魂の書家・龍一郎、母校で語る、教育界を揺るがせた「ゲルニカ事件」から30年の想い

11月10日、同志社学友会倶楽部主催の、書家・龍一郎(本名:井上龍一郎)さんの講演会『教育のあり方を問いかけた ゲルニカ事件から30年の想い』が開催された。

会場となった同志社大学良心館の教室には約100名の聴衆が集まった。龍一郎さんが学生だった頃、この建物はまだなかった。

 

教壇の黒板には、児童が作成した「ゲルニカ」を美術の先生が縮小模写した「ゲルニカ」が飾られた。縮小版でもかなりの迫力があるが本物は縦が2.8m横が5m以上あるのだから、もし完成したての「ゲルニカ」が長尾小学校の舞台に飾られていたら、事件にはならなくとも、児童にとっては一生忘れられない卒業式になっていたことだろう。

しかし、そんな素敵な日は訪れなかった。――

龍一郎さんは長尾小学校赴任後、6年3組の担任を任されるが、そのクラスは荒れていて、登校時間に誰一人教室にやっては来ない。唯一児童の興味は校庭でサッカーをすることだけだった。ランドセルも教科書も鉛筆も持ってこない児童たちに向かい合った龍一郎先生は、「よかばい、それならサッカーをやろう」と、朝7時に出勤し、一日中児童とサッカーに明け暮れた。4月から5月になると、気温が上がる。これが幸いした。児童たちは元気でも、さすがに暑い中一日サッカーをしているほど体力はない。2時間目が終わったころに児童が疲れだし「ちょっと教室へ戻ろうか」となった折を見て、龍一郎先生はようやく授業を始めるきっかけを得る。「人間なんでも『義理人情』なんですよ」と笑いながら児童の授業参加の理由を龍一郎さんは、冗談のように紹介する。「あれだけサッカーやらしてもうとるんやから、ちょっとは授業ば、聞いてや」と児童はサッカーを好きなだけやらせてくれた龍一郎先生に「義理」を感じて授業を受けるようになったわけだ。

こう言ってしまうと、とても簡単で単純なようだが、小学校の先生が毎日、朝から午後まで1カ月以上児童にサッカーをやらせる(一緒にやる)のは、そうたやすいことではない。今日であればまず、管理職から制止されるだろうし、そもそも「サッカーをやりたそうだから、とことんやらせよう」と発想する先生は、ほとんどいないだろう。

龍一郎先生は荒れて授業にならなかった6年3組の児童の心を、まずは「サッカーをやりたいだけやらせる」ことで和ませてゆき、学習への興味を喚起していった。

 

◆「ゲルニカ事件」を経て、裁判闘争に立ち上がる

おそらく、龍一郎さんは、こういうことが簡単に発想できる、稀有な人間性の持ち主なのだ、とわたしは確信している。講演の中では「ゲルニカ問題」を取り上げた「筑紫哲也のNEWS23」の映像が流された。この映像に出てくる龍一郎さんの容姿の「好青年」ぶりについては本通信で以前にも言及したが、どう見ても20代後半か30代前半にしか見えない。ところが、休憩時間に「あれはいくつの時撮影されたものでしたか」と伺ったら、「たぶん42,3の頃やね」といわれ、また仰天した。龍一郎さんは「ああいうときは、うぶに振る舞うんよ。きょろきょろしたり、臆病そうな顔したりしてね」と画像に出てくる自身を、しっかり演出していたことを告白してくれた。たしかにそう言われてみれば、外見もそうだが振る舞いによって「若い」と感じさせられていることにあとで気がついた。

講演の開始時に、少々お酒を召し上がったと思われる、龍一郎さんと同じ神学部の伝説的な先輩が、何度か大きな声を発せられた。「大丈夫かな」とやや心配したが、龍一郎さんはその先輩に視線を送ることもなく、全く意に介さず話を続けた。そのうちに大声を出していた先輩もまったく発語しなくなった。

龍一郎さんは、日頃多弁ではない。どちらかと言えば、にこにこしながら、ひとの話を聞いている姿が頭に浮かぶ。ところがいったん話を始めると、絶妙なタイミングで冗談をはさみ、無駄な話に逸れることもなく、流れるように話が進んでゆく。聞いている者で退屈したり、眠くなった人は誰一人いなかっただろう。

語りがうまい、というだけではない。龍一郎さんの立ち振る舞い、特に「目」が聞く人の心を強く摑む。きっと長尾小学校6年3組の児童たちも、龍一郎先生の「目」にやられたに違いない。こんなに澄んだ目をした人、そして怒りを語るときには、温かみの中に「凄み」を滾らせる「目」を持った人を、わたしは他に知らない。

そして、児童に指導するばかりでなく、むしろ自発性を発揮させる能力は、いくら経験を積んでも、できない教師には真似できるものではない。学年全体の児童が、映画のスクリーン大の「ゲルニカ」を学年の旗として描く。「子供には無限の可能性がある」といわれるが、その可能性を引き出し、現実化させるには、良き環境や大人との出会いがなければ、容易なことではない。

小学校の先生として、龍一郎さんは超一流であったことは、児童の心を摑む人間性だけではなく、教育委員会から新任数年で「教師を指導する」機関に引き抜かれた事実が物語る。将来を約束される「超エリートコース」に抜擢されていたのだ。そして龍一郎さんは、同志社大学神学部の出身だが、実は数学を最も得意としており「教師を指導する」機関在籍時の担当も算数だったそうだ。

その元エリート先生が、「ゲルニカ事件」を経て、裁判闘争に立ち上がる。教育委員会から呼び出しを受けて、処分の言い渡しに出向いた際、文書」を手渡されたときに、片手で受け取ろうとしたら「両手で受け取れ!」と言われ、怒った龍一郎先生は処分を記した紙を片手で奪い取り、処分理由に児童の行為が記されていることを知り「処分理由を書き直せ!」と担当者に迫った。担当者は事務的な内容を三度繰り返したそうだが、こういう時の龍一郎さんが、どんな目をして、怒気を隠さなかったかは、見ていないわたしにも想像できる。

 

◆書家・龍一郎さんが披露した揮毫の実践

そして、一言でいえば「これほど優しい」人はそうそういない。講演後揮毫の実践を龍一郎さんは披露した。「良心」、「絆 望むことは あなたと生きることだ」の二枚を書いたのち、参加者の希望のリクエストに応えて「寒梅」、「いのち」、「繋ぐ」を書き上げた。最後に小学校の現役の先生が「言葉は思い浮かんでいないんですけど、先週権力側に潰されそうになって気持ちがへこんでいます」との言葉に、龍一郎さんは「逆らわないほうがいいですよ」と冗談で返し「子どもたちのための教育を作りたいと思っているんですけど、きょうの先生のお話を伺って、是非、『喝』というか『励まし』の言葉を頂けたら」とのリクエストに「流されて」とか「穏やかに」とか「静かに」とかと、またしても冗談を飛ばした挙句龍一郎さんが揮毫したのは、「今日だけがんばれ」であった。

2分おきに笑いを誘う、なごやかな雰囲気の中で、龍一郎さんは「ゲルニカ事件」を語った。裁判中は、毎週水曜日弁護団会議を夕方6時から早くても12時までこなし、全国400か所以上で講演を行い、裁判資金を捻出していたという。心身とも限界に近い状態だったのではないかと想像される。現在の松岡同様、重度の糖尿病になったそうだ。そこまでして龍一郎さんが闘ったのは、自分の名誉や権利のためではなく、「児童」が罰せられたことへの教育者としての憤りであったに違いない。

濃密に「ゲルニカ事件」を語り、揮毫の実践では顔中に汗をかき、参加者を何度も爆笑させた龍一郎さんのお話は、参加者の心を強く揺さぶったことだろう。

 

◆「言わんでいいこと言うてしもうたね。誰にも言わんとってね」

わたしたちにとってこの日は特別な日となったが、実は龍一郎さんにとっても、忘れられない日となったであろう。開場前、荷物を持って同志社大学の校門を入ってくる龍一郎さんと偶然出くわした。挨拶をかわし「お体はお元気ですか」と伺うと「うん。まあまあやけど。今朝ねお袋が亡くなったんよ。5時ごろ電話かかってきて」――わたしは言葉を失ってしまった。その後短い会話のあと「言わんでいいこと言うてしもうたね。誰にも言わんとってね」と仰った。

にもかかわらず、何事もなかったかのように龍一郎さんは、講演、揮毫など、この日の仕事を終えた。プロである!
この原稿が掲載される12日は龍一郎さんご母堂のご葬儀の日でもある。

講演も揮毫もご母堂ご逝去の日にこなしていただいた龍一郎さんに再度感謝申し上げます。

なお、この日、3・11以降、龍一郎さんが揮毫し毎年発行されている鹿砦社カレンダー2020年版が出来上がり、参加者全員に配布された。

◎[参考動画]講演当日、龍一郎さんが披露した揮毫「良心」(堤泰彦さん撮影)

◎[参考動画]講演当日、龍一郎さんが披露した揮毫「絆」(堤泰彦さん撮影)

[関連記事]
◎書家・龍一郎さんが長年の沈黙を破り、11月10日同志社大で語る「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」(2019年10月15日)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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最新刊『一九六九年 混沌と狂騒の時代』、2年前に刊行の『遙かなる一九七〇年代─京都』(松岡利康/垣沼真一編著)の題字も揮毫してくれた

文科省と学校の偏狭無責任に抗った1988年小6「ゲルニカ」の旗と龍一郎氏の良心

また下品な表現を使わせていただくが「ほらみたことか!」である。萩生田光一文科相が11月1日、2020年度から実施すると計画していたセンター試験英語における民間試験の導入を5年先延ばしすると発表した。センター試験に民間試験を取り入れることには、高校側からの反発意見が根強く、文科省は、それに対してこれまで傲慢な態度をくずしていなかったが、既に試験のID発行を始める最悪のタイミングで延長を発表した。

◆文科省「朝令暮改」の無責任──受験生はたまったものではない

こんなことをされては、準備をしていた受験生はたまったものではない。文科省伝家の宝刀「朝令暮改」の本領発揮である。受験生の立場や大学の都合など、一切お構いなしに、どんどん劣化が進む文教行政の本質が、見事に炸裂した事件といえよう。このような「ドタキャン」ならぬ「ドタエン(延期)」を、行政側ではなく、一般市民が行えば必ずや強権的にペナルティーを課したり、脅しをかけてくる文科省。自らの失態のもたらした受験生、高校、大学への不利益をどう始末するつもりであろうか。

始末などできはなしない。文教行政や学校運営に関わる人が、冒しがちな大いなる勘違いがある。それは方針や政策を一連の流れの中で位置づけようとする意思だ。文科省であれば、「社会の要請や時代の変化」だの、大学は「新しい取り組み」といった理由をつけて、受験生や学生にとって例外を除けば、人生に一度しか経験しない受験や、大学のカリキュラム、学部、学科構成などを文科省を主体、あるいは大学を主体に考えて構築してしまう考えかたである。

◆文科省に隷属する学校・教師の無責任

これは、今回の醜聞に限らず、教育関係者とりわけ私立学校の運営や、個々の教師の児童・生徒・学生への向き合い方にも表出することがある。わたし自身が通った「授業料を払う刑務所」こと愛知県立高蔵寺高校に勤務し、のちに校長まで上り詰めた暴力教師、市来宏はわたしに対して「先生(自分のことを先生と呼ぶな!)も若い時は組合で赤旗を振っていたことがある。でもいまはこれが正しいと思ってやっている」とわたしに暴力を振るう際に開き直ったことがあった。市来が若いころも「いま」(過去である)も、本当の「いま」も生徒への暴力は一貫して犯罪行為であり、教師個人の考えが「法律」を超えることなど許されないことは自明である。

これなのだ。教師にとって新任採用されてから、定年を迎えるまで。経験を重ね教師として(あるいは人間として)成長してゆくことは理解できるが、そのときの私的思想や感情で態度を変えてもらっては、児童・生徒・学生にとっては迷惑以外の何物でもない。学ぶ側は個々の教師の人間性を目指してではなく、義務教育であれば学校へ必然的に、高校以降は「その学校の教育(あるいは課外活動)内容」に的を絞って志望校をきめるのであり、教師・教員の都合で教育態度や内容が変化されたのでは約束違反もいいところだ。

この文科省を筆頭とする教育機関、教師・教員個々が冒しやすい「機関や個人史の中に児童・生徒・学生との向かい合い方をおく」考え方の過ちは案外わかりにくい形でも頻発する。私立大学にとっては少子高齢化で受験生・在学生の確保が厳しい時代だ。

そこで定員割れを起こしている大学の中には、従来の学部や学科を改組することで展望を開こうとするケースが昔から多数見られる。教育内容が充実し学生にとっての魅力が増すのであれば構わない。だが「抱えている教員の顔ぶれで、ちょと目先の変わったことができないか」という実は貧弱な理由で改組が行われることは珍しくない。その際、在学生や卒業生が自分が在籍している、あるいは在籍していた学部なり学科が「なくなる」ことをどう感じるか、といった視点に重きは置かれない。

「わたしはX大学のY学部Z学科卒後です」

と自己紹介しようにも、Z学科がなくなっていたら、卒後生はどう感じるか。あるいはY学部が消滅していたら。そしてX大学自体が閉校してしまっていたら。たとえば、就職試験の際の面接などで卒業生がどう感じるか。それくらいはどなたでも想像が可能だろう。もちろん長期的な視点に立った、学部や学科の改組を否定するものではない。新しい学問領域の誕生は必然的に学びの場の要請を伴うのであるから。しかし、1つの学科や学部を改組を5年ほどで繰り返す癖のある大学もある。文科省同様の「朝令暮改癖」と言わざるを得ないだろう。

このような姿勢に欠如しているのは、学ぶ主体である児童・生徒・学生を中心に据えた考え方である。そして残念ながら文科省を筆頭に、今日そのような考え方はかなり広く伝播しており、教育現場諸問題の根源を成す課題となっているのではないかとわたしは考える。

◆福岡の小学生たちが作り上げた学年の旗「ゲルニカ」の奇跡

凄い2ショット! 男2人、宇崎竜童さんと龍一郎さん(「琉球の風」控室にて。なお「琉球の風」の題字も龍一郎さんが揮毫)

そんな問題を考えるときに、「この人しか話せない」経験を有する絶好の人物が10日同志社大学で講演をする。本通信をはじめ鹿砦社のロゴや出版物の表紙やカレンダーを揮毫していただいている龍一郎さん(本名:井上龍一郎さん)が下記のご案内のように講演会を実施する。

小学校教諭として、学ぶ主体である児童を中心に学級、学年をまとめ上げ偉大な成果を作り上げながら、校長の悪意により作り上げた学年の旗「ゲルニカ」が卒業式に会場正面に飾られることはなく、卒業する児童が抗議の声を挙げた。

「私は校長先生のような人間にはなりたくありません!」

児童の声を支持した龍一郎先生は、のちに処分を受けることになるが、龍一郎さんに対する処分は「児童に対する処分だ」と受け取った龍一郎先生は、『ゲルニカ裁判』を闘うことになる。

文科省から現場の教師にまで、「学ぶ主体」の意識欠如が著しい時代に、龍一郎さんは必ずや珠玉のアドバイスを伝えてくれることだろう。

ピカソの「ゲルニカ」(左)と事件の中間報告『ゲルニカ事件』(絶版)。11・10の講演は、こののちの話になる。現在絶版だが、当日手持ちの10冊ほど販売
鹿砦社出版弾圧10周年の集まりで揮毫する龍一郎さん(2015年7月12日)
その際揮毫した「誠」の字は極真会館中村道場に採用された
11月10日(日)同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」
11月10日(日)同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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神戸市立東須磨小学校教員間いじめ事件は社会の縮図 ── 文科省の教育施策失敗と日本の社会崩壊を視野に入れなければ、この惨状の本質は語れない

神戸市立東須磨小学校(同市須磨区)の教員間暴行・暴言問題で、同小の仁王美貴校長(55)が10月9日、市役所で市教育委員会の担当者と記者会見した。2018年度に当時の校長が、既に教員のセクハラ発言や職員室でのからかいなどの嫌がらせがあったことを把握しながら、指導などの対応が不十分だったことが判明。加害教員の一部から児童が嫌がらせを受けたとの訴えがあることも分かった。


◎[参考動画]東須磨小学校教員間いじめ問題 新たな事実が明らかに(サンテレビ2019/10/10公開)


◎[参考動画]神戸市・教師いじめ問題 前校長はパワハラを謝罪(ANNnewsCH 2019/10/16公開)

◆1990年7月、神戸高塚高校で起きた女子生徒校門圧死事件

兵庫県では、定期的に教育関係の深刻な事件・事故がおこる。わたしがもっともショックを受けたのは、1990年7月6日、兵庫県神戸市西区の兵庫県立神戸高塚高等学校で、同校の教諭が遅刻を取り締まることを目的として登校門限時刻に校門を閉鎖しようとしたところ、門限間際に校門をくぐろうとした女子生徒(当時15歳)が門扉に圧潰されて、死亡した事件である。

本通信の「『体罰』ではなく、すべて『暴力』だった」で3回にわたり自身が受けた、天地がひっくり返ったような「公教育」体験の中には、兵庫県立神戸高塚高等学校での事件を彷彿させる場面が、限りなく記憶に残っているからだ。高塚高校同様、わたしの通っていた「授業料を払う刑務所」こと高蔵寺高校や、春日井東高校でも毎朝同様の光景が繰り広げられていた。

わたしは経験はないけれども、校舎の中から眺めていると、教師が猛烈な勢いで校門を閉める際に、少なくとも体を挟まれた生徒は複数確認している。あれが頭部であれば命にかかわったであろうに、野蛮な教師どもは、反省など一切せず毎日同じような危険な光景が繰り返し行われていた。

登校時間ギリギリになる生徒は、必ずしも怠け者の生徒ばかりではない。「授業料を払う刑務所」こと高蔵寺高校は春日井市の西北に位置するが、10キロ以上離れた名古屋市との境界に近い距離から自転車通学してくる生徒も少なくはなかった。

通常通りであれば、登校時間に間に合う時刻に家を出発しても、途中で雨が降り出したり、道路工事で道を迂回しなければならないと、計算通りの時刻に登校できない。生徒はみな、登校時間を送れると「指導」の名のもとに、人権侵害お構いなしの懲罰を食らうことを知っているから、のんびり登校する生徒などはいない。

つまり教師どもは、校則を盾にとって雨中、必死で自転車をこぎ登校してくる生徒を「おはよう」のあいさつで迎えるつもりなどなく、定刻になったら容赦なく校門を勢いよく閉めることに、職業上の喜びや、快感を感じていたのだ。


◎[参考動画]関係者らが追悼 神戸高塚高校 校門圧死事件から29年(サンテレビ2019/07/06公開)

◆「社会の縮図」が引き起こした事件

さて、話がそれたようだが、逸れてはいない。神戸市立東須磨小学校で発生した、教師による教師イジメは、もっとも簡略化して解説するのであれば「社会の縮図」が引き起こした事件である、といえよう。もちろん、その程度の低さと悪質さ、組織的な隠蔽は、もう言及するのも嫌になるレベルである。

学校が、児童や生徒の居場所ではなく、行政権力や国家による人格捻じ曲げの場所に変化してしまったから、このように表現する言葉も見つからない、貧しすぎる精神が居場所を占めるようになったのだ。

このいじめに手を染めた、あるいは黙認した教師どもには、教壇に立つ資格などない。しかし、重要なことは兵庫県だけではなく、全国を見回しても、「イジメ教師」と同等あるいは、同様のレベル人間を今日の学校は制度的に求めている根源がある、ことではないだろうか。

職員会議の議決権が奪われ、校長の権限が強化され、教育に何の知識・経験もない人間が「民間校長」として大阪などでも、もてはやされている。市場原理や、企業的な競争原理を義務教育に持ち込むことが、あたかも「先進的」であるかのような、誤解が全国に広まっている。断言するがこれは完全に大いなる間違いである。

教師を養成する教職課程も、不要な荷重がかけられ、本当に児童・生徒への教育に熱心な個性は、採用されるのが困難になっている。「子供のまま、社会問題など考えない」志望者ほど公立学校の採用試験には合格しやすくなっているのだ。

つまり、極言すれば「子供が教壇に立っている」状態を文科省は望み、その歪な像が実体化している。ここにも深刻な病巣があるのではないか。文科省のいう「多様性」は「成績の出来不出来」を指す。個性も同様だ。少子化で学校の先生の数は余っているはずなのに、先生たちは、毎晩「意味のない」資料作りや報告書作成に追われて、帰宅が遅い。

熱い情熱で、児童・生徒・学生に向き合っている先生・教員が存在することは、強調せねばならない。しかしそういったひとびとが、多数ではいられない仕組みを文科省や教育委員会はが、率先して作り上げている。

きょうのバラエティー番組で、法政大学の「なんとかママ」と呼ばれる「評論家」は、なにをコメントするだろうか。文科省の連綿とする教育施策失敗と、さらにいえば、日本の社会崩壊を視野に入れなければ、この惨状の本質は語れない。


◎[参考動画]東須磨小学校で保護者向け説明会(サンテレビ2019/10/16公開)


◎[参考動画]教員間いじめ問題 保護者説明会で加害教員コメント(サンテレビ2019/10/17公開)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

書家・龍一郎さんが長年の沈黙を破り、11月10日同志社大で語る「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」

本通信で「『体罰』ではなく、すべて『暴力』だった」を3回にわたり掲載した。個的な経験の紹介ではあるが、ある時期、公権力(教育委員会)の明確な意思にもづき、堂々と行われた「教育」に名を借りた「犯罪行為」であるから、私怨としてではなく、記録として留められる必要があると考えたからだ。

愛知県をはじめとする「管理教育」について『禁断の教育』(宇治芳雄、同時代叢書1981年)『虚構の教育』(宇治芳雄、同時代叢書1982年)など問題を指摘する書籍も発売され、校内暴力などで荒れる学校の問題と対極に、行政暴力により吹きまくる公立高校内での「犯罪」は限定的であるとはいえ、教育や社会問題に関心のあるひとびとの間では、認知されていた。

NHKも東海地方では教育テレビで特集番組を放送し、『ある小学校長の回想』(岩波新書1967年)の著者である金沢嘉市氏がゲスト出演し、学校内で行われる異常な「教育」の実態を記録したビデオ映像を目にして、「ついにここまで来たか……という感じです」と絶句していたことが思い出される。

わたしは運悪く(あるいはのちの人生を考えれば逆説的に「幸運にも」との評価も成立するかもしれない)管理教育の被害者になったことで、人格形成のかなり重要な部分に多くの傷をすりこまれた。かといって教育界にはわたしに接したような、最低レベルの人間ばかりが巣くっているわけではなく、教育者としてだけでなく、人物としても尊敬に値するかたがたが熱心に児童・生徒・学生のために献身的に身を削っておられることを、身をもって後に知ることになる。

「ゲルニカ事件」は、ウィキペディアに下記の通り、記載されている。

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1988年3月の卒業式の際に、卒業生たち卒業記念作品としてパブロ・ピカソの『ゲルニカ』を模倣した旗(以降、「ゲルニカの旗」と呼称する)を作製した。児童はゲルニカの旗を式典会場の正面ステージに貼ることを希望したが、校長の指示により、ステージ正面には日章旗が掲げられ、ゲルニカの旗はパネルに貼られた状態で卒業生席背面に掲げられた。なお、ゲルニカの旗をパネルに貼って掲げることは校長によって提示された修正案だが、職員会議での合意は得られていない。

これに対する抗議の意味で、卒業式当日には、卒業生代表児童挨拶での校長への批判発言もあり、「君が代」の斉唱の際に着席するなど児童がいた。この児童らに同調し、着席、また退場の際に右手こぶしを振り上げる行動をした教諭に対し、福岡市教育委員会は同年6月、教育公務員としての職の信用を傷つけるものとし、地方公務員法に基づき戒告処分を行った。(ウィキペディア『福岡市立長尾小学校ゲルニカ事件」の項)

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事件後報道もされたので、「へー、世の中には立派な先生がいるもんだな」と感嘆した記憶があった。その立派な先生の名前は井上龍一郎さんだ。わたしが井上龍一郎さんと初めてお会いしたのは、熊本で行われた鹿砦社も支援するイベント『琉球の風』だったと思う。3年ほど前だろうか。当時から鹿砦社のロゴやイベントの際の横断幕などを力強く書く「書家」としてお名前は伺っていた。ニコニコして人柄の優しい井上さんはみずからが出向いて書を描く行為を「テキヤ」と自嘲気味に表現される清々しい方、との印象があった。


◎[参考動画]龍一郎さん 書道 亥(2019年2月16日公開)

けれども、のちに鹿砦社代表の松岡氏から「龍一郎は『ゲルニカ事件』で有名だったんですよ」と聞かされるまで、井上さん(ご本人は「龍一郎」を仕事で使っておられるので以後の記載は「龍一郎さん」とさせていただく)が、まさか、あの『ゲルニカ事件』の先生だとは気が付くはずもなかった。

後日松岡氏の好意で『ゲルニカ事件 どちらがほんとの教育か』(井上龍一郎とお母さんたち1991年、径書房)をご紹介いただいき、即読了した。

井上龍一郎とお母さんたち『ゲルニカ事件 どちらがほんとの教育か』(径書房1991年)

龍一郎さんは1987年4月6日に長尾小学校に赴任して以来のできごとを、同書第一章「君は何をするために学校に来たのか」で克明に綴っている。若く情熱に溢れた教師が、すさんだクラスに赴任してから児童のこころをどうやって解きほぐしていったのか。いうことを聞かないやんちゃ坊主とどのように打ち解けたのか。実に細かく日々の学校生活と児童の様子・変化が記録されている。残念ながら『ゲルニカ事件 どちらがほんとの教育か』は絶版になっているので、簡単に入手することはできないが、できれば教育に携わるすべてのひとびとと、お子さんを小学校に通わせている、あるいはこれから通わせる保護者のかたがた全員に読んでいただきたい。心揺さぶられる名著だ。

龍一郎さんは個性豊かな(と表現しておこう)児童が集う6年3組の担任を任されることになるのだが、このクラスは校長や教務主任がいうには「問題の多いクラス」ということで、龍一郎さんも心配しながらの新学期が始まった。そして「問題の多い」原因が同じ児童が5年生(5年生と6年生はクラス替えがなかった)の後半に、担任の先生が産休となり、代わりに赴任してきた先生に「毎日叱られてばかいりた」ことが原因で、教師不信に陥って反抗的な態度をとるようになったことを知る。龍一郎さんは毎日手探りを続ける中で、児童「教師に対する猜疑心」を徐々に希釈してゆき、やがては圧倒的な信頼を得るようになる。

「卒業といってっても、何もあわてて特別なことやっても駄目だ。やはり、一学期、二学期の取り組みの延長線上に明確に位置付けるべきだ。私たちは、子どもの主体的活動を基礎に学級集団を作り高めようとしてきた。三学期は、これを土台に学年の集団をはっきりつくりあげていかなければならない。そして、何より子ども達が燃えて燃えて燃え尽きるまでものごとに取り組み卒業してゆくこと――。こんな当たり前のことにたどりついた。具体的な計画を立てるときは、子ども達の興味、関心を最大限に引き出せるように工夫した。何といっても学習の主体者である子どもの意欲が問題なのだから、当然なことではある。」

「何といっても学習の主体者である子どもの意欲が問題なのだから、当然なことではある」と龍一郎さんは当たり前に考えておられたが、その真逆の人間が「教師」を名乗っている事実があまたにこびりついているわたしにとって、龍一郎先生の言葉は、新鮮を通り超え驚愕ですらあった。

そして、子供たちは卒業の記念にゲルニカを作成することを決めて、見事に完成する。その過程で児童が戦争や差別など社会問題に興味を持ってゆく過程などは、「これがほんとうに小学生が、みずから考え行動したことなのか」と驚愕させられるほどレベルが高い。2019年、大学生でも龍一郎さんが担任を受け持った児童のレベルに遠く及ばない学生が大半ではないか。

宇崎竜童さん(左)と龍一郎さん(熊本「琉球の風」にて)

はたして、児童たちは見事な学年の旗ゲルニカを完成させ(その完成度も驚愕に値する)卒業式が行われる体育館のステージにいっぱいに、自分たちの小学校生活集大成を見つめながらの卒業式を楽しみにしていた。だが、柳校長は職員の総意と児童たちの思いを踏みにじり、ゲルニカを壇上から外し、代わりに日の丸を掲げた。

卒業式では、卒業証書を受け取った児童が思いを述べる。ある児童は「私は怒りや屈辱をもって卒業します。私は、絶対、校長先生のような人間にはなりたくないと思います」と宣言した。

一連の出来事は「筑紫哲也のニュース23」で特集された。わたしはつい最近その映像を見る機会があった。失礼ながら一番印象深かったのは、わたしの知る、個性派書家龍一郎さんではなく「若い好青年」だったことだ。そして龍一郎さんは「処分」を受け、それを「不当」とし裁判闘争に立ち上がる。『ゲルニカ事件 どっちがほんとうの教育か』を読了するまでにも、わたしは何度もすなおに感激し落涙をおさえられなかった。

長年の沈黙を破り、龍一郎さんが11月10日、13時から同志社大学今出川キャンパス良心館で「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」をテーマに講演会を行う。(講演会参加者には龍一郎さん揮毫の来年2020年の鹿砦社カレンダーを進呈します!)

子どもに向ける情熱を書に切り替えても、龍一郎さんの情熱は変わらない。そんな龍一郎さんは30年前を振り返り、今日の教育問題をどのように感じておられるのだろう。いまからお話が楽しみだ。

同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」
同志社大学学友会倶楽部第7回講演会 書家・龍一郎さん「教育のあり方を問いかけたゲルニカ事件から30年の想い」

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき言論を!絶賛発売中『紙の爆弾』11月号! 旧統一教会・幸福の科学・霊友会・ニセ科学──問題集団との関係にまみれた「安倍カルト内閣」他
田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

「体罰」ではなく、すべて「暴力」だった〈3〉わたしが振るった「暴力」考

◆「満期出所」後、大学へ──薄紅のソメイヨシノが「自由」と重なって見えた

前回までご紹介したような、「教育」の名に値しない高校の「満期出所」=卒後を控え、わたしは愛知県に強い嫌悪を抱いていたので、東京と関西の大学しか受験しなかった。しかもその年の3月(高校の卒後式後)には、数名で執筆した「愛知の管理教育を弾劾する」内容の書籍の発行が決まっていたので、大学に合格しなければ、翌年「卒業証明書」、「成績証明書」の発行が拒否される可能性を考慮していた(「そこまではしないだろう」と読者はお考えかもしれないが、法律など考慮もしない高校教師の狼藉は、その懸念を抱かせるに十分であった)。

二部(夜学)も含め複数の大学から合格通知を得たわたしは、学費などを考慮して、関西の大学への進学を決める。4月1日の入学式を前に、阪急電車の中から目にした桜並木のあでやかさが、忘れられない。桜なんか毎年見ていたはずなのに、「出獄」直後だからだろう。薄紅のソメイヨシノが「自由」と重なって見えた。

◆バブルな新卒2年を経たある日、通勤途上で「きょうで辞めよう」と思い立つ

さて、大学に入ると、時代はバブル真っ最中。キャンパスは浮ついており「夏はテニス。冬はスキー」というサークルが200以上はあっただろう。「大学に入ったら勉強して、世の中の不条理をただしたい」。「時代遅れ」とか「難しいこと言うな」あるいは「お前ひとりがそんなこと考えても仕方がないだろう」と散々揶揄されながらも、「授業料を払って通う刑務所」のごとき「あってはならない」行政悪を強制された身には、浮かれて遊ぶ気にはならなかった。

教職課程を履修するならば、1年時から「日本国憲法」を採ることができたけれども「教育関係機関には絶対勤めない」と確信していたわたしは、当然のごとく、教職課程は履修しなかった。そしてはっきり言えば講義の8割はクダラナイ。語学と体育だけは出席があるので出なければならないけど、科目名と講義内容の乖離。レベルの低さに嫌気がさした。かといって、大学内のいかなるサークルや部活動にも足場がなかったので、いきおいわたしが大学に出かける回数は減っていった。

少数話が通じる相手と、下宿で議論したり酒を飲んだりする時間以外は、読書かアルバイトばかりしていた。やがて卒業が迫ってくる。幸運にもバブルはさらにヒートの度を挙げるばかりで、わたしのような私学の大学生でも、下宿で寝ていたら企業から電話がかかってきた。

「面倒くさない。企業なんかどこに勤めてもどうせ大同小異だろうが。そんなところで俺が持つはずがないじゃないか」いまでいう「自己分析」はしっかりできていた。ただ、親の手前一度は世間に名の知れた企業に就職し「あいつでも就職できるんだ」と安心させてやるもの、子供の宿命と考え、当時就職人気1番と2番の会社から内定を得た(その後何度か転職をしたが「就職試験」で落とされたことは2度だけだ)。

予定通り2年ほど会社に勤務し、予想を超える「企業人」の苦痛さを実感したわたしは、寒い時期のある日通勤途上で「きょうで辞めよう」と思い立ち、10時の文房具屋開店を待ち、便箋と封筒を購入し「辞表」を書き上げて職場へ向かった。

◆転職した京都の名も知らない私立大学で過ごした稀有な時間

その会社を辞め、転職した会社の本社は大阪だったけれども、配属先は東京だった。「数か月したら海外の勤務に就かせる」との担当者の話を信じて就職したのだが、どうも数か月勤務してもその雰囲気はない。この頃出勤の際は独身寮から会社まで新聞を読んで時間を潰すのが、習慣だった。中でも、毎日目が行くのは「求人欄」だ。ある日京都の名も知らない大学が職員を募集する広告を出していた。

その後京都の私立大学に事務職員として採用された。『大暗黒時代の大学』で、ほぼ大学名が特定できるように記述したが、わたしにとってはまったく望外の職場と、職場にとどまらず精神性豊かなひとびとに、濃密に接する稀有な時間がはじまった。

先にわたしは、学生時代に「教育関係機関には絶対勤めない」と考えていたと述べた。その決意は簡単に翻った。簡単に決意を翻す人間と思われても仕方がないだろう。

ただ、結果的ではあるが、わたしはその大学で当時95%以上の日本の大学では、得ることができなかったであろう、生涯の記憶に残る経験をさせていただくことになる。本コラムで報告してきたのと、真逆の世界がそこにあった。

わたし自身は、学生時代に教職員と親しく接した経験はあまりない。ゼミの指導教員とはかなりいろいろな話をしたが、職員さんと話をしたのは数回だろう。だからわたしの「大学職員」という仕事のイメージは「地味で無難な方々が、基本定型業務に従事する」というものだった。これは多くの大学事務職員に対して、誤った像ではなかった。

ところが、わたしが採用された大学は違った。規模が小さいからであろうか、学部事務室がなく、本部機能が集中している事務棟には、講義中も休み時間も、ひっきりなしに学生が入ってくる。しかもカウンターの間から事務机の横にやってきて、先輩職員と話をしている。先輩職員は学生の名前を記憶しているだけではなく、学生の個性や問題まで把握していた。そして多くの学生も職員の名前を知っている。勤務時間中事務室にやってきた学生は、自分の悩み事や世間話を先輩職員とかわしている。いったいこの大学はどうなっているのだろうか?と唖然とさせられた。しばらく過ごすうちに、わたしの職場は「稀有」な理念で設立された大学であり、それが、一定程度当時は残っていたことに気がついた。

◆覚悟を決めて及んだ「暴力」

おおかた大学は「自由」や「理想」のかけらのようなものを、建学の精神としている。が、その多くは死文化し、形骸だけが支配している(今日の大学ほぼすべてがそうであるように)。ところが当時わたしの職場では「理想」の実践がまだ目に見える形で残っていた。学生と教職員の関係。教員と職員の関係。大学の在り方についての議論など、他大学のそれとは大きな違いがあった。

わけても顕著であったのは学生と職員の関係性だろう。採用された当時は諸先輩が学生と友達のように歓談する姿に圧倒され、劣等感を感じたが2年もするとわたしも多くの学生と知り合い、先輩同様に学生たちと毎日のように就業時間が終わると、職場での宴会を楽しむ関係になっていた。

学生との関係性が近くなるということは、単に享楽的な時間を共有することだけを意味するわけではない。下宿している学生が夜間に体調不良になれば助けを求める電話がかかってくるし、思い詰めて「自殺を考えている」という電話も本人や友人から何度もかかってきた。あるいはトラブルに巻き込まれ警察からの連絡であったり、恋人同士の別れ話……。とにかく大学で仕事に従事している時間以外にも、頻繁に学生から電話がかかってくる。恋人同士の別れ話など付き合っていられないから「勝手にせいや」とほおっておくが、「自殺」に関する話や、行方不明などは、すぐに現場に直行しないと取り返しがつかないことになる。

そのようなギリギリの場面で、わたしは学生に何度が暴力を振るったことがある。

落ち込んで、気力をなくしている学生。彼とは普段から付き合いがあって、だからこそ気持ちの吐露にわたしを選んで電話してくれたのだろう。「お前、そんな程度のことで死んどったら、命いくつあっても足りへんぞ!」わたしは怒ったふりをしながら、頭の中は冷静で「ここでは張り手を見舞うしかない」と覚悟を決めて彼の顔を張った。この件で後に「暴行」や「傷害」と問われても後悔すまい、と心に決めてからだ。

3回にわたるこのシリーズの冒頭で、「体罰。一見、理がありそうで生徒・児童に何らかの教育的効果が期待できそうな響きを持つ倒錯。わたしは教育機関におけるあらゆる「体罰」を全面的に否定する。高校・大学の運動部においても同様。わたしがこれまで体験してきた「体罰」は、生徒・児童の不適切行為に対する教師の、やむにやまれぬ選択であったことは一度もない」と書いた。そうだ。体罰などというのは、暴力を振るった大人の弁解・欺瞞で、暴力は暴力でしかないと、いまでも考えている。

だからわたしが彼に振るったのは、「自殺」を止めるためとはいえ、「暴力」であったと思っている(そのときに「暴力」以外に彼を覚醒させる方法を思いつかなかったし、いま振り返っても、同じ状況であれば同じ行動を選択していた)。

また、数百人の学生と学外からの侵入者が、大乱闘を繰り広げた際に、騒動を鎮めるために、泥酔したある卒業生を殴ったこともあった。この折には学生に何人もの重傷者が出ていたので、騒動の鎮静化が第一と考え、1対数百では「ショック」しか方法が浮かばず、大声を上げてある卒業生を殴った(勿論在学中から知り合いの人間だ)。

当然、このときは数百人の目撃者がいる前での「暴力」であり、のちにわたしの行為が問題化されることは覚悟の上であった。

あれらは決して体罰などではない。暴力だ。ただし、わたしが「授業料を払って通う刑務所」で受けた暴力と、あえて違いを弁解するのであれば、わたしは、自分がその後批判されたり、罰を受けようとも構わない覚悟があって、その時には、それしか方法がないと覚悟を決めて暴力に及んだことである。

わたし自身に暴力を振るいたい衝動や動機などはまったくなかった。大学生、あるいは卒業生で、普段から酒を飲むなど一定以上の関係性が成立している「大人と大人」の間での関係が成立したうえでの「暴力」だ。そうであっても人間関係が崩れたり、刑事罰を受ける覚悟はあった。そのくらにい腹をくくらなければ「暴力」の行使に及んではならない、とわたしは考える。(完)

◎「体罰」ではなく、すべて「暴力」だった(全3回)
〈1〉1980年代、愛知県立高蔵寺高校の暴力教師たち
〈2〉授業料を払いながら通う『刑務所』には「組合」に入っている教師がほとんどいなかった
〈3〉わたしが振るった「暴力」考

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)

「体罰」ではなく、すべて「暴力」だった〈2〉授業料を払いながら通う『刑務所』には「組合」に入っている教師がほとんどいなかった

「授業料を払いながら通う『刑務所』」に集められた教師たちには特徴があった。新卒教員が極めて多いこと、そして「組合」に入っている教師はほとんどいないことであった。

◆一人だけまともな教師がいた

なんの間違いか「授業料を払いながら通う『刑務所』」に配属された、のちの恩師にO.K先生がいた。O.K.先生は早稲田の政経学部から明治の大学院に進み、橋川文三に師事したインテリだった。彼と初めて言葉を交わしたのは2年生のときだった。わたしがどういうわけか1年生の前で「講話」をするように教師どもから指示を受けたときだった。「講話」というのは朝礼や、それ以外の任意の時間でも高校がその気になれば生徒を集めて、教師が気まぐれな話をすることを指す。

ある時は、役職者の矢野という教師が「本校は教育でいく!『今日行く』、『Today Go』です!」と真顔で語っていたことを思い出した。

そう。新設校の教師はなべて知的水準が低かった。「教育」を「Today Go」と訳す馬鹿に指導されて大学に入るのは、至難であることは理解されやすかろう。

「新設校の常套手段だ! 核になる『生徒づくり』!」O.K先生は幾分ぶっきらぼうにわたしを斜めに見ていたように記憶する。わたしは友人の情報で「一人だけまともな教師がいる」にすがる思いでO.K先生に相談に行ったのだが、彼のフラストレーションも限界に来ていたのだろう。

高校卒業後にO.K先生とは何度も飲んだ「意地悪だったよね。初対面のとき」とわたしはいつも嫌味を繰り返したが、「ゴメン、本当に記憶がないんだ」と深刻そうな表情をするO.K先生とは、彼が不慮の事故で他界するまで親しくお付き合いさせていただいた。

◆威張り方だけは十分仕込まれていたノンポリ「漂白済み」新卒教員たち

新卒教員連中は、勘違い激しく先輩暴力教師の真似をして、どんどん不良教師として成長していった。山口県光市出身で東京理科大卒の数学の教師は、きわめて口下手だった。民間企業では絶対に務まらない域だ。その彼が珍しく身を乗り出すようなことを語ったことがあった。

「みんな、高校に入って、『なんだか自由がない』と思ってるんだと思う。どうしてこういう教育になったかというと、大学や高校が『学園紛争』で荒れた時代があったんだね。そういうことを起こさせないために、こういう教育になっている」

ほおー。愛知県の新任教師研修ではそこまで「本音」が語られているのか、とちょっと驚いた。弾圧は明確な意図と言葉で成立していたのだ。もちろんノンポリで東京理科大に行けるくらいだから、試験の成績は良かったのだろう。しかしこの新任教師は、リアルな「社会」を全く知らなかったし、興味を持ったこともなかったのだ。事程左様にノンポリ「漂白済み」のような教師(22、23才だろう)のくせに、威張り方だけはすでに十分仕込まれていた。

ところがものごとは直線状に進むとは限らない。教師どもの本音を知った同級生の中からは、本腰で教師と非妥協な関係を構築するものがむしろ増えた。わたしはO.K先生に数学新任教師が「本音」を語ったことを、半分笑いながら伝えた。

「笑いごとじゃないんだよ。君らはいいけど、僕は職員会議では完全に孤立している。もう疲れた…」。「授業料を払いながら通う『刑務所』」に勤務していた当時、O.K先生の口癖は「もう疲れた」だった。

◆「真っ当な神経の持ち主」の教員は「登校拒否」となった

O.K先生だけではない。わたしの1年生時担任だった九州出身で夜学を出た苦労人の先生は、学年途中から半分「登校拒否」になってしまった。わたしたちはその先生の「登校拒否」を批判しなかったし、むしろ肯定的にとらえた「真っ当な神経の持ち主」だと。卒業後O.K先生の自動車に苦労人の先生と同乗したことがあった。苦労人の先生は「僕はまっぴらごめんだけど、田所には高蔵寺高校に入ったことを後悔してほしくないな」というようなことを言われた。わたしは少し言葉を荒げた。

「先生は嫌いではないですよ。でもわたしたちの『失われた3年間』は誰がどうやって返してくれるんですか? ご存じですか? 高蔵寺高校は『青春の墓場』と他の高校から比喩されていることを」この発語は今も撤回するつもりはない。いい年をとったが、あの3年間の息苦しさは「教訓」にこそなれ誰も、あがなうことはできはしないのだ。やや過剰な表現を使えば「戦場体験」と似ているかもしれない。時間がたてば忘れられる。そんな類の浅い傷ではない。

◆夕方のTVニュースで映った高蔵寺高校校長、伊藤一太郎の顔

高校を卒業して大学1年のとき、暑い夏の夕方TVの報道番組を見ていたら、どこかで記憶に残っている顔は映っている。あ! 伊藤一太郎じゃないか! 「授業料を払いながら通う『刑務所』」こと愛知県立高蔵寺高校の校長だ。

何が起こったのか? 報道によると校長や事務長がPTA費を流用していたらしい。「ほら見やがれ!」無意識にわたしは叫んでいた。狭い下宿で上半身裸のまま、シャワーを浴びた直後にもかかわらず、再び怒りと興奮で汗が止まらなかった。

「権力」、「暴力」、「保身」の本質とは何か。人間はいかに情けない動物か。わたしは3年間の「授業料を払いながら通う『刑務所』」生活で学んだ。実名で名前をあげた当時の教師どもはまだ健在か。あるいはすでに他界したものもいるかもしれないが。君たちに告げておこう。「あなたたちが冒した罪を、わたしは死ぬまで忘れないし、許さない」と。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

創業50周年 タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』10月号絶賛発売中!
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「体罰」ではなく、すべて「暴力」だった〈1〉1980年代、愛知県立高蔵寺高校の暴力教師たち

体罰。

一見、理がありそうで生徒・児童に何らかの教育的効果が期待できそうな響きを持つ倒錯。

わたしは教育機関におけるあらゆる「体罰」を全面的に否定する。高校・大学の運動部においても同様。わたしがこれまで体験してきた「体罰」は、生徒・児童の不適切行為に対する教師の、やむにやまれぬ選択であったことは一度もない。

逆だ。極めつけは「お前のその目つきはなんじゃ!」と、その筋の人間まがいの言いがかりをつけ、柔道で国体に出場経験のある教師が、生徒を投げるは蹴るは(木製タイルの上で)。その行為をわたしたち間では「殺人フルコース」と呼ばれていた。

◆生徒の鼓膜を破っても無罪放免だった中学教師の「狂乱」

不良なんか一人もいないおおらかな中学だった。だからその教師の「狂乱」が発生すると授業中のほかのクラスにも教師の怒鳴り声と、生徒の悲鳴が拡散する。心ある教師たちは、その悲鳴を聞いて「困った……」表情を隠しはしなかった。鼓膜を破られた生徒もいたがなぜか問題にされなかった。

柔道やボクシング、空手経験者が暴行傷害で検挙されると、通常人の行為よりも重く罰せられると聞いたことがあるが、その教員の過剰な暴力を校長も、他の教師もPTAも問題にはしなかった。彼らの言い分は「熱心な先生だから」。

馬鹿を言え!と言いたかったが、わたし自身もその教員に暴力を食らったことがあり(しかもその理由は極めて陰湿かつ政治的なものだった)中学生の頭脳と語彙では対抗することができなかった。歴史や文化の浅い街「ニュータウン」では、一般的な地域よりも権利意識が希薄であり、保護者連中も総じて教師に傅いていた記憶がある。

そしてこれは経験上の法則であるが、「暴力」教員を放置する学校では、もとは「暴力」を振るわなかった教員の「暴力」が蔓延する。「あの人もやっているから大丈夫なんだ」と思うそうだ。卒業してから20年ほどして暴力に手を染めた教員に感想を聞いた。無責任であるし、言語道断だと思う。

◆2012年「反原発」集会で目の前に現れた「高蔵寺高校分会」の組合旗

2012年東京。大規模な「反原発」集会とデモが行われていた。わたしはそこで腰を抜かしかけた「高蔵寺高校分会」の組合旗を目にしたからだ。そこそこベテランと思われる「高蔵寺高校分会」の旗を持った、おじさんに声をかけた。

「先生は高蔵寺高校の方ですか?」
「そうです。ここにいる3人は分会のメンバーです」
「わたしは高蔵寺高校の卒業生です。わたしが生徒だった頃は、組合に入っていた先生は一人しかいなかった。そしてひどい学校でした」
「開校当初の入学ですか」
「そうです」
「あの頃は酷かったでしょうね。声も出せなかったからね」
「いま、組合の先生は何人ほどいらっしゃるんですか」
「分会には20人近くいますよ」

光陰矢の如し、である。もちろん30年近い時間が経過しているのだから、変化は当然にしても、数万人集まった集会の中で、目の前に忘れようにも忘れられない「授業料を払いながら通う『刑務所』」の組合旗が現れたのは、表現するのが難しい感覚だった。

校長公認で学校ぐるみで生徒への暴力を推奨するのが、わたしが通っていた「授業料を払いながら通う『刑務所』」こと愛知県立高蔵寺高校であった(いまでは当時のような無茶な教育は行われていないと聞く)。

◆「東郷方式」という犯罪的教育ファシズムの嵐

1980年代。愛知県内では新設校で「東郷方式」と呼ばれる、犯罪的教育ファシズムの嵐が吹き荒れていた。愛知県立東郷高校ではじまった、この教育に名を借りた犯罪は、たとえば、学校には文化祭、生徒会、修学旅行、などは一切なし。高校は勝手に「集団行動訓練」と呼んでいたけれども、実質的な「軍事教練」が日々行われる。

毎日2回ある掃除の時間には生徒が、受け持ちの場所に走ってゆき教員に「点呼報告」を行う。

「報告します総員〇名、現在〇名。以上ありません」
「よし」(教員)
「お願いします」

これで掃除が始まるのだ。掃除の終了時には再び点呼報告がある。
「報告します総員〇名、現在〇名。以上ありません」
「よし」(教員)
「ありがとうございました」

いったい、1日に2回の掃除を強要されて、誰に「お願い」したり「ありがとうございました」という必要があるのだ。と、いう疑問をもってそれを発露すると大変なことになる。わたしは愛知県立高蔵寺高校在学中に、市来宏、冨田正二、英語担当の山本某、体育の佐治某など数えきれないほどの教員から個別に、あるいは集団暴行を何度も受けた。

ある時は現代国語の試験に「何でもよいから短歌をかきなさい」という設問に短歌を創作したら「その内容がけしからん」と職員室に呼び出されて暴力を振るわれた。

◆教師の8割以上が「日本教育会」の構成員だった

冨田正二は非常に悪質な音楽の教師であったが、暴力高校の屋台骨を背負っていた感がある。この男には音楽の時間に校歌ばかり歌わせられた。そういうくだらない授業に辟易していたので、3年生で非常勤の音楽の教師が「どんな授業を受けたいか書いてください」と4月の初めにアンケートを配布された際「1年生の授業はつまらなかったので、楽しい授業をお願いします」と書いたら、そのアンケートをどういうわけか冨田が見ていて(!)またしても職員室に呼び出され、顔や腹を殴られた。

また冨田は「日本教育会」という、当時は統一教会との関係も取りざたされた団体のリクルーターだった。「授業料を払いながら通う『刑務所』」に在籍していた当時の教師の8割以上は「日本教育会」の構成員だった。

◆「『申し訳ございませんでした』と学校に詫びろ」と罵声を浴びせる英語教師

愛知県立高蔵寺高校では、受験成績を上げるために、文系志望の比較的成績の良い生徒には、愛知大学と南山大学を受験するように強要が行われていた。わたしを含む学校にまったく好感を持たない生徒は愛知大学・南山大学の受験を拒否したが、そうすると保護者にまで電話を掛けたり、通知書に「どうして愛知・南山を受けようとしないのでしょうか」などと平然と書き込む馬鹿教師もいた。

3年生の時担任であった国語の中村某もその一人だ。中村は地頭が悪く、少しでも議論になると頭の整理がつかなくなり、破綻して現場を逃げ出すか「俺にも家族がある」と情けない言い訳をするどうしようもない教師だった。

だが中村以上に悪質で、特筆すべきは英語担当の山本某と市来宏だ。山本は45分間の授業の間に、毎回最低30回以上わたしを指名し、回答をさせた。わたしのクラスは30数人いたと思う。その中で私だけが毎回30回以上指名されるのだ。45分間に30回以上、多いときは40回以上回答を求められるので、好意的に解釈すれば「個人指導」を受けているようなもの(笑)だが、回答を間違えようものなら「ほらみろ! お前はいつまでも学校に反抗的な態度をとっているから、間違うんだ! 『申し訳ございませんでした』と学校に詫びろ」という罵声をあびせられるのだから、山本の行為はいじめといって過言ではなかったろう。

山本から罵倒された数は記憶できる範囲を大きく超えている。しかも山本は愛知大学・南山大学の受験を拒否する生徒に「受験料は先生が出したる」と授業中に公言し、実際に2万5千円(受験料相当額)を友人に無理やり受け取らせようとしていた。暴力教師の間では「自分の高校の生徒何人を愛知大学・南山大学に合格させたか」が競争のバロメーターになっていたのであろう。何たる貧弱な発想。迷惑な行動だろうか。

◆生徒に散々暴力を振るい、校長にまで出世した市来宏はしらを切る

市来宏は生徒に散々暴力を振るい、校長にまで出世して、退職後は馬を飼い、それが地元のテレビ、新聞で「美談」かのように報じられたが、とんでもない。この男ほど暴力の常習者はいなかっただろう。ちなみに市来宏はその話を『愛馬物語―クラリオンと歩む北の大地』として出版している。

竹刀を短く作り替えた「暴力専門」の棒を常に持ち歩き、少しでも気に入らない生徒の振る舞いがあれば、何の躊躇なく暴力を(しかも道具を使い)振るう。言葉での恫喝は趣味だったようで、こいつにはサディストの気があったのだろう。

数年前に市来に電話をして、「どうしてあなたはあのように暴力を振るったのか? わたしにどうして執拗に嫌がらせをしたのか?」と聞いたところ市来は「そんなことはしていない」と開き直った。ちなみにわたしの成績証明書は改竄されている。当時社会科の「倫理社会」は必須科目だったが、わたしたちの学年は教科書だけ買わされて、一度も「倫理社会」の授業を受けたことがない。にもかかわらず成績証明書には評価がつけられている。

その理由を市来に聞くと「知らない」としらを切る。何をいっているんだ! 学年主任だった市来が知らないところで成績の改竄が行えるわけがないじゃないか。自分に都合の悪いことは「知らない」癖に「あの頃の高蔵寺高校はどこよりも自由だった」と、腰を抜かしそうなことを言う。

電話をかけた当時市来は(現在は知らないが)痴呆だったわけではない。自分に都合の悪い質問は、言葉巧みにかわそうとしていた。わたしたちの学年の国公立大学志望者は、全員防衛大学の受験が強要された。この件は朝日新聞の社会面で報道されたが、その件を市来に聞いても「そんな事実はない」ととぼける。このような人間は本来、教育にかかわってはいけないのだ。(つづく)

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

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学生や学校を食い物にしながら狼藉を改めないブラック企業、リクルートの犯罪

〈就職活動中の学生の内定辞退率予測データを企業に販売した問題で、謝罪するリクルートキャリアの小林大三社長(左)=26日夜、東京都千代田区、就職情報サイト「リクナビ」を運営するリクルートキャリア(東京)の小林大三社長は26日夜、就職活動中の学生の内定辞退率を予測したデータを企業に販売した問題に関して都内で記者会見し、「学生や企業など多くの方々にご迷惑をお掛けし、申し訳ない」と謝罪した。同社はリクナビを利用する学生のうち、7万4878人のデータを使って内定辞退率を算出。7983人については本人の同意を得ずに外部に提供した。〉リクナビ問題、社長が謝罪=内定辞退率を分析-データの合否判定利用なし(2019年08月26日付け時事通信

どこまで大学生や受験生を、食い物にすれば気が済むのだろうか。だが、この会社には設立時から、社会的常識、順法意識、人権感覚などはなかった(なにもリクルートに限ったことではない。日本の「会社」は「社会」を逆にした固有名詞であり、多くの会社で「会社の玄関をくぐれば『日本国憲法』など通用しない。このフレーズと、本当は無視していたはいけなかった悪癖がが定着して、どのくらい経つだろう」)。

リクルートの商売は悪質だ。何回かに分けてこの通信で報告することも不可能ではないが、拙著『大暗黒時代の大学』でリクルートが、大学生をどのように食い物にしているかは、詳述してある。興味をお持ちの方はお読みいただければ幸いだ。

人の人生が「商品」になる。ん?

そういう商売をリクルート(だけではなく同じような業種の企業)は、儲けにしている。「進学情報」、つまり大学や高校の受験倍率や、志願者数、偏差値を公表している分には問題はない(しかし、企業にとっての「利益」も少ない)。そこで、リクルートが手を付けたのが、大学入試前から個々の受験生の個人情報を収集し、それを就職活動にも利用する商法だった。

それだけでも、どうして公正取引委員会が介入しないのか、と不思議であるが、このほど明らかになったのは、「内定辞退率予測データ」の企業への、有償提供(販売)である。

どうして「内定辞退率予想」(実際には内定辞退者名も含まれているだろう)を、リクルートは掌握し、企業に「販売」できたのか。それは「リクルートが就職活動にかかわる学生のほとんどの情報をもって」いなければ不可能なことであろう。どの情報をリクルートはガッチリ確保しているから、こういった「人権無視」の商売が可能になるのだ。

けれども、こういった「個人情報」のやり取りは、わたしたちの知らないところで、既に大々的に繰り広げられている。検索エンジンで何かを検索すると、それに関した広告がしつこいほど表示される経験をお持ちの読者は少なくないであろう。うっかりマイクロソフトやソフトバンクなどに、メールアドレスや住所と一緒にあなたの情報を提供していたら、もうあなたの購買嗜好は、真っ裸にされている、と考えた方がいい。

AIという名の人格を持たない、機械は、人間に近い違法行為を行っても、「人格」がないから、人間のように逮捕されたり刑事罰を食らうことはない。あくまで「機械」なのだから。でも人間よりよほど情報処理能力が優秀で、判断までするこの「人工物」は科学技術の「賜物」のようにチヤホヤされているけれども、AIが犯した罪を被るのは、結局「製造物責任」あるいは「使用責任」のある人間であることを、AI賞賛者の皆さんおわかりであろうか。

AIなどと構えなくても、エアコンの調整機能や、冷蔵庫の節電機能。自動車の電気系統や、目の前のパソコンやスマートフォンなど、集積回路のお化けのような能力に、日々わたしたちの生活は依存している。嫌ならどこか電気の通っていない場所で、生活はじめるほかない。そういう現実は受け入れざるを得ない、にしても「内定辞退率予想」を企業に販売するのは、人間の思い付きだろう。

いつまでたっても、本質的には学生や学校を食い物にしながら、狼藉を改めないリクルートという企業と、その疑似企業にはあきれ返るしかない。騙されるな!受験生、就職活動に直面している諸君!

▼田所敏夫(たどころ としお)
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田所敏夫『大暗黒時代の大学──消える大学自治と学問の自由』(鹿砦社LIBRARY 007)
月刊『紙の爆弾』9月号「れいわ躍進」で始まった“次の展開”

日本は多言語社会になりうるか?──言語とメディアリテラシー(後編)

◆前回のあらすじ

今日の日本における、英語教育に関する議論にはメディアリテラシーについての観点が欠けているように思われる。重要なのは英語をはじめとする他言語から情報を得て、多角的な観点を持つことである。多くの国の公用語である英語やスペイン語などとは異なり、日本語は日本一国でしか使用されない。日本語の情報の多くは日本から発信された情報であるため、日本的フィルタリングがかかってしまう。メディアリテラシーを高めるためにも、いくつも言語を理解できることは極めて重要である。 ※前回リンク

◆相対的に弱まる英語=西欧文明の覇権 諸文明の台頭と多言語化

さて、今後の状況を見ると外国語として英語だけ学ぶというのでは不十分かもしれない。近年、アメリカやヨーロッパの西欧文明が弱体化し中華文明・イスラーム文明・東方教会(ロシア)文明などが自身の論理を主張、「民主主義」「人権」といった西欧文明の理念を否定し、自分たちが望む体制の構築に取り組み始めた。西欧文明の英語だけではもはや不十分であり、中華文明の中国語やイスラーム文明のアラビア語といった各々の文明圏で有効な言語を学ぶことも重要になるのではないだろうか。

◆日本の学校のずさんな「英語教育」と外国人学校という選択肢

『平成28年度 英語教育実施状況調査(中学校)の結果』

しかし誠に残念ではあるが今の日本の教育現場で多言語教育を期待するのはほぼ不可能であろう。英語をまともに話せて教えられるような教員はほとんどおらず、ひどい例では自称「英語教師」が駅前の英会話学校に通っている様である。

さらに文科省の2016年の調査によると、英検準1級・TOEIC730点以上の英語力のある「英語教師」は、中学教員で全体のわずか33.6%、高校教員でも65.4%しかいないことが分かっている。もっとひどい例では、2016年に京都市を除く中学校の英語科教員でTOEICを受験した74人中、730点以上を獲得したのは16人で、約2割にすぎなかった。最低点は280点で、500点未満が14人もいたという。京都府教育委員会は「英語科教員の資質が問われかねない厳しい状況だ」としている。

※参考URL
『京都府 中学英語教員、TOEIC「合格」わずか 疑問も』
『平成28年度 英語教育実施状況調査(中学校)の結果』 

こんな状況で日本の学校(特に公立)で英語に加え、さらに第二言語として中国語や韓国朝鮮語などを学ぼうとするのは絶望的に不可能である。一部、まともな外国語教育をしている学校もあるがそれは例外である。私は日頃から「学校」という洗脳機関には、嫌悪感を抱かざるを得ない。教育委員会が生徒間のいじめ(という犯罪)による自殺事件の調査や事前防止をないがしろにしたこと、部活の顧問による生徒への体罰、そしてあまりにもずさんな「英語教育」の現状……。

本当に「センセー」方には生徒を教えようとする意志があるのだろうか。とりわけ公立学校の教員というのは公務員だから少しぐらい適当にしても、解雇されないと安心しているのではないだろうか。一体、これほど英語能力が低いのになぜ彼らはかつて英語教師を目指そうとし今は「英語教師」として私たちの税金で生活しているのか全く疑問である。

今のところ、一般的な日本人が多言語教育を期待できるのは外国人学校ぐらいしかないのかもしれない。日本の各地には台湾や韓国朝鮮、ブラジルやインドなどの様々な外国人学校がある。これらの学校なら、日本の学校よりもずっとまともな多言語教育が期待できるだろう。また一般的な日本人がこのような外国人学校に入ることで自らの社会における立ち位置を相対化できやすくなるのも長所と言える。

時代はまさに多言語化である。「日本語しかわからなくても生活できる」という意見は論外であるし、さらに「外国語は英語だけでよい」という意見も不十分である。私たちは様々な言語を身に付け、多角的な視野を養う必要がある。

▼Java-1QQ2
京都府出身。食品工場勤務の後、関西のIT企業に勤務。IoTやAI、ビッグデータなどのICT技術、カリフ制をめぐるイスラーム諸国の動向、大量絶滅や気候変動などの環境問題、在日外国人をめぐる情勢などに関心あり。※私にご意見やご感想がありましたら、rasta928@yahoo.ne.jpまでメールをお送りください。

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[特別寄稿]滋賀医科大病院が国立がんセンターのプレスリリースを改ざん ── 岡本メソッドに対する印象操作か? 黒薮哲哉

滋賀医科大学医学部附属病院が、国立がん研究センターが公表したプレスリリースを改ざんして、6月11日に、同病院のウェブサイトに掲載していたことが分かった。

この資料は、国立がん研究センターが公表した時点では、1ページに満たない短い資料だった。ところが滋賀医科大は、これに約2ページ分の情報を複数の資料から抜粋して再構成し、3ページに編集した。そして、これら全部が国立がん研究センターによるプレスリリースであるかのように装って掲載したのである。

何が目的でこのような大がかりな改ざん行為に及んだのだろうか。既報したように、滋賀医科大病院は、岡本圭生医師による高度な小線源治療(前立腺癌が対象)を年内で中止して、岡本医師を病院から追放しようとしている。それを正当化するためには岡本メソッドが、他の癌治療と比較して、継続するだけのメリットがないという世論を形成することが必要になる。そこで権威のある国立がん研究センターのロゴが入ったプレスリリースを改ざんして、自分たちの目的に沿った内容に改ざんしたである。

具体的な手口は、次のYouTubeで紹介している。滋賀医科大病院に問い合わせた際の音声も、そのまま収録した。


◎[参考動画]滋賀医科大学のフェイク(安江博 2019/6/26公開)
https://www.youtube.com/watch?v=w3rPzAk9G3E

◆がんセンターの資料は1ページ目だけ

フリーランス記者の田所敏夫さんらが、この改ざんについて、国立がん研究センターへ問い合わせたところ、YouTubeで示されている部分のみが同センターが発表した部分であることが判明した。

国立がん研究センターは、元々のプレスリリースと改ざん部分の区別について、田所さんに対し、次のように文書で回答している。

「お問い合わせにつきまして、担当部署に確認いたしました。
 当センターの情報は、1ページ目の当センターロゴから前立腺がんの表まで、そして、1ページ目の用語の説明のみでございます。以上、ご報告いたします。」

つまり約2ページ分を滋賀医科大病院が我田引水に「編集」して、元々のプレスリリースを含む3ページの資料に編集し、あたかもそれが国立がん研究センターが発表したものであるかのように装って、病院のウェブサイトに掲載したのである。

改ざんされた資料は次のURLでアクセスできる。オリジナル(国立がんセンターのプレスリリース)と比較してほしい。

◎[参考資料]改ざんされたプレスリリース
https://www.shiga-med.ac.jp/hospital/cms/file.php?action_disp&id=1156&fid=2013

 
改ざんされたプレスリリース

◆何が加筆・編集されたのか?
 
滋賀医科大学病院が改ざん・編集により印象操作を企てたのは、前立腺癌に対する4つの治療法における5年後の非再発率である。それによると次のような成績になっている。

・ロボット支援前立腺全摘除術(弘前大学):97.6%
・外照射放射線治療(群馬大):97.6%
・小線源治療(滋賀医大):95.2%
・重粒子線(放射線医学総合研究所病院):不明
・小線源治療(京都府立医大):94.9%

これらのデータを見る限りでは、滋賀医科大学の小線源治療(岡本メソッド)にはまったく優位性がないことになる。それどころかロボット支援前立腺全摘除術か外照射放射線治療を受けた方が、岡本メソッドを受けるよりも5年後の非再発率が高いことになる。当然、岡本メソッドの中止と岡本医師の追放はやむを得ないという世論が形成されかねない。おそらく滋賀医科大の塩田浩平学長は、それが目的でこのような誤解を与える記述の掲載を許可したのである。

◆データのトリック

これらのデータには、専門家でなければ見破れない巧なトリックが隠されている。端的に言えば、基準が異なるものを比較しているのだ。比較するのであれば、比較の基準が同じでなければならない。滋賀医科大病院は、その基本的な学術上のルールすらも無視しているのだ。

周知のように前立腺癌の検診は、血液を調べるPSA検査により行われる。PSAの数値が4.0 ng/mLを超えると前立腺癌の疑いがあり、精密検査で癌を発症しているかどうかを確定する。

意外に知られていないが、実はこのPSA検査は、前立腺癌の治療を受けた後の経過観察でも行われる。

施術方法のいかんを問わず、治療を受けた患者のPSA値は下降線をたどり、横ばいになるのだが、再発すると再上昇に転じる。この原理を応用して、医師は、PAS値の変化を観察することで、癌が再発したかたどうかを判断するのである。
 
この点を前提にしたうえで、データの改ざんについて説明する前に、前立腺癌の治療法についてもあらかじめ言及しておかなくてはならない。前立腺癌の治療では、ホルモン療法と呼ばれるホルモンを投与する療法により、施術前に癌を委縮させる方法が適用されることがままある。癌を小さくしたうえで、施術するのだ。

ホルモン治療が効力を発揮した場合、PSA値は下降する。そしてホルモン治療が終わった後も、1年から2年ぐらいの期間はその効用が維持されるので、PSAは上昇しない。

滋賀医科大が提示した他の医療機関のデータは、ホルモン治療の効用が持続している期間を含めた非再発率なのである。

とりわけ、弘前大学のデータにいたっては、論文の中でも、経過観察の期間が30カ月であることを明記している。それにもかかわらず都合のよいデータだけを提示して、あたかもロボット支援前立腺全摘除術と岡本メッソドでは、大きな違いがないような印象操作を行っているのである。

◎患者会のURL https://siga-kanjakai.syousengen.net/
◎ネット署名へもご協力を! http://ur0.link/OngR

◎[関連記事]黒薮哲哉[特別寄稿]小線源治療患者会が国会議員と厚生労働省へ嘆願、2万8,189筆の命の署名を提出(2019年3月15日付けデジタル鹿砦社通信)

▼黒薮哲哉(くろやぶ・てつや)
フリーランスライター。メディア黒書(MEDIA KOKUSYO)の主宰者。「押し紙」問題、電磁波問題などを取材している。

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