『週刊現代』今週号(2/27・3/6号)に「1971年──今から50年前、日本人が本気で生きていた時代」という特集を掲載されている(6ページ)。

1971年──もう半世紀も経つのか。19歳から20歳になる年だった。前年70年に大学に入り2回生だった。

1968年、1969年が雑誌の特集や書籍になるのは決して珍しいことではないが、1971年が雑誌の特集や書籍になるのはほとんどない。「1971年」がタイトルになっている書籍では堀井憲一郎『1971年の悪霊』ぐらいしか思いつかないが、あらためて検索してみると、他に土谷英夫『1971年──市場化とネット化の紀元』が見つかった。まだ探せばあるかもしれないが、いずれにしろ少ないことに変わりはない。

しかし、1971年という年には、多くのことが起きている。人気GSグループ「ザ・タイガース」の解散と沢田研二のソロデビュー、尾崎紀世彦『また逢う日まで』や鶴田浩二『傷だらけの人生』の大ヒット、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の三人娘のデビュー、オールスター戦での江夏豊の9連続三振、高野悦子『二十歳の原点』出版……。

政治問題としては、沖縄返還協定調印(6月)→同批准(11月)、三里塚闘争(2月第一次強制収容、7月1・2番地点強制収容、9月第二次強制収容)の二大政治課題で、ふたたび大きな盛り上がりをみせた。この年の動員数は、60年代のそれを凌駕したという記事を読んだ記憶があるが、沖縄本土「復帰」の前年ということもあり、一大政治決戦の鬨(とき)だったといえよう。

◆1971年、思い出すだに

この年、少年から青年になる時期、生来小心者の私も自分なりに死にもの狂いに闘った。いろいろなことが脳裏を過(よぎ)る。

私的なことに限っても、4・28沖縄闘争(東京。清水谷公園→日比谷野音)、デモが終わり仲間と一緒に京都に帰るのかと思っていた所、ある先輩から「松岡、お前は残り三里塚の現闘(現地闘争団)に行け」と命じられ、当時結成したばかり三里塚現闘団(取香)に加わって、援農と(第二次強制収容に対抗するための)穴掘りなどに従事した。

4・28沖縄闘争(東京・日比谷公園)。有名になった戦旗派のキャッチャーマスク部隊(「戦旗派コレクション」より)

京都に戻るや、早朝の情宣活動中、日本共産党・民青(みんせい)のゲバルト部隊に襲撃され病院送りにされ5日間ほど入院。

退院するやすぐに、5・19沖縄全島ゼネスト連帯祇園石段下制圧闘争、初めて京都の市街地での実力闘争を展開、これはその後の首都東京での闘いの口火となった。この頃の同志社の部隊(全学闘争委員会)は、ブント分裂にもかかわらず数も多く屈強だった。先頭になって機動隊とのゲバルト戦を繰り広げ、14名の逮捕者を出した。この前々日の17日、学館ホールで三里塚闘争勝利集会を開き東大全共闘代表・山本義隆さんが来られ講演している。

6・17、沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)、この前々日、全国全共闘(新左翼)は中核派と反(非)中核派の二つに分裂し、同志社や京都の部隊は反(非)中核の集会(宮下公園)に参加、デモは荒れに荒れ、火炎瓶も飛び交った。機動隊に路地に押し込まれ、「もうあかん」と思った矢先、後ろから火炎瓶がポーン、ポーンと飛び、戦旗派の指揮者が「同志社大学全学闘の諸君と共に、ここを突破したいと思います」と叫び、スクラムを組んで突破し、デモに合流して最後まで貫徹。デモの本流に合流しそのまま引き続きデモができるというのが今から思い返しても不思議だ。

6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)。ここに松岡もいたと思われる(「戦旗派コレクション」より)

7月、三里塚1、2番地点阻止闘争、全学闘は4人逮捕され3人が起訴され、長く裁判闘争を闘いながら1人は実刑を食らった。逮捕された時に持っていた竹竿に血が付いていたという理由だった。のちに児童文学作家となる、文学部共闘会議(L共闘)の先輩SKさんもこの時逮捕されている。同じく逮捕された立命館のA君は、残念なことに、保釈されたのち自死した。寡黙な男だった記憶がある。

9月、三里塚第二次強制収容阻止闘争、9・16では新左翼の部隊と機動隊が遭遇し、機動隊3名が死亡。私たちは、幾つかのグループに分かれ現地に入り、各々の分野で任務を全うした。沼に浸かりながら逃げたりして、数日闘い京都に帰還。今だから言える話だが、学生放送局は三里塚と同志社のキャンパスをつなぎ放送を始めたが、機動隊3名死亡事件発生ですぐに終了を余儀なくされた。

71年沖縄―三里塚闘争の過程(『季節』6号より)

◆学費値上げ問題が勃発!

京都に戻ると学費値上げ問題が浮上し、以降は専ら学費値上げ阻止闘争に関わることになる。首都東京では沖縄返還協定批准阻止闘争が闘われていたが、一度上京したぐらいで、ほとんど関われなかった。ちなみに、一度上京した際に、大学祭中のH大学に寝泊まりしていたところ、ばったり高校の同級生のB君に遭遇したことがあった。彼はしばらくして、大学を中退し一時帰郷、その後、中国大陸、台湾に渡り30数年を過ごしたという。もう会えないと思っていた所、一昨年の高校の同窓会で再会、実に40数年ぶりのことだった。彼は私が京都に行く時に駅に見送りにきてくれ、また夢破れて帰郷する際も、大阪で働き始めた私のアパートに一晩泊まってくれた。

当時の団交(団体交渉。11月11日)の写真が残っている。懐かしい。2人立って激しく学長ら当局を追及している。左が文学部の先輩・水渕平(ひとし。故人)さん、右が、その後、草創期の某コンビニの役員にまで上り詰めた先輩Cさん。大学側では中央で腕を組んでいるのが山本浩三学長、彼は69年の封鎖解除も断行しているので、72年2月1日と、2度の封鎖解除を行っている。

11・11学費問題団交(朝日新聞社提供)

学費問題は、その後、全学学生大会で無期限バリストに突入し、翌年2月1日、決戦を迎え私以下100数十名が検挙、43名逮捕、10人が起訴され1人が無罪、他9人が微罪ながら有罪判決を食らう。

この年、学費値上げは、全国の大学で浮上し反対闘争が展開されたが、特筆すべきは関西大学のバリケード内で、同じ大学の先輩で中核派の正田三郎さんら2人が革マル派の特殊部隊に襲撃され死亡。正田さんとは立場は違えど、たびたびビラ撒きで一緒になったりしたこともありショックだった。これ以降中核派は、革マル派を「カクマル」と表記するようになった。最近観た映画『きみが死んだあとで』で、このシーンが出て懐かしくも、やるせない気分だった。


◎[参考動画]『きみが死んだあとで』予告編

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『週刊現代』の1971年特集記事に触発され、いろいろなことが脳裏を過り思いつくまま書き連ねてきた。もう半世紀も前のことだ。九州の田舎から出てきて、少しはキャンパス生活に慣れ、当時どこにでもいたノンセクトの活動家として、ふたたび盛り上がってきていた政治過程や学費値上げ問題に、自分なりに一所懸命に関わった時期だった。今はなき学生会館別館BOXでの会議は重々しかったという感しかない。時には、その後「赤衛軍事件」に巻き込まれ長年逃亡する滝田修が学友会BOXに現われアジッていたことも思い出す。

ここ数年、過去の運動を追体験し総括を試みようと考え、『遙かなる一九七〇年代‐京都』『思い出そう!一九六八年を!!』『一九六九年 混沌と狂騒の時代』『一九七〇年 端境期の時代』と出版してきましたが、今年も11月頃に「一九七一年」版(タイトル未定)を発行する予定です。上記のような内容が中心に成ります。ご期待ください。

尚、上記書のうち『一九七〇年~』を除いて品切れとなっております。申し訳ございません。

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

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