足立秀夫(右)VS弾正勝戦。苦戦したが、際どい判定勝利。ベテラン弾正勝は強かった(1982年10月3日)

足立秀夫(右)VSタイガー岡内戦。西川ジムに移籍して3戦目はKO勝利。タイガー岡内は後に別団体でチャンピオンに就いた(1981年11月22日)

弾正勝戦。赤コーナーでインターバルを過ごし、会長のアドバイスを聞く(1982年10月3日)

強豪バンモット戦 。勇敢に攻めるもムエタイの壁は厚かった(1982年1月4日)

バンモットに敗れ、引き上げた直後、ヒジで切られる傷も痛々しい。しかし悩まないのが勇者(1982年1月4日)

チャンピオンに成れなかった選手でも、ファンに感動を与え記憶に残る試合を展開した名選手が過去に多く存在しました。そして毎度申します昭和50年代のキックボクシング低迷期の、モチベーションを維持し難い時代にも「明日(今後)は良くなる」と信じ頑張った選手とプロモーターが幾人もいました。

こんな時代にキックボクシング業界に踏み込んだ私(堀田)は撮影の為、足立秀夫というキックボクサーとしばらく行動を共にする機会を得ました。付き合った初めに感じたことは「キックボクサーって普通の人と同じ生活や人格なのだな」ということでした。怖い顔ながら面白いことを言ったり御茶目なイタズラをし、銭湯でとても活字にできない笑いを起こし、また人生観から厳しいことも言うことは当たり前ですが、決してヤンチャな風貌ではなく普通に街を歩く若者で、田舎から出てきたばかりの私にとってはキックボクサーのイメージが大きく変わった年になりました。これは足立氏だけでなく個人差はあれど、キックボクサー皆普通の人という感じでした。

1979年(昭和54年)4月、22歳になる年にデビューした足立秀夫は名門・目黒ジムで大きな期待を掛けられデビューから6連勝。子供の頃から気が弱いが、これを克服しようと走ることが得意だったことから自然と苦しい限界に自ら挑む精神を身に付け、マラソンでは常に一番になり、海上自衛隊在籍中、たまたまキックをやっていた隊員に誘われたことから目黒ジムを見学し、衝撃的にキックの凄さを実感したことから、いきなり自衛隊を辞めキックに転身。子供の頃からの走り込みで身に付いたパワーとスタミナでガムシャラに勢いだけで勝ち進むと、「この先はこれだけでは勝てなくなる、もっと強くなりたい、技術を磨きたい」とより一層そんな欲求に苛まれました。

しかし1981年(昭和56年)、キックボクシング業界は創設16年目を迎えて最大の危機に陥っていた時代でした。興行数は極端に減った中でも、“明日は良くなる”と信じ、技術を磨きにタイへ渡ることを決意。そのタイ修行中に出逢ったのが現地在住していた元・東洋フェザー級チャンピオン.西川純(目黒)氏でした。かつての創生期では沢村忠と二大看板となって戦っていた時代もある西川氏は、日本の選手の育っていない現状打破の為、ジムを始める計画を立てていた時期で、足立氏は日本で西川氏からムエタイ技術を学ぶことを望み移籍を決意。目黒ジムの系列から移籍の問題は無く、帰国後、西川ジムへ移籍したのは同年の夏でした。

そんな時期に日本のキック二大団体から分裂騒動が起き、“規模的”に第三勢力と言われた日本プロキックボクシング連盟が誕生し、西川ジムも加盟していました。

西川ジムは京成小岩駅から程近い路地にある共同アパートが選手の合宿所となり、当初は他のジムで間借り練習をしていましたが、以前から臨時にやっていた合宿所前の路地が練習の場となっていました。夕方から3時間ほどの練習に選手が集中し、路地が「ムエタイジムにそっくりなほど賑やかになった」と足立氏が言うほど。サンドバッグを吊るす柱が植え込みに建てられ、ラジカセで大音量で音楽を流し、選手のリズムを駆り立てるよくある練習風景。ミット蹴りの激しい音は路地を越えて広がり、立ち止まって見ていく通行人もいてテレビ放映が無くなった時代、「キックってまだやってんだ」という人もいたほどでした。初めて練習を間近で見た時は、足立氏の蹴りが速くて威力あって凄いこと。「プロの蹴りって凄いな」と思った瞬間でした。

迎えた1982年1月4日のバンモット・ルークバンコー(タイ)戦、1ラウンドから勇敢に向かう足立氏に「このペースなら勝てる」と囁いた西川会長。しかし来日4戦4勝のバンモットは怯まず調子を上げていき、足立氏は3ラウンドでパンチで倒されてしまいました。タイの元ランカーはやっぱり強く、負ける悔しさも観ている側もが感じた試合でしたが、「対バンモット戦は足立がいちばんいい試合をした」という評価がついて回る試合後の日々でした。ひとつ区切りがついた私の追跡撮影でしたが、次の課題を追って西川ジムにはその後もお邪魔しました。

そんな時期から1年あまり過ぎた頃、夕方の練習時に、おまわりさんが自転車でやってきました。

「近所から苦情が出ています。すぐやめてください。」

思えば通行人も遠慮しながら道を渡る日々。私が感じていた“キックボクサーは怖い人種ではない”という想いも集団で奇声を上げて練習していれば近所から見れば異様な光景だったのでしょう。“怖い人種ではない”この集団は試合が近いにもかかわらず納得し、直ぐに撤収しました。

ジムが無い頃の路上練習は、より集中的にそれなりの充実感があった(1981年12月27日)

1983年、初詣ロードワークを兼ねた初詣の帰り道。右は向山鉄也(1983年正月)

小岩の西川ジム風景。キツイ練習も充実した青春の時間(1983年8月10日)

小岩の西川ジム風景。「西川会長が持つミットが最も蹴りやすかった」とすべての選手は言う(1983年8月10日)

小岩の西川ジム風景。設備が整ったジムで思いっきりスパーリングも可能なことに感謝する選手たち(1983年8月10日)

小岩の西川ジム風景。後輩に声掛けアドバイス、ジョークも言うリラックスした瞬間(1983年8月10日)

一番印象深く、戦えるだけで光栄だった藤原敏男戦。足立秀夫は藤原敏男のラストファイトの相手となった(1983年2月5日)

藤原戦から3ヶ月後、目標としていた須田康徳(左)と対戦したがまたも敗れ去る。とはいえ足立にとっては充実した時期だった(1983年5月28日)

練習場を失っても足立氏は「ミット持ってくれる会長が居れば練習はどこでもできる。」と平然としたもの。西川氏が取った策は合宿所アパートの六畳間の壁を撤去した2部屋を練習場としてしまったことでした。さすがにどこでも練習はできる環境でした。いずれにせよ路上練習を長く続けるつもりはなかった西川氏は同年12月には国鉄小岩駅から200メートルほど離れたビルの一室を借り、設備整った西川ジムが本格始動しました。

ジム開きでは、足立氏は元ムエタイチャンピオン.藤原敏男氏をゲストに記念スパーリングを行なう貴重な体験をし、その時期に行なわれていたイベントが、1000万円争奪三階級オープントーナメント。分裂によって5団体に増えたキック界が総力を結集した一大イベントでした。過去何度も繰り返されての今度こそ“明日は良くなる”と信じた多くの関係者でした。

足立氏は4強に残り、準決勝で藤原敏男(黒崎)と対戦。150戦を超える、ムエタイ王座を制した藤原敏男氏には、その存在感だけで萎縮してしまう選手が多い中、いつもよりガードを高く上げ、スパーリング経験を活かし勇敢に攻める足立でしたが、軽く足払いで宙に高く舞わされるほど藤原敏男の動体視力とタイミングの良さ、当て勘に3ラウンドに隙を突かれた右ストレートで倒されました。その直後、伝説となった藤原敏男氏の引退宣言があり、足立氏は藤原敏男氏の最後の対戦相手となった話題に残る存在となりました。

藤原敏男氏と蹴りあったその経験はひとつの自信に繋がり、10日後に行なわれた香港遠征ではタイ選手にKO勝ち。「技も大事だが、心が充実することが最も重要」と語っていました。

飛鳥信也戦。ラストファイトとなった最後のリング。4年ぶりに衣笠真寿男リングアナにコールされる足立秀夫(1984年11月30日)

そんな香港連戦の中、同年5月にTBSキック(日本系)「最後のスター」と言われた須田康徳(市原)と対戦する日本プロキック・ライト級王座決定戦が実現。過去の分裂前の1981年9月に須田に挑戦する日本ライト級タイトルマッチを戦っている足立氏は“打倒・須田康徳”を目標に掲げ戦って来た現役生活でした。前回は僅差の判定負け。今度こその想いも叶わず、パンチで倒され3ラウンド終了TKO負けに終わりました。総力を結集したオープントーナメントが終っても業界の分散は続き、キック界の皆がいちばん途方にくれた時期だったかもしれません。それぞれが“明日を良くする目標”を持って道を切り開く中でも、足立氏に限らず選手のモチベーションの維持は難しかったでしょう。

そんな途方に暮れる中、ある実業家によって1984年(昭和59年)11月の統合団体が実現、一過性のオープントーナメントとは違い、定期興行が約束される日本キックボクシング連盟設立に至りました。ようやく本当の“明日は良くなる時代”がやってきましたが、足立氏はそれまでライバルを突き放し、上位へ挑戦し続けた現役生活、しかし次第に巻き返された昭和59年という年の、その設立興行に出場した足立氏でしたが、減量苦からくる体調不良で新鋭・飛鳥信也(目黒)にKO負け、引退を決意しました。

引退後に結婚し、後に故郷の静岡県袋井市に帰って焼肉店「東大門」を開店した足立氏。後々には焼肉店の隣に東大門ジムを設立し、選手育成も始めました。2000年代に入った頃のニュージャパンキックボクシング連盟興行で選手を連れて前日計量に現れた足立氏。笑顔で私と再会しました。この笑顔は現役時代には無かった穏やかな表情で「商売人は笑顔で居なくちゃ駄目だよ」と焼肉専門店の先輩から教えられたことから「笑顔で居るのが癖になっちゃったよ」と笑う足立氏。その影響はあるにせよ、ずいぶん表情も言葉も丸くなったものだと思う私でした。

地方に居てはなかなか選手も集まらない中、焼肉店支配人として二束わらじも大変でキックから遠ざかるも、今年You Tubeでその姿を見ることができました。昔と変わらない雑然としたジムの雰囲気、ミットの持ち方。こんな人があの時代を支えた一人であったこと懐かしく貴重に想うところ、かつて倒した相手が他団体でチャンピオンに成っていたり、空位王座が目立った他団体であれば足立氏はチャンピオンに成っていたことでしょう。加盟していた日本プロキック連盟ではチャンピオンには届きませんでしたが、“須田康徳を倒してこそ真のチャンピオン”と信じた現役生活に悔いは無く、「須田さんとも藤原さんとも戦えた充実したキックボクサー生活だった」と後に語っていました。

現在は息子さんが3人居て、皆成人しており、長男が消防士、次男が介護士、三男が警察官という何とも過酷な忍耐要る職種の息子さんたち。父親から受け継いだ忍耐心を持って挑んだ天職なのでしょう。もうすぐ60歳になるという足立秀夫氏。今は若い者に店を任せ、ジムに顔を出す時間を増やしたという。選手を育てるには時間は掛かるが、「また後楽園ホールに選手を送り込みたい」と日々頑張っています。

引分け勝者扱いながら変則的・翼吾郎を退ける(1983年1月7日)

[撮影・文]堀田春樹

▼堀田春樹(ほった・はるき)
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

7日発売!タブーなきスキャンダルマガジン『紙の爆弾』