◆広報室長・廣瀬氏の証言

次に、1月12日、動燃の行った3回の会見すべてに同席した広報室長・廣瀬氏の証言記録を見てみよう。

廣瀬氏は、大石氏に「12月25日と正直に答えなさい」と指示をされたのは、1回目の会見後の打ち合わせだったと証言している。ならば、その直後の2回目会見で、大石氏自身が正直に12月25日と答えれば良かったのではないか? そうすれば、3回目の会見に西村氏は駆り出されたりすることも、さらに死ぬこともなかったのだ。

弁護人にそのことを質問された廣瀬氏は「理事長はやはり理事長としての立場がございますから、やはり物事の本質論ですとか、そういうことを述べるというのが当然だと思います」などと証言した。

また、廣瀬氏は、会見を終えた西村氏に、科技庁の会見場から出た廊下で「なぜ1月10日と言ったのか?」と尋ねたという。その際、西村氏からは「年をまたいだら、もたないだろうと思った」と言われたと証言した。妻のトシ子さんは「一職員でしかない西村がそんなこというかしら」と言う。確かに、理事長が「12月25日と正直に答えなさい」と指示しているのに、一職員の勝手な判断でそんなことをいうだろうか。

しかし、西村氏がそう言ってしまったために、廣瀬氏と安藤氏は「訂正会見をやらなければ」と帰りの車中で話しあったという。

そもそも安藤氏と廣瀬氏は、西村氏の会見で同席しながら、西村氏が理事長大石氏の指示に従わず、「1月10日」と発言したならば、「何を言っているんだ」と驚いたはずだ。しかし、3回の会見を取り仕切った、廣瀬氏の部下A氏は、そのとき廣瀬氏、安藤氏に特別変わった様子はなかったと控訴審で証言している。

一方、西村氏の発言をその場で訂正できなかったか理由を質問された廣瀬氏は「常識論として、調査をした人間の答えを調査しない人間が、間違いじゃないかというのは、プレスがたくさん集まって、テレビのカメラが回っている状況の中でできるかどうかというのは、常識的に考えれば、それはパスするということになるんじゃないでしょうか」などと、どこか居直ったように証言した。

理事長・大石氏、理事長秘書役・T氏、広報室長・廣瀬氏(いずれも当時)他4名、計7名の314頁に及ぶ証言記録

 

福井県敦賀市白木地区で出会ったおばあさん。「あの近くにうちの畑があった」と指さす先にもんじゅが建っていた

納得いかない弁護士は、廣瀬氏にこう迫った。

弁護士 西村さんの地位は何ですか。

廣瀬  総務部の次長です。

弁護士 大石さんの地位は。

廣瀬  理事長です。

弁護士 大石さんの指示は12月25日だったんでしょう。

廣瀬氏 そうです、はい。

弁護士 どちらが重いんですか。

廣瀬氏 ……。(無言)

◆西村さんの会見は失敗ではなかった

西村氏の死が自殺だというなら、動燃に安全配慮義務違反があったのではないかと訴えた裁判の一審は敗訴した。トシ子さんはすぐに控訴した。2007年に始まった控訴審で、トシ子さんらは「動燃は、記者会見で真実を公表するか虚偽の事実を公表するかの二律背反的な進退窮る状況におき、結果として虚偽の発表を強いた」旨に一部主張を改めた。

こういうことだ。大石氏は、理事長として、打ち合わせで「2時ビデオが本社にあったことがわかった日は12月25日と正直に答えなさい」と指示しつつ、自身の会見では「初めて知ったのは昨日(11日)の夕方」と真っ赤な嘘をついたことから、西村氏は12月25日と正直に答えるか、大石氏に合わせて、(大石氏に報告した前日の)1月10日と嘘をつくかの二律背反的な状況を強いられ、結果、嘘をつかざるを得なかったのである。

では、3回目の記者会見がどのような様子だったかを、先の廣瀬氏の部下のA氏の証言からみていこう。A氏は、会見の調整役として、12日の3回の会見をすべてを現場で見ていた。事前の打ち合わせに出ていないA氏は、大石氏の指示は知らないため、西村氏の発言が正しいかどうかはわかっていない。しかし、西村氏は、会見では厳しく追及されたものの、終了後は記者らに囲まれ、褒められていたと証言した。

次の場面である。

弁護士 この会見の後、西村さんとあなたは言葉を交わしてますか。

A氏  会見の後は交わしてないですね……。あるとすれば、接点は1回だけあるんですけども、それは(西村さんが)会見場を出てこられたときに記者に囲まれたんですよね。それで記者の皆さんが、非常に立派な会見というのはおかしいかもしれないけど、きっちりしてましたというようなことをおっしゃったんですよ、皆さんが。で、西村さんもお疲れなので、あまりそこでつかまってもあれなので、「じゃあ」ということで私が仕切ったと思います、その入り口のところは……。

弁護士 何かすごく記者が殺気立って、追及みたいなことがあったみたいな情報もあるんですが、むしろそうじゃなかったということですか。

A氏  外のところはなかったです。その会見の席は結構厳しいと思いました。

弁護士 厳しいやりとりはあった。

A氏  あったと思います。

弁護士 それで、これも会見終了後ですけれども、廣瀬さんが、なぜ1月10日というふうに言ったのかというふうに聞いたら、会見場を出た廊下の部分、いま、あなたが言ってたところなんだけど、彼(西村さん)が年をまたいだら持たないと思ったのでそういったと答えたと。ちょうどその本人が会見場を出てきた辺りでやられていたことのようなんですが、それはご記憶ないですか。

A氏  いや、そこではそういう話は多分しないと思いますね、記者に聞こえるところではしないと思います。

弁護士 そこからちょっと離れたところ。

A氏 だから、出て、私は記者をそこで引き留めてしまったので。ほかの方たちはすっと帰られたと思うんですね。

 

夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘いは続く

さらに、A氏は、上司の廣瀬氏から、間違った西村発言を訂正する会見を開く予定は聞いていたかと質問され、「ないです。私にしてみれば、なぜその日にやらないかというふうに思いますけどね」「(夜中でも)かまいません」と、当時は夜中の会見はざらにあったと証言した。

しかし、廣瀬氏と安藤氏は、「訂正しなくてはならないね」と話し合ったものの、その後会見は行わず、翌日の定例会見で訂正する予定だったと証言した。

しかし、翌日は土曜日で、通常定例会見を行うことはなかったと、A氏は証言した。A氏同様、当時会見に参加していた複数の記者が「西村さんは、初めての記者会見にしては堂々としていました。あのような厳しい状況のなかでの会見で、言うべきことははっきり言い、わからないことはわからないと対応していました。割とうまくやったと思います」と話している。

不本意だったとはいえ、西村氏の会見時での発言は、動燃職員としては間違っていなかったのだ。つまり、そのことを苦に自殺することは、まずあり得ないのだ。動燃から西村氏の死についての説明は一切ないなか、T氏の「西村職員の自殺に関する一考察」では、西村氏は、会見で間違った発言をしてしまったことを苦にした自殺とされた。しかもそれに、よって厳しい動燃批判は一挙に沈静化し、再び動燃はもんじゅ稼働を推し進めていった。

「組織防衛のために夫が生贄にされた」。

悔し気にそう話すトシ子さん。

もんじゅが、ほぼ稼働せず、廃炉が決まったのは、西村氏の死から20年後の2016年だった。その日、トシ子さんは、仏壇に置かれた夫の遺影にこう話しかけた。

「もんじゅのために死ぬことはなかった」──。(了)

《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件──夫の「死」の真相を追及する西村トシ子さんの闘い【全6回】
〈1〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44727
〈2〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44733
〈3〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44851
〈4〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44879
〈5〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44951
〈6〉http://www.rokusaisha.com/wp/?p=44985

※本稿は『NO NUKES voice』30号掲載の「『もんじゅ』の犠牲となった夫の『死』の真相を追及するトシ子さんの闘い」と『季節』2022年夏号掲載の「《関係者証言録公開》もんじゅ職員不審死事件 なぜ西村さんは『自殺』しなければならなかったか」を再編集した全6回の連載レポートです。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)
新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを「西成青い空カンパ」として主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

〈原発なき社会〉を求めて集う 不屈の〈脱原発〉季刊誌 『季節』2022年秋号(NO NUKES voice改題 通巻33号)

タブーなきラディカルスキャンダルマガジン 月刊『紙の爆弾』2022年12月号