藤田ゼン氏初興行WARRIOR開催はメインイベントが劇的TKOで締め括る。
馬渡亮太はヒジで斬られる惜敗。
浅井春香はまたも引分け防衛。
皆川裕哉は速攻のヒザ蹴りで完封TKO勝利。

◎WARRIOR/ 10月8日(日)後楽園ホール 17:30~20:41
主催:ROCK ONジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)

◆第9試合 70.0kg契約 5回戦 

JKAミドル級チャンピオン.光成(ROCK ON/ 69.85kg)
        VS
JKAウェルター級チャンピオン.大地・フォージャー(誠真/ 69.8kg)
勝者:大地・フォージャー / TKO 2R 1:17 /主審:少白竜

蹴りは牽制気味にパンチ重視で主導権を掴もうとする両者。光成の左ジャブが時折、大地の顔面にヒットする攻勢を維持する。

大地vs光成、ジャブの相打ち。ここまでは光成優勢

第2ラウンドにはパンチ交錯の中、大地の左のジャブというよりはストレートがヒットし、光成が後方に倒れるノックダウン。ちょっと効いた様子で立ち上がるが、再び大地の左ストレートがまともにヒットすると光成はまたも後方へ倒れ込む。

ダメージを見たレフェリーがほぼノーカウントでストップした。勝った大地はリングを駆け回り喜びを表した。

大地が左ジャブで光成をロープ際へ追い込むが強打はまだ温存

最後の左ストレートヒット後、光成は後方に倒れるとレフェリーは止める体勢

◆第8試合 58.06kg(128LBS)契約 5回戦

馬渡亮太(治政館/2000.1.19埼玉県出身/ 58.0kg)
        VS
ビン・リアムタナワット(タイ/18歳/ 58.0kg)
勝者:ビン・リアムタナワット / TKO 2R 1:09 /
主審:松田利彦

第1ラウンドは様子見ながら馬渡亮太が先手を打って出る

第2ラウンドの序盤この辺りでビンが馬渡の頭部を切ったか、この後更に左ヒジ打ちに移る

馬渡亮太はWMOインターナショナル・スーパーバンタム級チャンピオン。

ビンはタイトル歴は無いが、ラジャダムナンスタジアム常連のスーパーフェザー級メインイベンター。

ローキックで様子見の両者。ミドルキックへ繋ぐ中、馬渡亮太は前蹴りでビンのバランスを崩す先手を打つ上手さを見せる。

クリンチ気味に接近戦になると、どちからのヒジ打ちが出るようなスリルが漂う。

やや馬渡のペースになりつつある中、第2ラウンドにはビンが勢いを増して来た。

接近戦に入ると本領発揮か、一瞬の左ヒジ打ちで馬渡の頭部(髪の中)をカット。続行する中、鮮血が流れた。

更に接近した瞬間、ビンの左ヒジ打ちで馬渡の右眉上をカット。今度はすぐにレフェリーが中断。

長く1分程掛かったドクターチェックの末、続行不可能勧告を受け入れたレフェリーが試合はストップした。

直接的箇所は右眉上のカット。試合運びは馬渡が主導権を握りつつあったが、タイの一流どころはこんなヒジ打ちが怖いところである。

続行を訴えたという馬渡亮太の無念さが表れる傷の深さ

浅井春香が得意とする相手に体重をかけてのヒザ蹴り、掴まえてもっと圧倒したかった

◆第7試合 女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級タイトルマッチ 3回戦

選手権者.3度目の防衛戦.浅井春香(KICK BOX/ 55.15kg)
        VS
同級1位.MARIA(PCK大崎/TeamRing/ 55.15kg)
引分け 三者三様
主審:中山宏美
副審:少白竜29-29. 勝本29-30. 松田29-28

浅井春香は今年3月26日、引分け防衛となった相手、MARIAと再戦。

両者、パンチとローキックから組み付いて行くと浅井のヒザ蹴り。

離れればMARIAのパンチが目立ち、バックハンドブローは当たらなくてもインパクトを与えた。

浅井は組み合ってのヒザ蹴りは出るが離れた距離でのローキックやミドルキックが殆ど出ない。出しても単発で首相撲に入る。

3月の試合から大きな変化は無かった展開で三者三様の引分け。

浅井は2021年6月20日にKAEDE(LEGEND)との王座決定戦で勝利するも昨年5月21日、KAEDEに引分け初防衛し、これで3連続引分け防衛となった。

試合終了間近になって浅井春香がハイキックを繰り出す

◆ジャパンキック協会・ライト級2位内田雅之(KICK BOX/1977.12.26神奈川県出身)引退セレモニー

内田雅之は新日本キックボクシング協会で2011年12月17日に日本フェザー級王座決定戦で瀬戸口勝也(横須賀太賀)に判定勝利し王座獲得。4度の防衛戦を経て、2015年10月25日に重森陽太(伊原稲城)に判定で敗れ王座陥落。今年3月19日にジャパンキックボクシング協会のライト級王座決定戦で睦雅(ビクトリー)に大差判定負けが最後のタイトルマッチとなった。

セレモニーでは協会代表、小泉猛氏より功労金贈呈、記念のパネル贈呈、鴇俊之会長の労いの言葉、ジム、後援会などから花束贈呈の後、内田雅之氏の御挨拶と続いた。

「本日は御来場有難うございます。私、内田雅之はキックボクサーを引退させて頂きます。このようなセレモニーをして頂いたジャパンキックボクシング協会の皆様、今迄応援してくれていた皆様、KICKBOX鴇会長、本当に有難うございました。デビューして19年、山あり谷あり、谷の方が多かったかもしれません。でもそこで皆さんの応援してくれた御陰で自分はここまで来れたと思います。本当に有難うございます。雅之コールはもうリングの上では聴けませんが、あの時の気持ちを忘れないで、次の舞台でも挑戦し続けて頑張りたいと思います。これからのジャパンキックボクシング協会の御発展を祈念しております。本当に有難うございました。」

目線は会場の観衆に向け、メモ無しでしっかり自分の言葉で挨拶を終えた、結構インパクトある15分ほどのセレモニーだった。戦績61戦35勝(8KO)16敗10分。

引退セレモニーに臨んだ内田雅之、エキシビジョンマッチは出来ない事情があった

◆第6試合 フライ級3回戦

JKAフライ級2位.西原茉生(治政館/ 50.65kg)
        VS
WMC日本フライ級1位.シンイチ・ウォーワンチャイ(ウォーワンチャイ/ 50.65kg)
勝者:シンイチ・ウォーワンチャイ / 判定0-3
主審:椎名利一
副審:少白竜28-30. 中山29-30. 松田28-30

組み合ってのヒザ蹴りで主導権を奪ったシンイチ。蹴りのタイミング、的確さで優り、リズムを崩された西原はシンイチより出遅れた流れで攻め倦む展開。シンイチが優勢を維持して判定勝利した。

◆第5試合 フェザー級3回戦

JKAフェザー級2位.皆川裕哉(KICKBOX/ 57.0kg)
        VS
チャット・ロックオンジム(元・ルンピニー系ミニフライ級7位/タイ/ 56.8kg)
勝者:皆川裕哉 / TKO 1R 2:06 /
主審:勝本剛司

ローキックからミドルキックで先手を打った皆川裕哉の速攻。蹴りからコーナーに詰めたところで右ヒザ蹴りをボディーに決めるとチャットは堪らずノックダウン。ダメージを見てカウント中のレフェリーストップとなった。

先手必勝の皆川裕哉、最後は青コーナー側でヒザ蹴りで仕留めた(位置的に撮れず)

◆第4試合 56.0kg契約3回戦

JKAバンタム級4位.樹(治政館/ 55.65kg)
        VS
JKイノベーション・フェザー級3位.前田大尊(マイウェイ/ 55.8kg)
勝者:前田大尊 / 判定0-3
主審:少白竜
副審:椎名28-30. 中山29-30. 勝本28-30

◆第3試合 ウェルター級3回戦

JKAウェルター級3位.山内ユウ(ROCKON/ 66.3kg)
        VS
細見直生(KICKBOX/ 65.8kg)
勝者:細見直生 / 判定0-3
主審:松田利彦
副審:椎名28-29. 少白竜28-29. 勝本28-29

◆第2試合 ライト級3回戦

JKAライト級3位.貴雅(治政館/ 60.75kg)
        VS
デーシング・ロックオンジム(元・ラジャダムナン系ミニフライ級2位/タイ/ 61.0kg)
勝者:デーシング・ロックオンジム / 判定0-3
主審:中山宏美
副審: 松田28-30. 少白竜29-30. 勝本29-30

◆プロ第1試合 バンタム級3回戦

ストロベリー稲田(治政館/ 53.4kg)vs九龍悠誠(誠真/ 53.2kg)
勝者:九龍悠誠 / TKO 3R 1:59 / カウント中のレフェリーストップ

◆オープニングファイト.3

JKA29kg級タイトルマッチ2回戦(2分制/延長1R)
脇田剛士朗(治政館)vs野本かれん(WIVERN)
勝者:脇田剛士朗 / 判定2-0 (19-19. 20-19. 20-19)

◆オープニングファイト.2

JKA29kg級 Bクラスルール2回戦(90秒制)
藤田彪(ROCKON)vs松本将真(ビクトリー)
勝者:藤田彪 / 判定2-0 (20-19. 19-19. 20-19)

◆オープニングファイト(アマチュア)第1試合

JKA32kg級 Bクラスルール2回戦(90秒制)
藤原駈(ROCKON)vs武内宥護(JSK)
勝者:藤原駈 / 判定3-0 (20-18. 20-28. 20-18)

《取材戦記》

初のプロモーターを務められた藤田善弘氏は、藤田ゼン(横須賀太賀)として2010年10月に緑川創(藤本)の持つ日本ウェルター級王座挑戦し判定負けの経験があります。

現在はROCKONジム会長として今回の興行開催を終えて、「右も左も分からなくて気が狂いそうでした。終わってホッとしています。第1試合からいい試合が続いて、メインイベントも凄く良かったので選手の皆に救われました。」

次の主催興行予定については、「無いです!いや、1年に1回ぐらいですかね。またやります!」継続してこそプロモーターの経験実績が積み重なっていくでしょう。その意欲は感じられました。

大地・フォージャーは「1ラウンド目はジャブ貰って効いてしまって、ヤバイぞと思いましたが、自分の左(ジャブやストレート)を信じ切っていたので、しっかり打ち込みました。1回目のダウン奪って、ノックアウトはいけると思いました。あと、試合前にある関係者から『観客は少なくても動画(映像)は残るから、この先誰が観るか分からないよ。後々振り返られる歴史に残る名勝負を残してくださいね!』と言われた言葉が頭に残って、その結果だと思います!」と語った。

実際、メインイベント時点で観衆は少なく、これではモチベーションも上がらなかったかもしれない。でもこの日はペイパービューによる生配信が行われていました。更に録画はこの先、どんな運命でどこで使われるか分からない。好ファイトを残しておけば何かの縁で地上波放送にスポット的でも使われるかもしれない。そんな意識が働けば、下手な試合は出来ない感情になったかもしれないだろう。

3度の防衛戦がすべて引分けになった浅井春香のジム会長、鴇稔之氏は、「浅井はいつもどおり何も出ないね。まあいつもよりはちょっとだけ3パーセント増しぐらい出たけど、練習では凄い迫力で強いミドルキック20連打5セット出せるのに、試合でそのちょっと、3連発でもいいからミドルキックでも出せば勝てるのに、なぜか試合では蹴りが何にも出ない。メンタルの問題だけど、何とか打開したいね!」と言うとおり、組み合ってヒザ蹴りは出るが、体勢が悪く圧倒するような強さは感じられず、ローキックやミドルキックも殆ど出なかった。

「練習では根性、試合では勇気!」といった輪島功一氏のように、意識を変えて次の防衛戦に期待したいものである。

次回のジャパンキックボクシング協会の興行は11月26日(日)ビクトリージム主催でKICK Insist.17が後楽園ホールで開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年11月号

◆「お前なら沢村忠に勝てるぞ!」

富山勝治(とみやまかつじ/1949年2月8日宮崎県延岡市出身)は4人姉弟の長男で、姉一人、妹二人。本名は富山勝博。キックボクシングの帝王、沢村忠の後継者として、飛び後ろ蹴りを必殺技に戦い続けたTBSキックボクシング全国ネットの代表的スター選手。花形満、稲毛忠治、サミー・モントゴメリーとの壮絶な戦いは今も語り草となっている。

初の回転バック蹴りヒットの姿、当時のプログラム裏表紙より

キックボクシングを始めた切っ掛けは、高校卒業後入隊した海上自衛隊での上司の森嶋日出春氏の言葉だった。

「富山くん、お前なら沢村忠に勝てるぞ!」

九州では当時まだキックボクシングの放送は無く、「沢村って誰?」と思うほど、まだキックボクシングの存在も知らなかったが、広島の呉港に停泊した時、初めてテレビで沢村忠vsポンニット・キットヨーテン戦を観て、「これが沢村か、なーにこの野郎なんか一発だ!」と思ったという。

後々、3年間の海上自衛隊を満期退職し上京し、目黒ジムに入門。

「お前は目黒ジムじゃないと駄目だぞ。」と森嶋氏に言われていたとおり、「野球で言えば、巨人の王・長嶋のように大手のジムへ行け!」という忠告に従ったとおりだった。

入門後、朝は早いが夜練習できる環境を作る為、神田の青果市場で働いた。全日本系のトップ選手、錦利弘(協同)も働いていたという。

キックボクシングの選手を見付ける度に「よーし、いつかこいつを倒してやるぞ!」と思うばかりの粋がった新人時代だった。

◆関門海峡渡れない

デビュー戦は1970年(昭和45年)8月9日。山梨県甲府市でKO勝利。当時は目黒ジム隆盛期。「沢村さんっていつ練習しているんだろう。」と思うほど、ジムでは出会わなかったという。また400人ほど居たというほど練習生や選手も多く、同門対決も多かった。

同門の先輩、神田昭広戦では遠慮ない足踏みつける荒技を使いながらのローキックでのKO勝利。

「富山の野郎、汚い野郎だ!」と囁かれる反響の中、野口プロモーションの野口修社長には「根性ある!」と言われ、これで当時、アメリカ進出を狙っていた野口氏にロサンゼルスへ連れて行かれ、将来性を買われた一歩抜きん出た存在となった分岐点でもあった。

1972年1月2日、先輩の斎藤元助が東洋ウェルター級王座獲得すると、富山勝治は同年2月19日、空位となった日本ウェルター級王座を花形満(東洋)と争った。痛烈なノックダウンを何度も喫する劣勢の中、試合前に母親から「お前が負けたら関門海峡渡れないぞ!」と脅かされていた言葉を思い出し、何とか起き上がっての逆転KOは感動を呼び、TBSでは2週連続で同カードを放送される特例の事態。富山勝治は地方区から全国区へ飛躍した、更なる人生の大きな分岐点となる名勝負を残した。

日本系(野口プロモーション)復興で久々の後楽園ホール登場(1996.6.30)

◆絶望感漂う敗戦

1973年(昭和48年)1月2日、初防衛戦は急成長して来た稲毛忠治(千葉)と引分け、ライバルがすぐ後ろに迫っている危機感に圧されながら勝利を重ね、1974年1月2日、東洋ウェルター級王座決定戦でサネガン・ソーパッシン(タイ)を倒し、沢村忠と肩を並べる地位へ上昇。

しかし1975年1月2日、東洋王座初防衛戦となった稲毛忠治との2年ぶりの対決は、初回わずか76秒、パンチで倒された衝撃の展開。正月早々からキックボクシングテレビ放映史上最もショッキングと言われるほどの落城だった。

その稲毛忠治戦で最初のノックダウンの際、右足くるぶしを骨折した為の療養で、5ヶ月ほど戦線離脱。復帰後、空位の日本ウェルター級王座決定戦で飛馬拳二(横須賀中央)にノックダウン喫する逆転成らずの判定負け。これでポスト沢村は一層遠のき引退が囁かれた。

しかし、当初から決定していたとされる稲毛忠治へのリターンマッチへ再浮上を懸けた戦いへ進んだ。

「稲毛忠治に親父と御袋の前で倒された後、ちょっと弱気になったけど、姉に電話した時に『勝坊、もう宮崎に帰って来い!』と言われて涙が出たけど、その言葉でもう一回考えて、もう一回やろうと思った。もう一回復活せにゃならんと!」。

“このままでは終われない”と奮起した復帰。飛馬拳二に敗れても辞める気は無かったという。

翌1976年1月2日の稲毛忠治とのリターンマッチは、どうしても勝たねばならない土壇場からのヒットアンドアウェイ戦法で僅差ながら判定勝利。評価はともあれ復活にファンは安堵した。

東洋王座復帰後も思うように勝てぬスランプは続いたが、同年、沢村忠が7月2日の試合を最後にファンの前から突如姿を消すと、富山勝治のテレビ登場はより増えていった。ライバル的存在のタイのランカー、チューチャイ・ルークパンチャマ戦は1勝1敗の後、1978年1月2日、TBSのキックボクシング2度目の生放送で、乱闘で熱くなる中、飛び後ろ蹴りで第4ラウンドKO勝利。

TBSテレビ運動部長の森忠大氏が試合後の控室を訪れ、「富山くん、やっと沢村を越えたな!」と言ってくれたその言葉は嬉しく、今も耳に残っているという。

「後ろ蹴りは田舎の先輩で空手の達人が居て、高校時代から習った後ろ蹴りはずっと意識していた技で、まだランカーの頃、タイ選手との試合で後ろ蹴りをやった時、軸足を蹴り上げられたから、飛んで回ればいいと考えて飛び後ろ蹴りを始めたもので、ずっと続ければいつか閃くものです!」と語る。

旧ゴング誌編集長、舟木昭太郎さんのトークショーで久々にファンの前に登場(2019.4.20)

そうしてポスト沢村を手中にした富山勝治は、同年5月8日に日本武道館での、TBS放送500回記念興行が3度目の生放送として、全米プロ空手を迎え入れることになった最初の興行にメインイベンターとして出場。USKFAジュニアミドル級チャンピオンのサミー・モントゴメリーに、第2ラウンドに右ストレートを受け、右肩から落ちて脱臼骨折。大ピンチから5ラウンドまでローキックで逆転寸前に追い込むも判定負け。この大怪我でまたも戦線離脱となってしまった。

しかしそれも3ヶ月で復帰し、8月20日のラスベガス興行に臨んだ。キックボクシングが世界的メジャー競技になる為のアメリカ全土征服は野口修氏がキックボクシング創設当初から狙っていた野望だったという富山勝治。メインイベンターとしてエディ・ニューマンを第4ラウンドKO勝利で存在感を示した。

◆富山勝治は健在!

沢村忠引退後、全国ネットでお茶の間に君臨したメインイベンターは富山勝治が担ったが、TBSで10年半続いた月曜夜7時枠のゴールデンタイムを離れ、諸々の事情はあったものの、深夜放送に移った1979年4月以降と放送完全打ち切りとなった1980年4月以降、活躍する姿を全国に届けることは極めて難しい時代に入ってしまった。ここからテレビ放映復活へ試行錯誤を繰り返した野口プロモーションであり、メインイベンターとして戦った富山勝治であった。

後のテレビ朝日での3度の特別番組の中、1981年1月7日には日本武道館で、野口修氏が老舗の威信を懸けたWKBA世界二大タイトルマッチ(10回戦)を開催。ウェルター級で富山勝治がその大役を任された。やがて32歳を迎え、体力的なピークも過ぎての過去最高峰の戦いは過酷だった。ディーノ・ニューガルト(米国)に初回から右ストレートでアゴを打ち抜かれてダメージを引き摺りながら第9ラウンドまで踏ん張ったが2分41秒、テンカウントされても動けないKO負けで、今までのような怪我とは違う、身体的ダメージと体力的限界が感じられたことは否めなかった。

日米決戦、ロン・ホフマン(米国)戦、テレビ朝日放映3戦目(1981.5.9)

ジョー・ヒギンス(米国)戦、テレビ東京放映2戦目(1981.11.20)

後のテレビ東京に移ったレギュラー枠も1982年1月7日のエドワード・ラメッツ戦でKO勝利後、「テレビ東京からあと何年かやってくれと言われたけど、もう闘争本能が湧いて来なかったから、やらなかったですよ!」と語る。

エドワード・ラメッツ(米国)戦、テレビ東京放映3戦目(1982.1.7)

エドワード・ラメッツ戦勝利後、インタビューを受ける(1982.1.7)

この現役最後の頃からスパゲッティ屋「がんがん石」を展開。渋谷、新宿、自由が丘、高円寺、小倉に3店、博多、宮崎と全部で9店舗。「店を広げ過ぎたな!」と言うほど長くは続かなかったが、実業家としての第一歩はビジネス拡大への縁も深く繋いでいった。

1983年11月12日、後楽園ホールでロッキー藤丸(西尾)を相手に引退試合を行ないKO勝利で有終の美。これで富山勝治だけでなく、TBS時代からのキックボクシングは寂しい終焉を迎えた時代の流れだった。

ラストファイト、ロッキー藤丸戦のリングに入場(1983.11.12)

全力を尽くしたロッキー藤丸戦(1983.11.12)

引退後はジム経営、プロモーター、トレーナーといった何らかのキックボクシング運営に一切関わらなかった富山勝治氏。

「沢村さんが一切マスコミなどメディアにもキックボクシング関係にも出なかったから、その貫く意思を尊重しました。沢村さんあっての自分の存在があったから、沢村さんがやらないなら私もこの業界に残ることはしませんでした。」と語られています。

続編では富山勝治さんの経歴の裏側とその語り口をお話致します。

有終の美を飾って祝福を受け、記念のチャンピオンベルトを巻いた富山勝治

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

◆無名の新人から飛躍

渡辺明(わたなべあきら/1960年6月北海道出身)は1981年(昭和56年)4月、北海道から上京し、名門・渡邉ジムに入門。昭和50年代後半の、テレビレギュラー放映が終了したキックボクシング界氷河期に現れた。

渡辺明の素質に気付いた渡邊信久会長は厳しさ頑固さで有名な指導の下、同門の実力者、酒寄晃の後継者と見込まれ、翌年1982年4月デビュー。カウンターパンチに逆転KO負けの痛い黒星スタートだった。しかしこの敗戦の反省点はしっかり克服。素早い動きでローキックからパンチなど多彩に攻める連係技で14連勝(10KO)の後、1984年11月に、一時的ながら最も価値が高まった統合団体、現在のNKBグループとして存在する日本キックボクシング連盟での一番最初の興行で誕生したチャンピオンである。

この新団体での初代日本フェザー級王座決定戦では、葛城昇(習志野)をローキックで追い詰め、第3ラウンドにパンチで3度のノックダウンを奪ってKO勝利で王座獲得し注目される存在となった。徐々に優勢に立つ渡辺明に「こんないい選手が居たんだなあ。」と隠れた存在にファンの関心も増えていた。

ここからの輝いた時間は短かったが、当時の業界全体としても注目が集まった、新時代に相応しいスターだった。

青山隆戦、タイトルマッチで再戦が見たかった一つ(1983年9月10日)

[左]注目の王座決定戦、葛城昇を倒す、これも再戦が期待されていた(1984年11月30日)/[右]渡辺明、チャンピオンベルトを巻いた新スター誕生の日(1984年11月30日)

◆孤独な戦い

当時、渡辺明は両国駅近くの蕎麦屋に勤務。店から新小岩の渡邊ジムとアパートまで往復12kmを練習用具を入れたリュックを背負いロードワークを兼ねて走った。このエピソードは珍しく当時の新聞記事になり、職場を中心とした後援会の発足に発展した。

その王座獲得後第1戦目が1985年(昭和60年)3月の風吹竜(君津)を第3ラウンドKOで下した試合はローキックに威力が増し、パンチでも風吹竜を圧倒。更に強くなって風格が増していた。

王座獲得後第一戦目となった風吹竜戦、勢い増したKO勝利(1985年3月16日)

当時フェザー級ランカーは、かつて渡辺明が下した鹿島龍(目黒)、青山隆(小国)、葛城昇(習志野)の他、嵯峨収(ニシカワ)、山崎通明(東金)など選手層が厚かったが、「一歩抜きん出ている渡辺明の王座安泰は長く続くのではないか。」とさえ思われた。しかし、運命はファンの期待を裏切る方向へ進んでしまう。

期待された統合団体は同年4月、設立からわずか半年足らずで分裂してしまった。
内部事情はさておき、ここで渡辺明の運命も大きく変わった。初防衛戦で予定されていた鹿島龍(目黒)戦や分裂によって上位ランカーとの対戦はもう不可能と言われるほど遠のいてしまった。

1985年6月7日、高谷秀幸(当時=ロバート高谷/千葉)を1ラウンドKOに下し初防衛。更に磨かれたローキックとパンチはスピードと重量感を増していたが、渡辺明はライバルが全くいなくなり、何か寂し気に見えてしまう存在となってしまった。

初防衛戦、代打出場のロバート高谷に圧倒の勝利(1985年6月7日)

そこまでは順調だったチャンピオンロードも思わぬ不覚から下降線をたどる。同年9月7日、渡辺明は井志川雅志(伊原)戦でハイキックをアゴに食らい、負傷による4ラウンドTKO負け。「レフェリーの制止を振り切ってでも戦いたかった!」と言うが、入院せざるを得ない重症だった。

◆最後の大舞台

静養後、翌年1986年6月に復帰し2連勝。11月29日には黒崎健時氏が主催した「神秘のムエタイ」が両国国技館で開催。ムエタイ二大殿堂チャンピオン対決がマッチメイクされる中、日本から唯一、渡辺明が出場。タイから推薦されたデショー・ウォースントンノンは渡辺明にとって険しくも、強豪との対戦には相応しい存在だった。

結果は為す術もなく鋭いローキックで2ラウンドKO負け。渡辺明の切れ味良いローキックを上回る、本場の重いローキックに立っていることが出来なかった。ムエタイ路線の第一歩は無残にも打ち砕かれた。

ムエタイの壁は厚かった。デショーにローキックで倒される(1986年11月30日)

翌年1987年6月、上田健次(士道館)とのフェザー級トップ対決でも、何かおかしい渡辺明の動きの鈍さ、上田のスピードで圧されパンチで第2ラウンドKO負け。

「本能的に立ち上がったけど“これで終われるんだ”という弱気な気持ちが頭を過ぎった途端、立った時はテンカウントの後だった」という。渡辺明は復帰の道を考えつつも、5年間の選手生活に終止符を打つ決意をした。

選手の寿命はダメージも主な原因だが、モチベーションの維持も大きく占めるであろう。

渡辺明が長く戦えたかは分からないが、防衛戦で注目の対決を実現したかったであろう本人や、ファン、マスコミ関係者の想いは大きかった。今でも時代を越えた、戦わせてみたい夢のカードは尽きない。

◆消息は不明

渡辺明は静養から復帰後で、神秘のムエタイ出場前の1986年6月14日、この年の1月までラジャダムナンスタジアム・フライ級チャンピオンだった、サンユット・チャイバダンと対戦予定があった。日本キックボクシング連盟にしては、設立以来(その後も含めて)、極めて難しかった現役ムエタイチャンピオンクラスの招聘。ポスターとプログラムにも載ったが、来日が間に合わず夢と消えた。渡辺明は代打出場の李振興(韓国)をあっさり第2ラウンドKO勝利。

充実していた時期、チャンピオンとしてコールされる(1986年6月14日)

李振興に圧倒の勝利(1986年6月14日)

仮にサンユット戦が実現していたらどんな展開になっていたかは興味が尽きない。勝利を予想する者はいなかったが、その後に控えたデショー・ウォースントンノン戦への良い前哨戦になっていたのではないかという意見は多い。

今回の渡辺明氏に関して、触れておきたい私(堀田)の拘りの、昭和の業界低迷期を支えたキックボクサーとして、聞ける情報は少ない中、過去に新聞コラム用でインタビューしたジムトレーナーと、新たに渡辺明氏に接したことある関係者のお話を参考にさせて頂いた内容です。

私は、渡辺明氏が王座獲得後の翌年新春興行後の帰りだったか、水道橋駅に向かう橋の上で、後輩の手前、ちょっと粋がった感じで歩く姿を見かけたことがあり、「あっ渡辺さん!」と声掛けたら「ハイ!」と急に好青年に顔つきが変わって接してくれたことがありました。リング上でチャンピオンベルトを巻いた姿の写真にサインを求めると、「お名前は?」と丁寧にサインして頂いたことが懐かしい思い出である。この人はファンを大切にしっかり向き合う人だなと感じた、当時の水道橋の歩道でした。

渡辺明氏は引退した後に埼玉県内で、一軒家で犬を飼って一人暮らしをしていた様子。性格的に大人しく、多くを語らない渡辺明氏で、「当時は肉体労働系の職人をやっていたのでは?」と言う関係者のお話と、酒寄晃氏の場合同様に消息不明ながら「今は何しているのかなあ!」という渡邉信久会長でした。

[左]上田健次にも倒されてしまったラストファイト(1987年6月13日)/[右]幻のサンユット戦、表紙になった渡辺明(1986年6月14日用プログラム)※共にスポーツライフ社「マーシャルアーツ」誌面より。筆者撮影

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年10月号

剛腕・畠山隼人が倒された。
優心、渾身のヒジ打ちで逆襲ドロー。
真美、執念のS-1世界王座制覇。

◎NJKF 2023.4th / 9月17日(日)後楽園ホール17:25~20:55
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟 / 認定:NJKF、ソンチャイプロモーション

◆第9試合 NJKFスーパーライト級タイトルマッチ 5回戦

第5代選手権者.畠山隼人(E.S.G/63.15kg)36戦21勝(11KO)13敗2分
        VS
挑戦者同級1位. 吉田凛汰朗(VERTEX/63.35kg)23戦10勝(3KO)9敗4分
勝者:吉田凛汰朗 / TKO 2R 1:22 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:多賀谷敏朗

5年に渡りNJKF王座に君臨する畠山隼人は昨年11月13日、第8代WBCムエタイ日本スーパーライト級王座決定戦で、真吾YAMATOを初回KO勝利で上位王座戴冠。

両者、ローキック中心の様子見の中、吉田凛汰朗の左ジャブが牽制パンチで軽いヒットだが畠山隼人の顔面を捕らえた。更にロープに詰めて連打。主導権を握りつつあったが、畠山の返しの剛腕左フックもあって深追いはしない。

しかし、第1ラウンド終盤、その畠山の左フックで吉田がノックダウン。足が揃って後ろに倒れたが、効いた様子はほぼ無い流れでラウンド終了。

畠山隼人の左フックでノックダウン喫した吉田凛汰朗。効いてはいなかったという

第2ラウンドもパンチとローキックの攻防では吉田の勢いがある中、吉田の相打ち気味の左フックが畠山にヒットすると脚に来た畠山は後退。そこを逃さず、吉田が飛びヒザ蹴りでコーナーに追い込むと強烈な右ストレートで畠山がノックダウン。

吉田凛汰朗の相打ち気味の左フックで形勢逆転、攻勢を掛ける

目はしっかりしていたが、ヤバイといった表情。更なる吉田の右ストレート、左右フック連打で畠山が前のめりに倒れると、まだ意識はあって立ち上がるも多賀谷敏朗レフェリーはダメージを見て試合ストップ。畠山隼人は5年に渡るNJKF王座から陥落となった。吉田凛太朗は初戴冠。

VERTEX若林会長の喜びようは、これが満面の笑みかという表情で、「吉田と研究して練習重ねた結果が出せて良かったです!」と語っているうちに祝福に訪れる関係者にも応対。会場を去るまで忙しい様子だった。

飛びヒザ蹴りからコーナーに詰めて右ストレートをヒットさせた吉田凛汰朗

◆第8試合 NJKFフライ級タイトルマッチ 5回戦

第13代選手権者.優心(京都野口/50.8kg)15戦6勝6敗3分
        VS
挑戦者同級1位.谷津晴之(新興ムエタイ/50.8kg)16戦8勝(4KO)4敗4分 
引分け 0-1
主審:椎名利一
副審:竹村48-48. 多賀谷48-49. 児島48-48

両者は2021年12月5日にもタイトルマッチで激突しており、優心が2-0の僅差判定勝ちで王座初防衛(暫定から正規へ)。

初回、両者のローキックでの様子見から、谷津晴之がパンチを加えた前進が目立つも、優心も冷静に対抗し、互角の攻防が続く。

第3ラウンド半ば、優心が谷津の蹴り足を抱えて2歩以上前進しての蹴りで、椎名利一レフェリーの「再三の注意に従わず減点」という裁定を受けてしまう。漠然と見ている側からすれば、あっけなく見える中断ではあったが、さほど流れは変わらない展開は続く。

谷津晴之の蹴り足を抱えて崩しに掛かる優心。2歩越えて攻めては反則となる

第4ラウンドには組み合った展開で優心のヒジ打ちが当たったか、谷津が鼻血を流す。接近戦での蹴りとパンチの攻防が続き、第5ラウンドには優心が減点を撥ね返すTKOを狙ってのヒジ打ちで谷津の左眉尻がカット。

優心の思惑どおりのヒジ打ちヒットで谷津晴之の右眉上をカット、逆転を狙う

パンチで打ち合いに出る谷津との攻防が激しくなるが、少ない観客席でも会場が大声援で盛り上がって終了。減点がなければ僅差ながら勝利を導けた流れも引分けに終わった優心。辛うじて2度目の防衛成った。

優心は「谷津はリベンジでグイグイ来てたんで、どうやってテクニックで往なすかがポイントでした。減点は“あ~取られるんや”という感じ。焦りました!」

最終ラウンドは「ヒジ打ちで切りまくろうかなと。その攻勢で印象点取れればいいかなと思いました!」と語った。

京都野口ジムの野口康裕会長は父親と言う優心。親子チャンピオンは何組目か

◆第7試合 S-1レディース世界ライトフライ級(-48.98kg)王座決定戦 5回戦(2分制)

まだ通過点ながら目標としていたS-1ワールドは制覇した真美

セーンガン・ポー・ムンペット(タイ/49.78→49.68kg=計量失格、減点2)58戦41勝17敗
        VS
ミネルヴァ・ライトフライ級選手権者.真美(Team lmmoRtaL/49.25→5回目で48.96kg)
17戦13勝(3KO)4敗 
勝者:真美(=まさみ) / 判定0-3
主審:中山宏美
副審:椎名46-48. 多賀谷45-50. 児島47-48

セーンガンはSEA Games(東南アジア競技大会)2022年マレーシア大会銀メダリスト

セーンガンは前日朝11時計量開始5分前の予備計量で790グラムオーバー。30分ほどで100グラム落としたが、そこで諦め陣営が棄権を申し出た。すぐに水を飲み始めたセーンガン。リミットまで落とす気が無いのか、諦めるのが早い印象。

対する真美も270グラムオーバーで、ジャケットを着て縄跳びを始めた。10分ほどで本計量に臨み、100グラムほど落ちたが、そこからスムーズには落ちない。結局1時間ほど掛かった5回目でリミットを20グラム下回る計量パス。両者ともスンナリいかない計量だったが、タイトルマッチ成立を懸けて踏ん張った真美。試合もこんな踏ん張りが活きそうな雰囲気は漂った。

しかしセーンガンは19歳ながら戦績豊富で、「パンチと蹴りをバランスよくこなす強い選手で、真美は楽勝とはいかないだろう。」という関係者の前評判だった。

試合はセーンガンが先手の蹴りから入るが、真美も怯まず前進し、パンチから蹴りと首相撲に入っても組み負けずヒザ蹴り。セーンガンの蹴りにキレや重さは感じられないが、要所要所で的確に印象点を導く上手さはあった。真美が主導権を奪った流れの印象は強いが、タイで行なわれていれば難しい採点の流れだったかもしれない。

真美は「今日、世界チャンピオンになったんですが、まだまだ上を目指していきたいと思います。」と語った。世界チャンピオンになって更に上を目指すとは何を指しているかは、まだ数ある最高峰への通過点であることだろう。

真美の右ストレートがセーンガンにヒット、主導権支配した展開を続けた

◆第6試合 54.5kg契約3回戦

NJKFバンタム級3位.嵐(キング/54.2kg)11戦9勝(2KO)1敗1分
        VS
NKBバンタム級1位.海老原竜二(神武館/54.45kg)27戦14勝(7KO)13敗
勝者:嵐 / 判定3-0
主審:竹村光一
副審:椎名30-27. 多賀谷30-28. 中山30-27

海老原竜二は、2021年にNKBバンタム級王座決定トーナメントを制し、第9代チャンピオンとなったが、昨年10月29日、森井翼(テツ)にTKO負けを喫し王座陥落。

開始から両者蹴りの様子見。海老原竜二はローキックで距離を保ってハイキック。嵐はフェイント掛け、タイミングずらした右ストレートから連打、海老原にプレッシャーを与える。

素早いヒザ蹴りで海老原のボディーを攻めると効いた様子で後退、一気に攻める嵐だが、掻い潜って凌ぐのが上手い海老原。更に蹴りからパンチのコンビネーションで立て直すも、嵐の右ボディブローヒット。

圧倒する嵐は次第に攻め切れなくなる流れで手数が減り、海老原の蹴りとパンチのコンビネーションの勢いを許してしまうが、ポイントを失う流れは許さず大差判定勝利を拾う。嵐はノックアウトしたい思惑はあるものの、倒せない反省を述べていた。

当て勘良い嵐のボディブローが海老原竜二にヒット、海老原も粘った

◆第5試合 61.0kg契約3回戦

NJKFライト級1位.HIRO YAMATO(大和/60.9kg)28戦13勝(4KO)12敗3分
        VS
NJKFスーパーフェザー級5位.龍旺(Bombo Freely/60.85kg)8戦6勝(2KO)1敗1分 
勝者:龍旺 / 判定0-2
主審:児島真人
副審:椎名28-29. 多賀谷28-28. 竹村27-30

HIROは昨年5月21日、NJKFスーパーフェザー級王座奪取も階級変更で後に返上。
初回から両者のパンチと蹴りの様子見から組み合って崩しやヒザ蹴りはHIROの圧力がやや優ったが、最終ラウンド残り4秒で龍旺の左ストレートがヒットでHIROがノックダウンを喫してしまう。立ち上がるも時間切れ。HIROは惜しいポイントを失った。

◎第8代NJKFスーパーバンタム級チャンピオン、日下滉大が引退テンカウントゴングに送られる。

リング上で「キックを続けて来れたのは自分がビビりで強さに憧れて来たんだと思う」ということ、そして「4度目の挑戦で王座奪取出来たことで続けて来て良かったです!」としっかり語った。

◆女子エキシビジョンマッチ2回戦(2分制)

泉あお(-無所属-) EX小倉えりか(DAIKEN THREE TREE)

◆第4試合 スーパーフェザー級(-58.967kg)3回戦

NJKFスーパーフェザー級10位.コウキ・バーテックスジム(VERTEX/58.7kg)
10戦4勝5敗1分
         VS
匠(キング/58.65kg)5戦3勝(2KO)1敗1分 
勝者:匠 / 判定0-3 (27-30. 27-30. 28-30)

◆第3試合 アマチュアOver40ミドル級(-72.57kg)2回戦(2分制)

森直樹(DAIKEN THREE TREE/71.05kg)
       VS
榊秀則(元・NICE MIDDLEミドル級C/笹羅/71.95kg)
引分け 1-0 (29-29. 30-29. 29-29)

◆第2試合 85.0kg契約3回戦

NJKFスーパーウェルター級2位.佐野克海(拳之会/84.1kg)19戦11勝(6KO)6敗2分
        VS
福士“赤天狗”直也(天狗工房/82.5kg)1戦1敗
勝者:佐野克海 / KO 1R 0:45 / テンカウント

◆第1試合 65.0kg契約3回戦

上杉恭平(VALLELY/64.45kg) 3戦1敗2分
      VS
崚登(新興ムエタイ/64.85kg) 2戦1勝1分
勝者:崚登 / TKO 2R 3:03 / カウント中のレフェリーストップ

(戦績はプログラムより、この日の結果を含みます。)

念願のチャンピオンベルトを巻き、満面の笑みを越えた激笑の吉田凛汰朗

《取材戦記》

ロッキーのテーマ曲に乗って入場した畠山隼人。結構インパクトあり、実績が伴う選手が入場するとしっくりくる名曲である。ロッキーのテーマは永遠の入場行進曲でしょう。

タイトルマッチにおける王座交代劇は衝撃的な悲壮感と歓喜に湧くドラマがあります。こういうチャンピオンシップ制度はやはり必要で、過去にも使った文言ですが、王座目指す挑戦権争奪戦と、王座をより長く防衛する努力や、強いチャンピオンから王座奪取する交代劇を今後も見たいものです。

真美の計量は女性だけに難しさがありました。身に纏う上着を量って、それを着て秤の出た目からその分を差し引く流れ。JBCならもっとスムーズにやっているだろうなという印象。計量会場となったキングジムには笑顔で入って来た真美だったが、僅かが落ちない苦悩は可哀想な状況。でもこれがプロの義務と厳しさでしょう。

次回、NJKF本興行“2023.5th”は11月12日(日)夕刻、後楽園ホールで開催予定です。

11月19日には岡山県倉敷市マービーふれあいセンター『NJKF拳之会主催興行21th~ NJKF 2023 west 5th ~』が開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年10月号

これが決定打か? 佐々木勝海の右ヒジ打ちが宗方の顔面を掠めた

新人から王座を見据える立場へ。

佐々木勝海はタイを含むヒジ打ち有効3回目の試合は、切られて打ち返して逆転TKO。

小林亜維二も成長著しく、的確なパンチと蹴りのヒットでKO勝利。

◎DUEL.28 / 9月10日(日)GENスポーツパレス18:00~20:37
主催:VALLELY / 認定:NJKF

◆第10試合 65.0kg契約3回戦

NJKFウェルター級2位.宗方888(キング/64.95kg)11戦4勝(3KO)6敗1分
        VS
NJKFスーパーライト級5位.佐々木勝海(エス/65.1→65.0kg)9戦7勝(2KO)1敗1分
勝者:佐々木勝海 / TKO 2R 2:57 /
主審:北尻俊介

ヒジ打ちの攻防。打たれたら打ち返す。

昨年10月16日のDUEL.25で、ちさとkiss Me(安曇野キックの会)に攻め倦んだ判定勝利から、今年2月5日には宗方888と引分け、今回が再戦となった。

タイで試合して来たという佐々木勝海は慣れていなかったヒジ打ちの向上と、スピード増した素早い動きが印象的である。

宗方888と佐々木勝海の接近戦、一瞬のヒットが運命を分ける

逆転TKOに歓喜する佐々木勝海

開始からパンチと蹴りの攻防は互角ながら、宗方の圧力掛けた前進が目立ち、更に第2ラウンドに組み合った接近戦でのヒジ打ちが佐々木勝海の右眉尻をカット。更に接近戦が続くと逆に佐々木勝海がヒジ打ちで宗方の鼻を曲げてしまった。鼻血が激しく、ドクターの勧告を受け入れた北尻俊介レフェリーが試合をストップした。

佐々木勝海は「前回の宗方戦で結構殴られて負けに近かったですけど、対策はヒジやローキック、前蹴りを念入りに練習しました。最初はヒジで切られて、一か八かでやってみたヒジ打ちがヒットしました!」と言う。それも練習の成果。タイでの経験も活かされただろう。

また「更に上位の選手と戦いたいです!」という意欲的な発言は、ファンも楽しみなところでしょう。

敗れた宗方は「最初にヒジ打ちで切ったのが分かったので、このラウンドで決めようと雑に突っ込み過ぎたらカウンターでやられました!」と残念そう。

長身の徹平の右ミドルキックがヒット、主導権支配した展開が続いた

宗方の所属するキングジムの羅紗陀会長は「宗方の動きはキレがあって良かったんですけど、佐々木がヒジ打ち狙っていたのが分かったので、不用意に行くなと言ったけど、その声は届かなかったですね!」と語った。

◆第9試合 52.0kg契約3回戦

徹平(ZERO/51.65kg) 4戦2勝2敗
      VS
悠(VALLELY/51.9kg)7戦2勝4敗1分
勝者:徹平 / 判定3-0
主審:宮沢誠
副審:小林30-28. 北尻30-28. 中山30-27

徹平が長身を活かしたハイキック、首相撲からヒザ蹴りの見映えが良かった。ノックダウンには至らなかったが、主導権支配した流れを維持。

◆第8試合 ウェルター級3回戦

和弥(ZERO/65.75kg)2戦1勝(1KO)1敗
      VS
亜維二(新興ムエタイ/66.45kg)7戦4勝(2KO)2敗1分
勝者:亜維二 / KO 1R 1:18 / 3ノックダウン
主審:児島真人

2019年8月のWBCムエタイジュニアリーグU15の55kg級で優勝している小林亜維二。
パンチ連打と蹴りの連係技が速く鋭く上達したノックアウト勝利。

最初と2回目のノックダウンは左フック。3回目のノックダウンは右ハイキックヒットだった。

小林亜維二のパワーある左フックで和弥が倒れる

◆第7試合 58.0㎏契約3回戦

長友亮二(キング/57.7kg)2戦2勝
      VS
カルロス(新興ムエタイ/57.3kg)1戦1敗
勝者:長友亮二 / 判定3-0
主審:小林利典
副審:宮沢29-28. 北尻29-27. 児島29-28

4月23日がTITANS.32に於いてのデビュー戦で、中村哲生(伊原)に完封TKO勝利している長友亮二。リング上で、年齢は「3度目の成人式です!」と応えた長友亮二。なんと60歳である。アマチュア版「ナイスミドル」出場経験があって、テクニックとスタミナはある展開で相手の消耗もあったが、右ストレートでノックダウン奪って判定勝利。

60歳のラーメン店マスターがノックダウン奪って判定勝利

◆第6試合 女子(ミネルヴァ)54.0kg契約3回戦(2分制)

珠璃(闘神塾/53.4kg)3戦2勝(1KO)1分
      VS
RUI・JANJIRA(ジャンジラ/53.65kg)2戦2敗
勝者:珠璃 / 判定3-0 (30-28. 30-28. 30-28)

パンチと蹴りの圧力と組み合ってのヒザ蹴りが優った珠璃が順当な判定勝利。

珠璃のヒザ蹴りがRUIにヒット

最軽量級の戦いながら蹴りの攻防は激しく、愛の右ミドルキックが江口紗季にヒット

◆第5試合 女子(ミネルヴァ)42.0kg契約3回戦(2分制)

愛(STLIFE/41.75kg)4戦3勝1敗
     VS
江口紗季(笹羅/38.75kg)2戦1勝1敗
勝者:愛 / 判定3-0 (30-29. 30-29. 30-29)

最軽量級のほぼ互角の展開は愛が僅差で勝利。ウェイト差がやや攻勢を導いた。

◆女子(ミネルヴァ)52.5kg契約3回戦(2分制)

響子JSK(治政館)vs坂本瑠華戦は坂本瑠華の欠場で中止。

-エキシビジョンマッチ1R-
響子JSK(治政館)EX SAHO(闘神塾)

昨年11月13日にS-1バンタム級世界王座奪取したSAHOが緊急エキシビジョンマッチ出場。ちょっと遠慮がちながら好調さを見せた。

◆第4試合 ライト級3回戦

本多秀典(拳友会/61.0kg)5戦1勝4敗
      VS
須貝孔喜(VALLELY/60.95kg)3戦1勝2敗
勝者:須貝孔喜 / 判定0-3 (26-30. 26-30. 26-30)

◆第3試合 52.0kg契約3回戦

煌(KANALOA/51.8kg)2戦2敗
      VS
永井雷智(VALLELY/51.85kg)1戦1勝
勝者:永井雷智 / 判定0-3 (28-30. 28-30. 29-30)

◆第2試合 スーパーバンタム級3回戦

久住祐翔(白山/55.2kg)1戦1敗
      VS
遠山哲也(エス/55.05kg)2戦1勝1敗
勝者:遠山哲也 / 判定0-2 (28-29. 29-29. 29-30)

右眉尻を切りながらインタビューに応える佐々木勝海

◆第1試合 70.0kg契約3回戦 須藤雅人(OGUNI)欠場で大谷真弘代打出場

大谷真弘(BRAVE FIGHT CLUB/70.0kg)
       VS
TOM・JANJIRA(ジャンジラ/70.0kg)2戦2敗
勝者:大谷真弘 / KO 1R 2:58 /

代打出場だったが、重いパンチのヒットで3ノックダウンを奪った大谷真弘。

《取材戦記》

昨年、まだ新人的存在だった佐々木勝海は急成長した1年で、ヒジ打ちで顔面切られるピンチからの逆転は会場を盛り上げました。

小林亜維二もインパクトあるパンチとハイキック攻勢でノックアウトに繋げ、今後はタイトルに絡んで来そうな二人の存在である。

午前から夕方にかけて行われた第1部が、NJKFアマチュア部門の「EXPLOSION.38」。小学校高学年から中学生まで15階級の優勝者が誕生した模様。次のステップはWBCムエタイジュニアリーグになるでしょう。

ジャパンキックボクシング協会で「CHALLENGER興行」を打っていた武田幸三氏がここに登場。ベストファイトに送られる「武田幸三賞」も登場しました。

最近、各団体で人やジムの移動が見られますが、触れられるところがあればまた語りたいと思います。

「NJKF 2023.4th」は前回告知どおり、9月17日(日)に後楽園ホールで開催です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2023年10月号

◆蹴って驚き!

「オイ、蹴ってるぞ!」

日本で初めてキックボクシング興行が行われた昭和41年当時に試合を観た観客が、そんな野次を飛ばしたというエピソードは有名です。当然反則ではありませんが、仮にボクシングの試合で本当に蹴っていたら即失格でしょう。

創生期のキックボクシングの有効技はパンチ、ヒジ打ち、廻し蹴り、ヒザ蹴りの他、頭突きと投げ技もありました。昭和の日本系、全日本系で若干のルールの違いはあったものの、日本系の頭突きは禁止に移り、投げ技は分裂後、昭和の業界低迷期を経て禁止となっていきました。その当時、投げ技有りとして誕生したのが現在も続くシュートボクシングです。

反則技はサミング、噛み付き、股間ローブロー、倒れている相手への攻撃、首を絞める、関節技、ロープを使っての攻撃など、基本形としては当たり前の範疇として現在と変わりません。

倒れた相手に襲いかかりを脚で阻止。レフェリーが蹴ろうとしているのではありません

タイミングがズレて圧し掛かり、セコさバレバレで苦笑いする内藤武

◆本能的戦略?

試合前にレフェリーから「スポーツマンシップに則り正々堂々と戦うこと」を促されても、昭和時代はそんな悠長な試合ばかりではありませんでした。

昔からよく見られる、スリップやノックダウンにおいても、倒れた相手への蹴り込みは、相手の顔が足下にあり、絶対優勢な体勢であることから、性格良い選手でも本能的に蹴ってしまう選手は多かったでしょう。

“流れの中” と判断されて蹴られた側がそのままノックダウン扱いや、KO負けに繋がることは多く、昭和の新格闘術で活躍した内藤武さんも“流れの中”を拡大解釈しているかのように、倒れた相手に襲い掛かろうとすること多く、ある試合では、あまりにもタイミングがズレて乗っ掛かり、そのセコさに苦笑いも起こりました。

内藤武さんと対戦ある翼五郎さんは、プロレス好きの変則タイプ。縺れて倒れた際、相手に足四の字固めを掛けようとしたり、プロレス的投げ技を使った確信犯。その翼五郎さんは、伝説のチャンピオン藤原敏男さんとの対戦で、クリンチの際、藤原さんの両足の甲を思いっ切り踏みつけましたが、藤原さんは呆れた苦笑い。さすがに殿堂チャンピオンにはプロレス殺法も遠慮がちで敵わず、翼五郎さんのKO負けでした。

平成初期頃の全日本キックボクシング連盟興行でのある試合のこと、一方(岩本道場の選手)がバランス崩して倒れた際、もう一方の選手(小国ジムの選手)のセコンドが、すかさず「蹴れ!」と言った途端、倒れている選手の顔面を蹴り込みました。喰らった側はダメージ深く立ち上がれず、結果は蹴った側の失格負け(蹴られた側の反則勝ち)。「蹴れ!」と言ったセコンドと、そのセコンドに後押しされた選手の蹴り。「あー、やっちゃった!」といった気まずい雰囲気の当事者達。反射的、本能的に出た言葉と動作。流れの中とは言い難い、間の空いた蹴りは明らかな反則でした。

偶然を装うヘッドバッティングは、プロボクシングでもキックボクシングでも起こり得る戦略でしょう。プロボクシングでは偶然を装うと言うよりは、死角でヒジ打ちも紛れさせることもタイ選手は上手くやる場合があります。また顔面とボディーの打ち分けの中で、一発だけローブローも打ってボディーブローに戻す、何も無かったフリ戦略も聞いたことありますが、それがキックボクシングでの似た展開で、まだ昭和の話でしたが、股間蹴りローブローからアゴへ右ストレート、ノックダウンとなった選手はKO負け。試合進行をスムーズに優先させ、陣営の抗議は覆らない展開もありました。

倒れた相手に襲いかかるのを阻止するレフェリー

縺れた両者に割って入るところが一緒に崩れ乗っ掛かってしまうレフェリー

◆現在の傾向は

上記のローブロー後の右ストレートでのノックダウンは、現在なら概ねノックダウンとは認められないでしょう。

倒れた相手への蹴り込みは、蹴られた側がダメージ深い為の、蹴った側の失格負けとなる場合が多いかと思います。

いずれも全ての団体や興行を観ていないので一概には言えませんが、現在はマナー的要素が考慮され、相手を侮辱する舌(ベロ)出し挑発、ラウンドが開始されてもマウスピース装着遅れでの遅延行為も反則と解釈される傾向が強くなりました。

反則とは規則に反する行為を指しますが、悪意ある行為だけを指すとは限らず、悪意の無い行為も起こります。偶然当たってしまう股間ローブローやバッティングもそんな流れでしょう。プロボクシングでは、ラウンド終了後のゴングに気付かず打ち込んでしまうパンチも、故意でなければ「偶然の反則」と裁定される場合もある模様。

昭和のレフェリーはボクシング式に倣った傾向があり、選手に触れること少なかったですが、現在のレフェリーは両選手に割って入るのが速い。倒れた相手を蹴り込む前に、割って入るか、蹴ろうとする選手を抑え込んでしまう素早さがあります。
その先駆けは創生期からレフェリングする、タイのウクリット・サラサスさんでしょう。昭和60年代にはプロボクシングのレフェリーへ転身しましたが、割って入る素早さで被弾する晩年ではありましたが、キックボクシング界では評判良いレフェリーでした。

選手の動きを厳しく見守るレフェリーの目

◆反則がもたらす影響

反則は格闘技には付き纏う問題で、感情的に熱くなり易いでしょう。些細な反則で注意の上、すぐの再開なら問題無いところ、故意による悪質さやダメージが深い場合、審議に入り、試合が長時間中断されることになれば、試合展開を狂わせてしまう恐れや、テレビ生中継では放送時間に間に合わない事態も起こり得ます。注目のカードが試合続行不可能による失格負けや無効試合となったらファンの失望や興行的損失は大きいでしょう。

近年の幼少期から始めたキックボクシングやムエタイで、大半は礼儀作法も行き届いている現在で、テクニックあるクリーンファイトが多い時代ですが、故意の反則でも偶然のアクシデントでも稀にでも起こるとすれば、その影響が後々に引き摺ることも有り得るので、今後もキックボクシングが公正健全な競技であるよう、スポーツマンシップに則り、正々堂々と戦う展開が続いて欲しいものです。

試合前の注意を促すミスター椎名レフェリー(2023年7月16日)

※上記モノクロ画像のレフェリーはウクリット・サラサスさん。キックボクシングレフェリー時代、いずれも1983年当時

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

恒例の春日部での絆興行、PITジム前・会長の松永嘉之氏の息子さんが新会長として初興行。昨年は長引くコロナ禍の影響で、かすかべ湯元温泉 屋外特設リングで開催されましたが、今年は4年ぶりに「ふれあいキューブ」に帰って来た興行でした。ベテラン石川直樹は、本来の5回戦で首相撲からのヒザ蹴りで大差判定勝利。

◎絆 XIV / 8月11日(金/祝)ふれあいキューブ 16:00~19:45
主催:PITジム / 認定:ニュージャパンキックボクシング連盟

◆第11試合 スーパーバンタム級 5回戦

石川直樹(Kick Ful/55.1kg)42戦23勝(12KO)10敗9分
      VS
NJKFスーパーバンタム級7位.庄司理玖斗(拳之会/54.8kg)9戦5勝(3KO)3敗1分 
勝者:石川直樹 / 判定3-0
主審:北尻俊介
副審:中山50-46. 椎名49-46. 児島50-46

石川直樹は新日本キックにおいて第9代日本フライ級チャンピオン(2016.10.23~脱退までV2)

初回、庄司理玖斗の右ストレートで始まるが躱した石川直樹。庄司は更にパンチとローキックで先手を打つ。冷静な石川直樹は右ローキックで様子見。更に組み付いて首相撲の展開に持ち込み、ヒザ蹴りで主導権支配に手応えを掴む。

第2ラウンドには石川の首相撲から崩し倒す展開が増える。ペースを乱された庄司は離れて立て直したいが、石川の組み付いての首相撲でバランスを崩されると疲れる一方。試合終盤には庄司は捨て身のパンチ、ヒジ打ちも入れて行くが、石川は少々貰っても怯むことなく首相撲からヒザ蹴りが続いた末の大差判定勝利。

首相撲から体勢を崩しに掛かりヒザ蹴りに入る石川直樹

石川直樹の首相撲からウェイトを掛けられると崩される庄司理玖斗

試合終了後、健闘を称え合うハグも首相撲が続いているかのようにヘタレ込んでしまう庄司。

リング上では国崇(=藤原国崇)が「庄司理玖斗は僕の弟子ですけど、やられたのは悔しいので、来年のこの絆興行でやりましょう!」と対戦を促すと、石川直樹も受ける構えで、「今日はメインイベンターとしてKOで勝ちたかったですけど、もっと練習して、これからも絆を引っ張って行けるように頑張って盛り上げていきたいと思います。」と来年以降も出場をマイクで語った。

リングを下りた後。石川直樹は「予想通りにはいかなかった。結構腹と顔面にヒザ蹴り入れたんですけど倒れなかったですね。あれだけ攻めれば相手は4ラウンドには疲れて来るんですけど、庄司は倒れず元気だった。倒し切るだけのヒザ蹴りが出せなかったです。」と庄司の粘りを称えた。

庄司の先輩の国崇は「経験の差が出ましたね。」と一言。

庄司理玖斗は涙ながらに反省の言葉を話していたが、「ベテランのチャンピオンの力って本物だなあと思って、何回も転ばされてばかりで情けない試合になってしまいました。岡山からも家族も観に来てくれて、こっち(埼玉)の友達も観に来てくれたのに本当に情けないです。」

ヒジ打ちを少しヒットさせたことについては「ヒジ打ちは少し当てましたけど、ビクともしなくて手応えも感じなくて、何も出来ませんでした。」

掴まえられてどう切り抜けるかが足りなかった庄司理玖斗。それでもヘロヘロになりながらもヒザ蹴りを幾ら喰らってもノックダウンに至らず、5回戦の長丁場を戦い抜いたことはいい経験になったことだろう。

来年の対戦は確定的、石川直樹と国崇

◆第10試合 62.0㎏契約3回戦

TAaaaCHAN(=ターチャン/PCK連闘会/62.0kg)33戦19勝(8KO)13敗1分 
       VS
シンダム・サンライズジム(タイ/62.0kg)55戦44勝11敗 
勝者:シンダム / 判定0-3
主審:神谷友和
副審:北尻28-29. 椎名28-29. 児島28-30

TAaaaCHANは東北地方の聖域統一スーパーライト級チャンピオン
シンダムは元・タイ国ラジャダムナン系バンタム級チャンピオン

第1ラウンド、ローからミドルキックで牽制するターチャン。激戦の強者シンダムは何が出て来るか分からない凄味を醸し出す。それでも突破口を開こうとローキックからハイキックまで、更に飛びヒザ蹴りも試みるが、まともには食わないシンダム。蹴り返すシンダムは速くて重そうな蹴りで逆に牽制。様子見の中でもペースを乱さない落ち着いたシンダム。

TAaaaCHANのハイキックを余裕で撥ねるシンダム

初回よりは怖さも無くなったかターチャンの蹴りが増える。対するシンダムも蹴り返しは重く強く、下がる展開は見せない。

最終第3ラウンド、積極的に攻めるターチャンと的確に蹴り返すシンダム。やや下がり気味になるシンダムは勝ちを確信した流れで組み付いて首相撲から転ばして凌ぐ時間の稼ぎ方も、こうなったらノックアウトは難しいが、ベテランの技でシンダムが順当な判定勝利を掴んだ。

シンダムのミドルキック、TAaaaCHANを入り込ませない牽制技

◆第9試合 女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級挑戦者決定戦3回戦(2分制)

スーパーバンタム級1位.MARIA(PCK大崎/TeamRing/54.9kg)8戦6勝(2KO)1敗1分
      VS
同級6位.七美(真樹ジムオキナワ/54.7kg)14戦4勝(2KO)8敗2分
勝者:MARIA / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:北尻30-29. 神谷30-29. 児島30-29

オープニングヒットは七美の左ミドルキックと、その蹴りに合わせたMARIAの左ジャブ。やや圧された七美を追ってMARIAが首相撲へ持ち込む。蹴りとパンチの攻防は互角ながらMARIAの圧力が増していき、ロープ際でパンチ連打。MARIAがやや手数で優るも、採点はジャッジ三者とも僅差の30対29ながら、それぞれが1~3ラウンドまで分かれた10対9で、どのラウンドも互角に近い展開のMARIAの僅差判定勝利。

圧力あったMARIAの連打、七美は攻め切れず

◆第8試合 63.0㎏契約3回戦

上杉謙信公(PCK亘理L‘antRe duLion/64.0kg)戦績不詳
      VS
財辺恭輔(REON/62.6kg)6戦4勝(1KO)1敗1分
勝者:財辺恭輔 / TKO 1R 1:47 /
主審:椎名利一

中島崇が計量失格により欠場。同ジムの上杉謙信公が代打出場。刀で斬るパフォーマンスは目立ったが、開始から財辺恭輔のカーフキックを加えたローキックをブロック出来ずノックダウン後、ダメージ深くノーカウントのレフェリーストップ。財辺恭輔の完封TKO勝利。

財辺恭輔のローキックで棒立ちとなってしまう上杉謙信公

◆第7試合 フライ級3回戦

愁斗(Bombo Freely/50.2kg)6戦4勝(4KO)2分
      VS
清水保宏(北眞舘/50.4kg)9戦3勝5敗1分
勝者:愁斗 / TKO 1R 2:34 /
主審:児島真人

前回の6月興行同様、スピーディーな切れ味を魅せる愁斗の攻め。左ミドルキックから右ストレートで倒し、完封TKO勝利。

愁斗の素早いヒットで清水保宏をコーナーに追い詰め、右ストレートで倒した

◆第6試合 女子(ミネルヴァ)50.0㎏契約3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ライトフライ級5位.紗耶香(格闘技スタジオBLOOM/49.7kg)12戦5勝(1KO)6敗1分
       VS
いわち -無所属-(50.0kg)1戦1敗
勝者:紗耶香 / TKO 3R 1:05 /
主審:中山宏美

いわちは極真空手世界チャンピオンとアマチュアK-1で3連覇という肩書きを持つ。パンチと蹴りでの攻めは勢いがあり、紗耶香の顔面を捉える蹴りも目立ったが、打ち合いからの紗耶香が首相撲に入る展開が多くなる中、ヒザ蹴りを加えた攻勢を維持。

第2ラウンド半ばには、いわちの束ねた髪が解け、ザンバラ髪となって前が見難そうな展開。インターバルではしっかり束ねられないまま第3ラウンドへ、紗耶香は首相撲に持ち込み崩し転ばし、蹴り合いも優っていった。

いわちは更に紗耶香の首相撲で崩されそうなところでヒザ蹴りを受けてノックダウン。続行後、紗耶香は蹴りからパンチでロープ際に追い込み連打を続けるとレフェリーが割って入り試合を終了させた。紗耶香の完封TKO勝利。

紗耶香のヒザ蹴りで、いわちが崩れていく

◆第5試合 73.0kg契約3回戦

翁長将健(真樹ジムオキナワ/73.0kg)3戦1勝(1KO)2敗
      VS
玄間貴大(峯心会/72.2kg)2戦2敗
勝者:翁長将健(真樹オキナワ) / KO 1R 2:07 / 3ノックダウン

打ち合いの中、翁長将健の連打で玄間貴大が3度ノックダウンに至ったが、いずれも立ち上がってもアグレッシブに打ち合う展開を見せていた。翁長将健のノックアウト勝利。

◆第4試合 女子(ミネルヴァ)ピン級3回戦(2分制)

UveR∞miyU(=ウーバーミユ/T-KIX/44.9kg)3戦2勝1敗
      VS
友菜(Team immortal/45.3kg)3戦3敗
勝者:UveR∞miyU(T-KIX) / 判定3-0 (30-28. 30-28. 30-28)

◆第3試合 フェザー級3回戦

工藤叶雅(VALLELY KICKBOXING TEAM/56.0kg)1戦1敗
      VS
蹴橙(クローバー/56.3kg)1戦1勝(1KO)
勝者:蹴橙(クローバー) / TKO 3R 1:59 /

蹴橙のヒザ蹴り連打で工藤叶雅がノックダウン後、更にヒザ蹴りでダメージ深く、レフェリーが試合をストップし、蹴橙の完封TKO勝利。

◆第2試合 女子(ミネルヴァ)ピン級3回戦(2分制)

ミネルヴァ・ピン級5位.世利JSK(治政館/44.8kg)8戦3勝5敗
      VS
上真(ROAD MMA/44.8kg)11戦4勝7敗
勝者:上真(ROAD MMA) / 判定0-3 (28-29. 28-29. 28-29) 

◆第1試合 女子アマチュア36.5kg契約2回戦(2分制)

西田永愛(伊原/36.1kg)vs渡邊梨央(MtF MUGEN/35.5kg)
勝者:西田永愛(伊原) / 判定2-1 (19-20. 20-19. 20-19)

※58.0㎏契約3回戦、河崎鎧輝(真樹ジムオキナワ)vs湯本剣二郎(Kick Life/57.9kg)は、
河崎鎧輝の計量失格で中止。湯本剣二郎は勝者扱い。

戦績はパンフレットよりこの日の結果を含んだものです。
第1試合からの試合順は行なわれた順で、パンフレットとは異なります。

松永嘉之前会長から初プロモートを労い、記念品が贈られた大月謙会長

《取材戦記》

今回のメインイベンター石川直樹は春日部市出身。デビュー戦は2013年4月13日、「絆」興行からでした。新日本キックボクシング協会でチャンピオンに成り、後々に所属していた治政館を離れ、移籍という流れで昨年は3回戦制で誓(ZERO)に僅差の判定負け。今年は本来の5回戦で、しつこいヒザ蹴り復活の勝利でした。

松永嘉之前会長の息子さんで初プロモーターの大月謙氏は今回の興行について、
「皆で楽しんで頂けたかなと思います。国崇が石川直樹に噛み付いてくれたので来年、実現に向けて進みます。」と語った。セレモニーでは松永嘉之氏より初興行を称えるパネルが贈られました。

地道にも14回目となった絆興行も、来年も日時未定ながら、ふれあいキューブでの開催が予定されています。

ニュージャパンキックボクシング連盟本興行「NJKF 2023.4th」は9月17日(日)に後楽園ホールで17:30開催予定。

NJKFスーパーライト級タイトルマッチ、チャンピオン畠山隼人(E.S.G)が同級1位、吉田凛汰朗(VERTEX)との2度目の防衛戦。

NJKFフライ級タイトルマッチはチャンピオン優心(京都野口)vs同級1位、谷津晴之(新興ムエタイ)による2度目の防衛戦。

S-1レディース世界ライトフライ級王座決定戦に真美(team lmmoRtal)が挑みます。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

◆デビュー戦はマラソン用短パン!

最近のプロボクシングやキックボクシング試合用トランクスは派手になると同時に、実況アナウンサーが何色か瞬時には説明し難い多彩色も増えました。そのトランクスはマウスピースやノーファールカップといった防御となる必需品ではなくても、身を纏うものとして重要で身だしなみともなるコスチュームです。

昔はボクシングにおいても名の売れない新人には「赤パンツ、打てよ。青パンツ、下がるな!」と選手をパンツ呼ばわりし、その色で名指し野次られたものでした。現在はトランクスとは言い難い、スカート型などの動き易さや御洒落感への変化も増えて来ました。

昭和50年代前半にデビューした選手の中では、「俺らのデビューの頃はキックトランクスなど持っていなくて、スポーツ用品店でマラソン用の短パン買って来て、パッツパツの短さでカッコ悪かったなあ。」といった思い出を語られたり、尻にポケットが着いていたものも見かけたものでした。これはプロボクシングでも古い時代は同様だったかもしれません。

藤原敏男さんのシンプルな白いトランクス。この型が多かった(1983年6月17日)

◆多様な進化

伝説の老舗、目黒ジムは特に厳しく、新人には「プロなんだからタイ文字入りなんかのタイかぶれした格好するな!」と先輩に苦言された選手も多く、「俺らの頃は目黒ジムでトランクス売っていたから、それ買ったけど、デビュー当時は名前も入っていない無地だった。後に会長から「名前入れろ!」と言われて漢字名入れたけど、ダサいから5回戦に上がってからローマ字で名前入れたね。」と語るOBも居られました。

過去の団体によっては赤コーナーは赤いトランクス、青コーナーは青いトランクスという厳格な指定から、やや柔軟な赤系統(オレンジ、黄色、ピンク、白など)、青系統(緑、紫、黒など)という分け方がありましたが、現在はグローブで色分けされること多く、トランクスは自由な色彩やデザインが普及しました。

陸上競技用とかボクシングトランクスしかなかった時代以降は、今時のムエタイトランクス、キックボクシングやムエタイとは異なるマーシャルアーツ(全米プロ空手)ではロングパンツや空手下衣、アメリカでは現在もこのマーシャルアーツスタイルでしょう。

シーザー武志氏が創始者となるシュートボクシングではロングタイツ(スパッツ)が出現しました。

シーザー武志氏は「試合用ロングスパッツは、今までに無いものを作り出したい想いと、知人から指摘された、脚の筋肉のラインをキラッと見せる華やかな発想から作り出したものでした。」と語っていました。

全日本マーシャルアーツ時代はロングパンツのルール(1983年10月2日)

立嶋篤史氏から新人当時に頂きましたAsshiトランクス、まだシンプルなデザイン(1989年頃)

タイ文字で“ソムチャーイ”の高津氏(左)とタイ文字定番の“ムエタイ”の高野義章(右)(2004年11月23日)

キックボクシング界のレジェンド、藤原敏男氏のトランクスは日の丸と、前面に“藤原”と名前を入れた日本人らしいシンプルなもので、昭和時代は上記のように、多くの日本選手も似た流れで漢字かローマ字で名前を入れること多かったでしょう。

タイで市販されていたムエタイ定番文字でなく、タイ文字で自分の名前を入れる“タイかぶれ”も加速していきました。

新風を巻き起こしたのは立嶋篤史。ニックネームの“Asshi”の文字とドクロマークを入れるデザインが増えて、他の選手でもオリジナル化で多彩なデザインになり、近年はスポンサー名まで入れるようになりました。

◆拘りのトランクス

「負けた試合のトランクスは試合では二度と履かない!」

そんな縁起を担ぐ名選手もいましたが、考え方は多種多様。代わりが無いから続けて履く選手も多かった中、元NJKFライト級1位、ソムチャーイ高津氏は、「トランクスには拘っていました。一度履いたトランクを試合で再度履いたことは無く、その後は練習で再利用していました。」と勝っても負けても一試合一度きりのトランクスだったようです。

元・日本フェザー級チャンピオン、青山隆氏は黄色い生地で“青山”と名の入ったトランクスは新人の頃から晩年までたまに履いていました。

「俺は負けたから二度と履かないなんて拘りは無かったよ。」と実力と関係無いことには拘らない思想はその後も健在。

青山隆氏は比較的長期に渡って履かれたトランクス、当時、山崎通明氏はマーシャルアーツパンツだった(1986年7月13日)

ムエタイ修行する機会が増えて行った昭和の円高以降、誰かがタイ修行に行かれる度に、タイのスタジアムに店を出す有名メーカーTHAISMAIやWINDY、TWINS、SANDEEなどで名前入りムエタイトランクスの作成をお願いするようになった選手や関係者は多いでしょう。

拘りのトランクスを作るのも一苦労で、せっかくデザインを上手に準備しても、当時のTHAISMAIなどの業者は、いずれも注文どおりに正確に仕上げてくれることは少なく、

「こっちの方が良いだろう!」という例えそれが親切心でも、勝手な発想でデザインを替えるタイ工場職人には苛立った人も多いでしょう。現地のムエタイに精通する日本人の通訳に頼んで、間違いない仕上がりを求めたり、現在は日本の業者が介入するなど、文字入れも多彩に高度な完成度を持っているようです。

女子試合にてミニスカート型のNANA(左)、下はスパッツ。男子でも似た型が有り(2022年11月13日)

シュートボクシングでは長年、ロングスパッツ型。海人の姿(2023年2月11日)

◆トランクスの進化とブランド化

コスチューム(試合着)の進化はプロレスや他競技、スポーツでも見られますが、今後は更なる軽量化、通気性、水を弾く、汚れ難い、動き易さといった技術進化が行われるかと共に、常識範囲内でトランクスの型やデザインの変化も見られるか追って行きたいものです。

リング上で戦い、使用された有名選手のトランクスはマニアとしては欲しいもの。プロボクシングや他競技を含め、サインやツーショット写真、ポスターと比べて試合で直接使われたものはより希少価値があるでしょう。貰ったものをヤフオクなどで取引して欲しくないですが、ブランド品はぜひとも大切な人に譲る以外は大切に持っていてほしいものです。

スポンサー名入りが増えた現在、オリジナリティーが少ない感じもある。海老原竜二vs片島聡志(2023年4月15日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

お笑いと格闘技という語りたがりが多い2大ジャンルが誌上で激突する、お笑い語り本『お笑いファンvol.2』(鹿砦社)が7月31日に発売されました。

『お笑いファンvol.2』(鹿砦社)7月31日発売開始!

2022年12月に発売された前号は、吉本興業ホールディングスの前会長・大崎洋氏のインタビューでも話題となりましたが、今回のテーマは「お笑い×格闘技・プロレス」。ニューヨーク・嶋佐和也さんが「プロレス・格闘技」について熱く語っています。

そのほかにも、サバンナ・八木真澄さんと極真会館中村道場・松岡朋彦さんの対談や、チェリ―大作戦による極真会館体験入門や、「月刊プロレスファン」元編集長である伊藤雅奈子さんによるコラム「全女とFMWと、ときどき吉本。」など企画も盛りだくさん。

インタビューも多彩で、巻頭を飾るのは、M-1王者・ウエストランド。井口浩之さんと河本太さんが、誌面でも舞台さながらの絶妙な掛け合いを見せてくれます。マユリカには東京進出への思いなどを、あぁ~しらきさんには女芸人の生き様について語ってもらっています。

注目は、島田紳助さんとともにM-1グランプリの立ち上げに関わった“お笑い界のレジェンド”谷良一さんによるコラム『「天才列伝」ぼくの出会った芸人さんたち』。横山やすし師匠との思い出を語ってもらいました。前号にはなかった新機軸として、谷河良一さんの哀愁漂う小説『湖上の月』も必読です。

前号とはテイストを変え、パワーアップした『お笑いファン』。ニューヨーク嶋佐さんの迫力ある表紙が目印です。お求めは、お近くの書店またはAmazonでお願いします。(文=日刊サイゾーより転載)

◆移籍の経緯

キックボクシングの対戦カードを見ていると、たまに所属ジム名が替わっている選手を見かけることがあります。ジム名称変更の場合がありますが、移籍している場合も多いでしょう。そこでは多くの単体プロモーション興行が増えたことにより、移籍やフリーとなる決断は、より安易な選択に変わって来たと感じることがあります。

移籍トラブルの場合は選手の我儘であったり、ジム会長側の傲慢であったり、ジム側と選手間でファイトマネーや待遇に関するもの、目指す方向性に関わるもの、練習環境の問題などがあり、選手の止むを得ない事情では、転勤で遠地に行くことになり引退、または止むを得ず所属していたジムを辞め、現地のジムに移籍したケースがあります。

目黒藤本ジムや東京町田金子ジムのように閉鎖される場合は止むを得ず、移籍しか道が無いケースもありました。

裏事情では破門の場合あり、稀に引き抜きの場合あり。多くは書けない事情も存在します。

黒崎道場から小国ジム、更にキングジムへ移籍した青山隆

◆移籍の壁

最近では、女子の藤原乃愛が3月19日に撫子(GRABS)に敗れる初黒星でミネルヴァ・ピン級王座を失い、そのわずか4日後に所属するROCKONジムから実父が運営する空手の藤原道場に移籍する情報が流れました。4月から大学生になったことも心機一転となったことでしょう。しかし、急な移籍にそれまでの加盟団体、ジャパンキックボクシング協会では驚きの声も聞かれ、看板選手が一人でも抜けることは協会の損失でもあり、「簡単に移籍を許してはならない」という厳しい意見も聞かれました。

移籍した藤原乃愛、この先の飛躍を願う

伊原ジム移籍後も恩ある藤本ジムの看板を背負って戦う勝次

キックボクシングにおいては選手とジム間の契約内容がどのようになっているか、団体によって異なる部分があったり、過去においては細かい制約は無い不明瞭な部分もあったでしょう。

日本のプロボクシングでは確立した競技として当然ながらJBCルール内に契約項目があり、選手のマネージメント契約に関わる明確な基本原則が細かく記載されています。

契約期間に関しては3年を超えないこと(異議なければ自動更新)。契約更新しない意思表示は期間満了の2ヶ月前より可能となります。

キックボクシング系での古き時代で、選手がジム会長とトラブルになり所属していたジムを辞めるも、会長側はこの選手との絶縁状を各ジムに配布し、「入門して来たとしても受け入れないこと」という注意喚起が届いていた例がありました。

2000年以降に起きた例では、ジムを辞めることで加盟団体にも承認を得なければならず、「5年間は他団体興行に出場できない」という選手活動を縛ってしまう規約もありました。

この場合においては該当選手が所属していたジムや加盟団体に何度も穏便に交渉して、移籍が認められたケースでしたが、この辺りの時代までは団体(協会や連盟)によっては厳しい条件が起こる移籍の壁でした。

転勤で活殺龍ジムから大阪の北心ジムへ移籍した不破達雄(左)、佐藤正男(右)も黒崎道場から渡邉ジムへ、いずれも円満移籍

◆会長の想い、育てる意義

移籍というより、近年は個人としてフリーになるのも可能なキックボクシング業界であり、現在では団体やジムの規則に縛られず、ファイトマネーからマネージメント料(通常33.3%以内)が引かれないので、この方が得と考える選手も居るようです。

一般的にジムに入門して選手登録し、団体やジムの規則を遵守する必要があるのは、ジム側と選手が円滑に活動が出来るように定められたシステムです。

しかしフリーではよほど恵まれた人脈・支援者が居ない限り、ジム設備の無い状態から練習場を探しても、出稽古的に受け入れてくれるジムや周囲の協力が無ければ練習も充実せず、マッチメイクも決まらないことに繋がっていきます。ミット蹴り等で癖を見抜いた指導を受けたり、スパーリングパートナーになって貰ったり、試合でも控室でマッサージや準備、試合中のセコンドに着いて貰うなどのチームワークも、相当仲間意識を持って馴染んでなければ、すべて自分で交渉を行なわなければならないフリーのままでは活動し難いことでしょう。

ジム会長は、マッチメイクをする際に、我がジムの選手が勝てるように、不利でも成長に繋がるように、早くチャンピオンの座に届くように、極力怪我の無いように守り育てていく努力をするでしょう。それがビジネスであっても、ジムにヒョロっと現れた少年を、一から育てていくのは大変な苦労が伴います。会長やトレーナーがどんな想いで育てているか、その恩を忘れてはいけません。

安定した所属先は必要な環境、旧・目黒ジムの光景

高谷秀幸も異端児、やや険しい移籍の経験あり

◆団体分裂による脱退と加盟

過去、ジム単位でも団体を脱退や加盟が沢山ありました。多くの分裂による新団体設立が起こり、その分裂や各々のジムの移籍では、古き仙台青葉ジムが団体を行き渡ること一番多かったでしょう。創生期の日本系から全日本系に移り、後々のNJKFまで気まぐれ瀬戸幸一会長は異端児でした。

ジム単位では選手は逆らえず着いていくだけですが、その方向性には着いて行かなかった選手も幾らか存在します。

以前、格闘群雄伝で紹介した少白竜さんは後に一回目の引退をして、元・日本バンタム級チャンピオン(MA日本)、三島真一さんは分裂に着いて行かない意向でした。

現在は弱体化し過ぎて団体分裂は起こり難くても、選手自身が理想とする移籍は続くことでしょう。移籍は何度も経験することは無いでしょうが、トラブルが元で移籍した場合、その先で何らかの影響を引き摺るのか、前途洋々と言えることは少なく、円満移籍ではその先でも後押ししてくれる支援者が居て充実出来ることが多いようで、そんな環境で飛躍して欲しいものです。また移籍に纏わるいずれかの選手を格闘群雄伝でも拾いたいと思います。

リングに上がるまでは多くの苦労と支援があってのもの

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
昭和のキックボクシングから業界に潜入。フリーランス・カメラマンとして『スポーツライフ』、『ナイタイ』、『実話ナックルズ』などにキックレポートを寄稿展開。タイではムエタイジム生活も経験し、その縁からタイ仏門にも一時出家。最近のモットーは「悔いの無い完全燃焼の終活」

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