「キックの鬼」沢村忠より一足先に日本のテレビでその姿が放映されたキックボクサー、藤本勲氏。キックと共に生き、キック業界のあらゆる変遷を見てきた生き証人の半世紀を秘蔵写真と共に全2回で辿ります。

全日本キックのリングでの交流戦チャンピオン対決で、川谷昇(岩本)に勝利し、敵地で目黒ジムが輝く(1992年6月27日撮影)

◆小4年の担任の先生に励まされ、走ることに熱中する

藤本氏が語る若き日のエピソードには時代の背景が映し出されるようなドラマがありました。

藤本勲氏の本名は藤本洋司。勲という名は同じ空手仲間の平田勲から頂いたと言います。

1942年(昭和17年)1月、島根県生まれ。4才の時、父親を病気で亡くし、母の実家である山口県長門市に移り、高校卒業まで暮らしました。

小学生の頃は草履で片道5kmを走って通い、鼻緒が切れても裸足で野道を走って通った小学校時代でした。走ることが好きで速く、小学校4年の時、担任の先生に「お前は濱村秀雄(戦後の陸上競技選手)のようになれるぞ」と励まされ、スポーツに、走ることにより頑張る気になったのが人生の節目となったのでした。

◆高校時代、「何かで日本一になろう」と水泳、陸上、野球、そして空手の道へ

中学生になると一年生から野球を始め、より一層長距離走が強くなり、体育系の優秀さで山口県の水産高校に推薦で入学しました。

高校では「何かで日本一になろうと思って幅を広げ、水泳、陸上、野球、何でもやった」と言います。

テレビでボクシングの日本ライト級チャンピオンの石川圭一さんの試合観て「ボクシングっていいなあ」と思ってボクシングもやりたくなるも、すぐ入門出来るジムも近くには無かったので、まず空手から格闘技の門をくぐりました。

MA日本キックボクシング連盟代表となった頃。フライ級チャンピオン.山口元気(山木)を讃える(1994年頃撮影)

日本キックボクシング協会復興で古巣に戻るが、「断腸の思い」と語った苦渋の会見(右端が藤本氏)(1996年3月8日撮影)

瀬戸幸一(仙台青葉ジム会長)とはキック創生期からライバルであり、苦労を共にした仲でもあった(1996年5月25日撮影)

◆洋菓子会社とキックの見事な両立で、営業部長にまで昇進!

藤本氏は母親の手で育てられましたが、母方の実家では比較的恵まれた生活環境があり、「勉強すれば大学行かせてやる」と言われていましたが、成績は優秀(本人談!)でしたが勉強は嫌いで、そのまま普通に高校卒業して大阪の船会社に就職しましたが、視力が弱くて航海士の免許が取れず転職に踏み切りました。

そして、ある製菓会社に再就職するも倒産し、そこの先輩の紹介で洋菓子専門の長崎屋に再々就職。お客さんとの触れ合いが得意で営業成績が良く、性に合った天職でした。

デビュー戦となったキックボクシングの試合に出ることを会社に申し出ても、営業成績抜群により否定的な声は聞かれず、タイ遠征も試合出場も優遇され、会社からは長崎屋の社名入り刺繍入ったガウンも贈られ、協力的な後ろ盾抜群の中、リングに上がりました。

後に東日本営業部長に昇進。ジョーク言っての対面販売が好きで、羽田空港でも店舗を持っていた長崎屋店頭にも立ちました。

◆キックの生みの親、野口修氏宅に沢村忠と共に泊まり込み合宿していた「ジャックナイフの藤本」

現役時代のキャッチフレーズは「ジャックナイフの藤本」。同門でも容赦ない膝蹴りを顔面に繰り出し、周囲からも“えげつない”と言われるほど貪欲に攻めました。膝蹴りのほか、後ろ蹴りも使いましたが、驚かす繋ぎ技としても得意でした。
それらはみんな空手で身に付けた技が実っていました。

デビューした頃は、キックの生みの親、野口修氏の家が合宿所となり、当初は沢村氏とともに泊まっており、タイ選手が泊まることがあると「蹴りやヒジ打ちなど技術論でバカにされると、互いによくわからない言葉でケンカしていた」と言います。

そんな時代では珍しい高価なビデオ機器が野口氏の家にはあり、モノクロのムエタイ試合観て技術盗む努力をしていました。

試合のダメージで、ムチ打ち症で入院したことがあり、退院したばかりで試合観に行ったところ、ピンチヒッターに駆り出され、1ラウンドKO勝ちしたこともあったという、非常識なピンチヒッターも日常茶飯事のような創生期のキック興行でした。

藤本ジム落成懇親会で有志一同と鏡割り(左から3人目)(2005年4月17日撮影)

◆51戦40勝(32KO)11敗で生涯戦績を終え、育てる側へ転身

過去、日本プロスポーツ大賞功労賞は2回獲得しており、1969年(昭和44年)2月、タイでランカーを倒した試合と、1986年(昭和61年)には、長きに渡り、日本チャンピオン多く誕生させたことでの受賞でした。

藤本氏は東洋王座を獲った翌年には結婚して娘さんも誕生したことで、ある決心が芽生えていました。

いつも重い相手と戦ってきたことから、体に故障が増え、自身が幼児期に父親を亡くしている影響から、娘のため、片親になっては可哀想と、家族を守ることを真剣に考え、「我が身ひとつで、入院していい覚悟で試合していた気持ちも萎えたらもう試合はできないと思った」と言います。

古くからの目黒ジムの聖地に再建した藤本ジム(2006年1月5日撮影)

当時は極端にトレーナーが不足していたのもひとつの理由で、第二の沢村忠を育てる必要性も感じていて、引退を決意しました。そして1970年12月5日の大阪での試合をラストファイトにして、判定負けでしたが、自身のけじめとなった試合でした。

これまで51戦40勝(32KO)11敗の生涯戦績となりました。

◆育てた選手は数知れず、 起こした事件も数知れず

キックボクシングそのものが歴史が浅く、経験を積んだトレーナーは空手やボクシング経験者しかおらず、藤本氏は翌年初頭にはキックボクシングの本格的トレーナーと言える第一人者となりました。

過去、育てた選手は数知れず、テレビに映る時の「沢村選手のセコンドに着く、眼鏡かけた背の高い藤本トレーナー」は放送でも度々、TBSの石川顕アナウンサーが実況合間の余談に拾われ、全国的に静かな知名度がありました。

1993年に、当時加盟していたMA日本キックボクシング連盟で、連盟改革の為、代表理事に藤本氏が選ばれ就任。そのため、試合でのユニフォームを着てセコンドに着くことはできなくなり、後に日本キックボクシング協会復興に伴う移行などもありましたが、幹部として役員席に着く立場は残り、目黒ジムから藤本ジムに移行した際には、より責任ある立場に置かれましたが、「今まで大好きなキックをやれてこれて幸せだった。今後も死ぬまでキックに専念する。でもまたセコンドやりたいね。」と本音も漏らしていました。

ジム内でのミット持ちは今も健在(2006年1月5日撮影)

こんな紳士的な藤本氏も、酔った勢いで起こした事件は数知れず、タイではレストランの警備員にフレンドリーに握手を求めつつ、ふざけて寸止めの膝蹴り。笑顔から本気モードの顔色に変わった警備員とやり合う寸前で、周囲の仲間が止めに入って事なきを得たこともあり、他にもその場に立ち会わされた選手から聞く武勇伝が、本当にあった怖い話のように実感させられます。

優しい面では、ジムでは誰かひとり、目に止まったり頑張った選手に「お前だけにいい物やる」と言って長崎屋で仕入れたお菓子をあげる気前の良さを見せつつ、いろいろな選手に「お前だけに」と言っていたので、誰も自分が特別と思わずも大胆不敵な優しい会長に感謝しているようでした。

瀬戸会長同様に、創生期からの対抗ジムとして、やり合った仲。千葉ジム・戸高今朝明会長と(2014年8月10日撮影)

藤本氏は永いキック人生で、日々ジムにいると垣間見れる選手らのいろいろな想い出があって、「亀谷長保(日本フェザー級チャンピオン、6度防衛の実績)は練習後、着替えた後も1時間ほど他の選手の練習も見てから帰っていた程の研究熱心だった」とか、隆盛期には喧嘩の絶えないジム内や、昭和50年代の低迷期には興行のメドも立たず、「試合も組めないのに練習に来ていた選手もいて、当時は切ない思いだった」という藤本氏でした。

◆二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指す

現在は、タイ殿堂のラジャダムナンスタジアムのチャンピオンを誕生させたことで先代野口里野会長へ恩返しができたことに安堵し、そのチャンピオンになった石井宏樹は亀谷長保に並ぶ、目黒ジムで5本の指に入る名選手と言います。今後は二人目のムエタイチャンピオン誕生を目指しています。

藤本氏の武勇伝がいかに多く、また人脈多きキックの人生か、また想い出に残る昭和の名選手の裏の姿も多く見ているので、新たに藤本伝説を伺っていこうかと思います。(了)

伊原信一代表より紹介され、久々にマイクを持って御挨拶の藤本勲氏。デビュー50周年の想いを語る(2016年7月3日撮影)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」