◆運命の導き

ムエタイトップクラスがスタジアム定期出場の合間を縫って来る1試合のみの数日滞在と、ビザの期限まで滞在して数試合出場するパターンは過去に述べたとおりで、ムエタイトレーナーとしての役割を担っている場合も多かったでしょう。それぞれに出会いがあり、日本に行く決断があり、過去のテーマで述べた国際結婚にも至るなど、人生の運命も変わるものでした。

チャイナロン・ゲーオサムリット(本名チャッチャイ・スカントーン。1973年5月21日、タイ国スラタニー県出身)は初来日はまだ19歳だったが、日本のキックボクサーが乗り越えるべき壁となって立ちはだかる存在でした。

唯一のタイトル歴は1995年1月29日、チェンマイでのIMF世界ウェルター級王座決定戦で欧州ウェルター級チャンピオンにKO勝利で王座戴冠しています。

チャイナロンが日本に来る運命は、1991年(平成3年)5月にOGUNI(小国)ジムの斎藤京二氏が現役引退し、会長に就任した当初から、自身の現役時代に足りなかった部分を補い、選手育成に繋げようと、ムエタイトレーナーの招聘を計画していたことから始まりました。

◆「チャイナロン、日本に行きたいか?」

現在は多くのジムで、比較的取得し易くなったと思われる技能指導のビザで来日していますが、当時、タイ人トレーナーはまだ限られたジムしか呼べなかった時代。その頃、タイに行くこと多かった私(堀田)は、その相談を受けたことが諸々の出会いから繋がっていく因果応報でした。

1992年夏に渡タイした際、親密な関係にあったゲーオサムリットジムのアナン・チャンティップ会長から紹介してくれたのがチャイナロンでした。

「身体の発達が早くて、もう軽量級では戦えないから、トレーナーにさせたんだ!」と言い、更に「試合は出来るし、トレーナーも出来るし、肉体労働も出来るし、ホームシックにも掛からないよ!」と太鼓判。

ジムワークのチャイナロンは蹴りが重そうなテクニシャンで、ミット持ち指導も難無くこなす。当時、フェアテックスジムでトレーニングしていたOGUNIジムのソムチャーイ高津にも来てもらってチャイナロンへのミット蹴りを試して貰う。トレーナーとしては若過ぎるかとは思ったが問題は無さそうだ。

ミット蹴りを受けるチャイナロン、査定は合格(1992年7月)

「チャイナロン、日本に行きたいか?」と聞くと、考え込むことも無く「行きたい!」と応えた。

「日本の冬は寒いし友達も居ないしタイ語は通じない。指導以外に肉体労働もあるかもしれないし楽じゃないよ!」とは伝えたが、そんな苦難まで想像できるものではなかっただろう。

出稼ぎ目的で、あの手この手で来日しようとするアジアの人々は多かった時代。有名ムエタイ選手でもビザ審査は難しい立場にあったが、招聘する日本側、送り出すタイ側も実績に問題無くビザ申請は進行。チャイナロンは同年10月10日に初来日した。

斎藤会長の厳しい視線の中、来日当初のジム風景(1992年11月)

◆日本人選手の壁となった8年間

成田空港に着くとすぐ用意されていた高島平の宿舎に連れて向かった。一般の団地である。19歳の若者が、拉致されて来たかような環境に耐えられるだろうか不安はあったが、夜はトレーナー業での選手との触れ合いは和やかで、慣れるのは早かった。

予定された最初の試合は10月24日、フェザー級ランカーの延藤直樹(東京北星)戦。タイではフェザー級(-57.1kg)だったが、契約ウェイトは57.6kg。日本人の前に立ちはだかる強さを想定していたが、2-0判定負け。1ポンド増しでも環境変化による減量は思うようにいかなかったようだ。

ジムワークではヒジ打ち、ヒザ蹴り、首相撲からの崩しの指導が上手く、ミット蹴り指導は抜群だった。

「指示通りにやるミット蹴りはでなく、どこからパンチを打っても蹴っても選手側がいい感触になるように受けてくれて、こんなフリースタイルは才能ある人じゃないと出来ないと思います!」という当時の所属選手の感想だった。

スパーリングはテクニック全開で指導。「こんな強えーのに何で負けたんだ!?」そんなベテラン選手の声も上がるほど誰も寄せ付けなかった。

翌1993年3月27日には内田康弘(SVG)と対戦。今度は59.0kg契約。体調は万全で初戦とは違った素早い動きと重い蹴りで内田を翻弄しノックアウトで仕留め評価も上げた。

[写真左]初戦は延藤直樹(延藤なおき)に僅差判定負け(1992年10月24日)/[写真右]評価を上げたノックアウト勝利、内田康弘戦(1993年3月27日)

更なる試合は再来日のタイミングで1994年6月17日、全日本ライト級チャンピオン杉田健一(正心館)に判定勝利。その翌年の来日ではウェルター級ランカーの松浦信次(東京北星)に判定勝利。身体の発達が早かった為の階級アップが続いた。その後も勝山恭次(SVG)をヒジ打ちTKOで下し、松浦信次を判定で返り討ち、佐藤堅一(士道館)に判定勝ち。いずれもテクニックで翻弄した展開。その後、青葉繁(仙台青葉)にはヒジ打ちで切られて敗れたが、ノックダウンを奪う攻勢を続けていた。

テクニックで圧倒、杉田健一に大差判定勝利(1994年6月17日)

[写真左]チェンマイで初のベルト戴冠(1995年1月29日)/[写真右]松浦信次とは2戦とも判定勝利(1997年6月27日)

1998年6月にはOGUNIジム後援関係者の縁で出会った女性と結婚。奥さんの父親が経営する配管工事の会社で働き、親方と言われるまでの昇格もあった。後の現役引退後は生活形態が完全に変わってトレーナー業からも離れたが、以前からダウンタウンの松本人志さんから度々呼ばれ、「ガキの使いやあらへんで」などでお笑いタレントを蹴っ飛ばすムエタイ技を見せる番組にも多く出演し人気を得た。

生活環境が変わり、時代の変わり目でもあった1999年4月には、日本キック連盟エース格の小野瀬邦英(渡辺)と対戦。第1ラウンド、チャイナロンの上手さが目立つ中、小野瀬が接近した一瞬のヒジ打ちで額をカットされTKO負け。

[写真左]佐藤堅一が冷静さを失うほど、チャイナロンがテクニックで翻弄(1997年6月27日)/[写真右]小野瀬邦英の圧力は、それまでの日本人とは違っていた(1999年4月10日)

プライド傷つけられたチャイナロンは同年12月、再戦で初回から猛攻、小野瀬の顔をボコボコに鼻も折るも、第2ラウンドにボディーへのヒザ蹴りを受け逆転KO負け。小野瀬の飛躍への踏み台とはなったが、日本に長期滞在、結婚して生活のリズムも変われば、ムエタイの強さを発揮した時期より勘の鈍りは免れなかった。

翌年、中村篤史(北流会君津)をノックアウトで下し、有終の美を飾った。日本での通算戦績は11戦7勝(3KO)4敗。日本選手がこの壁を超えなければ本場タイで通用しないといった一つのステータスとなったのがチャイナロンや、現在も度々試合出場する常連在日タイ選手である。

ウェイトトレーニングで元気いっぱいの現在(2022年4月10日)

◆日本男児

すっかり日本に溶け込んだ2011年の夏、チャイナロンが脳内出血で倒れた。ある日の朝食後、仕事に行こうと立ち上がったところ、急に身体がフラフラし、バランスがとれず倒れてから記憶が無いという。家族が救急車を呼んで緊急搬送され手術で一命を取り止めたが、10日間ほど昏睡状態が続き、幸いにも意識が戻ったが、それまでの記憶が乏しかった。

医者は「後遺症は残るが、まだ若いから普通の生活が送れるほどへの回復の可能性は高い」と言い、リハビリテーションを経て退院後、仕事復帰まで回復。現在も右腕と右足に麻痺は残るが杖無しで歩き、初来日当初や延藤直樹戦もしっかり覚えていた。

当初は日本語は全く話せなかったが、「カラオケで歌詞が読めず歌えないことから日本語を覚えようと思ったこと、結婚して日本で暮らすことになったことがより必要不可欠になった!」という。来日当初は私やソムチャーイ高津らの初級タイ語で会話していたが、現在は完全な日本語のみの会話である。

3人のお子さんは長女、次女、末っ子の長男が現在高校三年生で、「大学に行きたい」と言えば行かせるつもりと言う。急病前までは奥さんには働かせず、俺が働くという振る舞いと、実家があるタイのスラタニー県には両親への家も建てたという昔ながらの日本男児たる大黒柱である。

日本人女性との結婚も多い在日ムエタイ選手。国際結婚は苦労多いが、長く連れ添う奥さん側に忍耐ある人が多い。こんな経緯で日本永住となったムエタイ戦士の一人を紹介しましたが、他にも日本で活躍する元ムエタイボクサーにもそれぞれのドラマが存在するでしょう。

◎堀田春樹の格闘群雄伝 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=88

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]
フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン『紙の爆弾』2022年7月号