部落史における士農工商 そんなものは江戸時代には「なかった」 横山茂彦

NHK大河ドラマ「青天を衝け」のイントロに、北大路欣也ふんする徳川家康が登場して、お茶の間の好評を博している。

第5回「栄一、揺れる」(3月14日放送)では、「今日も出てきましたよ」とあいさつし、興味ぶかいことを語った。

北大路家康は「『士農工商』、もう教科書にその言葉はありません」と語り、図版アニメの「士農工商」図は、士とその他に変形した。江戸時代に武士階級とその他しかなかった身分制度を表現したものだ。

この意外な史話解説は、ネットでも話題になったという。以下はネットニュースからだ。

SNSでは「えっ……教科書に士農工商ってもうないの!? びっくりだわ」「士農工商ってもう教科書に載ってないって徳川家康が言ってたけど、本当?」「士農工商てもう教科書に載ってないの? 北大路家康が言ってたぞ」といった驚きの声が上がったほか、「現代の教科書を知ってる徳川家康」「最新の教科書もチェックしている家康」「家康公、最近の教科書事情にもお詳しいw」などと感心していた。(ヤフーニュース 3/14 20:45配信)。

本通信でも、鹿砦社「紙の爆弾」の記事における「士農工商ルポライター稼業」(昼間たかし)をめぐって、解放同盟から「差別を助長する表現」との指摘をうけて、部落の歴史で江戸時代の身分差別について触れてきた。「紙の爆弾」2021年1月号にも「求められているのは『謝罪』ではなく『意識の変革』だ」を発表した。

◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈前編〉(2020年11月12日)
◎部落差別とは何なのか 部落の起源および近代における差別構造〈後編〉(2020年11月17日)

そのなかで、士農工商に触れた部分をまとめておこう。

江戸時代の文書・史料には、一般的な表記として「士農工商」はあるものの、それらはおおむね職分(職業)を巡るもので、幕府および領主の行政文書にはない。したがって、行政上の身分制度としての「士農工商」は、なかったと結論付けられる。

むしろ「四民平等」という「解放令」を発した明治政府において、「士農工商」が身分制度であったかのように布告された。すなわち江戸時代の身分制が、歴史として創出されたのである。

またいっぽうでは「解放令反対一揆」を扇動し、動員された一般民において、「士農工商」とその「身分外」の部落民に対する排撃が行なわれ、そこに近世いらいの部落差別が再生産されたのである。

上記の記事にたいして、江戸時代になかった士農工商が明治時代に「確立された」のは「納得できない」などの批判もあったが、その批判者から根拠となる史料が示されることはなかった。

教科書から「士農工商」という表現・文言が消えたのは、北大路家康が言うとおり事実である。東京書籍の「新しい社会」(小学校用)の解説(同社HP)から、長くなるが引用しておこう。

Q 以前の教科書ではよく使われていた「士農工商」や「四民平等」といった記述がなくなったことについて,理由を教えてください。

A かつては,教科書に限らず,一般書籍も含めて,近世特有の身分制社会とその支配・上下関係を表す用語として「士農工商」,「士と農工商」という表現が定説のように使われてきました。しかし,部落史研究を含む近世史研究の発展・深化につれて,このような実態と考えに対し,修正が加えられるようになりました(『解放教育』1995年10月号・寺木伸明「部落史研究から部落史学習へ」明治図書,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房など)。
 修正が迫られた点は2点あります。
 1点目は,身分制度を表す語句として「士農工商」という語句そのものが適当でないということです。史料的にも従来の研究成果からも,近世諸身分を単純に「士農工商」とする表し方・とらえ方はないですし,してきてはいなかったという指摘がされています。基本的には「武士-百姓・町人等,えた・ひにん等」が存在し,ほかにも,天皇・公家・神主・僧侶などが存在したということです。この見解は,先述した「農民」という表し方にも関係してきます。
 2点目は,この表現で示している「士-農-工-商-えた・ひにん」という身分としての上下関係のとらえ方が適切でないということです。武士は支配層として上位になりますが,他の身分については,上下,支配・被支配の関係はないと指摘されています。特に,「農」が国の本であるとして,「工商」より上位にあったと説明されたこともあったようですが,身分上はそのような関係はなく,対等であったということです。また,近世被差別部落やそこに暮らす人々は「武士-百姓・町人等」の社会から排除された「外」の民とされた人として存在させられ,先述した身分の下位・被支配の関係にあったわけではなく武士の支配下にあったということです。
 これらの見解をもとに弊社の教科書では平成12年度から「士農工商」という記述をしておりません。
 さて,「士農工商」という用語が使われなくなったことに関連して,新たに問題になるのが「四民平等」の「四民」をどう指導するかという点です。
 「四民平等」の「四民」という言葉は,もともと中国の古典に使われているものです。『管子』(B.C.650頃)には「士農工商の四民は石民なり」とあります。「石民」とは「国の柱石となる大切な民」という意味です。ここで「士農工商」は,「国を支える職業」といった意味で使われています。そこから転じて「すべての職業」「民衆一般」という意味をもちました。日本でも,古くから基本的にはこの意味で使われており,江戸時代の儒学者も職業人一般,人間一般をさす語として用いています。ただし,江戸時代になると,「士」「農」「工」「商」の順番にランク付けするような使われ方も出てきます。この用法から,江戸時代の身分制度を「士農工商」という用語でおさえるとらえ方が生じたものと思われます。
 しかし,教科書では江戸時代の身分制度を表す言葉としては,「士農工商」あるいは「士と農工商」という言葉を使わないようにしています。以前は「四民」本来の意味に立ち返り,「天下万民」「すべての人々」ととらえていただくよう説明してきました。しかし,やはりわかりにくい,説明しにくいなどとのご指摘はいただいており,平成17年度の教科書から「四民平等」の用語は使用しないことにしました。
 「四民平等」の語は,明治政府の一連の身分政策を総称するものですが,公式の名称ではないので,この用語の理解自体が重要な学習内容とは必ずしもいえません。むしろ,以前の教科書にあった「江戸時代の身分制度も改めて四民平等とし」との記述に比べ,現在の教科書の「江戸時代の身分制度は改められ,すべての国民は平等であるとされ」との記述の方が,近代国家の「国民」創出という改革の意図をよりわかりやすく示せたとも考えております。  
(「四民」の語義については,上杉聰著『部落史がかわる』三一書房p.15-24を参考にしました。)

もともと「士農工商」(律令とともに中国から伝来した概念)は、古代における士が貴族階級であり、その他に農工商の職業があるという社会像を表したものだった。士や農が上位にあり、商人が卑しいとするものでもない。

だが、儒教的かつ農本主義的な幕末の国学思想において、受容しやすいものだった。あるいは天皇を頂点とする身分制社会を再生産した明治政府において、武士が上位にあり農民がその次に尊重される社会像、工業よりも商業を下位に置く世界観が、そのまま江戸時代いらいのものとして、部分的に継承されたのである。

富国強兵殖産興業という明治政府のスローガンとは、もって異なる身分制(天皇・皇族・華族・士族・平民・新平民)はしかし、一般国民に受け容れられた。差別は政策ではなく、人間の意識のなかに宿るものなのだと、歴史的に論証できる。部落差別は近代的な市民社会観が定着することにより、江戸時代よりも過酷なものとして表象されてくる。そこに水平社運動の発生する理由があったといえよう。

歴史学が社会に果たせる役割があるとすれば、興味本位の歴史のおもしろさを紹介するだけでなく、部落史研究のような社会の根源を規定する「差別」や「排外主義」の歴史的な根拠。あるいは、為政者によって意識的につくられる階級や階層、かつてはブルジョア階級、今日では「上級国民」の成立理由を明らかにしていくことであろう。評判の北大路家康は、その成果なのである。そして渋沢栄一という日本資本主義の父と呼ばれる人間像が、どのようにイデオロギーとして表象されるのか、興味をもって見守りたいものだ。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

発生26年の国松警察庁長官狙撃事件、「真犯人」を名乗り続ける老受刑者は今……

1995年3月、警察庁の国松孝次長官が自宅マンション前で狙撃された事件が30日で発生から26年を迎える。この歴史的未解決事件には、自分こそが真犯人だと訴え続けている有名な男がいる。中村泰(ひろし)、90歳。岐阜刑務所で服役している無期懲役囚である。

中村は2002年11月、名古屋市で銀行の現金輸送車を銃撃し、検挙されたのをきっかけに長官狙撃事件の捜査線上に浮上した。当時すでに72歳だったが、警備員2人の足元にほぼ狙い通りに銃弾を発しており、高度の射撃能力が認められた。さらに関係先の捜索では、長官狙撃事件に関する新聞・雑誌の記事の膨大なコピーが見つかったうえ、中村が借りていた新宿区の貸金庫に10丁の拳銃や千発を超す銃弾が保管されていたことも判明した。

中村本人も警視庁刑事部の取り調べに対し、犯行を詳細に自白。さらに獄中にいながらメディアの取材を次々に受け、長官を撃ったのは自分だと訴えた。そんなこんなで、中村こそが長官狙撃事件の犯人だという説が広まったのだ。

事件は結局、捜査を主導した警視庁公安部がオウム犯人説に固執し、2010年に迷宮入りしたが、今も中村こそが犯人だとみている取材関係者は少なくない。かくいう私もその一人だ。これまで8年余り中村を取材し、各種資料や現場の状況を検証した結果も踏まえ、中村のことを警察庁長官狙撃事件の犯人だと確信している。

◆4月で91歳、病気で手紙を書くのも難しい状態

さて、今回なぜ改めてこのような話をするかというと、実は中村の人生の残り時間がいよいよ少なくなってきた兆候が見受けられるからだ。

というのも、中村は2015年に直腸がんの手術をうけ、2017年にはパーキンソン病を患い、手紙のやりとりをするのも難しい状態となっていた。最近はいよいよ手紙を書く気力もないらしく、たまに獄中で読み終わった本を送ってくるだけになっていたのだ。

私は中村が本をたまに送ってくることについて、「手紙は書けないが、無事に生きている」と知らせるための行為だと解釈しているのだが、中村が本を送ってきたのも昨年12月が最後だ。その後は私から手紙を出しても、中村から返信はない。ただでさえ病身のうえ、4月には91歳になるので、生きているだけでも大変なのではないかと思われる。

昨年2月に中村が送っていた本

◆中村が真犯人だと認められたい理由

中村によると、長官狙撃事件の犯行を決意したきっかけは10日前に起きた地下鉄サリン事件だったという。

「地下鉄サリン事件はオウム真理教の犯行であるのは明らかなのに、オウムに対する警察の捜査は腰が引けていました。そこで、警察をオウム制圧に突き動かすため、オウム信者を装って警察庁長官を撃ったのです」(中村の主張の要旨)

実際、長官狙撃事件をオウムによる犯行だと疑った警察は、地下鉄サリン事件でオウムに対する捜査を本格化させ、教祖・麻原彰晃の検挙にまで至った。東大の学生時代に武力革命を志し、テロ活動を繰り広げてきた中村としては、それが自分たちの手柄だと誇示したい思いがあったという。いずれ警察が長官狙撃事件について、オウム犯行説に疑いを抱いた時には、事件の状況を詳細に記述した弾劾状を報道機関に送ることも計画していたそうだ。

しかし結局、警視庁公安部がオウム犯行説に固執したため、中村は自分たちの手柄を誇示する機会を失った。そのためメディアに対し、自分こそが長官を撃った犯人だと訴え続けてきたわけだ。

人は何か思い残すことがあると、死んでも死に切れず、結果的に寿命が延びることがある。重篤な病気を患いながら、90歳になっても生き永らえている中村もそれに該当するように私は思う。中村としては、自分こそが長官狙撃事件の犯人だと社会にもっと広く認められないことには、死んでも死に切れないのだろう。

私は取材者として、この老受刑者の特異な人生を最後まで見届けたいと思っている。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号

三里塚空港の転機 旧管制塔の解体はじまる 横山茂彦

3月17日、成田空港で旧管制塔の解体工事がはじまった。当時は「ブルジョア新聞」と呼んでいた一般紙から引用しよう。

「旧管制塔を巡っては、1978年3月に過激派が侵入、占拠して管制機器を破壊する事件が起き、開港日が二カ月ほど延期になった歴史がある。『成田闘争』と呼ばれる激しい空港反対運動の象徴的な舞台が姿を消す。」(東京新聞)

「成田闘争」というのは、行政成田市にもとづくマスコミ用語である。当時、建設地名をとって「三里塚闘争」と呼ばれていた。反対同盟の正式名称は、三里塚芝山連合空港反対同盟である。成田市の三里塚地域と山武郡芝山町の住民連合という意味になる。成田空港も当時は、新東京国際空港が正式名称だった。

用語にこだわるのは歴史研究家としての倣いだが、歴史になっていく事物に対しては、口承者も少なくなるので正確を期したいものだ。

 
 

旧管制塔は1971年に建設された、高さ64メートルの当時は最新鋭の建築物だった。黒く塗装された外壁は、すべてが金属製で出来ているような印象を与えたものだ。旧管制塔の老朽化により、成田国際空港会社(NAA)は隣接地に「ランプセントラルタワー」を建て、昨年9月から業務をはじめていたという。

NAAはメディアの質問に「社会的にも非常に大きなインパクトを与えた出来事が起きた場所。成田空港建設にあたっての歴史的な経緯を忘れることなく、これからも皆さまから愛される空港を目指す」とコメントしている。旧管制塔は8月にも完全に撤去される見通しだ。

反対運動に関わった者としては、空港のシンボルでもあった歴史的建造物がなくなるのは、やはり寂しいと言わざるを得ない。

◆コロナ禍で経営危機か

さてその現成田空港だが2020年度の中間決算では、営業収益が前年同期比 73.8%減の332億円。中間純損失は424億円、予想値では当期純損失は783億円だという(2020年度中間連結決算)。

「運営費用等のコスト削減に取り組むものの、営業収益の減少を補いきれず、通期としても民営化以降初めての損失計上となる見込み。」だという。

コロナ禍における航空産業の赤字は深刻だ。沖縄の話だが日本トランスオーシャン航空は、乗客数が前年比5%まで落ち込み、今年度の上半期は43億円の赤字で過去最悪だという。とくに赤字の与那国島航路は存亡の危機だが、島民のかぎられた移動手段だけに廃線にはできないだろう。

成田空港も旅客数の19年度実績4,148万人が、20年度は377万人、つまり3,771万人減、じつに9割減である。

いや、コロナ禍がなくても成田はピンチなのである。羽田(東京国際空港)が9,000万人前後でその半分なのだから、観光ハブ空港としての地位は、完全に羽田拡張で奪われた格好だ(成田は貨物便が主柱だが)。

このままコロナ禍が続けば、存続も危ういのではないかと心配になる。元空港建設反対派の支援者がその経営を心配するのもおかしな話だが、日本を代表する大規模空港建設という触れ込みが、犠牲者を出す流血の惨事をまねいたのだから、しっかりして欲しい、と思ってしまうのだ。

 
 

◆現在に教訓は残せたか

さて、反対運動の当時を振り返って、やはり楽しい闘争だったという実感がいまもある。当時は大変な思いをしていたはずだが、青春の記憶だけにうつくしい。年老いた退役軍人が、軍隊生活を懐かしむようなものかもしれない(苦笑)。

重傷者や死者(関連自殺を入れると、9人)の出る疑似戦争状態だったとはいえ、どこか牧歌的で、少し危険なスポーツをやっていたような感覚がある。東京では深刻だった内ゲバも、三里塚では反対同盟のつよい統制力で、いがみ合っている党派が協力を厭わない。35以上もあった団結小屋の現闘団は、それ自体がひとつのグループのように、力をあわせて活動していたものだ。

闘争が残した「成果」があるとすれば、1994年から行なわれた空港問題解決にむけたシンポジウム、それに続く円卓会議で一応の裁定が行なわれたことだろう。老学者たちの老後の名誉欲的な話し合い調停だったにしても、中核派に自宅を焼かれてもこころざしを変えなかったのだから、その労苦は讃えてしかるべきであろう。

その結果、自社さ政権による正式の謝罪が行なわれた。

その後は、一方的な決定・執行ではなく、話し合いをもとに建設を進めるという、欺瞞的な話し合いであったにしても、闘争の区切りができたのである。

相手が謝ってきたのだから、反対運動の正当性がみとめられた。それは「勝利だ」といえるだろう。そして二分解していた反対同盟はさらに分裂し、それぞれが生活再建のための道をえらんだのだった。

裏取引をして「脱落」した農民、移転に応じて営農だけ継続した「条件派」、部落ごと移転した部落もあった。もちろん徹底抗戦派も残った。支援という立場を明確にするならば、農民それぞれの選んだ道を非難してもはじまらない。

戦後最大の住民運動(農民運動には、なれなかった)が残した成果が、たとえば各地の原発訴訟や大規模開発への司法の裁定、あるいは行政自体が教訓としているのならば、それでいいのではないか。

三里塚での体験は、この通信にも「開港から40年の三里塚(成田)空港」や「三里塚戦記」(「情況」2019年秋号)にも書いているので、若い活動家がわたしのもとに、援農に行った報告をくれることもある。

◎[関連記事]開港から40年の三里塚(成田)空港〈22〉1億円の損害賠償金

現地に後継者があり、無農薬農業や環境問題というキーワードがあれば、三里塚はこの時代にも発信力があるのだと思う。トータルな記録はまだ成っていないが、何冊も本は出ているから行ってみたくなる若者は絶えない。たまには援農に行って、新しいレポートをしようかと思うようになった。


◎[参考動画]旧管制塔が解体へ 占拠事件の元襲撃隊リーダー・警察OBの思い【Nスタ】(TBS 2021年3月17日)

[カテゴリーリンク]三里塚 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=63/

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。3月横堀要塞戦元被告。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

月刊『紙の爆弾』2021年4月号
『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

LINEを切ろう。SNSから避難しよう。── 企業の無償サービス・ビジネスは本当に公共インフラストラクチャーとして不可欠なのか? 田所敏夫

◆本当に「国民のほとんど」がLINEを利用しているのか

SNSのLINEから個人情報が漏洩していた件で、総務省はLINEの使用を、取りやめたそうだ。ある新聞によると「国民の多くが使っている」との表現も見られるLINE。広く普及していることは認知していたが「国民のほとんど」といわれるほど、皆さんが利用していたとは少々驚いた。

けども本当に「国民のほとんど」が利用しているのか、との疑問も捨てきれない。わたしの知人のなかにはLINEを利用しているひともいるが、大半はLINE世界とはまったく接点のないひとだからだ。

SNSには主たるものだけでもFacebookやTwitter、Instagram、LINEなどがあり、この4つともを利用している方も少なくないだろう。

◆無償サービスの危険性

端的に言って、SNSは危険である。理由を述べよう。

発信を仕事や業務にしている人にとって、SNSは利用価値の高いネット上の道具であろう広告費の削減が達成できて日々発信内容の更新ができる。しかし、発信と無縁な方がこの世界に足を踏み入れると、無意識のうちに「みずからの素性や嗜好、毎日の生活を暴露する」行為に及んでしまう。聞かれもしない私生活を写真やことばで晒してしまうのだ(「個人情報保護法案」をぶっ潰すのがSNSだともいえるかもしれない)。

それぞれのSNSは、発信形態や登録者同士の通話機能、データ互換機能など特性や危険性を充分に理解して使えば、便利な側面はある。ただしそれは、ほとんどの場合、仕事や業務に限定されるといってよく、そうでない場合には危険性が高まると考えてよい。

危険性とは、それぞれのサービスがいずれも「無償」で利用できることから想像が可能だ。無償のサービスであっても利用約款は存在するはずだが、そんなものを熟読してから利用する人は、ごく少数であろう。当然ながら運営会社に利用者の情報は登録され、運営会社は利用者間の情報交換(その中には「秘密」にしておきたい内容も含まれる)を閲覧するることができる。データも保存される。

そういった認識をもって、SNS利用者は日々利用をしているだろうか。わたしはまったくSNSを利用しないので、細かい操作性を知らないし、約款も読んだことはない。初対面の人と名刺交換をすると「TwitterのアカウントやLINEはなさっていらっしゃらないのですか」とたびたび聞かれた記憶がある。その程度にSNSの利用者は浸透している証拠だろう。わたしはメールアドレスと電話番号を他人に伝えても、さらに繋がり(しがらみ)が要求されそうなSNSでの関係など持ちたくはないし、日々どころか日に何回も自分の感情や、出来事を他人様に知らしめたいと皆目思わない。

◆無償サービスであるSNS事業は本当に社会的なインフラストラクチャーなのか?

ただでも街中に監視カメラがくまなく設置され、都市部ではトイレ以外では、ほぼどこにいても監視カメラで勝手に姿を撮影される。この時代に、わざわざ考えていることや、感情の起伏を発信しなければならない理由が、わたしにはない。LINEは連絡網のような機能の利便性が高いらしく、個人から商店、企業から、はては官公庁までが利用しているそうだ。でも、利用者の皆さんは、利用約款を読んだことがおありであろうか。

個人や企業の利用は、置いておくとして、官公庁が私企業の提供する無料サービスを、かくも無防備かつ無前提に利用することに問題はないのだろうか。私企業であるから、業績が傾けば当然業務の停滞や、倒産だってあり得るし、マーケットとしての旨味がなければ、サービスの撤退だって他国では現実に起こっている。SNSではないが、みずほ銀行の度重なるトラブルを見ていれば、システムの危うさは理解されよう。無償サービスであるSNSを、社会的なインフラストラクチャーのように捉えるのは、危険すぎる。

◆「愚行」を増殖させるSNS依存症

そして何よりの落とし穴は、SNSは強度の「依存性」を帯びていることである。個人の利用者でTwitter中毒になり、生活が歪んでしまったひとを少なくない数みてきた。中には自死してしまった人もいる。人間の生育を阻害することしか頭にない文科省は、この危険なSNSを含むPCならびにネット利用教育を小学校から行うという。このような政策を「愚行」と呼ぶ。Twitter依存症になると、感情の制御ができなくなり、攻撃的言辞を容易に発信してしまう傾向がある。

必要のないかたは、SNS使用を控えることをお勧めする。

▼田所敏夫(たどころ としお)
兵庫県生まれ、会社員、大学職員を経て現在は著述業。大手メディアの追求しないテーマを追い、アジアをはじめとする国際問題、教育問題などに関心を持つ。※本コラムへのご意見ご感想はメールアドレスtadokoro_toshio@yahoo.co.jpまでお寄せください。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号
『NO NUKES voice』Vol.27

福岡5歳児餓死事件で浮き彫りになった事件報道の変容 片岡 健

小さな息子を餓死させた母親は事件前、一緒に逮捕された「ママ友」に洗脳され、離婚に追い込まれたり、多額の金をだまし取られたりしていたという。福岡県篠栗町で起きた5歳児餓死事件について、テレビでは先日来、そんな禍々しい事件内容が大々的に報道されてきた。

[左]『週刊新潮』2021年3月18日号(一部修正)/[右]『女性セブン』2021年3月25日号

一方、大手週刊誌の報道状況を調べたところ、現時点でこの事件を報じたことが確認できたのは週刊文春、週刊新潮、女性セブン、女性自身、週刊女性の5誌にとどまった。週刊現代、週刊ポスト、サンデー毎日、週刊朝日、FRIDAY、FLASHについては、この事件を伝える記事の掲載を確認できなかった。

ひと昔前であれば、大手週刊誌がどこも現地に記者を送り込み、派手な取材合戦を繰り広げたことは確実な事件だが、今回そうなっていない事情は明白だ。本の売れないご時世、大手週刊誌といえども、記者を地方取材に行かせる予算を捻出しづらくなっているのだ。

ただ、大局的に見ると、こうした出版業界の窮状は事件報道を悪くない形に変えつつある。

『女性自身』2021年3月23・30日号(一部修正)

◆地方取材が減った一方、増えてきた面会取材と裁判取材

というのも、ひと昔前であれば、どんな大事件でもメディアが騒ぐのは事件発生当初や被疑者の逮捕当初だけで、裁判段階には報道量が激減するのが一般的だった。とくに週刊誌はその傾向が顕著だった。しかし、現在の週刊誌は地方の大事件を発生当初から現地で取材することが減ったぶん、被告人本人に面会したり、裁判を傍聴して書かれる記事が増えているのだ。

たとえば、最近だと、相模原大量殺傷事件と座間9人殺害事件では、植松聖、白石隆浩の犯人両名と面会したり、裁判を傍聴したりした報道が多く見られた。とくに「金を払わないと取材は受けない」というスタンスだった白石については、新聞、テレビが二の足を踏む中、殺人犯に取材謝礼を払うことをいとわない週刊誌が面会取材でリードしていた。

あえて教科書的に言えば、事件報道の最大の意義は「権力監視」なので、権力と対峙した被疑者(被告人)本人の言い分を聞ける面会取材や裁判取材は本来、事件報道のクライマックスとなるべきものだ。従来の事件報道はそうならず、捜査機関の情報に依拠せざるをえない事件発生当初や被疑者の逮捕当初の報道が中心だったのだが、皮肉にも出版業界の窮状により教科書的な事件報道が増えてきているわけである。

『週刊女性』2021年3月30日号(一部修正)

私が先日、当欄で記事(http://www.rokusaisha.com/wp/?p=38283)を配信した講談社元編集長の「妻殺害」事件にしても、週刊誌のネット版が裁判の控訴審の情報を伝えた記事も参考にしている。これほど注目度の高い事件でも、ひと昔前であれば週刊誌が裁判を控訴審までフォローしたとは思いがたく、私があの記事を書けたのも出版業界の窮状のおかげかもしれない。

私自身、取材では常に経費のことが悩ましい問題だが、取材経費が乏しいからこそ新しい取材手法を思いつくこともある。本が売れないのは仕方のないことで、以前のように本が売れる時代はもう戻ってこないだろうが、それは変革のチャンスでもあるのだろうと思う。

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

タブーなき月刊『紙の爆弾』2021年4月号
『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

《NO NUKES voice》長崎大学原爆後障害医療研究所の高村昇教授は、福島・双葉の「伝承館」館長として、何を「伝承」させようとしているのか

翌日に「3・11」を控えた10日、その人は大凧揚げに興じていた。

新潟県三条市から駆け付けた凧揚げ職人が強風で苦労する中、軍手を借りて太いロープをつかむ。凧が上昇気流に乗って大空に舞い上がる。凧に書かれていたのは「伝承」の二文字。笑顔で青空を見上げていた人物こそ、「東日本大震災・原子力災害伝承館」(以下、伝承館)の館長、高村昇氏だった。

伝承館が2020年9月に開館してから半年が経つ。菅野典雄氏は15日に行った講演で「テレビや雑誌などでずいぶんと話題になっていたので来てみたが、大変素晴らしい。いろいろな意見に惑わされないように頑張って欲しい」と称賛してみせた。だが、開館前から疑問や批判の多い施設だ。

その一つが、高村氏の館長就任。

1993年に長崎大学医学部を卒業した高村氏は、2013年度から長崎大学原爆後障害医療研究所の教授を務めている。原発事故直後の2011年3月19日、山下俊一氏とともに福島県の「放射線健康リスク管理アドバイザー」に就任。福島県内各地を巡って講演し、次のように語った。

「100ミリシーベルトを下回る場合、現在の科学ではガンや疾患のリスクの上昇が証明されていない。一方、煙草を吸う人のガンになるリスクは、1000mSvの放射線を被曝するのと同程度のリスクと考えられている」

「鼻血が止まらなくなったとか、同じような質問をよく受けます。そのような急性の症状が出現する被曝線量は500から1000mSv以上と言われています。福島の人がそのような線量を被曝しているとは考えられないので、放射線の影響ではないと思う」(公益財団法人福島県国際交流協会発行の講演録より)

2013年6月の第11回委員会からは、福島県の「県民健康管理調査」検討委員も務めている。復興庁が2018年3月に発行した冊子「放射線のホント~知るという復興支援があります。」では、「作成にあたり、お話を聞いた先生」に名を連ねている。冊子は「原発事故の放射線で健康に影響が出たとは証明されていません」と断言している。

凧揚げに興じる高村昇館長。原発事故発生直後から山下俊一氏とともに被ばくリスクを否定し続けている

そもそも、博物館や「アーカイブ」の専門家では無い。その上、事故発生当初から放射線被曝のリスクを否定し続けている。しかし、福島県の担当者は選定理由をこう説明した。

「考え方に偏りが無い、人格的に温厚で高潔な方である。これが1つ目の理由です。もう1つは本県の復興、避難地域等の支援に関わってこられた方であるという事です。そして、伝承館の運営に必要な能力を持っている方であるという事。これらの3点が推薦理由です。検討過程で何人かの名前が候補に上がりましたが、最終的に高村先生が適任だろうという結論に至りました。高村先生には数カ月前に推薦の打診をし、『ご協力出来るのであれば』と快諾していただきました」

そうして初代館長に就任する事になった高村氏は、福島県の内堀雅雄知事を表敬訪問した際、囲み取材で筆者にこう答えている。

「ご指摘の通り、私自身はいわゆるアーカイブを専門としているわけではございません。それは事実。しかし、この伝承館の1つの主眼というのが、原子力災害からの復興に関する資料収集という目的がある。それを展示する。収集して展示して情報発信するという目的がある。原発事故直後の説明会から、地域の復興、県民健康調査もそうですが、そういった形で原子力災害からの復興に多少なりともかかわった人間としてですね、そういった側面から伝承館の館長としての役割を果たしていきたいと考えています」

「私も最初、この依頼があった時はかなり驚きました。まさに今おっしゃったとおり、私はアーカイブの専門家ではありませんので、自分で良いのかなと確かに思いました。ただし、今言ったように伝承館というのは原子力災害からの復興という事を主眼としていると聞きましたので、それであれば、この9年間福島で地域の復興に携わってきた者としてお手伝い出来る事があるんじゃないかと考えました」
果たして「復興PR館」と化した伝承館は、展示スペースの3分の1が「復興」と「イノベーションコースト構想」に割かれた。だから、来館者から不満の声が上がるのも必然だった。

凧には「伝承」と書かれていた。だがしかし、今の展示内容では原発事故被害の実相は伝わらないとの指摘は多い

館内に置かれたノートには「子どもの健康を考えて自主避難している人もいます。復興だけではなく、まだまだ復興できていない部分も伝えることが、この館の役目かと思いました」、「誰に何を伝えたいのか。教訓は何なのか分からなかった。もっとできることは多いと思う」、「この建物は『原子力被害伝承館』ではなかったの?」、小学校5年生の時に、栃木県と福島県の境で原発事故の被害を受けました…展示は正直、大大大落胆でした…なんできちんと見せてくれないのですか?」など厳しい書き込みも多い。いまだ避難を強いられている人たちの多くは「あんな所、見に行ったってしょうがない」と口にする。

50億円超の金を出した国も、都合の悪い事には言葉を濁す。平沢勝栄復興大臣は昨年11月の記念式典に出席した際、筆者の質問に「これは福島県のあれなんで、福島県の方でこれから展示物のやり方、内容等についてはこれからしっかり検討して行かれる事と思います」と投げ、この展示内容で原発事故被害の実相が伝わると思うか、との問いにも「それは福島県の方で御判断されるだろうと思いますけどね」と言い放つばかりだった。

凧上げがひと段落した後、高村館長に声をかけると「『復興のあゆみを伝える』という役目は変わらない? そうですね、はい」と答えた。

「福島イノベーションコースト構想」のPRには大きなスペースを割く。一方、避難指示区域外も含めた原発避難者の苦悩や怒り、哀しみを伝えようとする努力は感じられない

伝承館の入り口に設置されたモニターには、こんな言葉が映し出されている。
「この東日本大震災・原子力災害伝承館は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所事故による災害の記録と記憶を後世に伝えるとともに、復興に向けて力強く進む福島県の姿や国内外からいただいたご支援に感謝する思いを発信していく施設です」

「記録」、「記憶」、「伝える」、「福島県の姿」、「感謝」は赤い字で書かれている。しかし、区域外避難者も含めて避難者の想いや、様々な葛藤を抱きながら福島県内で暮らす人々の苦悩など伝わらない。何を「伝承」するのか。考え直さないと本当に「53億円のハリボテ」で終わってしまう。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

『NO NUKES voice』Vol.27
紙の爆弾2021年4月号増刊

[グラビア]
3.11時の内閣総理大臣が振り返る原発震災の軌跡
原発被災地・記憶の〈風化〉に抗う

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《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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[報告]菅 直人さん(元内閣総理大臣/衆議院議員)
日本の原発は全廃炉しかない
原発から再エネ・水素社会の時代へ

[報告]孫崎 享さん(元外務省国際情報局長/東アジア共同体研究所所長)
二〇二一年 日本と世界はどう変わるか

[講演]小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)
六ケ所村再処理工場の大事故は防げるのか
   
[報告]おしどりマコさん(芸人/記者)
東電柏崎刈羽原発IDカード不正使用の酷すぎる実態

[対談]鎌田慧さん(ルポライター)×柳田真さん(たんぽぽ舎共同代表)
コロナ下で大衆運動はどう立ち上がるか
「さようなら原発」とたんぽぽ舎の場合

[報告]大沼勇治さん(双葉町原発PR看板標語考案者)
〈復興〉から〈風化〉へ コロナ禍で消される原発被災地の記憶
   
[報告]森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
「被ばくからの自由」という基本的人権の確立を求めて

[報告]島 明美さん(個人被ばく線量計データ利用の検証と市民環境を考える協議会代表)
10年前から「非常事態」が日常だった私たち

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈11〉
避難者にとっての事故発生後十年

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
原発事故被害の枠外に置かれた福島県中通りの人たち・法廷闘争の軌跡

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
コロナ収束まで原発の停止を!
感染防止と放射能防護は両立できない

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
柏崎刈羽原発で何が起きているのか

[報告]板坂 剛さん(作家・舞踊家)
新・悪書追放シリーズ 第1弾 
ケント・ギルバート『強い日本が平和をもたらす 日米同盟の真実』

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
コロナ禍の世界では想像しないことが起きる

[書評]横山茂彦さん(編集者・著述業)
《書評》哲学は原子力といかに向かい合ってきたか
戸谷洋志『原子力の哲学』と野家啓一『3・11以後の科学・技術・社会』

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈11〉 人類はこのまま存在し続ける意義があるか否か(下)

[読者投稿]大今 歩さん(農業・高校講師)
「核のごみ」は地層処分してはいけない

[報告]市原みちえさん(いのちのギャラリー)
鎌田慧さんが語る「永山則夫と六ケ所村」で見えてきたこと

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
コロナ下でも工夫して会議開催! 大衆的集会をめざす全国各地!
《全国》柳田 真さん(たんぽぽ舎、再稼働阻止全国ネットワーク)
三月の原発反対大衆行動──関西、東京、仙台などで大きな集会
《女川原発》舘脇章宏さん(みやぎ脱原発・風の会)
民意を無視した女川原発二号機の「地元同意」は許されない!
《福島》橋本あきさん(福島在住)
あれから10年 これから何年? 原発事故の後遺症は果てしなく広がっている
《東海第二》阿部功志さん(東海村議会議員)
東海第二原発をめぐる現状 
原電、工事契約難航 東海村の「自分ごと化会議」の問題点
《東京電力》渡辺秀之さん(東電本店合同抗議実行委員会)
東電本店合同抗議について―二〇一三年から九年目
東電福島第一原発事故を忘れない 柏崎刈羽原発の再稼働許さん
《規制委・経産省》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク/経産省前テントひろば)
新型コロナ下でも毎週続けている抗議行動
《高浜原発》木原壯林さん(老朽原発うごかすな!実行委員会)
関電よ 老朽原発うごかすな! 高浜全国集会
3月20日(土)に大集会と高浜町内デモ
《老朽原発》けしば誠一さん(杉並区議/反原発自治体議員・市民連盟事務局次長)
大飯原発設置許可取り消し判決を活かし、美浜3号機、高浜1・2号機、東海第二を止めよう
《核兵器禁止条約》渡辺寿子さん(たんぽぽ舎ボランティア、核開発に反対する会)
世界のヒバクシャの願い結実 核兵器禁止条約発効
新START延長するも「使える」小型核兵器の開発、配備進む
《読書案内》天野恵一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
山本行雄『制定しよう 放射能汚染防止法』
《提案》乱 鬼龍さん(川柳人)
『NO NUKES voice』を、もう100部売る方法
本誌の2、3頁を使って「読者文芸欄」を作ることを提案

私たちは唯一の脱原発雑誌『NO NUKES voice』を応援しています!

格闘群雄伝〈15〉斉藤京二──黒崎道場で培った忍耐で新たな時代へ挑戦するキックの申し子

◆新人時代

斉藤京二(1955年12月1日、山形県西置賜郡小国町出身)は、昭和のテレビ放映時代から平成初期まで幾多の苦難を乗り越えながら名勝負を展開した、オールドファンの記憶に残る名チャンピオンである。

キックボクシングを始める切っ掛けは、テレビで観たスーパースター沢村忠を倒すことを目標として全国から上京し、ジム入門を果たした若者が多かった時代の一人でもあった。
     
知人に、沢村忠の所属する目黒ジムに対抗する強いジムはどこかを尋ねて、目白ジムの存在を知り、20歳の夏、1976年(昭和51年)7月に上京すると翌日には目白ジムに入門した。

だが、キックボクシング業界の仕組みを知らない者でもやがて気が付くのが、目黒ジムと目白ジムは加盟する団体が違い、通常対戦する機会は無いことを知ることとなった。

「残念でした、もう遅いよ!」と友人なら笑える事態も心機一転、目標を同じ全日本系の偉大なるチャンピオン藤原敏男に定め、厳しい練習に耐える日々が続いた。
入門当時の目白ジムは、先輩の指導も厳しいのは当然として、黒崎健時先生がジムに現れるとジムの空気が一変したという。先輩達もピリピリしていたその威圧感に驚き、皆この環境下で強くなったんだと悟った斎藤は、初めは島三雄先輩からまず構えとワンツー、ローキックから教わり、入門一週間程経った頃、先輩達とのマススパーリングをやらされ、太腿を蹴られて真っ赤に腫れ、脚を引きずりながら帰る日々が続いたという。

この悔しさで、「早く強くなって必ずやり返すんだ!」と自分に言い聞かせながら、一日も休まず練習に通った頑張りを認められて同年9月11日、入門から一ヶ月半でデビュー戦を迎えた。

「技術は全く無く勢いだけでしたが、KO勝利出来たあの時の快感は今でも忘れられず、練習がキツくても試合で良い結果が出た時の達成感は、何物にも変えられない喜びでした。」と語る。

変則ファイター内藤武に左フックを合わせる(1983.5.28)

◆試練続きの現役生活

デビュー戦から5戦5勝(5KO)し、ランキングが上がるとなかなか倒せずも10戦超えまで連勝は続いた。当然“ポスト藤原敏男”と期待は高まる中、1981年(昭和56年)5月30日には、意外にも早く藤原敏男との同門対決が実現した。第2ラウンドに斎藤のローキックから隙を突いた右フックで藤原敏男はノックダウン。タオル投入によるあっけない幕切れながら新スター誕生となった瞬間であった。

藤原敏男を倒した男という注目度が増したところで、ここからが本当の試練が始まった。1982年7月9日にはヤンガー舟木(後の船木鷹虎/仙台青葉)と引分けるも、ハイキックで顎を砕かれる重傷。手術で口が開かないよう上歯茎と下歯茎を糸で縛られ、歯の間から流動食という日々を6週間も送った。

この負傷で同年秋に始まった1000万円争奪オープントーナメントには出場辞退となったが、1984年5月26日、オープントーナメント62kg級優勝の長浜勇(市原)に右ストレートで2ラウンドKO勝利。それまでにも内藤武(士道館)やレイモンド額賀(平戸)、日本系の実力者、河原武司(横須賀中央)、千葉昌要(目黒)に勝利と交流戦には恵まれるもタイトルマッチは停滞した時代で、なかなかチャンピオンベルトには縁が無かった。

しぶといレイモンド額賀を逆に翻弄、TKO勝利する(1984.1.28)
事実上の頂点、長浜勇を倒し、実力を証明(画像はKO前、この後にKO)(1984.5.26)

統合により業界が再浮上した後の1985年5月17日には、三井清志郎(目黒)との打ち合いで左頬骨陥没の重症。この年の3月、飛鳥信也(目黒)に判定勝利して得た、長浜勇が持つ日本ライト級王座への挑戦権は棄権せざるを得なかった。デビュー10年目でやがて30歳。2度目の顔面骨折。周りは「斎藤は終わった!」と囁かれる中、見舞いに来た後輩には「クソ、このままで終ってたまるか、怪我を治して絶対に上を目指す!」と語気強く再起を誓っていたという。

ここに至るまでにも別の苦難があった。斎藤京二が所属する黒崎道場(1978年に目白から名称変更)は、藤原敏男が引退興行を行なった1983年6月17日で事実上閉鎖となっていた。

その決定からすでに小国ジム開設が計画されており、この翌日から斉藤京二後援会会長であった矢口満男氏がジム会長となり、移籍した選手をマネージメントされていた。実際はジム建屋は無く、公園や路地での練習や、他のジムを間借りする肩身の狭い日々を3年あまりも送ったが、現役生活を続けながらの建屋計画は後援会の協力もあって1986年10月、板橋区中台にようやくバラック小屋ながらもジムが完成。そこから充実した練習で同年11月24日、一度引分けで逃した甲斐栄二(ニシカワ)が持つ王座を4ラウンドKOで念願の日本ライト級王座に就いた(第3代MA日本)。
翌年4月19日、飛鳥信也に再度判定勝ちし初防衛のあと、斉藤にまた新たな試練がやって来た。

念願の日本ライト級王座獲得、甲斐栄二を倒す(1986.11.24)

◆エース格として、常に上を目指す戦い

1987年5月、復興した全日本キックボクシング連盟に移ったジムの中、小国ジムもその一つだった。斎藤京二は認定による第5代全日本ライト級チャンピオンとして連盟エース格。これまでにない若い世代の石野直樹(AKI)、小森次郎(大和)、杉田健一(正心館)の挑戦を受けての3度の防衛と3度のWKA世界王座挑戦(王座決定戦含む)を経験。後楽園ホールでロニー・グリーン(イギリス)、フランスでリシャール・シーラ、オランダでトミー・フォンデベーといずれも敗れたが、常に上位を目指した挑戦はエース格に相応しい軌跡を残した。

[左]王座獲得後のチャンピオンベルト姿撮影(1987.1.25)/[右]飛鳥信也を下し初防衛(1987.4.19)

1990年11月23日、元・タイ国ラジャダムナン系ジュニアフェザー級チャンピオン、マナサック・チョー・ロッチャナチャイにローキックで散々足を攻められ、5ラウンドTKOで敗れたことで引退を決意。試合で負けると毎度「クソ、今度は絶対に倒してやる!」という悔しさ満々だったが、その燃える気持ちがだんだん薄れてしまったという気力低下が要因だった。かつての激戦を経た対戦相手らのほとんどはすでに引退しており、闘志が薄らぐのも止むを得ない時代の流れであった。そして1991年5月26日、功績を称えられ、日本武道館で華々しく引退式を行なった。

心残りは、日本人の誰もが勝てなかった全米プロ空手(WKA)で長く世界王座に君臨したベニー・ユキーデや、分裂によって対戦の機会を失ったが、元・日本ライト級チャンピオン須田康徳(市原)と戦いたかったという。ファンも期待した昭和時代に残されてきた期待のカードでもあった。

[左]全日本キックに移っての初防衛、若い石野直樹を倒した(1988.1.3)/[右]全日本キックでは国際戦が多かった、ジョアオ・ビエラに判定勝利 (1988.7.16)
小国ジム新会長就任パーティーにて、抱負を語る斎藤京二氏(1992.2.9)

◆引退後もなお新たな挑戦

引退後は小国ジム新会長に就任(矢口満男氏は名誉会長へ)し、自身が受けられなかったタイ人コーチの指導を若い選手に受けさせてやろうとタイからコーチを招聘し、1995年1月には立地条件と練習設備向上を目指し、現在の豊島区池袋本町にジムを移転した。

1996年8月、ニュージャパンキックボクシング連盟を設立した藤田真理事長と共に興行運営に力を注ぎ、後の2007年1月には藤田理事長の任命を受け新理事長就任。

2008年にはJPMC山根千抄氏が掲げたWBCムエタイ日本実行委員会発足に賛同し、「プロボクシングの世界組織の在り方に非常に羨ましくもあり、キックボクシングもこうならなければならない。」という理想を持って、これまでにない組織運営に乗り出した。

2018年末、若い会長との世代交代として連盟理事長を勇退したが、2019年5月1日、新たに発足したWBCムエタイ日本協会長に就任し、より一層体制を整え「キックボクシングが、社会的に認知されるスポーツ組織として未来永劫続くよう運営していく。」と抱負を語る。

小国ジム(2003年6月、OGUNIに改名)は当初、黒崎イズムを継承するジムとして入門して来る選手が多かった。ソムチャーイ高津もその一人である。斎藤京二氏の現役時代、練習時や試合前は誰もが近付き難い黒崎道場独特のピリピリした威圧感があったが、引退後は人が変わったようにニコニコ笑顔の穏やかな人柄で、これが本来の斎藤さんだったのかと驚くほどムードも変わったが、タイ人コーチによる指導も成果を出し、10名あまりのチャンピオンを誕生させてきた。

現在は多くのプロモーターが独自の開催するビッグイベントが増えた中、WBCムエタイの権威向上へ舵取りが注目される斎藤京二氏である。

時代は移り変わりNJKF理事長を勇退、坂上顕二新理事長より花束が贈られる(2019.2.24)

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

岸政彦よ!「カウンター大学院生リンチ事件」を忘れるな!── 売出中の社会学者にとっての「記憶」とは? 鹿砦社特別取材班

◆岸政彦の対談記事に対する違和感

朝日新聞3月17日夕刊に売出中の社会学者・岸政彦と、芥川賞受賞作家・柴崎友香との共著による新刊『大阪』の出版について対談が掲載されています。

朝日新聞3月17日夕刊

岸いわく、「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」だそうです。

岸は、鹿砦社が取材を続けた大学院生リンチ事件の発生当時、その加害者の一人である似非反差別主義者・李信恵の「裁判を支援する会」の事務局長を務めていました。正式名称「李信恵さんの裁判を支援する会」は、広く市民からカンパを募り運営されていたようです。ところが同会は大金を集めながら未だに会計報告を公表していません。一般的に運動団体の事務局長といえば、経理面の責任も含め会の全般的な責任者です。

 
『反差別と暴力の正体』表紙

また岸は、事件直後、「コリアNGOセンター」による李信恵らの事情聴取にも立ち会っています。このような事実から岸は立場上、リンチ事件の詳細を熟知していると推認されます。鹿砦社特別取材班は、岸がリンチ事件について、どう考えているかを聞こうと、岸が当時勤務していた龍谷大学の研究室を訪ね、直接取材を行いました。

岸は取材班の質問に、ほとんど答えず逃げ回るだけでした。その様子は第2弾本『反差別と暴力の正体』(2016年11月17日発行)に掲載されています。本稿に取材時の画像を数枚掲載しておきます。その姿には、毅然とした知識人の矜持など見られません。岸は日々ツイッターで日々の出来事や思ったことなどを発信していますが、直接取材の日は、おそらく彼にとって重大事(少なくとも非日常的出来事)だったはずにもかかわらず、何もツイートしていません。

鹿砦社との民事訴訟における李信恵の本人尋問によれば、「取材班の直接取材が原因で岸は事務局長を辞めた」とのことですが、取材班の質問に対して岸は「今は事務局長をやったりやらなかったり……ちょっとややこしいんです」と答えていました。対外的に「事務局長を辞めた」とは告知されていませんので、多くの人たちは、岸が李信恵の対在特会らに対する訴訟の事務局長を最後まで務めたと思っているでしょう。

その後、岸は小説が芥川賞候補になるなど、著書も相次いで出版。龍谷大学から立命館大学に職場も移り、関西における社会学者の世界でも有力な地位を得ています。また「朝日文化人」として紙面にたびたび登場したり順風満帆です。

取材班の直撃取材に逃げ回る岸政彦
逃げ回る岸政彦
逃げ回る岸政彦
 
リンチ直後の被害者大学院生M君

一方、リンチ被害者M君は、訴訟では、勝訴したとはいえ、長い裁判闘争にもがき最低の賠償金額に抑えられ、関西では、その名を知られ教職を目指そうにもうまくいかず(地方の大学の職が決まりかけていましたが直前で断られています)物心両面にわたり苦境にあります。岸に研究者や作家としての誠実さや良心があるのならば、凄絶なリンチの様々な後遺症に苦しむM君に真正面から向き合うべきでしょう。そうではないですか? 私の言っていることは間違っていますか? 

「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」と、平然と述べる岸。であれば、われわれはあらためて岸に聞き質さねばなりません。

われわれが取材を重ねたリンチ事件は社会的な事件でした。事件そのものが社会性を帯びている上に、岸の解釈によれば「記憶というものは『公共のもの』でもある」そうですから、岸には個人としてだけではなく「公共のもの」としての「記憶」が残されているはずです。岸にとっては隠蔽し忘れたいことかもしれませんが、受けた傷の深さに苦しむM君には終生忘れることはできません。あらためてリンチ直後のM君の顔写真を見よ! 事件の「公共」性に鑑みれば、岸に研究者や作家である前に人間としての〈良心〉があるのかどうか、問いたいと思います。岸が、われわれの問いから逃避しようとしても、それは許されませんし、われわれが許しません。であるならば、みずからの「記憶」をすべて晒け出すべきです。それが、知識人としての存在理由(レゾンデートル)ではないでしょうか?

◆「しばき隊」「カウンター」内部に何が起きているのか?

ところで、「しばき隊」、「カウンター」の源流となった「反原連」(首都圏反原発連合)が、本年3月で活動を休止するということです。それはそれでいいとしても、あろうことか反原連は活動休止のために500万円の資金カンパを募り、ほぼ目標額を集めたようです。“休止のためのカンパ”が、ミサオ・レッドウルフら反原連幹部によって、どのように使われるのか、しかと注視しておいたほうがいいでしょう。社会活動を進めるためのカンパなら理解できますが、活動をやめるためにカンパを募るというのは聞いたことがありません。不自然な感が否めませんが、ミサオら反原連幹部の退職金にでもするのでしょうか?

また、反原連の初期からのメンバーで、この成功から「しばき隊」「カウンター」を始めた野間易通が「さようなら、カウンター」と題する記事を公にしました。そろそろ嫌気がさしてきたのか!? 百戦錬磨で稀代の曲者の野間の本心が奈辺にあるのか、しばらく様子を見ないとわかりません。

さらに、前述の2件も含め、くだんのリンチ事件にも連座した、「しばき隊」の中心メンバーにしてスポンサーの伊藤大介による暴行傷害事件などが表面化し、「しばき隊」「カウンター」界隈に何かが起きているようで、このところ肝心なことには口を閉ざし静まり返っています。伊藤の裁判は大阪地裁で行われるのかと思っていましたが、関東でも暴力事件を起こしているらしく、これら2件を併合して横浜地裁で行われるようです。これまでの彼らの裁判であれば、散々騒ぎ裁判期日になれば動員を図るのが普通でしたが、まったく音沙汰がありません。おそらく内部に深刻な“不都合な真実”があるものと思われます。

くだんのリンチ事件といい、沖縄に、まさに“鉄砲玉”として送られ逮捕され精神を病んだとされる、「しばき隊」内武闘派のトップだった高橋直輝こと添田充啓の不審死といい、そして直近の伊藤大介暴行傷害事件など、みずからにとって不都合なことはことごとく隠蔽する態度──これらは岸が語った「記憶というものは『公共のもの』でもありますから」とのテーゼにまったく反するものです。岸のこの論をわれわれは100%首肯するものではありませんが、一面の真理を捉えているとはいえるでしょう。

さらにもうひとつ、先般出版した『暴力・暴言型社会運動の終焉』には、彼らにとって“不都合な真実”が少なからず掲載されていますが、これまでであれば「デマ本」「クズ本」等と罵倒してきたところ、今回はまったくスルー、無反応です。しかし同書の売り上げは、このシリーズの中でも際立っています。

伊藤の暴行傷害事件は、李信恵と鹿砦社の民事訴訟の尋問の後に起きました。女王・李信恵が出廷し尋問に晒されるというのですから、傍聴席に多数動員してくるのかと思っていた所、李信恵側の傍聴者は伊藤と通称「もじゃ」こと河上某だけでした。尋問が終わり夕方には伊藤、李信恵らは夕食を兼ねて飲食をしているところをSNSで発信しています。極右活動家・荒巻靖彦に対する暴行傷害事件の現場には伊藤ともう一人いたとのことですが、それが河上某なのか別の者なのか、このことを含め情報が錯綜していますが、刑事事件の捜査はわれわれの守備範囲ではありません。今後の裁判の場で明らかになるのを待ちましょう。

しかし、直前まで一緒にいた李信恵には説明責任があります。

われわれの予見通り、伊藤による暴行傷害事件は、多くの活動家、シンパらの離反を呼び、「しばき隊」「カウンター」崩壊への大きな動因になるでしょう。

◆社会的な実害と、座視できない〈負の遺産〉について

原理原則なき烏合の衆の暴走。「反原発」「反差別」「沖縄」「性差別」……。ターゲットの流転を重ねてきた彼ら・彼女らの活動はいずれも混乱を起こし、いくつかのテーマは活動を終えています。「沖縄」問題はどうなったのでしょう?「反原発」も活動休止です。「反差別」も「性差別」も、彼らが暴力・暴言を採り入れることで真面目な活動家から顰蹙を買っています。個々の問題に従前より関わり、またみずからの存在にとって避けて通ることのできない人たちには、突然首を突っ込んできた烏合の衆の「正義の暴走」は、迷惑以外の何物でもありません。

ところが連中の活動は、全国ネットのテレビ局や大手新聞社まで巻き込んでしまいました(この日の朝日新聞に顕著なように)。市民運動・活動を地道に続けてきた人々にとって、連中は害悪以外の何物も生み出すことはありませんでした。

われわれはこれまで「大学院生リンチ事件」を契機に、その発生源となった「しばき隊」「カウンター」と自他称される人々の行動や発信を取材し報告してきました。彼ら・彼女らの瓦解は当然の帰結でしたが、連中が残した〈負の遺産〉の大きさは、近い将来多くの人々に認識されるようになるでしょう。「ヘイトスピーチ解消法」は「言論弾圧法」の礎として作用するでしょう。また理念なき運動体を、目前の選挙を勝ち抜く道具として利用した結果、さらなる政治不信を招いた一部政党の罪も大きいといわざるをえません。

「しばき隊」「カウンター」は21世紀、日本全体がファシズムめく流れの中にあって、無視することのできない動きを、権力になり代わり果たしてきた、とわれわれは考えます。岸のテーゼが図らずも岸を含む連中の本質を射てしまいました。鹿砦社と特別取材班は、取材を続行しつつも、彼ら彼女らがどうして現われ、なぜ、あたかも時代の寵児のように扱われたのか。なにゆえ大手マスコミ・知識人・政治家から広告代理店までを騙し通せたのか。それらは、すぐれて社会的な課題です。泉源を解明することは、この時代の解析と、リンチ事件被害者の救済にもつながるでしょう。鹿砦社と特別取材班はその視点から考察を進める所存です。(本文中敬称略)

*対李信恵訴訟一審不当判決に対する控訴審について大阪高裁に「控訴理由書」を提出しましたが、後日あらためてご報告いたします。

『暴力・暴言型社会運動の終焉』

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62

《NO NUKES voice》被ばく回避とコロナ感染防止は両立できないはずが…… 関電7基の原発運転差し止め仮処分申し立てを大阪地裁が却下 尾崎美代子

3月17日、大阪地裁(内藤裕之裁判長)は、昨年5月18日、福井県、大阪府、兵庫県、京都府に居住する6名が申し立てた、新型コロナウイルスが収束するまで福井県の7つの原発を止めよとの仮処分の申し立てを却下した。決定は、避難計画の不備だけでは、原発差し止めの理由にならないと判断したが、弁護団は緊急声明で以下のように反論と抗議を行った。

大阪地裁の不当決定を受けて

「船舶安全法は救命ボート不備の時は、ほかの部分が完璧でもその船舶の運航を禁止し、航空法は、脱出シュート、酸素吸入器不備の時は、ほかの部分が完璧でもその航空機の運航を禁止している。原発は、それらよりもはるかに甚大な被害をもたらす。原発の運転に際して、万が一の事故に備える避難計画の実行性を求めないことは極めて不合理であり、人の生命、健康を軽視する判断である。避難計画に実行性がない場合はそれのみで原発の運転を禁止すべきことは、上記船舶安全法、航空法の精神から明らかである。(中略)本件決定が、福島原発事故を経験してもなお、住民らの命、健康に直結する避難計画の実行性の判断から逃げたことは決して許されるものではなく、強く抗議する」。

申し立て人の菅野みずえさん(左)と水戸喜世子さん

◆被ばく回避とコロナ感染防止は両立できない

今回の仮処分の申し立ては、コロナウイルスの感染拡大の危険性のみを争点にしていた。コロナウイルス感染拡大防止には、こまめな消毒、うがい、マスク着用、換気のほか、「密集」「密閉」「密接」の3つの「密」を避けることが重要とされている。申立人らは、コロナ禍で原発事故が起き、避難を余儀なくされた場合、放射能からの被ばく回避と、コロナの感染予防対策は両立できない、避難計画に実行性がないから止めるべきと訴えてきた。

3・11の教訓から、日本国内でも「5つの深層防護」の重要性が求められてきた。「5つの深層防護」とは、1979年アメリカのスリーマイル島事故や86年チェルノブイリ事故をきっかけに、96年IAEAが確立してきた原発の安全対策で、第1層、機器の故障・異常の発生を防止する。第2層、機器の故障・異常が発生したとしても設備などへの異常の拡大を防止し、事故に至るのを防ぐ。第3層、異常か拡大したとしても、その影響を緩和し、過酷事故に至らせない。第4層、維持が緩和できず、過酷事故に至っても、外部への放射性物質の漏出による影響を緩和する。第5層、過酷事故による外部への放射性物質の漏出による影響から、公衆の生命・健康を守る(避難計画)、というものだ。

IAEAはこれら5つの防護策の関係について「異なる防護策の独立した有効性が、深層防護の不可欠な要素である」としている。つまり「第3層で防護するから第4層は心配しなくてよい」と考えたり、過酷事故にならないから避難の計画をしなくてよいと考えるのは間違いで、逆にいえば、避難が安全にできないなら、それだけで原発は止めなければならないということだ。

大阪地裁の不当決定を受けて

◆通常でも困難な「避難計画」、コロナ禍では不可能

 
決定前、地裁前の公園での集会で「老朽原発再稼働を許すな」と訴える木原壯林さん

通常の原発事故での避難でも、計画通りに進まないことは、3・11の経験からも明らかだ。申し立て人の一人、福島県浪江町から兵庫県に移住してきた菅野みずえさんは、事故当日、大熊町の職場から自宅まで、普段車で45分の道のりを約3時間30分かかったこと、避難所では自分の布団と隣の人の布団の端が折り重なるほど密状態だったと話された。そこにコロナ対策が加わるのだ。

昨年6月内閣府が出した「新型コロナウイルス感染拡大を踏まえた感染症の流行下での原子力災害時における防護措置の基本的な考え方について」によれば、「自宅などで屋内退避を行う場合などには、放射性物質による被ばくを避けることを優先し、屋内退避の指示が出されている間は、原則換気は行わない」とある。「自宅など」には避難所も含まれるが、大勢の人たちが集まる避難所で換気しないということは、コロナの感染拡大を進めてくれというようなものだ。

また福井県の「新型コロナウイルスに備えた避難所運営の手引き」によれば、避難所のスペースは、一般避難者には従来の2倍の約4平方メートル(2m×2m)が必要とし、その上約2メートルの通路を確保するとある。これを美浜原発が事故を起こしたと想定した場合、美浜町のPAZ及びUPZの人口37万9,446人に必要な避難所のスペースは、東京ドーム44.6個分となる。このような避難所を確保することは、事実上不可能なのだ。

◆コロナ禍での原発運転は危険がいっぱい

昨年のコロナ発生後、各地の原発で感染者が続出したが、1月24日にはついに、玄海原発でクラスターが発生し、400人の作業員が出勤停止になった。原発は通常の運転時で1日1,500人、定期検査時には3,000人もの作業員が働くが、通勤時の車両、待機場所、脱衣場、休憩室など、いずれも3密状態を強いられる。

福井県の原発には、感染者が多発する大阪などから作業員がいくことも多いが、末端の下請け業者などでは、作業員の健康管理などまともにやれてないことが多く、感染者が一人でも紛れ込めば、感染は一挙に拡大するだろう。しかも平時でなく過酷事故が起きた有事であるならば、「工事の遅れ」などでは済まされない。事故後、緊急対策室で吉田所長が大声で作業員に指示する動画を見た人も多いだろうが、コロナ禍では、ソーシャルディスタンス2メートル取った離れた場所から、唾を飛ばさないように小声で「ベント! ベント!」「注水しろ!」などと指示しなくてはならないのだ。そんなことでは、原発の暴走は止められない。しかし、コロナ対策を無視し、マスクを外し唾を飛ばしながら、大声で作業員に指示し続ければ、あっという間に作業員間にコロナが蔓延するだろう。

◆コロナ禍で原発を動かす危険性

関電の原発は、昨年末にはすべて止まっていたが、今年に入り1月大飯原発4号機が稼働し、3月7日には高浜3号機が軌道、高浜1,2号機、美浜3号機の老朽原発の再稼働が画策されている。

今回、申立書と同時に提出された意見書で、原子力コンサルタントの佐藤暁氏は、地震など自然災害が発生した際の、コロナ対策と原発事故対応の困難さを「難度の高いジャグリング」にたとえ、こう表現した。「原子力災害の被災者、自然災害の被災者、そして感染者の3個の球を、どれも地面に落とさないよう器用に回し続けなければならないのだが、少し手元が狂うとあっというまに3個とも落ちてしまう」と。

そしてこう訴える。「パンデミックも自然災害も人間がコントロールできないが、唯一コントロールできるのは原発事故のリスクであるのだから、原発をどうしても諦めないにしても、せめて手の中にすでにパンデミックという1個の球があるとき、原発事故の発生リスクを排除し、もう1個がこれに加わるのを予防するという案に合意できないか」と。

今回大阪地裁は、この合意にノーをつきつけた訳だが、そもそも福島の事故の収束もできない国が、コロナを収束できるはずもなく、最悪の事態を回避させるには、私たちが、原発を止めさす闘いを、(昨日、菅野みずえさん、水戸喜世子さんらから何度も発言されたが)地道に地道に広めていくしかないのだ。

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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《NO NUKES voice》3・11で美辞麗句を並べる東電が、被害者を愚弄し続けた10年間の軌跡 民の声新聞 鈴木博喜

嘘つき東電ここに極まれり、とも言うべき内容だった。

「2021年の3月11日を迎えて」と題した小早川智明社長名のコメント。そこには、もはや定型文になっているであろう空虚な言葉が並べられていた。

 
東京電力が3月11日に公表した社長コメント。「3つの誓い」はもはや空虚な定型文になっている

「原子力損害賠償につきましては、『3つの誓い』でお示ししている『最後の一人まで賠償貫徹』との考え方のもと、引き続き、『最後の一人まで賠償貫徹』を実現すべく、しっかりと取り組んでまいります」

これだけでは無かった。

「福島の復興に向けては、未だ避難指示が解除されていない地域や住民の方々のご帰還が進んでいない地域等が多くある中、今後も、復興の加速化に向けて積極的に取り組んでまいります」

「これからも、事故の当事者である当社が、復興・廃炉に向けた責任を果たしていく方針に変わりはありません」

「当社は、10年を区切りとせず、福島第一原子力発電所の事故を決して風化させることなく、事故の反省と教訓を私たちの組織文化に根付かせていくとともに、廃炉関連産業を活性化し、地元企業の廃炉事業への参入を一層促進するなど、福島の地域の皆さまと共に歩ませていただき、地域に根差した活動をさらに展開してまいります」

「そして、「福島の復興と廃炉の両立」に全力で取り組み、福島への責任を全うしてまいります」

公式な場で必ず口にされる「3つの誓い」。それが言葉通りに実行されていると考えている原発事故被害者などいないだろう。

実は11日の地元紙・福島民友に、こんな記事が掲載された。

「東京電力社長、3.11取材拒否 福島来県せず、訓示はオンライン」

記事は「福島民友新聞社などは東電に対し、小早川社長に当日のオンライン取材の対応を申し入れていたが、10日に『限られた時間の中、オンライン取材に応じれば報道各社への対応に差が出る』と拒否回答があった」と報じた。

公の場では「最後の一人まで賠償貫徹」と言う小早川社長(右)だが、法廷などでは原発事故被害者を愚弄し続けている

東電の企業体質が露骨に表れているが、実は「3つの誓い」を自ら足蹴にするような言葉で常に原発事故被害者を愚弄してきたのがこの10年間だった。「民の声新聞」が各地の訴訟を取材しただけでも、それは数知れないほどあった。

2016年9月の東京地裁。「南相馬20mSv訴訟」の女性原告(南相馬市原町区)は、夫の死に対する東電の対応の酷さを意見陳述で訴えた。

自宅の放射線量を少しでも下げようと、夫は自宅周辺の木を伐った。妻が持たせてくれたおにぎりを食べながら一服していると、1本だけ残っていることに気付いた。午後には血圧の薬をもらいに病院に行かなければならない。「病院に行く前に伐っちまうか」。立ち上がり、再び作業に取り掛かった夫の首に、伐ったばかりの木が落ちてきた。夫はそのまま帰らぬ人となった。享年65。2012年2月1日のことだった。

「原発事故が無ければ木を伐る必要も無かった。私は絶対に許さない」

当然、東電に賠償金を請求した。だが、東電の答えは「ご主人の死と原発事故に関連性はありません」。暮れも押し迫ってきた2012年12月に、電話一本で申請却下を告げられた。「せめて書類ぐらい出すべきだ」と迫った。原発事故のせいで夫が亡くなった事を東電に認めさせたかった。特定避難勧奨地点に指定された自宅は、2011年6月の南相馬市職員の測定で3.4μSv/hもあった。しかし、それは玄関先と庭先だけの話で、実際にはさらに高い数値も測定されていた。だから夫は木を伐ったのだ。「原発事故が無ければ…」と考えるのも当然だ。しかし、東電はそれを完全否定した。

夫の命を軽視した東電。たった1本の電話で済まされた。東電の結論は「賠償金0円」だった。書類を提出した後、何をどう審査したのか。過程も決定理由も全く分からない。

2017年7月。福島から都内に原発避難した人々が起こした訴訟で、証人として東京地裁の法廷に立った辻内琢也教授(心療内科医、早稲田大学「災害復興医療人類学研究所」所長)に対する反対尋問。東電の代理人弁護士は「原発事故がストレス度に大きな影響を与えた」という原告側の主張を否定しようと、辻内教授にこう迫った。

「”自主避難者”の中には、原発事故を受けてとっさに逃げたというよりも、自治体も冷静な対応を呼びかけている中で、事故後に時間をかけて避難するかどうかを検討し、最終的に避難をしたという人も少なくないと思う。そういう、放射線の恐怖や死の危険を感じていない人のストレス度を測る事に意味があるのか」

「中通りに生きる会」が起こした損害賠償請求訴訟では、東電は準備書面で住民たちの精神的苦痛を全否定してみせた。

「低線量被ばくの健康影響に関する科学的知見については本件事故直後より新聞報道や専門機関のホームページなどを通じて公表されて広く知られており、原告らの被ばくへの不安については、客観的な根拠に基づかない、漠然とした危惧感にとどまるものである」

「自主的避難等対象区域は政府による避難指示の対象となっていない区域であり、そこでの空間放射線量は避難を要する程度のものではなく、通常通りの生活を送るに支障のないものであり、時間の経過とともにさらに低減している実情にある」

「客観的根拠に基づかない漠然とした不安感をも法的保護の対象とすることになりかねない」

別の準備書面でも「正しい知識を得ることにより不安が解消されるという性質の不安にとどまる(客観的危険に基礎付けられない心理状態である)」、「原告は自己の判断によって避難するかどうかを決めたものであって、中通りにとどまり生活せざるを得なかったという事実は認められない」、「原告が自主的避難を巡って逡巡したとしても、そのこと自体によって、原告の具体的な法的権利・利益の侵害に当たると解することはできない」などと言い放った。

神奈川県内に避難した人々の訴訟では、「コンビニや常磐線も再開された浪江町になぜ戻らないのか」と原告に迫る場面があった。

浪江町津島地区の住民たちが起こした訴訟では、本性をむき出しにした。

「現在の状況としては、下津島の御自宅で生活が出来ない。それと、それに伴って原発事故前に行っていたような地域での、下津島での活動も出来ない。という事だと思うんですが、この点を除けば、あなたの行動や活動自体には特に制約はありません。例えば『ふるさとを失う』と言う場合、村が丸ごとダムの底に沈んでしまうという『公用収用』がある。この場合は、物理的に水面の下になってしまう。立ち入りすら出来ない。こういうケースが世の中では現実に起こっています。物理的に村が無くなってしまうという事。仮にこういうケースと比較した場合、津島地区は帰還や居住は制限されているわけですが、立ち入りは出来ている。接点が全く無くなってしまったわけでは無い…」

こうも言った。

「まだまだ高い、怖い、危険と言うが、具体的な根拠はあるのか。例えば、国際組織であるIAEA(国際原子力機関)は20mSv/年以下、3.8μSv/h以下であれば健康に影響は無いという数字を出している」

これが美辞麗句に隠された原発事故加害当事者の真の顔、本音なのだ。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

『NO NUKES voice』Vol.27 《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道

『NO NUKES voice』Vol.27
紙の爆弾2021年4月号増刊

[グラビア]
3.11時の内閣総理大臣が振り返る原発震災の軌跡
原発被災地・記憶の〈風化〉に抗う

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《総力特集》〈3・11〉から10年 震災列島から原発をなくす道
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[報告]菅 直人さん(元内閣総理大臣/衆議院議員)
日本の原発は全廃炉しかない
原発から再エネ・水素社会の時代へ

[報告]孫崎 享さん(元外務省国際情報局長/東アジア共同体研究所所長)
二〇二一年 日本と世界はどう変わるか

[講演]小出裕章さん(元京都大学原子炉実験所助教)
六ケ所村再処理工場の大事故は防げるのか
   
[報告]おしどりマコさん(芸人/記者)
東電柏崎刈羽原発IDカード不正使用の酷すぎる実態

[対談]鎌田慧さん(ルポライター)×柳田真さん(たんぽぽ舎共同代表)
コロナ下で大衆運動はどう立ち上がるか
「さようなら原発」とたんぽぽ舎の場合

[報告]大沼勇治さん(双葉町原発PR看板標語考案者)
〈復興〉から〈風化〉へ コロナ禍で消される原発被災地の記憶
   
[報告]森松明希子さん(原発賠償関西訴訟原告団代表)
「被ばくからの自由」という基本的人権の確立を求めて

[報告]島 明美さん(個人被ばく線量計データ利用の検証と市民環境を考える協議会代表)
10年前から「非常事態」が日常だった私たち

[報告]伊達信夫さん(原発事故広域避難者団体役員)
《徹底検証》「原発事故避難」これまでと現在〈11〉
避難者にとっての事故発生後十年

[報告]鈴木博喜さん(『民の声新聞』発行人)
原発事故被害の枠外に置かれた福島県中通りの人たち・法廷闘争の軌跡

[報告]尾崎美代子さん(西成「集い処はな」店主)
コロナ収束まで原発の停止を!
感染防止と放射能防護は両立できない

[報告]山崎久隆さん(たんぽぽ舎共同代表)
柏崎刈羽原発で何が起きているのか

[報告]板坂 剛さん(作家・舞踊家)
新・悪書追放シリーズ 第1弾 
ケント・ギルバート『強い日本が平和をもたらす 日米同盟の真実』

[報告]三上 治さん(「経産省前テントひろば」スタッフ)
コロナ禍の世界では想像しないことが起きる

[書評]横山茂彦さん(編集者・著述業)
《書評》哲学は原子力といかに向かい合ってきたか
戸谷洋志『原子力の哲学』と野家啓一『3・11以後の科学・技術・社会』

[報告]山田悦子さん(甲山事件冤罪被害者)
山田悦子の語る世界〈11〉 人類はこのまま存在し続ける意義があるか否か(下)

[読者投稿]大今 歩さん(農業・高校講師)
「核のごみ」は地層処分してはいけない

[報告]市原みちえさん(いのちのギャラリー)
鎌田慧さんが語る「永山則夫と六ケ所村」で見えてきたこと

[報告]再稼働阻止全国ネットワーク
コロナ下でも工夫して会議開催! 大衆的集会をめざす全国各地!
《全国》柳田 真さん(たんぽぽ舎、再稼働阻止全国ネットワーク)
三月の原発反対大衆行動──関西、東京、仙台などで大きな集会
《女川原発》舘脇章宏さん(みやぎ脱原発・風の会)
民意を無視した女川原発二号機の「地元同意」は許されない!
《福島》橋本あきさん(福島在住)
あれから10年 これから何年? 原発事故の後遺症は果てしなく広がっている
《東海第二》阿部功志さん(東海村議会議員)
東海第二原発をめぐる現状 
原電、工事契約難航 東海村の「自分ごと化会議」の問題点
《東京電力》渡辺秀之さん(東電本店合同抗議実行委員会)
東電本店合同抗議について―二〇一三年から九年目
東電福島第一原発事故を忘れない 柏崎刈羽原発の再稼働許さん
《規制委・経産省》木村雅英さん(再稼働阻止全国ネットワーク/経産省前テントひろば)
新型コロナ下でも毎週続けている抗議行動
《高浜原発》木原壯林さん(老朽原発うごかすな!実行委員会)
関電よ 老朽原発うごかすな! 高浜全国集会
3月20日(土)に大集会と高浜町内デモ
《老朽原発》けしば誠一さん(杉並区議/反原発自治体議員・市民連盟事務局次長)
大飯原発設置許可取り消し判決を活かし、美浜3号機、高浜1・2号機、東海第二を止めよう
《核兵器禁止条約》渡辺寿子さん(たんぽぽ舎ボランティア、核開発に反対する会)
世界のヒバクシャの願い結実 核兵器禁止条約発効
新START延長するも「使える」小型核兵器の開発、配備進む
《読書案内》天野恵一さん(再稼働阻止全国ネットワーク)
山本行雄『制定しよう 放射能汚染防止法』
《提案》乱 鬼龍さん(川柳人)
『NO NUKES voice』を、もう100部売る方法
本誌の2、3頁を使って「読者文芸欄」を作ることを提案

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