その事件の発端は、伊勢神宮の神官が慶雲を見たことにはじまる。

神官の尾張守は平城京の方角の空に、五色の瑞雲が浮かぶのを目撃した。五色の瑞雲とはおそらく、夕日に映えた雲の変色であろう。彼はその雲を絵に描いて、道鏡の腹心である習宣阿曽麻呂(すげのあそまろ)に伝えさせた。道鏡から善政の吉兆だと、これを見せられた女帝はおおいに喜んだ。

この道鏡と女帝は、よく男女の関係とみなされてきたが、史料的な裏付けがあるわけではない。宣命にのこる女帝の言葉、道鏡への賛美を挙げておこう。

「この禅師の行を見るに、居たりて浄く、仏の御法(みのり)を嗣ぎ隆(ひろ)めむと念(おも)はしまし、朕も導き護ります己が師」

道鏡は、わたしの偉大な仏の道の師である、というのだ。修行をおこない、徳を積むことこそ天子(帝)の進むべき途だと、女帝はこころの底から考えていたのであろう。

女帝が喜ぶのを見て、道鏡は習宣阿曽麻呂に命じた。宇佐神宮に行って、何か吉兆がないか問い合わせてほしいと。

なぜ宇佐神宮だったのだろうか。宇佐神宮は地方の神社ながら、そのころ八幡神の神託で売り出し中だった。大仏鋳造にさいして、聖武帝が新羅に銅と金をもとめようとしたところ、神託をもってこれを諌めたことがあった。ちょうど武蔵と陸奥で銅山と金山が発見され、宇佐神宮はおおいに面目をほどこしたのである。

その後、奈良の大仏が完成したおりに、大神杜女(おおがみもりめ)という尼僧が入京して八幡神を勧進した(石清水八幡宮)。なぜ大神杜女が尼僧なのかというと、彼女は宇佐神宮の禰宜でもあった。古代神道が仏教を受容した結果、神仏習合が行なわれていたからだ。その宇佐神宮では大神氏と宇佐氏が、それぞれ弥勒信仰と観音信仰の神宮寺を建てて派閥抗争をくり広げていたのだ。 ※「天皇はどこからやって来たのか〈07〉廃仏毀釈──そのとき、日本人の宗教は失われた」を参照。

そこにやって来たのが、道鏡の使者・習宣阿曽麻呂である。大神杜女はその求めをおもんぱかり、道鏡を帝位にとの偽託をもって応えたのだ。都でくり広げられている事態、すなわち道鏡を中心とした仏教勢力(吉備真備・道鏡の腹心である円興・基信ら)と藤原氏の政争を知っている大神杜女にとって、これは宇佐神宮を牛耳る上でも中央政界に進出する上でも、格好の政治テーマだった。

そこで「法王(道鏡)を帝位に就けよ」との八幡神の神託をねつ造する。

ところが、その目論見は察知されていた。女帝と道鏡を除かんとする藤原氏の謀略網が、待ちかまえていたのである。神託を手にした習宣阿曽麻呂が大宰府で上奏の手続きをしようとしたところ、半年も待たされることになった。太宰司の第弐(副長官)は藤原田麻呂で、弟の藤原百川から依頼されて神託を留め置いたのである。

というのも、大神杜女には藤原仲麻呂が健在のころ、橘諸兄一派の僧侶に誘われて厭魅(呪詛)に参加して追放された前科がある。呪詛は律令においては大罪である。そんな尼僧がたくらむことは、およそ底が知れているというわけだ。

しかし、謀略家の藤原百川は神託の写しをとった上で、習宣阿曽麻呂を平城京に帰還させた。つぎなる謀略が練られていたのであろう。

習宣阿曽麻呂が奏上した神託をきいて、愕いたのは道鏡だった。せいぜい吉兆があったという報告があればと思っていたところ、自分を帝位にとの神託がくだったのだ。女帝もこれを喜んだが、確認のために勅使を下向させることになった。女帝の侍僧・和気広虫の弟、和気清麻呂が宇佐に行くことになった。

こののちはご周知のとおり、宇佐八幡神は僧形で姿をあらわし「開闢いらい、臣下の者が帝位に就いた例はない。天つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇族を立てよ」とぞ、のたまへり。

道鏡は下野に左遷され、女帝は急速に求心力をうしなった。

◆太陽を堕した藤原氏の陰謀

じつはこの第二の神託は、藤原氏が大神杜女にねじ込んだものだった。その見返りは、宇佐氏に対抗できる宇佐神宮の宮司の地位だった。とばっちりを受けたのは和気清麻呂で、女帝の怒りを買って「別部穢麻呂」と改名されたうえ、大隅に流罪となった。清麻呂が復権するのは女帝の死後、桓武帝のもとで平安遷都の造都大夫となったときだ。

平安期に成立した『日本紀略』には、藤原氏が女帝の宣命を偽造したとの記述があり、だとすれば女帝は密殺された可能性が高い。その宣命には、藤原氏に近い白壁王を皇嗣にすると記されているからだ。

陰謀の理由も方法も、もはや明らかであろう。

藤原氏は聖武天皇いらいの大仏建立をはじめとする仏教政策、とりわけ全国で行なわれている国分寺・国分尼寺などの公共事業が民びとを苦しめ、国家財政を傾けさせている現実を肯んじえなかったのだ。そしてみずから経営する荘園禁止の法令を、一刻もはやく覆したかったのである。そのためには道鏡以下の仏教勢力の排除、そして女帝の退陣が何としても必要だったのだ。

同時にこれは、邪馬台国いらいの女王による呪術的な政治を、律令政治の中から排除することにほかならない。高度な官僚制を確立しつつある律令政権が、女帝の勝手気ままな政策(神託)で混乱をきたすのは、男性政治家たちにとって困る事態だったのであろう。

孝謙(称徳)女帝の死をもって、絢爛たる古代女性天皇の時代は終焉した。実務に秀でた男性貴族たちの陰謀によって、女性は太陽であることを禁じられたのだ。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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孝謙女帝は、奈良の廬遮那大仏の建立で名高い、聖武天皇の実の娘である。母は藤原氏の光明子(光明皇后)、この方は貧民救済の悲田院で知られる。藤原氏から初めての后だった。

女帝の名は阿倍内親王、生まれながらにして帝になる皇女であった。しかし、彼女の幼少のころから、王朝は政変と疫病で再三にわたって揺れた。

長屋王(天武帝の孫)は光明子立后に反対する反藤原派だったが、厭魅(呪詛の罪)を誣告によって邸を包囲され、自害に追いこまれた。

最大の政敵を排除した藤原不比等の四人の息子たちは、いままさに全盛をきわめようとしていた。ところが、天然痘の流行がその栄華をはばんだ。四人ともあえなく病没してしまうのである。

長屋王事件から十年ほどのち、大和守から太宰の次官に左遷された藤原広嗣が、都の仏教勢力を批判した。

藤原氏一門の衰退に危機感を持ったのであろうか、同時にそれは仏教政策を推し進める聖武帝への批判と映った。追討軍が組織されると、広嗣も隼人の兵をあつめてこれに対抗する。叛乱は鎮圧され、藤原氏に代わって台頭したのが橘氏だった。

しかし、橘諸兄・奈良麻呂父子も、じつは大仏建立反対派だった。彼らも仏教勢力と対立することになる。このような政局の中で、聖武帝が逝去した。女性皇太子だった孝謙が即位して、父の遺業を継ぐことになったのだ。それを援けたのが、藤原の仲麻呂だった。ふたりは従兄妹同士である。男女の関係であったという説もある(女帝が仲麻呂邸田村第にしばしば宿泊)。

いっぽう、貴族たちの政争は終わらなかった。橘奈良麻呂が兵を動かそうとして、事前に鎮圧された。事件関係者はいちばん軽いはずの鞭打ちの刑で、無残にも打ち殺されている。ついで、孝謙女帝と蜜月の時期もあった藤原仲麻呂(恵美押勝)が、謀反の嫌疑で都を追われて近江に逃れようとするところ、琵琶湖で妻子もろとも殺された。

いずれの反乱も、仏教勢力に対する政争であり、その意味では孝謙女帝の仏教政策に対する批判でもあった。じつはその背景にあったのは、荘園の認可にかかわる律令制の根本問題だったのだ。「天皇はどこからやって来たのか〈03〉院政という二重権力、わが国にしかない政体」を参照。

聖武帝は生前、東大寺大仏(および国分寺・国分尼寺)建立のために、墾田永年私財法をみとめていた。荘園からの税収を期待したのである。律令制の根幹である公地公民制の土台を掘り崩してでも、大仏と国分寺の建立が聖武の仏教国家には必要だった。

ところが、孝謙女帝は天平神護元年(765年)に、墾田私有禁止太政官令を発して、荘園を禁止してしまったのだ。孝謙女帝の背後には、太政大臣禅師・法王となった弓削道鏡の存在があった。仲麻呂の乱を機に、孝謙は称徳帝として重祚する。仲麻呂とともに道鏡を批判していた、淳仁帝を廃したのである。これは火種となって、道鏡事件へとつながる。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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われわれは古代女帝論(5)の「元明天皇と元正天皇」で、元正女帝が女系女帝(元明女帝の娘)であることを確認してきた。皇統男系論者の多くはそれでもなお、元明天皇が天智天皇の皇女であることをもって、男系の血筋だと強弁する。女帝の実娘である元正天皇もまた、男系の血脈のなかに位置づけられるのだと。いいだろう。それでは彼らが忌み嫌う、しかしいまや定説となった王朝交代に引きつけて、皇統が女系において血脈を保ったことを明らかにしておこう。

◆応神王朝は馬とともに渡来し、大和の皇女を娶った

まず神功皇后が朝鮮半島(三韓征伐)で身ごもり、九州において誕生した応神天皇(第十五代)である。

九州で成立したとされる応神王朝は、それまで日本にいなかった馬を半島からともなって王権を樹立した。百済との国交、およびかの地からの技術者の採用、とくに鉄の精製、土木技術や養蚕、機織りを導入した。

即位に先立って、神功皇后が故仲哀天皇の腹違いの息子たち(香坂王・忍熊王)の二人を、琵琶湖に追い落として殺したのは、「朝鮮半島からの血が、皇統をかたちづくっている」で触れたとおりだ。旧王朝の後継者たちは応神の母・神功皇后の手で葬られたのだ。そもそも神功皇后とは架空の人物でありながら、皇統を左右する重大な役割を果たしている。壮大なフィクションを必要としたのだ。

この王朝交代劇には、じつは考古学的な裏付けもある。大和で銅鐸に代わって鉄器が盛んに造られた事実だ。つまり応神王朝は馬と鉄器をもった強力な軍事勢力で、大和に攻め上ったのであろう。謎の四世紀、応神王朝こそ邪馬台国の末裔で、神功皇后こそ卑弥呼だったのかもしれない。

◆婿入りする天皇

この王朝交代という史実を、万世一系を謳う「記紀」が応神帝の正統な皇位継承としているのはいうまでもない。だがそこには、苦肉の策が用いられなければならなかった。打倒した旧王朝の娘を娶ること、応神帝が皇族に婿入りすることで、大和王朝の後継者としての資格を得たとしているのだ。

すなわち、景行天皇(第十二代=崇神王朝三代目)の曾孫である仲姫命(なかつひめのみこと)を娶ることで、応神が皇位の正統性を確保したというのである。
景行天皇の没年は130年と考えられているから、270年に即位した応神帝とは140年間の時間的な距離がある。この間に三代が生きたとすると、50歳前後の子供としてギリギリ成り立つ計算だが、それは置いておこう。

仲姫命は品陀真若王(五百城入彦皇子の皇子)の娘である。五百城入彦皇子と同一人物とされる気入彦命が、応神帝の詔を奉じて、逃亡した宮室の雑使らを三河国で捕らえた功績によって御使(みつかい)連の氏姓を賜ったとされていることから、前大和王朝の内応者とみていいだろう。仲姫命の同母姉の高城入姫命、同母妹の弟姫命も応神天皇の妃として、応神帝の正統性を三重に担保したのが注目される。すなわち女系の血脈において、大和王朝の皇統は応神王朝に継承されたのである。したがって、応神の子・仁徳帝は女系男性天皇ということになる。

◆越前で育った継体天皇

もうひとり、明らかな王朝交代があったとされているのが、第二十六代継体帝である。継体帝は応神天皇の五世孫(彦人王の子)とされている(記紀)が、詳しいことはよくわからない。母の実家がある越前で育ったとされる。武烈天皇が崩御すると、大和王朝が混乱に陥り(約20年間の争乱が想定される)、そのかんに越前の勢力が畿内に進出したと考えられている。

その継体帝も、応神と同じように皇統の娘をめとっている。相手は仁賢天皇の娘で、雄略天皇の孫娘にあたる手白髪皇女(たしらかみのひめみこ)である。入り婿による皇位継承だったことは、ほかならぬ「記紀」の編者もみとめている。『古事記』には「手白髪皇女とめあわせて、天下を授かり奉り」とある。つまり、正統な皇女と結婚することで、皇位を授かったというのだ。

万世一系を謳うのもいいだろう。血筋の唯一性こそが天皇制の核心部分なのだから、史書のフィクションを信じ込むのも勝手である。だがその典拠である「記紀」において、女系天皇がすくなくとも二人、傍系をあわせれば膨大な数におよぶのだ。

※参考文献:『女性天皇論』(中野正志)ほか。

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女性史研究において、女性差別の原典とされるのが「古事記」の国生み神話である。しょせんは神話だが、簡単におさらいしておこう。

天地開闢(てんちかいびゃく)のころの高天原の神々には、じつは性別がなかった。男女が生まれるのは、イザナギ(伊耶那岐)とイザナミ(伊耶那美)をふくむ神代七代(かみよななよ)の神々である。

さて、淤能碁呂島(おのごろじま)に宮殿を建てたイザナギとイザナミは、男女の交わりをして、ふたりで国を造ろうとする。ところが、水蛭子(ひるこ)が生まれてしまった。二神が別天津神(最初に生まれた造化の神)に訊いてみると、女のほうから誘ったからだという。

そこで、イザナギが先に声をかけてまぐあい、大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま 本州)をはじめとする八つの島が生まれた。イザナギとイザナミは多くの神々を生み出したが、火の神カグツチを出産したときにイザナミが火傷で死んでしまう。

妻の死を悲しんだイザナギは、黄泉の国にイザナミをたずねる。古代の神々の、なんと感情ゆたかで人間臭いことだろう。しかし訪ねてみると、イザナミは変わり果てた姿になっていた。イザナギは雷鳴や風雨に追われて日向の阿波岐原(あわぎはら)まで逃げて、そこで禊ぎを行ない、祓え戸の大神たちが生まれ給う。

神道の基本的な祝詞である「祓詞(はらえことば)」は、その顛末を簡略に記したものだ。

掛けまくも畏き 伊邪那岐大神
(かけまくもかしこき いざなぎのおほかみ)
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
(つくしのひむかのたちばなのをどのあはぎはらに)
禊ぎ祓へ給ひし時に 生り坐せる祓戸の大神等
(みそぎはらへたまひしときに なりませるはらへどのおほかみたち)
諸々の禍事・罪・穢 有らむをば
(もろもろのまがごとつみけがれ あらむをば)
祓へ給ひ清め給へと 白すことを聞こし召せと
(はらへたまひきよめたまへと まをすことをきこしめせと)
恐み恐みも白す
(かしこみかしこみもまをす)

またこのときに、天照大御神(アマテラスオオミカミ)・月夜見尊(ツキヨミノミコト)・素戔鳴尊(スサノオノミコト)の三貴子も生まれている。

ニニギノミコト(邇邇芸命)は天照大御神の孫にあたり、天孫降臨のヒーローである。この男性神が地上に降り、木花之開姫(コノハナノサクヤヒメ)をめとって海幸彦・山幸彦らをなす。天孫は男性神であり、したがって地上の神話は男の物語になる。女性は太陽であることをやめたのだろうか──そうではない。

◆元明天皇と元正天皇

元明天皇は天智天皇の皇女で、持統天皇の異母妹である。

草壁皇子と結婚して皇子(のちに文武天皇)を成したが、皇太子となった草壁が即位しないまま亡くなってしまう。

やがて息子の文武天皇が亡くなると、元明は中継ぎの女帝として即位した。そして平城京への遷都を行なう。執政をたすける右大臣藤原不比等が、最高権力者になった時期である。彼女に中継ぎを強いたのは、大政治家・不比等にほかならないが、彼女が操り人形だったかどうかはわからない。

この時期、国司のもとに郷里制が実施され、律令政治が地方の末端まで行きとどく。徴税と兵役が容易になったのである。元明天皇も各地の国司に詔を発し、荷役に従事する民びとを気遣うよう命じた記録が残っているのだ。

やがて元明天皇が譲位して、娘の元正帝が即位する。元正は結婚経験がなく、独身で即位した初めての女帝である。文武天皇の遺児・首皇子(のちに聖武天皇)がまだ幼かったので、ある意味では母とおなじく「中継ぎ」ということになる。藤原氏の血を引く帝が即位するまで、まだ時間が足りなかったのである。じつはこの連載の核心部分が、この「中継ぎ」とされる二人の女帝なのである。

よく言われることに、古代の女性天皇は中継ぎだったとの評価がある。しかし、すでに見てきたとおり、推古帝おける厩戸皇子(聖徳太子)が即位しなかったのはなぜか? 皇極帝においても、孝徳天皇は難波宮に孤立させられた。あるいは持統帝の後継者と目される草壁皇太子はすぐに即位しようとせず、あるいはなぜか即位しないまま亡くなっている。これらはおそらく、女帝たちの意志と無関係ではないだろう。

そして、保守系の歴史家が無視するか、直視したがらない史実がある。中継ぎの女帝(元正)は、女性天皇(元明)の実の娘なのだ。

元明天皇の夫である草壁皇子が即位しないまま、元明天皇の娘・元正天皇(女系)が即位した史実は、女系天皇反対論者には思いもよらないことであろう。草壁が天皇ではなかったかぎりにおいて、元正帝こそ女系女性天皇なのである。

元明・元正母娘はかならずしも実力派の女帝ではなかったが、古代女帝王朝は花盛りとなる。というのも、つぎの孝謙帝にいたっては立太子ののちに帝位に就き、貴族たちを相手に政争をかまえては、ことごとく勝利のうちに天皇親政を実現するかにみえるのだから──。

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編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

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白村江の戦いで唐・新羅軍に敗れた中大兄皇子は、近江大津宮に遷都して天智天皇となった。唐・新羅軍の来寇に備えるいっぽう、近江令を発して律令制をととのえる。のちの公地公民制のもとになる戸籍も、このとき初めて作られた。

その天智帝が没すると、弟の大海皇子(天武天皇)と大友皇子(天智の第一皇子)が帝位を争う。壬申の乱である。大海皇子は吉野に隠棲し、東国の兵をあつめて近江京を攻めた。

乱に勝った天武天皇の后が、鰞野讃良(うののささら 持統)である。彼女は天武の吉野隠棲をともにし、このとき皇子たちに忠誠を誓わせている。天武とともに戦ったという印象がつよい。

その名は、小倉百人一首に収録された、この詠歌でよく知られる。

春すぎて 夏きたるらし 白たえの 衣ほしたる 天の香具山

やがて天武帝が病がちになり、皇后が代わって執政するようになった。そして夫が没すると、ただちにわが子草壁皇子のライバル・大津の皇子を謀反の疑いで捕らえ、自害に追いやっている。

この大津皇子は、じつは女帝が殺さねばならぬほどの傑物だったのだ。

「幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ。性(格)すこぶる放蕩にして、法度に拘らず、節を降して士を礼す」(懐風藻)と称賛されるほど、非の打ちどころのない人物である。持統天皇の治世で編纂された『日本書紀』にも同様の記述があるので、抜群の人物だったのは疑いない。

密告があったとはいえ、われわれはここに持統の果断さをみる。わが子のために、ライバルを死に追いやったのだから。

しかしながら、彼女が望んでいたわが子・草壁皇子は病に斃れてしまう。このとき天武の遺児・軽皇子(文武天皇)はまだ七歳だった。天武天皇の存命中も大極殿で政務をとっていた彼女は、ここに即位して持統帝となる。45歳のときだった。

持統天皇の事蹟として有名なのは、藤原京の造営であろう。藤原京はわが国ではじめての条房制をもった都城で、5キロ四方の規模だった。25キロ平方メートルは、平城京や平安京よりも広い。

たとえば現在の京都御所の北辺を一条として、京都駅が八条、東寺をさらに南へ、東光寺あたりが十条である。当時の都城の北から南まで、歩いて一時間では着かないだろう。いずれにしても、それまでの簡易な御殿を宮と呼んでいた時代とはちがう、本格的な大極殿をかまえた巨大都市である。造営が巨大な国家プロジェクトだったにもかかわらず、皇極(斉明)天皇の時のような、民衆に怨嗟される記録は残っていない。仁政だったのか、批判も許さない圧政だったのかはわからない。

いっぽうでは律令の完成が急がれ、史書も編纂された。『古事記』(稗田阿礼)『日本書紀』(舎人親王)である。これには能吏の藤原不比等が監修に当たった。

◆なぜ、天照大御神が皇祖なのか

持統天皇は夫の崩御後、三年間も帝位を空位にしている。

なぜ、すぐにも草壁皇子を帝位に就けなかったのか、これは古代史の大きなナゾとされてきた。ライバルの大津皇子を殺してまで、わが子の立太子を実現したというのに。

この時期、律令の編纂作業は、世に比べる者なしと呼ばれた天才藤原不比等の手で進められ、史書もまた順調に成りつつあった。かりに草壁が病弱だったからだとしても、すでに天武天皇の殯宮(もがりのみや)の喪主として、立太子を内外に明らかにしていたはずだ。形だけの即位でも不都合はなかった。

だが、三年間も空位にしているうちに、草壁は病死してしまう。あたかも持統は、わが子が死ぬのを待っていたかのようだ。

そう、持統は草壁が死んだから、やむなく中継ぎとして即位したのではない。草壁の死を待っていたのであろう。なぜならば、みずから編纂させた「記」「紀」において、天照大御神および神功皇后(気長足姫尊)の記述をもって、女帝の正統性を語らせているからだ。元明・元正と女帝が連続することに、その編集意図は明白である。やはり古代の女性は太陽だったのだ。

上山春平氏は『神々の体系』の中で、『日本書紀』の神話には重要なテーマがあるという。祖母から孫への皇位継承(天孫降臨)がそれだ。のちに持統は孫の文武天皇に譲位して、みずからは皇統史上はじめての太上天皇(上皇)となるのだから。
彼女は帝位にあって、父・天智が果たせなかった律令の完成をいそぎ、藤原京の造営に力をそそいだ。そして大宝律令十七巻の完成を、上皇の立場でたしかめてから、その2年後に薨去した。

果断さと深慮遠謀な立ち居ふるまいから、壬申の乱そのものが彼女の策謀だったとか、天武から天智系への王朝交代説、さまざまに謀略説が語られるほど、その治世は力づよいものがある。不比等の辣腕ぶりに藤原氏の勃興も明らかだが、持統時代において古代天皇権力は最高潮に達したとされている。

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◆乙巳(いっし)の変──王家独裁のためのクーデター

推古天皇のあとをうけた舒明天皇の后が、皇極帝(宝皇女たからのひめみこ)である。夫の舒明天皇が崩御すると、彼女は四十八歳で帝位に就いた。

もともと蘇我蝦夷が舒明帝を擁立したこともあって、蘇我氏の後見のもとに即位した女帝だったが、古代史上もっとも有名な政変劇が彼女の眼前でおきる。近臣の者たちが斬り合う、突然の惨劇だった。乙巳(いっし)の変(大化の改新のはじまり)である。

殺されたのは蘇我入鹿、殺したのは女帝の実の息子・中大兄皇子(のちの天智)である。

剣で斬られた入鹿は、女帝に「なぜだ?」と問う。女帝は「わたしは何も知らない」。

そして、わが子・中大兄皇子を叱責するが、息子は入鹿の悪行を並べ立てて弾劾するのだった。入鹿が殺されたことを知った蝦夷は、自邸に火をかけて自死する。

この政変は従来、専横をきわめる蘇我氏を排除するための改革とみられてきたが、どうやら天皇親政、端的に言うと王家独裁のためのクーデターだったと思われる。

というのも、律令制は蘇我氏を中心にした豪族の連合政体(官僚システム)をめざしていたからだ。蘇我馬子と聖徳太子が描いてきた政権構想である。律令のもとで豪族は位階のある貴族(公家)となり、天皇を頂点とした官僚制度がつくられつつあったのだ。

ところが、中大兄皇子は中臣鎌足とともに、筆頭貴族の蘇我氏を排除することで、律令の官僚制を骨抜きにしたのである。のちに藤原氏の祖となる鎌足にとっては、当面する政敵の打倒にほかならなかった。

◆女帝によって築かれた古代王朝の全盛時代

なお、皇極が最初に結婚した相手とされる高向王が、蘇我入鹿である可能性を指摘する説もある(『日本の女帝』梅澤恵美子)。梅澤さんによれば、信州の善光寺には、皇極が地獄に堕ちたという伝承があるという。伝承の根拠は、殺された入鹿の呪詛だろうか。だとしたら、中大兄皇子は母親の不義、奸臣との癒着を断罪したことになり、事件は甚(はなは)だ生々しい気配をおびてくることになる。

政変ののち、皇極女帝は譲位して弟の軽皇子(孝徳天皇)が即位する。皇統史上はじめての譲位だった。孝徳天皇は大化と元号をさだめ、大化の改新がこのもとで行なわれた。中大兄皇子と中臣鎌足の独壇場である。遣唐使がもたらす書物によって、律令制はさらに整備されたが、なぜか政権は空中分解してしまう。

皇太子となった中大兄皇子・鎌足・皇祖母尊(皇極)の三人が、孝徳帝が遷都したばかりの難波宮から、飛鳥に引き上げてしまったのだ。天皇は失意のうちに亡くなった。蘇我氏から人材を得た孝徳帝を、中大兄皇子らが見限ったのだといわれている。してみると、大化の改新はやはり、蘇我氏をはじめとする豪族の官僚制を掘り崩す、古代朝廷権威の発揚とみるべきであろう。その古代王朝の全盛時代は、男性の帝によってではなく、歴代の女帝によって築かれたのである。

斉明帝として重祚(ちょうそ)した女帝は、巨大な公共事業をくり広げる。香具山の西から石上山まで水路を造り、二〇〇艘の舟で石を運ばせたという。水路の掘削に要した水工夫が三万人、石垣の造営に七万人の工夫が動員された。人びとはこれを「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と批判した。近年、酒船石遺跡の石積みが発掘された。それが儀式のための施設なのか、城砦なのかをめぐって古代史の議論を呼んでいる。

いずれにしても、独裁的に進められた公共事業は、天皇の強権への意志を感じさせるものがある。そして韓半島の騒乱に軍事介入し、百済復興のために出兵したものの、敗退して権益をうしなった。そして女帝も、遠征先の九州朝倉の地で没した。

◆シャーマンと官僚の闘い

政治家としてはともかく、人物はいたって優しかったようだ。母・吉備津姫王が病をえたとき、女帝は母が亡くなって喪葬がはじまるまで、そのかたわらを離れなかったという。可愛がっていた孫の健王が八歳で亡くなったときは、挽歌でその気持ちをのこしている。

飛鳥川 漲らひつつ 行く水の 間も無くも 思ほゆるかも
(飛鳥川があふれるように盛り上がって流れている、その水のように間もなく健王のことが思い出されることか)

山越えて 海渡るとも おもしろき 今城のなかは 忘らゆまじき
(山を越え海を渡って旅をしていても、健王の墓所のことが忘れられないでしょう)

女帝はまた旅行好き、温泉好きでもあった。有馬温泉、道後温泉、紀伊白浜の湯崎温泉に行幸したことが記録に残っている。

乙巳の変のまえのこと、蘇我入鹿が雨乞いをしても雨が降らなかったところ、女帝が跪いて四方を拝み天に祈ると、雷鳴とともに降雨があったという。シャーマンとしての資質もあったようだ。このシャーマンという女帝の特性を、読者諸賢はおぼえていて欲しい。古代王権をめぐる女帝と律令官僚の争闘はまさに、シャーマンと実務官僚の闘いとして帰結するのだから。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

やがて武力をともなう政争が、京の都を覆うようになる。

私兵をたくわえた、武士の発生である。われわれが最初の節でみてきた、奈良の都の政争も軍事力によるものだが、それらは律令制の兵役者の動員が焦点だった。国家の兵を動員しようとした手続きが漏れることで、反乱はいとも簡単に露顕してしまっている。奈良朝の貴族たちは、ほとんど私兵を持っていなかったからだ。

皇族の末裔である源氏と平氏が地方に土地をもとめ、あるいは武装した農民たちが荘園を押し取って地侍となったのが武士である。京都においては上皇の警護役として、北面の武士たちが、律令制下の検非違使庁や弾正台に取って代わっていた。

平安末期の保元・平治の乱をつうじて、まず平氏が中央政界に進出する。平氏の政権掌握は、藤原氏のそれと変わらない。娘を皇后や女御として天皇のもとに送り、外戚となることで実権をふるうものだ。平清盛の次女徳子(建礼門院)は、高倉帝の皇后となって安徳天皇を生んだ。武家の女性といえども、政治に関与できるのは子を産むことに限定されていた。

ところが武士の世となるにつれて、女性の政治への関与が大きくなってくる。男性的な戦乱が女性を表舞台に上(のぼ)せるという、一見して矛盾する現象が起きてくるのだ。あるいは女性たちを律令の位階・身分のくびきから、荒ぶる武士たちの時代が解き放ったというべきであろうか。

中世において際立つ女性政治家といえば、源頼朝とともに「鎌倉殿」と呼ばれ、夫の死後は「尼将軍」と呼ばれた北条政子であろう。彼女の荒々しくも情のある生きざまに、わたしたちは中世女性の逞しさを感じる。

政子が頼朝と恋愛関係になったのは、父の北条時政が京都大番役(警護)に出向いていた時期である。のちに政子は「暗夜をさまよい、雨をしのいであなたの所へまいりました」と、逢瀬の苦労を述懐している。父の反対にもかかわらず、頼朝を一途に想う大恋愛。最後は子(大姫)を宿し、堂々たるデキちゃった婚である。

したがって、気性の烈しい政子は嫉妬も並みではない。夫の頼朝も悪い。こともあろうに、彼女が妊娠中に頼朝は浮気をしていたのだ。相手は亀の前という女性だった。頼朝の側近・伏見広綱が彼女を屋敷に置いているのだという。

これを知った政子は、牧宗親に命じて亀の前が寄宿している伏見広綱の屋敷を打ち壊させた。これに怒った頼朝は、牧宗親の髻を(もとどり)を切るという恥辱を与える。牧宗親は北条時政の後妻の父親である。政子も黙ってはいない。

とうとう事態は、北条家と頼朝の対立にまで発展してしまった。北条時政は一族をひきいて鎌倉から伊豆にひきあげ、政子は伏見広綱を遠江に流罪にしてしまうのだ。武家の棟梁が何人も女性を囲うのは、後継者としての男子を得るための常識的な行為であるから、政子の嫉妬は並はずれていたというべきだろう。

そのいっぽうで政子は、義経を想う靜御前を哀れむなど、やさしい女性としての一面もみせている。静が生んだ男の子を、助命しようとしたのは有名な逸話だ。

頼朝亡き後の政子は、まさに尼将軍にふさわしい活躍だった。わが子で二代将軍の頼家は分別がさだまらない若武者で、きわめて独裁的な執政をおこなった。御家人の反発を抑えるために政子がしのんだ苦労はしかし、鎌倉が第一であってわが子のためにするものではなかった。

◆尼将軍

頼家の失政がつづき、さらに乳母の夫の比企能員を重用するにおよんで、北条氏と二代将軍頼家の対立は頂点にたっした。北条氏は政子の名で兵を起こし、謀叛の動きをみせた比企能員を討伐する。頼家は政子の命で出家させられ、伊豆修善寺に幽閉されたのちに暗殺された。それも政子の意志であっただろうか。

幕府を確固たるものにするために尼将軍政子の戦いは、実家の北条時政をも相手にせざるをえなかった。時政の後妻・牧の方という女性がなかなかの陰謀家で、三代将軍実朝を廃して女婿の平賀朝雅を将軍にしようとしたのだ。政子はやむなく弟の義時とともに、父を出家させて伊豆に追放した。だが、わが子実朝は頼家の子・公暁に殺されてしまう。

一族が相撃つ悲劇に苦しむ政子は、後鳥羽上皇に使者をおくり、上皇の皇子を鎌倉将軍として迎えようとする。

ところが、上皇は皇子を下らせる交換条件として、みずからの側室の荘園の地頭の罷免をもとめてきたのだ。この上皇の要求は、征夷大将軍の専権事項をくつがえしかねないものである。ここに、幕府と朝廷は冷戦状態に入った。

承久三年、後鳥羽上皇は京都守護を攻めて挙兵した。義時追討の院宣が発せられたのである。承久の乱である。このとき政子は、御家人たちに頼朝への恩義を言い聞かせ、彼らに鎌倉への忠義をもとめた。『吾妻鏡』にある、政子の演説を掲げておこう。高校生の歴史の史料問題でおなじみの一文だ。

皆、心を一にして奉るべし。これ最期の詞(ことば)なり。
故右大将軍、朝敵を征罰し、関東を草創してより、このかた、官位と云ひ俸禄と云ひ、
その恩すでに山岳よりも高く、溟渤(めいぼつ)よりも深し。報謝の志浅からんや。
しかるに今 逆臣の讒(ざん)によって、非義(ひぎ)の綸旨(りんじ)を下さる。
名を惜しむの族(やから)は、早く秀康(ひでやす)、胤義(たねよし)らを討ち取り、
三代将軍の遺跡(ゆいせき)を全うすべし。
ただし、院中に参ぜんと欲する者は、只今申し切るべし。

※秀康は藤原秀康、胤義は三浦胤義で、三浦は亡き頼家の妻を娶っていた関係で、在京中に鎌倉に造反した。

政子の檄にしたがった東国の軍勢は、19万騎といわれている。帝の錦旗を前にしてもひるむことなく、軍勢は北陸と美濃(墨俣)で朝廷軍をやぶった。京都は関東勢に蹂躙され、後鳥羽上皇は隠岐に配流となった。この乱に勝利することによって、鎌倉幕府の権威は全国に達することになったのである。

同時にそれは、天皇制が地に堕ちた時代の始まりである。所領(荘園)と座(専売権)を武士に押し取られた朝廷と公家は困窮し、受領名が勝手に名乗られるなど、天皇の権威は崩壊する。

ところで、承久の変は政子のように武家の棟梁となった人物の夫人であればこそ、果たすことができた女性政治家の壮挙なのかもしれない。それにしても、乱世のはじまりは、女性が家に籠って夫が通ってくるのを待つ受け身の状態から解放した。
女性たちは武器をとることも厭わなかったようだ。前述した二代将軍頼家が、建仁二年に修善寺に幽閉されたとき、警護したのは十五人の女騎だったと記録がのこっている(『日本の中世4』細川諒一)。

時代をくだって新田義貞が鎌倉を攻めたときに、材木座海岸で合戦になっているが、この合戦場跡地から249体の遺骨が発掘され、そのうち76体が女性のものだったと判明している(『骨が語る日本史』鈴木尚、『合戦場の女たち』横山茂彦、情況新書)。南北朝争乱の時期の記録『園太暦』(洞院公賢)にも、山名勢の残存兵は女騎ばかりだというものが残っている。中世は女性の時代だったのかもしれない。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

7日発売!月刊『紙の爆弾』2020年8月号【特集第4弾】「新型コロナ危機」と安倍失政 河合夫妻逮捕も“他人のせい”安倍晋三が退陣する日

ここまで呪術・神託などのシャーマンを媒介に、古代女性が祭司的な権力を握っていたことを探ってきた。その権力の基盤となっていたのは、日本が世界史的には稀な、母系社会だったことによる。われわれの祖先の社会全体が、母親を中心にした家族構成を認めていたからにほかならない。

万葉集の両親を詠った歌は、母親を主題にしたものがほとんどである。父親を詠ったものはきわめて少ない。そのいっぽうで、夫が来ないことを嘆く女性の歌は、おびただしい数にのぼる。ここに古代(明日香・奈良)から中世にかけて(平安期を中古ともいう)の、日本人の生活様式が明らかだ。

古代の日本は夫が妻のもとに通う、通い婚だったのである。庶民のあいだに家という単位はまだなく、集落で共同して労働に取り組んでいた。そして家族のわずかな財産は、母から娘へと受け継がれたのだ。女性が家にとどまり、男性は外に家族をもとめたからである。財産を継承するには、まだ男性の生産活動は乏しすぎた。母系社会とは集落の中の家を存続するためにはかられた、まさにこの意味である。

この婚姻形態は、平安時代にも引きつがれた。右大将藤原道綱の母による『蜻蛉日記』にはときおり、夫の藤原兼家が訪ねてくるくだりがある。彼女は『尊卑分脈』に本朝一の美女三人のうちの一人とされている。

のちに摂政関白・太政大臣に登りつめる兼家はしたがって、美人妻を放っておいたことになる。ちなみに他の美女二人は、文徳帝の女御・藤原明子(染殿后)、藤原安宿媛(光明皇后)であるという。光明皇后は前節でみた孝謙女帝の母だから、かの女帝も美人だったのだろう。

◆宮中文化も、もとは庶民の文化だった

それはともかく、平安の女性たちは奈良の都の女帝たちにくらべると、いかにも穏やかでおとなしい。彼女たちは実家にいて、夫が通ってくるのを待つのみだ。宮仕えをすれば、それなりに愉しいこともあったやに思えるが、道綱の母の姪にあたる菅原孝標の娘は「宮仕えは、つらいことが多い」(『更科日記』)と嘆いている。

この時代に、世界に冠たる女流文学『源氏物語』(紫式部)や名エッセイ『枕草子』(清少納言)が世を謳歌したけれども、女性の政治的な活躍は見あたらない。いや、それは政治の舞台に視線を定めているからであって、じつは詠歌こそが宮廷内の政治だったとすれば、平安の女性の活躍もめざましい。詠歌は今日も宮中歌会に引き継がれる、天皇制文化の根幹でもあるのだ。武家の花押が閣議の場に引き継がれ、和歌が宮中儀礼に引き継がれる。しかしいずれも、もとは庶民の文化であった。読み人知らずと呼ばれる庶民、もしくは名前を伏せられた詠歌は万葉集の圧倒的多数であって、君が代もまた読み人知らずなのである。天皇制を無力化するというのなら、庶民の対抗文化を創出・流行させないかぎり、擬制の「伝統」に勝てないのではないか。

◆平和とは何かを考える

三十六歌仙には小野小町、伊勢の御息所、その娘である中務、三条帝の女蔵人であった小大君、皇族では徽子女王(村上帝の女御)と、名だたる女流歌人たちがいる。和泉式部は『和泉式部日記』、赤染衛門は『栄華物語』の作者に擬せられる。

ほかに名前を挙げてみよう。佑子内親王家紀伊、選子内親王家宰相、待賢門院堀河、宜秋門院丹後、皇嘉門別当。しかし、いずれも仕えた権門の名、出身家の名前であって、彼女たちの本名がわからない。

そして、いずれもが下々の者だからわからないのだと言えるが、彼女たちが仕えた氏姓(うじかばね)も諱(いみな)もある女人たちは、これまたいずれも史料がなくてわからないのである。やんごとなき姫君たち、あるいは帝の后たちは、歌人としてはいまひとつだったようだ。

平安時代は江戸時代とともに、日本史史上きわめて平和な時代だった。死刑が廃された時代でもある。政治である以上は政争や暗殺もあったし、僧兵(学僧)の反乱はおびただしかったが、平和だからこその騒乱なのである。社会が安定しているからこその、あだ花の学生運動みたいなものだろう。防人の制度(徴兵制度と軍隊)も解散し、死刑もなく、戦争や紛争がなかったから女性の活躍があったはずなのに、それは歌道と小説・エッセイにかぎられていた。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

月刊『紙の爆弾』2020年7月号【特集第3弾】「新型コロナ危機」と安倍失政

鹿砦社創業50周年記念出版『一九六九年 混沌と狂騒の時代』

「感染症と人類の歴史」の日本編を書こうとしていたところ、やはり王権史と不可分になる。よって、本稿は「天皇制はどこからやって来たのか」の続編となった。ということで、中身は古代王権および近世の絶対王政における西欧との比較史にならざるをえない。天皇史については、女性天皇および女性宮家の議論に引きつけて、古代女帝論を連載していますのでご一読ください。

◆安倍総理は大丈夫か?

国家の危機管理が政治の責任である以上、感染病をふくめた災害がすべて「人災」と評価されるのはやむを得ないところだ。わが安倍総理においては、もはや意識も朦朧とした状態で、記者会見では官僚が書いた文書を読むことしかできない。わずかに激情的なところは健在で、アベノマスクをあげつらわれると、答弁が激昂する。などと、世間の酷評もある。危機管理のきわめて苦手なこの宰相が、第一次政権のときのように体調を崩さなければよいのだが……。

『金枝篇』の著者ジェームズ・フレイザー(1854年1月1日-1941年5月7日)

◆自然との調和をもとめられる王権

さて、古代王権である。

古代のヨーロッパには、宗教的権威を持つ王が弱体化すると、新たな王を戴く「王殺し」の風習があった(ジェームズ・フレイザー『金枝篇』)。

そのいわれは、イタリアのネミ村の故事である。断崖の真下にある金の枝を手にすることで、逃亡奴隷は森の王となれる。ただし、新たに森の王となるには、金枝だけでなく現在の森の王を殺さなければならないのだ。王を殺す風習はしたがって、古い王が自然との調和を欠いた時、新たな王が取って代わることによる。この寓話は古代において、王朝交代の大義名分となった。

すなわち、自然災害や疫病はこれすべて王の不行状によるものだとして、新たな王は古い王の罪状をあげるのだ。とくに暴君が廃されたところに、われわれは古代ギリシャ・ローマの民主主義のつよさを感じる。

本連載の3回目「院政という二重権力、わが国にしかない政体」の第1項、「殺されるヨーロッパの王たち」において、「歴代ローマ皇帝七十人のうち、暗殺された皇帝が二十三人、暗殺された可能性がある皇帝は八人である。ほかに処刑が三人、戦死が九人、自殺五人。自然死と思われるのは二十人にすぎない」と解説してきたとおりだ。

もともと民主制を基礎にしたローマ皇帝の場合は、上級貴族である元老院の承認が必要であって、王朝交代もふくめて世襲は限られている。世襲が独裁をまねき、民主制をくつがえす潜主をまねくと考えられてきたからだ。事実、11代皇帝のドミティアヌス、賢帝マルクス・アウレリウスの息子のコモドゥスなど、世襲の息子には暴君が多く、かれら暴君はことごとく暗殺されている。

イギリスを創ったとされるアーサー王

東西ローマ帝国においては、キリスト教の受容によって教皇庁および教皇という教会権力が、政治システムとして王の上に君臨した。それは現在のローマ教皇庁につながり、汎世界的な宗教センターとなっている。ローマは皇帝から教皇庁の支配するところとなった。中世の終わりまでこれは神聖ローマ帝国としてつづく。

中世的な王権が成立するのは、ローマ教皇が兼務したフランク王国(現在のイタリア・フランス・ドイツ・ベルギー・オーストリアなど)から諸民族の王が分立してからである。それは近世的な民族国家の萌芽でもある。

中世においても、王は人間の身でありながら宇宙の秩序を司る存在であるから、その能力を失った王を殺害して新たな王を擁立して秩序を回復することが、王朝交代の名分となっていた。中世は司祭の職能者としての王が殺され、王朝は取って代わられる時代だったのだ。

不可侵の王権神授説が登場するのは、絶対制権力としての近世王朝を待たなければならない。イギリスを創ったとされるアーサー王は5世紀の人物(伝説)であり、ローマ帝国を破ってブリテンに自由をもたらした。その意味では天地創造などキリスト教の聖書世界に属するものではない。したがって、ヨーロッパの諸王は王権を神から授かったという宗教理論をもって、その正統性を説明することになったのだ。爾後、国王殺しは大罪となったのである。

◆天子相関説

古代の東洋においても、王(皇帝)の責任は天変地異と疫病におよんでいた。天子が行なう政治が天と不可分であるとする「天子相関説」である。天子の為すところは自然現象に反映され、したがって悪政を行なえば大火や天変地異や疫病をもたらす。天子が善政を行えば、瑞獣や瑞雲の出現などさまざまな吉兆として現れるというのだ。こういった主張は、天子(君主)の暴政を抑止するために、一定の効果があったものと考えられる。

じつは「万世一系」とされる本朝の皇統においても、天子(帝)は天変地異や疫病の責任を問われた。奈良朝の聖武帝が天然痘の猛威によって遷都をくり返し、国分寺と国分尼寺を全国に、奈良に盧舎那大仏を建立したのはすでに述べたが、くり返しておこう。

奈良朝の735年から737年にかけて発生した天然痘の流行は、当時の日本の総人口の30%にあたる100万~150万人が感染により死亡したとされている。この天然痘は735年に九州で発生したのち全国に広がり、首都である平城京でも大量の感染者を出した。737年6月には疫病の蔓延によって朝廷の政務が停止される事態となる。藤原不比等の4人の息子が、相次いで病に斃れた。

いっぽうで、古代天皇権力と藤原氏に代表される貴族(荘園領主)との争闘が、仏教事業をめぐってくり返されていた(長屋王の変、藤原広嗣の乱、橘奈良麻呂の乱、恵美押勝の乱)。最終的には藤原氏の陰謀(弓削道鏡の宇佐神宮神託事件)によって、女帝(巫女)の神託政治が廃され、同時に摂関政治への道がひらかれるわけだが、祟りを怖れ吉兆を尊ぶ政治が終わったわけではない。平安の世の貴族政治は、古代王朝以上に神仏を敬い、その怒りを怖れていた。したがって帝たちは、つねに陰陽師の差配をうけ、あるいは天変地異にその政道を左右されたのである。天変地異にその地位を揺さぶられた、平安朝の典型的な天皇を紹介しよう。

◆天変地異に祟られた天皇

清和帝の人生は、幼い頃から波乱含みだった。

即位したのはわずか9歳、日本史上初の幼帝である。政治の実権を握っていたのは母方の祖父藤原良房で、藤原北家全盛の礎を築いた人物である。また、帝の息子である源経基は源氏の初代であり、清和源氏という血脈でもその名を知られる。
その清和帝の「治世」をざっと年表で確認してみよう。

天変地異に祟られた清和帝(850年-881年)

858年 即位(9歳)
864年 富士山が噴火
866年 応天門の変。大干ばつ
867年 別府鶴見岳・阿蘇山が噴火
868年 京都で有感地震(21回)
869年 肥後津波地震、貞観大地震★
871年 出羽鳥海山の噴火
872年 京都で有感地震(15回)
873年 京都で有感地震(12回)
874年 京都で有感地震(13回)。開聞岳噴火
876年 大極殿が火災で焼失。譲位
878年 関東で相模・武蔵地震
879年 出家。京都で有感地震(12回)
880年 京都で地震が多発(31回)。死去(享年31)

ほとんど毎年、天変地異に襲われていたことになる。

869年の貞観大地震と9世紀の大地震分布図

このうち最も有名なのは、869年の貞観大地震である。地震の規模は少なくともマグニチュード8.3以上であったとされる。地震にともなって発生した津波による被害も甚大であった。東日本大震災はこの地震の再来ではないかと言われている。
日本紀略、類聚国史(一七一)から、その態様を伝えておこう。

「5月26日癸未の日、陸奥国で大地震が起きた。空を流れる光が夜を昼のように照らし、人々は叫び声を挙げて身を伏せ、立つことができなかった。ある者は家屋の下敷きとなって圧死し、ある者は地割れに呑まれた。驚いた牛や馬は奔走したり互いに踏みつけ合い、城や倉庫・門櫓・壁などが多数崩れ落ちた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧き上がり、川が逆流し、波が長く連なって押し寄せ、たちまち城下に達した。内陸部まで果ても知れないほど水浸しとなり、野原も道も大海原となった。船で逃げたり山に避難したりすることができずに千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の財産も、ほとんど何も残らなかった」

◆不徳の天子

この貞観地震の教訓は「中通り」と呼ばれる内陸地への居住、街道の発達となった。しかしながら現地(東北太平洋側)では伝承がとぼしく、東日本大震災後にあらためて注目されることになったのだ。

清和帝時代は、このほかに京都でも三年間に40回の有感地震が記録され、大極殿が火災で焼失されるにいたり、帝は譲位を余儀なくされる。31歳で病没まで、地震の多発に悩まされた。

貞観大地震が起きた869年(貞観11年)はまた、祇園祭が発祥した年でもある。京都八坂神社の伝承によると『貞観11年に全国で大流行した疫病を抑えるためにはじめた』とされている。大地震と疫病の発生は、偶然であろうか。朝廷内にも、帝の責を問う者は少なくなかったという。ために、清和帝は退位後に得度し、仏教修行にこれ努めている。天災は天子の責任なのである。

神戸大震災と東日本大震災をその在位期に体験した平成上皇は、当時であればさしずめ「不徳の君子」と言わざるを得ないのであろう。そして令和天皇もまた、感染禍の君子であろうか。

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▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

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◆仏教・砂鉄・蘇我氏の時代

6世紀(500年代)は仏教が伝来し、他方では砂鉄から鉄器が精製される方法が確立した。いわば文化的な革新と技術の進歩に、社会が大きな衝撃をうけた。現代でいえば、IT革命や素材革命が起きたようなものだ。

そのような活力のある時代に、堅塩媛(推古天皇)は第30代敏達天皇の后となった。この時期、仏教を奉じる蘇我氏と、古神道の家柄である物部氏とのあいだに、政権をめぐる暗闘があったのは周知のとおり。その有力豪族である蘇我馬子の姪・堅塩媛が34歳のときに、敏達天皇が崩御してしまう。用明天皇が帝位を継承するも、これも2年後に亡くなる。

そのかん、蘇我氏と物部氏の抗争が勃発して、勝利した蘇我氏が崇峻帝を擁立した。その崇峻帝も、蘇我氏の手によって弑逆される。崇峻天皇は皇統史上ゆいいつ、暗殺された天皇ということになっているが、真相はよくわからない。背後には蘇我氏の政権運営と、それに反発する帝との確執があったとされる。

蘇我馬子の思惑はおそらく、聡明な厩戸皇子を皇太子に、すなわち聖徳太子にすることにあった。蘇我系の帝をいただき、仏教の保護と外交政策を継続する。そんな狙いが、姪の堅塩媛(推古)を即位せしめたのではないか。推古即位ののちに亡くなってしまう日嗣(ひつぎ)の皇子竹田(推古の実子)はおそらく、馬子にとっての本流ではなかっただろう。

◆なぜ、皇太子厩戸(聖徳太子)は即位しなかったか

蘇我氏のバックアップがある、安定した推古政権のもとで、摂政厩戸皇子はその能力を開花させた。十七条憲法、官位十二階など法令の整備、法隆寺の建立、遣隋使の派遣、『天皇記』『国記』を編纂したのがそれである。

しかしながら、待望された厩戸の即位は実現しなかった。推古30年、皇子は49歳で薨去。

ところで馬子と厩戸の影に隠れてみえる推古帝だが、伯父でもある実力者の馬子が葛城県を望んだ時に、私情をはさまない対応でこれを退けている。

それにしてもなぜ、皇太子厩戸(聖徳太子)は即位しなかったのだろうか。崇峻帝のように暗殺されるのを怖れたのか、あるいは摂政という立場で自由に政権を運営したかったのか。それとも、臣下の合議による政権運営という、律令国家の理想がすでに厩戸の政治構想のなかに胚胎していたのか。

もしかしたら推古こそが、馬子と厩戸を使いわけるように君臨した、実力派の女帝だったのかもしれない。「日本書紀」の推古記は、容姿端麗で身のこなしも乱れがなく美しかった、と伝えている。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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