私の役割だった掃き掃除をコップくんがやっていた

◆ジムの仲間との再会

バンコクに到着し、以前からお世話になっているアナンさん宅へ向かう帰路、周辺が比丘として旅に出た時と違う風景に見えた。それは寺に向かう日の憂鬱な気分で渡った同じ風景だが、帰路の中で見ると爽やかに見えるものだった。

アナンさんの家に着くと、奥さんが「ハルキが帰って来たよ~!」と大声でアナンさんや伊達秀騎くんを呼び、アナンさんは「いい顔になったなあ!」と冷やかしながら迎え入れてくれた。日本風に言えば「お帰り~!修行はどうだった?」といった感じで皆に歓迎されるのは心地良いものだ。その笑顔の優しい眼差しは心がよく表れていた。

伊達くんは正月に、ランニング中に足を挫いたらしく、片足引きずる歩き方。
「アホ、何やっとんねん!」藤川さんがジム会長だったら凄く怒りそうだ。しかし、アナンさんの顔を潰すことなく、チェンマイに向かう姿勢だけでもたいした責任感だった。

◆午後の食事

夕方は奥さんが選手らと共に私も夕食に招いてくれた。還俗して9時間経ち、3ヶ月前と変わらぬジム仲間の雰囲気に馴染み、これまで夢でも見ていたかのような時間の経過を感じていた。

午後に食事を摂るなんて、罰当たりなことをしているような錯覚に陥るが、過去の仲間の還俗した日はどうしていたのだろう。その日の朝はまだ比丘だったのだから、律儀に戒律を守る一日を過ごしたのかもしれない。

「こんなこと教えておいてくれよ、藤川さん!」と呟く。でもこの辺は各々の心構え次第なのかもしれない。

翌朝起きると6時ぐらい。もう比丘ではないんだ。自由に朝寝坊できる。昨日の今頃は托鉢に向かっていたんだなあ。今日の信者さんたちは私が現れないことをどう思っているだろうか。お菓子オバサンには還俗を伝えていたが、この還俗した姿を見せておけば良かったかなと思う。そんな仕来りなど無いが、本当はすぐに帰ってはいけない、寺への恩返しの一環の中にこんな触れ合いの礼儀もあるのだろう。

◆チェンマイの寺に立寄る

1月27日の夜、いよいよ皆で貸切のバスではなくワゴン車でチェンマイで行なわれるムエタイ試合に向かった。途中、深夜に食事しようと屋台に寄った際、夜空の月を見て、「寺では次の剃髪まであと何日かなあ」なんてアナンさんに話しを振ってみる。

そこから「いずれまた、もう一回出家してみたいんだ」と続けて言うとアナンさんは、「何で?もう充分だよ!」と不思議そうに応えられた。確かにおかしい話だろう、我がままなのだから。

立寄ったチェンマイの寺にて。比丘からプラ(仏陀像)を受取るアナンさん

サーティットが必死で返してくるミドルキック

チェンマイに着くと、試合場は泊まるホテルの一角。大ホールが試合場となっていた。試合出場選手はホテルで休ませ、それ以外の者はアナンさんに誘われ、地元では有名なお寺に立ち寄り、お清めの読経を受ける機会を得た。

俗人に戻って初めての比丘との出会い。3日前まであちら側(仏門)の世界に居たんだなあと思いながら読経を聴く。若い比丘達の顔を見て勝手な発想ながら、この寺にも比丘の姿で来て、あちら側に座って若い比丘達に接してみたかったと思う。比丘の頃は旅など出たくなかったのに、還俗した後で改めて巡礼の旅がしたくなった。今頃遅いぞ、なんて鈍感だったのだろう。

伊達くんの試合は昨年10月、激闘で高評価を得たサーティット選手との再戦だが、怪我で足の踏ん張りが利かず、またも首相撲のヒザ蹴りにつかまり倒されてしまった。しかし、ロープに追い詰めアグレッシブにパンチとヒザ蹴りでサーティットを苦しめ、前回以上の善戦で試合の盛り上げはプロの業。これでまた呼ばれるだろう。
試合を撮りながらこの3ヶ月、「俺と伊達秀騎はどちらが厳しい日々を送っただろうか」と自問自答するが、比べようもないほど命懸けの戦いとは次元が違う。伊達くんと同等の厳しさを体験するには、山奥の厳しい学問寺で3年修行せねばならないだろう。

善戦敵わず敗れ去った伊達秀騎の控室

◆ネイトさんからの電話

帰国する伊達くんを見送り、還俗して1週間あまり経った2月3日の朝、アナンさんのジムにネイトさんから電話が入った。

「寺(ノンカイのワット・ミーチャイ・ター)は祭りの準備が大忙しで、仮に堀田さんが今すぐ再出家したくても、誰の志願であろうと暫くは得度式どころではないです。藤川さんはワット・タムケーウ(私と藤川さんが居た寺)の和尚さんとはその後、話し合って旅の許可はされたので、円満にコーンケーンとカンボジアは行く予定です。私の居る寺は祭りの後、大掛かりな後片付けがあるのですが、藤川さんが早くコーンケーンに行きたがって、“そんなモン手伝わんでもええ”と言ってるので困ります。堀田さん、ノンカイに遊びに来てください。コーンケーンにも一緒に行きませんか?」

テレフォンカード度数が残り少ないらしく、短い会話だったが、藤川ジジィめ、また勝手なこと言っているようだ。

もう藤川さんには会いたくないから遠慮しておくが、今改めて思えば、還俗していなかったらコーンケーンやカンボジアは行きたかったなあ。また今後、仮に再出家できたとして、今度は更に上のレベル、一人巡礼する度胸が自分に有るかは自信が無いが、過去に関わった人や縁あるお寺は訪ねてみたいものだ。

◆ワット・タムケーウへ最後の訪問

この電話の後、ペッブリーの出家したワット・タムケーウに、乗り慣れたリムジンバスに乗って、残っている私物を取りに向かった。和尚さんはいつもの場所に座って信者さんと話していて、私を見ると笑顔で迎え入れてくれ、「キヨヒロ(藤川)とは会っていないのか」と言われるも険しい表情ではない。チェンマイに行ってムエタイの撮影して来たことも話すと、また信者さんに私のこと自慢げに話し出す和尚さん。出家前のように部外者的立場となっては、こんな劣等性だったのにまた褒めてくれた。

私は使っていた部屋の掃除をして、サンくんには仏陀像と撮った写真を、前もって特別に四つ切ほどの板パネルにしたものをタンブンした。「うわっ、でっかい、けどキレイだ!」と驚きつつ凄く喜ばれて嬉しかった。

ワット・タムケーウを訪れて、左からケーオさん、私、巡礼中ミツーさん、偽高橋克実、先に還俗したブイくん

代わって左に副住職のヨーンさん、3番目にサンくんが加わる

ヒベにはラオスで買えなかったマールボーロをひとつ渡すと、「チェンマイでは女買ったのか?」とか「バンコクではどうだった?」とか相変わらず品が無い奴だった。

持ち帰る荷物は重く、ブンくんがくれた黄衣まで持って帰ろうとするガメツイ根性の私。

お守りとなった布切れ、今(2019年)でも持っている

外のベンチに居たかつての仲間達を最後に撮っておく。高橋克実似の比丘とは話す機会も少なかったが、幾つか撮れていた写真をあげると、手拭い用の黄布の一部を破き取り、お経らしき文字を書いて私に差し出してくれた。ワイ(合掌)をして受取る私。単なるボロ布でも、こういう手作りは魂がこもっていて嬉しいものだ。

夕方となると比丘達は幾らか暇で、「チョークディーナ(元気でな)!」と今回はタイ人がよく使う別れの言葉をたくさん掛けられた。皆が見守る中、「また来年、遊びに来ます、お元気で!」と挨拶して重い荷物を抱えて寺を後にする。もう暫くはここを訪れることはないと思うとまた切ない気持ちになってしまった。

呑気に帰ったその後もアナンさん宅にお世話になりながら、次のステップへ進む準備をしていたが、しかしその後、アナンさんからかなりショックな苦言を受けることになる。それは私の無知で我がままな心構えに問題があったのだった。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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