◆「一週一善」

ほんの思いつきから始まった自作詩集「仁奈詩手帖」、それはいつしか真剣勝負の共同作業になって結果は思った以上の「価値ある」成功、それは私たちにとても勇気を与えるものだった。

二人でやれば怖いものはない。「思案に暮れていた」ジェロさんと「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」の仁奈さん、二つの魂は確実に接近した。

「案ずるより産むが易し」! 「跳んでみたいな」運命共同体、次なる共同行動は”Smoke gets in your eyes”の夜からすでに温めていた「一週一善」構想。

精神ハイに乗ったあの夜決めたのは「一日一善」の故事にならって私たち式の「一善」、世間の常識を覆す「一つの善行」を「週一」でやろうという企画(実際は、月に2、3回)。おかしいと思う常識を覆すのが私たちの「善行」! 


◎[参考動画]Miles Davis – Smoke gets in your eyes

最初の企画の発案、シナリオは仁奈さん、それは「お嬢さん」脱皮中の彼女らしいユニークな「一善」。

当時の京都でひときわ華やかな四条河原町・高島屋デパート、なかでも高級感あふれる資生堂化粧品売り場が二人の「善行」舞台。

まず「お嬢さん」風のいでたちの「上客」、仁奈さんが資生堂の化粧指導員相手にショウケースから各種カラーの口紅をあれこれ出させ、いちいち説明をさせながら、さてどれにしようかと思案のふりをする。横に付きそうこれもちょっと小綺麗にした私に「迷っちゃうなあ、どれがいい?」と恋人に甘えるかのように意見を求める。ここからがジェロさんの大芝居-「僕には“素(す)のまま“の君がサイコー」! と彼女の唇に優しく「3センチ距離感覚」を実践、ゆっくりとこれ見よがしにやる、彼女もそれを甘く受ける。目の前の資生堂派遣の一級のプロ化粧指導員をして目のやり場に困らせるのが目的。そして挙げ句の果てに「すみませ~ん、やめときます。ごめんなさいね」と二人で売り場を去る。

気合いを入れこれをシナリオ通りにやって、ほぼ想定通りの展開にした。

高島屋から四条通りに出るや二人でにんまりうなずき合った、「してやったり」! おなかの中では大笑い。「あの“3センチ”、ちょっとしつこかったよ」の仁奈さんに「いやあ、あれは演技やない本気」とジェロさん、「バッカ~」と仁奈さんのお叱り受けて初「善行」はめでたしめでたし。

世間的には単なる資生堂の販売員イジメ、でも舞台は天下の高島屋、資生堂ブース、精神ハイとはいえ私たちにはちょっと勇気が必要だった「善行」。

いま思えばこの「善行」は、「アメリカに追いつけ追い越せ」高度経済成長に向かう「昼間の明るい日本」に対するカウンターパンチ。「時空を越える“黒”」ファッションで有名なデザイナー、山本耀司式に言えば、「飾り立てるのがファッションかもしれないが、人の眼を欺いてはいけない」! そんな意味合いだったのだと思う。仁奈さんは「善行」センスも「高品質」!

この頃、新宿花園神社赤テント状況劇場や天井桟敷で唐十郎、寺山修二らも常識を覆す実験劇をやっていた。仁奈さんの「実験劇」はその零細企業版!?

次にやった「善行」は「乞食のおっちゃん二人組」との三条大橋下での夜の酒宴。これは私の発案。

以前、バイト帰りの薄汚れた格好、ぼさぼさ長髪の私が鴨川縁を歩いていたら、「よ~っ、同志!」と呼び止められた。声をかけたのは三条大橋下をねぐらにしている乞食のおっちゃん二人組、誘われるままに彼らと一夜を過ごし友達になった。おっちゃんたちは二人とも「満州引き揚げ者」で戦後の日本になじめなかったのか、何らかの理由で自由気ままな乞食生活をやっている人、犬も一匹飼うという優しさの「余裕」もあるお乞食さん。

富裕家庭子女の「詩人」をこのおっちゃんら「無産階級」が酒宴に招待するという逆転の発想の「善行」。

三条大橋。車の止まってる辺り

お酒はおっちゃんらが木屋町飲食街からポリタンクに集めた「残り物」の「ごちゃまぜビール」、それまでの仁奈さんには縁の遠い人間たちとお酒。「素敵じゃない? よしやろう」と仁奈さんも同意。

若い女性とお酒を呑む機会のないおっちゃんらは「詩人」を大歓迎。コップは使い古したお茶碗のようなものだったが、かまわず仁奈さんはおっちゃんらと「茶碗酒」をガブ呑み、まるで酒豪比べのような酒宴になった。おっちゃんらは「呑みっぷりがエエなあ」と仁奈さんを褒めそやした。ポリタンクいっぱいのビールは飲み放題、「おつまみ」まであって一晩中、酒宴は続いた。

「ここはお国の何百里~ 離れて遠~き 満州の~~」を酔いに任せておっちゃんらと大声で合唱した。軍歌ではあるが彼らには格別の想い入れがある歌なのだろう。ニーナ・シモンを愛する私たちだったが違和感なく一緒に歌えた。戦前世代と戦後世代が一体になった、そんな瞬間だった。

したたかに呑んだあと仁奈さんも段ボールか何かの寝床で寝た、トイレも野外、ちょっと心配だったけれど「お嬢さん詩人」はけろりとしたもの。「気持ちよかったあ~、久々の開放感」! 屈託のないのがこの人のいいところ。

双方満足のとても気持ちのよい「善行」、京都のシンボル、三条大橋下という舞台設定も最高。

翌朝、目覚めて比叡山方向から昇る朝日をみんなで眺めた。その時、おっちゃんの一人が叫んだ。「満州の太陽はもっとでっかいぞ」! 

その一言にさまざまな思いが込められていたのだろう。おっちゃんらが満州で、また引き揚げ時やその後の日本で、どんな思いをしたのか、もっと聞いておけばよかった。なんか自分たちが盛り上がっただけで終わったなあと、ちょっと後悔が残った。

「昼間の日本」にはカウンターパンチ、「夜の日本」にはカンパ~イの「一善」、この頃までが仁奈さんとジェロさん共同行動の「蜜月」時期……だったかもしれない。

三条大橋下。おっちゃんらとの夜の酒宴の場、ギターを弾いてる若者らのように

◆「10・8-山﨑博昭の死」の衝撃

その後も日本海サイクリング野宿放浪、鈍行列車東京遠征で新宿ヒッピー観察……etc.「一善」は続いたがハプニング的な「善行」はそうそう長続きするものじゃない、惰性は免れなかった。

日本海放浪は、夜に蚊の大群に悩まされて野宿は中途挫折で民宿に、新宿で会ったヒッピーはインド哲学や禅など神がかっていたり単なる自由恋愛主義者だったりで「なんかついていけないよね」。

でもこうした日々にも仁奈さんは詩作を続けたし、新しい「文学的発見」をノートに記したり、何であれ新しい体験を自分のものにしていってるようだった。「新しい時代の作家」になる栄養素にしていたのだろう。

他方、私はというと「常識打破の善行」もやってる瞬間は意気軒昂、でも終わってみれば自分に残るものは何もない。まるでハイミナールが切れた後のよう……。刹那主義的行動だけではやはり人間には何か虚しい。

仁奈さんは強くて温かい「同伴者」だった。ときに落ち込む私を気遣って夏のある夜、「ホタル見に行かない?」と鴨川に誘った。舞い上がる無数の蛍火を「きれいだね」とか言いながら「あのホタルだって昼間は誰にも見えないのよねえ」とボソッと私につぶやいたが、あれは「詩人」式の励ましの言葉だったのだろう。

仁奈さんにはめざすものがあって、ジェロさんにはない。これからどこに行くのか? 具体的な目標、志が私にはない、それを痛感させられる日々でもあった。いま思えば、それ自体が私の進歩を促す過程、自分の不足を感じる過程だったとは言えるが、二十歳の私には自分を客観視するそんな心の余裕はなかった。

いつしか季節は秋になった。

そんな時に私の一大転機を促す「事件」が起こった。

忘れもしない1967年10月8日、佐藤首相の南ベトナム訪問阻止の闘い、世に言う「ジュッパチ」羽田闘争が起こった。学生運動で初めてヘルメットとゲバ棒が登場、学生たちは警察機動隊と激しくぶつかった。機動隊の警棒に追われ弁天橋から川に転落する学生たち……。

そして激闘さなかに機動隊装甲車に轢かれ一人の学生が命を落とした。

彼の名は京大生・山﨑博昭、まだ18歳だった。

新聞や固い週刊誌など見向きもしなかった私がそれらをむさぼり読んだ。

大学のキャンパスでは活動家を囲んであちこちで議論の輪ができていた。活動家は必死に闘争の意義を訴えていた、だが多数意見は「暴力はよくない! 民主主義の日本なんだから」だった。私はこれに何か納得できなかった。でもそれを口に表すことはできなかった。

一人の学生が死んだということ、ただこのことが私に重くのしかかっていた。

あの日から私の頭と心を占めるのはこのことだった。


◎[参考動画]映画『きみが死んだあとで』予告編

17歳の時のビートルズ「抱きしめたい」はまさに脳天直撃だった。でも「ジュッパチ」はじわじわと心に迫ってくる「衝撃」とでも言うか、何かが私をぐぐ~っと締め上げて来る、そんな感じだった。

私は学生運動にはこれまで冷淡だった。ビラを受け取ってもゴミ箱に捨てた。小中高と同窓だった友人が社学同(社会主義学生同盟)、ブンドの活動家で一回生の頃、オルグらしいことを受けたが心は動かなかった。どうせ学生時代の左翼インテリのイデオロギー行動、大学を卒業すれば就職してそれで終わり、そんなものだろう。とても醒めた目で見ていたと思う。

だが「山﨑博昭の死」はそれを180度、覆すものだった。

学生達は命がけで闘っている! おかしいと思うこと、おかしな社会に真っ向から向き合い、これに正面からぶつかっていった一人の学生が死んだ! 志に殉じる自己犠牲! そんな学生運動家が神々しく思えた。

それに比べ「ならあっちに行ってやる」以降の私のドロップアウト人生、社会に背を向け、顔を背けてきた私、「社会常識」をただあざ笑うだけの私、それは安全地帯からする単なる自己満足? 考えれば考えるほどそんな自分がとても恥ずかしく思えた。

私が初めて意識した良心というようなもの、初めて感じた良心、その鈍痛みたいなもの。うまく言えないが、そんなものだったと思う。

「ジュッパチ」で私の何かが変わった。

まだ何をやるべきかは定かではなかったけれど、はっきりしているのは社会と真っ向から向き合うこと、おかしいと思う現実は変えること、そのために行動すべきこと-めざすのは何らかの社会革命!

「跳んでみたいな」共同行動の季節はとっくに過ぎた。仁奈さんとの「運命共同体」は宙に浮いたものになった。彼女は文学、「作家になる」という目標に邁進する、私は目標、志を立てなければならない。それぞれが自分の道に向かうべき時が来たのだ。

私を観念の世界から行動へと突き動かしてくれた恩人、仁奈さん-「簡単じゃないからいいんじゃないですか?」-この一言をいまも私は忘れない。

新しい出発のためには必要な別れ。現実はそう簡単に割り切れるものではないけれど……

そんな頃、私の前に現れた二人の同志社大生、水谷孝と中村武志、彼らも「ジュッパチの衝撃」体験者だった。この出会いが私の新しい出発の開始になるとは……(つづく)


◎[参考動画]裸のラリーズ Les Rallizes Denudes 1

《若林盛亮》ロックと革命 in 京都 1964-1970
〈01〉ビートルズ「抱きしめたい」17歳の革命
〈02〉「しあんくれ~る」-ニーナ・シモンの取り持つ奇妙な出会い
〈03〉仁奈(にな)詩手帖 ─「跳んでみたいな」共同行動
〈04〉10・8羽田闘争「山﨑博昭の死」の衝撃

若林盛亮さん

▼若林盛亮(わかばやし・もりあき)さん
1947年2月滋賀県生れ、長髪問題契機に進学校ドロップアウト、同志社大入学後「裸のラリーズ」結成を経て東大安田講堂で逮捕、1970年によど号赤軍として渡朝、現在「かりの会」「アジアの内の日本の会」会員。HP「ようこそ、よど号日本人村」で情報発信中。

『一九七〇年 端境期の時代』

『抵抗と絶望の狭間 一九七一年から連合赤軍へ』(紙の爆弾 2021年12月号増刊)