格闘群雄伝〈16〉小野瀬邦英 ── 倒すか倒されるかの躍進で時代を変えた革命児

◆バイク事故で運命を変えた新人時代

小野瀬邦英(1973年6月27日、茨城県水戸市出身)は、高校入学後、地元の茨城県水戸市で平戸ジム入門。倒すか倒されるかの躍進で日本キックボクシング連盟のマイナー的存在から逆襲へ流れを変えた革命児である。

「学生時代は何をやっても長続きしない人間でした」という小野瀬だが、中学の野球部ではサードで4番、勉強も常に学年トップ。でも途中で飽きて不登校になったという頭脳明晰、運動神経抜群の変わり種。

中学3年頃、テレビでマイク・タイソンの試合を見て、その強さに憧れてボクシングを始めようと思うも、水戸市には平戸ジムしか無かったことから高校入学と同時に入門。当時はボクシングとキックの違いも分からないまま練習を始めたというが、次第にキックボクシングに目覚めていった。

高校2年の1990年10月13日、フェザー級デビュー戦は2ラウンドKO勝利するも、同年12月、バイクの交通事故で左足踵断裂、アキレス腱がパックリ飛び出す重傷を負ってしまった。これでくっつく迄手術を繰り返すも、左足が満足に使えなければ選手生命は絶たれたも同然だった。

1992年3月、高校卒業すると鍼灸専門学校入学の為上京。学校に通いつつ、身体を持て余していた小野瀬は身体慣らしに運動できればと学校の近くにあった渡邉ジムを訪れ、プロではなく、足のリハビリ目的で入門を申し出た。

現在のキックボクシングジムでは、フィットネス目的での入門は多いが、当時の渡邉ジムは、そんな目的での入門はほぼ受け入れなかった。受入れたとしても、渡邉信久会長がハードな練習を強制するから、あっという間に去ってしまう。

だが、渡邉会長にとって平戸ジムの平戸誠会長はかつての後輩だった縁から「平戸の弟子ならまあいいだろう!」と特別に小野瀬の入門を許した。

しかし折角のジムワーク。リハビリは解るが、キックボクサーとしての恰好ぐらい付けてあげられないものかと周囲の協力体制が芽生えていった。左足のアキレス腱や脹脛に衝撃を与える蹴り禁止。小野瀬は左回し蹴りはフリか軽く蹴るといったフェイントで形を作り上げていくことになった。

半年程経って、現役のチャンピオンだった先輩の佐藤正男とのマススパーリングが増えていった。小野瀬は速い動きと、他の技、更に右・左とスイッチを繰り返す対応で攻撃もディフェンスも出来るまでになっていた。

通算5戦して5勝(4KO)だったが、ガルーダ・テツは好敵手だった(1996.2.24)

◆戦うスタイル、渡邉ジムで開花

その辺りを見計らい、渡邉会長は「小野瀬、試しにリングに上がってみろ!」と試合出場を促した。当然不安はあるところ、「左足は使わなくてもいいから!」と促されて出場。

再デビュー戦を3ラウンドKO勝利。2年程で7~8戦した中、負けもあるが幾つかKO勝利出来たことは自信に繋がっていた。

渡邉会長は「ここまでやれたんだから、もっと上を目指せ!」と叱咤激励。

小野瀬は後に「ローキックのカットは出来ますが左の蹴りは無し。その分、他の攻撃力を上げればいいと思っていたので現役時代は苦にはなりませんでした。」と自信を語る。

新人時代を経て、倒すか倒されるかの攻防は大阪からやって来たガルーダ・テツ(大阪横山)とは互いの発言も過激で、東西対抗戦的話題性は新風を巻き起こした。

1997年2月23日、日本キックボクシング連盟ライト級王座決定戦で、小野瀬は根来侑市(大阪真門)に1ラウンドKO勝利で王座獲得したが、他団体交流に備えた肩書では、選手層が厚かった他団体に比べ、注目を浴びる存在ではなかった。

[左]初めてのチャンピオンベルトを巻いた根来侑市戦後、飛躍はここから(1997.2.23)/[右]佐藤孝也には苦しんだが、しっかり打ち合えた戦いだった(1997.4.29)
チャイナロンにやられた顔面、鼻は折られ腫れ上がる(1999.12.12)

日本キックボクシング連盟は1984年11月の設立当初、統合による人材豊富な活気があった。その後の分裂で他団体勢力には押され気味の時代が10年以上も続く中、渡辺明(渡邉)、佐藤正男(渡邉)らが連盟代表的エース格の時代はあったが、団体そのもののメジャー化には程遠かった。

時代の流れは、1996年8月に設立したニュージャパンキックボクシング連盟(NJKF)との交流戦が始まった。小野瀬は、すでに多くのトップ対決を経験していた佐藤孝也(大和)には苦戦の辛勝だったが、実力が計れる対戦相手との対戦はより存在感を増すことには成功した。

1999年には、日本で実績を残していたチャイナロン・ゲオサムリット(タイ)を1ラウンド、ヒジ打ちで下し、プライド傷つけられたチャイナロンは再戦で猛攻、小野瀬は鼻は折られるも、2ラウンドボディーブローで逆転KO。小野瀬の実力は紛れもないトップクラスという証明をもたらした。

「チャイナロンとの2戦目が現役中一番しんどい試合でした。でも勝ったことで、より私の評価は上がりましたが、今も鼻は曲がったままです。」と負った痛々しい勲章を語る。

◆やり残した武田幸三戦

2000年にはNJKFウェルター級チャンピオン青葉繁(仙台青葉)や元チャンピオン松浦信次(東京北星)、上位ランカーの大谷浩二(征徳会)との計4選手によるトップオブウェルターリーグに出場すると、ライト級の小野瀬はやや押される展開も見せたが、「体格の圧力は特に無く、何発か当てれば絶対倒せる」と確信していたという小野瀬が3戦3勝(2KO)の?日本キックボクシング連盟ここにあり”をもって示した優勝を果たした。

優勝者に約束されていたムエタイチャンピオンとの対戦は、同年9月24日、ムエタイ殿堂スタジアムで長く人気を博したオロノー・ポー・ムアンウボンとの試合が組まれたが判定負け。

「ハードパンチャーとの謳い文句でやって来たオロノーは打ち合いを避けて首相撲で来ました。やはり首相撲は地味だが疲れます。ムエタイとキックボクシングの競技性の違いを痛感しました。」と語る小野瀬の、目指す先は限られてくる難しさも見えてきた。

[左]松浦信次戦、体格差凌いで豪快にKO(2000.4.22)/[右]オロノーもムエタイ技で打ち合いを凌ぎ、追い詰める小野瀬(2000.9.24)
同門対決と言われた職場の後輩、石毛慎也に敗れる(2002.6.29)

この時代はより細かく乱立する8団体の中の、柵(しがらみ)の無い4団体が統一的なNKB(日本キックボクシング)タイトル化を進め、トーナメントを経て2002年には各階級チャンピオンが誕生した。

6月29日、ウェルター級決勝で小野瀬は動きが悪く、若い石毛慎也(東京北星)のヒジで斬られるTKO負け。隆盛を極めた小野瀬の終焉を迎える時期でもあった。
その後、小野瀬は引退宣言をし、「最後に我儘を言わせて貰えるならば、ラストファイトには武田幸三さんと対戦したい。」という公言は、周囲は実現に動くかと期待が膨らんだ。

しかし、どうしても拭えない古い柵に取り憑かれた中では、この対戦は実現に至らなかった。

同年12月14日、小野瀬のラストファイトに相応しい最強として用意された、ラジャダムナンスタジアム・ライト級チャンピオン、マンコム・ギャットソムウォンは、やはり打ち合いに来ないテクニシャンタイプで判定負け。そのリング上で引退式を行ないリングを去った。

小野瀬にとって最も噛み合う、倒されるにしても完全燃焼させてくれる相手と願っていた元・ラジャダムナン系ウェルター級チャンピオン武田幸三(治政館)が激励に駆け付け、リング上でのツーショットに収まるのが精一杯の対峙となった。

小野瀬は後に「バイク事故でもう元通りには回復しないほど足を痛めてしまい、キックボクシングはもう無理と諦めていました。縁もあって渡邉会長に特別な指導を受け、周りのサポートもありここまで来れました。心より感謝してます!」と何はともあれ、現役を続けられたことへの感謝を語っていた。

[左]武田幸三とは夢の対決ではなく対峙(2002.12.14)/[右]引退試合でのマンコム戦、倒せなかった(2002.12.14)
引退式の後、渡邉会長から労いの言葉を掛けられる(2002.12.14)

◆次代を担う立場

小野瀬は新人の頃、自身の腰の故障治療の為に受けた経験から上京後、鍼灸専門学校を経て柔道整復師、鍼灸師、マッサージ師の資格を取得し、現役時代の1999年1月7日、江戸川区葛西に「まんぼう・はりきゅう整骨院」を開業。自らの事故と試合での負傷経験から、傷みの分かる治療が施されている評判良い整骨院である。

引退後は同じ葛西にSQUARE-UP道場を開設。倒しに行く、自分で勝ちを掴めという教えで、夜魔神、大和知也、安田一平をNKBチャンピオンに育て上げている。

2014年には日本キックボクシング連盟で興行担当と成り、古い柵からの改革が始まった。斬新なプロデュースを行ない、新たにフリーのジム所属選手との交流戦を始め、高橋三兄弟の活躍の場を広げ、NKBの活気が増してきたところで小野瀬は2017年12月末で、諸事情により興行担当とSQUARE-UPの会長職を円満に辞任し後輩に託したが、キックボクシングの底上げの努力に後退は無い。平成時代に戦った世代の小野瀬邦英は、同じ世代の会長、プロモーター達とキックボクシング競技確立へ、今後の時代を担う一人である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

格闘群雄伝〈15〉斉藤京二──黒崎道場で培った忍耐で新たな時代へ挑戦するキックの申し子

◆新人時代

斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
     
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。

だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。

「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。

この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。

「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。

変則ファイター内藤武に左フックを合わせる(1983.5.28)

◆試練続きの現役生活

デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。

藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。

この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。

しぶといレイモンド額賀を逆に翻弄、TKO勝利する(1984.1.28)
事実上の頂点、長浜勇を倒し、実力を証明(画像はKO前、この後にKO)(1984.5.26)

統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。

ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。

その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。

念願の日本ライト級王座獲得、甲斐栄二を倒す(1986.11.24)

◆エース格として、常に上を目指す戦い

1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。

[左]王座獲得後のチャンピオンベルト姿撮影(1987.1.25)/[右]飛鳥信也を下し初防衛(1987.4.19)

1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。

心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。

[左]全日本キックに移っての初防衛、若い石野直樹を倒した(1988.1.3)/[右]全日本キックでは国際戦が多かった、ジョアオ・ビエラに判定勝利 (1988.7.16)
小国ジム新会長就任パーティーにて、抱負を語る斎藤京二氏(1992.2.9)

◆引退後もなお新たな挑戦

引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。

1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。

2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。

2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。

小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。

現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。

時代は移り変わりNJKF理事長を勇退、坂上顕二新理事長より花束が贈られる(2019.2.24)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

格闘群雄伝〈14〉高谷秀幸──バックハンドブローを武器にキックボクシング界を渡り歩いた風来坊

◆通信教育でスタート

高谷秀幸(たかや・ひでゆき/1963年8月31日、東京都大田区出身)はタイトル歴は無いが、「目立ってやろう精神」は好奇心旺盛に団体と時代を渡り歩いた名脇役であった。全日本キックボクシング連盟ではリングネームを兜甲児としてリングに上がった。

空手会場で演舞を披露していた頃もある高谷秀幸(20歳頃)

幼い頃から活発で、ブルース・リーなどを見様見真似のアクションで遊んでいたが、15歳で空手を始めた。そんな頃、雑誌ゴングの広告で見た、みなみジムのキックボクシング&マーシャルアーツの通信教育に興味を持って申し込み、日々テキストに従った練習に励んだ。

一定の通信過程を経て実技審査に入る際はスクーリング制度で、みなみジム宿舎泊まり込みで技術を披露。

元々から充分鍛えていた高谷は何一つ劣ることなく体力テストもクリアし修了審査を終えると、「じゃあまた連絡するから!」と南会長に言われてジムを後にし、10日ほど経ったある日、電話が入った。

「オイ高谷、デビュー戦決まったから入門しろ!」

「えっ、デビュー戦? 入門前にデビュー戦って決まるもんなの?」という疑問は聞ける雰囲気ではなく「ハイ、分かりました!」と応えるのみ。

入門したのは1981年10月1日、デビュー戦は10月25日だった。これが当時、日本キックボクシング協会と全日本キックボクシング協会で分裂が起こって設立された日本プロキックボクシング連盟の設立記念興行だった。ライト級デビュー戦同士で鈴木庄二(西川)と対戦した高谷は勝つよりも目立ってやろうという意識が強く、バックハンドブローを炸裂させたことが判定勝利に結び付いた。これで自信を持った高谷は後々の得意技となっていった。

デビュー戦のリングに立った日(1981年10月25日)

◆夜逃げ

みなみジムでは1戦のみだったが、会長は「もっと左ミドルキック蹴らなきゃダメだ!」といった試合のダメ出しが多く、何かと威圧的に煩いこと言われ続け、傍から見ればどちらも血気盛んな性格なだけだったが、高谷は突然の退会を申し出て、後は夜逃げ同然のように宿舎から去った。

高谷は千葉県内に移り住んでいたが、一度やったキックボクシングは簡単には止められない魔力に憑りつかれていた。やがて千葉県内のキックボクシングジムを探し出すと、総武線の稲毛駅付近で車窓から見えたのが「TBSで放映中!キックボクシング千葉ジム」の古い看板。迷わず稲毛駅を降りてすぐに向かった。

当時はテレビも離れ、分裂も繰り返し起こったキックボクシング業界低迷期で、ジムは閑散としたもの。戸高今朝明会長も「こんな時代だが、やりたい奴はやればいい」と、過去の経歴は拒むことなく高谷を迎え入れた。みなみジムとは難なく話は纏まっていた様子だったという。ジムのバラック小屋には後々、中二階が作られ宿舎スペースと高谷はそこで暮らすことになった。

再デビューもライト級で1982年10月3日、三浦英樹(西川)に判定勝利。

1984年3月31日には、あのベニー・ユキーデと戦った新格闘術ライト級の内藤武(士道館)と対戦(5回戦)。高谷は映画・四角いジャングルや梶原一騎の影響を受けた世代として、憧れの内藤武には上を行く変則ファイトに翻弄され判定負け。

この頃は10kg以上あろうと格上だろうと堂々とマッチメイクするのが千葉ジム流。というのもキックボクシング創生期からそんな大雑把なこと当たり前の時代の名残りだった。

甲府での北島利秋(西川)戦(1983年9月18日)
日本キックボクシング連盟設立興行での西純猛(渡辺)戦(1984年11月30日)
千葉ジムでの練習。今時少ないパンチングボール(1985年頃)

翌1985年6月、ここでも思わぬマッチメイクも発生した。

日本フェザー級タイトルマッチ、渡辺明(渡辺)vsロバート高谷(千葉)と書かれたポスター。「ロバートって誰だ?」と思った途端、自分の顔写真に気付いた。

「えっ? 渡辺明と? フェザー級? 無理だろ!」

ここには1ヶ月前に起こった日本キックボクシング連盟の分裂からくる皺寄せが来ていた。そのもう一方の団体ならフェザー級は充実したランカーが揃っていたが、こちら側の団体では閑散としたもの。知らぬ間に一階級下のフェザー級でマッチメイク、更に格上過ぎる勢いある渡辺明。キック人生初のタイトルマッチだったが、バックハンドブロー炸裂で渡辺明が鼻血を流すシーンを見せるも、無理な減量も影響し、ヒザ蹴り猛反撃を食らった高谷は1ラウンドもたずの2分55秒KO負けを喫した。

こんな減量が響く無理なマッチメイクがあったり、千葉ジムにはしっかり指導できるトレーナーが居ないことからこれで引き際と決意し、次の試合が決まったと聞きながら、そっと千葉ジムを離れた。二度目の夜逃げ同然だった。

◆兜甲児となって

暫く空手などの試合に出場していたが、やがてまた「もう一度キックボクシングをやってみたい」という憑りつかれた魔力には勝てず、新空手の試合会場で山梨県の不動館・名取新洋会長に会うと、「現役を離れて5年のブランクがありますが、キックをやらせて頂けないでしょうか!」と入門を願い出ると、かつて不動館の興行に出場したことある高谷のことを知っていた名取会長は難なく了承。

この時期はキックボクシング低迷期を脱し、徐々に若い世代が台頭してきた時代で、各階級で充実したランカーが揃っていた。再起のリングとなった全日本キックボクシング連盟で、高谷はマジンガーZの主人公・兜甲児の名をリングネームとして3回戦(新人戦)からやり直すことになった。

ここから対戦した相手は後々、チャンピオンとなる選手が多かった。再々デビュー戦は1991年4月21日、林亜欧(SVG)に左フックでKO勝ち。松浦信次(東京北星)にバックハンドブローでKO勝ち。金沢久幸(富士魅)には判定負け。全日本キックで最後の試合となったのが1994年3月26日、小林聡(東京北星=当時)に僅差の判定負け。5回戦に上がることは無いままだったが、対戦相手には恵まれた3年間を送って30歳で引退を決意。最後は綺麗な引き際で不動館を後にした。

[写真左]再々デビュー戦となった林亜欧(SVG)戦(1991年4月21日)/[写真右]勝山恭二(SVG)戦(1991年10月26日)
[写真左]松浦信次(東京北星)戦(1992年3月28日)/[写真右]松浦に勝利した兜甲児(高谷秀幸)(1992年3月28日)
レフェリーを務める高谷秀幸(2006年12月10日)

◆引退してもキックとは腐れ縁

引退後はアマチュアキック・空手関係の試合でレフェリーを務めていたが、日本ムエタイ・レフェリー協会を発足させていたサミー中村氏から「プロでもやってくれないか」と誘われた。好きなキックとは腐れ縁で、なるがまま新日本キックボクシング協会でレフェリーを務めた。ちょっとユニークな動きを見せるレフェリーとして異質な存在感を見せたが、新日本キックで審判団入れ替えの事態が起きた2014年11月に終了となった。

高谷は2008年頃には35歳以上が参加出来るアマチュア枠のイベント「ナイスミドル」にも何度か出場しKO勝利を収めている。

タイへ観光に行った際には、田舎やお祭りのリングで余興にも出場。バックハンドブローを元・ラジャダムナン系ランカーにヒットさせると、そこから物凄い首相撲で何度もひっくり返されヘロヘロになったという仕打ちも「キックボクシング第4の人生の楽しい経験」と笑って言う。

高谷のバックハンドブローは、怯んだフリをして相手に背中を向け、向かって来たところを迎え撃つ手法で、チャンスと見た相手はガードが下がり気味でヒットし易いという。

新人戦から元・ムエタイランカーにまでヒットさせた、バックハンドブローの名手・高谷秀幸だった。

2017年3月にこの鹿砦社通信で掲載されたテーマ「試合から逃げた選手たち」に挙げた一人は高谷秀幸だった。しかし高谷は試合から逃げたのではなく、会長から逃げたパターン。若気の至りだった。

完全引退してから千葉ジムを訪れた際、「そんな昔のこと忘れちゃったよ、元気だったか!」と言ったのは戸高今朝明会長である。

みなみジム・南俊夫会長には、高谷がまだ現役時代にリングサイドで、「押忍、御無沙汰しております!」と元気よく挨拶すると「オウ、久しぶりだな、元気にやっとるか!」と返す南会長の笑顔があった。爽やかさが残るのが高谷秀幸という男。

現在は依頼があれば指導、演舞などをこなし、公園や体育館で空手やキックボクシングを、歳に合わせた自己練習の日課を今も続ける少年の心を持ったオッサン高谷秀幸57歳である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

格闘群雄伝〈13〉玉川英俊──レフェリーから大田区議会議員へ、格闘技と共に災害に強く生きる! 堀田春樹

◆キックボクシングの衝撃

新日本キック時代の玉川英俊レフェリー(2004年5月30日)

玉川英俊(1968年12月4日東京都葛飾区出身)はプロキックボクシング試合出場の経験は無いが、空手経験が縁でキックボクシングレフェリーを長く務めた経験を持つ大田区議会公明党議員である。

玉川英俊は玩具卸売りを営む両親に育てられた三人兄弟の末っ子で、兄によくプロレス技をかけられていたという遊びから、小学生の頃は漫画タイガーマスク、あしたのジョーが大好きだった。

高校生になって、空手部に所属していたクラスメイトの教室での大人しい姿と、道場での勇ましい姿とのギャップに驚き、玉川自身も空手部に入部。そこから空手バカ一代や四角いジャングルの漫画をはじめ、格闘技雑誌の創刊ブームなど、時代の流れに乗って格闘技にどんどん夢中になっていった。

1987年5月、創価大学一年の時、友人に元・極真空手の竹山晴友の試合を観に行こうと誘われ、後楽園ホールで初めてのキックボクシング生観戦。プロの技の衝撃、興奮が収まらず、どんどんキックボクシングにハマっていく中、大学でフルコンタクト空手のサークルを創設。大丈会(=ますらおかい)として試合出場も果たし、打撃技術を求めて、大学のある八王子市在住のキックボクサーとして、日本ライト級チャンピオンとなる頃の飛鳥信也(目黒)氏に指導者として丈夫会に迎え入れ、目黒ジムに見学や体験入門を果たした。

1990年5月、大学4年の時、第1回全日本新空手道選手権大会では、師である飛鳥信也氏と同門で、後にWKBA世界スーパーライト級チャンピオンとなる新妻聡と対戦していた。結果は「もうやめてくれ!」と言わんばかりの防戦一方のTKO負け。 他にも杉山傑(治政館)に判定勝利、今井武士(治政館)に判定負けと、後のチャンピオンとの対戦は多かった。大学卒業後は目黒ジムに正式入門。1995年頃までプロデビューは目指さず練習生のまま、ミット持ちなどトレーナーも務めた。

NO KICK NO LIFEにて緑川創vsアンディー・サワー戦を裁く(2014年2月11日)

◆レフェリーに転身

1995年頃から、新空手道、学生キックボクシング連盟等でレフェリー(主審・副審)として要請され参加。その後、新日本キックボクシング協会の運営関係者からもレフェリーとしての依頼の声が何度となく掛かり、「アマとプロは違うから」と断り続けていたが、最後は目黒藤本ジムの藤本勲会長から直接お電話でお願いされたことで、それまでたくさんお世話になってきたことへの恩返しとの思いで引き受けることになった。 しかし、プロのレフェリーでは思った以上に厳しい局面に立たされ、苦労が絶えなかった。

「アマチュアの試合では“早めのストップ”が重視され、その癖がプロの試合でも出てしまい、セコンドから罵声を浴びせられることは多々ありました。早く止めてKO負けにしたとき、その選手所属のジムの会長が泣きながら主催者に抗議されていたのを覚えています。またジャッジでも、興行終了後に某ジム会長が審判控室に『この採点したのは誰だ!』と怒鳴り込んで来られたこともありました。」という威圧的な抗議は脳裏から消えないという。

また2006年には「チャンピオンの地元での日本タイトルマッチで、1-2判定で挑戦者が勝った試合がありました。判定結果が出た直後、不服とした関係者がリング上でレフェリーを平手打ちし、会場は暴動寸前となり、その後、審判団は一旦全員解雇。継続したい者は残れと言われたものの復帰の見込みは無く、その後暫くして退くことにしました。」という形で一旦、プロ興行のレフェリーから去ることになった。

その後、アマチュアのみに戻り、学生キックボクシング連盟でのレフェリーを務め、ナイスミドル(キック版オヤジファイト)から声が掛かり、ここでのレフェリーも務めていた。そして2014年2月11日、リニューアル大田区総合体育館として初めてのキックボクシング興行が開催された、小野寺力氏の「NO KICK NO LIFE 2014」で、レフェリーとして依頼され復帰をしたが、2016年6月24日、「KNOCK OUT」移行による「NO KICK NO LIFE~THE FINAL ~」を最後にレフェリーから退くことになった(主に議員活動の多忙と興行が重なる事情有)。

審判を務めた経験の中には失態もありつつ、「2005年のある日本の王座決定戦で、本戦・延長戦共に、私のみ勝者“青コーナー選手”の採点を付けましたが、結果は2-1で赤コーナー選手“の勝ち。赤コーナー陣営から罵声を浴びましたが、あの時の自分の採点は間違っていないと毅然と立ち振る舞った試合もあります。」と言い、これが採点が分かれる場合もレフェリー・ジャッジそれぞれが取るべき大事な姿勢であろう。

ザカリア・ゾウガリーvs水落洋祐戦を裁いた後の勝利者コール(2016年3月12日)
NO KICK NO LIFEでの審判団(提供:玉川英俊氏)
選挙演説に出向いてマイクを握る(提供:玉川英俊氏)

◆大田区議会議員へ挑戦

1991年、格闘技人生とは裏腹に、日常では大学卒業と共にIT関連会社に就職し、後に大田区北千束に移り住むと、26歳で大学時代の同級生と結婚し、一男一女を儲け、後々には大学卒業まで立派に育て上げていた。

2011年には19年間勤めた会社を退職し、大田区議会議員選挙に挑戦していた。在職中の総務部で防災担当として培ってきた経験を活かして、災害に強い街づくりに取り組んでいくことを志していたが、選挙の一ヶ月前に東日本大震災が起こり、その志は更に強く持ち、格闘技に関わって来た忍耐と、どこにでも足を運ぶ行動力が基盤となった活動で同年4月24日、見事当選されている。

議員としての活動は日々忙しく多岐に渡るが、この3期10年間、東北や伊豆大島の被災地支援ボランティアにも参加し、現地で学んだことを大田区の防災強化に活かす為、議会で提案・討論を続けている模様。

また小中学校との交流も重ね、防災教育にも力を注ぐことが、人の命を救うこと、いじめや差別を無くす人間教育にも繋がるという取り組みも行ない、玉川氏が格闘技を通じて身に付いた、人の痛みの分かる指導が今後も活かされるだろう。

PETER AERTS SPIRITイベント開催に際し、ピーター氏表敬訪問にて、右から2番目が松原忠義大田区長、中央がピーター・アーツ、左端は大成敦レフェリー(提供:玉川英俊氏)
選挙演説にてマイクを持って公約、抱負を語る(提供:玉川英俊氏)

◆議員として格闘技界に手助け出来ること

旧・大田区体育館は新日本プロレスが1972年(昭和47年)3月6日に旗揚げ興行を行なった会場として有名だが、2008年3月に老朽化により解体、新たに建設され2012年3月に新・大田区総合体育館として竣工。ここから大晦日にプロボクシングの世界戦が行われる年が多く、玉川英俊氏は「ここで格闘技興行を行ないたい人達が多く居る」ということを議会でも訴え、主催者や選手たちの想いを直接、大田区・松原忠義区長に届ける為に、イベント告知や結果報告などで、小野寺力会長やピーター・アーツ氏、那須川天心選手他、多くの格闘技関係者による区長・区議会への表敬訪問の場をセッティングしてきた。

玉川英俊氏は「大田区には21世紀の“格闘技の聖地”大田区総合体育館があり、この会場でプロレスや格闘技の名勝負が繰り広げられてきたという歴史、伝統を継承し、この格闘技の聖地を世界に知らしめていきたい!」と語り、敷居の低い、使い易い、観戦し易い、格闘技に優しい会場として位置付けようと活動に力を注いでいる。

ここ数年はJR大森駅前ロータリーで開催されるお祭「ウータンフェスタ」で、KICKBOXジム鴇稔之会長のもと、所属選手やチビッコ等による公開スパーリングやアトラクションマッチのレフェリーもしているという(昨年はコロナ禍で中止)。今後、またプロ興行でその姿が見られるとしたら、その玉川議員レフェリーの姿をカメラに収めたいものである。

お祭りイベントにて、女子選手不満爆発のイジメ!?に耐える玉川レフェリー(提供:玉川英俊氏)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

新たな時代に突入するか日本キックボクシング連盟、必勝シリーズ開幕戦!

メインイベントとなった交流戦。高橋亮は2015年12月にNKBバンタム級王座獲得。2019年6月にNKBフェザー級王座獲得した二階級制覇チャンピオン。山浦俊一は2019年9月にNJKFスーパーフェザー級王座奪取して、昨年12月に葵拳士郎(マイウェイ)からWBCムエタイ日本スーパーフェザー級王座を奪取したばかり。

山浦俊一は2019年2月9日に高橋三兄弟三男・聖人にノックダウンを奪われ判定負けしている中での次男・亮との対戦となった。

日本キックボクシング連盟興行でニュージャパンキックボクシング連盟の女子キックが基盤のミネルヴァタイトルマッチが行われるのは、2019年9月29日、大阪でのテツジム興行以来、同一カードで2度目。sasoriも喜多村美紀もテツジム所属だが、sasoriは姫路支部所属で普段の練習では顔合わせは無い。両者は2019年9月に王座決定戦で対戦しsasoriが判定勝利している。

キックボクシング界に於いてはチャンピオンが乱立しているが、NKBもNJKFも国内団体タイトルのひとつである。

◎NKB 2021 必勝シリーズ 開幕戦 / 2月20日(土)後楽園ホール17:30~20:30
主催:日本キックボクシング連盟 / 認定:NKB実行委員会、ミネルヴァ実行委員会

高橋亮が最初のノックダウンを奪ったボディー蹴り

◆第11試合 61.0kg契約 5回戦

髙橋亮(真門/1995.9.22大阪府出身/60.95kg)
    VS
山浦俊一(新興ムエタイ/1995.10.5神奈川県出身/61.0kg)
勝者:高橋亮 / TKO 4R 0:48 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:前田仁

コロナ禍での観衆人数制限がある中だが、観衆が少ないだけではなく、緊迫感ある攻防を見守る観衆の静けさがあった。

主導権を奪いに行く素早さとフェイント掛けた高度な蹴り中心の攻防の中、第3ラウンド終了間近で高橋亮の前蹴り(通称・三日月蹴り)が山浦のボディーにヒットすると効いて蹲ってしまうノックダウンとなった。

山浦は懸命に立ち上がって終了ゴングに救われたが険しい表情。第4ラウンドには高橋亮がボディーに意識を持って行かせた上下打ち分けから左ハイキックをクリーンヒットさせると山浦は仰向けに倒れレフェリーストップとなった。

第4ラウンド開始後、山浦俊一を倒した左ハイキック
倒された山浦俊一は仰向けに倒れ、レフェリーがストップをかけた

◆第10試合 女子キック(ミネルヴァ)ライトフライ級タイトルマッチ 3回戦

チャンピオン.sasori(テツPRIMA GOLD/1981.3.19兵庫県出身/48.65kg)
    VS
同級1位.喜多村美紀(テツ/1986.6.27兵庫県出身/48.85kg)
引分け 三者三様
主審:宮本和俊
副審:佐藤29-30. 仲29-29. 前田30-29

蹴りも首相撲も少ない両者譲らぬパンチ中心の打ち合いが試合を盛り上げていくが、ポイントがどちらに流れるか難しい一進一退の打ち合いは、三者三様の引分けでsasoriが初防衛となった。

打ち合いが続いた喜多村美紀とsasoriの攻防
三者三様の引分けとなった女子のタイトルマッチはsasoriが初防衛

◆第9試合 ライト級3回戦

NKBライト級1位.棚橋賢二郎(拳心館/1987.11.2新潟県60.95kg)
    VS
WMC日本スーパーフェザー級2位.藤野伸哉(RIKIX/1996.5.31東京都出身/61.15kg)
勝者:棚橋賢二郎 / TKO 1R 2:59 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:仲俊光

藤野伸哉は棚橋賢二郎の剛腕を凌げれば蹴りやヒジ打ちで勝機あり。そんな流れも棚橋が様子見の後、勢いを増して打ち合いに出て来た第1ラウンド終盤。左右フックの強打炸裂で脆くも倒れ込んだ藤野は2度のノックダウンでダメージ深く、レフェリーストップとなった。

棚橋賢二郎の剛腕炸裂。藤野伸哉は凌ぎきれず
藤野伸哉が2度目のノックダウンとなった後、レフェリーがストップした

◆第8試合 ウェルター級3回戦

NKBウェルター級3位.笹谷淳(TEAM COMRADE/1975.3.17東京都出身/66.5kg)
    VS
ちさとkiss Me!(安曇野キックの会/1983.1.8長野県出身/66.55kg)
勝者:笹谷淳 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:宮本30-27. 仲30-27. 前田30-27

笹谷淳の蹴りから組み合う力が優り、ロープ際まで押し込む圧力。イジメのように顔をロープに抑え込んでヒジ打ちをゴツゴツ当てる圧倒が続くと、ちさとは眉尻をカットした上、スタミナを失うばかりで劣勢を挽回できず、笹谷が蹴りでも優りフルマーク判定勝利を掴む。

組み合う圧力からロープ際に詰めると笹谷淳のヒジ打ちや顔面押さえが続く
蹴り合っても笹谷淳の圧倒が続いた

◆第7試合 57.0kg契約3回戦

NKBバンタム級4位.海老原竜二(神武館/1991.3.6/埼玉県出身/56.65kg)
    VS
ベンツ飯田(Team Aimhigh/1997.4.17群馬県出身/56.75kg)
勝者:海老原竜二 / 判定3-0
主審:佐藤友章
副審:宮本29-28. 鈴木29-27. 前田29-28

蹴り中心の攻防が続く中、最終ラウンドは距離が詰まり、パンチ中心に移る中、海老原のファールブローが飯田に当たって中断後、更にパンチの打ち合いに入ったところで海老原の左ストレートがヒットし、飯田はノックダウンとなった。海老原の落ち着いた試合運びが判定勝利を導いた。

◆第6試合 60.0kg契約3回戦(中田ユウジ負傷欠場で矢吹翔太が代打出場)

半澤信也(トイカツ/1981.4.28長野県出身/59.9kg)
    VS
矢吹翔太(ブレイブフィスト/61.4→61.35→61.3kg 計量失格減点1)
勝者:矢吹翔太 / 判定1-2
主審:仲俊光
副審:佐藤28-29. 前田30-29. 宮本28-29. 矢吹に減点1含む

◆第5試合 バンタム級3回戦

志門(テツ/1996.4.14兵庫県出身/53.15kg)
    VS
ナカムランチャイ・ケンタ(team AKATSUKI/2000.8.18千葉県出身/53.3kg)
勝者:志門 / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:前田30-28. 仲30-28. 宮本30-29.

◆第4試合 59.0kg契約3回戦 

山本太一(ケーアクティブ/1995.12.28千葉県出身/58.85kg)
    VS
源樹(リバティー/1995.12.6埼玉県出身/58.3kg)
勝者:山本太一 / TKO 3R 2:35 / レフェリーストップ
主審:佐藤友章

◆第3試合 54.5kg契約3回戦

幸太(八王子FSG/1998.3.19山形県出身/54.3kg)
    VS
SHU(D-BLAZE/1999.12.16千葉県出身/54.45kg)
勝者:SHU / 判定3-0
主審:鈴木義和
副審:前田28-30. 宮本28-30. 仲28-30.

◆第2試合 ミドル級3回戦

畑澤貴士(八王子FSG/1984.9.18東京都出身/71.75 kg)
    VS
渡部貴大(渡邉/1992.11.12東京都出身/72.15kg)
勝者:渡部貴大 / TKO 3R 1:56 / ノーカウントのレフェリーストップ
主審:佐藤友章

◆第1試合 アマチュア特別試合 50.0kg契約3回戦(2分制)

伊藤千飛(真門伊藤/2005.6.25兵庫県出身/49.85kg)
    VS
藤井昴(治政館江戸川/2005.12.2東京都出身/49.45kg)
勝者:伊藤千飛 / 判定3-0
主審:前田仁
副審:鈴木30-29. 佐藤30-27. 仲30-29.

ミネルヴァ実行委員長の竹越義晃氏と並ぶsasori

《取材戦記》

女子の試合というのは男子よりパワーは無いが耐える力はあると言われる。ひたすら打ち合っていると、その展開が変わらぬまま進むことは多い。判定結果が告げられる間、勝利を祈る喜多村に三者三様の引分けが告げられると落胆の表情へと変わった。引分けもタイトルマッチに於いては明暗分ける厳しい裁定である。

高橋亮は山浦俊一に対し、再戦(リベンジ)したいならWBCムエタイ日本王座を懸けることを希望した。日本キックボクシング連盟では元々は交流戦を行なわなかった時代が長かったが、近年は若い世代が興行を運営し、高橋三兄弟が他団体交流戦やビッグイベント興行のリングに上がる機会に恵まれ、他団体チャンピオンと戦えば、負けることはあっても強い三兄弟とトップクラスに居る立ち位置をアピールすることに成功してきました。

そんなNKB(日本キック連盟、K-U)に於いては未だに他団体王座に挑戦することは禁止されているが、今後、運営する若い世代が新たな展開を見せてくれるか注目したいところです。

高橋亮が山浦俊一に最初のノックダウンを奪ったのは三日月蹴りというらしい。前蹴りとミドルキックの中間の軌道で爪先辺りで蹴る感じ(厳密には他の言い回しあり)。

近年はカーフキックというのも現れました。脹脛辺りを狙った蹴り。いずれも昔からあったように思う蹴りでも、古い人間としては我儘ながら、使い難い名称の感じがします。

日本キックボクシング連盟の次回興行は、4月24日(土)後楽園ホールに於いてNKB 2021必勝シリーズvol.2が開催されます。開場と開始時間が通常より変更される可能性がありますので御注意ください。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

2021年開幕戦から必見のNJKF! 堀田春樹

メインイベンター、健太は長らくNJKFのエース格を務めてきた90戦を超えるベテランだが、2019年6月の勝利以降2敗1分、高橋一眞は現在2連敗中と勝ち星から遠ざかった中での両者の対戦ではあるが、置かれた両団体でのエース格的立場として興味深いカードであった。

両者は5年前なら戦う運命には無かった階級から61.3kg契約で対戦するに至った。

NJKFスーパーフェザー級王座決定戦は過去、HIROが勝利している中での再戦は梅沢武彦が雪辱を果たした。

圧力かけて出る健太のハイキック

◎NJKF 2021.1st / 2月12日(金)後楽園ホール17:00~20:10
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟 / 認定:WBCムエタイ日本協会、NJKF

◆第9試合 61.3kg契約 5回戦

健太(=山田健太/E.S.G/1987.6.26群馬県出身/61.25kg)
    VS
高橋一眞(真門/1994.9.7大阪府出身/61.3kg)
勝者:健太 / 判定2-0
主審:宮本和俊
副審:竹村49-49. 中山49-48. 少白竜49-48

健太はNJKFでウェルター級、スーパーウェルター級で王座獲得や、WBCムエタイ日本ウェルター級王座獲得の実績あり。現在はWBCムエタイ日本スーパーライト級1位。高橋一眞はフェザー級でデビュー後、階級を上げNKBライト級チャンピオンとなる。

高橋一眞のローキックで健太の脚は傷だらけ

互いのローキック主体の攻めが主導権支配に流れそうな序盤、健太の脚は蹴られた跡がクッキリ残る。しかしどちらの戦略も主導権支配に至らない展開。

第4ラウンド終了時、「ヒジでカットしたでぇー!」とアピールした高橋一眞。健太の額からは薄っすらとした小さい流血。第5ラウンド、健太もヒジ打ちを出してくるがクリーンヒットは無い。しかし健太のパンチ、距離を詰めての猛攻にはやや押されてしまった高橋。これが運命を分け、健太が僅差で判定勝利。

「今回は勝ちに行くこと重点に倒しに行くことはあまり考えなかったです。また一からやり直しや!」と反省の高橋一眞。終盤に健太の圧力でロープを背負ってしまうのは勿体無い見映え悪さだった。

打ち合い避けたい高橋一眞だが、健太のパンチもヒットする
「ヒジでカットしたでぇー!」とアピールする4ラウンド終了時の高橋一眞

◆第8試合 60.0 kg契約3回戦

国崇(=藤原国崇/拳之会/1980.5.30岡山県倉敷市出身/59.6kg)
    VS
琢磨(=沼崎琢磨/東京町田金子/1992.8.25神奈川県愛甲郡愛川町出身/59.9kg)
勝者:琢磨 / TKO 2R 2:53 / カウント中のレフェリーストップ
主審:和田良覚

国崇は多くの王座獲得実績の中、ISKAムエタイとWKAムエタイの世界フェザー王座獲得実績有り。

琢磨はNJKFとWBCムエタイ日本のスーパーフェザー級王座獲得実績有り。現在WBC日本同級7位。

ベテランらしい攻防があった試合。小気味いい打ち合いを続けていく中、第2ラウンドには琢磨のパンチ攻勢が強まり国崇は下がり気味。琢磨が右ストレートをヒットさせ国崇からノックダウンを奪うと続けて連打から右ストレートで倒し、カウント中にレフェリーが止めた。

徐々に琢磨のパンチでダメージが溜まり、右ストレートで崩れる前の国崇
倒された国崇と立ちはだかる琢磨

◆第7試合 第9代NJKFスーパーフェザー級王座決定戦 5回戦

1位.HIRO YAMATO(大和/2000.6.25名古屋市出身/58.96kg)
    VS
2位.梅沢武彦(東京町田金子/1993.8.12東京都町田市出身/58.85kg)
引分け 0-1 / 主審:少白竜
副審:竹村49-49(延長9-10). 和田48-49(延長9-10). 宮本49-49(延長9-10)
梅沢武彦が勝者扱いで王座獲得

どちらが的確なヒットの印象が優るかの差。上下の蹴りからパンチ、組み合えばヒザ蹴りと技がキレイだが、相手のスタミナを削るような追い込み、ダメージを与える緊迫感が無い。延長戦ではやや疲れがあったかHIRO。前に出て積極性がやや優った梅沢武彦の優勢ラウンドとなった。公式記録は引分け。

インパクト無い攻防も延長戦は勝ちに出た両者、梅沢武彦のハイキックヒット

◆第6試合 57.0kg契約3回戦

NJKFスーパーバンタム級3位.日下滉大(OGUNI/1994.9.30埼玉県出身/57.0kg)
    VS
獠太郎(DTS/57.0kg)
勝者:日下滉大 / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:少白竜30-29. 和田30-28. 宮本30-29

序盤、獠太郎の右ストレートがややヒットするも、日下の距離ではタイミング良い上下の蹴り、接近すればヒザ蹴りで優っていき、主導権を譲らなかった日下の判定勝ち。

獠太郎の積極性を上回った日下滉大の的確さ

◆第5試合 女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級3回戦(2分制)

2位.KAEDE(LEGEND/2003.8.13滋賀県出身/55.8→55.6kg)
    VS
櫻井梨華子(優弥/54.9kg)
勝者:KAEDE / 判定3-0
主審:宮本和俊
副審:竹村29-28. 和田29-27. 中山29-27. KAEDEに計量失格減点1を含む)

距離感がいいKAEDE。いい位置から蹴りパンチが当たる。バッティングによるものか櫻井は額に大きなコブを作ってしまうが影響は無さそう。的確差が優ったKAEDEが判定勝利。

KAEDEはウェイトオーバーながらもヒットを上回り勝利を導く

◆第4試合 NJKFバンタム級王座決定トーナメント3回戦

5位.鰤鰤左衛門(CORE/53.2kg)vs 6位.池上侑季(岩﨑/53.5kg)
勝者:池上侑季 / TKO 3R 2:09 / カウント中のレフェリーストップ
主審:竹村光一

◆第3試合 65.0㎏契約3回戦

JUN DA LION(E.S.G/1976.8.3埼玉県出身/64.8kg)
    VS
マリモー(キング/1985.3.8東京都出身/65.0kg)
勝者:マリモー / 判定0-2
主審:和田良覚
副審:竹村29-29. 少白竜29-30. 宮本28-30

◆第2試合 女子(ミネルヴァ)ライトフライ級3回戦(2分制)

3位.真美(team immortal/48.8kg)
    VS
6位.ERIKO(ファイティングラボ高田馬場/48.9kg)
勝者:真美 / 判定3-0 (29-28. 29-28. 29-28)

◆第1試合 女子(ミネルヴァ)スーパーフライ級3回戦(2分制)

3位.佐藤“魔王”応紀(PCK連闘会/52.0kg)
    VS
ルイ(クラミツ/52.16kg)
勝者:ルイ / 判定0-2 (29-30. 29-30. 29-29)

NJKFスーパーフェザー級新チャンピオンとなった梅沢武彦

《取材戦記》

ムエタイは判定に至る場合が多いが、主導権を奪って終わった方が勝つと言われている為、前半は飛ばさないし、負傷判定も無い。日本のキックボクシングにおいても、10-10が多い採点では、ほぼ互角と思える流れで迎えた最終ラウンドは主導権を奪って終わらなければ見映えが悪いだろう。健太はそんな最終ラウンドにラッシュを掛けてポイントを奪った展開。ベテランらしさが出た勝利だった。

国崇は99戦目、キャリア20年の大ベテラン。平成以降において100戦を超える選手が居なかった時代に100戦超えが近い選手が数名いる現在。同時に3回戦が主流の時代の中身も問われるが、100戦超えは今後、チャンピオンとは違ったステータスとなりそうである。

この日はリング上の照明が点かないまま第1試合が始まってしまうアクシデント。ルクス低い客席照明と廊下側から漏れる灯りの中、ゴング鳴る前に「ライト点いてないよ!」とは言わせて貰ったが、薄暗い中での第1ラウンドが進む。第2ラウンド前のインターバルで照明点いたが、こんな事態を見たのは初めてだった。

NJKF興行予定は2月21日(日)に大阪市住吉区民センターで関西版「NJKF 2021 west 1st」が開催されます。

6月13日(日)に大阪府堺市産業振興センターで「NJKF 2021 west 2st」、6月27日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.2nd」が開催予定。夜興行ですが、開場開始時刻は通常より変更される可能性があります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

試合用グローブの色分けは必要か? 堀田春樹

◆昔は同一色

試合で使われるボクシンググローブ、昔は赤色(赤茶色のような深い朱色)グローブが主流。古くはもっとドス黒い赤紫色もあった。日本製(Winning社製)グローブを使用する日本のプロボクシングやキックボクシングはそれが普通だった。それしか無かったとも言える。それが今や外国製で何色も揃い特注も可能、グローブもファッション化してきた時代である。

新日本キックでは主にタイトルマッチで黒vs黒を採用した
モノクロでは明暗差のみ。色は分からない

◆色分け、なぜ始まったか

22~23年程前、取材で訪れたプロレス系の異種格闘技マッチで、両選手のグローブが赤と青に振り分けられていた。このシステムはK-1から真似したものだろうとは推測。

両者を見分け易いなと思ったが、すぐに違和感を覚えた。打撃競技で直接相手の顔面をヒットさせるグローブが、両者の色が違っては公平性は保たれていないではないかと思った。それは色彩によって心理的影響があると思ったからである。

それまでにアメリカ製、メキシコ製といった外国製は何色もあったと思うが、両者のグローブの色の振り分けすることは殆ど無かった。それがK-1から始まり、後にキックボクシング各団体が採用し始めた。更には、後発のイベントものの真似はしないだろうと思っていたプロボクシングも遅れて始まった。そんな疑問を当時のJBC役員に聞いて見たことがあった。

当然、色彩的影響も把握しているというもので、当初は振り分けは行なわなかったが、やっぱり見分け易いという意見が大半で採用に至ったようであった。

実際の試合で選手がそんなグローブの色で有利不利があるかと言えば、色の好み自体はあるだろうが、ほとんどの選手が気にしない、意識しないのだろう。

1990年代までは赤vs赤が主流

最近、リングサイド関係者の意見を10数名に聞いて見たが、「観客や審判団が見てもグローブの色が違うと両者を見分け易いと思う。」と語り、反対意見は一人も居なかった。

選手側の意見では、「最近のWOWOWエキサイトマッチを見ると試合は勿論ですが、グローブの色とメーカーをチェックしてしまいます。」といった声や、「相手の動きを見て戦うので、試合中にグローブの色は意識したことはないですが、タイの先輩トレーナーが、黒のグローブはパンチが見え難いという意見を聞いたことがあります。」といった声を聞くことができた。

これは世界的にも定着し、ムエタイに於いても定着してきた色分けシステムである。
大方の意見も試合に与える不利な影響は無いと考えられるが、さすがに白と黒の振り分けは明暗差が大き過ぎるので止めた方がいいかもしれないとは思う。

◆違和感持つ選手、プロモーターもいる

それでも業界の中には色の影響を察する選手やプロモーターも居たのも事実である。派手な色と地味な色のグローブが同等の強さとヒット数があった場合、審判(副審)から見て派手な色に意識が働くのではないか。それは見た目の判断より、潜在意識からくる錯覚。

また照明やリングマットの色によってグローブの色にも心理的に影響するのではないかといった総合的な不平等性を鑑み、グローブの紐を縛る手首部分に赤と青のテープで振り分ける対処をする団体やプロモーターが現れた。

ある総合格闘技系の試合で、両者同意の下、2色の好きな方のグローブを選べるルールの試合では、色彩による影響を考える選手は「青いマットのリングでは青のグローブを選ぶ。」という選手が居た。対戦相手から見れば多少でも見難くなる心理作戦であった。

現在の主流、両陣営コーナー色
現在、NJKF興行で採用されている赤と青はDONKAIDEE製
黄金色もあるWinning社製(画像提供:TEAM KOK代表 大嶋剛)

◆全身カラフルな時代

昔はトランクスの色を義務付け両者が振り分けられていた。しっかり徹底されていた訳ではないが、赤コーナーは赤系統と白、青コーナーは青系統と黒。しかし、トランクスも選手の希望するデザインが流行りだしたことで、次第に強制し難くなり、グローブの色分けは止むを得ないと改訂されてきたことも否めない。

昔は名前が売れていない前座の新人選手に対し、「赤パンツ頑張れ、青パンツガード上げろ!」といった声援もあったものだ。今や名前の縫い取り部分以外は赤地や青地、白地や黒地一色のトランクスが懐かしい。

更には「最近の派手派手なグローブに合わせて御洒落を施したトランクスは、観ている方はテンション上がって楽しい。」という意見もある。

グローブについては品質向上により各メーカーも黄金色、迷彩柄、スポンサーのロゴ入りなどデザイン化され多彩に進化してきた。魅せるファッションも重視されるような時代になったものである。

20年以上前に問題継起(新聞のコラムにも掲載)したこのグローブの色分け問題はより一層不要のものとなってきた。

前回の計量後のリカバリーに於いて、選手にとっていかに体力回復させるかのコンディション調整が一番で、グローブの色など些細なこと過ぎてどうでもいい話だろう。遠めの観客席から見ても分かりやすく、テレビ映りも良く、審判団から見ても誤審に繋がらない等の最もな意見で賛成者多数。

キックボクシングにとってもう一つ御洒落に魅せることが出来るものにアンクルサポーターがある(プロボクシングに於いてはボクシングシューズ)。これも派手派手なカラフルな色で登場した選手が居るが、更に髪型も拘ることが出来るアイテムで、今後も茶髪にギンギン色トランクス、ギラギラ色アンクルで登場する選手はいるだろう。戦後のプロボクシングから見れば派手な時代(良く言えば進化)となってしまった。時代の流れとは、ロートルの意見では止められない勢いがあるものなのである。

昔懐かしい昭和のWinning社製グローブ

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

格闘群雄伝〈12〉北沢勝──ドラマーから異色の転向、隠れた素質、気合と根性でチャンピオンへ! 堀田春樹

◆バンドからダイエットへ

北沢勝(1968年10月10日、東京都大田区出身)は26歳でプロデビューし、あまり注目される存在ではなかったが、頑丈な体格とバンド時代からの得意技の気合と根性で日本ウェルター級チャンピオンに上り詰めた。

北沢勝は高校時代にコピーバンドを始め、後にSHELL SHOCKというバンドに誘われ、ドラマー担当をした。卒業後もアルバイトしながらスタジオでレコーディング。ライブをして全国をツアーするという生活だった。

「ライブが終わったら飲み会。そんな生活をしていたら太り始めて80kg超え。何かダイエットしなくてはと思いました。」という北沢は元々プロレスファンで、当時UWFに夢中だったが、テレビで安生洋二と対戦するチャンプア・ギアッソンリットのミット蹴りを見た衝撃でムエタイこそが最強と確信し、これがキックボクシングを始める切っ掛けとなった。

SHELL SHOCKのリリースされたCDの一枚、いちばん右側が北沢勝(提供:北沢勝)

◆ムエタイから学ぶ

1993年4月、ダイエットにはキックボクシングをと、家から近くのジムを探すと目黒ジムが見つかったが、そこは名門といった歴史は知らないまま入門。

それまでスポーツというスポーツはやったことは無かったという北沢は腹筋が割れるほどの筋肉質のダイエットに成功。こうなると目指すはプロデビュー。チャンプアの蹴りの影響から始まった本場ムエタイの体験を希望すると、先輩に勧められるがまま翌年2月、バンコクのソー・ケーッタリンチャンジム(後々ゲーオサムリットジムへ移行)での修行に向かった。バンドは我儘を言って辞めた後だったが、辞めた以上は強くならねば恰好がつかない追い詰められた立場でもあった。

渡タイ目的の一つはムエタイ観戦だった。週に三日は夕方の練習が終わると一人でスタジアムに向かって、出来る限り間近で一流の試合を観て、技を真似て練習で実践して、またそこで一流のトレーナーに修正してくれたことが後々役立っていった。

1994年11月25日、ライト級でデビューすると10戦目に日本ライト級1位の今井武士(治政館)に判定負けするまでは、一つの引分けを挟み8連勝(3KO)。26歳でデビューは年齢的には遅いデビューだが、ランキング上昇は努力と研究の賜物。身体が頑丈でコツコツ頑張る気持ちのある努力型という周囲の見方が多かった。

デビュー1ヶ月前のタイでの練習(1994年10月17日)
伊東マサル戦に備えた目黒ジムでの練習(1996年1月24日)
伊東マサル(トーエル)戦は判定勝ち(1996年2月9日)

1998年8月には元・ラジャダムナンスタジアム・ウェルター級チャンピオンだった第一線級から離れて間もないパヤックレック・ユッタキットと68.0kg契約で対戦の話が舞い込んだ。人生最大の危機……いやチャンス。これを逃せば悔いが残ると思うと断る理由は無かった。結果は重い蹴りを受け続けた判定負け。無事生きて帰れたと安堵するが、下がらぬ戦いに周囲の評価は高い。

北沢は身長が170センチには至らず、周囲から「ライト級でも低い方!」と言われたり、体格を活かす為にも1998年末まではライト級登録のままリミット超えの契約ウェイトで頑張ったが、鷹山真吾(尚武会)との日本ライト級挑戦者決定戦は、走っても利尿剤を使っても体重はリミットまで落ちず、ウェイトオーバーという屈辱的な失態は残酷な展開で判定負け。

後日、偶然前回対戦のパヤックレックと会うと、「アナタ、私と試合したのに何、この前の酷い試合は! 今後はウェルター級でやりなさい!」とダメ出しされ即答で承知。小野寺力先輩方にも諭されていたが、「後々思えば無理してライト級でなくてもよかった。ムエタイボクサーにもいろいろなタイプが居た。そこから背が低くてもその戦い方があるのだ」と悟った。「スーパーライト級があればいいのにね。」という声にも「ウェルター級では俺が一番強いからスーパーライト級なんて必要ないですよ。」と笑って返していた。

武田幸三から健闘を称え合う笑顔(2000年1月23日)
武田幸三(治政館)戦、アッパーが鼻をかすめる、棒立ちで次に繋げない(2000年1月23日)

◆チャンピオンへ上り詰める

北沢勝はウェルター級に上げ、適正階級となると3連勝し、2000年1月23日、日本ウェルター級タイトルマッチに挑んだ。チャンピオンはタイ・ラジャダムナンスタジアム王座に挑む前の武田幸三(治政館)。「武田を倒せばラジャダムナン王座挑戦権は俺のもの!」という図式は成り立たないが、全てを奪いに行く覚悟で挑むも、武田の蹴りは速くて上手かった。武田を苦しめ善戦はしたが「武田には負けると思っていたけど、よく頑張ったな!」と言われるのもそう思われるのも嫌いだった。

「あそこまでの引き出ししか無かった。もっと頭使って技を出していればと思います。アッパー当たっても棒立ち状態で、次に繋げていない。」と反省の弁は多いが、「やっぱり北沢は凄いよ!」という声は多かった。

2002年1月27日、次のチャンピオンとなっていた米田克盛(トーエル)から王座奪取。チャンピオンにはなったが、国内無敵の武田幸三を倒せなかったことが心残りも再戦は叶わなかった。

北沢は新日本キックボクシング協会が年一回行なっていたラジャダムナンスタジアム興行「Fight to MuayThai」にはチャンピオンとして2回出場。

2002年のラジャダムナンスタジアム初出場の際には「ビデオで見てた計量のシーンとかに自分が居る。感慨深いという言葉では表せないような舞い上がりでした。」という大舞台に立つ感想。

更に「相手のフェートサヤームはゴツゴツした腹筋は無く、三流のタイ人を連れて来たなと思っていたら、ゴングが鳴った瞬間に貰った蹴り、パンチのあまりの重さにイヤな予感がした瞬間にヒジ打ちを貰って流血。日本人観戦ツアーもいる中、もう死ねるもんなら死にたい、でもその前にお前を殺す。と立ち向かったタフネスさで、最後はフェートサヤームが諦めるように倒れ込んでKO勝ちはしたけど、誰が一番強かったかと言われたら、武田幸三でもパヤックレックでもなくフェートサヤームでした!」というラジャダムナンスタジアム初出場の感想だった。

[左写真]米田克盛(トーエル)から王座奪取(2002年1月27日)/[右写真]初のチャンピオンベルトを巻いた北沢勝(2002年1月27日)
庵谷鷹志(伊原)をKOし初防衛(2003年1月26日)

2003年1月26日、北沢は庵谷鷹志(伊原)にKO勝利で初防衛後、ヒジ関節を手術する時期はあったが、リハビリも順調に進み、ブランクを空けるつもりもなく試合出場の準備は整えていたが、出場停止でもないのに試合が組まれない時期が9ヶ月続いた。その間にランキング1位の米田克盛がムエタイ王座挑戦となれば、やりきれない気持ちになるのも当然だった。ブランク明けの外智博(治政館)とのノンタイトル戦は凡戦の引分け、2年目「Fight to MuayThai」は判定負け。翌2004年1月25日には米田克盛に判定負けで王座を奪回されてしまう。

最終試合が2004年5月8日、阿佐見義文(治政館)戦は1ラウンドKO負けで、不甲斐ない試合が続くに至ったと悟り、リングを去る決意をした。

◆ジム経営を任せられる

引退後は小野寺力氏のRIKIXジムや現役時代にお世話になったジムでトレーナーとしてお手伝いを続けていたが、現役時代のスポンサーで応援団長だった「がぜん」という全国規模の居酒屋チェーン店のオーナーからジム経営を任された。「まさか自分がジム経営なんて!」と戸惑う間もなくジム会長として、ジム名は幾つも候補が却下される中、西岡利晃が対戦したレンドール・ムンローの腹筋が6パック割れより凄いと言われていたことや、タイでは9がラッキーナンバーというこじつけが認可され“ナインパック”に決まり、2011年3月1日、足立区関原の東武伊勢崎線西新井駅から近い地域にオープンとなった。

キックボクシングはチャンピオンになっても生活が成り立たない職業。チケット売りながら将来のことも考えながら暮らしていたら勝てるものも勝てない。そんな苦労を経験した北沢は「毎日お酒を飲んでも腹筋は割れるよ!」という誰でも出来るダイエットや健康増進をモットーに、「プロで教わったパンチや蹴りの効果を教えて、会員さんが試合観ても技の解説できるような楽しめる教え方をしたい。」と語る。現在は会員数が150名ほど。入会が増えたと思っても退会も多かったり、関わってみてわかるが、経営は難しい部分が多いという。

ジムへ務める今はバンドのSHELL SHOCKからも復帰の声も掛かるという。新たな展開が見られるかもしれない北沢勝のバンドの活動にも進展があるならば注目したいものである。

ナインパックジム会長北沢勝 M-150(タイで有名、エナジードリンク)を持つ(2021年1月7日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

太平洋の荒波を行くがごとく、厳しい船出のJKA「CHALLENGER 1」

コロナ禍の緊急事態宣言再発令の中、ジャパンキックボクシング協会(JKA)3年目の新春興行は、元・ラジャダムナンスタジアム・ウェルター級チャンピオンの武田幸三氏がプロモーターとして開催する興行「CHALLENGER 1」

名付けたのも武田幸三氏。この時代の荒波を乗り越えるチャレンジがテーマ。将来的にはこの団体と、更に業界を支える一人となっていくであろう武田幸三氏です。

WMOインターナショナル王座は昨年11月22日、フェザー級王座決定戦で、瀧澤博人(ビクトリー)がジョムラウィー・レフィナスジムに僅差の判定勝利で王座獲得。今回はスーパーバンタム級で王座決定戦となり、馬渡亮太が倒せぬ消化不良も判定勝利で王座獲得。

この日、芸人レイザーラモンHGがいつものコスチュームで、セレモニーでの司会を務められた。オープニング宣言では素顔とスーツ姿でリングに立ったが、全く気付かない観衆。パフォーマンスでは武田幸三氏との絡みで、さすがにプロのトークをしっかり見せてくれました。

レイザーラモンHG御登場、武田幸三と“フォー”

◎CHALLENGER 1 / 1月10日(日)後楽園ホール 18:00~20:40
主催:治政館ジム / 認定:ジャパンキックボクシング協会(JKA)、WMO

◆第7試合 WMOインターナショナル・スーパーバンタム級王座決定戦 5回戦

馬渡亮太(前・JKAバンタム級C/治政館/55.2kg)
    vs
クン・ナムイサン・ショウブカイ(元・MAXムエタイ55kg級C/タイ/55.34kg)
勝者:馬渡亮太 / 判定3-0
主審:チャンデー・ソー・パランタレー
副審:椎名49-48. アラビアン長谷川49-48. シンカーオ49-47
立会人:ナタポン・ナクシン(タイ)

馬渡亮太のタイミングいい左ハイキックでクン・ナムイサンの前進を止める

馬渡は様子見でハイキック、ヒザ蹴り、前蹴り等の鋭いけん制が引き立つ。クン・ナムイサンもテクニシャンで負けず劣らず応戦するが、馬渡のヒザ蹴りが徐々に効いてくると、第3ラウンド終了時には呼吸が荒い様子。

強気な様子は伺えるが次第にスタミナ切れ、最終ラウンドには馬渡の前蹴りをボディーに貰うと嫌な顔をして、間を取る横を向く素振り。それはレフェリーが認めていないが馬渡も遠慮気味に攻めない。

そんな前蹴りヒットによるダメージ誤魔化しが二度あったが、その後は距離をとったまま流して終わるようなムエタイの慣習をやってしまうと、観衆人数制限ある少ない観客からでも野次が飛ぶ。馬渡優勢の展開ではあったが、不完全燃焼の念が残る結末となってしまった。

馬渡は試合後、「もっと強くなって、次は倒せる選手になって帰ってきます」と語った。

馬渡亮太の左ハイキックが巻き付くようにクン・ナムイサンの首を捕える
新たなチャンピオンベルトを巻いた馬渡亮太、更なる上位を目指す
モトヤスックの右ミドルキックで野津良太を突き放す

◆第6試合 ウェルター級3回戦

JKAウェルター級チャンピオン.モトヤスック(治政館/66.6kg)
    vs
NJKFウェルター級2位.野津良太(E.S.G/66.3kg)
勝者:モトヤスック / TKO 2R 2:36 / カウント中のレフェリーストップ
主審:少白竜

上背で上回るモトヤスックに野津良太は距離を縮めてパンチ、ヒジ打ち、蹴りで積極的に攻める。モトヤスックのスピードある蹴りが野津の脇腹にヒットすると赤く腫れだす。首相撲になればモトヤスックが圧し掛かるような技が優る。

第2ラウンドには右ストレートをヒットさせると一気にコーナーに詰めて連打するとほぼロープダウンの形でカウントを取られ、足下定まらない野津をレフェリーが止めた。

モトヤスックは全試合終了後にはこの日のMVPとなるの武田幸三賞が贈られた。

モトヤスックの右ストレートから連打に繋いで仕留める
この日のMVPはモトヤスック、武田幸三賞が贈呈された

◆第5試合 バンタム級3回戦

JKAフライ級チャンピオン.石川直樹(治政館/53.2kg)
    vs
ジョムラウィー・ブレイブムエタイジム(タイ/53.0kg)
引分け 0-0
主審:椎名利一 / 副審:松田29-29. 仲29-29. 少白竜29-29

やや距離ある中でのローキック、前蹴り、パンチの攻防。石川にとって得意の首相撲には持ち込めない展開。互いの攻めは強烈なヒットは無いまま進むが、ジョムラウィーの蹴りの駆け引きがやや優る攻勢。石川はやや不利に進むも最終ラウンドには石川がパンチで攻めた積極性がやや有利に動いたか引分けに終わった。

(ジョムラウィーはレフィナスジムからブレイブムエタイジムに変更されています。)

ジョムラウィーを掴まえきれなかった石川直樹、パンチで攻勢をかけた

◆第4試合 70.0kg契約3回戦

JKAミドル級1位.光成(ROCK ON/69.5kg)vs JKAウェルター級1位.政斗(治政館/69.5kg)
勝者:政斗 / 判定0-3
主審:桜井一秀
副審:椎名28-30. 仲28-30. 少白竜 29-30

光成は手数は少なめ。圧力をかけ前進するのは政斗。強いヒットは無いまま進むが、最終ラウンド終盤、組み合ったところで政斗のヒジ打ちがヒットし光成の額が切れ、攻勢を保った政斗が判定勝利。

光成vs 政斗。政斗のヒジ打ちが光成にヒット

◆第3試合 バンタム級3回戦

義由亜JSK(治政館/53.0kg)vs 景悟(LEGEND/52.9kg)
勝者:景悟 / 判定0-3
主審:松田利彦
副審:椎名27-29. 桜井28-30. 少白竜28-29

景悟は新鋭ながら昨年10月に元・日本フライ級チャンピオン.泰史(伊原)と引分ける実力を見せている。両者の攻防は幼い頃から始めたアマチュア(ジュニアキック)の技が冴え、最終ラウンドに景悟が右のパンチでノックダウンを奪い、残り時間少ないところで再度のパンチで義由亜JSKの腰が落ちかけるもそのまま終了に至り景悟の判定勝利。

義由亜JSK vs 景悟。景悟の高く上がる脚、ハイキックで義由亜を攻める

◆第2試合 フライ級3回戦

空明(治政館/50.5kg)vs 吏亜夢(ZERO/50.4kg)
勝者:吏亜夢=リアム / KO 2R 2:50 / テンカウント
主審:仲俊光

◆第1試合 55.0kg契約3回戦

樹(治政館/54.0kg)vs 猪野晃生(ZEEK/54.5kg)
勝者:樹 / TKO 1R 2:00 / カウント中のレフェリーストップ
主審:椎名利一

※55.0kg契約3回戦  西原茉生(チームチトク)vs 中島大翔(GET OVER)は西原茉生の練習中の右手骨折の負傷により中止

《取材戦記》

大会場でテレビ生中継されるビッグイベントと違い、こじんまりした昔ながらの後楽園ホール興行。これはこれで昭和の雰囲気があっていいものです。新春興行としては寂しい内容でしたが、コロナ禍では仕方無いところでもあります。

手に痛々しい包帯が巻かれた負傷欠場した選手に対し、「俺は試合三日前にスパーリングで右拳骨折したけど試合に出たぞ!」と言った某レフェリー。昭和の時代は会長が「そんなもんで休むんじゃねえ!俺らの頃は……!」とまた更に前の時代を引き出して厳しいこと言われたらしい。「今時の若いモンは!」とはこの業界でも言い伝えられていくようです。

義由亜JSK(治政館)にノックダウンを奪って判定勝利した景悟(LEGEND)は17歳で、5戦4勝(1KO)1分となった。両者は将来タイトルマッチに絡んでくる期待される存在と言われている。楽しそうに戦っている雰囲気があった景悟は今後どんな成長を見せるか。「今時の若いモンは!」と言われない成長を魅せて貰いたい。

アルコールと次亜塩素酸水によるリング上の消毒が1試合ごとに行われました。これはコロナウィルス対策だけでなく、毎度の興行、試合ごとにやればいいのではと思います。

昔、1990年代前半頃、リングスかUWFだったか、1試合ごとに若手レスラー2名がリング上を拭いていたのを見たことありますが、以前からリング上は土足で上がる関係者がほとんどで、出血した選手の血が落ちている場合もあります。ノックダウンした選手はマットに倒れ込み、マウスピースは落とすと、プロボクシングでは一旦洗われてから口に戻されますが、キックでは以前どおり、その場でレフェリーが拾って口に戻す場合が多く、衛生的には良くないものでした。このコロナ禍を期に毎回行えばいいなと思うところであります。

次回、ジャパンキックボクシング協会興行は3月28日(日)に新宿フェースで開催予定です。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他

リング上でタトゥー露出はタブーか? キックボクシング界の入れ墨ルール

◆大晦日の井岡一翔の“タトゥー”をきっかけに

大晦日のWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで、井岡一翔の左腕と脇腹に見られた“タトゥー”について賛否両論の意見が交わされました(刺青、入れ墨、タトゥーは慣習的には示すものが違うかもしれませんが、ほぼ同じ意味らしいです)。

日本ボクシングコミッションルールの欠格事由に「入れ墨など観客に不快の念を与える風体の者」は試合に出場できないというルールがありますが、ファンデーション等で隠すなど表面から一時的にも消す場合は出場許可される場合が多いようです。

入れ墨をドーランで隠す配慮ある石川直樹(2020年1月5日)
大月晴選手は胸に小さな☆マーク。可愛いもんである(2019年4月13日)

こういうルールがあること、賛否を議論されることは、それだけメジャーな競技である証明でもあり、更に細分化した部分で問題が起きているのが今回の入れ墨問題。その入れ墨はどこで線引きをするかは難しい問題でもあります。

以下、4つに分けると、

(1)どんな小さな入れ墨でもダメ。
(2)全身大部分の入れ墨や暴力団組員を表すもの、それを連想させるものでなければOK。
(3)身体の一部分で、デザイン化した絵柄、お守り的意味合いならOK。
(4)海外はOKなんだから日本も海外に合わせないと時代遅れ、どんな入れ墨もOK。

ルール的に(1)~(4)のどこで線引きするかとなると“ちょっとならOK”としたら、その線引きが難しくなります。

“大晦日の井岡一翔の場合まではOK”となる線引きするとしたら、その境界線で「井岡のより小さいのにダメなの?」や、「井岡のより大きくてガラ悪いのにOKになった!」といった損する選手、得する選手が出てくる僅差の判定に起こりがちの不可解感が生まれ、抗議殺到の可能性が高いでしょう。だから今は、従来通りのルールでいくしかないプロボクシング。それでも寛大に、ファンデーションで隠すならOKとされているのでしょう。

年代や育った環境にもよるので、意見が纏まらずに落としどころが難しい問題です。

一方で「ボクシングを健全な競技、スポーツとするのであれば、入れ墨は小さくてもダメ。“テレビに出る=世間一般への影響力”を考慮しなければならない。」という意見や、「日本では昔から“入れ墨=反社会勢力”という印象が強過ぎるせいで、未だに良くないという印象が根強く、ヒーロー的な選手が入れ墨を彫ると、それに憧れる子供が真似をする影響からダメ。」等の意見もあるのも事実。また、「皮膚移植して入れ墨を消してでもやりたいボクシング。」という選手も居た魅力あるスポーツでもあるのです。

JBCの入れ墨に関わるルールを変えたいなら、それなりの署名運動や嘆願書など諸々の手続きを取ればいいところ、井岡一翔の行動で問題提起の良いきっかけにはなったことでしょう。

弾正勝vsロッキー武蔵。昔のキックボクサーはサポーターで入れ墨を隠した(1985年3月16日)

◆キックボクシングでは入れ墨OK?

マイナー競技としての年月を経たキックボクシングは、創生期からルールが大雑把なため、テレビ局から対応を求められる以外は規制が緩い部分が多い。

昔のキックボクシングでは腕や太腿に入れ墨していた選手がサポーターを着けて試合出場していた選手がいました。腕や脚をダメージから保護してしまう不平等性があるのではないかという意見もありながら、細かいことの規制はありませんでした。

TBSテレビ放映時代の日本ヘビー級チャンピオン,ジミー・ジョンソン(横須賀中央)は横須賀米軍基地勤務からアメリカへ帰り、再び日本のリングに立った時は、腕から胸に厳つい入れ墨が大きく彫ってあったものでしたが、これも何も問題にならない昭和の時代でした。

現在も入れ墨がある選手が試合出場していますが、団体やフリーのプロモーター興行によってルールや出場条件はやや違いがあるようで、全身に近い彫りものでも隠さず出場したり、ある程度はファンデーションで隠す配慮をする選手やジムの意向、団体の規律がある興行も存在します。

もう入れ墨には慣れっ子になってしまった我々以下の世代。何といっても普段は一般人らしく礼儀正しく振舞う選手が多く、反社会勢力的存在ではないことは分かります。しかし、初めてキックボクシングを観たという一般人からは怖く見えるものということを考慮した方がいいかもしれません。

首にかけて阿涅塞と彫ってあるような字はイタリアのオリビア・ロベルト(2020年2月16日)
左腕も厳つい絵柄のオリビア・ロベルト。海外では珍しくない入れ墨である(2020年2月16日)

◆タイの国技・ムエタイでは

ムエタイが国技のタイ国では、昔からサックヤーン(タイ仏教が関連する伝統タトゥー)が普通にありますが、やはり一般的に中流以上のタイ人は入れ墨はしておらず、身体に彫るのはやはりチンピラ気質の輩や、ムエタイ選手、トレーナー、運転手、アーティスト、水商売系が多いようです。刑務所に服役する者は、やっぱり厳つい入れ墨が入ってる連中ばかりであるようです。

昔のムエタイジムでも、子供の頃に彫ったのだろうと思える、手の甲や腕にサックヤーンが入っていたのを何人も見たことがありますが、お守りとして彫る文化としては仕方無いものの、日本では教育現場で大問題となるでしょう。

タイのお坊さんも慣習的に入れ墨は多い(2003年3月15日ワット・ポムケーウ)

◆入れ墨問題の今後

キックボクシングは今後、統括する組織が出来上がる時代が来れば、入れ墨問題も提起されることでしょう。今でも「ボクシングが入れ墨ダメなんだからキックボクシングでもダメだろう」と思っている選手も居るらしい。

競技は別物でも、他競技にも影響を与える歴史と伝統あるプロボクシングは、あらゆるルールやシステムがキックボクシング界に真似されてきた経緯があり、お手本となる存在でもあるのです。今回の“井岡一翔のタトゥー問題”は物議を醸しながら何らかの進展は見られるはずで、他人事ながらそこはしっかり見守って、いずれキックボクシング界でも活かして欲しいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

月刊『紙の爆弾』2021年2月号 日本のための7つの「正論」他