昨年、映画界や芸能界を舞台に相次いだ性被害の告発には、1つの傾向が見て取れた。それは、性加害を告発された男性たちが、人間的に立派だと評価されるような活動をしていた最中にあったことである。

たとえば、『蜜月』という映画の監督は、性被害をテーマにしたこの作品の公開に先立ち、制作に真摯に取り組んだかのようなメッセージを公に向けて発信していた。ところが、この作品の公開直前、女優たちから次々に性加害を告発され、作品も上映中止に追い込まれた。

また、「名脇役」と呼ばれた俳優は近年、献血や骨髄バンクの啓発に関わるような公的な仕事をして、人間的な評価が高まっていた。そんな中、相次いで女優たちから性加害を告発され、活動を休止せざるをえなくなった。

さらに12月には、福島第一原発事故を題材にした新作を公演するはずだった劇作家が、公演直前に劇団の女優から性加害を告発されたうえ、裁判も起こされ、公演は中止となった。この劇作家もこの少し前、福島の双葉町に移住するなど原発問題への意識の高さをアピールしていた。

さて、これらの事例を挙げ、私が何を言いたいかというと、性被害者にとって、性加害者が人間的に立派だと評価を受けているのを見聞きすることは、セカンドレイプ的な言葉を浴びせられる以上に苦痛であり、憎悪や怒りの感情を抑え切れないのだろうということだ。だからこそ、そういうタイミングで彼女たちは沈黙を破り、性加害の告発に踏み切ったのではないかと思うのだ。

これはおそらく、性被害に遭ったことが無い人でも共有できる感覚だと思う。人間誰しも生きていれば、いじめやパワハラ、セクハラなど、特定の人物から何らかの理不尽な被害に遭うことはあるからだ。かくいう私も以前、ある人物から凄まじいパワハラに遭ったことがあるが、その人物が今もたまに人前で自分が立派な人間であるかのようなことを臆面もなく話しているのを見ると、怒りがぶり返してくるのを禁じ得ない。

こう考えてみると、公の場で特定の人物を立派な人間であるかのように褒めたり、好意的に評価するようなことを言ったりしただけでも、セカンドレイプ的な過ちを犯している可能性があるわけだ。褒めたり、好意的な評価をしたりした人物から理不尽な目に遭わされた被害者がどこかで見ているかもしれないからだ。

さらに突き詰めると、特定の誰かの幸せを祝福したり、特定の誰かと冗談を言って笑い合ったりしただけでも、セカンドレイプにあたる恐れはあるだろう。その「特定の誰か」から何らかのハラスメントに遭った被害者が存在すれば、その被害者はその「特定の誰か」が幸せそうにしていたり、楽しそうにしていたりする光景を目にしただけで苦痛を覚えることもありえるからだ。

結局、セカンドレイプ的な過ちを犯したくなければ、公の場で何も発言せず、誰とも関わらないくらいしか方法はおそらく無い。それがつまり、他者のセカンドレイプ的な言動について、何の迷いもなくセカンドレイプだと批判するような正義感の強い人たちこそ自戒する必要があると私が考える理由である。

◎[過去記事リンク]片岡健の「言論」論 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=111

※著者のメールアドレスはkataken@able.ocn.ne.jpです。本記事に異論・反論がある方は著者まで直接ご連絡ください。

▼片岡健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。編著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(リミアンドテッド)、『絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―』(電子書籍版 鹿砦社)。stand.fmの音声番組『私が会った死刑囚』に出演中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ―冤罪死刑囚八人の書画集―」[電子書籍版](片岡健編/鹿砦社)

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