昭和40年代に、真空飛びヒザ蹴りを代名詞にKO勝利を積み重ねた沢村忠(1943年1月5日、旧満州出身)氏が肺癌の闘病を経て3月26日に亡くなられたことが4月1日の新聞報道を中心に発表されました(78歳没)。葬儀は近親者のみで30日に行われた模様です。

汐風アリーナにてサイン会に臨む沢村忠さん(2008年6月22日)

沢村忠、本名は白羽秀樹。その経歴は、言うまでもなく昭和のキックボクシングブームを巻き起こした第一人者として、漫画アニメ「キックの鬼」でも人気を博し、多くの報道で活躍が知れ渡っていました。

沢村忠氏は空手家として1966年(昭和41年)4月11日、大阪府立体育会館でデビュー。必殺技はジャンプ力を活かした真空飛びヒザ蹴りの他、飛び前蹴り、ハイキックは高くスマートに、更にパンチもあればヒジ打ち、ヒザ蹴り、ミドルキックなどでのKO、ボディースラムでのKOも1回ありました。サウスポースタイルながら右にスイッチすることもよくやりました。

1976年5月22日、テレビ放映されたものとしては最後の東洋ライト級王座防衛戦で21回目の防衛成功(3階級制時代含め通算34回)。7月2日の大阪での試合を最後に公表上は今までにない長期休養に入りました。

「沢村はどうしているのか、なぜ試合をしなくなったのか!」というファンの問い合わせが増える中、沢村忠不在は1年を超えた1977年10月10日、引退式が行われ、ようやくファンのモヤモヤした気持ちは払拭。

その後はファンの前には現れなくなり、憶測で広まる噂も情報少ない地方に居ても聞かれるほど。根も葉もないことを書くマスコミを避ける意図はあったかと思いますが、決して人目を避けて引き籠りになった訳ではなく、ごく普通の一般人に戻って自動車修理工と販売の仕事に就き、すでに家庭を持って自然な暮らしをしていた様子でした。

宮城県気仙沼での興行で仙台青葉ジムの選手と記念写真。沢村忠氏(前列中央)の右隣が瀬戸幸一会長、左隣は遠藤事務局長、佐沼にある東京堂写真館にて(画像提供:仙台青葉ジム瀬戸幸一会長。昭和44年夏)

気仙沼まで、沢村忠氏と遠藤氏は知人会社社長のドイツ車オペルに乗って来られたという1枚(画像提供:仙台青葉ジム瀬戸幸一会長。昭和44年夏)

「沢村で始まり沢村で終わった」とも言われたテレビ放送も他に要因はあれど、後には視聴率低下を巻き返せず放送打ち切りに陥りました。

あの現役時代を一緒に過ごした野口プロモーション関係者から沢村忠氏の情報が聞けたことは幾つかありました。

昭和40年代の全盛、釧路での興行に遠征した時の野口プロモーション一行が、釧路駅の列車の来ない臨時ホームで、線路側から120cmほどあるプラットホームに飛び上がる勝負をやった時、沢村忠氏だけがその場ジャンプで飛び移ったという「沢村のジャンプ力はさすがだったね!」というリングアナウンサーの柳家小丸(柳亭金車)さんの想い出の語り。

[左]横須賀の主催者側から花束を贈られる沢村忠さん(2008年6月22日)/[右]リング上で花束を高く掲げるのは何年振りか(2008年6月22日)

プレゼンターとして沢村忠氏から風神和昌に勝利者トロフィー贈呈(2008年6月22日)

レフェリーの李昌坤(リ・チャンゴン)さんは、沢村が蹴った回し蹴りがレフェリーの李昌坤さんの横腹に当たってしまったこともあり、「試合後に沢村が “李さんごめんね”と謝りに来てくれて、平然と振舞ったが、本当は一週間程動けなかったよ。」というエピソードや、テレビの映し方として、「沢村の試合は秋本直希が裁くことが多かったのは、歌手としても売り出していた秋本をなるべくテレビ画面に出させる意図があったんだ!」といった語り。

秋本直希レフェリーが、ノックダウンした沢村にカウント9まで数え、KO負けスレスレのハラハラドキドキ感を増した映りだったことも幼かったファンとしては懐かしい。

沢村忠とは特別な存在だった。公式241戦232勝(228KO)5敗4分。試合中の第1ラウンド終了後のインターバール中にテレビ画面に流れた戦績は毎度追ってしまうファン心理。

この5敗の中にはサマン・ソー・アディソン、カンワンプライ・ソンポーン、パナナン・ルークパンチャマ、サネガン・ソー・パッシン、チューチャイ・ルークパンチャマが居ました。

沢村忠氏が勝利した相手の中にも記憶に残る選手は居るが、敗戦の相手となった選手がなお印象に強い。

サマン氏、サネガン氏、チューチャイ氏は沢村忠氏よりかなり早く亡くなっています。他に対戦した中では、チャイバダン・スワンミサカワンが居ましたが、タイではチャイバダン氏からコーチを受けた日本人選手も多い。

沢村忠さんと対戦した後の、まだ若き頃のチャイバダン氏(1986年当時)

私(堀田)もチャイバダンさんが興したジムで、日本での試合のお話も少々聞かせて頂いたことがありました。「沢村は今何してるの?元気にしてるの?」といった言葉はまだ昭和の話で、4年前にタイへ渡った際は時間が無くて伺えませんでしたが、改めて今、会ってみたい人であるが御存命かは分かりません。

沢村忠氏の情報は一部の近親者のみが知る存在で、ここ数年は体調不良の情報もあるにはあったところ、2年ほど前から沢村死亡説が流れることがありました。しかしその後に「沢村さんから藤本会長に電話あったみたいだよ!」という近親者の情報があり、噂というものは当てにならないものではあるが、今年3月26日の訃報は、やがて来ると覚悟していても残念でならない想いである。ファン心理で書かせて頂きましたが、幼い頃からのファンとして、心より御冥福をお祈り致します。

ゲストとして御挨拶に立つ沢村忠さん(2008年6月22日)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』5月号