◆母の訃報が届いたその日、長崎で熱唱した『おふくろさん』

遊ぶ暇などなかった貧しい少年時代の反動なのか、スターとなった森は女性スキャンダルが相次いだ。73年2月24日未明、森の母親がガス中毒で自殺するという事件が起きたが、その理由にはバセドー氏病の病苦の他に、息子のスキャンダルによる心労があったとも伝えられている。

母親が死んだ日、森は長崎県諫早市の体育館でステージに立っていた。

ステージで司会者がこう言った。

「森さんのおかあさんがけさ亡くなりました。家には妹さんと弟さんしかおらず、すぐにも東京に帰りたいが、みなさんのためにうたってくれます」
森は涙を流しながら『おふくろさん』を熱唱し、会場を嗚咽の声でいっぱいにした。実際、森は一刻も早く母親のもとに向かいたかっただろうが、これが「ナベプロ商法」だった。

ショーを終えた森は空港に向かい、全日空機に飛び乗ったが、自宅に到着したのは、母親の自殺が確認されてから17時間以上経過した午後10時過ぎのことだった。

 

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
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