「貧困のデパート」と自ら称する渡辺てる子氏は、2019年参院選と2021年衆院選に、れいわ新選組から出馬し落選した。その後も活動を続けていたが、立憲民主党から声をかけられ、最終的には、れいわ新選組の山本太郎代表とも話し合い、4月17日投開票の練馬区議補欠選挙に立憲民主党公認で出馬することに決まった。

その渡辺てる子氏の半生を描いた拙著「渡辺てる子の放浪記」(同時代社刊)の出版を記念する会で、本人が講演(2021年11月29日)した。

その第4回(最終回)では、困窮者を泥沼に沈める魔の言葉=自己責任を取り除き、怒りをパワーに! という主張をお伝えする。(構成=林克明)

 

『渡辺てる子の放浪記』(林克明著、同時代社)

◆自己責任という魔の言葉

「自己責任」は、最近の言葉ではないですか。イラクで日本人が人質になったときに、国を挙げて彼らを守るべきなのに、「危ない場所だと分かっていて、そんなところに行った人間を私たちの税金で助けるのはおかしい。自己責任じゃないじゃないか」ということを当時の首相すら言いましたね。小泉純一郎さんですが。

国家の役割は、そこに生きる人々の生命と財産を守ることです。それを放棄した言葉が自己責任という言葉です。自己責任とは、権力者がわれわれに対して向ける攻撃的で否定的な言葉です。

自己責任と言った時点で、政治をつかさどる人は自分の責任を放棄したことになります。政治家失格だと思って間違いない。

「あの人は今」になってしまった菅義偉さんが一年前に言ったのは、自助・共助があって初めて公助。あれも政治家失格、責任放棄の言葉ですが、自己責任と言った時点で思考停止になってしまいます。

あなたが悪いんだから、あなたが自分勝手にどうにかしなさい、と。自己責任を負っている人間以外は、あなたの問題を考える必要はない、解決する必要はないんだ、生きようが死のうが私には関係ないんだ、勝手におやりなさいというのが自己責任という言葉です。

つまり一方的なものです。強い者から、恵まれた者から社会的に弱い人に向けて声を上げるなと言っている。政策的、政治的、抑圧的な意味合いを持っているのです。

◆自己卑下すると居心地よく、声を上げるとバッシング

ところがいま自己責任が内面化されてしまっている。ワーキングプア―の多くの人々が、「自分が貧しいのは自分の努力が足りなかったからです、あのとき、もうちょっとああしていれば、頑張りが足りなかった、努力が足りなかった、自分には能力がないんです」って言っています。

これが、政治を劣化させている要因の一つだと思っています。政治家を甘やかす言葉になっています。

こうした自己責任の内面化を取っ払うには、自己尊重感、自分は権利を持つ人間なんだ、権利を行使すべき人間なんだという自覚だと思います。これがないと、自己責任だ、自分が悪いんだ、自分は社会保障を受ける分際ではないんだ、というふうに思ってしまうのです。

申し訳ないけれど、これは謙虚を通り越して自己卑下の最たるものです。でも、そのように自己卑下するほうが居心地のいいようにさせられてしまっています。これも洗脳の悪い成果のひとつですよね。

一方で声を上げる人間をみんなでよってたかってバッシングします。私もバッシングされました。

◆個人的な恨みつらみを一段上に進化させる

派遣労働者を一方的に雇止めするのはおかしいじゃないかと主張したことがあります。れいわ新選組の候補者になる2年前のことでした。

そうしたら、いろいろなマスコミが取り上げてくれました。なぜなら、そこまで明確に声を上げたのは、派遣労働者の中にいなかったからです。途中で私も実名を出したと思います。私のようなケースは珍しくないんですよ、もっと大変な人はたくさんいたんです。

でも、なぜ私がマスコミに取り上げられたのか。理由は二つあると思います。まずは、実名を挙げて顔を出したということ。もう一つは、なぜ自分はこういう目にあったかを、法律をチェックし、法律と現場の乖離を検証し、法律を批判的にとらえて、それから会社の仕組みやその業界の仕組みをとらえる。さらには、日本の労働行政・雇用行政はどういうものであるかまで検証して述べたからです。

つまり、第三者が理解できる根拠を示したわけです。言い換えれば、私の派遣労働の問題である個人的な恨みつらみ、ルサンチマンの客観化を試みたのです。

ですけれども、声を上げることに対してバッシングすると、声を上げる人はその行動を躊躇してしまい、結果的に学習して言語化する機会そのものが奪われてしまうことになります。私はたまたま活動していたから、声を上げることが活動のスタートなんだと思って声をあげました。 

でも99%の人はできない。他の人が声を上げて叩かれるのを見てわかっちゃったからです。見せしめのように他の人がひどい目に遭っているからです。そこまでして声を上げるメリットは、通常考えたらありません。

だから、声を上げたくても上げないという判断は常識的には正しいんですよ。リーズナブルですよ。

でも私はノーを突き付けました。当時、派遣だとわかっていたのに文句言うのはおかしい、派遣でも17年間勤められたんだから会社に感謝しろ、派遣だとわかっているなら次のキャリアプランを考えないのは怠慢だ、とまことしやかに言われました。

私が怠慢だとかそういうことではなく、それは構造的に無理なのです。個人でどうこうできる問題ではないからです。社会構造を変えなければならない。法律的システムもそうです。労働者派遣法という法律がダイレクトに働く人に影響を及ぼします。だから、明確に私は政治に進みたいと思ったわけです。

その結果、れいわ新選組の山本太郎との出会いがあったわけです。

◆すべての差別の根底に女性差別がある

れいわ新選組は、2019年の4月に政治団体として設立されました。それ以前にワーキングプアを直接受け止めるプラットフォーム的な野党があったのか否かの検証が必要だと思います。

なかったと思います。当時の立憲民主党、共産党、非常に優秀な方々がいっぱいいます。元弁護士とか元マスコミ、ジャーナリズムの第一線で活躍した方々が立候補者になったり議員になったりした、本当に頭のいいエリートの方々ですよね。

そういう人たちは一方でお金も持っているわけですよ。私たち庶民の生活の苦しみというものを具体的なことは知らないで済んでいる方々です。だからこそ、ああいう高学歴で、第一線で活躍できるわけです。

でも、国会議員は「代議士」ですから、いろいろな階層、いろいろな状況を抱えている人の代表者とするならば、非常に偏りがあります。一番の偏りは男女比率で、あまりにも女性の比率が少ない。今回の衆院選では女性議員が10%いません。

日本だけです、こんなにジェンダーギャップのあるのは。企業内でも女性管理者がまだまだ少ないですが、日本の女性が劣っているのでは決してなく、女性はこうあるべきだという女性に対してより強固に課せられる社会的な役割があるからです。それで社会的進出が阻まれているということがあるわけですよね。

当事者性でいうなら「女性」という当事者意識が私には強くあります。たとえば、れいわ新選組は障碍者の当事者が2名います。参院選の特定枠で男女一人ずつ当選できました。木村英子さんとは仲がいいですが、障碍者のなかでも特に女性障碍者は、男性障碍者とは別の差別を受ける、と。障碍者としての差別と女性としての差別を二重に受けると言っていました。

旦那さんや子供の面倒を見られないのに結婚する資格あるの?と言われる。障碍者の中でも女性の役割分担を強く言われる。男性がこのような言われ方をすることはそんなにないですよ。子供の面倒みなくていいの? なんて言われない。

男性と女性で扱いがまるで違うことが、男女の非対称性とかジェンダーギャップ、ジェンダーバイアスとかいろいろな表現で言われます。世の中にはいろいろな差別がありますが、女性差別はそのすべてに横たわっている。だから女性差別は普遍的な差別だと思っています。

このことが世の中ではまだ理解されておらず、男性はもとより女性でも理解している方は本当に少なく、日々の対話を通し、どうやったら伝わるだろうかと、精進というか研鑽を積むことを迫られています。

◆怒りの街宣はロックだ

当事者性に加えて、「共感」も大事にしたい。その二つを貫くには自己責任論をどう克服するかですね。それには「怒り」「怒ること」が社会的に容認されるべきだと訴え続けています。

私の街頭演説は、ちょっと激しいと言うか、よく言ってもらうとロック的な演説だと言ってもらっていますが、ロックとは体制に対してノーを突き付ける音楽ですよね。宮廷音楽とか教会音楽などは、パトロンがいてお金や権威を持っている方からオファーを受けてつくったもので、クラシックの原型です。

ところがロックというのは、そういうものとは無縁で、あるいはそういうものに異議申し立てする、権威に盾を突くという姿勢がロック。怒りは上等、怒りをもつことは正当なんだと。喜怒哀楽のなかで、なぜ怒りだけを皆さん認めてくれないんだろうと思います。

私が批判されるときに被害者意識を持っているからダメなんだと言われます。被害者なら被害者意識をもつのが当たり前じゃないですか。なぜそれが批判されるのか私には不思議でなりません。

もっと平たい言葉で言うならば、痛いことを痛いと言ってなぜいけないんでしょうか。それを2019年の参議院選挙で私はアピールしましたつもりです。そうしたらみんなが、そうだと言ってくれました。とどのつまり、被害者意識は持って当然だ、当たり前だと。

被害者意識の感情としては喜怒哀楽のうちの「怒」。怒りですね。なぜか不思議なことに怒り以外の感情はすんなり受け入れられる。喜ぶ、楽しむ、ポジティブだからいいよねと。それから悲しむことは相手の同情や共感をかいます。ところが、怒りに対して共感を得ることは非常にむずかしいのです。

◆怒りを表す芸(高等テクニック)も必要だ

でも、怒りは悲しみにも通じます。なぜ自分はこんな理不尽で悲しい目に遭わなければならないんだろうというのが怒りの端緒です。怒りは攻撃性を帯びるからいけないんだと思いますが、攻撃するのはどっちなんだと。何もないところからいきなり人間が攻撃することはありません。

自分の身を守るために、防御のために攻撃せざるをえないのですから。そうならば攻撃する主体はいったい誰なんだと。それが権力であり権威であり社会的強者だったりするわけです。そういう人たちが私たちの存在を蔑ろにしている。それに対してノーと言うことが怒りなのです。

怒りをパワーに! と私が言っているのはそういう意味があり、裏付けがあったのです。その怒りを言語化するためには、平たい言葉で言うか、客観的に言うか、普遍的に言うか、俯瞰して言うか。場合によって使い分ける必要もありましょうが。

だから怒りをパワーにするには芸も必要ですよ。直接的な怒りで、たとえばこん畜生! と言ってこのテーブルをひっくり返し椅子を投げるような、暴力性のある怒りじゃダメなんですね。

ある意味洗練されて怒りにしていかないと怒りを社会化することができない。理性的に怒らなければならないということなんです。怒りを正当化するためには、先ほど言ったようなあらゆる根拠を用意しなければなりません。

そのひとつの例が、裁判に訴えることです。しかし裁判には、お金も年月も非常にかかり、自分の生活を犠牲にしなければならない部分もあります。労働者も裁判を起こせばいいと、いろいろな人が簡単に言いますけれど、裁判すら起こせなくて泣き寝入りしている人がたくさんいます。

日本の裁判はあまりにもお金と時間がかかりすぎることが、労働者としてのあるいは人間としての基本的人権を奪っています。そうはいってもなぜ裁判が尊いかというと、怒りを社会的に訴えることになるからです。

◆これからも活動は決して止めない

一昨日、ドキュメンタリーの巨匠の原一男監督とのライブトークがありました。最新作の『水俣曼荼羅』が一昨日から上映が始まっています。その原一男監督との出会いは、『れいわ一揆』とうドキュメンタリー撮影のときです。

これは2019年夏の参議院選挙にれいわ新選組から立候補した女装の活動家・東大教授の安冨歩さんを主人公にした映画での出会いでした。そこで安冨さんはロゴス・理性の人、渡辺てる子はパトス・情念の人という分かりやすい対立概念で描いてくださっています。

そうは言っても、感じたままに言ってはいるのですが、自分で自分のことを言っているようで誰かに突き動かされて言葉を発しているような感覚がありました。

当時のれいわ新選組を応援する方々の熱気がすごかったし、その人たちは、自分には政治も選挙も関係ないと思っていた。でも、当事者のてるちゃんが出るんなら話をききたい、応援したいという人が集まってくれました。

そのパワーに突き動かされて言葉が出てきたわけです。そうやって響き合うものがあったからですね。

選挙というのは、そういう究極の人間のパワーを引き出す力、なにかマジックがあると思うんですね。すごく意義があると思いますが、いかんせん日本の選挙はお金がかかりすぎます。

比例区に出るには供託金ひとり600万円。これはワーキングプアーの年収の3年分。こんな供託金がかかる国はほかにはないそうです。

基本的人権である被選挙権を、そうやってあらかじめ制限しハードルを課す。これ自体もおかしいので変えなければならない。そのためにはまず選挙に勝って変革する主体にならなければならないわけです。

しかし、どういう形であれ活動を止めることはないでしょう。そして私のポリシー、キーワードは、「当事者性」そして「共感」「怒りをパワーに変える」です。

そのためには「自己尊重感」を持つことです。自分を大事にできない人間は、他者を尊重できるわけがないのですから。私は、自己尊重感を持つために日々研鑽し、自己責任の内面化を否定し克服するように努めようと思います。

それがあって初めて政治を変え社会を変えることになるのではないかと。ただし、それができないと政治活動や社会活動ができないわけではありません。手探りで試行錯誤しながら、いま言ったようなことがどういう人にも獲得できるのだと思います。

私もその一人です。ですから私はこの歩みを止めることはありません。これからもどんどん進んでいきたいと思います。(了)

『渡辺てる子の放浪記』(林克明著、同時代社)

▼林 克明(はやし まさあき)
ジャーナリスト。チェチェン戦争のルポ『カフカスの小さな国』で第3回小学館ノンフィクション賞優秀賞、『ジャーナリストの誕生』で第9回週刊金曜日ルポルタージュ大賞受賞。最近は労働問題、国賠訴訟、新党結成の動きなどを取材している。『秘密保護法 社会はどう変わるのか』(共著、集英社新書)、『ブラック大学早稲田』(同時代社)、『トヨタの闇』(共著、ちくま文庫)、写真集『チェチェン 屈せざる人々』(岩波書店)、『不当逮捕─築地警察交通取締りの罠」(同時代社)ほか。林克明twitter

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