出直し開港の5月20日(1978年)を前に、戸村一作委員長が福永運輸大臣と会談したことで、財界首脳の休戦協定案は棚ざらしにされた。そしてそのまま、事実上の消失だった。政府運輸省は、戸村委員長と「対話」したことで、誠意を尽くした格好を得たのである。

◆清廉な政治と裏の政治

閣僚や自民党有力者(中曾根康弘ほか)は「機関銃で過激派を掃討しろ」とか、暴力には暴力で応じるとばかりに気色ばんでいたが、冷静だったのは千葉県自民党だったということになる。その意味で、財界との合意(休戦協定案)が反故になる政府との「対話」に応じた戸村委員長は、裏の政治がわかっていなかった。いや、空港絶対反対という原則をつらぬく清廉な政治が、反対運動の力の源泉だったのだから、裏の政治がわからないのは仕方がない。誰もが納得できる、闘争の原点でもある原則なのだから。やがてその原則は、時間の推移とともに、いわゆる「脱落」や「条件派」への転向が相次ぎ、反対同盟の組織の脆さを浮き彫りにしてゆく。

そもそも空港建設反対は農民の営農と生活を否定するものに対する闘争だったのだから、営農と生活の原点から考えれば、空港が開港した以上、単なる反対闘争だけで良かったのかどうか。この時期から農作物の共同出荷や有機農業など、新しい農業のあり方が検討されるいっぽう、農業を十分にやっていけない個別の農民への視座がもとめられたのだ。さもなければ、高額の移転費用と代替え地に屈するよりない。

三里塚関連年表(1977年~1979年)

80年前後には、空港反対運動を騒音に対する条件闘争とする代わりに、二期工事の凍結という担保が反対同盟内部で語られていた。まだ反対同盟内には絶対反対派もいたが、それは建前にすぎなかったはずだ。なぜならば、最大党派の中核派に「信頼」されていた北原鉱治事務局長においてすら、政府要人との密会の場を活写されている(本人は合成写真だとして、密会の事実を否定)。

政府要人と反対同盟幹部の密会を斡旋したのは、旧ブント系のグループ(旧情況派幹部)だった。のちにわたしは、稲川会二代目・石井進(稼業名は石井隆匡)の遺族を取材することで、石井の北祥産業ビルが交渉の舞台になっていたことを知る。竹下政権時代の裏総理こと石井進が交渉を斡旋したのは、80年代なかばのことである。

◆反対同盟の内部分裂と空港公団による執拗な切り崩し

83年には、反対同盟は大地共有化をめぐって、内部分裂の危機に至る。土地の共有化は強制執行の手続きを煩雑にし、闘争資金を獲得すると同時に空港反対闘争を全国化する狙いがあった。これに対して、土地を売り渡す運動ではないかという疑問が農民の中に生まれる。

中核派が大地共有化に反対したこと(一説には革マル派との内ゲバ戦争のなかで、住所を特定される共有化に参加できないからだとされている)もあって、反対同盟は混乱した。混乱に拍車をかけたのは、やはり中核派の青年行動隊に対する批判だった。批判をこえて、政治的な統制にまでおよんだ時、青年行動隊のほうから「もう、おれらはキモいった」(おれたちは腹を立てた)と、決別宣言がなされた。北原派と熱田派への分裂である。支援党派も連帯する会(廃港宣言の会・第四インターなど)と中核派などに分裂した。中核派が第四インターの活動家を襲撃するなど、深刻な事態も起きた。そしてなおも、空港公団による反対同盟の切り崩しは執拗だった。

三里塚関連年表(1979年~1983年)

◆1985年10.20闘争の意味

その80年代のなかばに、3.26の再版をねらった大闘争が準備された。3.26では第四インターの後塵を拝し、横堀要塞鉄塔に4人を上げることしかできなかった中核派、および社青同解放派(主流派)、共産同戦旗派(反主流派)が三里塚交差点で機動隊と大規模な衝突をしたのだ。85年10月20日のことである。別動隊(解放派)が消防車を装って空港内に進入し、3.26管制塔破壊の再版を実現しようとしたが、空港機能を停止できなかったという点で、作戦は最終的には失敗だった。中核派は67年10.8闘争の再現として位置付けていたが、内ゲバで血塗られた左翼運動が再生するわけはなかった。

とはいえ、この85年10.20闘争は大きな意味を持っている。空港絶対反対の旗を降ろし、条件派に転じかけていた反対同盟青年行動隊(当時は中年世代)が、この大闘争を見学し、帰趨を見つめていたのである。つまり、この先も実力闘争で行けるのか、それともやはり条件闘争で収拾をはかるべきなのか、である。ある意味で、大衆的実力闘争の限界を指し示すものだった。ぎゃくに11月に行われた、中核派による多発ゲリラ(国電ケーブル切断)の有効性がしめされたのである(この日は大半のサラリーマンが臨時休日だった)。

そしてこれ以降、成田治安立法(78年施行)にもとづく団結小屋の撤去が相次いだ。徹底抗戦でいくつかの団結小屋・要塞化した拠点が撤去されたが、そのなかで熱田派反対同盟の幹部は「闘いには敬意を表するが、空港を壊すわけでもなく、徹底抗戦は玉砕ではないか。玉砕した兵隊から『こう戦えば勝てる』と言われても同調できるわけではない」と語ったものだ。まさに正論であって、新左翼の革命的敗北主義は実際の戦争(日中戦争)を体験している幹部にとって、容れられるものではなかった。こうして、反対闘争は目的をどこに据えるのか、混迷を深めていく。(つづく)

三里塚関連年表(1983年~1986年)

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
著述業、雑誌編集者。3月横堀要塞戦元被告。

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