会場には、若き頃と最近の佐野さんの遺影が掲げられた

佐野茂樹という古い伝説的な革命家が亡くなり、偲ぶ会(3月22日)に出席してきました。会場は京都・キエフで、ここは歌手・加藤登紀子さんの実家が経営され、今はお兄さんが社長です。

登紀子さんのお連れ合いは、ご存知、藤本敏夫(元反帝全学連委員長)さんで、寮(同志社大学此春〔ししゅん〕寮)の大先輩です。この方も伝説的な方です(蛇足ながら、藤本さんはここ甲子園出身で、鳴尾高校から同志社の新聞学専攻に進まれました。この界隈出身の著名人としては、芦田愛菜、あいみょんらがいます。そうそう、私に手錠を掛けた神戸地検の宮本健志検事もこのあたりの出身)。

久し振りに本宅的なロシア料理を味わった

キエフは、寮関係の集まりや、同志社関係の集まりにもよく使われてきました。私のいた寮の学生も、藤本さんや、藤本さんの片腕で店長を務めていた寮の先輩の村上正和さんの縁で、よくアルバイトしていました。

佐野さんは、60年安保闘争で国会前で亡くなった樺(かんば)美智子さんと、神戸高校の同級生とのこと、佐野さんは京大、樺さんは東大(1浪して1957年入学)ですが、共に新左翼の始まりといわれる「ブント」を起ち上げたメンバーです。

1956年に京大入学ということで、すぐに学生運動に飛び込み、60年安保闘争の際の全学連主流派、これを支えたブントの幹部として歴史的な闘いの先頭に立ちます。佐野さんは58年には全学連副委員長に就き、樺さんは東大文学部学友会副委員長という要職にありました。

佐野さんの著書『帝国主義を攻囲せよ!』

樺さんが佐野さんに淡い恋心を抱いていたということは、当時のブントのトップ・島成郎(故人。精神科医。沖縄に渡り離島医療の先駆け)さんの著書にも記され、“公然の秘密”のようでした。この世代の方々が、ずいぶん出席されていました。

その後、ブント再建(第2次ブント)で議長に就任、60年代後半の学園闘争、70年安保―沖縄闘争を指導しました。

第2次ブントは、70年を前に分裂するのですが、京都では、同志社、京大を中心に、いわば“赤ヘルノンセクト”の学生運動は健在で、私たち同志社大学全学闘は京大C戦線(レーニン研。70年末に結成)と共闘し、「全京都学生連合会」(京学連)の旗の下、70年代初頭の沖縄―三里塚―学費闘争を闘いました。

数としては同大8、京大1、その他1という按配でした。人数としては同大が圧倒的に多かったのですが、京大は、まさに少数精鋭で、リーダーの吉国恒夫(故人。専修大学教授)さん、行動隊長にしてオルガナイザーの片岡卓三(現在医者)さんを中心に、理論的にも他の追随を許しませんでした。同大には卓越した理論家はいなくて(苦笑)、C戦線の機関誌から“密輸入”したりしていました。

同じく『佐藤政府を倒せ!』

吉国さんは、矢谷暢一郎さんと共に68年御堂筋突破デモを指導し共に逮捕・起訴されています(当時裁判官として、この判決文〔かなりの寛刑!〕を書かれた方で現在弁護士のA先生が、今、カウンターメンバーとの裁判で当社の代理人として神原元弁護士と一戦を交えています)。

このC戦線をバックで支えたのが佐野さんで、C戦線こそがブント解体後の学生運動や革命運動の未来を担うと考えられていた、と思います。吉国さんや片岡さん、他のメンバーらと交流し私もそう感じました。『帝国主義を攻囲せよ!』とか『佐藤政府を倒せ!』など佐野さんの著書やパンフレットも一知半解ながら熟読しました。

ところで、この通信をご覧の方には馴染み深い「カウンター大学院生リンチ事件」の被害者M君の父親がC戦線の当時のメンバーだということをM君から聞いていたのですが、複数の証言を得ることはできませんでしたので、確証がありませんでした。

その集会の呼びかけ人を務められた片岡卓三さんの号令一下、当時のC戦線のメンバーが数多く出席されていました。大体私と同じ70年入学でした。

樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑えまん』(三一新書)。われわれの世代の必読書だった

彼らにたずねると、みなさんM君の父親をご存知でした。「私たちはリンチされた息子の救済と支援活動をやって来た」と言うと、みなさん驚いていました。

C戦線(レーニン研)は、毛派(中国派)のグループと合体し全国党派を目指しマルクス主義青年同盟(マル青同)を結成しますが、これはあえなく崩壊します。片岡さんらは、この過程で離脱し、結成後すぐに内部抗争が起き、トップの吉国さんは「死刑宣告」を受け放逐されます(彼はその後、矢谷さん同様日本を離れ、アメリカ西海岸やジンバブエの大学に入学し、日本のジンバブエ研究の第一人者になります)。

他のメンバーも離脱し、各々の人生を歩み始めます。しかし、そこは“腐っても京大”、私たちと一緒に同大学費決戦で逮捕・起訴され、一念発起して一級建築士になったB君同様、弁護士になったりしています。組織が解体して司法試験を目指したCさんは、たった1科目しか取得しておらず再入学し30歳になって司法試験に合格、今は弁護士になっておられます。

また、もう一人のD弁護士は、15年前の私の逮捕事件で「憲法21条に則った、公正で慎重な審理を求める署名」に賛同人として署名をしてくれていました。あらためてお礼を申し上げました。

それにしても、まさか私たちが支援したリンチ被害者M君の父親が、学生時代に共闘していたとはビックリ仰天でした!

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(1/3)

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(2/3)

60年安保闘争の激闘と樺さんの死を報じる『全学連通信』1960年6月25日号(3/3)

Amazon https://www.amazon.co.jp/dp/B07CXC368T/
鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

1970年代初頭の京都の学生運動を記録した『遙かなる一九七〇年代‐京都~学生運動解体期の物語と記憶』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

前回の記述を行う中で、忘却の彼方にあった記憶が甦ってきました。なにしろ50年近く前のことなので、忘れていたことが多々ありました。

72年2月1日の学費決戦に至る過程は、71年初頭からの三里塚-沖縄闘争との連関と無縁ではありません。  

71年三里塚―沖縄闘争(『季節』6号より)

三里塚第一次強制収容阻止闘争には、いわば代表派遣で数人を送り出すにとどまりました。「これじゃいかん」と本格的に関わることにし現闘団を常駐させることを決め、来る第二次強制収容に備えることになりました。同志社大学全学闘だけでなく京大などにも呼びかけ、取香の大木(小泉)よねさん宅裏の現闘小屋には、全京都の学生らが数多く集いました。ノンセクト学生の受け皿にもなりました。  

『われわれの革命』表紙

そうして5月17日に三里塚連帯集会を、今はなき学生会館ホールで開き東大全共闘議長・山本義隆さんを招き講演していただきました(講演内容は「同志社学生新聞」に掲載後、『季節』6号に再録されています)。

以後の運動の過程は、『われわれの革命――71~72年同大学費闘争ー2.1決戦統一被告団冒頭陳述集』(75年2月1日発行)というパンフレットのために作成した年表に詳しくまとめました。年表記述含め、パンフレットの編集は大学を離れる直前に私が編集し発行されたものです。

前回に71年全般の運動について概略を記述しましたが、いくつか付け加えておきます。

9月の三里塚闘争で、腰まで沼につかって逃げ逮捕を免れたことを前回述べましたが、沖縄闘争でも「アカン!」と思ったことがありました。

6月15日、曲がりなりにも統一集会を行っていた全国全共闘が、中核派(第四インターも)を中心とする「奪還」派と、反帝学評(社青同解放派)、フロント、ブント戦旗派などの「返還粉砕」派に分裂します。

71年6・17沖縄返還協定阻止闘争(「戦旗派コレクション」より)

「返還粉砕」派は6月17日に宮下公園で集会を開きましたので「宮下派」とも呼ばれましたが、私たちはこちらに参加しました。私は三里塚から参加しましたが、機動隊による弾圧は厳しく、なぜかブント戦旗派の部隊と共に行き止まりの路地に押し込められ逮捕されるかと観念したところ、なぜか背後から火炎瓶が何本も投げられ、戦旗派の指揮者の「同大全学闘諸君と共にここを突破したいと思います」とのアジテーションで戦旗派と共に突破し逮捕を免れました。「戦旗派コレクション」というサイトにアップされている写真は、おそらくその時のものだと察します。 

沖縄闘争では、5・19沖縄全島ゼネスト連帯京都祇園石段下武装制圧闘争で、最先頭で機動隊に突撃した全学闘争は14名も逮捕されていますが(全員不起訴)、私は、その前に情宣中にゲバ民に襲撃され病院送りになり退院したばかりで、部隊に入らず逮捕を免れました(苦笑)。

さて、学費闘争に話を戻しましょう。──

11・11の団交は、心ある職員からのリークで10月30日に極秘に理事会が行われることを察知し、その場に乗り込み、団交の確約を取ったことで開催されたのです。このことは、すっかり忘れていました。『われわれの革命』掲載の年表を見て思い出した次第です。

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

「71~72年同大学費闘争の軌跡」(『われわれの革命』より)

ところで、11月17日に第2回目の団交を確約しつつも、大学当局は約束を反故にし逃亡しました。以後の会議等はホテルで行ったといわれますが、私たちは、抗議の意味で学生部と有終館(文化財で大学首脳が勤務していました)を実力で占拠しました(72年1月13日まで)。翌18日には学友会中央委員会で23日までの期限付き全学ストを決議しました。

一部学友会は、それまでも学生大会で決議したりして期限付きのバリストをたびたび行い、学生の学費値上げ阻止の機運を盛り上げて来ていました。二部も、廃部の噂があり(実際に廃部されています)、無期限ストに突入し、神学部も独自にストに突入していました。二部や神学部は、独自の事情もあり、一部学友会(5学部自治会+学術団、文連などサークル団体、体育会、応援団で構成。当時は5学部でしたが、現在は学部が増えています。当時は文学部内にあった社会学科は社会学部になっています)とは別個に動いていましたが、敵対しているわけではなく、共同歩調を取っていました。神学部の長老のKKさんは11・11団交でも活躍されました。

当局は、逃亡を続け、遂に12月3日、なんと熱海で評議会・理事会を開き学費値上げを正式決定します。「なんだよ、逃亡の挙句、温泉に入って値上げ決定かよ」というのが私たちの率直な気持ちでした。

そうして、当局の逃亡と学費値上げ正式決定によって、私たちは越冬闘争に入っていくわけですが、そんな中もたられたのは、同志社では登場できなくて関西大学のストを指導していた中核派の正田三郎さんら2人が深夜革マル派によって襲撃され殺されるという事件が起きました。いつもなら中核派の立看はすぐに撤去されるのですが、この時は、さすがに私たちも、主張が対立するからといって壊すこともせず、師走の木枯らし吹きすさぶ中、長期間立てられていたことを想起します。中核派はこれ以後、革マル派を「カクマル」とカタカナで呼ぶようになります。革マル派とは「革命的マルクス主義派」の略ですが、「革命的」の「革」などおこがましいということでしょうか。70年の法政大学での革マル派東京教育大生死亡以降、71年には中核vs革マル派間の内ゲバによる死亡者は出ていなかったと思いますが、再び起きてしまい、以降内ゲバによる死者が続いていきます。

正月を挟んで、短期間の帰省もほどほどに再び京都に戻り、来るべき決戦に備えました。以前に明治大学では当局とのボス交で運動の盛り上がりを終息させたという負の歴史がありました。逆に中央大学では学費値上げ白紙撤回を勝ち取っています。私たちは、これら、かつての学費闘争から学び(特に中央大学の闘争)、明治大学のようなボス交や、いつのまにか振り上げたこぶしをおろした早稲田のようなアリバイ的な闘争を断固拒否し、一歩も退かず徹底抗戦することを意志統一しました。

まずは学友の意志や支持を確認するために1月13日、数々の大きなイベントをやった歴史を持つ学生会館ホールにて全学学生大会を開き、「学費値上げ阻止!無期限ストライキ突入!」を決議しました。記録では、出席2千余名、委任状4千700名を集めたとなっています。あの時の熱気は忘れられません。私も最後に決意表明しました。ジェーン・フォンダの講演を1回生の時にこの学館ホールで聴いたな。全学連大会、小田実さんや山本義隆さんの講演など、このホールは、多くの歴史的なイベントを見てきています。

「賽は投げられた!」── もう後には引けません。

毎日毎日、学友会ボックスにて闘う意志を確認しました。1月25日には、やはり学館ホールで学費値上げ阻止全関西集会を開き600名が結集し、全関西から駆けつけた他大学の学友が決戦直前の同志社の学費闘争への支援を鮮明にしてくれました。
連日の闘う意志を確認する過程で、中心的な活動家の中から突撃隊を選抜し、私たち4人が、今出川キャンパス中央にある明徳館の屋上に砦をこしらえ、〈革命的敗北主義〉による「学費値上げ阻止!」の不退転の決意を示すために立て籠もることになりました。他にも突撃隊、行動隊などをジャイアンツ、タイガース、ドラゴンズに分け組織し固めました。

入学試験を目前とした2月1日、機動隊導入-封鎖解除となりました。私たち4人は退路を断ち砦に立て籠もり、早朝の京都市内に向けてマイクのボリュームを最大にしアジテーションを行いました。アジテーターは私の担当でした。

2・1封鎖解除を報じる京都新聞(同日夕刊)

2・1明徳館砦で必死の抵抗も逮捕

さすがに歴戦練磨の機動隊、バリケードは、あっけなく解除されました。どうするか迷いましたが、コンクリートで固めなかったことが致命的でした。あと一時間もったら、支援の学友がもっと集まったと思いますが、それでも300名ほどの学友が学館中庭に結集したそうで(私は逮捕されて直接見ていませんので人数は後からの報告です。判決文では180名)、バリケード奪還に向けて丸太部隊を先頭に今出川キャンパスへ出撃しました。

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

2・1明徳館砦の闘いに呼応した学館前での激闘

1972年2月1日の闘い、私たちが「2・1学費決戦」と呼ぶ闘いは、意外と知られていませんが、前にも後にも、同志社大学では最大の闘いでした。これだけ逮捕者を出した闘いはありません。69年の封鎖解除でも、徹底抗戦をしませんでした(すでに同志社のブントが分裂、解体していて徹底抗戦などできなかったようです)。

120数名検挙、43名逮捕、10名起訴……大弾圧でしたが、私たちは、日和ることなく、学費値上げ反対の意志表示を貫徹することができました。私たちは〈革命的敗北主義〉の精神を貫徹することによって、後に続くことを願いましたが、その願望は挫かれました。

連合赤軍事件があったり、内ゲバが激しくなったりして、それまで曲がりなりにもあった学生運動へ一般市民や一般学生の理解が失くなりました。時代が変わり政治アパシーも蔓延したり、かつて全国屈指の学生運動の強固な砦だった同志社大学でも、私たちがあれだけ徹底して反対した「田辺町移転」も、小さな反対行動はあったものの、なされてしまいました(京都府綴喜郡田辺町はその後京田辺市になりました)。二部も廃止、結局は学友会解散(それも自主的に!)に至りました。当局や権力による弾圧で潰されたのならまだしも学生みずから解散するなど前代未聞です。先輩らが血を流すことも厭わず闘い死守してきた学生自治の精神をみずから捨て去るとは、バカかとしか言えません。私たちや、先輩方が、学生自治の精神を堅持し必死に守ってきた学友会は今はもうありません。涙が出てきます。世の中は、本当に私たちの望むようにはいかないものです。かつて私たちの精神的場所的拠点だった学生会館も解体され、私たちが〈自由の日々〉を謳歌した場所(トポス)も今は在りません。 

「被告団通信(準)」

裁判闘争は大学を離れてからも延々続き、判決は4年9カ月後の1976年11月3日でした。全員が無党派で、かつ運動から離れていたこともあったのか、予想に反し寛刑でした。党派に属し現役の活動家だったら、また違った判決内容になっていたと思料します。

起訴された10人、内訳は明徳館砦組4名と学館前組6名(内1人は京大)で統一被告団を形成し裁判闘争を闘いました。

明徳館砦組懲役3カ月執行猶予1年、学館前組懲役6カ月執行猶予1年、そうして京大のMK君は無罪でした。MK君は、『遙かなる一九七〇年代―京都』の共著者・垣沼真一さんと同じ京大工学部のノンセクト・グループの活動家で黒ヘルメットを被っていましたが、機動隊と衝突した後に黒ヘルを脱いでいたところを、機動隊に逮捕される際赤ヘルを強制的に被らせられたことが決定的になり無罪を勝ち取ることができました。大ニュースであり、大きく報道されて然るべきでところ、判決自体は小さく報じられた記憶はありますが、MK君の無罪判決がどう報じられたか記憶にありません。MK君無罪について裁判所は詳細に記述しています(が、ここではこれにとどめます)。

ペンネーム(山崎健)で書いた私の総括文

M君は晴れて無罪となりましたが、だからといって卒業後から無罪判決を得るまで安穏な生活をしていたわけではなかったと聞いています。しかし、さずがに「腐っても鯛」ならぬ“腐っても京大”、彼は努力して一級建築士の資格を取り自前の建築設計事務所を開いたそうです。

有罪の9人の判決文には、「被告人らはいずれも春秋に富む将来のある青年であること…」という古色蒼然とした名文句で結ばれていました。

実は、私はこの判決文を紛失していました。当時の資料を捨てずに、かなり持って「資料の松岡」と揶揄されていましたが(その後、ほとんどをリベラシオン社に寄贈しました)、私にしては珍しいことです。“再会”するのは30数年経った2005年7月12日、神戸地検特別刑事部に逮捕された「名誉毀損」事件での「前科調書」で検察側がこの判決文のコピーを出してきたからです。さすがに日本の権力機構の個人情報管理も侮れません。現在はデジタル化されて、もっと詳細になっていることでしょう。

被告人側、検察側、双方とも控訴せず確定しました。特にMK君無罪(冤罪!)に対して検察側は控訴して然るべきでしょうが、京都地裁の判断に勝てないと考えたのでしょうか控訴しなかったことでMK君の無罪が確定したわけです。

ちなみに、当時、新左翼(反日共系)の弁護は、社会党京都府連委員長でもあった坪野米男先生が京都地裁横で営んでおられた坪野法律事務所が一手に引き受けていましたが、ここに所属し(その後独立)、弁護士になりたての海藤壽夫先生らが本件を引き受けられました。海藤先生は、なんと塩見孝也(元赤軍派議長)さんと京大で同期で、塩見さんは「無二の親友」だとおっしゃっておられました。そんな(つまりだな、塩見さんのようなコワモテの)感じはせず当時から温厚な方でしたが、塩見さんの追悼会で発言され、私も先生にご挨拶しないといけないなと思っていたところ、海藤先生のほうから「頑張っているね」とお声をかけていただきました。
 

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

2・1学費決戦1周年を迎えた際のアジビラ(学友会と被告団)

前編と併せ、すっかり長文になってしまいました。一年に一度ぐらいはご容赦ください。私たちにとって、ますます1970年代は遙か遠くになってきていますが、そろそろ〈総決算〉すべき時期に来ているようです。私にとっては、やはり〈原点〉はそこにありますので。

(付記:『われわれの革命』『被告団通信』、私の総括文はリベラシオン社のサイトの「関西の学生運動」の箇所に全文がアップされていますので、ご関心のある方はご覧になってください。http://0a2b3c.sakura.ne.jp/index.html 他にも貴重な資料満載です)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

2月1日の本通信で述べたように、私には3つの記念日があります。まずは誕生日の1951年9月25日、2つ目は、若かりし学生時代、学費値上げに抗議し最後まで闘い逮捕されたこと(1972年2月1日)、そして時は流れ再度の逮捕(2005年7月12日)です。

ここでは、2つ目の学費値上げ阻止闘争での逮捕について述べてみましょう。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

先に出版した『思い出そう! 一九六八年を!!』 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に記述されているように、日本のみならず世界的に、1960年代後半から70年にかけての時代は、叛乱と変革を求めた時代であったことは、今更言うまでもありません。

70年代は、そうした闘いが一段落し、60年代に比して、さほど評価されません。しかし、はたしてそうでしょうか? 「日本階級闘争の一大転換点」といわれた沖縄「返還」をめぐる闘い、新空港建設をめぐる三里塚闘争を中心として、60年代後半に劣らず盛り上がりました。72年に沖縄が「返還」(併合!)され75年にベトナム戦争が終結するまで闘いは続きました(いや、それ以降も闘いは続きましたが)。

ただ、69年に2人が亡くなった、新左翼内部での内ゲバが、70年代に入り激化し、さらには連合赤軍問題など、暗黒の時代になっていったこともまた事実です。私たちは、この問題も、いわゆる「7・6事件」(ここでは詳しくは述べません。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』収録の拙稿参照)の再検証、さらに、私たちが真相究明と被害者支援に関わった「カウンター大学院生リンチ事件」の解明によって、今後の社会運動内部における負の遺産として止揚していかなければなりません。それが、長い間、末席から学生運動、社会運動を見てきた私に課せられた課題として取り組んできました。

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

1970年に私は同志社大学に入学しました。同志社大学は、60年安保闘争以来、旧左翼(日本共産党)と袂を分かち、ブント(共産主義者同盟〔略称=共産同。下部の学生組織が社会主義学生同盟〔社学同〕)といわれる新左翼党派の一大拠点として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引していました。それが前年の赤軍派の分派で死者をも出し、ブントは解体、関西ブント系ノンセクトの「全学闘争委員会」(全学闘)が残り、いわば「独立社学同」化していました。60年安保闘争後、第一次ブントが解体した中で、大学によっては独立社学同として残ったと聞きますが、10年後の同志社もそうだったといえるでしょう。

当時、日本共産党は京都府知事を擁立し、京都は日本共産党の強固な地盤として在り、御所を挟んでその強力な拠点=立命館大学があり、そこから武装して出撃した日本共産党(あかつき行動隊ともゲバ民とも言われました)からの激しい攻撃に耐えて、学友会/各学部自治会を再建し運動を持続していました。そんな中、今では想像できないほどの多数の学生が頑張っていました。場所的拠点としての学生会館(今はありません!)があり、受け皿としての全学闘/学友会があったからこそですし、一部の先輩方がまとめていました。私見ながら、先輩の一人、KHさんがいなかったら、とっくに日本共産党に取られ、ほとんどの他大学がそうだったように、運動は混乱していたでしょう(運動の混乱は私たちが同大を去ってから訪れたそうですが)。

1970年ということで安保改訂の年でしたが、実質的には前年の大弾圧―大量逮捕で雌雄は決していて、70年はカンパニア闘争に終始しました。この年に、各運動体は、組織の建て直しを図った年だったと思います。

それでも、今では想像できないほどの人たちが学園や街頭で闘いました。12月には沖縄で「コザ暴動」が起き多数の逮捕者や負傷者を出し、沖縄「返還」を前にし翌年の闘いの爆発を予感させました。

そうして1971年、この年は年初から三里塚第一次強制収容阻止闘争で闘いの火蓋が切られ、4~6月沖縄返還協定調印阻止闘争(京都では初めて市内中心部での市街戦となった5・19祇園石段下武装制圧闘争がありました)、7月三里塚1、2番地点攻防戦、9月三里塚第二次強制収容阻止闘争(機動隊3名死亡)、11月沖縄返還協定批准阻止闘争(反戦派女性教師、機動隊それぞれ1名死亡。機動隊員の死亡ばかりが強調されますが、実は反戦派女性教師も死亡しています)と盛り上がっていき、11・19日比谷暴動闘争では中核派全学連委員長に破防法も適用されました(破防法適用は、69年4・28沖縄闘争でブントと中核派に計5名、70年のハイジャックで赤軍派の塩見孝也議長に続くもので、それ以降は発令されていません)。

さらに秋からは全国の私立大学で学費値上げ阻止闘争が盛り上がっていきました。東京の早稲田、関西では(手前味噌ながら)同志社、関西大学などが拠点となりました。関西大学では、革マル派が深夜バリケードに侵入、中核派を襲撃し、同志社の先輩の正田三郎さんら2名が殺されています。正田さんは、真面目な活動家で、同志社キャンパスでたびたび見かけ、この年の4月の入学式での情宣中、日本共産党に共に襲撃されましたので、これにはショックでした。

今から思い返しても闘いの日々でした。60年代後半の先輩らの闘いに負けるな、越えるぞという想いで闘いました。──

三里塚闘争では、現闘団を置き、大木(小泉)よねさん宅裏に現闘小屋を作るところから始めました。現闘小屋の設計を東大の建築科の方が行ってくれたそうで、京都から、同志社だけでなく京大や他大学の学生も含め多くの活動家が参加しました。7月に全学闘(の中の文学部共闘会議〔略称・L共闘)の直接の“上司”だった芝田勝茂(現在児童文学作家。すでにカミングアウトされていますので実名表記します)さんが逮捕され長年の裁判闘争を余儀なくされました。これが、私が9月の第二次強制収容阻止闘争に赴く契機になりました。「先輩が逮捕されたのにオレはなぜ一緒に闘いに行かなかったのか」との強迫観念にさいなまれたからです。

芝田さんは、長年の裁判闘争のために住居も東京に移し働きながら頑張られましたが、以後作家修行に携わると共に、本業の子供とのキャンプ活動に精を出し、定年退職後の今も個人事業として毎年行っておられます。作家業と共にライフワークになったようです。

さて、芝田さんが獄にある中、9月の第二次強制収容阻止闘争に一緒に行ったのは、後に草創期にあったセブン・イレブン・ジャパンに入り、日本のコンビニの礎を築き常務取締役で退社したUMさんでした(現在コンビニは、急発展したことで歪が出ていますが、これはこれとしてUMさんが頑張ったことは事実で評価されてもいいと思います)。UMさんは私同様逮捕を免れ、その後共に学費闘争を闘うことになります。UMさんがどういうふうに逃げたか分かりませんが、私は沼に腰までつかり必死で逃げました。この時、「これに比べれば、どんな闘いもできる!」と思いました。

セブン・イレブンを創った鈴木敏文氏は、かつて日本共産党の活動家だったといわれ、大学卒業後、出版取次大手の東京出版販売(東販。現在のトーハン)に入り組合の委員長として名を馳せました。そんなことで、かつて洋菓子のタカラブネがそうだったように、声を掛けられたのでしょうか。いつか会って聞きたいと思います。

ちなみに、政治評論家の田崎史郎氏(元時事通信社)も三里塚闘争で逮捕されたことがあるといいますが、彼のその後の人生で、このことが活きているのでしょうか。しかし、逮捕されても優秀であれば大手通信社に入れるような時代でもありました(マスコミにはリベラル・左派の人たちが多くいました)。

三里塚から京都に戻ると、キャンパスでは学費値上げ問題が語られていました。休むまもなく闘いの準備です。

当時の同志社は、ある意味で変な大学で、職員に、学生運動経験者や学生運動に理解がある方々が多くいて、情報はどんどん入ってきていたようです。「ようです」と言うのは、私たち下級生には直接情報が入るルートは知らされず、先のUMさんら上級生の幹部のみが知るところでした。なので、情報源は秘匿されました。また、情報が、かなり信憑性のあるものだったというのは、のちの封鎖解除の日程が当たったことからも判ります。

心ある教職員の中にも、詩人でもある学生課長だった河野仁昭(故人)さんは、部下と共に学費値上げに反対する意志表示を行い、社史編纂資料室に左遷されます。しかし、河野さんは、のちに『同志社百年史』を編纂し、ここで「紛争下の大学」について一章設けたり、大学の正式な発行物としては異色の書籍としてまとめ、ある意味で意趣返しを行います。

そうして、連日の情宣や集会などで、キャンパスでの雰囲気も徐々に盛り上がっていき、私たちの気持ちも固まっていきました。

学費値上げ阻止を求める私たちの運動も日に日に盛り上がり、学友会の団交要求に大学側も応じました。いや、大学側は学費値上げの「説明会」にすり替えたかったという意図があったようです。

団交の日は11月11日に決まりました。ところがこの前日、あろうことか大学側は値上げを発表します。この日は、沖縄返還協定批准阻止闘争で大阪の集会では実力闘争が闘われましたが、私たちは急遽京都に戻り、この日発表された学費値上げに怒り抗議すべく、翌日の団交に備えました。

そして団交当日、正午から狭い今出川キャンパスを多くの学友が埋め尽くしました。これには感激しました。私たちは決して孤立してはない、応援団はいっぱいいる──。当時、同大の学生数は2万人に満たなかったと記憶しますが、公式にも6000人(判決文)余りの学生が結集しました。実に3分の1ほどです。工学部自治会委員長UMさんは、舌鋒激しく中心になって追及していました。弁が立ち理論家でもありました。この時の写真が残っていました。立って当局を追及している学生が2人いますが、右がUMさんです。ちなみに左が水淵平(ひとし。故人)さんで、水淵さんも芝田さん同様L共闘の“上司”で影響を受けた方々の一人です。

正午に始まり、夕方6時頃まで長時間の団交で、学生と当局との激しい応酬が続きました。大学側も必死でした。

さて、長時間の団交は決裂し大学側の出席者の健康上の問題もあり11月17日に再度行うことになりました。しかし、それはありませんでした。狡猾な大学側が反故にしたからです。以来逃亡を続けます。(つづく)

1971年11月11日団交、学費値上げ問題について山本浩三学長(当時。故人)ら大学当局を追及する。立っている右側がUMさん(朝日新聞社提供)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』

「ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい」(ポール・ニザン『アデン・アラビア』)

遙か彼方の1972年2月1日、酷寒の京都、その時私は二十歳だった。
「ひとの人生」には、それぞれメモリアル・デーがあろう。まずは誕生日、ひとによっては次が結婚記念日だったり震災の日だったり……するだろう。

私にとっては、1972年2月1日と2005年7月12日だ。後者は私が、のちに「厚労省郵便不正事件」での証拠隠滅で逮捕・失職する大坪弘道検事に率いられた神戸地検特別刑事部に「名誉毀損」容疑で逮捕された日であり、これによって会社は壊滅的打撃を受けた。ここで「前科調書」として思わぬ書類が出てきた。前者1972年2月1日に逮捕された事件の判決文である。時の経過と共に引っ越しなどで紛失していたものだ。72年から33年余りも経っていたが、日本の捜査機関はきちんと保存していて、のちにどこで逮捕されてもすぐに出してくる──日本の捜査機関も侮れないな、と思った次第だ。ちなみに、ポスター貼りでも、警官に見つかって検挙され1日2日留置所に泊められても「前歴」として残るということをプロレス団体の人から聞いたことがある。ここまで日本の捜査機関はやるのか。

1972年2月1日付け京都新聞

逮捕されたのは京都なので裁判が行われたのは京都地裁だ。あらためて読むと、当時の京都地裁の裁判官が、意外にも私たちに同情的で「被告人らは春秋に富む若者であり前科もないことから」(判決文)「懲役3カ月、執行猶予1年」の寛刑であり、被告団10人のうち1人はなんと無罪だった。この1人M・K君は、支援で駆けつけてくれた京都大学工学部のノンセクトのグループに属し黒ヘルメットを被っていたが、逮捕された際に私たちが被っていた赤ヘルメットを無理やり被せられ、これが決め手となって無罪となったのだ。それにしても、このように判決文に「春秋に富む若者であり……」云々という表現、時代を感じさせる。最近ではパソコンに登録した文章をちょこちょこといじった判決文が多い。私たちも検察側も控訴せず決着した。判決は76年12月3日、逮捕からやがて5年が経とうとしていた──。

本年は69年の東大安田講堂攻防戦から50周年ということで、テレビでも当時の映像が流れたが、これに比べれば私たちの闘いは、火炎瓶が飛び交うわけでもなくチャチと言えばチャチなものだったが、私たちは真剣だった。

60年代後半の学園闘争、いわゆる全共闘運動が、機動隊導入によりバリケード解除され収束に向かう中で、1971年、全国の私立大学で次年度からの学費値上げ問題が浮上した。東京では早稲田、関西では同志社、関西大学が中心となった。早稲田、関大は、いつのまにか霧散したが、私たち同志社だけは最後の最後まで身を挺し徹底抗戦することで意志一致した。闘うべき時に闘わずして、みずからの存在価値はないし、たとえ運動や組織が解体させられても徹底抗戦するしかない! 〈革命的敗北主義〉の精神である。

私たちが参考としたのは、60年代後半の明治大学(当局と裏でボス交し収束)と中央大学(白紙撤回)の学費闘争だった。この2つの闘いはよく勉強した。

私たちが拠って立った「全学闘争委員会(全学闘)」と「学友会(全学自治会)」は、60年安保闘争以来ブント直系の運動として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引した流れを汲みつつも、同志社のブントが崩壊して以来、ブント系ノンセクトとして健在だった。歴史の後智恵で、徹底抗戦せず組織や運動を守る手がなかったのか、という意見もあろうが、私たちは、そんなことは緒から考えなかった。明大のように当局とボス交して収束をはかるなど論外だ。闘わずして生き延びた運動や組織は腐敗する。東大安田講堂攻防戦前夜に敵前逃亡した革マル派のように、のちのち後ろ指を差されることはやりたくない。たとえ、たった1人になっても戦い抜けば、それによって必ずや後から続くと信じた──(実際は、多くの逮捕、起訴者を出しガタガタになったところに、闘わなかった輩による運動の成果の簒奪が始まり、政治ゴロの介入を許し、場所的経済的利権を狙った草刈り場となったのだが。どのように運動の成果が簒奪され歴史が歪曲されようが、真に闘ったという事実は真に闘った者が知っている)。

「赤ヘルの学生おのがコート脱ぎ われに着せたり激論の中」(秦孝次郎)

秦氏は当時の理事長(総務部長だったかな?)で近鉄資本(同志社は近鉄が持っていた土地を格安に購入)とのつながりが強かった人で、秋深まった11月のキャンパスで長時間に及んだ大衆団交でドクターストップがかかりつつも大学当局の意志を貫き、学費値上げ、そうして以後相次ぐ値上げを強行し、田辺町移転―大同志社5万人構想実現に向けて走り出すのである。

一時は、ほとんどの学部や女子大までが田辺に移転し、加えて近くに在った立命館広小路キャンパスも予備校に売却し移転、学生で賑わっていた今出川界隈も寂しくなった。いちど私が大学に入学する際に入った近くの喫茶店の女性オーナーに「寂しくなりましたね」と言ったことを思い出す。ところが、近年文系学部が今出川に戻り、当時喧伝された、航空工学部、宇宙工学部を新設したりする大同志社5万人構想も、現在学生数は政策学部、文化情報学部、生命医科学部、スポーツ健康科学部、グローバル・コミュニケーション学部など新たな学部をかなり増やしたり学科を学部に増員・改組させた(当時は6学部)りしたことにより3万人弱(大学院含む)と当時より1万人増えてはいるが、航空工学部、宇宙工学部は頓挫し、田辺町移転―大同志社5万人構想が全くの失政だったことが証明されている。私たちの主張は正しかった。

大学の価値というものは、キャンパスが広いとか、施設が良いとかではない。あの狭い今出川キャンパスで、ランチタイムになれば、どこからか授業を終えた学生が出て来てトランス状態になった光景が忘れられない。

私たちは、団交やストを繰り返したりして学友へ学費値上げの不当性をアピールし続け、年末に入り学生大会で無期限バリケードストライキを決議し決戦態勢に入った。正月もバリスト状態で過ごした。多くの学友の支持もあり、教職員も心ある人たちが多く、さしたる妨害はなかった。問題は、私立大学にとって最大のイベントたる入試である。同志社では毎年2月初めに行われる。日程からして1月下旬から2月5日頃までがリミットだろう。

大学内部にいる、かつて自治会運動などに関わった心ある教職員からの情報が刻々と伝えられる。決戦は〈2月1日〉だ!

私ら決死隊は最後までバリケードに留まり逮捕覚悟で、今出川キャンパスの中心にある明徳館の屋上に拙い砦を作り立て籠もった。

一方、決死隊逮捕の報に、学生会館や近くの寮などに待機した仲間や、先のM君らが、京都市内から学生会館中庭に続々と結集していた。その数約300、ほとんどが同志社の学友だが、M君のように他大学の者もいた。

私たちは裁判が終わったあとに『われわれの革命』という小冊子を発行したが、それによると、──
「封鎖解除(機動隊導入)、明徳館砦死守(四名)不当逮捕
 学生会館中庭で、三百余名抗議集会、再封鎖に向けて、丸太、竹ヤリの突撃隊を先頭に今出川に出立する際、機動隊と正面衝突戦を展開(百二十数名不当検挙、四十三名逮捕、十名起訴、重体数名)」
とある。

この闘いは、東大全共闘はじめ全国の戦闘的な学生による安田講堂攻防戦のような、現代史の本には必ず載るようなものではなく、(東京からすれば)一地方の〈小さな火花〉にすぎなかったが、私たちにとっては、その時に、みずからの立場をどう鮮明にするのかを問うものだった。いわば「単ゲバ」の私たちには迷うことはなかった。「やるしかない!」

「しらじらと雨降る中の6・15 十年の負債かへしえぬまま」(橋田淳『夕陽の部隊』)

「6・15」とは60年安保闘争の際、国会前で樺(かんば)美智子さんが機動隊に轢死させられた日、私たちにとって忘れてはならない日として長らく伝えられてきた。かつてこの日には記念の集会やデモがなされていたが、今では国会前で当時の仲間らが集まる程度だ。ちなみに日本共産党にとってこの日は、樺さんがブントに指導された全学連主流派だったという理由で、その歴史には存在しない。

「橋田淳」(仮名)とは、私の当時の“上司”で今は児童文学作家のS・Kさん。もう何十年も過ぎているので「十年の~」ではないが、私たちが、かつてみずから血を流した闘いの中で背負った〈負債〉とは何か? 毎年2月1日になると、自らに問いかけ続けているうちに、〈負債〉を「かへしえぬまま」47年の月日が流れた──。もう私たちは「過激派」でも「極左」(47年前の行動でいまだに性懲りもなく「極左」呼ばわりする輩がいる)でもなく、たまに反原発のデモに行っても「お焼香デモ」だし、学生時代のような元気はないが、それでも、かつて怒りで身を挺して闘った時の志を忘れないようにしたい。かのレーニンが1905年革命(第一革命)の総括で、「武器を取るべきではなかった」という日和見主義的見解に対して「もっと決然と、もっと精力的に、またもっと攻撃的に武器を取るべきであった」(『モスクワ蜂起の教訓』)と言ったことの精神だけは忘れまい。

「俺を倒してから世界を動かせ!!」(明徳館砦に書いた落書き)

当時は「われわれが~」とか「私たちが~」と言っていたが、つまるところ、ここぞという時に「私が」どうするのか、ということだろう。だから逮捕されることが必至のこの闘いには、躊躇する者には無理強いはしなかった。あくまでも、本人の意志に委ねた。平時は格好良い言葉を発していても、いろんな私的な事情で逃げるようなことを恥として私は学費値上げ問題に立ち向かった。当時の全学闘は党派に指導されたものではなく、60年安保闘争以来のブント系の同大学生運動の戦闘性を継承しつつも全員がノンセクトであり、その後はちりじりばらばらになった。党派に属していれば、その党派の指示に従って組合に入ったりするのだろうが、私たちの場合それはなかった。S・Kさんのように苦労して児童文学作家として名を成した人もいれば、U・Mさんのように草創期のコンビニ業界に入り企業活動で名を成した人もいる。私のように斜陽産業の出版界で呻吟している者もいる。それでいいんじゃないだろうか。

私はここ3年ほど、「反差別」運動、いわゆる「カウンター」内で起きた凄惨なリンチ事件の被害者支援と真相究明に関わっている。私の所に辿り着くまで被害者は放置され正当な償いも受けずに「人権」を蔑ろにされてきた。かつて学費値上げに怒りを覚えたのと同様に怒りが込み上げてきた。私の怒りはシンプルだ。悪いことは悪い! 私にとって47年前に学費を値上げと集団リンチ問題に関わることは同じ〈位相〉なのだ。いつまでも怒ることを忘れないでいよう。

加害者側の弁護士(共産党系!)は詰(なじ)る。「極左の悪事」だと。問題の本質はそうではないだろう。何度も言う、悪いことは悪い! くだんの弁護士は言う、「正義は勝つ」と。裁判に勝ったからといって、それが「正義」だとは限らない。歴史の中には、むしろ負けた者や少数派の主張に正義や真実があることのほうが多い。行政訴訟は住民側がほとんど負けるが、住民側にこそ正義や真実があることがほとんどだ。それでもくだんの弁護士は、「正義は勝つ」とでも言うのか!?

最近出会った、フォーク・シンガーの中川五郎さんの歌に『一台のリヤカーが立ち向かう』があり感動した。鹿砦社の新年会でも最後にこれを歌ってくれた。私も歳とってずいぶん丸くなった(と自分では思う)が、なんと言われようが、悪いこと、理不尽なことに怒りを持つことを忘れずに、私は「たったひとり」で時代遅れの古い「リヤカー」に乗って闘い続けたい。

「たたかい続ける人の心を、だれもがわかってるなら、たたかい続ける人の心はあんなには燃えないだろう」(吉田拓郎のデビュー曲『イメージの歌』)

広島から東京に出て来たばかりの吉田拓郎は、こんな歌を歌っていた。中島みゆきも、
「闘う君の唄を闘わない奴等が笑うだろう」(『ファイト!』)
と歌っている。

それでも私はこれからも、かつて2005年に逮捕された際に言ったように、「血の一滴、涙の一滴が枯れ果てるまで闘う」だろう。もう初老の域に入った私もやがては老いさらばえるだろう、最後に「人知れず微笑(ほほえ)み」(樺美智子)ながら──。

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都 学生運動解体期の物語と記憶』※表紙画像をクリックすればAmazonに飛びます。

*『夕陽の部隊』は、松岡・垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代‐京都──学生運動解体期の物語と記憶』に再録されています。残部僅少です。お早目にお求めください。

 

挨拶される、呼びかけ人実質的代表の新開純也さん。塩見さんの大学の先輩であり、政治的には赤軍結成時に訣別。その後タカラブネ元社長。松岡と同郷。(2018年3月17日京都)

昨年11月に亡くなった「日本のレーニン」塩見孝也さんの追悼会(正式には「塩見孝也とその時代」)が3月17日、母校・京都大学時計台前のレストランで開かれ約80名が参加しました。

塩見さんの最後の著書となった『革命バカ一代 駐車場日記』(鹿砦社刊)

この前に3月5日に東京の追悼会が開かれ約160名が参加したということです(このレポートは3月23日付けの本「通信」に掲載されていますので、そちらを参照してください)。関西はその半数ですが盛況でした。

私は、赤軍派ではなく、ギリギリまで参加を迷いましたが、塩見さんの最後の著書『革命バカ一代 駐車場日記』を出版し、これを参加者に配布(もちろん無料!)するため参加しました。予想に反し多くの先輩方に歓迎されました。

塩見さんは、1960年代後半の学生運動、70年安保闘争、ベトナム反戦運動の高揚の中で、それまで以上の武装闘争で運動のさらなる爆発を勝ち取ろうと赤軍派を結成しました。中心になったのは京都の学生運動、とりわけ京大、同志社でした。しかし、権力による大弾圧で、私が入学する1970年にはほぼ解体し、一部が、その理論「国際根拠地論」により平壌、アラブに活路を見い出し飛んでいきます。これはよく知られるところです。

同志社では、赤軍派の活動家・望月上史さんが激しい分派闘争の過程で亡くなります。この件では、私が『遙かなる一九七〇年代‐京都』で書いた一文「内ゲバで亡くなった二人の先輩活動家の無念」に対して、赤軍派と対立し監(軟)禁した中央大学ブントのリーダー・神津陽さんから反論と謝罪要求がありました。これを受け、翻って思い返すと、望月さんについて書かれているのは作家・小嵐九三郎さんの『蜂起には至らず』の中の一項だけで、重要な問題でもあり、現在取り組んでいるカウンター大学院生リンチ事件の書籍の編集が一段落したら取材班を作り調査・取材に取り掛かる予定で、来年の50周忌までには報告集として上梓するつもりです。

◆「7・6事件」のこと ── 血まみれの望月さんを担ぎ、タクシーを捕まえようとした塩見さん

当日、久しぶりに会った方もいたりで、偶然に受付をしていた方が、「7・6事件」に参加し、くだんの望月さん死亡前後のことについて話してくれました。

「7・6事件」とは、赤軍派のフラク(当時はまだ赤軍派の結成前)が、明大和泉学舎でのブントの会議を武装襲撃し、さらぎ徳二議長にリンチを加え、瀕死の重傷を負わせ、介入してきた警察に逮捕されたという事件です。この時さらぎ議長は、その前の4・28沖縄闘争で破防法で指名手配されていましたので、権力に売り渡したというわけです。反赤軍派の人たちの怒りは凄まじく、赤軍派フラクが拠点としていた東京医科歯科大学を急襲、約30人ほどを拉致し、神津さんらの拠点・中央大学に連行、5日ほど監禁したということです。その方も殴られ前歯2本を折ったそうです。

中央大学に到着すると、望月さんや塩見さんら幹部4人が捕捉されていたそうです。解放されたら、ともかく西の方角の汽車に乗り逃げたということで、気づいたら靴が片方なくなっていたということでした。望月さんら幹部4人はその後、真夏の暑いさなか20日間も軟禁され、ロープを伝って逃げる際に結核を患い体力が弱っていた望月さんは転落し、その後亡くなります。塩見さんは、血まみれの望月さんを担ぎ、タクシーを捕まえようとするが捕まらなかったということです。知らないことばかりで興味津々でした。

◆〈二つの安保闘争〉を牽引した「関西ブント」

挨拶した方々もほとんどが赤軍派の元幹部ばかりで、やはり「7・6事件」のことがさんざん出てきます。私以降の世代には何がなんだか分からない話です。わずかに私は同じ大学の学生運動の先輩の死ですから、在学中から聞いていましたので関心があります。

当時、同志社大学は「関西ブント」といわれる党派の拠点で、60年、70年の〈二つの安保闘争〉を、その強固な戦闘力で全国の学生運動を牽引したことは有名な話です。学生運動の天王山だった69年1月の安田講堂攻防戦において、大学別では広島大学に次いで2番目に逮捕者が多かったことからも分かります。

血気にはやる同志社の学生活動家の多くが赤軍派に流れたといいます。赤軍派に流れなくともシンパとして支え、私が同大に入った頃の雰囲気は、親赤軍赤ヘルノンセクトでした。過激であればあるほど人気があった時代です。

しかし、追悼会には同志社OBの参加がほとんどなく、呼びかけ人や実行委員会の方々は困ったようでした。京大と共に二大拠点だったわけですから、やはり同志社OBの多くの参加を希望されていたようです。私が知る限り、私を含め4人、その中で赤軍系の人はわずか2人でした。私が居た寮は定員20数人の小さな寮でしたが、藤本敏夫さんはじめ多くの活動家を輩出しました。それでも誰一人赤軍派には行かず、例年の学友会倶楽部主催の講演会には多くの動員を行うのですが、塩見さん追悼会には私以外一人も参加しませんでした。

◆塩見さんが「無二の親友」と呼んでいた弁護士の海藤壽夫先生

参加者の中で意外な方が声を掛けてくれました。弁護士の海藤壽夫先生です。挨拶されることはプログラムに記載されていましたので、ご挨拶に伺おうと思っていたところでした。海藤先生は塩見さんと同級生で、生前の塩見さんから「無二の親友」と聞いたことがあります。「私も存じ上げていますよ」と言うと、「なんで知ってるんだ」と返されました。実は、1972年、私が学費値上げ阻止闘争で逮捕・起訴された際に、弁護士に成り立てだった海藤先生が弁護人を受任してくれたのです。全く奇縁です。

私は1970年に京都の同志社大学に入学しました。その少し前に赤軍派メンバーによるハイジャックがあり、同志社の学生も1人いました。70年当時の京都は、バリケード封鎖は解除されていましたが、まだ熱い雰囲気が残っていました。ベストセラーとなった高野悦子著『二十歳の原点』にはこの頃の様子がよく書かれています。沖縄返還も政治日程に上っていましたし、三里塚も空港の「く」の字も見えない時期ですが反対運動が続いていました。また、学内では「田辺町(現在の京田辺市)移転-大同志社5万人構想」(いまだに5万人どころか3万人にも到底及ばず、夢のまた夢です)、このための資本蓄積=学費値上げ問題がささやかれていました。

まだ田舎出の18歳、多くのことがきのうのことのように目に浮かびます。私が学生運動に関わったのは学生時代の5年間にすぎず、党派に入るわけでもなくノンセクトでした。周囲に党派に入る者はほとんどいませんでした。後から考えると、これでよかったと思いますが、75年春、私が同志社を離れる前後から、運動は分裂に分裂を重ね、主流派だった私が属した「全学闘争委員会」(全学闘)と拠点とした寮は少数派に転落し、学友会から放逐、ある時には深夜寮が襲撃され、居合わせた寮生が監禁・リンチされるという事件が起きました(79年)。

70年代前半は、むしろぬるま湯的な、比較的安定した時期で、のちの混乱は予想もしませんでしたが、70年代後半は混乱と分裂の時期だったようです。そうしたことを私は、同期で京大OBで学費決戦では応援に駆けつけてくれた垣沼真一さんと昨秋『遙かなる一九七〇年代‐京都--学生運動解体期の物語と記憶』にまとめ上梓しました。

◆望月さんと一緒に逃げようとしたMさん

追悼会に参加された方々も、いろいろな当時の想い出があるやと察しますが、どのように拙い形ででも語り書き残す時期が来ていると思います。残された時間はあまりありませんから……。

二次会には参加しないつもりでしたが、先の方と意気投合し参加しました。そろそろ佳境に入った頃、望月さんと一緒に逃げようとしたMさんが声を掛けてくれました。私は「きょうはご苦労様でした。いちどゆっくり話を聞かせてください」と言って座を辞しました── 。

〝最年少〟の私の世代でさえ齢60代後半、私たちの時代はすでに黄昏に入っています──。

ありしひの塩見さんと。

※「マイ・センチメンタル・ジャーニー」の〈1〉と〈2〉は私のフェイスブックにアップしていますので、ご関心のある方は下記リンクをご一覧ください。
◎マイ・センチメンタル・ジャーニー〈1〉私にとっての〈2月1日〉
◎マイ・センチメンタル・ジャーニー〈2〉2月9日、先輩の芝田勝茂さんの講演会に参加しました……
 

【追記】上記の文章を送った後に気づきましたが、くだんの神津陽さんが3月23日の自身のブログで次のように書いておられます。
「リベラシオン社ブログに3・17関西集会での物江克男の発言も出ている。
7・6事件後の中大からの逃亡時に塩見が顔面血だらけの望月を背負いタクシーを停めたとあるので、望月は落下時に頭部に自ら傷を負い指は潰れてなかった事が分かる。松岡は全容を読んで謝罪しろ! まだ許してはないぞ!」
文中で私も書いているように、3・17追悼会には私も出席し物江さんの発言(長い!)も聴きましたが、本件については取材班を設け、調査・取材を重ね、早晩きちんとした形で報告書としてまとめるつもりです。ここまで詰られると私も本気になります。(松岡利康)

70年代はじめの京都の学生運動について書き連ねた『遙かなる一九七〇年代-京都』(松岡利康/垣沼真一編著)

« 次の記事を読む