2月1日の本通信で述べたように、私には3つの記念日があります。まずは誕生日の1951年9月25日、2つ目は、若かりし学生時代、学費値上げに抗議し最後まで闘い逮捕されたこと(1972年2月1日)、そして時は流れ再度の逮捕(2005年7月12日)です。

ここでは、2つ目の学費値上げ阻止闘争での逮捕について述べてみましょう。

 

板坂剛と日大芸術学部OBの会『思い出そう! 一九六八年を!! 山本義隆と秋田明大の今と昔……』

先に出版した『思い出そう! 一九六八年を!!』 『一九六九年 混沌と狂騒の時代』に記述されているように、日本のみならず世界的に、1960年代後半から70年にかけての時代は、叛乱と変革を求めた時代であったことは、今更言うまでもありません。

70年代は、そうした闘いが一段落し、60年代に比して、さほど評価されません。しかし、はたしてそうでしょうか? 「日本階級闘争の一大転換点」といわれた沖縄「返還」をめぐる闘い、新空港建設をめぐる三里塚闘争を中心として、60年代後半に劣らず盛り上がりました。72年に沖縄が「返還」(併合!)され75年にベトナム戦争が終結するまで闘いは続きました(いや、それ以降も闘いは続きましたが)。

ただ、69年に2人が亡くなった、新左翼内部での内ゲバが、70年代に入り激化し、さらには連合赤軍問題など、暗黒の時代になっていったこともまた事実です。私たちは、この問題も、いわゆる「7・6事件」(ここでは詳しくは述べません。『一九六九年 混沌と狂騒の時代』収録の拙稿参照)の再検証、さらに、私たちが真相究明と被害者支援に関わった「カウンター大学院生リンチ事件」の解明によって、今後の社会運動内部における負の遺産として止揚していかなければなりません。それが、長い間、末席から学生運動、社会運動を見てきた私に課せられた課題として取り組んできました。

 

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

1970年に私は同志社大学に入学しました。同志社大学は、60年安保闘争以来、旧左翼(日本共産党)と袂を分かち、ブント(共産主義者同盟〔略称=共産同。下部の学生組織が社会主義学生同盟〔社学同〕)といわれる新左翼党派の一大拠点として、その戦闘性で全国の学生運動を牽引していました。それが前年の赤軍派の分派で死者をも出し、ブントは解体、関西ブント系ノンセクトの「全学闘争委員会」(全学闘)が残り、いわば「独立社学同」化していました。60年安保闘争後、第一次ブントが解体した中で、大学によっては独立社学同として残ったと聞きますが、10年後の同志社もそうだったといえるでしょう。

当時、日本共産党は京都府知事を擁立し、京都は日本共産党の強固な地盤として在り、御所を挟んでその強力な拠点=立命館大学があり、そこから武装して出撃した日本共産党(あかつき行動隊ともゲバ民とも言われました)からの激しい攻撃に耐えて、学友会/各学部自治会を再建し運動を持続していました。そんな中、今では想像できないほどの多数の学生が頑張っていました。場所的拠点としての学生会館(今はありません!)があり、受け皿としての全学闘/学友会があったからこそですし、一部の先輩方がまとめていました。私見ながら、先輩の一人、KHさんがいなかったら、とっくに日本共産党に取られ、ほとんどの他大学がそうだったように、運動は混乱していたでしょう(運動の混乱は私たちが同大を去ってから訪れたそうですが)。

1970年ということで安保改訂の年でしたが、実質的には前年の大弾圧―大量逮捕で雌雄は決していて、70年はカンパニア闘争に終始しました。この年に、各運動体は、組織の建て直しを図った年だったと思います。

それでも、今では想像できないほどの人たちが学園や街頭で闘いました。12月には沖縄で「コザ暴動」が起き多数の逮捕者や負傷者を出し、沖縄「返還」を前にし翌年の闘いの爆発を予感させました。

そうして1971年、この年は年初から三里塚第一次強制収容阻止闘争で闘いの火蓋が切られ、4~6月沖縄返還協定調印阻止闘争(京都では初めて市内中心部での市街戦となった5・19祇園石段下武装制圧闘争がありました)、7月三里塚1、2番地点攻防戦、9月三里塚第二次強制収容阻止闘争(機動隊3名死亡)、11月沖縄返還協定批准阻止闘争(反戦派女性教師、機動隊それぞれ1名死亡。機動隊員の死亡ばかりが強調されますが、実は反戦派女性教師も死亡しています)と盛り上がっていき、11・19日比谷暴動闘争では中核派全学連委員長に破防法も適用されました(破防法適用は、69年4・28沖縄闘争でブントと中核派に計5名、70年のハイジャックで赤軍派の塩見孝也議長に続くもので、それ以降は発令されていません)。

さらに秋からは全国の私立大学で学費値上げ阻止闘争が盛り上がっていきました。東京の早稲田、関西では(手前味噌ながら)同志社、関西大学などが拠点となりました。関西大学では、革マル派が深夜バリケードに侵入、中核派を襲撃し、同志社の先輩の正田三郎さんら2名が殺されています。正田さんは、真面目な活動家で、同志社キャンパスでたびたび見かけ、この年の4月の入学式での情宣中、日本共産党に共に襲撃されましたので、これにはショックでした。

今から思い返しても闘いの日々でした。60年代後半の先輩らの闘いに負けるな、越えるぞという想いで闘いました。──

三里塚闘争では、現闘団を置き、大木(小泉)よねさん宅裏に現闘小屋を作るところから始めました。現闘小屋の設計を東大の建築科の方が行ってくれたそうで、京都から、同志社だけでなく京大や他大学の学生も含め多くの活動家が参加しました。7月に全学闘(の中の文学部共闘会議〔略称・L共闘)の直接の“上司”だった芝田勝茂(現在児童文学作家。すでにカミングアウトされていますので実名表記します)さんが逮捕され長年の裁判闘争を余儀なくされました。これが、私が9月の第二次強制収容阻止闘争に赴く契機になりました。「先輩が逮捕されたのにオレはなぜ一緒に闘いに行かなかったのか」との強迫観念にさいなまれたからです。

芝田さんは、長年の裁判闘争のために住居も東京に移し働きながら頑張られましたが、以後作家修行に携わると共に、本業の子供とのキャンプ活動に精を出し、定年退職後の今も個人事業として毎年行っておられます。作家業と共にライフワークになったようです。

さて、芝田さんが獄にある中、9月の第二次強制収容阻止闘争に一緒に行ったのは、後に草創期にあったセブン・イレブン・ジャパンに入り、日本のコンビニの礎を築き常務取締役で退社したUMさんでした(現在コンビニは、急発展したことで歪が出ていますが、これはこれとしてUMさんが頑張ったことは事実で評価されてもいいと思います)。UMさんは私同様逮捕を免れ、その後共に学費闘争を闘うことになります。UMさんがどういうふうに逃げたか分かりませんが、私は沼に腰までつかり必死で逃げました。この時、「これに比べれば、どんな闘いもできる!」と思いました。

セブン・イレブンを創った鈴木敏文氏は、かつて日本共産党の活動家だったといわれ、大学卒業後、出版取次大手の東京出版販売(東販。現在のトーハン)に入り組合の委員長として名を馳せました。そんなことで、かつて洋菓子のタカラブネがそうだったように、声を掛けられたのでしょうか。いつか会って聞きたいと思います。

ちなみに、政治評論家の田崎史郎氏(元時事通信社)も三里塚闘争で逮捕されたことがあるといいますが、彼のその後の人生で、このことが活きているのでしょうか。しかし、逮捕されても優秀であれば大手通信社に入れるような時代でもありました(マスコミにはリベラル・左派の人たちが多くいました)。

三里塚から京都に戻ると、キャンパスでは学費値上げ問題が語られていました。休むまもなく闘いの準備です。

当時の同志社は、ある意味で変な大学で、職員に、学生運動経験者や学生運動に理解がある方々が多くいて、情報はどんどん入ってきていたようです。「ようです」と言うのは、私たち下級生には直接情報が入るルートは知らされず、先のUMさんら上級生の幹部のみが知るところでした。なので、情報源は秘匿されました。また、情報が、かなり信憑性のあるものだったというのは、のちの封鎖解除の日程が当たったことからも判ります。

心ある教職員の中にも、詩人でもある学生課長だった河野仁昭(故人)さんは、部下と共に学費値上げに反対する意志表示を行い、社史編纂資料室に左遷されます。しかし、河野さんは、のちに『同志社百年史』を編纂し、ここで「紛争下の大学」について一章設けたり、大学の正式な発行物としては異色の書籍としてまとめ、ある意味で意趣返しを行います。

そうして、連日の情宣や集会などで、キャンパスでの雰囲気も徐々に盛り上がっていき、私たちの気持ちも固まっていきました。

学費値上げ阻止を求める私たちの運動も日に日に盛り上がり、学友会の団交要求に大学側も応じました。いや、大学側は学費値上げの「説明会」にすり替えたかったという意図があったようです。

団交の日は11月11日に決まりました。ところがこの前日、あろうことか大学側は値上げを発表します。この日は、沖縄返還協定批准阻止闘争で大阪の集会では実力闘争が闘われましたが、私たちは急遽京都に戻り、この日発表された学費値上げに怒り抗議すべく、翌日の団交に備えました。

そして団交当日、正午から狭い今出川キャンパスを多くの学友が埋め尽くしました。これには感激しました。私たちは決して孤立してはない、応援団はいっぱいいる──。当時、同大の学生数は2万人に満たなかったと記憶しますが、公式にも6000人(判決文)余りの学生が結集しました。実に3分の1ほどです。工学部自治会委員長UMさんは、舌鋒激しく中心になって追及していました。弁が立ち理論家でもありました。この時の写真が残っていました。立って当局を追及している学生が2人いますが、右がUMさんです。ちなみに左が水淵平(ひとし。故人)さんで、水淵さんも芝田さん同様L共闘の“上司”で影響を受けた方々の一人です。

正午に始まり、夕方6時頃まで長時間の団交で、学生と当局との激しい応酬が続きました。大学側も必死でした。

さて、長時間の団交は決裂し大学側の出席者の健康上の問題もあり11月17日に再度行うことになりました。しかし、それはありませんでした。狡猾な大学側が反故にしたからです。以来逃亡を続けます。(つづく)

1971年11月11日団交、学費値上げ問題について山本浩三学長(当時。故人)ら大学当局を追及する。立っている右側がUMさん(朝日新聞社提供)

◎[カテゴリーリンク]松岡利康のマイ・センチメンタル・ジャーニー

松岡利康/垣沼真一編著『遙かなる一九七〇年代-京都』