前蹴りでラックチャイの突進を止めた重森陽太

軽いパンチだが、ラックチャイと相打ちとなった瞬間の重森陽太

勝次が返上した日本ライト級王座は髙橋亨汰が獲得。

◎MAGNUM.50 / 7月7日(日)後楽園ホール17:00~20:45 
主催:伊原プロモーション / 認定:新日本キックボクシング協会、WKBA

◆WKBA世界ライト級王座決定戦 5回戦

重森陽太(前・日本フェザー-級C/伊原稲城/60.8kg)
   VS
ラックチャイ・ジャルンクルンムエタイ(タイ/60.55kg)
(ラックチャイはアマチュアムエタイ60kg級チャンピオン経験有り)
勝者:重森陽太 / 判定3-0 / 主審:椎名利一
副審:少白竜50-46. 桜井50-46. 宮沢50-46

右ローキックで攻める重森陽太

重森は突き刺すような鋭い前蹴りでラックチャイの突進を阻み、自分の距離を掴んでパンチや蹴り、ヒジ打ちを叩き込んでいく。

重森は中盤以降も前蹴りを多用し、ラックチャイのバランス崩させる展開が続くが、接近すれば組みに来るラックチャイ、この体勢になると本領発揮のバランスの良さが表れるが、重森も不利な体勢にはならず、ヒザ蹴りも蹴り負けない。

最終ラウンド、倒すに至らない展開と前進衰えないラックチャイのタフさが印象付いてしまうが、それでもポイントは大差で圧倒した展開の勝利となった。

日本バンタム級とフェザー級の2階級制覇を果たしている重森は世界と合わせて三つめのベルト獲得となった。

3度のダウンを奪ってKO勝利の江幡睦

◆54.0kg契約 5回戦

WKBA世界バンタム級チャンピオン.江幡睦(伊原/54.0kg)
   VS
トーン・ハーブタイジョンジム(元・スラタニー県フライ級C/タイ/54.0kg)
勝者:江幡睦 / KO 1R 2:41 / 3ノックダウン / 主審:仲俊光

毎度のスピードある蹴りで、様子見ながら一気に倒しに掛かるような睦の勢いの中、ローキックからパンチの連打でロープ際に詰めたところで左ミドルキックをボディーにヒットさせるとトーンは蹲ってしまいノックダウンとなるが、トーンはまだ心は折れていない様子で立ち上がる。

組み合えば崩しに掛かる上手さを見せるトーンだが、睦の勢いは増していき、コーナーに詰めてのパンチ連打、離れても蹴りの上下の使い分けで、続けて左ミドルキックをボディーヒットさせ計3度目のノックダウンを奪い、ノックアウトに繋げた。
マイクを持つと、10月20日、後楽園ホールに於いて、ラジャダムナンスタジアムの王座挑戦が決定したことをファンに報告した。

コーナーに追い込み、右ストレートを打ち込む体勢の江幡睦

髙橋亨汰の左ストレートで内田雅之がダウン

◆日本ライト級王座決定戦 5回戦

1位.内田雅之(藤本/61.1kg)vs3位.髙橋亨汰(伊原/61.23kg)
勝者:髙橋亨汰 / 判定0-3 / 主審:少白竜
副審:椎名47-49. 桜井47-49.仲48-49

序盤は探り合いながら互いに主導権を奪いに打って出る攻防。

第2ラウンドには、高橋がヒジ打ちで内田の右眉辺りを小さいがカットさせ、更に左ストレートで内田をグラッとバランス崩させると、高橋が積極性を増し、再び左ストレートで、内田からノックダウンを奪う。

ダメージは軽そうで体勢を立て直し、第3ラウンドは内田のヒジ打ちが強くヒットし、高橋の額を深くカット、ここから流れを変えたい内田はペースを上げていくが、高橋はハイキックで内田の顔面を襲いリードを譲らない踏ん張り。

終盤、激しくなる攻防の中、内田の強引な蹴りとパンチ、ヒジ打ちを狙って出て行く。高橋も内田の顔面へ前蹴りをヒットさせ内田の突進を止める勢いがあった。ダウンの差を縮めるには至らなかった内田は惜しい敗戦。高橋は新しい時代を担うチャンピオン誕生となった。

髙橋亨汰の左ハイキックを受けながらバックハンドブローを繰り出す内田雅之

額を切られながらの攻防、髙橋亨汰の前蹴りが内田のアゴを捕える

念願の王座獲得で号泣する髙橋亨汰。お母さんの祝福を受けて更に号泣

伊原稲城ジム栗芝貴会長と並ぶ重森陽太

◆72.6kg契約 3回戦

日本ミドル級チャンピオン.斗吾(伊原/72.5kg)vs小原俊之(キングムエ/72.1kg)
勝者:斗吾 / 判定3-0 / 主審:宮沢誠
副審:椎名29-27. 少白竜30-27. 仲30-26

蹴り合いの様子見からコーナーで組み合うと小原が強引なヒジ打ちの連打で斗吾の右頬をカットさせ、これで怒り心頭となった斗吾がパンチで圧倒し、右ストレートでノックダウンを奪う。

小原の踏ん張りで斗吾も打ち合いに応じ、ノックアウトには繋げられなかったが、連打で追い詰めた斗吾が大差を付けた判定勝利。

◆67.0kg契約 5回戦

日本ウェルター級チャンピオン.リカルド・ブラボ(アルゼンチン/伊原/66.7kg)
   VS
助川秀之(Turning Point/66.8kg)
勝者:リカルド・ブラボ / 判定3-0 / 主審:桜井一秀
副審:宮沢50-46. 少白竜50-46. 仲50-47

序盤から重いパンチと蹴りの交錯が続く両者。ブラボのパンチがヒットすると、リズムに乗って連打で追い詰める。

第4ラウンドにはノックダウンを奪う寸前までいくが、倒すには至らない。助川は劣勢になりながらも耐え切り、ブラボが大差判定勝利。

メインクラス最終2試合のリングアナウンサーを務めた生島翔さんの代打、お父さんの生島ヒロシさん

◆70.0kg契約 5回戦

喜多村誠(前・日本ミドル級C/伊原新潟/69.9kg)
   VS
ペッダム・ペットプームムエタイ(タイ/68.4kg)

勝者:喜多村誠 / 負傷判定2-0 / テクニカルデジション 1R 1:00 / 主審:宮沢誠
副審:椎名10-10. 桜井10-9. 少白竜10-9

ミドルキックの蹴り合いから縺れ合って倒れた両者だったが、喜多村が後ろ向きからペッダムのアゴ辺りに圧し掛かかってしまい、ペッダムはもがき苦しみ立ち上がれず、ここでレフェリーは試合終了を宣告。

裁定はルールの在り方とレフェリーの判断によって結果は分かれるところ、ここでは偶然のアクシデントと判断され負傷判定が行なわれ、わずか1分の試合ながら、2-0で喜多村誠が勝利。

◆51.5kg契約3回戦

泰史(前・日本フライ級C/伊原/51.5kg)
   VS
WBC・M日本フライ級チャンピオン.仲山大雅(RIOT/51.5kg)
勝者:仲山大雅 / 判定0-3 / 主審:仲俊光
副審:椎名28-29. 宮沢29-30. 少白竜28-29

先手を打つ仲山のタイミングいいパンチと蹴りがヒットする。仲山の上手さが目立つが、ラウンドが進むと泰史は仲山の動きが読めるようになったか、泰史のパンチのヒットも増えてくる。しかし巻き返すには至らず、仲山の柔軟な技が目立った印象が残る。

◆63.0kg契約3回戦

日本ライト級2位.渡邉涼介(伊原新潟/62.95kg)vsイ・クロウ(Kick In The Door/62.75kg)
勝者:イ・クロウ / TKO 2R 2:29 / 主審:桜井一秀
渡邉の顔面負傷によるドクターチェック中の陣営によるタオル投入による棄権

◆62.0kg契約3回戦

日本ライト級4位.ジョニー・オリベイラ(ブラジル/トーエル/61.35kg)
   VS
ルンピニージャパン・スーパーフェザー級1位.角谷祐介(NEXT LEVEL渋谷/61.65kg)
勝者:角谷祐介 / 判定0-3 / 主審:少白竜
副審:宮沢29-30. 桜井29-30. 仲29-30

◆フェザー級3回戦

平塚一郎(トーエル/57.15kg)vs仁琉丸(ウルブズスクワッド/56.5kg)
勝者:平塚一郎 / 判定2-0 (29-29. 30-29. 30-29)

《取材戦記》

喜多村誠vsペッダム戦は、あの事態で終了ならば、プロボクシングなら試合の前半に起きたもので負傷引分け、ムエタイなら負傷裁定は無いので、ペッダムの試合続行不能による喜多村のTKO勝利となる。また、試合は成立しているので無効試合(災害や暴動などの収拾付かない事態)とはならない。昔だったら、アクシデントで負傷したものは、立ち上がれない時点でノックダウン扱いとなり、カウント数えられたものである。いずれにしても喜多村の負けにならない限り、異議申し立てる声を上げる者はいないだろう。

追い続けたラジャダムナンスタジアム王座の挑戦が決まったことを報告する江幡睦

重森陽太が語った、WKBAをメジャーにしたい想い。「このベルトが誰もが目指すベルトとなるように、ドンドン試合して、このベルトの価値を分かり易く証明していきたい」と語る。

それは以前から江幡睦も塁も同じ想いを持っていた。古く遡れば1993年に日本ライト級チャンピオン(MA日本キック時代)だった飛鳥信也(目黒)氏がWKBA世界戦に挑む時、提唱した日本統一論でもあった。このベルトを目指して皆が挑戦して来れば、必然的にここが頂点となる。

しかし現在もこの理想には近づいていない。それは統一を目指しながら実現できない国内王座が増え過ぎたことや、いずれのチャンピオンも、防衛戦の相手や場所・日時を決められる訳ではないことに繋がる。それでも新しい時代に新しいスターの重森陽太の目指す新たな挑戦に期待したい。

江幡睦が10月20日に後楽園ホールに於いてタイ国ラジャダムナンスタジアム・バンタム級王座へ4年ぶり4度目の挑戦が決定。現チャンピオン、サオトー・シットシェフブンタムがそれまで王座を維持していれば、このサオトーが来日することになる。江幡ツインズと同じく、サオトーも双子の兄弟が居て、サオエーク・シットシェフブンタムが居るようです。

這い上がる力、奪いに行く力が試される時、それが江幡ツインズであり、新日本キックの今である。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

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上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

元気で快活だった母の異変に気付き、認知症が進行していく中での様々な出来事と娘の思いをこれまで一人語りでお伝えしてきました。認知症を患ってもなお元気で心の強い母でしたので、当たり前に100歳まで生きられると思っていました。ところが昨年の暮れ、その母があっけなく89歳で亡くなりました。グループホームに入所した日の事故によってです。少しずつ心の整理がついてきましたので、母の最期をお話ししようと思います。

私の言葉を不快に思われる方がいらっしゃるかもしれませんが、懺悔と冥福の祈りを込めて、ありのままを告白させていただきます。

その日、以前申し込んでおいたグループホームから電話がありました。「空きができました」施設長Yさんです。そろそろ順番の進み具合を聞いてみようと思っていた矢先のことでしたが、予想よりもはるかに早く、まだ本人に一言も相談していません。しかし先方は急いでいる様子です。すぐに姉と相談し、とにかく一度本人に聞いてみることにしました。

翌日Yさんへ「近日中に母に話をして、もしも本人がその気になった場合は、そのまま見学に伺います。」と連絡しました。「納得というのは難しいですけれど、理解して入っていただく方が溶け込みやすいので、お願いします。」とのことでした。なるほど。

デイサービスのない日、私は民江さんの家へ行きました。まだ10時半だというのに、民江さんは真っ赤なコートの上に、鞄を斜めにさげ、すぐに出かけられるよう準備万端整えて、背筋を伸ばしてソファーに座り私を待っていました。私は一通り部屋の片付けをしてから、内心ドキドキしながら明るく話しかけました。

「実は、相談があるんだけど・・・お母さんはこの先ずっと一人で生活するのは大変だと思うの。私の家に来てもらうといいけど、それはちょっと無理なの。」

「無理じゃない。」

「うーん、私は昼間家にいないでしょ。お母さんが慣れない家に一人で居ても、何もすることがないし、困るでしょう。それでね、グループホームっていう9人で生活するおうちがあるんだって。そこへお引越しするというのはどうだろう。スタッフが24時間居てくれて、ご飯も三食出してもらえて、掃除や洗濯なんかの身の回りのことは全部お任せできるんだよ。家賃を払って、お母さん一人の部屋があって、他に共同の食堂やリビングやお風呂やトイレがあるんだよ。」

「どこ?」

「T町、私の仕事場から5分もかからないし、私の家にも近くなるでしょ。実はお姉ちゃんと一緒にいくつか見学に行ったんだけど、そこが一番きれいで広くて、重症の人はいなかったの。そこがね、一部屋空きができたんだって。見に行ってみる?」

そんな私の説明に、母はすんなり「行ってみようか。」と言いました。微笑んでいました。

駐車場からグループホームの玄関まで、急な階段と段差のあるスロープをすたすた一人で歩き、出迎えのYさんへ丁寧に挨拶をして中に入りました。ところが、すぐに足が止まります。案内された居間には、女性スタッフが3人、折り紙をしている方が1人、週刊誌を読んでいる方が1人、ただ座っている方が2人。私に続いて挨拶をして説明を受けますが、再び足が止まりました。

ゲージにウサギがいます。「動物はお嫌いですか?」と聞かれた母は「嫌いです!」そしてうつむいたかと思うと涙を流しながら小さな声で「住み慣れたところが・・・」と。お部屋も見に行こうと促され、エレベーターで2階に上がりました。

歩みは極端に遅くなっていました。一通り見せていただいたあと、事務室へ案内され、椅子に腰かけた途端「慣れたところがいい」と、再び涙と鼻水を流して泣き始めました。

そんな民江さんに対して、私とYさんは穏やかに説得を始めました。「すぐに決めなくてもいいけど、今なら空いてるの。他の人に入ってもらうと、また空くまで待たないといけなくなっちゃう。ずっと一人で暮らしていけるわけじゃないから、今のうちにお引越しするのはどうだろう。お母さんより若い人がほとんどだよ。デイサービスも気が進まなかったけど、行ってみたら案外よかったでしょ。ここはきれいだし、私の家にも近くなるし、私の職場からもすぐだよ。」

Yさんは「ここに変わられたら、他の家族も皆さん安心されると思いますよ。民江さんみたいに女学校を卒業されたかたが何人もいらっしゃいますから、お話も合うんじゃないでしょうか。」と。

こんな調子で10分ほど話をしたあと、資料を受け取り、その日はそれで引き上げることにしました。民江さんの好きな豆腐料理の店へ行きましたが、この件に触れることはできず、昔話をしながら穏やかに昼食を食べました。

隣の席の同年配の女性を見て「ああはなりたくない」と言うなど、民江さんの失礼な発言は普段通りでした。買い物をして家へ送り、翌日のデイサービスの準備を済ませ、「じゃあね」と帰りかけた私に「今日の所のこと、決めなきゃいけないんでしょ。」と民江さんの方から切り出してきました。

「そうだけど、今日聞いて、今日見て、今日決めなくてもいいよ。」と答える私に「でも、他の人に取られちゃうかもしれないから。長く住んだここがいいけど、変わろうか。なっちゃんがいいと思うようにするわ。」と。

私は「ありがとう。でももう少し考えようね。」と言って別れました。ここ最近、会話が成り立たなくなっていた民江さんとは思えない言葉遣いに、私はたいへん驚きました。

民江さんがこんなに我慢をして決断してくれるとは思っていませんでした。もう少し言えば、こんなに我慢ができるとは思っていませんでした。この日の民江さんの様子、泣いて嫌だと言った時の姿、「なっちゃんの家に少しでも近くなって、なっちゃんがいいと思うなら・・・」と言ったこと、そしてYさんの「少しでも理解して入所する方がいい。急に悪化して早く入れたいとなった時に空きがないと、どこでもいいから入れてしまうことになる」という言葉、私のやれることとやれないこと、これから先のこと、などなどいろいろ考えているうちに私も涙がこぼれてきました。

それからも私はいつものように毎朝民江さんに電話をしますが、あきらかに民江さんに変化がありました。明るくなり、会話が繋がるようになりました。例えば私が「おはよう。今日”も“元気だね」と言うと「”も”ね」と言って笑います。こんな小さな言葉に反応するということは、ここ数年ではありませんでした。

また、夕方かかってきていた電話がかかってこなくなりました。我慢しているのか、必要を感じていないのか、そのように見せているのか、理由ははっきりしませんが、グループホームへの引越しを勧められたことが原因であることだけは確かです。

見学から数日後、顔を見ながらもう一度聞いてみますと、「老いては子に従えだから、寂しいけど100歳まで生きるかもしれないからね。」と笑っています。こんなに我慢をさせていいのだろうかとか、私のせいで認知症が悪化してしまわないか、とても不安になりました。けれども私は母の様子をYさんに伝え、三週間後の年末に入所させてもらうようお願いをしました。

翌朝、まだ暗いうちに電話が鳴りました。「毎月なっちゃんにお車代を渡すから、このままここに住むことを考えて」と、か細い声です。私は「お母さんが我慢してることはわかってるよ。ただ、安全が心配なの。何食べたか、何着てるか、暑くないか、寒くないか、何してるかってね。三食出してくれて、お世話してくれて、夜中もいつも誰かがいてくれると安心だよ。誰かそばにいてくれたら心強いでしょ。寂しくないでしょ。」

それでも母は「もう一度考えて」と言うので、「うん、私も考える。お母さんも考えてね。」と言って電話を切りました。

数日後、民江さんを訪ね「あの話・・・やっぱりお引越しした方がいいと思うんだけど」と言うと、民江さんも「老いては子に従えだからね」と言いました。「ちょうどぴったりの諺だね」と言って二人で笑い、ケアマネージャーさんに「さすが、民江さん。そう言える人はなかなかいないわよ」と言われて、いい表情でしたので、それなりに納得してくれたのだと思いました。

それから入所までは2週間、私は書類を整えたり、持ち物の準備に追われました。無事に落ち着けるかどうか半信半疑でしたので、いつ戻ることになってもいいように、生活できる物を残しつつ、使い慣れた大切なもの、衣類、家具、寝具などをまとめ、足りないものを買い足し、一つ一つに名前を付けるなど、やらなくてはいけないことはたくさんありました。お世話になっているデイサービスへお礼の手紙も書きました。その手紙がデイサービスに届いた日、スタッフの方から「さすが民江さんの育てた娘さん」と言われたと、嬉しそうに何度も電話がかかってきました。「それ、私が褒められたんじゃなくて、お母さんが褒められたって話ね」と言って一緒に笑いました。

この頃、不思議と二人で笑って話すことが増えました。ここ数年来、負担が増えて限界を感じ、笑顔がなくなり、優しい言葉をかけてあげることができなくなっていたことを自覚していた私です。それがこの数週間は、なぜか二人とも明るくなりました。母が笑顔を見せるので、私も自然に優しい気持ちになり、優しくなれた自分がとても嬉しかったです。食事をしながら冗談を言い、目を合わせて笑いました。施設に入りたくないはずの母が笑っている理由を深く考えず、これなら続けられるのに・・・と思わないようにして、グループホームを終の棲家に選んだことを信じ、とうとう引越しの日を迎えました。

その日は、珍しく雪が積もっていました。私と、息子と、姉と姉の息子は、民江さんの家へ行きました。荷物は三台の車で十分運べるほどしかありません。古いアルバムを開き、思い出の写真を孫たちとおしゃべりしながら選び出し、きれいにレイアウトして額に収めました。顔なじみのいつもの洋食屋で大好きなカキフライとカニクリームコロッケのランチをぺろりと平らげ、記念に撮った写真は、5人ともいい笑顔でした。

そこから施設までは車で10分程度、到着して車と部屋を行ったり来たりして荷物を運び入れる様子を、民江さんはベッドに腰かけてじっと眺めていました。額を壁に掛ける金具を買いに行ったり、忘れたテレビのアンテナコードを取りに戻ったり、どうしても別の靴に変えたいとか、どうしても飾りたい絵があると言うので取りに戻ったり、バタバタしている私たちに「私はここに泊まるの?」と不機嫌な顔で何度も何度も聞いてきます。翌日は我が家に泊まり、いつものように一緒に新年を迎えることにしていましたので、まず今夜一泊だけ頑張ってほしいと優しく励ますばかりでした。

姉たちが帰り、民江さんの夕食の時間になり、私たちもいよいよ帰らなくてはいけません。食卓で皆さんに挨拶をしている姿を見とどけた後、「明日は迎えに来るからね」ともう一度声を掛けて別れました。

気が気ではありませんでした。8時半頃民江さんから電話が入ります。「どっちみち私は一人なんだから。なんでこんな所で寝なあかんの。おやすみ!」一方的に怒鳴って切れました。

眠れないのでしょう。入所してから慣れるまでに一か月ぐらいかかるのは普通だと聞いていましたし、怒って電話をかけてくることにも慣れていましたので、さほど驚くことではありませんでした。

次は10時頃でした。今度は「帰る!ここから出して!」という声と共に、ガンガンと激しく金属を叩く音が聞こえてきます。玄関のドアを叩いているようです。「警察を呼ぶ!」「帰る!」「帰してよ!」「ガラス割るよ!」と叫んでいます。

「お母さん、お母さん、落ち着いて。Yさんは? Yさん居るんでしょ」私が声をかけても返答はなく、電話は切れました。10分ほどして二度目の電話がかかります。「どうせ私は一人なんだから!」「帰る!」「出して!」「こんな所イヤだ!」

そしてやっとYさんの「民江さん、民江さん、明日は夏さんが迎えに来てくれるから」という声が聞こえてきました。私は「お母さん落ち着いて! 落ち着いて! 怪我するよ!」「警察に電話するならしてもいいよ!」「お母さんお願い! 落ち着いて」

電話が切れたので、私は急いで車に飛び乗り、民江さんの元へ向かいました。施設の方から来てくださいと言われない以上、迎えに行くべきではないと思いながら、とにかく車を走らせました。もう一度電話が鳴ります。「早く迎えに来てよ! どうして来てくれないの!」私はそれでも「お母さん、落ち着いて」と言いました。

それからほんの3分ほどで私はグループホームの玄関前に到着しました。車を飛び降り、中の様子を伺いますが、玄関ドアのガラス越しに人影はありませんし、激しい音も声も聞こえません。落ち着いてくれたのだと思い、車に戻って待つことにしました。まず姉に電話をかけて事情を説明しました。その後やっとYさんから電話が入り、玄関前に車を止めていると伝えた時のことでした。受話器からYさんの叫び声がしました。

私は車を降り、フェンスを乗り越えて真っ暗な建物の横へ駆け寄りました。小さな明かりがほんのり照らすコンクリートの上に横たわる人影。女性スタッフが寄り添い声を掛けています。母の部屋の真下、母です。スーツを着て、鞄を斜めにさげています。頭から血が流れているように見えます。息子が初任給でプレゼントしたマフラーが頭のすぐ横にあります。私は母の肩をさすり「お母さん、お母さん」と声を掛けることしかできなかったように記憶しています。

救急車は大学病院へ向かいました。それから母は静かに眠り続け、46時間後に息を引き取りました。ベッドの周りを家族みんなで囲み、見送ることができました。

警察から、施設の人に対して何か思うことはあるかと聞かれたので、「強いて言えば、窓に補助鍵があればよかったのにと思います」と答えましたが、私以上の罪は、他の誰にもありません。私が「すぐ迎えに行くから、そのまま待ってて」とさえ言っていればよかったのです。または、それ以前に私がもう少し我慢をするか、もう少し手を抜いていればよかったのです。私は母に入所を勧め、母は私に従いました。死亡診断書には「自殺」と記されていましたが、母は家に帰りたくて帰りたくて、自分の足で帰ろうと出口を探して窓から出たに過ぎません。手すりはうまく乗り越えたのに、着地に失敗しただけなのです。落下しながら私の車は見えたでしょうか。「あれ、来てくれてたの?」と思ったかもしれません。ごめんなさい。

母は昔から延命処置を嫌っていました。保険証と一緒に尊厳死協会の会員証を持ち歩いてくれていたおかげで、私たちは迷わずに済みました。病院で治療方針の決定を委ねられた時、いよいよ血圧が下がってきた時、息子が「やっぱり何かしてもらうわけにはいかないの?」と言った時、一枚の会員証に託した母の思いを揺らぐことなく貫くことができました。私の母は、最期まで自分の思いを活かし、誰にも迷惑をかけず、望む姿で旅立っていきました。母らしく凛として生きていました。最も母らしい生き方でした。

訃報を伝えたマンション管理会社や新聞販売店や郵便局、晩年ご迷惑をおかけしたと思う方々ばかりですが、その方々が涙を流してくださったことで、母のこの家での生活ぶりがどんなに尊いものであったか、あらためて感じました。

引越しの荷造りをしながら孫に昔の話しをしたおかげで、BGMは東海林太郎や藤山一郎、ビング・クロスビーやグレン・ミラーオーケストラ、チゴイネルワイゼンなど大好きな曲のオンパレードでしたね。10歳で死に別れた最愛のお母さん、尊敬するお父さん、戦争で亡くなったお兄さん、母親代わりに世話をしてくれたお姉さんには再会できましたか。長い間ほんとうにお疲れさまでした。「私は、運動神経抜群で、『おてんば民ちゃん』だからね」という声が聞こえてきます。

これで「老いの風景」は終わりにさせていただきます。どうもありがとうございました。(了)

老いの風景〈1〉~〈15〉 https://www.rokusaisha.com/wp/?cat=67

▼赤木 夏(あかぎ・なつ)[文とイラスト]
89歳の母を持つ地方在住の50代主婦

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

伊藤詩織さんがレイプドラッグを飲まされたうえ、性暴力をうけたとされる事件(1千万円の損害賠償民事裁判)で、伊藤さん本人と山口敬之氏(被告)が出廷して本人尋問が行われた(7月8日)。

伊藤詩織『Black Box』(2017年10月文藝春秋)

7月8日の口頭弁論のなかで、伊藤さんは「やめて、痛いと伝えてもやめてくれなかった」と証言し、あらためて意思に反して性暴力被害を受けたことをあきらかした。一方の山口氏側は、性行為は合意のうえだったとして「就職相談を受けていたTBSを辞めたことへの逆恨み」「売名をはかった悪質な虚妄」などと主張した。

伊藤さんにたいする被告側の尋問では、事件の具体的な態様をしつこく質問する、セカンドレイプが法廷内で行われた。すなわち、膝のケガをめぐって、どのような体勢でケガをしたのか、ベッドの上でどのようにすれば膝が擦れるのか、などと繰り返し訊いたというのだ。報道された尋問の様子を挙げておこう。

被告代理人「どうしたら、膝の怪我が起きるのか、教えて頂けますか?」

伊藤さん 「必死に、これ以上、性行為を続けられないように、必死に膝を閉じ、からだを固くして抵抗していたので。その際に、足を開かれ、揉み合いになった時のことだと私は感じています」

被告代理人「揉み合いになっているのは、ベッドの上ですよね?」

伊藤さん 「はい」

被告代理人「ベッドの上で、膝が擦れるようなことはないと思うんですけど?

伊藤さん 「その時は、必死に、命の危険を感じながら争っているため、どこでどうなったか、説明するのはできません」

「レイプ」の体勢を事細かに訊かれた伊藤詩織さんは、耐え切れずに涙をうかべ、声をふるわせた。法廷内で傍聴していた女性たちも、あまりの質問に休憩時に涙するシーンがあったという。レイプ裁判などを提訴すると、法廷で口頭で再現させるぞという被告側代理人の執拗な質問、いわば公開の場での辱め行為に傍聴席は厭きれ顔になっていたという。

2019年7月12日付けデイリー新潮より

◆ベッドの移動を自白した山口氏

いっぽう、山口敬之氏は原告代理人の質問に、しどろもどろの矛盾した証言になっている。すなわち、ベッドAに寝ていて伊藤さんがベッドに入ってきたので性行為をしたとメールしている(甲一号証の25)にもかかわらず、自分はベッドBで寝ていたと証言したのだ。これはそのまま聞けば、山口氏がBからAに移動して、Aに寝ていた伊藤さんをレイプしたと受け取れる証言だが、山口氏はよくわからない返答で煙に巻く。

山口氏「Bというのは、私、そのベッドカバーを壊してないんですよね。ひとりでしたから。ですから、ここのニュアンスは当時、妊娠してしまった、働けなくなる、というメールがきている伊藤さんに対して、私の泊まっている、私のホテルに、あなたが酔ったせいで結果的に、私のベッドに入ってきたんだと責めるために書いたものですけど、ここ、表現が不正確かもしれませんけど、それは、私が本来、寝ていたベッド(本来、寝るはずだったベッド)という意味です」つまり、Bに寝るつもりだったが、伊藤さんが酔ったせいで、私がAに寝ていたところ、詩織さんがAに入ってきたので性行為におよんだと、そう解釈するしかない返答になってしまったのだ。この説明では、山口氏の行動は合理的な説明がつかない。

刑事事件化しないまま(なぜか逮捕令状が執行されなかった)、「法的には無罪」と言いつのってきた山口氏だが、公判での証言をみるかぎりは限りなく黒に近いと言わざるを得ない。刑事犯罪での起訴猶予もしくは「無罪」が、裁判主体がちがう民事裁判において有罪になるのが珍しいことではないのは言うまでもない。山口氏が起こしている伊藤詩織さんに対する1億3千万円の名誉棄損裁判も注目に値する。

菅義偉(すが よしひで)官房長官

◆菅官房長官の口利きで、不労所得?

ところで、その1億3千万円訴訟だが、安倍総理にかんする著書しかなく、ジャーナリストとしての活動をしているとも思えない山口氏が、印紙代だけでも41万円。弁護士を雇えば300万円は下らないだろうと思われる訴訟費用を、どうやって捻出できたのか、この疑問にこたえる記事が『週刊新潮』(※参考=2019年7月12日付けデイリー新潮)に掲載された。

山口氏がある企業から「毎月42万円の顧問料」および「交通費などの経費」をお受け取っているというのだ。その企業とは菅義偉(すが よしひで)官房長官が懇意にしている広告代理店NKB(本社は有楽町の東京宝塚ビル)で、電車の中吊り広告などをあつかっているという。

記事には「(NKBの)滝会長と菅さんが仲良しなんです。山口がTBSを辞めた後に、菅さんが“山口にカネを払ってやってくれないか”と滝会長に依頼したそうです」という広告代理店関係者のコメントが掲載されている。

菅官房長官の名前は、山口氏が伊藤詩織さんの事件で逮捕される直前に、警察庁の上層部がストップをかけたとされる問題でも浮上していた。

中村格(なかむら いたる)警視庁刑事部長(現警察庁官房長)

すなわち、伊藤さんからの相談を受けて捜査を担当していた高輪署の捜査員が、逮捕状を持って成田空港で山口氏の帰国を待ち構えていたところ、逮捕直前に上層部からストップがかかった。そして、この逮捕取りやめを指示したのが“菅義偉官房長官の子飼い”である当時の中村格(なかむら いたる)警視庁刑事部長(現警察庁官房長)だったのだ。

伊藤詩織さんの著書『Black Box』(文芸春秋)によれば彼女が直接、中村氏への取材を二度試みたくだりが出てくる。中村氏は一切の説明をせずに逃げたのだという。「出勤途中の中村氏に対し、『お話をさせて下さい』と声をかけようとしたところ、彼はすごい勢いで逃げた。人生で警察を追いかけることがあるとは思わなかった」というのだ。なんとも無様な警視庁刑事部長ではないか。答えられずに逃げたのは、やましさの表現であり行動であるはずだ。

もはや明らかであろう。安倍政権にとって、安倍政権を賛美してきた山口氏の逮捕はあってはならないことだったのだ。そこに菅義偉官房長官が深く関与しているのは明白だ。山口氏の著書『総理』には、2012年の総裁選への出馬を渋っていた安倍晋三氏にたいして、山口氏が菅氏に出馬を促す行動をさせたことで、出馬にこぎつけたとある。総裁の座を射止めたあと、菅氏は「あの夜の山口君の電話がなければ、今日という日はなかった。ありがとう」(『総理』)と、自民党本部の4階で握手をもとめてきたという。

ようするに第二次安倍政権の誕生の功労者である山口氏を、官邸は指揮権を発動してまで擁護せざるを得なかったのが事件の真相なのだ。ひきつづき、この事件の真相が明らかになり、司法の正義が実現されるまで注目していきたい。


◎[参考動画]2019年4月10日に開かれた『OpentheBlackBox 伊藤詩織さんの民事裁判を支える会』の発足イベントの模様part7(OpentheBlackBox 2019/5/15公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

よその国では軽蔑されることも少なくないけれども、日本には「モノマネ」を許容する文化があります。プロにも「モノマネ」を売りにしている芸人がいることからも、日本では誰かを上手に真似ることは「芸」とされているようです。

ところが、私の目から見ると、売れている「モノマネ」芸人の中でも、高評価を与えることのできる芸人さんは多くはありません。そしてもっと深刻なことは、一部の秀でた「モノマネ」芸人さんが実によくできた芸を披露しても、その面白さをわかる観衆が、限られているということです。

◆アドリブの発想力に非凡な才を持つ松村邦彦の「モノマネ」芸

私は松村邦彦の「モノマネ」を高く評価します。彼が素人でまだ体がほっそりしていたころから、彼の「モノマネ」兼アドリブの発想力には、非凡な才を感じていました。以下にいくつかyoutubeで見ることができる松村の芸を紹介しますが、はっきりいって、観衆のレベルが松村の芸に追いついていないので、本来大爆笑が取れる芸なのに、不発のような雰囲気が感じられます。


◎[参考動画]おい、貴ノ岩!松村邦洋、貴乃花他ものまねステージ。ビートたけし、達川光男、中尾彬、安倍晋三など。2016.9.10 大阪駅(keiba&heroshow 2016/9/13公開)


◎[参考動画]松村ものまね1(洋邦村松2015/7/17公開)

◆「モノマネ」芸・いくつかのレベル

「モノマネ」芸は、その内容により、いくつかのレベルに分けることができます。
一番簡単なのは「誰か有名人の形態、もしくは発言したことだけをそのまま真似る」芸です。これは「モノマネ」芸の中では一番簡単で、発展性のないものです。

次に有名人の「形態や癖を誇張して笑いを取ろうとする」芸です。コロッケや清水アキラなどがこのレベルの芸人です。この種の芸、最初は珍しさがありますが、ワンパターンに陥りがちです。コロッケは口の形を中心に顔を作るだけの芸ですし、清水アキラもセロテープで顔を造形する芸から成長はありません。

その上は形態の真似もするが、それ以上に声や語りの内容で「モノマネ」する対象との相似性を演出する芸です。古い話になりますが、かつて「サブローシロー」という漫才コンビがありました。この二人の「モノマネ」芸は、非常に高いレベルにありました。このレベルを常時軽くこなす楽しさがある漫才コンビですが早々に解散してしまったのは残念です。

「モノマネ」の最上級は、声や雰囲気で誰かを真似て、「その人が実際には話していないけども、言いそうなことを言い、観衆を笑わせる」芸です。プロでこの芸の域に達しているのは、私が知る限り松村邦彦、清水ミチコ、劇団「ニュースペーパー」のメンバー数人だけです。「モノマネ」ではなく、真似している対象の人物が、本当に語っているのではないかと思わせる、いわば「生霊下ろし」が「モノマネ」の真骨頂です。

◆「モノマネ」も演じられない議員候補たち

なぜに選挙終盤のこの時期に、政治と全く関係のない「モノマネ」を私が話題にするのか。理由があります。9割5分以上の候補者は下手くそな「モノマネ」も演じられていないからです。

私の知り合いで、硬派のライターに「モノマネ」癖のある人がいます。その人は世界中で誰も真似しないような対象の「モノマネ」を瞬時に繰り出します。昔から「モノマネ」が生活の一部だったそうです。中学の時は一人で先生全員の「モノマネ」ができたので「一人職員会議」が持ちネタだったそうです。私も聞かせてもらったことがあります。その先生たちのことは知らないのに、爆笑しました。

「モノマネ」は似ているかどうかも大切だけれども、語る内容も重要なんだなぁーと思わされました。その人は姜尚中、鈴木邦男、前田日明などあまりほかの人が真似しない対象を得意としています。「誰でも真似する有名人のモノマネやっても意味がない。むしろ、身近な人の真似をするのが楽しいんだよ」と、「モノマネ」に関してはも高邁な理念を持っているようです(いつかは「芸人としてデビューしたい」と真剣に考えているそうです)。

ここには書けないような、反原発の論客(実はほとんどの有名論客)や、しばき隊幹部の真似まで、驚くほど素人のくせに「無名人」の「モノマネ」が上手で飲み会の時はいつも楽しみにしています。

「モノマネ」に安心して笑っていられる時代は、もう終わってしまったような気もします。オウム返し、代わり映えのない政党・候補者揃いの選挙が終わったら、あの人はどんな「モノマネ」を披露してくれるでしょうか。

▼佐野 宇(さの・さかい) http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=34

安倍晋三までの62人を全網羅!! 総理大臣を知れば日本がわかる!!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』総理大臣研究会=編著 定価:本体600円+税

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

アメリカの総人口、約3億3千万人のうち、およそ1割にあたる3千万人強が軍産複合体に属しているという。軍隊と兵器産業およびその周辺業界の従業員と家族の総計である。軍隊が移動をふくめた戦闘行為で組織を維持するのと同じく、兵器もまた使用と廃棄、開発と増産をくり返すことで維持される。

したがってアメリカ社会は世界でも飛びぬけた軍事力と兵器生産を維持し、その関係者が生活していくために、つねに戦争を作り出さなければならない宿命を持っている。日本の自衛隊のように、世界でも有数の自然災害国にあって、災害出動が期待され、感謝されるような「軍隊」とは違うのだ。

◆10年に1度、本格的な戦争が準備される

トランプが就任とともに行なった、イラン核合意からの離脱はまさに、10年に1度は行わなければならない戦争を準備するためだった。6月には単独で軍事行動に出ようとしていたところ、10分前にトランプは思いとどまった。まだ「大義名分」が十分ではないと判断したのである。単独ではマズいと判断したのである。戦争準備はホワイトハウスの強硬派スタッフおよびペンタゴンで練られていたという。国連の共同行動決議は鼻っから無理と見込んで、有志連合の形式が追求されてきた。そしてその準備も始まった。


◎[参考動画]イラン核合意から米が離脱 次の展開は(BBC News Japan 2018/5/10公開)


◎[参考動画]【報ステ】イラン沖警備 アメリカが有志連合検討(ANNnewsCH 2019/7/10公開)

制服組のトップであるダンフォード統合参謀本部議長が、7月9日に「ホルムズ海峡とバブルマンデブ海峡の航行の自由を確保するために、有志連合をつくるために多くの国と連絡をとっている」と、メディアに軍事行動を示唆したのだ。議長は「2週間ほどで決定したい」としている。すでにフリゲート艦でイラン艦艇と準軍事接触しているイギリス(革命防衛隊によるイギリスタンカー拿捕未遂)、そしてソマリア沖に護衛艦を海賊対策で派遣している日本を念頭に置いたものであるのは明白だ。

すでに日本の海運会社のタンカーは、何者(アメリカとイランが、相互に責任を非難しあっている)かによって攻撃されている。原油の輸入の8割以上を中東に依存している日本にとって、格好の艦隊派遣理由となるはずだ。航行の自由を確保するためであって、戦闘のための海外派遣ではないとして、おそらく秋の臨時国会で派遣特別措置法が、安全保障法制のもとに決議されると思われる。

いうまでもなく、改憲論議の呼び水として自衛隊の海外派兵が議論されることになる。その意味では、改憲議論を促進したい安倍自民党政権にとって、願ってもない「素材」がやってきたのだといえよう。自衛隊派遣で考えられる4つの法的枠組みは、安全保障関連法、自衛隊法、海賊対処法、特別措置法である。

ダンフォードの発言に対して、野上浩太郎官房副長官は7月11日の記者会見で、米国がホルムズ海峡の船舶航行の安全確保のための有志連合を呼びかけていることについて「イラン情勢について米国と緊密にやりとりしているところだ」と述べた。さっそくアメリカに尻尾を振ったかっこうだ。


◎[参考動画]2019年7月11日午前-内閣官房長官 記者会見(Ripbanwinkle 2019/7/12公開)※有志連合に関する会見は動画3:24頃より

◆日米同盟の破棄をチラつかせながら、派兵を強要

トランプ大統領は6月26日にテレビ番組で「日本が攻撃されれば、米国は第三次世界大戦に参戦し、米国民の命をかけて日本を守る。いかなる犠牲を払ってもわれわれは戦う。だが米国が攻撃されても、日本には我々を助ける必要がない。ソニー製のテレビで見るだけだ」と語っている。

ようするに、日米同盟を維持したければ、アメリカが攻撃されたら日本は反撃のために兵力を出せと言っているのだ。日米安保不要論などではない、あの発言は有志連合への参加およびアメリカの対イラン戦争に参加しろと言っているのだ。その証拠にトランプは6月24日にも、ツイッターで「なぜ米国が他国のためにタダで航路を守っているのか。彼らが自国の船を守るべきだ」と日本および中国を批判している。

トランプはその場その場で、不規則発言をくり返す「トンデモ男」と思われているが、そうではない。かなり用意周到にツィートを行ない、つぎの行動に結びつけてもいるのだ。


◎[参考動画]トランプ大統領 イランを牽制「圧倒的な力で対応」(ANNnewsCH 2019/6/26公開)

2016年の大統領就任以降(大統領選当時)の発言を再録しておこう。

「アメリカが撤収した後、日本や韓国が自力で中国や北朝鮮に核に対抗しなければならないなら、私は日韓の核武装を容認する」(2016年3月ニューヨークタイムズのインタビュー)

「米軍の日本駐留経費の負担増を求め、応じなければ「在日米軍の撤収を検討する」(2016年5月CNNインタビュー)

これらの発言が、今回のような有志連合への参加をよびかける布石であるのは明らかだ。欠陥機ともいわれるF35を140機も押し付けて、それにともなう護衛艦いずもの空母改装、そしてイージスアショア配備。こうしてアメリカの日本属国化がますます強固に進められている。

今後、イラン情勢、中東情勢をアメリカが過度に政治焦点化することで、石油を中東にたよる日本も有志連合に参加すべきという議論が起きるのは目に見えている。しかしアメリカが政治焦点化しているのは、戦争と兵器を必要とするアメリカ社会の要請によるものであることを、われわれは見ておかなければならない。アメリカのためのアメリカによる戦争産業に、日本が参加する謂れはないのだ。


◎[参考動画]なぜアメリカは戦うのか(1-4)WHY WE FIGHT(2004年 米シャーロット・ストリート・フィルムズ)(dark goldenyellow 2019/3/6公開)

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

殺人などの重大事件を起こす少年たちの多くは、幼少期に親から凄絶な虐待やネグレクトを受けている。私は、そういう少年たちを実際に何人か取材してきたが、彼らの実像を正確に伝えるのは難しい。実際に本人と会い、話してみなければわからないような特異なところが色々あるからだ。

そこで、実験的にやってみることにしたのが本企画だ。少年時代に殺人罪で有罪が確定した1人の「元少年」と私がネット上で対話をするという実にシンプルな企画である。このやり方なら、少年犯罪者の素に近い部分を第三者に伝えられるのではないかと考えついたのだ。

その「元少年」をここではAと呼ぶ。本名はもちろん、事件の内容や服役先なども明かせないが、現在も某刑務所で服役している。私はAが裁判中に一度面会し、彼が受刑者となってからは継続的に手紙のやりとりをしてきた。そして今回、この企画を打診したところ、A本人から前向きな返事が得られたため、この「デジタル鹿砦社通信」上で本企画が実現した。

第1回目の今回は、以前に手紙で「これまで人に見捨てられたり、裏切られたりしたことがたくさんあった」と書いていたAに対し、具体的にどういうことがあったのかを手紙で質問し、回答を手紙に書いてもらった。そのAの回答に対し、私が改めて返事をしたためた。今回を含めて3回、こういうやりとりをこの場で行いたいと思っている。

Aの文章は、国語的におかしいところが散見されたが、すべて原文ママで掲載した。そういうところからも彼の実像が窺い知れると思えたからだ。ただし、行替えなどは読みやすいように改めた。読んでくださった方には、忌憚のないご意見を頂けたら幸いだ。

Aから手紙で届いた回答。Aが書いた文字はすべて修正した

◆以下、私の質問に対するAの回答

私は幼少期時代から現在に至るまで様々な人から見捨てられたり、裏切られて来ました。

一番最初に裏切られたのは、実の両親です。私は他の一般的な家庭とは違い、幸せのある家庭ではありませんでした。

私は実父から酷い虐待を受けていました。それが何時頃に始まったのかは、憶えていません。古い記憶では5歳の頃には、もうすでに虐待を受けていました。これが第一の裏切りだと思っています。

そして、実父による虐待に対し、実母は私に適切な手を差し伸してくれませんでした。これが第二の裏切りと同時に心の依り拠に見捨てられた瞬間でした。

実母も実父から虐待を受けるのを恐れたのでしょうが、その保身が幼かった私に取っては大変ショックなものでした。母親という存在も多分に大きいと考えています。

小学校でも担人の先生やクラスメートにも裏切られました。私が小学一年生の頃、担人の女性教員に実父から虐待を受けている事、助けて欲しい旨伝えたところ、私は嘘付き呼ばりにされてしまいました。

私はこの時一番辛い時期でした。勇気を出して助けを求めたのに、担人は両親を学校に呼び出し、私が嘘の話しを周囲に流布し、困っている旨を伝えた。

この時の私は生きた心地がしなかった。面談が終わると私は学校からそのまま家出した。初めての家出だ。とても家には帰れなかった。どんな目に合うかは容易に想像出来る。

しかし、結局は真夜になってこっそりと家に入いり、勉強机やベッドの下に身を隠すのだった。いずれ見つかるのは分かっていたが、無防備で寝ているよりかは身構え・心構えが出来るので、ダメージは半減出来た。私が身と心を分ける解離の術を会得した瞬間でもある。

話しが虐待の方へと脱線してしまったので、元に戻そう。

小学四年生まで上記の事が繰り返された。

小学五年生の時は海外で実母の親戚の家で一人で生活をしていた。最初は母親も一緒だったが、日本に用事が出来て一人で帰国してしまったのだ。

10万円相当のお金とプリペイド携帯だけを私に渡して、「私が戻って来るまで、これで生活しなさい」と

あの時の孤独感と恐怖感は、形容し難い。母親が去って二週間経った頃、シンナーでラリった中年にナイフで脅されて携帯を奪われました。親の声を聴きたくても聴けなくなったのです。

それから約四カ月、母親は戻って来ませんでした。四カ月もの間子供と音信不通になっていたのに、戻って来た時心配は一切していませんでした。

その後、私は日本に戻りました。

日本に戻った私に転機が訪れました。両親が別居する事になったのです。この時の別居に至るまでの一連の出来事は壮絶なものでした。警察までもが介入するに至りました。

とにもかくにも両親は別居しました。私は迷いました。どちらに付いていくべきか、、、。結果としては、母親に付いていく事になりました。私の親権が欲しかったみたいです。しかし、蓋を開けて見れば父親から私の養育費をせしめる為の道具でしかなかったのです。

◆以下、Aに対する私の返事

質問への回答、ありがとう。ここで書く文章は不特定多数の人の目に触れるので、あなたのことをAくんと呼びます。

率直な感想として、僕の質問に対し、Aくんは丁寧に回答してくれているように思いました。

一方で、Aくんの回答は、いくつかの重要なエピソードが曖昧にしか書かれていないようにも思いました。それはたとえば、(1)お父さんから受けた虐待の内容、(2)それを間近で見ていたお母さんの様子、(3)小学校の先生からどのように嘘つき呼ばわりされたのか、(4)両親が別居するまでの一連の出来事がどのように壮絶だったのか――などです。

ただ、そのことを踏まえても、Aくんが自分の経験したことやその時々の思いについて、読む人に伝えようとしている雰囲気は感じられました。

回答と一緒にもらった手紙には、小学6年生以降のことを書くのは精神的な苦痛が大きいので、躊躇しているかのようなことが書いてありましたね。現時点でそのことを書いてもらう必要はありません。

ただ、Aくんの回答の冒頭部分には、〈私は幼少期時代から現在に至るまで様々な人から見捨てられ、裏切られて来ました。一番最初に裏切られたのは、実の両親です〉と書かれています。この記述からすると、Aくんは今回の回答に出てきた実の両親や担人(原文ママ)の先生以外の人達からも見捨てられたり、裏切られてきた経験があるのだと思います。そうであれば、それらの経験も無理のない範囲で書いてもらいたいと思いました。

また、クラスメートにも裏切られたことがあるように書いているのに、クラスメートから裏切られたエピソードが出てきていないので、そのことも書けるなら書いて欲しいと思いました。それを書かないと、予告編だけあって、本編がないような違和感があります。

この記事は不特定多数の人が見られるようにネットで公開しています。そこで、どういうコメントが寄せられるかを確認したうえで、Aくんに次にどういうことを書いてもらうかを改めて検討し、最終的に決定したいと思います。

では、今回は以上です。次からもよろしくお願いします。

追伸.
Aくんの回答には、国語的な誤りが多いように思いました。たとえば、以下の部分は間違いです。

【誤】幼少期時代
【正】幼少期or幼少時代

【誤】手を差し伸してくれませんでした。
【正】手を差し伸べてくれませんでした。

【誤】担人の先生
【正】担任の先生

【誤】嘘付き呼ばり
【正】嘘吐き呼ばわり

【誤】嘘の話し
【正】嘘の話

【誤】どんな目に合うか
【正】どんな目に遭うか

【誤】家に入いり
【正】家に入り

Aくんは、国語辞典は持っていますか? 国語辞典を持っているなら、もっと国語辞典を引くようにしてください。国語辞典を持っていないなら、入手したほうがいいです。

あと、Aくんの文章の書き方は、末尾が「です・ます・でした・ました」などになっている「丁寧体」の文章と、末尾が「だ・だった・された」などになっている「普通体」の文章が混在しています。そういう文章の書き方はおかしいので、ここでは、文章はすべて「丁寧体」に統一してください。

たとえば、「伝えた」「生きた心地がしなかった」「家出した」などは“書き言葉”で書かれていますが、それぞれ「丁寧体」で書くと、「伝えました」「生きた心地がしませんでした」「家出しました」になります。次からこのような書き方にしてください。

〈8月28日追記〉

記事中で、私(片岡健)がA氏の国語的な誤りを指摘していることについて、A氏から以下のような抗議がありました。

私が記事中で国語的な誤りを指摘したのは、私とA氏とのやりとりを全部ありのままに公開したいと考えたからです。A氏を侮辱したり、犯罪者は国語的におかしい独特な書き方をするという印象操作をしたりする意図はありませんでした。しかし、私はA氏の抗議を読み、耳を傾けるべき内容だとも思いました。

A氏への取材や、A氏に取材してわかったことの公表の仕方については、私も悩みながら答えを探しています。読者の方には忌憚のないご意見を頂けましたら幸いです。

――以下、A氏の抗議――

取材の話ついでに、国語的な誤りを指摘したりしていますが、私はエアコンもない暑い環境の中、夜遅くまで少しでも多くの人に私の気持ちが伝わるように頑張って書いているつもりです。にも関わらず、公的な場でああいう些細な誤字脱字で私を侮辱するような書き込みは、大変遺憾に感じます。

PCで自動変換出来る健さんと違い、私は手書きです。多少のミスは微調整してくれてもいいのではないかと考えます。実際、行間は調整したのでしょう。読みやすさを求めたのなら、誤字脱字も調整しても良かったはずです。

私が書いた文字も修正しているのだから、読者には分からない。そこを突いて来るところ見ると悪意を感じます。それとも犯罪者は、国語的におかしい独特な書き方をするという印象操作がしたかったのか、理由は分かりませんが。私は公的なあの場での誤解を招く書き込みについては容認出来かねます。そういった事情をちゃんと説明し、誤解を解消して欲しい。

ちなみに私は中学生の頃から漢字の勉強に力を入れており、検定を受けて合格したりもしましたが、それでも多くの誤字脱字は起きるものです。当所に於いても、改めて漢字の勉強を始めているところです。

文章の書き方は丁寧体に統一します。

――以上、A氏の抗議――

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて―』(山田浩二=著/片岡健=編/KATAOKA 2019年6月 Kindle版)。

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

5月下旬から先月半ばにかけて、くだんのリンチ問題について私と公開議論を行い、それなりに有益な方向に行けば……と思った矢先、一方的に「終結」を宣言し、「逃亡」した感が否めない前田朗東京造形大学教授が、何を思ったか、「反差別運動における暴力(三)」を『救援』(603号。7月10日発行)紙上に発表されました。

前田朗教授「反差別における暴力(三)」(『救援』603号。2019年7月10日発行)

一読して、先の2つの論評の時ほどのインパクトはなく、むしろ違和感を覚えました。

だいいち、本通信6月4日号(「唾棄すべき低劣」な人間がリーダーの運動はやがて社会的に「唾棄」される!~前田朗教授からの再「返信」について再反論とご質問~)に私が前田教授に行った質問に対しただの一つも答えずに、今回の論評を寄稿された神経が理解できません。

「炎上商法」と鹿砦社を揶揄したことを坊主懺悔して、実質的に議論の打ち切りを行ったのは前田教授です。坊主懺悔されたので、私も大人の分別で、それ以上の追及は控えましたが、この期に及んで『救援』に再び私論を展開するのはどういう神経でしょうか? 学者の「常識」は、私たちにとって「非常識」だと感じました。

私の知人や取材班、支援会などの者たちは、「そもそも松岡さんの質問から『逃亡』した前田教授には、この問題を論じる資格があるのか?」という意見が大勢でした。常識的に見れば、私もそうだろうと思います。

知人の中には、『救援』は、「『言論弾圧法』である『ヘイトスピーチ解消法』の成立に尽力し、その勢力の擁護者であり、かつリンチ事件について無責任な発表を続けてきた前田教授を連載から降ろすべきである」と言う人もいました。

前田教授の周囲には現在、「ヘイトスピーチ解消法」の強化、もしくはもっと厳しい罰則のある新法の制定を唱える人たちが多いようですが、これは、言い方を変えれば「もっと弾圧を厳しくせよ」というものです。今は対象がヘイトスピーチを行うネトウヨ/極右勢力に対するものですが、やがて対象が捻じ曲げられたり拡大解釈され自らにはね返ってきたり、想定していなかった人たちにも行使されるとの危惧は否めません。かつて暴力団を取り締まる目的で出来た凶器準備集合罪が、やがては新左翼を弾圧する根拠となったように。

また、「カウンター」側の人たちの口汚い暴言や罵詈雑言を見るに、これも「ヘイトスピーチ」ではないのかと思うことも往々にしてありますが、解釈を変えれば「カウンター」の言説を「ヘイトスピーチ」と捉えられる可能性は十分にあるのではないでしょうか。そういった基本的な「権力に対する警戒心」が希薄すぎるように思われてなりません。

そうこう考えると、前田教授の主張は、本来の救援連絡センターの活動趣旨に反するものだと思います。少なくともセンターが弾圧を助長するような法律を認めてはいけません。

◆今回の論評中の個々の問題点に対するコメント

それでは、幾つか気になった点を見てみましょう。──

加害者に謝罪を迫るのは当たり前ですが「Mにも非があったのだから」とはどういう意味でしょうか? 判決のどこにそのようなことが書いてあるのでしょうか?

前田教授は「双方が謙虚に謝罪し合うべきである」などと呆れた主張をされていますが、どうして一方的に集団リンチの被害にあった被害者M君が、加害者に謝罪する必要があるのでしょうか? ささいな喧嘩ではないのですよ。一方的に凄惨な集団暴行を受け半殺しの目にあった被害者に「謝罪しろ」などとの物言いは、さらに被害者を痛めつけるものです。そうではないですか? 

被害者M君が加害者に謝罪する必要や道理など、金輪際ないし、一方的被害者に不当な「謝罪」を要求している点で、前田教授の論は加害者に加担するものであることが明らかです。いわば“喧嘩両成敗”を勧め、一見まともに見えますが、問題の本質から外れています。前田教授は本当に事件の内実をご存知なのでしょうか?

M君や鹿砦社の代理人、大川真(ママ。「伸」が正しい)郎弁護士を「筆者が敬愛する弁護士」としていますが、東京在住の前田教授は、大阪弁護士会の大川弁護士の仕事の内容や業績を熟知されているのでしょうか? また大川弁護士と昵懇の仲なのでしょうか?(少なくともそんな話は聞いたことはありませんし、大川弁護士は、いわゆる「人権派」「左派」としての仕事を積極的になさるのではなく、基本的には左右を超えた実務肌の弁護士ではないでしょうか)。

「和解の障害となっているのは鹿砦社、松岡利康社長……李信恵および関係者の間の対立がますます激化していることである」(ん?)

いい加減にしてください! 基本的な事実認識が間違っています。鹿砦社は李信恵氏に散々ツイッターで罵詈雑言、誹謗中傷をされ、「通告書」などで「品性なく事実に反する言いがかりを控えるよう」要請しましたが、一向に収まらず、さらに仲間らも付和雷同しエスカレートする兆しもありましたので、仕方なく出版社としての業務防衛のために提訴せざるを得なかったのであって、好き好んでお金と手間暇を使い訴訟を起こしているわけではありませんよ。この訴訟は一審で鹿砦社が勝訴しましたが(控訴審判決は7月26日)、提訴以降、李信恵氏本人や仲間らも鹿砦社への誹謗中傷を自重しつつあるようです。

一方、李信恵氏はその訴訟の中でほぼ争点が出尽くし、間もなく結審か、というタイミングになり急に「反訴したい」と言い出しました。裁判所は李信恵氏の反訴を認めなかったため、李信恵氏は別の訴訟を起こしました。前田教授の言い分では、あたかも双方が同じレベルで「喧嘩」をしているかのような印象を読者に与えますが、上記のような事情が全く無視されています。意図的にか前田教授の無知かはわかりませんが、このくだりも虚偽を述べている点で非常に悪質でさえあり責任も重いでしょう。

その他、鹿砦社に対して批判する権利を前田教授は有しないと思います。なぜならば冒頭に述べた通り前田教授は私との公開の議論から一方的に「逃亡」しているからです。前田教授が一方的に「逃亡」した事実は、少なからずの人たちが知り、いわば“公知の事実”になっており、先の2つの論評に感激した人たちを落胆させました。前田教授はまず6月4日付けの本通信において投げかけられた質問事項に真摯に答えるべきではないでしょうか? 「今からでも遅くない。背筋を正して事実と責任に向き合うべきである」(反差別運動における暴力一)と前田教授自身が述べておられるではないですか。

 

リンチ直後に出された李信恵氏の「謝罪文」(1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

さらに前田教授は「裁判所の判決に従え」と繰り返し述べておられます。これは、原発訴訟や行政訴訟などで不当判決が下された場合でも、それに従えというようなもので、住民や市民が、心ある弁護士や学者らの力を借りながら不当判決に抗していくことを前田教授はどうお考えなのでしょうか?(とりわけ『救援』紙上でこのような主張は妥当でしょうか?)「弾圧されて、不当判決を出されても従え」──“前田論法”では刑事事件においてはこのような行為を推奨することになります。そんなバカな話はないでしょう。

ア・プリオリに「判決に従え」を繰り返す前田教授の意見には同意しかねますが、仮にその論を認めるとして、裁判所の判決が被告によって「履行」されなければ、どうしろというのでしょうか? 現に加害者の一人、金良平氏は、裁判によって確定した賠償金の支払いを渋っており、金良平氏によるM君の被害は全く回復されていません。この事実に「判決至上主義」の前田教授はどう申し開きなさるのでしょうか? 「判決至上主義」は、明確に破綻していることが示された事実です。

ちなみに、私見を申し上げれば、このリンチ事件は、前田教授もおっしゃるように全員に「道義的責任」があり、リンチの現場に同座した5人全員に連帯責任があると考えますので、和解の前提としては、まずは賠償金を5人全員で負担すべきではないでしょうか? なにしろ「エル金は友だち」だったわけですから──。

リンチ直後に出された金良平(エル金)氏[画像左]と李普鉉(凡)氏[画像右]による「謝罪文」(いずれも1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

 

辛淑玉氏による2015年1月27日付け文書「Mさんリンチ事件に関わった友人たちへ」(1ページ目のみ。全文は『カウンターと暴力の病理』に掲載)

今から思い返せば、前田教授は「本書(注;鹿砦社出版のリンチ関連本)が批判する野間易通、辛淑玉、有田芳生、中沢けい、上瀧浩子とは面識があり、いずれも敬愛する運動仲間である」(「反差別運動における暴力」一)と述べておられました。あの論評の論旨は立派ではありましたが、結局全員が何らかの形でM君に対する〈加害者〉となったわけで、そんな連中への「敬愛」を表明していた前田教授。あの時に前田教授が、連中と根本は同根であることを見抜けなかったのは、私(たち)にとって不徳の致すところでした。それどころか、「前田教授の姿にこそ、腹を据えて持論を展開することのできる真の言論人の矜持を見る」(『カウンターと暴力の病理』P82)などと過大評価(誤認?)していました。少なからずの方もそうだったと思うと、前田教授の責任は決して軽くはないのではないでしょうか?

前田教授は論評の中で李信恵氏に対し「唾棄すべき低劣さは反差別の倫理を損なう」(「反差別と~」二)と喝破されましたが、これは今でもそうお考えでしょうか? リンチ被害者M君の人権を顧みず、村八分にし隠蔽に走り闇に葬ろうとした「カウンター」周辺の者らこそ「唾棄すべき低劣」な人種だと断言しますが、そういう人間に「人権」などという崇高な言葉を使って欲しくはありません。

◆「和解」への途はあるのか?

これまで本稿では前田教授に対して厳しい意見を申し述べてきましたが、今回の論評に前田教授の認識と一致するところがないわけでもありません。末尾に、「本件が反差別・反ヘイト運動にもたらしたダメージは計り知れない」から「これ以上、反差別・反ヘイト運動を貶めないように自戒してもらいたいものだ」と記されています。

これには異議がありませんが、「デマだ」「でっち上げだ」「リンチはなかった」「リンチではない」などと異口同音に言うだけで、「自戒」や反省などどこへやら、リンチ事件と真正面から取り組まず隠蔽活動に走った人たち、とりわけ前田教授が共同代表を務める「のりこえねっと」の辛淑玉氏ら他の共同代表の方々に対して、もっと強くおっしゃってほしいものです。

さらに前田教授は、今回殊更に「和解」を勧めておられます。

「和解の条件を整える努力を続けるべきである」
「確定判決を前提に和解の席につくべきである」
「今後の和解に向けた冷静かつ真摯な対応を期待したい」等々

私は従前から自らを和解論者と自認してきました。これまでに出版した5冊の本の端々にもそう記しています。特に第5弾本の木下ちがや・清義明氏との座談会で、木下氏が予想外に物分かりの良い様子だったこともあり、そう申し述べ、賛意を得ました。しかし、「和解」実現のためには、まずは李信恵氏らが一方的に反故にした「謝罪文」に立ち返ることが最低必要条件でしょう。そうではありませんか?

そうして、前田教授が、頑なにM君や私たちを攻撃し続ける加害者らに仲介の労を取られる覚悟があるのであれば、私(たち)も意を決して「和解の席につく」こともやぶさかではありませんし、それが反差別・反ヘイト運動の近未来にとって有益な方向に向かうのならそうします。李信恵氏ら加害者側の人たちはいかがでしょうか?

しかし、前田教授に、「カウンター/しばき隊」周辺からの厳しいバッシングと対峙して「和解」への仲介の労を取る覚悟がないのであれば、簡単に「和解」という言葉を口にしてほしくはありません。

例えは悪いですが、ヤクザの抗争でもどこかで“手打ち”が行われます。ここでも、第三者的立場の大物ヤクザが仲介する場合があります。仲介に立つ大物ヤクザにとって失敗したらヤクザの世界で生きていけなくなったり威信が下がりますし、場合によれば殺されかねませんから命がけです。前田教授は勿論ヤクザではありませんが、それなりに大物ですし発言力は大きいわけですから、“手打ち”の仲介人になっていただければ、このかん荒れに荒れてきた反差別運動界隈に平和が戻ることでしょう。「敬愛」する前田教授へ──。

*【付記】6月7日に前田教授を招いて反ヘイト・反弾圧の「大学習会」を主催した戸田ひさよし前大阪門真市議から「弾劾質問状」が届き、これに期限の6月30日に回答し(7月1日付け本通信参照)、この際、戸田氏に逆質問を行い、この期限を、戸田氏からの質問状の期限と同じ3週間後の7月21日に設定させていただきましたが、戸田氏から「当方で種々の用件が重なってしまっているため、そのご希望にそえず、『できるだけ8月上旬までの見解表明』、『最も遅くとも8月下旬までの見解表明』とさせていただきます」との連絡がありましたので、とりあえずお知らせしておきます。
  

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鹿砦社 http://www.rokusaisha.com/kikan.php?bookid=000541

レジェンド勢揃い

レジェンド達が集まるパーティーを開くことの凄さ、その羨ましい立ち振る舞い!──。先月のことになってしまいましたが、6月8日(土)、新宿京王プラザホテルに於いて行なわれた、「舟木昭太郎氏喜寿を祝う会」は盛大に130名あまりの格闘技関係者を集めて行なわれ、舟木さんの長き取材経験と実績を称える、同じ時代を生きた選手、ジム関係者で賑わいました。

発起人代表の新日本木村ジム・木村七郎会長、実行委員長の具志堅用高氏、渡嘉敷勝男氏、大熊正二氏、藤原敏男氏、富山勝治氏、シーザー武志氏、猪狩元秀氏、増沢潔氏、佐竹雅昭氏が並び、3年前から行なわれている舟木さんのトークショーで集まる面々は慣れたトークをドンと展開。

乾杯の御発声は新日本木村ジム・木村七郎会長

左から富山勝治さん、舟木昭太郎さん、関口修平さん、木村七郎さん

舟木昭太郎さんは大学を卒業後のフリーライター時代からプロボクシング、キックボクシングを取材し、日本スポーツ出版社へ入社後のゴング誌では昭和のプロボクシング全盛期と言える15回戦制世界チャンピオンから、キックボクシング生誕以降を生で見て来た取材の先駆者でした。

舟木昭太郎氏は「私が今ここにあるのは、多くの格闘家、関係者のお陰であります。とりわけ鬼籍に入られた野口修社長(野口プロモーション)、大山倍達総裁(極真空手)、金平正紀会長(協栄ジム)、梶原一騎先生(作家)と夫人高森篤子さん、そして、病床にある黒崎健時会長(黒崎道場)等の支え、皆様の導きがあったればこそです。御礼の言葉もありません。」

御存命、御健康であれば、会いたかったであろう先人の名前を披露し、感謝の気持ちを伝えられました。

全日本系のスター・島三雄さん、田畑靖男さんも祝いに御参加

具志堅用高実行委員長の祝辞

この舟木さんとレジェンド達との長年の物語は多様にある中、並んだ顔触れが祝辞を述べ、代表的にいちばん実体験から来る貴重なお話となった具志堅用高さんは、高校卒業して沖縄を発ち、プロデビューまでの経緯はかなり有名なところで、ゴング誌の取材を通じて舟木さんと出会い、「世界戦に挑む前の山中湖でのキャンプでは舟木さんが付きっきりで密着取材されました。

私生活では十代の頃から世間をあまり知らない遊びたい盛りに、後に世界チャンピオンになっても舟木さんから、“あれは駄目、これは駄目”とずっとマネージャー以上に、親父並に指導されました。」と語る。

「舟木さんに人生教えて頂きましたよ。私生活が変わり真面目になりましたねえ。引退してからは一緒に温泉に行ったり、一緒にお酒を飲んだり、楽しい思い出いっぱいあります。」と続けて語った具志堅さん。

具志堅用高さんの傑作トークが続く

大熊正二(小熊)さんもファンの前へ久々の御登場だった

2006年、そんな舟木さんの人生最大の危機が起こる。そこにたまたま居合わせた具志堅さんは、
「私が調子悪い時、キックボクシングの以前のコミッションドクター(日本系TBS)だった矢吹芳一先生の信濃町診療所でよく看て貰うんだけど、たまたま舟木さんが風邪をひいて診察に来ていた時に偶然会って、舟木さんの何だか顔が赤いな、何か静かだなと思ってたら、だんだん顔色が悪くなって、私は普段、選手の試合の動きとか練習の動き見て調子が分かるから、舟木さんを見てこれは大変だと、診療所で間に合う範疇ではない一刻を争うから、救急車呼ぶより自分の車ですぐ、外苑のインターにバァーンと乗って新宿の出口でバァーンと降りて、新宿ヒルトンホテルの隣の東京医科大まで飛ばして時間的に救急車より速かったあ。

とにかく元気な佐竹雅昭さん、“栄光の架け橋”を歌う

病院着いて受付け通り越えてロビーで“急患だ急患だ、お願いします!”と叫んだら、看護婦や医師が集まって来て私を取囲んで、みんな私が急患だと思ったんだね。“違う違うこの人(舟木さん)だ”と、でも騒いだことがよかったんだね。すぐ処置に掛かってくれて舟木さんは集中治療室に運ばれました。」

脳梗塞だった舟木さんは無事全面回復し、「具志堅さんは命の恩人です。あんな迅速な救いが無かったら私は後遺症が残っていたと思う。」と語る。

何が因で、また縁によって果に繋がるか、命を救ったのはこの仕事に就き、レジェンドを世に広め続けた縁が導いた結果となったのでしょう。

いつも大きな声と滑舌いい佐竹雅昭さんのトークは評判がいい

現役時代にクイズダービーに出演したコンビ、具志堅さんと富山さん

「これからのボクシング界のキーワードはレジェンドだ!」と30年以上前に舟木さんに言われたと言う祝辞を述べた参加者の一人は、「舟木さんが“日本名ボクサー100人”という新しい本の企画を考え、レジェンドを作り上げた先駆者です。」という、その先を見据えた発想は、その後、乱立していくチャンピオンの枠を越えたレジェンドが、今こそ希少価値ある存在となった時代でしょう。

選手の引退後、記者としての退職後、互いが歳を重ねた今、キックボクシング創生期から取材して来た格闘技記者はごく少数。レジェンドの取材を通して業界の裏側も見て来たであろう、ここがいちばん羨ましいところ。

富山勝治さんは渋く“皆の衆”を歌う

富山さんの歌に聞き入る周囲

イタズラ好きコンビ、渡嘉敷さんを杖で攻める藤原敏男さん

渡嘉敷さんもユニークさで笑いを誘う

渡嘉敷さんが「長生きしてください。次は米寿、100、200、300歳まで生きた人はいませんから!」と語ったギャグでしたが、傘寿、米寿、卒寿、白寿、紀寿、100歳を超えた長寿には、108歳の茶寿、111歳の皇寿、120歳の大還暦、250歳で天寿というものもあるそうです。

ボクシング評論家の郡司信夫さんは90歳まで執筆に務められました。これを越えるであろう舟木さんが企画する今後のイベントで、まだまだ語り続けて頂きたいものです。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

一水会代表 木村三浩=編著『スゴイぞ!プーチン 一日も早く日露平和条約の締結を!』

上條英男『BOSS 一匹狼マネージャー50年の闘い』。「伝説のマネージャー」だけが知る日本の「音楽」と「芸能界」!

 

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号絶賛発売中!

参院選挙戦もたけなわのいま、『紙の爆弾』8月号が7日に発売され、書店の総合雑誌コーナーで注目を浴びている。政治がらみの記事だけ挙げてみると、目を惹くラインナップだ。

●年金詐欺「2000万円問題」の影響は? 自民党を襲う〝想定外〟の逆風 朝霞唯夫

●統一地方選で「実質敗北」〝集票力低下〟に焦る創価学会・公明党 大山友樹

●丸山「戦争発言」でも負けない理由 「維新」とは何なのか 吉富有治

●イージス・アショア配備という安倍〝米国下僕〟政治 故郷よりも米国優先の菅官房長官 横田 一

●海外メディアが皮肉った国辱接待「外交の安倍」という捏造  浅野健一

●トランプ訪日、イラン訪問の「属国外交」日本の「独立」を阻む「従米ポチ利権」を暴く 木村三浩

●日本史上最低の「安倍ゾンビ体制」への引導 藤原肇

◆「凡庸なる独裁者の手先」菅義偉官房長官を突き動かすのはルサンチマン?

その他の記事も、ことごとく政治権力や財政・経済政策をめぐるもの、外交での安倍政権のチョンボなど、政治と無縁なものはないが、とくにここでは菅義偉官房長官の記事が気になる。

安倍晋三を極右政権とするならば、菅義偉(よしひで)にはアドルフ・アイヒマン的な実務能力における冷徹さがある。アイヒマンといえば、ハンナ・アーレントによる「凡庸なる独裁者の手先」として、つまり凡庸な人物がナチスを支えていたとの評価だが、凡庸な人物に冷酷なユダヤ人迫害ができるわけではない。ある意味での政治的実務への集中が、たとえば沖縄の辺野古基地建設を強引に、あるいは「粛々と」進める冷徹さこそ、菅のような実務派政治家の得意とするところだ。

その菅義偉は、地元秋田県での参院選挙の総決起集会で、イージス・アショア配備について、ひと言も触れなかったという。記事の執筆者である横田一は、地元議員団から菅への要望書が渡される場で質問をこころみたが、スタッフに取り囲まれて室外へと追い出されている。

故郷に錦をかざりながら、地元住民の軍事施設反対の声には、沈黙をつらぬく。安倍総理の陽性の開き直りかたや麻生太郎のべらんめぇ開き直りには、やや人間味すら感じられるが、菅には徹底して実務的な冷たさを感じる。

苦労人は庶民的な人情を知るといわれるが、集団就職をして苦学をしたこの人には微塵も感じられないのは何故か? 高卒とともに捨てた故郷や苦労した時代を、あたかも黒歴史として恨んでいるかのようだ。苦労をした自己史にルサンチマンがあるのだとしたら、それほど怖い政治的動機はないだろう。その菅義偉が、来年の総裁選では「中継ぎ」として有力なのだから恐ろしい。

◆自民補完勢力の動向──「ネオ自民党」維新の会はなぜ大阪で強いのか? 異例の総決起集会を開催した公明党の危機意識

吉富有治は維新の会の強さの秘密を、軍隊的な組織の在り方だと読み解いている。自民党の一派閥、ネオ自民党というとらえ方も秀逸だが、その維新がなぜ大阪でのみ強いのか。おそらく反中央、反自民という大阪人のメンタリティに訴えるものがあるはずだ。今後はそのあたりの民意をさぐって欲しいところだ。

〝集票力低下〟に焦る創価学会・公明党にも興味を惹かれた。大山友樹によれば、6月5日に公明党は東京ドームに10万人を集めて「公明フォーラム2019」を開催したという。いうまでもなく、参院選挙にむけての総決起集会だが、異例のことである。公明党は全国7つの選挙区で候補を立て、そのうち東京と大阪をのぞく5選挙区(兵庫・埼玉・神奈川・愛知・福岡)での苦戦が予想されている。

というのも、05年の小泉郵政選挙のときに898万票だったものが、17年の衆院選挙では697万票に落ち込み、今年の統一地方選でも減少傾向は続いているというのだ。しかるに、自民党を連立与党として支えながら、党勢は先細りという現実に、創価学会員からも疑問の声が上がっているのだ。選挙結果が注目される。

◆アベノミクスに代わる経済政策を

オピニオンとしては、林克明の「『人の幸福』のための実現可能な経済政策」が積極的なものを突き出している。宇都宮健児(弁護士・元東京都知事候補)のインタビューと山本太郎の経済政策を紹介しながら、消費税ゼロ、奨学金徳政令、最低賃金1500円で、消費の活性化を生み出すというものだ。

これはMMT(現代貨幣理論)でも提唱されているリフレ論である。山本太郎が参院調査情報担当室に試算させたところ、消費税を廃止すると6年後に1人あたりの賃金が44万円も増加するという。時給1500円で、年収は288万円となり、現在の派遣労働者・アルバイトの年収200万円弱から大幅に可処分所得が増える。つまり消費によって経済が活性化するのだ。いまやアベノミックスの失敗は明らかで、アベノミクスが果たせなかった更なるリフレ、人のための財政を行わなければならない。

ほかに、「政権すり寄り」吉本興業が恐れる信用失墜、田中恆清・石清水八幡宮宮司「総長四選」不可解な内幕、森友事件「値引き根拠ゴミ」を偽装した国交省、「テロ対策」を口実に進む警察権力強化、「海を渡るリサイクル品」から見える日本、日本ボクシング界諸悪の根源、など多彩な記事で満載だ。

▼横山茂彦(よこやま しげひこ)
著述業・雑誌編集者。主な著書に『軍師・黒田官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)、『真田一族のナゾ!』『山口組と戦国大名』(サイゾー)など。医療分野の著作も多く、近著は『ガンになりにくい食生活――食品とガンの相関係数プロファイル』(鹿砦社LIBRARY)

創業50周年!タブーなき言論を! 月刊『紙の爆弾』8月号

安倍晋三までの62人を全網羅!! 総理大臣を知れば日本がわかる!!『歴代内閣総理大臣のお仕事 政権掌握と失墜の97代150年のダイナミズム』総理大臣研究会=編著 定価:本体600円+税

和歌山県紀の川市で4年前、小学5年生の男の子・森田都史くん(当時11)が殺害された事件で、7月16日、被告人の中村桜洲(26)に対する2度目の判決が大阪高裁で宣告される。

裁判員裁判だった和歌山地裁の第一審では、中村は2017年3月、懲役16年の判決を受けている。この時には「刑が軽すぎる!」と批判の声も上がったが、中村は実際、どんな人物なのか。

大阪拘置所で面会したところ、中村は、私がこれまでに会ったどの殺人犯とも異なるタイプだった。

◆逮捕時の報道とは、別人のような風貌に

中村が収容されている大阪拘置所

逮捕された際、警察車両で連行される中村の画像は今もインターネット上に多数流布している。その画像では、中村は坊主頭で、怒ったように頬を膨らませ、いかにも異様な雰囲気だ。

今年2月21日、大阪拘置所の面会室で私が向かい合った中村は、この逮捕当初の画像とは、別人のような風貌になっていた。髪は長く伸び、黒縁めがねの奥の両目はあどけない。グレーのスウェットのズボンの中に、青いトレーナーのスソを入れて着たスタイルは小学生のようだった。

なんとも幼い感じだな・・・それが、私が中村に抱いた第一印象だった。

◆面会室では最初、ニコニコしていたが・・・

第一審判決やそれまでの報道によると、和歌山県紀の川市で暮らしていた中村は、2015年2月5日、自宅近くの空き地で森田くんをナタのような刃物で刺殺。逮捕後、動機について「からかわれたからやった」と供述していたが、無職でひきこもりの中村は元々、自宅の庭でゴーグルをかけ、木刀を振り回すなどの奇行癖があったという。

案の定、裁判では精神鑑定が争点に。裁判員裁判だった和歌山地裁の第一審では、精神鑑定の結果に基づいて、中村は犯行時に統合失調症か、被害妄想による心神耗弱状態で責任能力が限定的だったと判断された。そのために量刑が懲役16年(検察の求刑は懲役25年)にとどまったのだ。

面会してみると、中村が幼いのは見た目だけではなかった。何がうれしいのか、刑務官と一緒に面会室に現れた時から、ずっとニコニコしているのだ。

しかし、私が「逮捕された時、なぜ怒ったような表情をしていたのですか」と質問すると、中村は態度を豹変させた。「あれは、怒っていたんじゃないです」と言い、急に不機嫌そうな表情になったのだ。

「怒っていたのではないなら、なぜ頬を膨らませていたのですか?」と私が重ねて質しても、中村は何も答えず、右手の人差し指で頬をポリポリと掻き始めた。そしてうつむくと、私のほうを見ずに「なんとなくです」とだけ言った。

◆中身も幼い

それ以降は私が何を聞いても、中村は無言で、右手の人差し指で右ヒザの上に何かメモするような仕草をしつつ、私のほうを一切見ようとしなかった。そして結局、刑務官に「もういいです」といい、面会制限時間がくるよりはるか前に面会室を出て行ったのだった。

精神障害のせいもあるのだろうが、中村は見た目だけでなく、中身も幼いように感じられた。もしかすると、小5だった被害者の森田くんと精神年齢は大差なかったのではないか。そんな気すらした。

大阪高裁の控訴審では、高裁が職権で行った精神鑑定で、中村が犯行時に「発達障害の一種で軽度の自閉症スペクトラム」だったとする新たな鑑定結果が出ており、量刑が第一審より重くなる可能性がある。

ただ、検察の求刑は懲役25年だから、たとえ控訴審判決で量刑が重くなっても、中村はいずれ社会復帰する可能性が高い。その時のために、どんな量刑になろうとも、中村には獄中で精神障害をしっかり治してもらいたい。

7月16日、中村の判決公判がある大阪高裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『平成監獄面会記 重大殺人犯7人と1人のリアル』(笠倉出版社)。『さよならはいいません ―寝屋川中1男女殺害事件犯人 死刑確定に寄せて』(山田浩二=著/片岡健=編/ Kindle版)。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

創業50周年!タブーなき言論を! 7日発売!月刊『紙の爆弾』8月号

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