普通に「パレスチナ」と言えるようになった時代に…… 豊田直巳さん講演会「パレスチナから福島へ」を終えて

尾﨑美代子

普通に「パレスチナ」「パレスチナ」と言えるようになったのにと話してた10月4日、「ヤバイこと言ったら電波止めるよ」の女が自民党総裁になったとは……。

10月4日、大国町社会福祉法人「ピースクラブ」で開催のフォト・ジャーナリスト豊田直巳さんの緊急報告会に参集された皆様、どうもありがとうございました。タイトルは「パレスチナから福島へ」で、終了後SNSなどを見ると、パレスチナ問題に関心ある方、福島に関心ある方、その両方に関心がある方、その2つがどう繋がっているの?と思った方など、さまざまな方が参加されたようです。 私は、どちらかというと、パレスチナ問題には詳しくなく、豊田さんをお呼びすることになって慌てて、いろいろ勉強したという感じでした。

とはいえ思えば、1980年代半ば、私は東京の山谷で日雇い労働者の組合の支援を関わっていましたが、その組合の映画を撮って欲しいと、ドキュメンタリー映画監督・故布川徹郎さんに依頼するため、組合の書記長と私の2人で目黒区の布川邸を訪問したことがありました。そして撮って頂いた日雇い労働者の組合のドキュメンタリーの中で、イスラエル大使館へ抗議にいく場面があり、私が組合の車からシュプレヒコールを行うシーンがありました。なので、当時はなんとなくパレスチナ問題に関心を持っていた訳ですが、その後どうなったかについてはあまり知らなかったという訳です。聞けば、豊田さんは、この布川監督に連れられて初めてパレスチナを訪れたとのこと、驚きました。

月日が流れ、2011年3・11がありました。私たちは「西成青い空カンパ」を作り、直接被災者にカンパを渡したいと、8月頭京都の講演会でお会いした飯舘村の長谷川健一さんを通じてカンパを送ることにしました。またその当時、ネットで読んだのが、豊田さんの「福島で線量計の針が振り切れた」という記事でした。パレスチナの取材以降、イラク、チェルノブイリなど取材した豊田さんだからこそ、すぐに福島に入れた(入らなくてはならないと感じた)訳ですが、その豊田さんは偶然私たちが支援していた長谷川さんの映画を撮影していました。

4日当日、豊田さんにはお話を75分(1時間と15分)お願いしておりました。パレスチナと福島をどうつなげるのか……参加された方の中には「無理筋」ではないかと思っていた方もいたようです。確かにパレスチナからイラクでの劣化ウラン問題…そして福島まで辿り着くのか…という時間になりまして、豊田さんは「もう終わり?」と私に聞き、「まだいいですよ」と答え、再び「もう終わり?」と聞かれ「まだ話して」と伝え、結局15分×2回の30分オーバーとなり、どうにかパレスチナと福島の問題をつなげていただけました。

想定外ではありますが、全然OKでした。なにしろ豊田さんの話が面白い。面白いと言ったら語弊があるかもしれませんが、報告会終了後、はなで行った親睦会で、豊田さんは「面白い」と言われるのは嫌ではないとおっしゃってました。そう、本当に面白いから、本当はもっともっとお話を聞きたくなるのです。皆さん、どうぞ豊田さんのお話を聞いてくださいませ。

あと、親睦会でどなたかが話していたのは、それこそ1980年代、あるいは少し前でも「パレスチナ」のデモの参加者はまだ少なかった。パレスチナと口に出すことさえ、「過激派」(それも超がつく)と思われていた。それがどうでしょう!今では、多くの人がその名を口にし、デモに参加し、スイカのバッチを身に付け、支援を表明しています。その変わりようが凄いという話になりました。そう、私たちは、もっともっとパレスチナ支援の声を高らかに揚げていかなくてはならないと痛感致しました。

参集された皆様、ありがとうございました。今後も共にパレスチナ支援の声を広めてまいりましょう!!

毎回だが、音響、プロジェクター関係で何人もの仲間が関わってくれる

尾﨑美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者X(はなままさん)https://x.com/hanamama58

◎amazon https://www.amazon.co.jp/dp/4846315304/