◆国民の4分の1が開港に反対だった

管制塔占拠――開港阻止は、あまねく国民に三里塚空港の問題点を伝えた。議会は実力による開港阻止を批判し、ほぼ全会一致で暴力的反対運動を退けるために成田治安立法を決議した(青島幸男議員が反対)が、マスコミによると国民の4分の1が農地を空港にすることに反対だった。問答無用の土地収用、地域社会・共同体の破壊につながる空港が本当に必要なのか、国民的な議論が沸き起こった。空港問題を国民に知らしめただけで、3.26闘争の意義は大きかったといえよう。

戦前・戦後をつうじて、反政府の大衆運動がまがりなりにも警察権力に勝った、初めての闘争でもあった。岸内閣を倒した名高い60年安保闘争も、警備当局を驚嘆させた10.8羽田闘争(佐藤ベトナム訪問阻止)、東大闘争をはじめとする諸大学の全共闘運動も、「具体的な勝利」の地平を切りひらいたものではない。60年代後期の大学闘争では佐藤政府の介入で反故にされたものの、9.30断交で理事会を辞任させ、諸要求を勝ち取った日大闘争が唯一のものであろう。その意味では、60年代・70年代闘争のうっ憤を晴らす快挙だった。


◎[参考動画]1978.3.26 三里塚 成田闘争 管制塔占領事件(rosamour909 2010年5月13日公開)

◆財界による和解調停 ── 桜田武の手紙

いっぽうで、政治的な駆け引きもはじまった。地域的とはいえ、改造トラックやダンプカーが機動隊を蹂躙し、鉄筋コンクリートの要塞からは鉄筋弾が飛びかう。そして管制塔が占拠されたことで、和解への道がさぐられた。それは政府においても、空港反対派においても同様だった。闘争には妥結という果実が必要であり、相互絶滅にいたる闘争の展望を語る者は、おそらく共産主義革命という究極目標を措定したのにほかならない。いや、共産主義革命を標榜する者たちにおいてすら、革命のための陣地を確保すること。すなわち勝ち取った地平を、交渉において確約させることが必要だった。それは具体的には、三里塚空港二期工事の凍結という確約にほかならない。

最初にうごいたのは政府ではなく、財界と労働界だった。

総評の富塚三夫事務局長と福永健司運輸大臣が会い、話し合いの糸口を探ろうとした。それはしかし、とりあえず反対同盟内の社会党員と話をつなごうとする、形ばかりのものにしかならなかった。

 

桜田武=元日経連名誉会長、元日清紡績社長(1904年3月17日生~1985年4月29日没)

本気で和解――休戦協定への糸口をさぐっていたのは、財界人と影響力のある組合活動家である。財界からの接触をうけた長崎造船労組の西村卓司は、反対同盟の幹部に接触し、戸村一作委員長との面談を希望した。そのさい、西村は反対同盟の強硬派(絶対反対派)の幹部と会って、戸村との会見を取りようとしたのだ。西村は総評労働運動の最左派に位置する老練な活動家で、役回りとしてはこの人しかなかった。財界側は日経連専務理事(当時)の桜田武だった。

桜田武の手紙はこんな書き出しで始まる。

「西村卓司様                 桜田武

先般は御面識の儀を得て小生としても心おきなく意見を申し上げ、又戸村さんはじめ皆様のご意見を承はる事が出来大変に有難く且うれしく存じ候。其後福永健司大臣と一夕懇談仕りご要望の点等傳えて進言仕り候も思ふに任せず残念に存じ候。要するに政府12年に亘るやり方の不誠意にある事は明らかと存じ……」

この手紙を受けた西村は、開港阻止闘争の主力党派だった第四インターの政治局員・今野求に電話を入れた。会合したのは成田現地だった。そこで話されたのは、桜田武と土光経団連会長ほか、財界のトップが交渉に出席するので、戸村一作委員長の出席をお願いしたいと。戸村委員長の説得には時間がかかった。戸村委員長は清廉の士であり、裏交渉などという「政治」が嫌いな人である。

 

戸村一作=三里塚芝山連合空港反対同盟委員長(1909年5月29日生~1979年11月2日没)

最後は「戸村さん、2月の要塞戦を含め3.26闘争で若者たちが何百人も逮捕され、大怪我した者、死にそうな者もいる。管制塔は破壊されて、3月30日の開港は粉砕された。この後、敵の大将と掛け合って5月20日開港を止めるのは戸村さんあなたがやって下さい!」という言葉が決定的だったという(「3.26直後の財界の休戦申し入れ顛末」柘植洋三)。

財界側は桜田武(日本経済団体連合会専務理事)・土光敏夫(日本経済団体連合会頭)・中山素平(興業銀行頭取)・今里廣記(日経連広報委員長)・秦野章(参議院議員)・五島昇(日本商工会議所会頭)。このうち二人は海外だったが、国際電話で直結されていた。当時の財界のフルスタッフがそろっていたわけである。

桜田武が発言した。

「そもそも、成田問題がこのようにこじれているのは、政府の12年にわたる不誠実に問題がある。成田はこのまま開港しても、天皇陛下が外国に行幸される際に使えるものではない。三池問題など戦後の大問題は、最後はわれわれ財界が始末を付けてきた。暗礁に乗り上げている成田問題も我々が、打開策を政府に提案したい」これに対して戸村委員長は、席上の相手を見据えて「話し合いなど必要ない、実力闘争あるのみ」と、政府の理不尽を糾弾した。

 

戸村一作『わが十字架・三里塚―自己変革論』(1974年教文館)

会談は二回行われ、以下のことが合意された。

・政府は予定している5月20日開港を一年間延期する。
・一年間の休戦をする。その間、双方は共に実力行動を留保する。
・その間に双方の合意がなければ、一年後には戦闘再開。
・財界はこの条件を福田内閣に受け入れさせるために、運輸大臣に会見する。

財界としては、反対派との交渉のイニシアチブを握ることで福田総理の退陣をもとめ、空港問題の暫定的な解決をはかろうとする意図があった。それは膠着した空港問題の解決をはかるとともに、財界の存在感を世間にしめそうとするものでもあった。

いっぽう三里塚現地では、30をこえる支援党派・団体が共同声明を発表し、5月20日の出直し開港が強行されれば、3.26を上まわる闘いで粉砕すると警告した。5月10日のことである。そして同じ時刻に、戸村委員長が福永運輸大臣と会っているとの情報が入った。戸村・福永会談をセットしたのは、千葉日報の社長と自民党の成田空港建設促進委員長だった。(つづく)


◎[参考動画]三里塚空港・開港阻止決戦 1978.3.26 包囲・突入・占拠(anzen bund 2014年2月16日公開)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

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