『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社2014年5月13日刊)

拙著『芸能人はなぜ干されるのか? 芸能界独占禁止法違反』(鹿砦社)を出版してから、1年が経つが、今ひとつ私の主張が伝わっていないところもあると思うので、ここで補足説明をしたいと思う。

まず、副題にある「芸能界独占禁止法違反」が理解されていないのではないだろうか。

そもそも独占禁止法は、「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」という正式名称となっていて、独占禁止法を運用する公正取引委員会のホームページによれば、その目的は「公正かつ自由な競争を促進し,事業者が自主的な判断で自由に活動できるようにすることです」という。

具体的に簡単に述べると、独占禁止法は、事業者に対し、「私的独占」「不当な取引制限」「不公正な取引方法」を禁じている。

◆プロダクション間でのタレント引き抜きを音事協が禁じているのは独禁法違反

独占禁止法の観点から私が芸能界で問題だと考えているのは、大手芸能プロダクションのほとんどが加盟する業界団体である「日本音楽事業者協会(音事協)」が芸能プロダクション間のタレントの引き抜き(移籍)を禁じていることだ。タレントの引き抜き禁止は、音事協内において現状の固定化を強めることに役だっている。また、対外的には音事協加盟社をより強くすることに繋がる。

というのも、音事協の外では引き抜きは禁じられていないからだ。そのために、音事協加盟の大手プロダクションが音事協非加盟の弱小プロダクションからタレントを引き抜くということがたびたび起きている。音事協費加盟の弱小プロダクションはたとえ有望なタレントを獲得したとしても音事協加盟の大手プロダクションがそのタレントの獲得に動くとなすすべもない。

週刊誌の芸能記者は「音事協に加盟できない弱小プロダクションは、いいタレントを発掘できても音事協に引き抜かれておしまい。日本の芸能界は、音事協の有力事務所が動かしている」と言う。音事協には常に優秀な人材が流入し、利益を上げられる仕組みができているのだ。これはタレントの「私的独占」ではないのだろうか?

◆パチンコ機業界の違法「特許」と酷似する音事協加盟社の「タレント」縛り

今の芸能界に似ていると考えられるのが、かつてパチンコ機製造メーカーが作っていた「パテントプール」と呼ばれる仕組みだ。

有力なパチンコ機製造メーカー10社は、パチンコ機に関わる特許権などを「日本遊技機特許運営連盟(日特連)」という会社に集積していたが、新規参入業者に対してはライセンスの許諾を拒否していた。パチンコ機は多数の技術は多数の特許により成り立っているから、特許の許諾を得られなければ製造、販売はできない。事実上、新規参入は排除されていた。既存の業者は、このパテントプールの仕組みにより、市場競争を制限し、共存共栄を図っていたのである。だが、1997年、これを問題視した公正取引委員会は、パチンコ機メーカー10社と日特連に対して、独占禁止法3条前段(私的独占の禁止)を適用して審決が行われ、制限的なライセンス許諾契約の排除措置が行われた。

公正取引委員会によるこの審決は、「パチンコ機特許プール事件」として知られ、独占禁止法に関わるテキストなどでもたびたび引用される重要な事件となっている。

パチンコ機業界における特許を、音事協加盟社が抱えるタレントと見立てると、両者は実に似ている。パチンコ機の特許と違うのは、タレントが「モノを言う商品」であるということだろう。

◆芸能界とメディアの結託が不合理なビジネスモデルを存続させてきた

タレントは労働者であり、所属事務所に不満があれば文句を言う。不満が解消されなければ、事務所を辞めて独立しようとするかもしれない。だが、それを認めれば、芸能界、音事協のビジネスモデルは崩壊してしまう。だから、独立を画策したタレントは「恩を忘れた」などと理屈をつくって業界を挙げて潰しにかかる。このシステムは、1953年に調印された映画界の五社協定以来、長らく続いてきた。

なぜこのような違法で不合理なシステムが続いてきたのだろうか?

まず、メディアが芸能界と歩調を合わせてきたことがある。芸能界は音事協を中心として一致団結し、敵対するメディアに対し、タレントの出演拒否などの手段で対応してきた。メディアは次第に芸能界に飼い慣らされ、批判精神を失い、「芸能界の悪しき因習」の担い手として、独立を画策したタレントに猛バッシングを浴びせるようになっていったのである。

もう1つは、タレントに告発させないという仕組みがある。独立を画策したタレントは、メディアから猛バッシングを浴び、芸能界から干されるが、それは一時的なものだ。そのタレントが反省の意思を示し、1年から数年が経てば復帰を許されるのである。タレントとしては、嵐が過ぎるのを大人しく待っていれば再び芸能活動ができるということを知っていれば、芸能界批判をして問題をこじらせるという選択はしないのである。

これまで芸能界で干されたタレントは星の数ほどいるが、私が知る限り芸能界の不合理さを決定的に告発したケースはただの1つもない。

だが、このシステムも最近になってほころびを見せ始めているのではないかと私は考えている。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
◎森進一──「音事協の天敵」と呼ばれた男
◎松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
◎宮根誠司──バーニングはなぜミヤネ独立を支援したのか?
◎爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折

芸能界の歪んだ「仕組み」を綿密に解き明かしたタブーなきノンフィクション『芸能人はなぜ干されるのか?』

 

『週刊文春』(5月7・14日合併号)の記事「能年玲奈 本誌直撃に悲痛な叫び 『私は仕事がしたい』」が大きな波紋を呼んでいる。NHKで2013年に放送された連続テレビ小説『あまちゃん』で主演を務めた国民的アイドル女優、能年玲奈が芸能界で干されているというのだ。

能年といえば、大ヒットした『あまちゃん』以降の2年間で映画2本、スペシャルドラマ1本の出演しかしておらず、芸能界では「出し惜しみ戦略」「仕事を選んでいる」などと言われていたが、実際には所属事務所、レプロエンタテインメントから「態度が悪い」という理由で干されているという。

記事によれば、『あまちゃん』を撮影していた頃の能年の月給は、わずか5万円。睡眠時間は平均3時間というハードスケジュールだったが、レプロはクルマも満足に用意せず、経験の浅い現場マネージャーが失態を繰り返した。

2013年NHK連続ドラマ小説「あまちゃん」公式HPより

◆レプロ側が断り潰えた映画『進撃の巨人』ミカサ役

そうした状況で能年の身の回りの世話を引き受けたのが、能年が高校1年生の頃から演技指導を担当していた滝沢充子だったが、レプロとしては滝沢と関係を深める能年が面白くない。そして、『あまちゃん』がクランクアップした時に『あまちゃん』の公式ホームページに能年の感謝の言葉が掲載されたが、そこには滝沢の名前が記されていた。これが決定的に能年とレプロの関係を悪化させてしまった。

レプロに呼び出された能年は、チーフマネージャーから「玲奈の態度が悪いから、オファーが来ていない。仕事は入れられないよね。事務所を辞めたとしても、やっていけないと思うけどね」「今後は単発の仕事しか入れられない。長期(連続ドラマなど)は入れられない」「『あまちゃん』は視聴率は高かったから評価していますよ。でもお前は態度が悪いし、マネージャーと衝突するからダメだ。事務所に対する態度を改めろ」などと告げられた。

この時点で能年は干されていた。その後、人気漫画『進撃の巨人』の映画化で能年をヒロインのミカサ役に抜擢したいと製作陣は検討していたが、レプロがこれを断った。

これにショックを受けた能年は、レプロに「事務所を辞めたい」と申し出たが、契約書には「事務所の申し出により一度延長できる」という主旨の記載があり、能年とレプロの契約は2016年6月まで延長されることとなった。だが、今年1月には、能年を代表取締役とする「三毛andカリントウ」という会社が設立され、取締役として滝沢が就任していることが発覚し、独立が現実味を帯びてきた。この頃から「能年が滝沢に洗脳されている」という報道が相次ぐようになる。

『週刊文春』の直撃取材に対し、能年は「私は仕事をしてファンの皆さんに見てほしいです。私は仕事がしたいです」と悲痛な叫びを訴えた。

◆事務所に嫌われたタレントはこれまでも不条理なほど干されてきた

『CUT』(2012年10月号)

『週刊文春』の報道に対し、「ブレイクして事務所にとっても稼ぎ頭のはずのタレントをなぜ干すのか?」といぶかる向きもあるが、所属会社との関係がこじれたタレントが干されたケースはこれまでにいくらでもある。

近年で言えば、研音所属していた水嶋ヒロが同じく研音所属で稼ぎ頭だった綾香と結婚したことで事務所から嫌われ、退社に追い込まれ、現在までほぼ芸能界引退状態となっている。

古いケースで言えば、1957年に映画会社の新東宝に所属していた新人女優の前田通子が監督の演出に楯突いたことで「ニューフェースのくせに生意気だ」とされ、退社に追い込まれ、映画界から追放されるという事件があった。

一般社会では、所属する会社との関係がこじれたら、別の会社に転職したり、独立するという選択肢があるが、芸能界ではそうはゆかない。芸能界にはタレントの引き抜き禁止、独立阻止という鉄の掟(「カルテルとも言う)が存在するからだ。

先に触れた前田通子の事件が起きる4年前の53年9月30日に、松竹、当方、大映、新東宝、東映の映画メジャー5社の間で俳優の引き抜きを禁止する五社協定という申し合わせが調印されている(その後、新東宝を加え、六社協定に)。前田通子の事件は、六社協定が発動された。当時の報道によれば、新東宝の大蔵貢社長は撮影所で「六社間では、前田通子を使わぬよう話合いはついている」と語ったとされている。

◆人気者は作ろうと思って作れるものではない──「育ててもらった恩義」という言葉のまやかし

人気俳優を追放することは、業界にとっても痛手ではないか、と見る向きもあろうが、芸能界ではそうではないらしい。俳優の引き抜きや独立が自由に行われれば、ギャラが高騰し、映画会社の財政を圧迫する。どの映画会社にとっても客を呼べる人気者は喉から手が出るほど欲しいからだ。

芸能界では「育ててもらった恩義」などという言葉が使われるが、これはまやかしである。人気者は作ろうと思って作れるものではないからだ。

1910年代、草創期の映画界で最大のスターだったのは、日活の忍者映画で活躍した尾上松之助だったが、松之助はあまりの人気ぶりに自信を深め、育ての親だった日活の撮影所長で監督だったマキノ省三と真っ向から対立したことがあった。マキノは松之助を牽制しようと、新たなスターを育成しようとしたが、松之助に敵う俳優を発掘することに失敗し、退社に追い込まれ、松之助が後任の撮影所長に就任し、重役スターとなった。

だが、映画会社にとって俳優の増長は経営的に悩ましい。そこで、メジャー映画会社間でカルテルを結び、俳優の引き抜きを禁じ、業界を保護しようという動きが出てきた。戦前は四社連盟というカルテルが結ばれたが、その拘束力は脆弱で、大物俳優たちが独立して配給系統まで持っていた時期がある。

戦後になってできた五社協定は、極めて強い拘束力を持ち、俳優たちの自由な芸能活動を圧迫していった。だが、五社協定は当初から独占禁止法違反の指摘がなされていた。

前述の前田通子は、六社協定により干された後、東京法務局人権擁護部に訴えを起こしたところ、人権侵害が認定された。

また、57年には『異母兄弟』という映画に俳優の南原伸二が所属していた東映に無断で出演したことが問題となり、五社協定違反とされ、映画会社5社が『異母兄弟』上映阻止に動いたことで、公正取引委員会が調査に乗り出したこともある。同委員会は63年に5社が「協定中、違反の疑いのある条項を削除し、その後このような行為を繰り返してお非ず、違反被疑行為は消滅したと認められたので、本件は不問に付した」という決定を下したが、実態としては五社協定は存続し、映画界の衰退を絡めて国会でも議論されたことがある。

五社協定は映画界の衰退とともに自然消滅したが、テレビの世界では五社協定同様のシステムを引き継いだ。五社協定をモデルとした日本音楽事業者協会(音事協)と呼ばれる組織が1963年に設立され、現在まで大手芸能事務所がタレントの引き抜き禁止、独立阻止で団結している。

『キネマ旬報』2014年8月下旬号

◆「悪しき因習」がタレントへの人権侵害を生み、芸能界の衰退を招く

能年が所属するレプロも音事協加盟社であるから、能年が他の音事協加盟の有力事務所に移籍することは基本的にできない。かといって、弱小事務所に移籍したり、独立すれば業界全体からプレッシャーを受け、芸能活動ができなくなってしまう。五社協定の時代は、多くのメディアが五社協定に批判的だったが、今はほとんどのメディアが芸能界に組み込まれており、「芸能界の掟」に反するタレントをバッシングするようになっているから、システムとしての堅牢性は極めて強い。

能年が『あまちゃん』のヒットで国民的アイドル女優となりながら、事務所と対立したことで、飼い殺しとなり、仕事ができなくなってしまうのは、『あまちゃん』で能年と共演した小泉今日子がインタビューで語った言葉を借りれば、そうした「芸能界の悪しき因習」が背景にあるのだ。それは能年に対する人権侵害であるばかりでなく、五社協定と同様に芸能界の衰退を招き、視聴者にとっても大きな不利益をもたらしている。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
◎松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
◎石川さゆり──ホリプロ独立後の孤立無援を救った演歌の力
◎浅香唯──事務所と和解なしに復帰できない芸能界の掟
◎爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折
◎中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
◎中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
◎宮根誠司──バーニングはなぜミヤネ独立を支援したのか?

芸能界の歪んだ「仕組み」を綿密に解き明かしたタブーなきノンフィクション『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社2014年5月13日刊)

 

 

これまで当連載で紹介してきたのは、主に独立で業界から干されたタレントだが、中には独立しても干されないどころか、ますます芸能活動が活発になるタレントもいる。たとえば、バーニングプロダクションという有力な後ろ盾を持った、フリーアナウンサーの宮根誠司のケースだ。

◆やしきたかじんの後押しでフリーとなり、『ミヤネ屋』でブレーク

月刊『EXILE(エグザイル)』2015年2月号(LDH発行)では51歳の肉体改造美を披露

宮根は1987年に関西大学を卒業し、朝日放送に入社した。2004年3月末に朝日放送を退社し、4月から大手芸能事務所のフロム・ファーストプロダクション大阪支社に所属し、フリーに転身した。フロム・ファーストといえば、バーニングプロダクションで郷ひろみのマネージャーを務めた小口健二がバーニングからのれん分けのような形で設立した大手芸能事務所だ。

このときは、番組で共演していた、やしきたかじんが朝日放送の社長らに「フリーになりたいそうやから、何とか、ならしたってほしい」と直談判してくれたという。

その後、司会を務める読売テレビ制作の『情報ライブ ミヤネ屋』が全国放送となり、宮根は日本中に顔が知れ渡る売れっ子となった。

そして、2010年3月末には、フロム・ファーストと契約解除し、4月から新事務所、テイクオフに移籍した。テイクオフは、元フロム・ファースト大阪支社長で宮根のマネージャーを務めた横山武が代表取締役に就任し、東京に設立された芸能事務所だ。宮根はテイクオフの所属タレント第1号で、宮根自身も出資しているから、実質的な独立ということになる。

◆「芸能界のドン」の後ろ盾で東京キー局へ進出

芸能界では、タレントが独立する際、強烈なハレーションが起きるものだが、宮根の場合は違い、独立直後の4月からフジテレビ系列の新情報番組『Mr.サンデー』でメインキャスターを務めることが決まり、東京進出に道筋を付けることができた。

実は『Mr.サンデー』の初回放送日には、バーニングプロダクション社長で「芸能界のドン」と言われる周防郁夫がわざわざフジテレビに現れ、異例のことに、フジテレビでは驚きの声が上がったという。周防が宮根の後ろ盾になっているという話は業界では有名な話だった。実力者がバックについた宮根の独立をとがめる者など業界にはいない。

フロム・ファーストから独立までの経緯については、『週刊新潮』(2010年4月22日号)が報じている。それによれば、宮根の独立のきっかけとなったのは、2007年11月にフロム・ファースト社長、小口が死去したことだったという。

小口が死去して1年あまり経った2009年初頭、宮根のマネージャーだった横山が「宮根と一緒に独立したい」と言い出した。この時は、フロム・ファースト側が慰留し、どうにか思いとどまらせることができたというが、これで話は終わらなかった。

2009年11月、小口の三回忌にバーニングの周防が現れ、霊前に手を合わせた。その1ヶ月後に宮根が独立を宣言した。芸能記者によれば、「周防さんは、小口さんの霊前に『宮根の独立を認めてやってくれ』と“仁義”を切りにいったと見られています」という。芸能界でいうところの「恩」や「義理」は、実力者の前では簡単に破られるのである。

宮根にとっては、独立によって自分の手取りが増え、ウン千万の収入アップが見込める。また、小口よりも大物の周防が後ろ盾になってくれることで、マスコミ対策が強力になる。

2012年1月、宮根に隠し子スキャンダルが持ち上がったことがあったが、これをスクープした『女性セブン』の記事では、なぜか美談仕立てだった。本来なら報道番組の司会者に隠し子騒動はアウトで、番組交番でもおかしくない事態だが、宮根の場合は不問に付された。

◆TVキャスター囲い込みでバーニングが画策するのはメディア・コントロール?

では、宮根の後ろ盾になるバーニング、周防には、どんなメリットがあるのか。まず、宮根から直接、上納金が入ってくるはずだ。筆者が聞いた話では、宮根の事務所、テイクオフにはバーニングやバーニングと関係が深いとされる大手出版社の幻冬舎も出資しているという。

バーニングにとっての宮根の存在価値はそれだけでなく、メディアをコントロールする上でも重要な鍵となる。

宮根が独立して初の仕事となった『Mr.サンデー』の2回目の放送日である2010年4月25日に女優の沢尻エリカとハイパーメディアクリエイターの高城剛の離婚スクープが大々的に報じられたことがあった。翌日のスポーツ紙は各紙とも1面で「離婚へ」と書き立て、その後、大騒動に発展していった。

沢尻はもともとスターダストプロモーションに所属していたが、2009年9月30日、契約解除となっていた。後の報道でその理由が薬物問題にあったことが明らかとなっている。

その後、沢尻は夫の高城とともにスペインで個人事務所を設立したが、芸能界への復帰は進まなかった。その理由は、復帰のためには夫の高城と離婚しなければならないという条件を芸能界から突きつけられていたためだった。

なぜ、沢尻は離婚しなければならなかったのか。沢尻がスターダストから契約解除された直後の『週刊ポスト』(2009年10月30日号)の記事「『それが女優復帰の条件』で始まる沢尻エリカの“離婚カウントダウン”」に、「芸能プロダクション幹部」のコメントとして「今回の騒動で、夫(高城)の存在がいかにやっかいかわかってしまった」とある。さらに「芸能ジャーナリスト」のコメントでは、「女性タレントや女優に、仕事に口を出すようなオトコがつくと面倒が起きるというのは定説」と解説されている。

芸能界が求める沢尻と高城の離婚を演出するために『Mr.サンデー』は使われたと見た方がいいだろう。

◆事務所の意向で干されるテレビ文化人たち

宮根の事務所、テイクオフには、2011年から日本テレビ出身の人気アナウンサー、羽鳥慎一が、2014年にはTBS出身のアナウンサー、田中みな実が所属するなど、陣容を拡大している。また、アナウンサーだけでなく、2011年には元カリスマキャバ嬢の立花胡桃がテイクオフに入ったが、立花はその前年にバーニングと関係の深い大手芸能事務所、ケイダッシュの取締役で周防のブレーンと言われる谷口元一と結婚していた。

アナウンサーは情報番組などで司会を務めることが多く、その発言には極めて大きな社会的影響力がある。宮根と所属事務所、テイクオフは、周防の拡声器のようなものになっているのだ。現実に先に紹介した沢尻の離婚報道に見られるように、周防は宮根を使って世論操作を仕掛けてきた。芸能分野だから、あまり目立たないかもしれない。だが、それが政治や経済を結びついてくると重大な問題になってくる。

作家の林真理子が『週刊文春』(2011年9月8日号)の連載コラム「夜ふけのなわとび」で次のように述べている。

「聞いた話によると、最近コメンテーターという人たちは、たいていの場合、その番組の司会者のプロダクションに所属しているという。
私と仲のいい学者さんは、朝のワイドショーのレギュラーコメンテーターを続けるなら、
『○○さん(司会者)のプロダクションに入ってください』
と言われて断ったところ、その後、ホサれたそうである」

芸能人だけでなく、文化人も事務所の論理によって干されるのだ。そして、情報番組やニュースが芸能界方式で操作されているとしたら……と考えると、何とも恐ろしくなってくる。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
森進一──「音事協の天敵」と呼ばれた男
石川さゆり──ホリプロ独立後の孤立無援を救った演歌の力
浅香唯──事務所と和解なしに復帰できない芸能界の掟
爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

2015年は同時多発で疾走せよ!

 

芸能界史上最大のタレント独立事件と言えば、森進一の渡辺プロダクションからの独立劇だろう。当時の渡辺プロダクションは芸能界最大勢力であり、森も演歌界を代表する歌手だったから、マスコミはこぞって、この「戦争」を採り上げた。

森は1972年以降、契約更新の時期になると毎年のように渡辺プロに内容証明を送付し、待遇改善を迫っていた。それによって、給料は上がったが、渡辺プロのお仕着せの曲でヒットしないことに不満を募らせ、次第に自分の歌は自分で選びたいと考え、79年、13年所属した渡辺プロから独立を果たした。

当時の渡辺プロの実力は、全盛期に比べると衰えていたが、音事協を中心とする芸能プロダクション勢力の結束は強く、森はテレビから締め出された。

『おふくろさん』(1971年5月ビクターレコード、作詞=川内康範、作曲・編曲=猪俣公章)

◆「つくづく変わった男だった」

音事協が特に神経をとがらせたのは、森が他のタレントに「独立するとオイシイよ。十年選手だったらやったらどう?」などとそそのかしたという。これが音事協で問題となり、共演拒否の動きが広がった。森は「音事協の天敵」と呼ばれ、芸能界で孤立した。

元渡辺プロ取締役、松下治夫の著書『芸能王国渡辺プロの真実。―渡辺晋との軌跡―』(青志社)でも、森は批判的に書かれている。

森はラテン・ビッグバンドの東京パンチョスのリーダーだったチャーリー石黒がその素質を見込んで渡辺プロに連れてきてきたという。同書によれば、森の独特のハスキーボイスはチャーリーが開発したものだったとする。

当時の渡辺プロは、演歌歌手は森だけで、ポップス歌手が本流だったから、誰も森に期待はしなかったが、あれよあれよという間にスタートなってしまった。

松下は「森進一はつくづく変わった男だった」と述懐している。

森は渡辺プロからもらった給料を明細ごと封も切らないで、押入れに入れていたという。それが貯まって億というお金となり、さすがに心配した松下が社長の晋に相談したほどだった。そのうち森は「お金を増やす方法はないか?」とマネージャーに相談し、不動産に投資することとなり、自宅と事務所ビルを建てた。

さらに森はデビューして1年後の67年末、待遇の不満から木倉事務所に移籍しようとしたことがあった。この時は、音事協会長で政治家の中曽根康弘までが乗り出して調停する事態となり、結局、移籍の話はなくなった。

◆「極貧」からの脱出

なぜ、森はお金に執着したのか。

デビュー当時の森について回ったのが「極貧」という言葉だった。

森は本名を森内一寛という。47年生まれで、出身地は山梨県甲府市。父親は古着の行商をしていたが、それが行き詰まり、静岡県に流れ着いた。そして、小学校5年生のころ、父親と母親が別れてしまった。父親が間借りしていた家主の奥さんと不倫関係になったのを母親が苦にしたためだった。

母親は森と乳飲み子の弟、4歳の妹を連れ、親戚を頼り、下関に移ったが、やがてバセドー氏病にかかり、働けなくなってしまった。森の一家は、森が中学3年生のときに、母親のいとこを頼って鹿児島に移った。

貧しい森一家は、生活保護を受けなければならなかった。おかずはなかったから、ご飯に醤油をかけて食べた。森は朝4時に起きて、牛乳配達をし、それから朝刊を配り、学校へ行き、帰ると魚屋の手伝いをし、夕刊を配って働いた。中学3年のときの成績は音楽を含めてすべて「3」。備考には「気が弱い。特記事項なし」とあった。

高校進学をあきらめた森は中学校を卒業して、集団就職で大阪に行き、十三駅前通りの寿司屋「一花」で働いた。住み込みで給料は1万2000円。だが、4ヶ月もすると、「ぼく、この仕事に向かんと思います」と言って、辞めてしまった。それ以降、十円でも給料の高いところを目指し、職を転々とした。15歳から17歳まで21回も転職した。

森は17歳のとき、フジテレビののど自慢番組『リズム歌合戦』に出場し、優勝した。番組のバックバンドをしていたチャーリー石黒に拾われ、レッスンに励み、66年、18歳のとき、『女のためいき』でデビューした。

たちまち森はスターとなったが、渡辺プロが森に払った給料は、年間4億円の稼ぎがあると言われながら、68年1月まで8万円だった。森はそのうちから3万円を母親に仕送りした。また、森は早くから家を買いたいと考え、給料の半分は貯金に回した。

木倉事務所から1000万円の契約金で移籍のオファーが舞い込んできたのは、そんなときだった。結局、移籍の話は潰れたが、森の月給は50万円となり、仕送りの額も10万円になった。

◆母の訃報が届いたその日、長崎で熱唱した『おふくろさん』

遊ぶ暇などなかった貧しい少年時代の反動なのか、スターとなった森は女性スキャンダルが相次いだ。73年2月24日未明、森の母親がガス中毒で自殺するという事件が起きたが、その理由にはバセドー氏病の病苦の他に、息子のスキャンダルによる心労があったとも伝えられている。

母親が死んだ日、森は長崎県諫早市の体育館でステージに立っていた。

ステージで司会者がこう言った。

「森さんのおかあさんがけさ亡くなりました。家には妹さんと弟さんしかおらず、すぐにも東京に帰りたいが、みなさんのためにうたってくれます」
森は涙を流しながら『おふくろさん』を熱唱し、会場を嗚咽の声でいっぱいにした。実際、森は一刻も早く母親のもとに向かいたかっただろうが、これが「ナベプロ商法」だった。

ショーを終えた森は空港に向かい、全日空機に飛び乗ったが、自宅に到着したのは、母親の自殺が確認されてから17時間以上経過した午後10時過ぎのことだった。

 

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
石川さゆり──ホリプロ独立後の孤立無援を救った演歌の力
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

『芸能人はなぜ干されるのか?』在庫僅少お早めに!

 

長年、所属していたホリプロから独立した石川さゆりも、干されたタレントのひとりである。

石川さゆりは、小学生の時に観た島倉千代子の歌謡ショーに感動し、歌手を志した。中学生になると、牛乳配達のアルバイトをして貯金を貯め、歌謡教室に通った。14歳の時にフジテレビの『ちびっこ歌謡大会』で優勝し、それがきっかけとなって、1973年、『かくれんぼ』でアイドル歌手としてデビューを果たした。所属事務所は、ホリプロだった。

そして、77年に『津軽海峡・冬景色』が大ヒットとし、レコード大賞歌唱賞を始め、歌謡賞を総ナメした。演歌歌手として一気にスターとなった石川は、その後も『波止場しぐれ』『天城越え』など、ヒット曲をコンスタントに出し、『紅白歌合戦』でもトリを務めるほどの実力派に成長した。

◆96年独立後の試練──民放各社が「さゆりはずし」の包囲網

明日大晦日の「紅白歌合戦」に出る女性歌手の中で石川は和田アキコ(38回)に次いで出場回数が多い37回目。紅白曲は『天城越え』(1986年7月日本コロムビア)

石川は96年いっぱいで、24年所属していたホリプロから退社し、個人事務所、ビッグワンコーポレーションを設立した。独立の構想は長年温めていたもので、満を持しての再出発となるはずだった。だが、大手事務所から独立した他のタレントと同様、石川にも大きな試練が待ち受けていた。

97年1月23日、石川は事務所開きのささやかなパーティーを開いたが、案内状に名前があった統括プロデューサーが欠席した。そのプロデューサーは、前日に「一緒にはやっていけない」と、突然、通告してきたのだという。数日前まで新しい仕事の打ち合わせで燃えていたプロデューサーの脱落により、パーティーはまるでお通夜のように静まりかえってしまった。

さらには、NHK以外の、決まっていたテレビの仕事も相次いでキャンセルとなった。「構成上の理由」とのことだったが、何者かが糸を引いているのは明白だった。

『女性セブン』(97年4月17日号)に「あるテレビプロデューサー」の談話として次のようなコメントが紹介されている。

「10日ほど前のことなんですが、社の上層部の方から、“石川さゆりを使わないように”という話が降りてきたんです。それも歌番組だけじゃなく、バラエティーやワイドショーに至るまで同じことが伝えられたんです。驚きましたね、あまりの徹底ぶりに。

知り合いの他局のプロデューサーなんかも同じ事をいわれたみたいで、どうもNHKを除く全民放で、“さゆりはずし”が進行しているんですよ」

それと同時に、「石川は自己主張が激しく、スタッフ泣かせで有名だった」という報道が増えていった。ホリプロとの確執の発端は、81年に石川がホリプロの社員と結婚したことだったという。芸能界には「社員は“商品”に手を出してはいけない」という掟がある。ホリプロは石川に思いとどまるよう説得したが、石川は「結婚させないなら事務所を辞める」と主張し、結婚を強行した。

石川にとって苦しい芸能活動が続いた。テレビに出られなくなったため、「演歌の女王」としてのプライドを捨て、ミニコミ誌の表紙モデルや地方でのサイン会など、どんな小さな仕事でもやった。

97年の秋には、石川の窮状を見かねた民放キー局のプロデューサーが芸能界との手打ちの席を設けようとしたが、石川は「こちらは円満退社しているのに、どうして頭を下げなくてはいけないの?」と言って拒んだ。

◆99年の紅白出場危機──国民銀行のカミパレス不正融資事件への関与で揺れる

芸能界では孤立無援の状態が続いたが、カラオケでは石川の人気は根強く、97年末には『紅白』に20回目の出場を果たした。これに芸能界は、いらだちを強めていった。

だが、99年には、その『紅白』への出場に黄色信号が点った。その年の『紅白』は50回目という記念すべきものであり、NHKとしても人気のある石川を出したいと願っていたが、土壇場で起用を決めかねていた。

というのも、その年の4月に経営破綻した国民銀行のカラオケ会社への乱脈融資疑惑に石川の名が出ていたからだった。

国民銀行は、経営難に陥っていたカミパレスというカラオケボックスチェーンの倒産を回避するため、迂回融資や飛ばしなどの手段を使い、270億円もの不正融資を行っていたが、このうち120億円が焦げ付いていた。カミパレスは、80年代に石川の個人事務所が立ち上げた事業で、後に石川のスポンサーだと言われていた、実業家の種子田益夫が関与した。また、迂回融資に使われた7社の中にも、石川が社長を務める個人事務所の名前が出ていた。カミパレスは99年10月20日に破産宣告を受け、石川も迂回融資に協力していたのではないかと目され、警察から事情聴取を受ける可能性があった。

石川を起用して後で問題が発覚すれば、『紅白』の権威に傷が付くことになる。NHKは社会部を動員して、石川が事件に関与しているかどうか取材したという。『紅白』の出場歌手発表は、遅れに遅れた。当初は、11月11日に発表される予定だったが、3週間も遅れた。

ワイドショーも週刊誌もこぞってこの問題を報じたが、芸能界では「事務所を独立した石川を快く思っていない勢力が情報をリークしたのではないか」という説まで流れた。

結局、石川は出場を決めたが、当初は大トリの有力候補だったが、スキャンダルの影響もあり、最後から3番手となった。大トリに起用されたのは、ホリプロ所属の和田アキ子だった。

99年は、石川にとって受難の年で、『紅白』出場だけでなく、レコード会社移籍問題も騒がれた。石川が所属していたポニーキャニオンが売上の低迷する演歌部門から撤退を表明し、石川もリストラされることになったのだ。本来ならば、石川ほどの実力があれば、どこでも引く手あまたのはずだが、独立問題はまだくすぶっていた。各レコード会社は、ホリプロの機嫌を損ねることを恐れ、石川獲得になかなか名乗りを上げられなかったという。

多数のヒット曲を持ち、長年、『紅白』に出場する実力派の石川ですら、所属事務所から独立した途端に、このような辛酸をなめるのである。

アイドルの独立問題に関する報道で必ずといっていいほど「芸能プロダクションはタレントに投資をしていて、それを回収しなければならないのだから、勝手な独立や移籍は許されない」という芸能評論家のコメントが出てくるが、これはまったくの嘘である。

そもそも「投資」というものが何なのかが不明だし、アイドルだけでなく、投資の回収が終わったはずのベテランでも、大手事務所を敵に回して独立すれば一律に干されるのだ。

石川さゆりオフィシャルウェブサイト

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

『芸能人はなぜ干されるのか?』大晦日紅白のお供にこの一冊!在庫僅少お早めに!

 

星野陽平の《脱法芸能》

爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折

中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)

中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)

松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説

薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇

《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

加勢大周の独立事件で司法は、タレントに芸名の使用を認める判断を下した。だが、その後も芸名使用問題はくすぶり続け、1994年、浅香唯の芸能界復帰で、再び注目を集めることとなった。

浅香唯は、もともと芸能界には関心がなかった。芸能界入りのきっかけとなったのは、84年に『少女コミック』(小学館)主催のオーディションでグランプリを獲得したことだった。応募したのは優勝者に贈られる「赤いステレオ」が欲しいためだったという。だが、その後、多くの芸能プロダクションからスカウトの電話があり、芸能界入りを決めた。六本木オフィスに所属し、翌年、中学校を卒業し『夏少女』で歌手デビューした。

◆ファンクラブ会員数が山口百恵に迫る勢いだった88年の全盛期

TVドラマ「スケバン刑事Ⅲ」主題歌『STAR』(1987年1月マイカルハミングバード)

86年、テレビドラマ『スケバン刑事3 少女忍法帖伝奇』(フジテレビ系)で主役を務めると、ブレイクし、たちまちトップアイドルの座を獲得した。ピーク時の88年にはファンクラブの会員が2万8000人を超え、全盛期の山口百恵の2万9000人に迫る勢いだった。だが、次第に六本木オフィスとの関係が悪化していった。

六本木オフィスとの関係がこじれるきっかけとなったのが、89年9月発覚したバックバンドのドラマーで7歳年上の西川貴博との交際だった。2人の関係を知った六本木オフィス側は、西川に音楽活動を支援しようという名目でお金を支払った。これを知った浅香は、マネージャーにお金を返したが、結局、社長から浅香のところに戻ってきてしまった。

この頃を境に浅香と六本木オフィスとの関係がギクシャクするようになってしまった。六本木オフィスは「そろそろ年齢相応にセクシーな面を打ち出すべきだ」と言って仕事を持ってきたが、浅香はすべて断った。

荒木経惟撮影による川崎亜紀 (浅香唯) 写真集『FAKE LOVE』 (1994年KKベストセラーズ)

そして、93年2月末に六本木オフィスとの契約が解消となり、浅香は活動休止を宣言した。引退説も流れたが、94年1月、アラーキーこと写真家の荒木経惟が撮影した浅香の写真集『FAKE LOVE』(ベストセラーズ)が出版された。

六本木オフィスは、この写真集を問題視した。浅香は独立にあたって六本木オフィス側と「1年間は芸能活動をしない」「芸名の浅香唯を使用しない」という約束を交わしていたが、写真集の発売は契約切れから1年未満だったし、写真集の名義は本名の「川崎亜紀」だったが、帯には「浅香唯」の名があった。

◆「事務所と和解なくして復帰なし」が音事協の本音

六本木オフィス側が問題とした「芸名の使用禁止」については、加勢大周に対して元所属事務所が起こした裁判で争点となり、93年6月に言い渡された高裁判決で加勢に芸名の使用を認められていた。また、そもそも、「浅香唯」の名前は、『少女コミック』に連載されていた『シューティングスター』の主人公の名前であり、六本木オフィスの所有物ではない。

だが、六本木オフィスは、これが「道義的」に問題だとして、音事協に提訴した。これを受けて、音事協は「この問題は双方でよく話し合い、発展的に事を進めてほしい」と提案した。これに基づいて、六本木オフィスは、復帰のための条件を出したが、浅香はこれを拒絶した。

一見すると、音事協の裁定は和解を提案しただけにすぎないようにも見えるが、実際のところは「六本木オフィスと和解しなければ復帰は認めない」ということに等しい。もちろん、法的な拘束力があるわけではないが、業界は音事協を中心に強いつながりがあり、その裁定には絶対的な力がある。芸能界で孤立した浅香は、何年も自宅にこもってパソコンをいじって暮らした。

当時の浅香は雑誌のインタビューで、こう語っている。
「自分を哀れだと思ったら何もできない。自分を哀れむこと、哀れまれることだけはしたくないと思って……」
「結局、私が芸能界の仕組みやオキテそのものをわかっていなかったってことですね。本当、芸名のことにしても、後になって人づてにこういうことだと教えてもらいましたし、いろんな事務所がわかるにつけて、前の事務所には迷惑をかけたんだが、申し訳なかったと……」(『微笑』95年12月16日号)

浅香が芸能界に復帰したのは、六本木オフィスとの和解を経て、休業宣言から4年が過ぎた97年のことだった。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
加勢大周[Ⅲ]──悪名に翻弄され続けた二人の「加勢大周」
加勢大周[Ⅱ]──裁判で事務所社長に芸名を奪われる
加勢大周[Ⅰ]──独立で勃発した竹内社長との「骨肉の紛争」
爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

『芸能人はなぜ干されるのか?』大晦日紅白のお供にこの一冊!在庫僅少お早めに!

 

◆93年6月の控訴審判決──加勢側が逆転勝訴

1993年6月30日、加勢大周の独立に絡んで提起されていた訴訟の控訴審判決が言い渡された。控訴審判決では、業界中から大きく注目されていた争点であり、1審では認められた「加勢大周」の芸名使用禁止が覆り、加勢側が逆転勝訴した。

加勢を訴えた元所属事務所、インターフェイスプロジェクトの社長、竹内健晋は、雑誌のインタビューで「そのときほど、人を殺したいと思ったことはなかった」と明かしている。判決に反発した竹内は、新たな対抗策をぶち上げた。

「加勢大周という芸名はわたしが付けたもの。ウチに所属するタレントを“加勢大周”の芸名で近々デビューさせる!」

7月7日、竹内は港区白金台の八芳園にNHKを含めた80人の報道関係者を集め、元祖加勢大周と同姓同名の「新加勢大周」をお披露目した。

◆デビュー会見20日後に「新加勢」は「坂本一生」に芸名を変更

「新加勢大周」こと坂本一生

元祖加勢大周に勝るとも劣らない二枚目の新加勢大周は180センチで72キロの20歳で、高校時代には水泳をでインターハイにも出場したというスポーツマンだという。竹内はたまたま東京近郊にあるスポーツジムにいた彼を発見して、スカウトしてきたという。

「歌もうたえるし、英語にも堪能。スポーツで発散するタイプですから、川本くん(加勢の本名)のように“女性に走る”ということはない」
と、竹内は自信満々に豪語し、黒いタンクトップを着た青年を紹介した。

元祖加勢大周は、この報道にうろたえ、「第2の加勢クンがボクより売れたらまずいよなァ。名前の1字を変えてほしい。裁判を何回もやったんだから……」と困惑気味にコメントした。

元祖加勢側は、新加勢の動きを封じようと手を打った。「加勢大周」「元祖加勢大周」「東京加勢大周」の4つの名前を商標登録し、新加勢の出鼻をくじいたのだった。

7月27日、竹内は再び記者会見を開き、「川本伸博クンに『加勢大周』の名前をプレゼントする!」と宣言した。新加勢は登場してから20日後に「坂本一生」に芸名を変更し、芸名戦争は一応の決着を見た。だが、加勢と竹内の確執は続いた。

◆「新加勢」坂本一生も竹内との金銭トラブルで移籍独立

だが、新加勢大周こと坂本一生も、95年4月、竹内のもとを去り、他の事務所に移籍してしまった。原因は金銭トラブルだった。坂本はこう語っている。

「ただ働きでした。はっきりいって、(竹内社長のもとにいるときは)ただ働きだったんです。もちろん、通常のタレントの方と同じで、給料はギャラの何パーセントといった形式で、契約を交わしていました。でも、1度もギャラとしておカネをもらったことはなかった。

おカネがないので、仕事のないときは部屋にひとりでこまりっきりで、宅配ピザやカップラーメンをすすってました。ホント、毎日が不安で、みじめで……」(『アサヒ芸能』95年6月8日号)

坂本は、2年間、肉体派タレントとしてテレビのバラエティ番組で活躍してきたが、給料が支払われないどころか、600万円もの持ち出しを余儀なくされたという。竹内にギャラについて尋ねても、「次の仕事をとるために金が必要なんだ」と言うばかりで埒があかなかった。

もっともショックだったのは、坂本が番組のゲームで優勝し、100万円の賞金を獲得したときのことだった。坂本は他のチームのキャプテンと相談し、賞金を山分けすることにしていた。番組が終わって楽屋で他の出演者とともに和気あいあいと待っていたが、とうとう賞金は届かなかった。

給料を払わないだけでなく、竹内は坂本に女性との交際を禁じた。それが高じて、坂本のホモ説まで報じられる事態となった。心底うんざりした坂本は、事務所を飛び出す決意をした。

◆「いわく付きの名は更正の原動力になった」──服役を終えた元祖加勢の告白

一方、加勢の方も竹内との抗争で疲弊し、芸能活動は長期間低迷し、その挙げ句、2008年10月5日、覚せい剤取締法違反(所持)と大麻取締法違反(所持)の現行犯で逮捕され、芸能界を引退した。

服役を終えた加勢は、都内でバーテンとして働いた。『週刊新潮』(11年12月29日号)に新加勢大周騒動を振り返り、こう語っている。

「こんなエピソードをほかに誰も持っていないでしょうから、ボクが死ぬとき、生きていておもしろかったことのひとつに挙げられると思います。『加勢大周』はいわく付きの名前になってしまいました。それを使ってまた仕事を始めることは、今は考えられません。ただ、この名前は自分のモノだという思いはあります。こんなボクでも、待ちで『加勢大周さんですよね。一緒に写真撮ってください』と話しかけられることがあります。こうして覚えていてくれる人がいることが、いい意味で足かせになり、更正の原動力になる」

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》
加勢大周[Ⅱ]──裁判で事務所社長に芸名を奪われる
加勢大周[Ⅰ]──独立で勃発した竹内社長との「骨肉の紛争」
爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

『芸能人はなぜ干されるのか?』大晦日紅白のお供にこの一冊!在庫僅少お早めに!

 

所属事務所のインターフェイス・プロジェクトから独立した加勢大周だったが、これまでに本連載で紹介してきた他のタレントのように業界からの圧力で干されることはなかった。加勢の仕事場にインターフェイス側と加瀬側のマネージャーが何人も現れて混乱するということはあったものの、加勢に仕事の依頼が止まらず、ドラマやCMに出演していた。

その理由の1つには、インターフェイスが小さな芸能事務所だったことが挙げられる。インターフェイスは、加勢との契約で音事協の統一契約書の体裁を採っていたが、インターフェイスは音事協には加盟していない。契約書では「社団法人音楽事業者協会」とあったが、「社団法人日本音楽事業者協会」が正しい。音事協の名前を出して、加勢を威圧することが目的だったのだろうが、こけおどしにすぎなかった。

◆「自業自得」とも囁かれた竹内健晋社長の悪評

加勢大周主演のTVドラマ「POLE・POSITION 愛しき人へ…」(1992年日本テレビ)

また、業界では、インターフェイスの社長、竹内健晋の評判も良くなかった。竹内はもともとモデルプロダクション上がりで、芸能界でのタレントの売り出しノウハウがなかった。そこで、加勢のプロモーションについて大手事務所に協力を要請したが、加勢の人気が高まってくると、利益を独り占めしようと謀り、大手事務所を激怒させていた。加勢が竹内から逃げ出しても、業界では「自業自得」という非難の声が上がり、竹内を応援しようという者は現れなかったのである。一部報道では、竹内が右翼を頼ろうとしたという話もあったが、相手にされなかったという。業界を味方にできなかった竹内は、加勢を潰すためにひたすら司法の手を借りたのである。

逆に加勢の方が業界の実力者の力を借りようとしたのは、加勢の方だった。インターフェイスの元社員で独立した加勢についた業界の大物として知られる廣済堂プロダクションの長良じゅんに調停を依頼し、いったんは長良の預かり、加勢が竹内に2億円を払って和解するという調停案が示され、解決しかかったが、加勢側は別にスポンサーを探して、独立の道を突き進んだ。

長年、芸能事務所を経営してきた長良としても、全面的に加勢を支援するわけにもゆかなかったのだろう。『FOCUS』(91年5月17日号)で、長良は次のようなコメントを出していた。

「たかだかデビュー8ヶ月目くらいで人気が出たから独立なんて、芸能界はそんな甘いモノではない。そういう行儀の悪いことをするんなら彼も終りだ」

◆「商標登録された芸名は事務所の所有物」と認めた92年判決の衝撃

一方、インターフェイスが訴えた裁判は、92年3月20日に判決が言い渡された。その要旨は、被告、川本伸博は加勢大周なる芸名を使用して、第三者に対し、音楽演奏会・映画・ラジオ・テレビ・テレビコマーシャル・レコードなどの芸能に関するすべての役務の提供をしてはならない、というものだった(新事務所との専属契約の禁止、5億円の損害賠償請求は棄却された)。

この判決は、業界全体に大きな衝撃を与えた。判決に影響を与えたのは、竹内が加勢大周の名を商標登録していたことだったが、加勢の裁判が判例として定着すると、事務所が所属タレントの芸名を商標登録した場合、タレントは独立や移籍の際、いちいち芸名を返上し、新しい名前で芸能活動をしなければならなくなる。明らかに芸能事務所側に有利な判断がなされたが、これはタレントにとっては死活問題だった。

ただちに加勢は控訴した。高裁での判決は93年6月に言い渡され、今度は加勢に芸名使用の許可が出た。だが、これで一件落着とはならず、94年になってから、インターフェイス側はまた訴訟を起こし、独立してから1年間の損害があったとして、3億7000万円を請求した。

さらにトラブルは続き、加勢が独立した際、協力をした顧問、安西一人が新事務所、フラッププロモーションの社長を務める加勢の母親とマネジメントをめぐって対立し、事務所を辞任すると、週刊誌が「加勢はマザコン、無気力、女にうつつを抜かしている」という安西の暴露インタビューを掲載した。

こうしたトラブルが何年にもわたって続いた結果、加勢のイメージは極端に悪化し、ピーク時には11本あったCM契約も、すべてなくなってしまった。

そして、加勢大周の独立スキャンダルの極めつけは、芸名の所有権を主張する竹内が嫌がらせとしてぶつけてきた「新加勢大周」の登場だった。(つづく)

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》

加勢大周[Ⅰ]──独立で勃発した竹内社長との「骨肉の紛争」
爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇
《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

『芸能人はなぜ干されるのか?』大晦日紅白のお供にこの一冊!在庫僅少お早めに!

 

 

1988年7月、芸能事務所インターフェイス・プロジェクトの社長、竹内健晋は世田谷区駒沢にある喜多呂という焼き鳥屋に入った。すると、アルバイトをしていた抜群にハンサムな少年に目が止まった。

竹内はその少年と目が合うなり、上半身がガタガタと震えだした。芸能界生活25年の間に70人ものタレントを育てた経験から竹内に、「これはモノになる」という直感が降りてきたのだった。

少年は都立多摩川高校の3年生で、教材会社に就職が決まっていたが、翌月から竹内の事務所に所属し、目指すことになった。コンタクトレンズ会社の営業部長をしているという父親は、「仕事がら新製品を売り出すことのむずかしさはわかっています。社長さんのご恩は一生忘れません」と言った。

少年は名前を川本伸博といったが、竹内は芸名として「加勢大周」と名付けた。

◆デビュー当初の月給は9万円──工事現場で働き、身体を鍛える

加勢大周写真集『ライバル』 (1990年ワニブックス)

最初の1年間に入ってきた仕事はCMモデルの仕事がたったの2件しかなく、加勢の稼ぎはたったの6万円だった。身体を鍛えることも兼ねてよるの工事現場でアルバイトをした。その間、竹内は毎月9万円の給料を払ったが、事務所の経営は苦しく、加勢が「給料のうちから5万円を使ってください」と申し出たこともあった。

ところが、90年に入ると、桑田佳祐監督の映画『稲村ジェーン』で主役として抜擢され、コカコーラのCMが決まり、次々とドラマから出演オファーが舞い込んできた。たちまち人気に火が付いた加勢は、吉田栄作、織田裕二とともに「トレンディ御三家」と呼ばれ、売れっ子俳優になった。

◆母親が立ち上げた事務所に移籍したとたん始まった竹内社長との法廷闘争

だが、ほどなくして、加勢は事務所から独立し、竹内と対立した。

まず、加勢は4月4日付でインターフェイスに対し、契約解除の通告書を送付した。そして、6月1日、母親を社長とする新事務所、フラッププロモーションを設立し、数人のスタッフとともに移籍した。

これに対し、インターフェイス側は、「契約上、契約解除の意思表示は契約が満了する5月末の3ヶ月前までにしなければならないのに、加勢はそれを怠った。従って契約は自動延長されるので、契約解除は無効」と反発し、91年8月1日、加勢と新事務所との契約は無効だとして、加勢にテレビなどへの出演禁止、芸名の使用禁止、5億円の損害賠償などを求める訴訟を東京地裁に提起した。

竹内は、提訴した翌日、記者会見を開いた。記者からギャラについての質問が出ると、竹内は加勢への支払明細書を見せた。それによれば、90年6~12月の給与は税込で17万5000円、91年1~6月は25万円で、1年間の合計は247万5000円。ただし、歩合給与として、年間2107万6576円を支払っていた。トータルで2355万1576円だった。そして、次のように言った。

「(給料は)新人時代の小泉今日子、工藤静香は、3年間は11万円以下ですよ。まわりの業界人からは、そんなに払うとナメられるからといわれたぐらいです。加勢本人は、仕事や金のことをとやかくいわない好青年でしたよ」

「(芸名は)姓名判断、血液型、人相から調べて、勝海舟が好きだった私が、力、勇気、アイディアをもってもらいたくてつけた名前です。当初、本人は外国人みたいな名前でイヤだといってましたが……。もし、話し合いがつかない場合、彼には使わせたくない。第2の加勢大周を探したい。彼には、本名でステップしてくれといいたい」

「(5億円の損害賠償については)取ろうとは思いませんが、もしほかでやっていくというなら、それ以上も……」

「おまえも早く……男らしく、一発ひっぱたかれてもという気持ちをもって会いにきてほしい……。裸になってサウナで語りあいたいですね」

一方、加勢サイドは、訴訟代理人を務める弘中惇一郎弁護士が記者会見を開き、「相手の主張は80%がウソです。いい加減で、違法性の高い契約書を根拠に、加勢クンを拘束しようとしているだけ。こちらが提出した異議文書も無視されています。それに加えて、加勢クンの妹役募集と称して応募者4000人から総額240万円を集めたり、21歳の女性をムリヤリにアダルト・ビデオに出演させたり……」などと反論した。

加勢側の主張によれば、2000万円とされた歩合給にしても、加勢の取り分は10%に過ぎず、また、実際に支払われたのは、竹内が公表した金額より1000万円低い、という。

加勢の独立は、まさに骨肉の紛争へと発展していった。(つづく)

▼星野陽平(ほしの ようへい)

フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

星野陽平の《脱法芸能》

爆笑問題──「たけしを育てた」学会員に騙され独立の紆余曲折

中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)

中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)

松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説

薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇

《書評》『ジャニーズ50年史』──帝国の光と影の巨大さを描き切った圧巻の書

『芸能人はなぜ干されるのか?』大晦日紅白のお供にこの一冊!在庫僅少お早めに!

 

女性タレントの話題が続いたが、ここからは男性タレントと所属事務所の紛争についても触れてみたい。

『週刊アサヒ芸能』の10月30日号で「干された芸能人100大事件」という10ページの特集記事が掲載された。週刊誌がこの種のテーマでこれだけのページを割いたケースは過去にないが、内容は、これまでの芸能マスコミの論調を踏襲したものに過ぎなかった。つまり、芸能事務所の論理を代弁し、違法で不当な芸能界の構造にまでは踏み込んでいない。
この特集は表紙でも大きく扱われていたが、そこには「干された芸能人」の筆頭として爆笑問題の名が記されていた。

太田光と田中裕二のお笑いコンビ、爆笑問題は、日大芸術学部で知り合い、1988年に結成された。渡辺正行主催のラ・ママ新人コント大会に出場したところ、太田プロダクションにスカウトされた。

爆笑問題はテレビに出演すると、たちまち視聴者からの人気を集め、若手芸人のホープとなった。そのまま行けば看板番組を任される目されていた爆笑問題だったが、90年に突如、太田プロから独立し、その後、徹底的に干された。それ以降、爆笑問題は、数年間にわたってテレビに出られなくなり、その間、太田はパチンコ三昧となり、田中はコンビニのアルバイトに精を出した……。

◆「たけしを育てた男」に騙された

爆笑問題DVD『2014年度版 漫才 爆笑問題のツーショット』(2014年6月アニプレックス)

この話は、爆笑問題のファンなら誰でも知っているだろうか。では、なぜ爆笑問題は太田プロから独立したのか。その経緯については、これまでほとんど明らかにされてこなかったが、10月6日放送の『ビートたけしのTVタックル』(テレビ朝日)で、出演した太田と田中が初めてこれに触れた。

大竹まこと 最初は、事務所を移るどうのこうので、10年くらい出れなかったもんな?
田中 3年くらいです。太田プロから。
太田 元々、たけしさんが悪いんですよ、アレは。
大竹 なんで?
太田 俺らをスカウトしたヤツがいて、「俺がたけちゃんを育てた」って言うから、その人に付いて行ったんですよ。そしたら、後でたけしさんに訊いたら、「あんなヤツ、知らねぇよ」って。
阿川佐和子 ああ、サギにあったんだ。
太田 それで、一回、たけしさんに初めて会った時に、たけしさんの担当だったっていうマネージャーが、「たけちゃんに会ったことないだろ?」って。
田中 僕らが新人の頃ですよ。たけしさん、お正月の『ヒットパレード』の時で。
太田 フジテレビの特番で、それこそたけしさんが白塗りして何かやってたんですよ、相変わらず(笑)。
田中 コントみたいなのね。
太田 あの頃から、本当に進歩してないですね(笑)。
たけし うるせぇよ(笑)。
太田 フジテレビが、まだ河田町の頃ですよ。それで、俺らが緊張してたら、そのマネージャーだったって人が、「大丈夫だよ。俺が育てたようなもんだから」って。
阿川 友達みたいなね。
太田 それで、「今からたけちゃんのところ行くから」って言って、「殿!」って言ったんですから、そいつ(笑)お前、さっきまでと全然違うじゃねぇかって。「殿、すみませんけど、今、よろしいでしょうか?」って。
たけし だって、アイツはその後、「たけしと爆笑問題を育てた男」ってなってんだよ。それで、お笑い塾なんてやってて。
阿川 まだご存命なんですか?
太田 ご存命ですよ。
田中 どっかで息づいてます。どこかで。

◆「オレらのギャラの3割は学会の寄付」

この話については、『噂の真相』(95年3月号)に掲載された「吉本興業が独走するお笑い業界の群雄割拠の構図」という匿名鼎談記事でも触れている。記事に以下のような発言がある。

B(芸能記者) 太田プロの敏腕マネージャーだった瀬名に誘われ一緒に独立。瀬名も敏腕というわりには、太田プロを辞める理由が「家業を継ぐため」と、今時、転職するOLでも使わない手口。狭い業界なんだから、太田プロが怒って爆笑問題を2年も干したのも無理ないか。
C(若手芸能タレント) 独立後、ようやくテレ朝の「ガハハキング」で復活したとき、爆笑に話を聞いたら「オレらはだまされたんだ」といっていた。実は、瀬名が太田プロを辞めた理由が、なんと、瀬名が創価学会の会員で、もっと献金を増やすために独立し、その稼ぎ頭として爆笑を引っ張ったというんだから、爆笑の太田光がいっていたけど、「オレらのギャラの3割は学会の寄付」だって。このほうがよっぽど、“爆笑問題”だよ(笑)。

太田プロの自称「ビートたけしを育てた敏腕マネージャー」の「瀬名」というのは、瀬名英彦氏のこと。同氏のツイッターのプロフィール欄には、「過去にお笑いタレントをスカウトしてました。ツービート、若人あきら(現在の我修院達也)、コロッケ、ダチョウ倶楽部、爆笑問題他多数… 今でも新人のお笑いで売れそう人を見るのが楽しみです」とある。

◆経営陣の公私混同が酷すぎてタレントが逃げ出す「東の老舗」太田プロ

太田プロは創業は1963年と歴史が古く、老舗の部類に入る。「西の吉本、東の太田プロ」と呼ばれるほど伝統的にお笑いに強い。

だが、芸能事務所の場合、由緒ある大手だからといって、タレントにとって信用できるわけではない。太田プロは、昔からタレントとのトラブルが絶えず、爆笑問題やビートたけしなど独立していったタレントも少なくない。

なぜ、タレントは太田プロから、離れてしまうのだろうか。

『噂の真相』(2000年6月号)に掲載された記事「お笑い番組ブームで稼ぎまくる太田プロの搾取と公私混同の裏事情」に太田プロの内幕が詳細にレポートされている。

それによれば、たとえば、1000万円のCM契約が取れても、事務所はタレントには500万円と伝え、差額はまるまる事務所の収入となる。タレントに契約書を見せる必要はないから、バレることもないという。

では、ピンハネされた金はどうなるのか。記事によれば、「驚いたことに、太田プロ社内では、幹部クラスですら、はっきりとした金の流れを把握できない」という。

特にひどいのが磯野社長と泰子副社長の公私混同ぶりだ。磯野社長は2000万円もする碁盤を衝動買いして会社の経費で落とし、泰子副社長は洋服や宝石など月に300万円以上も衣装代に費やし、事務所に請求する。また、太田プロには、草津温泉や北海道、アメリカなど各地に社員寮を持っているが、実質的には社長夫妻が個人的に使っている別荘であり、社員は利用できないという。

経営トップにならって、幹部社員も横領に余念がない。「猿岩石の全盛期のマネージャーは都内に一軒家をキャッシュで建てた」という噂が流れたほど、太田プロの経営はどんぶり勘定だったという。

当然、そうした資金の出所は、タレントからの搾取だ。「バカらしい」と思って逃げ出すタレントも後を絶たない。

ビートたけしや爆笑問題、伊東四朗、大川豊総裁率いる大川興業、電撃ネットワークの南部虎弾、春一番など、これまで多くの芸人が太田プロから逃げ出していった。

ただし、太田プロは事務所の規模と比べて業界での政治力は強くない。デビュー直後の爆笑問題程度であれば、独立後、何年も干すことができたが、大物タレントだったビートたけしの独立は防げなかったのである。

▼星野陽平(ほしの ようへい)
フリーライター。1976年生まれ、東京都出身。早稻田大学商学部卒業。著書に『芸能人はなぜ干されるのか?』(鹿砦社)、編著に『実録!株式市場のカラクリ』(イースト・プレス)などがある。

—————— 星野陽平の《脱法芸能》——————-
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(後編)
中森明菜──聖子と明暗分けた80年代歌姫の独立悲話(前編)
松田聖子──音事協が業界ぐるみで流布させた「性悪女」説
薬師丸ひろ子──「異端の角川」ゆえに幸福だった独立劇
ヒットチャートはカネで買う──「ペイオラ」とレコード大賞
ジミ・ヘンドリックスが強いられた「奴隷契約労働」

大晦日紅白のお供にこの一冊!在庫僅少お早めに! 『芸能人はなぜ干されるのか?』

 

« 次の記事を読む前の記事を読む »