リンチの加害者が罪や責任を課せられずにいることは許せない! 検察審査会に「申立て理由書」を提出、心ある審査委員の人間らしい判断に期待する!

◆「人事を尽くして天命を待つ」

リンチの被害者M君は、リンチの現場に居てリンチに加担した李信恵氏の不起訴処分に対して、大阪第四検察審査会に7月20日の不起訴不当の申立てに続いて、8月20日「申立て理由書」と、証拠を提出した。鹿砦社・松岡も力の入った「意見書」を提出した。今後検察審査会から追加資料の要請があるやもしれぬが、これでM君としては「人事を尽くして天命を待つ」状態にひとまず至った。

検察審査会への申立ては、当初から視野に入ってはいたが、対野間裁判、対5人裁判の進行状況を見極めながら、最終的にこのタイミングとなった。李信恵氏は大阪地裁の尋問で、みずからが「M君に掴みかかろうとした。誰かが止めてくれると思った」などと証言している。その他加害者サイドから「李信恵さんが1発殴った」ことを発信する証拠はあまた存在する。ここではどのような証拠が提出されたのか明かすことはできないが、M君は全力で準備にあたった。

検察審査会で審議にあたるのは、一般市民だ。裁判官は自らの出世を考え、最高裁の顔色ばかり窺い、市民感覚と著しく乖離した判断をすることが少なくないから、一般市民の感覚にこそむしろ期待が持てるかもしれない。

◆M君に対する救済なくして「人権」も「反差別」も空語

ところで、少なくはなったが、相変わらず勘違いしておられる方がおられるようである。われわれ、そして鹿砦社は原則的に「あらゆる差別」に反対し真に人権を守ろうとするが故に、M君の支援に踏み込んでいるのだ。「あらゆる差別」を根絶し人権を守ることは大変に困難だろう。人間という生物の複雑さ、質の悪さを考えるとき、「差別根絶」は途方もない大命題に違いない。だからといって問題に直面することから逃げてしまっては歴史が前には進まないし、人類の進歩もない。時に「どうしてそこまでこの事件にこだわるのか?」との質問を、鹿砦社や取材班、支援会は受けることがあるが、回答は「差別問題から逃げずに直面しているから」「真に人権を守りたいから」である。

生身の人間の尊厳を暴力で毀損するリンチが許せないことは言うまでもない。人ひとりの人権を守れなくて、やれ「人権だ」、やれ「差別に反対だ」と言っても空語だ。身近にM君というリンチの被害者が居て、彼に対する救済なくして「人権」も「反差別」もない。このリンチ事件に対する態度こそ、あなた自身の「人権」や「反差別」についてのスタンスそのものだ。

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◆差別は人間の尊厳と深くかかわり、人間の尊厳を踏みにじるものが暴力である

M君が集団暴行を受けたのは暴行・傷害事件である。しかしその事件に至る道筋には明確に「差別問題」が横たわっており、それがなければ「M君リンチ事件」は発生しなかった。「差別問題」とかかわるとはどのようなことなのか?「差別」とは本質的に何なのか? 差別―被差別の関係性は絶対的なものなのか? 差別を法で定めることはできるけれども、法により差別を低減、もしくは根絶することはできるのか? 宗教により異なる価値観と差別の問題は…?

少し考察するだけでも、差別問題は可視的、短視眼的、または時流に乗ったテーマだけではない。むしろ深く人間の根本に根差す、哲学とも無縁ではないといっても過言でもない深淵な問題であることに、賢明な読者であれば思い至るだろう。

そして差別問題については世界に、日本に歴史的な蓄積がある。われわれは目の前で乱暴狼藉を叫ぶ徒党を目にしたとき、まずはこれまでの「反差別運動」の蓄積(成功体験・失敗体験)を振り返り、学ぶところから出発すべきではないか、と考える。少し差別について勉強してみると、差別は人間の尊厳と深くかかわった問題であることに行き当たる。

そして人間の尊厳を究極的に踏みにじるものが「暴力」であり、その究極が「戦争」であることが理解される(その延長線上に「死刑」を想定することもできよう)。そうであれば、あらゆる「反差別運動」と運動内の「暴力」は、絶対的に相容れない。

「反差別運動内」で暴力が行使された瞬間、それは「反差別運動」ではなくなる(念のため付言するがここでの「暴力」は、権力者が権力を持たない人間に振るう、あるいは同等の力関係のものが仲間に振るう「暴力」を指す。力関係が弱いものが、防衛的に実力行使することを「暴力」とは想定しない)。

◆「M君リンチ事件」を無きものにしてでも「ヘイトスピーチ対策法」成立に夢中であった師岡康子弁護士

そのように考えるとき、今日の「反差別」と自称する運動の中には、首を傾げざるをいないような人びとが散見される。「ヘイトスピーチ対策法」なる言論弾圧法案を進んで成立させた人びともまた、人間の尊厳や、権力の本質がいかなるものであるかを深く考察したとは、到底考えられない。

国家に言論内容についての嘴を突っ込む(今のところは「ヘイトスピーチ対策法」は理念法であるが、やがて拡大解釈されるだろう)口実を与えるなど、市民の側からは決してなされてはならない、言論の自殺行為に匹敵する行為であると、言論の末席を濁すわれわれ、鹿砦社、取材班、支援会は深く危惧している。

そしてその危惧は、不幸なことにおそらく外れてはいまい。その最たる証左は、「ヘイトスピーチ対策法」成立に深くかかわった、師岡康子弁護士が「M君リンチ事件」を無きものにしてでも(それだけではなく被害者M君を、あろうことか加害者に置き換えてまで!!)同法の成立に夢中であった事実が示している。

そこには法律家以前に、人間として最低限の知識も良識も見識もない。あるのは自己の目的達成のために、ひたすら〝障害物〟となる可能性がある「M君リンチ事件」を専門知識で闇に葬ろうとする、どす黒い私欲だけだ(師岡康子弁護士については近日中にあらためて詳述する)。

われわれは、私利私欲にもとづいて〝自己達成〟の手段として「差別」問題にかかわるものを、一切信用しない。むしろ最大限の軽蔑で、本質的な差別問題の敵であると断じる。われわれがM君を支援し、差別問題に向き合う基本的姿勢は上記したとおりである。

(鹿砦社特別取材班)

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