その事件の発端は、伊勢神宮の神官が慶雲を見たことにはじまる。

神官の尾張守は平城京の方角の空に、五色の瑞雲が浮かぶのを目撃した。五色の瑞雲とはおそらく、夕日に映えた雲の変色であろう。彼はその雲を絵に描いて、道鏡の腹心である習宣阿曽麻呂(すげのあそまろ)に伝えさせた。道鏡から善政の吉兆だと、これを見せられた女帝はおおいに喜んだ。

この道鏡と女帝は、よく男女の関係とみなされてきたが、史料的な裏付けがあるわけではない。宣命にのこる女帝の言葉、道鏡への賛美を挙げておこう。

「この禅師の行を見るに、居たりて浄く、仏の御法(みのり)を嗣ぎ隆(ひろ)めむと念(おも)はしまし、朕も導き護ります己が師」

道鏡は、わたしの偉大な仏の道の師である、というのだ。修行をおこない、徳を積むことこそ天子(帝)の進むべき途だと、女帝はこころの底から考えていたのであろう。

女帝が喜ぶのを見て、道鏡は習宣阿曽麻呂に命じた。宇佐神宮に行って、何か吉兆がないか問い合わせてほしいと。

なぜ宇佐神宮だったのだろうか。宇佐神宮は地方の神社ながら、そのころ八幡神の神託で売り出し中だった。大仏鋳造にさいして、聖武帝が新羅に銅と金をもとめようとしたところ、神託をもってこれを諌めたことがあった。ちょうど武蔵と陸奥で銅山と金山が発見され、宇佐神宮はおおいに面目をほどこしたのである。

その後、奈良の大仏が完成したおりに、大神杜女(おおがみもりめ)という尼僧が入京して八幡神を勧進した(石清水八幡宮)。なぜ大神杜女が尼僧なのかというと、彼女は宇佐神宮の禰宜でもあった。古代神道が仏教を受容した結果、神仏習合が行なわれていたからだ。その宇佐神宮では大神氏と宇佐氏が、それぞれ弥勒信仰と観音信仰の神宮寺を建てて派閥抗争をくり広げていたのだ。 ※「天皇はどこからやって来たのか〈07〉廃仏毀釈──そのとき、日本人の宗教は失われた」を参照。

そこにやって来たのが、道鏡の使者・習宣阿曽麻呂である。大神杜女はその求めをおもんぱかり、道鏡を帝位にとの偽託をもって応えたのだ。都でくり広げられている事態、すなわち道鏡を中心とした仏教勢力(吉備真備・道鏡の腹心である円興・基信ら)と藤原氏の政争を知っている大神杜女にとって、これは宇佐神宮を牛耳る上でも中央政界に進出する上でも、格好の政治テーマだった。

そこで「法王(道鏡)を帝位に就けよ」との八幡神の神託をねつ造する。

ところが、その目論見は察知されていた。女帝と道鏡を除かんとする藤原氏の謀略網が、待ちかまえていたのである。神託を手にした習宣阿曽麻呂が大宰府で上奏の手続きをしようとしたところ、半年も待たされることになった。太宰司の第弐(副長官)は藤原田麻呂で、弟の藤原百川から依頼されて神託を留め置いたのである。

というのも、大神杜女には藤原仲麻呂が健在のころ、橘諸兄一派の僧侶に誘われて厭魅(呪詛)に参加して追放された前科がある。呪詛は律令においては大罪である。そんな尼僧がたくらむことは、およそ底が知れているというわけだ。

しかし、謀略家の藤原百川は神託の写しをとった上で、習宣阿曽麻呂を平城京に帰還させた。つぎなる謀略が練られていたのであろう。

習宣阿曽麻呂が奏上した神託をきいて、愕いたのは道鏡だった。せいぜい吉兆があったという報告があればと思っていたところ、自分を帝位にとの神託がくだったのだ。女帝もこれを喜んだが、確認のために勅使を下向させることになった。女帝の侍僧・和気広虫の弟、和気清麻呂が宇佐に行くことになった。

こののちはご周知のとおり、宇佐八幡神は僧形で姿をあらわし「開闢いらい、臣下の者が帝位に就いた例はない。天つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇族を立てよ」とぞ、のたまへり。

道鏡は下野に左遷され、女帝は急速に求心力をうしなった。

◆太陽を堕した藤原氏の陰謀

じつはこの第二の神託は、藤原氏が大神杜女にねじ込んだものだった。その見返りは、宇佐氏に対抗できる宇佐神宮の宮司の地位だった。とばっちりを受けたのは和気清麻呂で、女帝の怒りを買って「別部穢麻呂」と改名されたうえ、大隅に流罪となった。清麻呂が復権するのは女帝の死後、桓武帝のもとで平安遷都の造都大夫となったときだ。

平安期に成立した『日本紀略』には、藤原氏が女帝の宣命を偽造したとの記述があり、だとすれば女帝は密殺された可能性が高い。その宣命には、藤原氏に近い白壁王を皇嗣にすると記されているからだ。

陰謀の理由も方法も、もはや明らかであろう。

藤原氏は聖武天皇いらいの大仏建立をはじめとする仏教政策、とりわけ全国で行なわれている国分寺・国分尼寺などの公共事業が民びとを苦しめ、国家財政を傾けさせている現実を肯んじえなかったのだ。そしてみずから経営する荘園禁止の法令を、一刻もはやく覆したかったのである。そのためには道鏡以下の仏教勢力の排除、そして女帝の退陣が何としても必要だったのだ。

同時にこれは、邪馬台国いらいの女王による呪術的な政治を、律令政治の中から排除することにほかならない。高度な官僚制を確立しつつある律令政権が、女帝の勝手気ままな政策(神託)で混乱をきたすのは、男性政治家たちにとって困る事態だったのであろう。

孝謙(称徳)女帝の死をもって、絢爛たる古代女性天皇の時代は終焉した。実務に秀でた男性貴族たちの陰謀によって、女性は太陽であることを禁じられたのだ。

◎[カテゴリーリンク]天皇制はどこからやって来たのか

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など多数。

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