◆大会総括

大会中に東京都のコロナ感染者は1日5000人を超え、大会関係者の感染も三桁を超えた。前回のレポートで、警察の全国動員について危惧・批判したとおり、派遣警察官のなかでコロナ感染が蔓延した。やはりコロナ感染拡大のオリンピックになってしまったのだ。

大会の競技も、水増し的に増やした競技での金メダル獲得はあったが、本命と思われていた競技は惨敗だった。

期待されたバトミントン勢が軒並みに敗退、安倍前総理も期待していた男子陸上400メートルリレーは、バトンをつなげないチョンボで棄権という結果だった。アンダーバトンという高等技術による「勝利至上主義」が、完走すらできない惨めな結果となったわけである。

史上最強といわれた男子サッカー、男子バスケットもメダルに手がとどかなかった。女子バスケは決勝戦でアメリカと渡り合うなど健闘した。個々の選手の健闘にもかかわらず、総じて国家的な強化策は成果を生まなかったといえよう。むしろ新競技での国家的な強化策に拠らない選手たちの活躍が目立った。

コロナ禍(感染拡大)との関係でオリンピック・パラリンピック反対論、あるいは延期論があるなかで、五輪の改革という議論はなされてこなかった。

クーベルタン男爵とエチュルバート・タルボット主教の理想(参加することに意義がある)に立ちかえることの難しさはあっても、五輪自体が変革をかさねてきたのだから、変化に期待をこめて論じていくのは無意味ではないだろう。

◆オリンピック改革論

卑近なところで、某出版社での観戦しながら飲酒談義から、いくつか改革論を拾ってみた。この出版社は某老舗漫画雑誌を母体とするところで、複数に分社しながら今日に至っている。東京オリンピック・パラリンピック反対の立場から、あるいは大会の正規ボランティアに参加するフリースタッフもふくめた議論で、荒唐無稽ながらもアイデアは面白い。

60年代に少年少女だった世代からは、ベラ・チャフラフスカの名演技を例に、体操やフィギュアスケートなど美を競う種目には、年齢別・体型別を取り入れてもいいのではないか、というもの。柔道やレスリングは体重別なのだから、ほかの競技も取り入れるべきだと。

かつて体操競技は技の難易度とともに、演技の美しさが評価されたものだ。チャフラフスカの映像を見て、いまの若い世代は「何この女の人、セクシーショーのビデオ? と思うのではないか」(某出版社社長)。

たしかに、このあとソ連は選手の小型化(若年化=軽量化)をはかり、その実験はフィギュアスケートにもおよんだ。国家的な強化策が若年層の強化に向い、16歳でシニアデビューさせて10歳代のうちに金メダルを狙う。肉体の性徴(体重増加)がいちじるしくなると、バッサリと首を切って引退させる(年金生活)という具合だ。
現在もロシアでは次々と若手(10歳代)が台頭し、オリンピックで頂点をきわめると、すぐに消えてしまう。そういう国家プロジェクトのシステムが固定化されているのだ。

したがって、チャフラフスカのように、2大会(東京・メキシコ)にまたがって頂点をきわめる女子選手は生まれなかった。


◎[参考動画]オリンピック100人の伝説 最後の名花 ベラ・チャフラフスカ

そこで某社長が言うには「バストとヒップの大きさで、体型別のクラスをつくるのがよいと思う」そうだ。たぶんこの方は、オリンピックのセクシーショー化を期待しているのだろう。

「より速く、より高く、より強く」に加えて、演技型スポーツは「より美しく」なのだから、単に体重が軽いから有利という、10歳代に頂点がくるようなルールはダメなのではないか。という議論である。

◆チーム別を基本ルールにする

もうひとつは、やはり64年東京五輪の女子バレーボールを例に、近代五輪の出発点であるチーム参加・個人参加にするべきだ。という議論だ。

若い世代は知らないかもしれないが、64年東京五輪の日本女子バレーチーム(金メダルを獲得)は、日紡貝塚という企業チームである。そして銀メダルに終わったが、メキシコ五輪(68年)とモントリオール(76年)のチームは日立武蔵という企業チーム(現ベルフィーユ)をベースにしていた。単独チームを基礎とした選手選抜・チーム編成は、1984年のロサンゼルス五輪までつづく。バレーボールのような、チームワークが攻撃のシステムをつくる球技ならば、ナショナルチームを組織するよりも効果的な強化ができるのではないか。

2008年北京大会の「星野JAPAN」(企業協賛金を獲得するためのチーム商標)がほとんど満足なチーム練習ができず、壮行試合でも大敗(セ・リーグ選抜)し、本大会でも「金メダル以外はいらない」という星野監督の発言通り、メダルを逸したのは記憶に鮮明である。野球のように個人能力が大きなウエイトを占める競技ですら、寄せ集めのチームでは勝てないのだ。プロ野球選手を常設チームにする無理は、ほとんど構造的なものといえよう。

今回もアメリカ代表はメジャーリーグが開催中で、参加選手はほとんどマイナーリーグの選手だった。日本も大谷翔平やダルビッシュ有、前田健太、菊池雄星といった日本人大リーガーの参加はなかった。これでは日米決戦といってみても、花興行みたいなものではないか。

※2020年にMLB機構とMLB選手会、国際野球連盟はあるルールに合意している。メジャー40人枠に入っていない選手のみにオリンピック参加を認めるというものだ。

求められているのはチームとしての力であり、それを実現できるチームに固有の歴史・協力者たちの力の結集なのである。

そして企業チームにかぎらず、クラブチームを基礎単位にすることで、Jリーグ方式(地元密着型で、地域のスポーツ振興に貢献できる)を採用できるのではないだろうか。これは傾聴に価する。都市対抗野球のように、補強選手を入れることで、日本を代表するチームにすることは可能だ。

最終的には国家主義(ナショナリズム)五輪を改革する必要はあるが、まずは現実的な改革案を提示しよう。

日本では企業チーム、高校大学の体育会チームがスポーツの基礎になっているが、ヨーロッパではメジャーなサッカーやラグビーからマイナーなハンドボールなどに至るまで、クラブチームが主流だ。これが国民的なスポーツ人気、市民スポーツの基礎を支えているのだ。

たとえ国家的なエリート育成が個別のスポーツ人気を高めても、ここがおろそかにされてしまえばスポーツは国民のものにならない。国家主義、商業主義(有力選手のみへのスポンサード)をやめて、スポーツの地域振興こそが、国民の健康増進のためには必要なのだ。観るスポーツにとどまらず、実践できるスポーツである。

商業主義・国家主義批判は2018年の記事にもあるので、参照してほしい。(「やっぱりオリンピックは政治ショーだった」2018年2月15日

◆国家育成の問題点──個人参加は可能か?

これはもう、ロシアオリンピック協会が実施している。ロシア協会に対するドーピング疑惑から、国家単位の参加を禁止されたためだが、五輪参加の標準記録をクリアした場合は、IOCの公費で参加できるとするものだ。

現在、日本の選手強化は「味の素ナショナルトレーニングセンター」ほか24拠点で集団合宿をさせ、缶詰でトレーニングさせるシステムをとっている。

強化指定選手は、夏の大会が男子702名、女子623名、冬の大会が男子194名、女子149名である。指定選手のほかに育成用のエリートアカデミーがあり、まさに税金で金メダルを買う、国家プロジェクトが定着しているのだ。これが国民全体のスポーツ振興をねじ曲げているのは言うまでもない。競技人口のすそ野を広げるのではなく、スポーツのエリート化だけが進行しているのだ。

国民体育大会が県別の大会でありながら、国体渡りといわれるセミプロ選手が自治体の強化費用を目あてに転居、チーム移籍をくり返していることで、地域のスポーツ振興が形がい化しているのと同じである。

その一方で、選手がトレーニングに専念できるように、企業からはなるべく小口で、自治体が主導して市民献金を募るかたちで競技生活を支える。このようなプロジェクトが軌道に乗るとき、多くの有力選手が発掘されるはずだ。

今回の大会でも、個人主義的な参加の萌芽は、ストリート系のスポーツ(スポーツクライミングやスケボー)に見られた。かれらは体育会的な型にはまった育成方法ではなく、まさに個人的趣味から競技に入ったケースが多いからだ。

そしてスケボーではライバル同士が、お互いの技の成功を抱き合って讃え合い、そこには国別対抗戦という雰囲気は微塵もなかった。スポーツに国境はなく、勝敗をこえて讃え合う。これこそオリンピックの原点ではないか。

◆商業主義との訣別を

東京オリンピック・パラリンピックが、国民の8割ともいわれる反対・延期の意見にもかかわらず強行されたのは、IOCが莫大な放映料をもとに運営されているからにほかならない。その意味では、民意の反映など最初から考えられなかったのである。

その最大のスポンサーはアメリカのテレビ放送ネットワーク、とりわけNBCだと言われている。五輪がスポーツの秋に開催されず、真夏というコンディションの悪い季節に開かれるのも、秋からのスポーツシーズン(NFL・MBA・ワールドシリーズ)に重ならないよう、NBCから強要されているものだ。

日本における五輪利権の最大の企業は電通である。今回、電通は放映権を買い占めることで、テレビ各局に均等に放映権を分割販売し、NHKと民法を競合させることで、その広告料金を吊り上げたのだ。

組織委の理事に高橋治之専務を送りこみ、電通は昨年の早い段階で延期を提言していた。中止の選択肢を消すためにほかならない。五輪のシンボルカラーからロゴの使用まで統制管理し、大会プロデュースのスタッフの選定も実質的に統括してきたのが電通なのである。

したがって大会ロゴの登用問題も、新国立競技場のデザイン不適合も、あるいは歴史認識のないプロデューサーやアーティストの採用ミスも、すべて電通が決めたお手盛り的なコンペによる弊害なのだ。このあたりは、ガラス張りの公開コンペや落札制度で、前世紀的な代理店万能主義を一掃しなければならないであろう。現状の「オリンピック商業主義」が、一部の既得利権たちのものになっている以上、広告代理店主導の商業主義を排して、公共性の高いものにしなければならない。その方途は、ひろく国民から選ばれた(不特定多数からの選出で、たとえば選挙員のような形式)評議委員会が必要であろう。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)
編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』9月号