モノレールの中でのネイトさん

◆ネイトさんと托鉢

翌朝は、いつもどおり5時30分に藤川さんの部屋をノックする。「おはようございます」と返答してくれたのはネイトさん。若いだけに体力回復も早い。わがまま藤川ジジィが言ったように、3時間でも熟睡すれば、オロナミンCでも飲んだように元気ハツラツのようだ。

今日の托鉢は3人縦列。ネイトさんは私の後ろに着いた。暗闇の中、1件目の寄進者を見つけると「居た!」と小さな声を上げるネイトさん。「喋らんでいい」と心の中で呟く私。

常連の信者さん達の前に立つ。お菓子オバサンは私に「どこの国のお坊さん?」と聞かれ、「アメリカです。タイ語は完璧です!」と言った後、ネイトさんもタイ語で応えていた。そんないつもと違う顔に興味津々の信者さんが多かった。

朝方、托鉢に出る前、藤川さんもこの寺と決別する決心したような、「もしかしたらノンカイの寺に移るかもしれん」と言う。私は内心、「それは困る、また向こうで一緒かい」と先のことは分からないが、心で拒絶する。

でも朝食後、藤川さんの部屋の前で、和尚さんとネイトさんと藤川さんが談笑しているのが見えた。「お前も来い」と私を呼ぶ和尚さん。

日々やって来る信者さんの訪問もあり、和尚さんは定位置に戻ると、藤川さんとネイトさんはまた部屋に篭る。午後は街へ出て行った。旅に必要なものでも買いに行ったのだろう。

私はコップくんらと外で喋って居ると、和尚さんに呼び止められ、「朝方、アメリカ人とは何喋った? 言葉通じるのか」と言い出す。3ヶ国語ペラペラだったのは分かっているはずで、あの談笑は他愛も無い話ばかりで心の探り合いだったように伺えた。

寺から見える山の頂上

◆プラ・ナコーン・キリーを訪れる

ネイトさんらは意外と早く帰って来た様子だったが、ネイトさんが寺から見える山の上にある「ナコーン・キーリー」へ行こうと言う。15時40分を回った頃だったが、「えっ、今から?」と思う。陽が暮れる頃には閉門されると聞いていたからである。

今迄何回か、コップくんらにも誘われたことはあったが、一度も行っていなかった。「マズイな」と思いながら、彼らはいつもの作業に掛かっているし、こっそり行くことにした。境内のベンチに居た和尚さんに許可貰いに行くと「行って来い!」と予想どおり簡単に許された。

ノンカイに居た時の旅の途中のような外出。寺の隣となる敷地の “ロッラーンファイファー”と言われるモノレールに乗る為、切符を買おうとすると、窓口で「比丘はタダ」と言われる。他の客は居らず、我々比丘2僧と、その窓口から乗務員の若い可愛い女の子が2人も乗って来た。この状況はいいのかな。

この女の子らに「どこのお寺に居るの?」と聞かれて「すぐ隣のワット・タムケーウだよ、こちら(ネイトさん)は昨日ノンカイから来たばかりだよ」と言っている間に、ほんの2分ほどで頂上に到着。

「プラ・ナコーン・キーリー」と言う歴史公園。仏塔や寺などがあるが、ペッブリーの街の麓が眺められる絶景であった。帰りのモノレールが17時がラストだと言われていたので散策は少々のみ。この時は予備知識も無く、ネイトさんとの単なる散歩になってしまったが、デートコースには良い場所と思う。

帰りのモノレールも来る時と同じ乗務の女の子が乗っていた。「ワット・タムケーウは行ったことあるけど、お兄さんは見たこと無いよ、けど今度タンブンに行くよ」と言う女の子たち。私も会った覚えは無い。でも私は「明後日に還俗するんだけど、還俗したらまた来るよ」と言っておく。笑う仕草の可愛い子たち。こういう出会いは楽しいものだった。修行の合間のわずかな時間だが、藤川さんが居ないと女の子との出会いが多いなあ。

モノレールからの風景(1995年1月23日)

頂上にて仏塔を背景に(Photo by Nateさん)

◆運命の分岐点

ナコーン・キーリーでネイトさんに聞いた旅の予定は、翌日(1月24日)、バンコクへ行ってカンボジアの入国ビザを申請して、一旦この寺に戻った後、藤川さんと共にノンカイに帰り、2月初旬、ワット・ミーチャイ・ターの祭りに参加。その後、コーンケーンへ向かい、ビザ取得後の中旬以降カンボジアに向かうようだ。

ちょっと羨ましい気もするが、私も自分の予定を組んでしまった。還俗後にチェンマイでの伊達秀騎のムエタイ試合の取材態勢に入っていたが、ここが運命の分岐点だった。欲を捨て修行に専念し、「私も行かせてください」と言っていたら、私もカンボジアに行っていただろう。

「俺はノンカイの寺で再出家するんだ」という我がままも藤川さんとの決別を推していたようにも思う。

心の弱い人間は、迷いが生じ、楽な方へ誘われてしまうのだろうか。これは後々還俗後、しばらくして気付いたことであった。

ネイトさんも朝の和気藹々とした談笑は、勿論、本音での話し合いではなかったと言う。和尚さんに改めてのカンボジア行きの話はしなかったらしい。

◆別れの朝

翌朝の托鉢に出た時、寺の隣のバスターミナルの前に差し掛かると、藤川さんは「8時以降のバスの時間聞いて来てくれ」とネイトさんに頼む。もう寺を出た托鉢中と言える立ち位置で、こんな雑用に使われるネイトさん。これからも使われるだろう。特に英語圏では。バス時刻は8時、8時半と30分毎にバンコク行きが出ているようだった。

托鉢はいつもとほぼ同じ顔触れの信者さんの寄進を受けて帰って来た。藤川さんと二人の、ネイトさんも加わった三人体制は今日で最後である。そんな藤川さんの後姿も脳に焼き付けておく。こんな姿を約3ヶ月見て来たのだ。あまり話さなかったのに、それでもいろいろなことがあったなあと思う。1年半前は単なるオッサンだったのに。後ろのネイトさんも1ヶ月半前は単なる旅行者だったのに。この世のものは日々変化して行くのであろう。

朝食時、ホーチャンペーン(食事の壇上)でネイトさんには、ノンカイの寺の様子を教えてくれるように、私がバンコクでお世話になっているアナンさんのジム住所と電話番号を教えておく。「分かりました。連絡します。またノンカイでお会いしましょう!」と応えたネイトさん。

黄衣を纏い、旅の準備をしている藤川さんの部屋へ行くと、永遠か、一時的か分からないが、本当のお別れがやって来た。

「今迄お世話になりました。この格好でお会いするのは、もしかしたらこの先もあるかもしれませんが、比丘としても俗人としても、またお会いできる日には宜しくお願いします」

私の言うことに一つ一つ「ハイ、ハイ!」と応えながら旅の準備を進める。「また遊びに来いや!」と言う言葉は最後の思いやりのような温かみがあったが、もう比丘として見る厳しさは無く、寂しさを感じる贈る言葉に聴こえた。

「1週間後にもう一回だけ来て、借りている黄衣や食器類などお返しします」と言うと、「居らんかもしれん、ノンカイ行くかもしれんから」と言う藤川さん。それもここで会うことはもう無さそうな言い回しだった。

やがて出発準備が整い、後ろを振り返ることなく、ネイトさんと旅立たれた。藤川さんとの別れの頃などの写真は無いが、旅に出た時以外は撮れるものではない寺での藤川さんだった。

ここから私はまた新たな旅立ちがある。藤川ジジィに負けてはいられない。アナンさんのジムへ、チェンマイ行きの予定を聞く為、電話しに出掛ける今、私の人生、何度目かの分岐点となった朝だった。

ナコーン・キリーでのツーショット

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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