キックボクシングの新イベント「KNOCK OUT」開催決定!

キックボクシング創設50年の過去において、数年毎に一人は革命を起こす輩が現れてきました。大きな節目では、キックボクシングを創った者、衰退から脱する為、統合団体を興した者、そして有り触れた新団体ではなく、新展開に打って出たのが元・日本フェザー級チャンピオン、小野寺力氏でした。

記者会見での那須川天心18歳のコメント風景

2005年10月、小野寺氏自身の引退興行から始まったNO KICK NO LIFE興行を今年6月まで継続し、これを基盤として始まったKNOCK OUTですが、新日本プロレスの業績をV字回復させたことでも有名な (株)ブシロードの強力なパートナーを得たことが最大の原動力となりました。

会見で顔を並べる木谷高明氏、花澤勇佑氏、小野寺力氏

9月14日(水)に渋谷のTSUTAYA O-EASTで行なわれた「KNOCK OUT発表記者会見」ではステージ上に(株)ブシロード代表取締役社長・木谷高明氏、ブシロードから新たに立ち上げた興行会社(株)キックスロード代表取締役社長・花澤勇佑氏、RIKIXジム代表・小野寺力氏、スペシャルサポーター・紗綾氏、初回興行出場予定選手・那須川天心、梅野源治、両選手が並びました。

設立経緯については、2年ほど前に、木谷高明氏が友人から紹介されたという小野寺氏との交流から始まり、NO KICK NO LIFE興行のTOKYO MX TVでの放送に至り、その結果、高評価を得たことに繋がります。

梅野源治の公開ミット蹴り

初回興行は12月5日(月)、東京ドームシティ(TDC)ホールに於いて、梅野源治、那須川天心、T-98(今村卓也)、大月晴明が出場予定となっています。来年は年間6回の興行が予定されており、TDCホール、大田区総合体育館を中心に開催。出場選手は各団体、ジム・プロモーションの協力体制を作り上げていくというものです。来年1月より、TOKYO MX TVにて毎週レギュラー放送も決まっています(時間枠は未定ながら、30分枠が妥当の模様)。

記者会見で木谷高明氏が語られた中、インパクトある重要点を簡潔に纏めますと、

3日後の試合を控えての減量中のミット蹴りを終えて、KNOCK OUT出場への抱負を語る梅野源治

「日本は今、国を挙げてスポーツビジネスのGDPを上げようとしており、アメリカのスポーツマーケットは60兆円ある反面、日本は5~6兆円しかなく10対1以下です。KNOCK OUTは最初の2年くらいは赤字だと思いますが、いずれスポーツコンテンツとして世界に売れて、大きなビジネスになると信じています。そうなれば選手のギャラも上げることができます。」

「今、キックボクシングは上位概念が無く、プロレスならWWEがあり、総合格闘技ではUFCがありますが、キックは世界でも団体が乱立していて、可能性の話としてしっかりした上位概念が作れればとんでもないビッグビジネスになるということです。」

「選手のチケット手売りをやめさせ、誰が出るか発表しなくてもチケットが売れるようにしたい。手売りをやってる限り先は無く、手売りは供給側の事情で、お客さんの需要側に立ってないことです。」など。

この発表記者会見後、1試合のみの公式試合、実質KNOCK OUTの最初の試合となります。森井洋介はタイトル歴も豊富なベテラン選手。高橋一眞は4月にNKBフェザー級王座決定戦で村田裕俊(八王子FSG)に敗れているところ、村田でなく高橋一眞が選ばれたところに、このイベントに相応しいと判断された期待感があります。

2度目のダウンを奪うラッシュを掛ける森井洋介

◆59.5kg契約 5回戦

全日本スーパーフェザー級チャンピオン.森井洋介(ゴールデングローブ/59.4kg)
.VS
NKBフェザー級1位.高橋一眞(真門/59.5kg)

勝者:森井洋介 / TKO 1R 2:50 / カウント中のレフェリーストップ

開始早々からパンチとローキックの激しい攻防でした。高橋のパンチが森井の顔面を捕え、蹴り負けない展開。「なかなかやるなあ」と思わせたところ、森井も高橋の出方を読めた頃、高橋のヒザ蹴りに左フックを合わせ、スリップダウン裁定ながら高橋にダメージ与えました。更にパンチ連打で2度のダウンを奪い、高橋は立ち上がろうとするも、足に来てフラつき崩れ落ちたところをレフェリーストップ。勝負に急ぎ過ぎの感がありました。昔の5回戦慣れした選手ならKO率高い選手でも初回からラッシュしなかったと思いますが、KNOCK OUTを意識せず、初回は様子見に進めてもよかったと思います。

森井洋介が高橋一眞をKNOCK OUTした瞬間
森井自身もKNOCK OUT出場をアピール

12月5日(月)東京ドームシティホールにて開催の「KNOCK OUT 」での決定カードは、
スーパーウェルター級超 5回戦
T-98(=今村卓也/クロスポイント吉祥寺)vs長島自演乙雄一郎(魁塾)
&
5回戦(ライト級超を想定)
大月晴明vsスターボーイ・クワイトーンジム(タイ)

他、那須川天心、梅野源治が出場予定で、今村卓也は現・タイ国ラジャダムナンスタジアム・スーパーウェルター級チャンピオンであり、10月9日(日)に現地・ラジャダムナンスタジアムで初防衛戦が予定されています。また梅野源治は10月23日(日)にディファ有明でのREBELS興行で、タイ国ラジャダムナンスタジアム・ライト級王座挑戦試合が控えており、こちらも王座奪取して、KNOCK OUT主催者としては二人の日本人ラジャダムナン現役チャンピオンを揃えたいところでしょう。

スターボーイは元・WPMF世界スーパーフェザー級チャンピオンで、今年3月12日のNO KICK NO LIFEで梅野源治にヒジ打ちでダウンを奪って引分けた選手。

森井洋介も高橋一眞をKOし、12月5日出場を希望、「打倒ムエタイで強い選手とやらせて貰えれば激しい良い試合ができます」とアピールしました。

KNOCK OUTテーマソング制作したBRAHMAN(の一人)、ハリー杉山氏、石井宏樹氏が紹介される

公式リングアナウンサーに選ばれたのはNO KICK NO LIFEでも登場したハリー杉山氏、テレビ解説者に元・ラジャダムナン・スーパーライト級チャンピオンの石井宏樹氏が務めます。

木谷高明氏の会見で、興味深かったのは競技時間の長さや放送時間帯についてでした。

「人が集中して試合を観ていられるのは6~7試合が限界です。通常はこの試合数でいく予定です。」

また放送時間帯についても「MX TVでの放送も深夜に至らない、サラリーマンが帰宅して何か面白いものやっていないかチャンネルを選択している時、偶然キックを見つけてチャンネルを合わせる可能性ある時間帯を目指したいところです。」と語られたところなど、帰宅後、テレビ欄も見ていない一般人がリモコン持ってチャンネルを選ぶ中での偶然性を狙うところは、さすがの感性でしょう。

ラストはいつものリング上での御挨拶の小野寺力代表

“6~7試合”も、前座からメインまで5回戦を組み合わせた全32ラウンド以内が妥当なところと感じます。

前途洋洋と船出したKNOCK OUTですが、既存の団体等がどういう反応を示すか、今は若いジム会長が増えた時代で団体の垣根もあまり感じず協力的なジムが多いので、マッチメイクもあまり難しくないでしょう。イベントとしての“大成功”率は高いと思いますが、競技として、「プロボクシングを越えられるか」という視点で見ていくのも重要なことかと思います。KNOCK OUT興行だけで克服できる問題ではありませんが、その先陣を走るKNOCK OUTがキック業界を率いることになれば新たな面白い時代に入るでしょう。

恒例の集合写真撮影で締め括り

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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レフェリーとジャッジ──採点を付ける難しさ、切磋琢磨する日常!

記入ミスは許されない公式採点結果の一部

「レフェリー(主審)の方が楽だ。この試合KOで決まってくれないかな!」

打ち合いの少なそうな試合の前、ジャッジ(副審)を務めるある審判員が冗談ながら小声で漏らした本音でした。

キックボクシングの判定結果は、陣営からよく不満が漏れる溜息や、非難、罵声が飛び交うことがたまにあり、観衆の前でかなり強烈な印象が残ってしまう光景があります。主要試合になるほど、ベテラン審判員が裁くのは当然ですが、僅差の攻防戦の場合、未熟な審判が採点しても、ベテラン審判員が採点しても、採点に現れる差は結局、非難・罵声が飛び交うのは同じことかなと思うことがあります。

プロボクシングで見かけた光景ですが、採点が読み上げられ、勝者コールをしたリングアナウンサーに水をぶっ掛けた陣営、後楽園ホールで青コーナーから控室へ引き上げる途中、レフェリー待機場所となっている北西の角の閉鎖シャッターを裏から“バシーン”と思いっきり叩いて行った陣営、世界戦で採点に加わっていない、裁いたレフェリーを突き飛ばした例もありました。業界でかなり有名なベテランの審判が加わっていてもこんな事態です。

キックボクシングでも昔から不満を当り散らす光景はよくあり、ジャッジに詰め寄ったり、採点集計を確認に来る陣営もよく見かけます。

「やっぱりキックは血の気の多い人種の集まりだな」という声も聞かれますが、そういう印象の強くなる観衆の前で騒ぎ立てるのはやはりやめておいた方がいいと言えるでしょう。

◆選手に安心して試合に集中できる公平なルール作り

ジャッジでは緊張感持った採点で、秤を見つめる眼も厳しい和田良覚レフェリー。計量の数値は秤が出してくれる明確さで安心感あり!

まだレフェリー教育が徹底していなかった過去の時代で目立った例は、ジャッジが未熟で認識が疎すぎて、主導権を握った優勢な展開でも5回戦で50-50という採点が付けられる試合がありました。有効打だけを見ていればそんな採点も可能ですが、明らかに手数、積極性が優っていたにも拘らず、主催者側を意識した偏りになったと思える採点でした。

また、接戦で三者の採点が分かれる原因のひとつは、優勢と見極めた個々の思考が違う場合や、ジャッジの位置によってはっきり見える位置と、見えなかった位置との印象点の違いがあるでしょう。

「レフェリーの方が楽だ」とすべての審判が感じている訳ではなく、リング上で裁くレフェリーの方が瞬時に機転を利かす判断が必要で、曖昧な判断は直接非難を浴びるので、楽とは言えないと思いますが、こんな大変な役割を担っているのもキックボクシングが大好きな人達なのだろうと思います。

選手に安心して試合に集中できる公平なルールの下(もと)、そんな過去の頼りないレフェリングや、罵声を浴びる身分の低いレフェリーから脱皮しようという革命を起こしたのが今ある二つのレフェリー協会なのでしょう(他団体レフェリーの参加も可能)。

◆ルンピニージャパン興行で来日したベテランレフェリー、ウドム・ディー・クラチャン氏

ムエタイレフェリー最古参のウドムさん。カメラ(スマホ?)を構える姿もベテラン級?

最近は本場のムエタイが上陸して当たり前の時代、現地プロモーターや公的試合役員が来日する中でのムエタイ・タイトルマッチなどでは、厳密な見極め解釈が一般的に分かり難い中、素人的な説明になってしまいます。

「パンチはほとんど軽視され蹴りに重点が置かれる」という昔からの一般解釈や、「ムエタイ独自の流れの中でポイントが付き難い前半はあまり動かず、中盤から優位に進めポイントを採って勝ちを確信したら最終ラウンドは流す」とか、「蹴られてもすぐより強く蹴り返せば、効いていない証明になり優勢」とか、「組み合って首相撲から転ばせれば優勢」とか、「相手のハイキックを、上体を後ろに反らすスウェーバックで避けるのは有利だが、相手のミドルキックを腰だけ後ろに引いた避け方は不利」などなど──。

これらはムエタイ駆け引きの中でよく聞く優勢を導く見方ですが、この辺の真実味のある話は、本場ムエタイのレフェリーなど、組織役員に聞かなければ分からないムエタイの難しい採点があることも事実で、仮に4人の審判とも日本人で裁いたらタイ側から非難轟々のクレームが来そうな雰囲気です。

7月17日、ルンピニージャパン興行で来日したルンピニースタジアムのベテランレフェリー、ウドム・ディー・クラチャン氏は裁く側のそんな経験値を歴史的にも長く持っている人でしょう。

1990年のMA日本キック連盟でのソンチャイ興行(山木敏弘氏主催)でもベテランレフェリーとして来日していたウドム氏は今もリングに立つことがあるという超ベテラン、驚きの最古参です。我タイ語がしっかり出来ればその経験値をいろいろ訊ねてみたい人物です。

◆どんな好ファイトもレフェリーがミスを犯せば台無しになる

ルールミーティングの様子

ムエタイやキックボクシングはボクシングより多彩な技があって複雑な見極めの採点基準です。仮にレフェリーにも大相撲の行司のような昇格・降格制度が作られ、更に衆議院議員総選挙の際の、最高裁判所裁判官国民審査の「辞めさせた方がよいと思う裁判官に×を付ける投票」のように、ファンや選手による「毎年1人辞めさせた方がよいと思うレフェリーに×を付ける投票」なんてあったらレフェリーも更に緊張感もってレフェリングすることになるでしょう。現状はレフェリー組織も纏まっていないので不可能ですが、そんなシステムもあれば競技発展への手段のひとつかもしれません。

レフェリーがミスをすれば好ファイトも台無しになる場合もあります。また見事なタイミングで試合を止めれば感動の名勝負で終る場合もあります。ラウンドガールやタイムキーパーだけではない、“最も重要な名脇役”という存在の“名レフェリー”と言われる実績を残して欲しい方々です。

1月31日の本コラム「抗議にも罵声にも屈せず闘い続けるキックボクシング界レフェリー列伝」に似たレフェリーに関するテーマとなりましたが、今回は採点の難しさ中心の話題に触れました。また近いうち、採点の振り分け(10-10から10-7の付けられ方)について触れようと思います。

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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残暑のWINNERS、見果てぬ頂きを目指して!

的確なパンチでヨードウィッタヤーのリズムを狂わした麗也

治政館ジムが抱える若きスターの麗也が“取り”のメインイベント・・・ところが瀧澤博人が最終試合(大取り)に変更となりました。

麗也は治政館の先輩、志朗に続くスターとして試練を与えられつつ、日本フライ級チャンピオンにまで届いた選手。1995年生まれで10月で21歳になります。ここ1年ほどの日本人との同世代ライバル対決では4連勝。5月の山田航輝(キングムエ)との対戦も激しい展開で判定勝利。この日のヨードウィッタナーが次第に調子を上げてきても、パンチで主導権を掴み、突進をいなす技術を見せて勝利を導きました。

少々の蹴りを食らっても勢いづいた麗也の圧力は弱まらず

瀧澤博人は日本バンタム級チャンピオンとなって以降、ムエタイ王座を目指し強い相手との対戦を臨むも撥ね返される苦戦が続く中、前回興行での王座防衛戦で勝岡健(伊原稲城)を退けた後「ルンピニースタジアム王座を狙う」と宣言したとおり、更なる試練に臨み続けていますが、長身を活かした有効な蹴りとパンチも力及ばずヒジで切られ、3ラウンド終了時の棄権負けでしたが、ただでは終れない玉砕戦法で立ち向かう勇敢さが見られました。

長身を活かした前蹴りは有利な展開の瀧澤博人

内田雅之は昨年10月に5度目の防衛戦で、重森陽太(伊原稲城)に日本フェザー級王座を奪われるも、ムエタイ元チャンピオン戦を迎え、実戦から長く離れない試合間隔を保っています。勝利には繋がっていませんが、我が息子やジムの後輩に戦う姿を見せるかのように38歳になってもアグレッシブな戦いを続けています。この日は4ラウンドからやや動きが鈍り、劣勢気味で終わりムエタイ元チャンピオンには敵わずでした。

同じく38歳の真鍋英治(市原)が4月の市原臨海体育館での興行に続いて出場。いずれもKO負けですが、過去、1997年と1998年にバンタム級で、2001年にフェザー級で日本王座挑戦したこともあり、今年は数年ぶり(ほぼ10年かも)にライト級での再起でした。攻撃的ファイトで好感が持てますが、打たれての脆く崩れるKO負けが多く、今後続けるのはちょっと心配な存在です。

本日の最優秀選手賞となる武田幸三賞は、試合をコントロールする上手さが光り、麗也が獲得しました。

けん制だが、飛び技では前回KO勝利を掴んでいる大技。突破口を探る瀧澤博人
ヒジで切られ劣勢に陥る瀧澤博人

◎WINNERS 2016. 3rd
8月28日(日)ディファ有明16:30~20:40
主催:治政館ジム / 認定:新日本キックボクシング協会

◆54.0kg契約 5回戦

日本バンタム級チャンピオン.瀧澤博人(ビクトリー/54.0kg)
.VS
ヨーブアデン・ソー・シリラック(元RDN系Lフライ級C/タイ/54.0kg)
勝者:ヨーブアデン / TKO 3R終了

棄権を促される瀧澤博人。悔しさと共に再浮上を前向きに考えているだろう

◆53.5kg契約 5回戦

麗也(治政館/53.5kg)
.VS
ヨードウィッタナー・シリラックムエタイ(タイ/52.8kg)
勝者:麗也 / 3-0 (49-47. 49-48. 48-47)

前蹴りで出る内田雅之。小技もかなり得意で有効技

◆59.0kg契約 5回戦

内田雅之(元・日本Fe級C・現同級2位/藤本/58.75kg)
.VS
チャオ・ロゲート(元LPN系フライ級C/タイ/59.0kg)
勝者:チャオ・ロゲート / 0-3 (48-49. 48-50. 48-49)

二階級下の元チャンピオンながらチャオは強かった。内田は押され気味

◆58.0kg契約3回戦

日本フェザー級1位.石原將伍(ビクトリー/58.0kg)
.VS
サハラット・サシプラパー(タイ/57.5kg)
勝者:石原將伍 / TKO 3R 2:05 / 石原はパンチが強く、連打で追い込んで倒しレフェリーストップに追い込む。

◆58.0kg契約3回戦

日本フェザー級3位.瀬戸口勝也(横須賀太賀/57.7kg)
.VS
日本フェザー級4位拳士浪(治政館/57.85kg)
勝者:瀬戸口勝也 / TKO 1R 2:20 / 瀬戸口も得意のパンチ強打で2度ダウン奪って仕留める。何も出来ずに終った拳士浪も納得の敗北。

◆69.0kg契約3回戦

日本ウェルター級1位.政斗(治政館/68.8kg)
.VS
NAOTAKA(橋見塾/68.65kg)
勝者:政斗 / TKO 2R 1:07 / ヒジ打ちによるドクターの勧告を受入れレフェリーストップ。政人が再浮上を狙って積極性ある攻勢。再度の王座挑戦を狙う。

真鍋英治の入場。Tシャツの文字が光る

◆62.0kg契約3回戦

日本ライト級2位.直闘(治政館/62.0kg)vs真鍋英治(市原/61.6kg)
勝者:直闘 / TKO 2R 2:57

RDN=ラジャダムナンスタジアム
LPN=ルンピニースタジアム
他、アンダーカード7試合は割愛。

◆麗也と瀧澤博人のダブルメインイベント

この日はダブルメインイベントと謳っているので、麗也と瀧澤博人ともにメイン級ですが、正式にはメインイベントはひとつ、セミファイナルもひとつが基本です。パンフレットにも書かれていたとおり「麗也が初のメイン」。やはり取りを務めるのは我が身でありたいと思うかもしれません。

“見果てぬ頂きを目指して”とは、この興行のサブタイトル。あともう少しというところで手が届かない、程遠いムエタイ殿堂王座。実力で優っても、勝負ではいなされ転ばされる競技でもあります。首相撲の駆け引きと更に現地での知名度も味方になり、そこで防衛してこそ“金メダル級”としたら現在は、“銀”にも迫れない、どうにもならない現状でしょう。そんな険しい頂であるため挑戦し続ける価値があります。

この日、真鍋英治がリング登場時の着ていたTシャツには「ヒジ打ち一発50万!!」と書かれていましたが(セコンド陣営も着用)、この意味分かる人、会場内にどれだけいたでしょうか。

これは現・市原ジム会長の小泉猛氏が、1981年5月の内藤武(士道館/宮越宗一郎、慶二郎の父)での50万円賞金マッチでかなり劣勢な中、ヒジ打ち一発で逆転TKO勝利し、50万円奪取した試合が原点で、当時のゴング誌に、「小泉、ヒジ打ち一発50万!」と書かれていた見出しが使われたものと思います。

次回興行は9月18日(日)には後楽園ホールで、先日、ラジャダムナンスタジアムで3ラウンドKO勝利した江幡睦が“取り”のTITANS NEOS 20が17:00より開催されます。

ライト級ランカーとして熟練した直闘には敵わぬ展開の真鍋英治

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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荒木ゴング──“世界でひとつだけの音色”を奏で続けたリングサイドの鐘

脇役ながらキックボクシング興行の要となる存在のタイムキーパーとその相棒のゴング(鐘)にもドラマがありました。その存在に、ファンや興行関係者はどれだけ関心があるでしょうか。

荒木栄氏。カウントをレフェリーに繋ぐことも重要な役割。こんな姿がリングサイドにありました(1991.11.15)

◆ゴングを鳴らし続けた男・荒木栄さん

キックボクシング創生期から長くタイムキーパーを務められた荒木栄(あらきさかえ)というおじさんがいました。いつから始められたか、年齢も古くを詳しく知る方はいないので分かりませんが、関係者によると1969(昭和44)年6月、日本キックボクシング協会が日本武道館で東洋チャンピオンカーニバルを開催した時にはすでにタイムキーパーを務めて居られたようで、多くの試合をゴングとストップウォッチで管理してきたことは確かな存在です。

現在も多くの団体や興行が会場常備のゴングを使用していますが、新日本キックボクシング協会では独自に所有するゴングを毎度の興行で打ち鳴らされていることを、ファンの方で御存知の方はどれぐらい居らっしゃるでしょうか。「言われてみれば新日本は他団体と違う音色だな」と気が付く人は、物事の微々たる変化でも気が付く感性豊かな人かもしれません。

世界でひとつだけの鐘

◆継承されるゴングの音色

今、新日本キックで使われているゴングは2代目で、初代ゴングを複製したものです。甲高い音色で余韻が10秒ほど続く、響きの綺麗なゴングですが、初代と形と素材は全く一緒で、初代よりやや音色が変わったものの、甲高さと余韻は変わらずです。

初代ゴングは「寄贈 アローンジム S 50.12.6」という刻印が入っており、1975年(昭和50年)当時、経緯はわかりませんが、日本キックボクシング協会に加盟していたアローンジムが寄贈したものと思います。毎週TBSで全国放送されていた時代で確認できることは、翌年1月からゴングの音色が変わり、この時から使用されているのではと思います。

その当時もこのゴングを操っていたのは、荒木氏でした。沢村忠氏も現役最後の年にこのゴングの音色を聴いている訳です。その後のキックボクシング低迷期は興行数も減り、ゴングもこだわりなく別物を使われた時期もありましたが、1984年11月、業界復興を目指す統合団体の日本キックボクシング連盟が設立された初回興行から、このゴングも復活しました。おそらく荒木氏が準備したものでしょう。後々このゴングは荒木氏とともにMA日本キックボクシング連盟で活かされました。

左側の赤いスタッフスーツが荒木栄氏。勤続10年以上のスタッフへ感謝状が贈られた日。右側は日豊企画代表でMA日本キック連盟代表だった石川勝将氏(1985.11.22)

◆好戦を称えるかのように強めに10回以上打ち鳴らすことも

荒木氏を知る人はこのゴングを“荒木ゴング”と名付け、荒木氏のタイムキーパーに打ち込む熱心さは、レフェリーに繋ぐダウンカウントやラウンド終了の打ち鳴らし連打にも感情がこもり、ゴングと一体化した存在となっていました。決して派手にアクションを起こす訳ではなく、凡戦であってもラウンド終了では淡々と6回ほど打ち鳴らし、盛り上がったラウンドは好戦を称えるかのように強めに10回以上打ち鳴らすこともありました。

荒木氏と比較的親しかったのは日本バンタム級チャンピオンになる前からの鴇稔之(目黒)氏でしたが、「鴇くん、重いからゴング預かってよ」歳を重ね体に堪える荒木氏が鴇氏にお願いしたことがある言葉でした。

その荒木氏もまだ若い昭和40年代の頃、試合に没頭して3分経過、後ろから小声で“叫んだ”のは野口修協会会長の奥様、「荒木さん、荒木さん、時間時間、ゴングよ!!」と和子さんが語るエピソードもありました。

その荒木氏も1992年の1月興行を最後に体調を崩され永眠。その後、荒木ゴングを受け継ぐ者は居らず、そのゴングも行方不明状態。でも当時はそんなゴングにこだわりを持つ者は居らず、その後は何の躊躇いもなく後楽園ホールなど、会場常備のゴングを使っていました。

荒木氏の教えを受け継いだ岩上哲明氏(1997.3.9)

◆荒木氏の魂を受け継いだ岩上哲明氏

その後、1995年11月5日、市原臨海体育館での興行で突然復活した荒木ゴング。見つけ出してきたのがやっぱり頼りになる鴇稔之氏。私らは「よくぞ復活してくれた」と思ったものの、その後のタイムキーパーは荒木氏のこだわりを知らない、単に短く淡々と打つ者ばかり。

時代は受け継がれずも、しかし翌年3月、再び団体分裂が起こり、老舗の日本キックボクシング協会が復興。荒木ゴングも古巣へ帰ってきました。タイムキーパーを務めたのは岩上哲明氏で、MA日本キック連盟初期(1984.11~1989.1)の興行会社の日豊企画スタッフだった頃、荒木氏のアシスタントとして指導を受けた人でした。

その当時の岩上氏が就いた頃はまだ16歳で荒木氏の孫のような存在。若く素直な吸収力でその荒木氏の魂を受け継いだかのような見事なタイムキーパーを日本系復興後を務めました。ゴング連打も見事なもので、これこそ日本系の音色。荒木氏の魂が乗り移ったかのような進行でしたが、それも長くは続きませんでした。岩上氏も本業の都合で転勤の為、1999年7月に止むを得ぬ引退。

◆2代目荒木ゴング

更にゴングというものは寿命があるということを当たり前ながら思い知らされたのは、過去何度か支柱が折れての修理はあったものの、亀裂(ヒビ)が強く入り、それも修理で克服しつつ、2007年頃、2度目のヒビ割れで修理しても響きが弱まってしまうほどの重症に陥り、荒木ゴングの引退を迎えるに至りました。それ以前に複製を作っておいたのは、やがてやって来る交代に備えてのものでした。2代目荒木ゴングを最初に使ったのは2004年12月のTITANS.1stからでしたが、この時は臨時で、毎度の興行で登場したのは交代した2007年頃でした。

その2代目荒木ゴングも2013年12月の藤本ジム興行で亀裂が強く入り、響かなくなる重症。修理の結果、亀裂は修復されたものの、業者さんからは「全体に無数の細かいヒビが入っているので、あまり強く叩かないで」という御指導。いずれ2代目ゴングも引退が近いことを覚悟する現状です。ゴングは真鍮で出来ていますが、叩き続ければそういつまでも使えるものではなく、やがて寿命はやってくるものでした。荒木ゴングは“世界でひとつだけの鐘”と言えるほど他では真似できない音色でした。

ルンピニースタジアムで使われる釣鐘式ゴング。これもムエタイの値打ち物

◆「ゴングに触るな!」

「ラウンド終了間際は自軍のコーナー近くで戦った方がいいよ、ゴング鳴ってすぐ休めるから」こんなジョークともとれるアドバイスを鴇氏にしたこともある荒木氏。
「テンカウントゴングはあれぐらいのペース(4秒で1打ぐらい)が余韻と感情がマッチして良いんだよ」ある選手の引退式の後、周囲に語っていた荒木氏。

平成に入ったMA日本キック連盟第二期時代(1989.7~1996.2)、初期の興行会社が撤退した後のアシスタントの梅沢勝氏は「安易にゴングに触ると荒木氏に怒られた」という厳しい面もありました。

時間を見過ごす失態は荒木氏御自身の若手の頃以降は無く、タイムキーパーといえども時間を追うだけではない、ルールを把握し、レフェリーの裁きに対する機転を利かす処置も多くあり、岩上氏にも厳しい指導に移っていったことでしょう。

こんな脇役ながら音で奏でるゴングで、ファンの潜在意識に残る演出を残したのは荒木栄氏だけでしょう。1985年11月22日、初期のMA日本キック連盟で、団体問わず勤続10年以上のスタッフを称える表彰式では、レフェリーの李昌坤(リ・チャンゴン)氏、リングアナウンサーの衣笠真寿男氏とともに感謝状が贈られ、リングでの観衆に注目される緊張の瞬間でした。

生涯では計20年以上になるタイムキーパー歴。ゴングとともに白手袋の荒木氏の姿があったタイムキーパー席に、キックボクシングの歴史に残る功労者がいたことを記しておきたいと思います。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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「京太郎祭り」(角海老ジム)に見た40歳ボクサー、佐々木基樹の意地

◇S・ライト級8R

佐々木基樹(帝拳)× 岡崎祐也(中内)

8月2日に新宿フェイスで行われた角海老ジムの興業は暑さのなかでどれもエキサイティングな試合が展開された。ヘビー級ボクサーの前座とはいえ、かつて日本王者を極めた40歳の佐々木が2年半ぶりに復活。「左が伸びてくる」というランク8位の岡崎のパンチをことごとくかわしてまわりこみ、しのいで左フックや右フックをかまして、なんとか手数で岡崎を上回った。

佐々木は、「世界は無理だが、東洋や日本王者は狙える」として、長いブランクを経て復活した。

「こんな試合していたら日本を狙えへん」と、3-0の判定勝ちを納めたが、ご機嫌は悪いのなんの。

終了後に「今度は日本王者の岡田博喜がターゲットですね」というと、「当たり前やないですか」とご機嫌斜めだった。よほど、試合の展開が思いどおりにならないことが悔しかったのだろう。

それにしても、新宿フェイスのリングは狭いのなんの。それに、ふわふわとしているから、ボクサーは打ち合うしかない。

2Rでタオルを投げて勝った京太郎は、相手がクルーザー級なので、参考にもならない。主役の京太郎は、「来ていただいてありがとうございました」として次の試合は東洋太平洋王座かWBO王座を狙うとしているが「海外でやりたくない」という始末。

そんな風に主役が小さく見えたぶん、佐々木の戦いは、火花が散って会場を興奮のるつぼに巻き込んだ。

ただし、前座とはいえ、佐々木の試合は、まわりこんでパンチをかわしながら打つという点では、教科書のような試合だ。あとでじっくりとビデオを見て研究したいものだ。

「唯我独尊」がモットーの勝負師、佐々木は、なんと地下足袋でリングに登場、戦った。野武士のような男、佐々木基樹の今後にこうご期待あれ。

▼ハイセーヤスダ(編集者&ライター/NEWSIDER Tokyo)
テレビ製作会社、編集プロダクション、出版社勤務を経て、現在に至る。週刊誌のデータマン、コンテンツ制作、書籍企画立案&編集&執筆、著述業、漫画原作、官能小説、AV寸評、広告製作(コピーライティング含む)とマルチに活躍。座右の銘は「思いたったが吉日」。

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藤本勲物語──日本キックボクシング半世紀の生き証人【後篇】

「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

全日本キックのリングでの交流戦チャンピオン対決で、川谷昇(岩本)に勝利し、敵地で目黒ジムが輝く(1992年6月27日撮影)

◆小4年の担任の先生に励まされ、走ることに熱中する

藤本氏が語る若き日のエピソードには時代の背景が映し出されるようなドラマがありました。

藤本勲氏の本名は藤本洋司。勲という名は同じ空手仲間の平田勲から頂いたと言います。

1942年(昭和17年)1月、島根県生まれ。4才の時、父親を病気で亡くし、母の実家である山口県長門市に移り、高校卒業まで暮らしました。

小学生の頃は草履で片道5kmを走って通い、鼻緒が切れても裸足で野道を走って通った小学校時代でした。走ることが好きで速く、小学校4年の時、担任の先生に「お前は濱村秀雄(戦後の陸上競技選手)のようになれるぞ」と励まされ、スポーツに、走ることにより頑張る気になったのが人生の節目となったのでした。

◆高校時代、「何かで日本一になろう」と水泳、陸上、野球、そして空手の道へ

中学生になると一年生から野球を始め、より一層長距離走が強くなり、体育系の優秀さで山口県の水産高校に推薦で入学しました。

高校では「何かで日本一になろうと思って幅を広げ、水泳、陸上、野球、何でもやった」と言います。

テレビでボクシングの日本ライト級チャンピオンの石川圭一さんの試合観て「ボクシングっていいなあ」と思ってボクシングもやりたくなるも、すぐ入門出来るジムも近くには無かったので、まず空手から格闘技の門をくぐりました。

MA日本キックボクシング連盟代表となった頃。フライ級チャンピオン.山口元気(山木)を讃える(1994年頃撮影)
日本キックボクシング協会復興で古巣に戻るが、「断腸の思い」と語った苦渋の会見(右端が藤本氏)(1996年3月8日撮影)
瀬戸幸一(仙台青葉ジム会長)とはキック創生期からライバルであり、苦労を共にした仲でもあった(1996年5月25日撮影)

◆洋菓子会社とキックの見事な両立で、営業部長にまで昇進!

藤本氏は母親の手で育てられましたが、母方の実家では比較的恵まれた生活環境があり、「勉強すれば大学行かせてやる」と言われていましたが、成績は優秀(本人談!)でしたが勉強は嫌いで、そのまま普通に高校卒業して大阪の船会社に就職しましたが、視力が弱くて航海士の免許が取れず転職に踏み切りました。

そして、ある製菓会社に再就職するも倒産し、そこの先輩の紹介で洋菓子専門の長崎屋に再々就職。お客さんとの触れ合いが得意で営業成績が良く、性に合った天職でした。

デビュー戦となったキックボクシングの試合に出ることを会社に申し出ても、営業成績抜群により否定的な声は聞かれず、タイ遠征も試合出場も優遇され、会社からは長崎屋の社名入り刺繍入ったガウンも贈られ、協力的な後ろ盾抜群の中、リングに上がりました。

後に東日本営業部長に昇進。ジョーク言っての対面販売が好きで、羽田空港でも店舗を持っていた長崎屋店頭にも立ちました。

◆キックの生みの親、野口修氏宅に沢村忠と共に泊まり込み合宿していた「ジャックナイフの藤本」

現役時代のキャッチフレーズは「ジャックナイフの藤本」。同門でも容赦ない膝蹴りを顔面に繰り出し、周囲からも“えげつない”と言われるほど貪欲に攻めました。膝蹴りのほか、後ろ蹴りも使いましたが、驚かす繋ぎ技としても得意でした。
それらはみんな空手で身に付けた技が実っていました。

デビューした頃は、キックの生みの親、野口修氏の家が合宿所となり、当初は沢村氏とともに泊まっており、タイ選手が泊まることがあると「蹴りやヒジ打ちなど技術論でバカにされると、互いによくわからない言葉でケンカしていた」と言います。

そんな時代では珍しい高価なビデオ機器が野口氏の家にはあり、モノクロのムエタイ試合観て技術盗む努力をしていました。

試合のダメージで、ムチ打ち症で入院したことがあり、退院したばかりで試合観に行ったところ、ピンチヒッターに駆り出され、1ラウンドKO勝ちしたこともあったという、非常識なピンチヒッターも日常茶飯事のような創生期のキック興行でした。

藤本ジム落成懇親会で有志一同と鏡割り(左から3人目)(2005年4月17日撮影)

◆51戦40勝(32KO)11敗で生涯戦績を終え、育てる側へ転身

過去、日本プロスポーツ大賞功労賞は2回獲得しており、1969年(昭和44年)2月、タイでランカーを倒した試合と、1986年(昭和61年)には、長きに渡り、日本チャンピオン多く誕生させたことでの受賞でした。

藤本氏は東洋王座を獲った翌年には結婚して娘さんも誕生したことで、ある決心が芽生えていました。

いつも重い相手と戦ってきたことから、体に故障が増え、自身が幼児期に父親を亡くしている影響から、娘のため、片親になっては可哀想と、家族を守ることを真剣に考え、「我が身ひとつで、入院していい覚悟で試合していた気持ちも萎えたらもう試合はできないと思った」と言います。

古くからの目黒ジムの聖地に再建した藤本ジム(2006年1月5日撮影)

当時は極端にトレーナーが不足していたのもひとつの理由で、第二の沢村忠を育てる必要性も感じていて、引退を決意しました。そして1970年12月5日の大阪での試合をラストファイトにして、判定負けでしたが、自身のけじめとなった試合でした。

これまで51戦40勝(32KO)11敗の生涯戦績となりました。

◆育てた選手は数知れず、 起こした事件も数知れず

キックボクシングそのものが歴史が浅く、経験を積んだトレーナーは空手やボクシング経験者しかおらず、藤本氏は翌年初頭にはキックボクシングの本格的トレーナーと言える第一人者となりました。

過去、育てた選手は数知れず、テレビに映る時の「沢村選手のセコンドに着く、眼鏡かけた背の高い藤本トレーナー」は放送でも度々、TBSの石川顕アナウンサーが実況合間の余談に拾われ、全国的に静かな知名度がありました。

1993年に、当時加盟していたMA日本キックボクシング連盟で、連盟改革の為、代表理事に藤本氏が選ばれ就任。そのため、試合でのユニフォームを着てセコンドに着くことはできなくなり、後に日本キックボクシング協会復興に伴う移行などもありましたが、幹部として役員席に着く立場は残り、目黒ジムから藤本ジムに移行した際には、より責任ある立場に置かれましたが、「今まで大好きなキックをやれてこれて幸せだった。今後も死ぬまでキックに専念する。でもまたセコンドやりたいね。」と本音も漏らしていました。

ジム内でのミット持ちは今も健在(2006年1月5日撮影)

こんな紳士的な藤本氏も、酔った勢いで起こした事件は数知れず、タイではレストランの警備員にフレンドリーに握手を求めつつ、ふざけて寸止めの膝蹴り。笑顔から本気モードの顔色に変わった警備員とやり合う寸前で、周囲の仲間が止めに入って事なきを得たこともあり、他にもその場に立ち会わされた選手から聞く武勇伝が、本当にあった怖い話のように実感させられます。

優しい面では、ジムでは誰かひとり、目に止まったり頑張った選手に「お前だけにいい物やる」と言って長崎屋で仕入れたお菓子をあげる気前の良さを見せつつ、いろいろな選手に「お前だけに」と言っていたので、誰も自分が特別と思わずも大胆不敵な優しい会長に感謝しているようでした。

瀬戸会長同様に、創生期からの対抗ジムとして、やり合った仲。千葉ジム・戸高今朝明会長と(2014年8月10日撮影)

藤本氏は永いキック人生で、日々ジムにいると垣間見れる選手らのいろいろな想い出があって、「亀谷長保(日本フェザー級チャンピオン、6度防衛の実績)は練習後、着替えた後も1時間ほど他の選手の練習も見てから帰っていた程の研究熱心だった」とか、隆盛期には喧嘩の絶えないジム内や、昭和50年代の低迷期には興行のメドも立たず、「試合も組めないのに練習に来ていた選手もいて、当時は切ない思いだった」という藤本氏でした。

◆二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指す

現在は、タイ殿堂のラジャダムナンスタジアムのチャンピオンを誕生させたことで先代野口里野会長へ恩返しができたことに安堵し、そのチャンピオンになった石井宏樹は亀谷長保に並ぶ、目黒ジムで5本の指に入る名選手と言います。今後は二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指しています。

藤本氏の武勇伝がいかに多く、また人脈多きキックの人生か、また想い出に残る昭和の名選手の裏の姿も多く見ているので、新たに藤本伝説を伺っていこうかと思います。(了)

伊原信一代表より紹介され、久々にマイクを持って御挨拶の藤本勲氏。デビュー50周年の想いを語る(2016年7月3日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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藤本勲物語──日本キックボクシング半世紀の生き証人【前篇】

「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその雄姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

富山勝治のセコンドに付く、テレビ放映時代でもお馴染みの光景(左端が藤本氏)(1982年1月7日撮影)

◆現役生活は4年半、トレーナー歴は45年

先日、7月3日の新日本キックボクシング協会興行、MAGNUM.41に於いて伊原信一代表より、キックボクシング生誕二人目のキックボクサー、藤本勲氏のデビュー戦から満50周年を祝う労いの言葉が藤本氏に贈られました。

1998年5月に目黒ジムから藤本ジムに移行して会長歴は18年ですが、これを含む目黒ジムでのトレーナー歴は45年。引退後もトレーナーやジムオーナーとしてキックボクシングに関わり、業界歴としては一番長いキャリアを持つことになります。

現役生活は4年半でしたが、1966年(昭和41年)6月のデビューからキックと共に生き、業界のあらゆる姿を見てきた生き証人となります。

富山勝治引退試合にて、テレビ時代のスターが終わった日(1983年11月12日撮影)

伊原代表も現役時代は目黒ジムで藤本氏の指導を10年以上受けた選手でした。また、多くの目黒ジム所属の名チャンピオンも全員が藤本氏から指導を受けた経験を持つでしょう。

◆1966年──剛柔流の空手家からキックボクシング界へデビュー

デビュー戦となった1966年(昭和41年)6月21日、沢村忠氏の道場仲間という空手選手からキックボクシングの試合に誘われて自身も剛柔流の空手家として、空手が一番強いと信じての出場も、4日間程度の“キックボクシング”と呼ぶにも不透明な時期、ルールも把握していない中での対策練習だけで藤本氏は出場。

対戦相手も橘五郎という空手家でしたが、キックボクシングの練習経験は橘五郎氏が2ヶ月ほど早く、その差とラウンド制の不慣れな中、ペース配分を誤り藤本氏は1ラウンド終了間際のKO負けのデビューでしたが、驚いたのは自身の敗北より、後に控えたカードの沢村忠氏の16回ダウンしてKO負けした壮絶な試合を観てムエタイの凄さを実感。

キックボクシングを正式に始める決意をすると、すぐに目黒ジムに入門しました。

◆1967年──キックボクシング史上初のテレビ放送された試合でKO勝利の王座奪取

藤本氏は翌年2月26日に木下尊義(目黒)と同門による日本ヘビー級王座決定戦を争い、4ラウンドKO勝利で王座奪取しました。

その日は日本で初めてキックボクシングが放送された日で、メインイベントは沢村忠氏の試合でしたが、生放送のため、試合順でセミファイナルに出場した藤本氏の試合が先に放送され、事実上この試合がキックボクシング史上最初のテレビ放送された試合という密かなエピソードになりました。

格闘技の祭典、ブッチャーとの対面で(1988年4月2日撮影)
世代が変わった平成の時代に、飛鳥信也チャンピオンのセコンドに付く(1992年6月27日撮影)

◆1969年──東洋ミドル級王座決定戦でタイ人選手に勝利!

2ヶ月後の東洋ヘビー級王座決定戦はKO負けで奪取成りませんでしたが、この創生期は3階級制で67.5kg超えはすべてヘビー級。藤本氏がそのウエイトだったにも関わらず、180cmの長身であることから当時の目黒ジムの野口里野会長から「藤本は背が高いからヘビー級でやれ」と強引で不可解なヘビー級出場でした。

後の1969年1月にはプロボクシングと同リミット設定の7階級制に変更され、藤本氏はミドル級にランク改訂(日本王座そのまま保)へ。同年2月26日にはタイ遠征中、ルンピニースタジアムで、ランカーだったコクデーノーイに得意の膝蹴りで5ラウンドKO勝利したことで、自身の現役生活の中でもベストバウトと言える想い出の試合となりました。

そして同年6月、東洋ミドル級王座決定戦で、ポンピチット・ソー・サントーン(タイ)に判定勝利し東洋王座奪取に成功と、それまで苦しい体験も経験しつつ、ここまでは重量級としての期待に応える成長を見せていきました。(つづく)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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20年の歴史を誇るムエタイTOYOTA CUPが日本で初開催!

決勝戦、ペットモラコットのハイキックがシーラリットを捕らえる
クジ抽選による組み合わせ発表。迷わずチャムアトーン&佐藤翔太が並ぶ

タイのチャンピオンやランカー、イベント覇者クラスと日本国内チャンピオンクラス4名ずつ計8人参加によるウェルター級中心の全3回戦のワンデートーナメント。20年の歴史を持つ通称「タイTOYOTA CUP」や「TOYOTAムエマラソン」と言われるこのイベントが7月29日、ついに日本で開催されました。

チャムアトーンの鋭い蹴りを受けてしまう佐藤翔太

日本では有り得ないぐらいの大手企業が、ムエタイプロモーターとの提携で、タイでのその知名度はかなりメジャーな存在です。このイベントがタイ7chで衛星生放送されるため、14:00開始ながら2試合終えて16:00まで待機時間が長く続きました(放送枠は3時間)。平日の昼間(時差2時間)にムエタイ放送なんて不自然な感じもしますが、タイでは平日も土日も大差なく、タイはこの日も祝日ではない平日です。

ノンタイトル戦、ムエタイ3階級制覇のサムエーに翻弄されっぱなしの甲野裕也

◆日本人4選手は全滅──タイ選手との実力差

参加した日本人選手4名は、国内で何らかのチャンピオンとなった実力のある選手ですが、タイ選手との実力差には開きがあり力及ばず全滅。攻防に大差は開かないものの、上手さ素早さの駆け引きで差が出た試合が多かった様子でした。準決勝戦2試合はタイ人選手同士となり、決勝戦はペットモラコットがシラリットをボディブローで仕留める、ちょっと意外なKO決着でした。これでペットモラコットが優勝賞金100万円を獲得。シーラリットは準優勝50万円を獲得です。

決勝戦、ペットモラコットのボディーブローでシーラリットがあっけなく崩れ落ちる

そしてもうひとつのメインイベント、タイ国ムエスポーツ(プロムエタイ)協会フライ級チャンピオン、福田海斗の初防衛戦が行われました。昨年12月、ルンピニースタジアムで奪取した王座から7ヶ月経ての防衛戦は日本のディファ有明となりました。

優勝ペットモラコット、準優勝シーラリットがワンデートーナメントを締め括るセレモニー

チャンピオンの福田海斗は牽制しあう素早い前蹴りや繋いでいく蹴りに本物の実力が垣間見れました。挑戦者のトゥカターペットは3ラウンドから福田を転ばしに来る展開が増え、福田の印象点が悪いまま進み、トゥカターペットも勝利を確信したか逃げに入り、敗北の色が濃くなるまま終了。しかし、判定は意外に福田の勝利。「よくぞ防衛してくれた」と喜びの声が響きました。

福田海斗の素早い蹴りは観ている者を唸らせる上手さがあった

◎TOYOTA Hilux Revo Superchamp in Japan
 7月29日(金)14:00~19:35 主催:センチャイジム、ペッティンディープロモーション

◆第11試合 / タイ国ムエスポーツ協会フライ級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.福田海斗(キングムエ/18歳/50.75kg)
.VS
トゥカターペット・ソー・ギャットニワット(タイ/21歳/50.3kg)
勝者:福田海斗 / 3-0 (49-48. 49-48. 50-48)

福田海斗が第3ラウンドの、ここから的確さで勝負に出るミドルキック

◆第10試合 / TOYOTA CUP 決勝戦3回戦

ペットモラコット・ウォー・サンプラパイ
.VS
シーラリット・チョー・サムピーノーン
勝者:ペットモラコット / TKO 2R 0:32

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TOYOTA CUP 準決勝3回戦2試合
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駆け引き勝負の第4ラウンド、優勢とは見えなかったが、福田海斗の攻めが続く

◆第8試合

ヨーディーゼル・ルークチャオメーサイトーン
.VS
シーラリット・チョー・サムピーノーン
勝者:シーラリット / 0-3 (28-29. 29-30. 28-30)

◆第7試合
ペットモラコット・ウォー・サンプラパイ
.VS
チャムアトーン・ファイタームエタイ
勝者:ペットモラコット / 2-1 (29-28. 28-29. 30-27)

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TOYOTA CUP 準々決勝3回戦4試合
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余裕を持ち出したトゥカターペットのミドルキック

◆第6試合

シーラリット・チョー・サムピーノーン(タイ/64.1kg)
.VS
為房厚志(二刀会/66.35kg)
勝者:シーラリット / 3-0 (30-27. 29-28. 30-28)

◆第5試合

タイ東北部スーパーライト級チャンピオン
ヨーディーゼル・ルークチャオメーサイトーン(タイ/63.8kg)
.VS
喜入衆(フォルティス渋谷/66.9kg)
勝者:ヨーディーゼル / 3-0 (30-28. 30-28. 29-28)

勝ったと思った両者の明暗が分かれる勝者コールの瞬間

◆第4試合

ルンピニー系スーパーライト級チャンピオン
チャムトーン・ファイタームエタイ(タイ/64.6kg)
.VS
佐藤翔太(センチャイ/66.8kg)
勝者:チャムアトーン / 3-0 (29-28. 29-28. 30-27)

◆第3試合
タイ・ムエスポーツ協会ライト級チャンピオン
ペットモラコット・ウォー・サンプラパイ(タイ/64.5kg)
.VS
平野将志(インスパイヤードモーション/67.0kg)
勝者:ペットモラコット / TKO 2R 1:03

◆第9試合 60.0kg契約ノンタイトル3回戦

サムエー・ガイヤーンハーダーオ(タイ/59.8kg)
.VS
甲野裕也(センチャイ/59.5kg)
勝者:サムエー / TKO 3R 0:41

◆アンダーカード4試合(勝者=○、敗者=●)

最終第13試合/ 73.0kg契約3回戦
●KP・フライスカイジム(USA)vs山田寛(BLUE DOG)○0-3

第12試合 / 65.0kg契約3回戦
●柳谷文彦(センチャイ)vsアローン・エスジム(カンボジア)○0-3

第2試合 / スーパーライト級3回戦
●及川大夢(センチャイ)vs橋本悟(橋本)○TKO 3R 0:45

第1試合 / 58.5kg契約3回戦
○中村慎之介(インスパイヤードM)vs充(ゴールデングローブ)●
TKO 1R 0:31

◆リング上のクジ引きで対戦相手を決める

7月28日、前日計量と記者会見が同会場で行なわれており、全員1回でパスしていました。主催する日本代表のセンチャイ・トーングライセーン氏も7月17日のルンピニージャパンに続くビッグマッチ開催でムエタイ興行での活躍が定着してきた感じがします。

TOYOTA CUPは試合当日、リング上でクジ引きによって初戦準々決勝の対戦相手が決定するという、それまで各選手は他の7人の誰と初戦を戦うか分からない、この手のトーナメントでよく行なわれるシステムです。

在日タイ大使高官によって箱から選手名入りクジを淡々と引いた結果、日本人対タイ人の4組が、プログラムに印刷されている並びどおりの、感動もない分かりやすい組み合わせとなりました。

何とか初防衛に成功した福田海斗。歴史に名を残す“防衛してこそ真のチャンピオン”

タイ選手65.0kgリミット。日本選手67.0kgリミットで、2kgのハンディーが付く変則的トーナメントで、主催者都合のワンデートーナメントであるが為、競技性が崩れるのは仕方ないところでしょう。

イベント発表からTOYOTA CUPが注目されがちですが、タイの格闘技カテゴリーに入る元祖ムエタイは、タイ国ムエスポーツ協会フライ級タイトルマッチ5回戦の方。

格闘エンタメとは違う格式が伴います。試合は接戦の振り分けには難しい見極め方があり、日本のホームリングで戦っている有利性か有効打の的確さが優ったか、トゥカターペットの崩し転ばしが軽視されたか、玄人の意見を聞くと、トゥカターペットの転ばしは攻撃に繋がらない転ばしで優位とは言えず、視点を変えれば福田海斗の有効打の的確さで勝ちもおかしくない接戦であったようです。

このタイトルはタイ政府スポーツ庁のムエスポーツ委員会(コミッションに相当)が管轄するタイトルで、30年以上前から存在するタイ国タイトルとなっています。
しかし、二大殿堂のラジダムナンスタジアムとルンピニースタジアム王座と同等かと言えば難しい位置付けで、1999年のボクシング法成立後、活性化してきたタイトルと言えるかもしれません。同協会の今後のトップスターによる活躍と協会の活性化が、権威を上げていくでしょう。

前日計量でベルト奪取を誓う8選手

この日センチャイジムから出場した、夢センチャイジム(及川大夢)、翔センチャイジム(佐藤翔太)、裕センチャイジム(甲野裕也)、獅センチャイジム(柳谷文彦)は国際試合として、それぞれが本名で出場する要請があったか、そのまま本名で出場。いつも思うことですが、個人名一文字では分かり難く、国内でも普段から本名でいいのではと思います。本名の方が人格・経歴が分かりやすく、感情移入し易く、仲間内ではない一般のファンも増えやすいのではないでしょうか。

この日の来賓の中には 、藤原敏男氏、その藤原氏とラジダムナンスタジアムで戦った、タイの英雄シリモンコン氏、また二人の激闘を知る古くからの、タイから来日中のレフェリーなど、古き時代の盟友が集まる光景が見られました。

初の外国人ムエタイチャンピオンとして、タイでも有名な藤原敏男氏が紹介された

こういう競技のビッグマッチに昔の盟友が集まる光景は、過去のキックボクシングでも往年のチャンピオンが集まる光景がありました。しかしこの日のムエタイイベントには少人数でもその重みが違う顔ぶれに、名チャンピオンが多く誕生した競技の同窓会のような再会には、ムエタイの権威と歴史を感じる光景でした。

日本のキックボクシングでも過去の世代には名チャンピオンが大勢いましたが、近年のチャンピオンは乱立した存在が複雑過ぎて、またすぐに返上する王座が多過ぎて、感銘を受けるチャンピオンが少ないことが心を過り、将来チャンピオンが集うイベントがあっても感動が少ないだろうなと感じる一日でした。

次回のセンチャイジム主催興行としては、MuayThaiOpen.36が10月2日に新宿フェイスにて行なわれます。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

 タブーなきスキャンダル・マガジン『紙の爆弾』!
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WBCムエタイ祭りの日、好ファイトも落胆のテヨン

展開に期待がかかった不安のない序盤戦
ローキックを受け続け、テヨンの踏み込みが弱まる展開へ

「勝ったなんて言えないです」テヨンが答えた第一声。
序盤から中盤にかけて重い蹴りが交差する攻防から、そのあとテヨンがどう捌くか、テヨンのローキックがマシアスの動きを止められるか、パンチの連打でKOに導くのか、あるいは反撃を許さず、どう盛り上げるか期待の展開の中、テヨンの蹴り、パンチを受けてもマシアスが勢い衰えませんでした。

逆にマシアスのローキックがテヨンを苦しめていき、テヨンが劣勢に陥るほどの差はないが、マシアスが踏ん張った印象が残る展開でラストラウンドが終了。その直後、テヨンが足を引きずるような効いた様子を見せてしまいました。終了後の動きは採点に関係ないですが、悪い印象を与えかねないので気をつけるべきでしょう。

息子をリング上で抱き上げる撮影も増えた近年、責任感も増す一生もののツーショット

ラウンドマストシステムならテヨンが失ったラウンドは大きかったかもしれない、マシアスの踏ん張りが目立ったところです。テヨンが印象点を掴む連打が勝ちを導いたか、際どい判定でした。

「マシアスに申し訳ない、結果的に自分がベルトを巻いていますが、本当の勝者はマシアスです」と続いて語り、反省は残るテヨンですが、試合は観る側が力こもる見応えがある好ファイトとなりました(マシアス・セブン・ムエタイは同組織元スーパーフェザー級チャンピオン)。

TOMONORIは勝ちに徹し、無理せず距離をとって、シティバの攻めを空回りさせ、シティバに指導しているかのような風にも見える技術の差を見せ、2~3ポイントながらもっと大差を付けたような展開。過去2度失敗したインターナショナル王座挑戦に、「WBCのベルトはどうしても欲しかった」というモチベーションで38歳まで頑張ってきたTOMONORI、もう一段階上のベルトへ踏ん張れるでしょうか。

MOMOTAROは変則的に先手を打つ突進力で完全に主導権を掴み、正攻法で反撃する一戸は後手に回り、巻き返せず。MOMOTAROは初防衛。

3年前に3-0で白神を退けている宮越宗一郎は、互いに地位を上げ、インターナショナル王座を持つ宮越が一歩上位のWBC傘下のチャンピオンの肩書きを持つ同士で再戦。1ラウンドの白神のパンチのラッシュに宮越は一旦仰け反り後退するも、立て直して徐々に打ち合いの強さを発揮して密度濃い展開の中、僅差の判定勝利。

TOMONORIの左フックでシティバがこのあとダウン

◎NJKF 2016.5th / 7月23日(日)ディファ有明17:30~20:55
 主催:NJKF / 認定:WBCムエタイ日本実行委員会

◆WBCムエタイ・インターナショナル・スーパーライト級王座決定戦 5回戦

日本同級C.テヨン(中川勝志/キング/22歳/63.5kg)
.VS
マシアス・セブン・ムエタイ(イタリア/23歳/63.45kg)
勝者:テヨン / 2-1
(主審 篠原弘樹 / 少白竜 49-48. 松田 49-48. 小林 48-49)

先手を打って多彩に攻めるベテランの余裕

◆WBCムエタイ・インターナショナル・フライ級王座決定戦 5回戦

日本同級C.TOMONORI(佐藤友則/OGUNI/38歳/50.7kg)
.VS
シャリー・シティバ(ベラルーシ/34歳/50.55kg)
勝者:TOMONORI / 3-0
(主審 小林利典 / 少白竜 49-47. 松田 49-47. 篠原 50-47)

欲しかったWBCのベルトを巻いて涙。まだ上があるWBCのベルト

◆WBCムエタイ日本フェザー級タイトルマッチ 5回戦

チャンピオン.MOMOTARO(OGUNI/26歳/57.1kg)
.VS
WPMF世界Fe級C.一戸総太(WSR・F三ノ輪/29歳/57.0kg)
勝者:MOMOTARO / 3-0
(主審 少白竜 / 小林 50-48. 松田 49-48. 篠原 50-47)

◆WBCムエタイ70.0kg契約3回戦

IN・Sウェルター級C.宮越宗一郎(拳粋会/29歳/70.0kg)
.VS
日本同級C.白神武央(拳之会/28歳/70.0kg)
勝者:宮越宗一郎 / 2-0
(主審 松田利彦 / 小林 29-28. 少白竜 29-29. 篠原 29-28)

MOMOTAROがムエタイ修行の成果を発揮。一戸のリズムを狂わせた

◆WBCムエタイ日本バンタム級挑戦者決定戦 5回戦

1位.前田浩喜(CORE/35歳/53.5kg)
.VS
WPMF世界B級暫定C.林敬明(TSK Japan/32歳/53.45kg)
勝者:林敬明 / KO 1R 3:06 / 主審 篠原弘樹

◆WBCムエタイ日本フライ級王座決定トーナメント準決勝 3回戦

2位.大槻直輝(OGUNI/33歳/50.6kg)
.VS
3位.ローズ達也(ワイルドシーサー沖縄/36歳/50.8kg)
勝者:ローズ達也 / 0-3
(主審 小林利典 / 篠原 27-30. 少白竜 27-29. 松田 27-30)

◆ブランドが光るWBCベルト

WBCのベルトは確かにカッコいいですね。このベルトを目指す選手が増えているのも確かな現象です。価値と共にカッコいいのは他にもありますが、やっぱりWBCのブランドが光るのでしょうか。

初防衛を果たし、更なる上を目指すMOMOTARO、WBC認定式での顔ぶれ

午前から第2回WBCムエタイジュニアリーグが長時間に渡って行なわれた関係から予定通りですが、夕方の部のプロ部門は全6試合、計26ラウンドの長さ。それでも3時間半近く掛かりましたが、全試合の印象が記憶に残る、纏まりとして良い感じの長さでした。とにかくムエタイとして勢力を増した興行が増えています。世界王座となると曖昧な地位となってしまう業界ですが、現在の努力が将来に繋がるのは確かなところ、どの組織が生き残っていくかは誰にもわかりません。

テヨンはNJKF、WBCムエタイ圏内で順調に国内王座を制し、今回インターナショナル王座挑戦となりました。ヨーロッパ強豪という選手を観る度、強豪はタイ選手だけではないことを実感しますが、落胆している場合ではなく、「防衛してこそチャンピオン」を心に留め、次の防衛戦で名誉挽回へ結果を残して欲しいところです。

過去には内容に納得いかなくて、レフェリーの勝者コールを受けない、チャンピオンベルトを巻こうとしない選手もいました。勝者を支持したのは審判で、公正な競技として、観衆の前でその支持を受けてリングを降りなければなりません。そこで礼儀正しく認定セレモニーを受け、チャンピオンベルトを巻いたテヨンは当たり前ながら、立派でカッコよかったと思います。

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

 7日発売!タブーなきスキャンダル・マガジン『紙の爆弾』!

ベースボールマガジン社池田社長、斎藤佑樹選手に法外な「利益供与」の謎

最低でも800万円を超えるポルシェのマカンを斎藤佑樹(北海道日本ハムファイターズ)にプレゼントしたベースボールマガジン社の池田哲雄社長の『わけがわからない利益供与』に社員たちが憤慨。続々と転職活動をしている社員が増えている。中堅出版社の総務が小さい声で語る。

「具体的には言えないが、今月は、社員12人が履歴書を送ってきました。まあ経営悪化でリストラがあいつぐ中で、社長だけが年収3千万円をキープして、社員たちの給与は下がる一方。そんな中で斎藤選手を社長が優遇したわけで『やってられねえ』という雰囲気が社内に充満しているのは確かです」(ベースボールマガジン社社員)

そもそも、ベースボールマガジン社は経費に渋いことで知られる。
「外注ライターとの打ち合わせは、ほとんど社内ですし、とにかく経費を抑えろと編集は教わる。入社して最初に上司に言われた言葉が『飯は吉野家か松屋の牛丼にしておかねーと給料じゃ貯金がたまらないぞ』ですからね」(同)

さらにせこい話もある。
「2011年3月に破産手続きが終了した日本スポーツ出版社では、『週刊ゴング』で取材したときのジャイアント馬場やアントニオ猪木など貴重な写真8千枚を破産管財人から80万円で購入。これも管財人が提示した100万という提示を何回も値切る交渉をして競り落としたものです」(同)

今年1月に水道橋の本社ビルを売却、日本橋に移ったときも「野球選手のブロマイドをまとめて高く売りつける交渉にきた」と神保町の老舗書店。

そんなケチな出版社だが、「池田社長の周辺に聞くと、斎藤は見切って、今度は同じ北海道日本ハムの大谷翔平を会社で囲い込もうとしている。確かに、大谷を出せば売上げはよくなるだろうが、今度はマスコミには見えない形で接待するだろう。懲りない人たちだね」(同)

「食えない」と逃げ出す社員たちをよそに、もしかしたら大谷と池田社長の豪勢な話が近く聞けそうだ。

(伊東北斗)

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