〈1971年〉という年は私にとって、いかなる意味を持つのか?  鹿砦社代表 松岡利康

『週刊現代』今週号(2/27・3/6号)に「1971年──今から50年前、日本人が本気で生きていた時代」という特集を掲載されている(6ページ)。

1971年──もう半世紀も経つのか。19歳から20歳になる年だった。前年70年に大学に入り2回生だった。

1968年、1969年が雑誌の特集や書籍になるのは決して珍しいことではないが、1971年が雑誌の特集や書籍になるのはほとんどない。「1971年」がタイトルになっている書籍では堀井憲一郎『1971年の悪霊』ぐらいしか思いつかないが、あらためて検索してみると、他に土谷英夫『1971年──市場化とネット化の紀元』が見つかった。まだ探せばあるかもしれないが、いずれにしろ少ないことに変わりはない。

しかし、1971年という年には、多くのことが起きている。人気GSグループ「ザ・タイガース」の解散と沢田研二のソロデビュー、尾崎紀世彦『また逢う日まで』や鶴田浩二『傷だらけの人生』の大ヒット、小柳ルミ子、南沙織、天地真理の三人娘のデビュー、オールスター戦での江夏豊の9連続三振、高野悦子『二十歳の原点』出版……。

政治問題としては、沖縄返還協定調印(6月)→同批准(11月)、三里塚闘争(2月第一次強制収容、7月1・2番地点強制収容、9月第二次強制収容)の二大政治課題で、ふたたび大きな盛り上がりをみせた。この年の動員数は、60年代のそれを凌駕したという記事を読んだ記憶があるが、沖縄本土「復帰」の前年ということもあり、一大政治決戦の鬨(とき)だったといえよう。

◆1971年、思い出すだに

この年、少年から青年になる時期、生来小心者の私も自分なりに死にもの狂いに闘った。いろいろなことが脳裏を過(よぎ)る。

私的なことに限っても、4・28沖縄闘争(東京。清水谷公園→日比谷野音)、デモが終わり仲間と一緒に京都に帰るのかと思っていた所、ある先輩から「松岡、お前は残り三里塚の現闘(現地闘争団)に行け」と命じられ、当時結成したばかり三里塚現闘団(取香)に加わって、援農と(第二次強制収容に対抗するための)穴掘りなどに従事した。

4・28沖縄闘争(東京・日比谷公園)。有名になった戦旗派のキャッチャーマスク部隊(「戦旗派コレクション」より)

京都に戻るや、早朝の情宣活動中、日本共産党・民青(みんせい)のゲバルト部隊に襲撃され病院送りにされ5日間ほど入院。

退院するやすぐに、5・19沖縄全島ゼネスト連帯祇園石段下制圧闘争、初めて京都の市街地での実力闘争を展開、これはその後の首都東京での闘いの口火となった。この頃の同志社の部隊(全学闘争委員会)は、ブント分裂にもかかわらず数も多く屈強だった。先頭になって機動隊とのゲバルト戦を繰り広げ、14名の逮捕者を出した。この前々日の17日、学館ホールで三里塚闘争勝利集会を開き東大全共闘代表・山本義隆さんが来られ講演している。

6・17、沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)、この前々日、全国全共闘(新左翼)は中核派と反(非)中核派の二つに分裂し、同志社や京都の部隊は反(非)中核の集会(宮下公園)に参加、デモは荒れに荒れ、火炎瓶も飛び交った。機動隊に路地に押し込まれ、「もうあかん」と思った矢先、後ろから火炎瓶がポーン、ポーンと飛び、戦旗派の指揮者が「同志社大学全学闘の諸君と共に、ここを突破したいと思います」と叫び、スクラムを組んで突破し、デモに合流して最後まで貫徹。デモの本流に合流しそのまま引き続きデモができるというのが今から思い返しても不思議だ。

6・17沖縄返還協定調印阻止闘争(東京)。ここに松岡もいたと思われる(「戦旗派コレクション」より)

7月、三里塚1、2番地点阻止闘争、全学闘は4人逮捕され3人が起訴され、長く裁判闘争を闘いながら1人は実刑を食らった。逮捕された時に持っていた竹竿に血が付いていたという理由だった。のちに児童文学作家となる、文学部共闘会議(L共闘)の先輩SKさんもこの時逮捕されている。同じく逮捕された立命館のA君は、残念なことに、保釈されたのち自死した。寡黙な男だった記憶がある。

9月、三里塚第二次強制収容阻止闘争、9・16では新左翼の部隊と機動隊が遭遇し、機動隊3名が死亡。私たちは、幾つかのグループに分かれ現地に入り、各々の分野で任務を全うした。沼に浸かりながら逃げたりして、数日闘い京都に帰還。今だから言える話だが、学生放送局は三里塚と同志社のキャンパスをつなぎ放送を始めたが、機動隊3名死亡事件発生ですぐに終了を余儀なくされた。

71年沖縄―三里塚闘争の過程(『季節』6号より)

◆学費値上げ問題が勃発!

京都に戻ると学費値上げ問題が浮上し、以降は専ら学費値上げ阻止闘争に関わることになる。首都東京では沖縄返還協定批准阻止闘争が闘われていたが、一度上京したぐらいで、ほとんど関われなかった。ちなみに、一度上京した際に、大学祭中のH大学に寝泊まりしていたところ、ばったり高校の同級生のB君に遭遇したことがあった。彼はしばらくして、大学を中退し一時帰郷、その後、中国大陸、台湾に渡り30数年を過ごしたという。もう会えないと思っていた所、一昨年の高校の同窓会で再会、実に40数年ぶりのことだった。彼は私が京都に行く時に駅に見送りにきてくれ、また夢破れて帰郷する際も、大阪で働き始めた私のアパートに一晩泊まってくれた。

当時の団交(団体交渉。11月11日)の写真が残っている。懐かしい。2人立って激しく学長ら当局を追及している。左が文学部の先輩・水渕平(ひとし。故人)さん、右が、その後、草創期の某コンビニの役員にまで上り詰めた先輩Cさん。大学側では中央で腕を組んでいるのが山本浩三学長、彼は69年の封鎖解除も断行しているので、72年2月1日と、2度の封鎖解除を行っている。

11・11学費問題団交(朝日新聞社提供)

学費問題は、その後、全学学生大会で無期限バリストに突入し、翌年2月1日、決戦を迎え私以下100数十名が検挙、43名逮捕、10人が起訴され1人が無罪、他9人が微罪ながら有罪判決を食らう。

この年、学費値上げは、全国の大学で浮上し反対闘争が展開されたが、特筆すべきは関西大学のバリケード内で、同じ大学の先輩で中核派の正田三郎さんら2人が革マル派の特殊部隊に襲撃され死亡。正田さんとは立場は違えど、たびたびビラ撒きで一緒になったりしたこともありショックだった。これ以降中核派は、革マル派を「カクマル」と表記するようになった。最近観た映画『きみが死んだあとで』で、このシーンが出て懐かしくも、やるせない気分だった。


◎[参考動画]『きみが死んだあとで』予告編

◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇     ◇

『週刊現代』の1971年特集記事に触発され、いろいろなことが脳裏を過り思いつくまま書き連ねてきた。もう半世紀も前のことだ。九州の田舎から出てきて、少しはキャンパス生活に慣れ、当時どこにでもいたノンセクトの活動家として、ふたたび盛り上がってきていた政治過程や学費値上げ問題に、自分なりに一所懸命に関わった時期だった。今はなき学生会館別館BOXでの会議は重々しかったという感しかない。時には、その後「赤衛軍事件」に巻き込まれ長年逃亡する滝田修が学友会BOXに現われアジッていたことも思い出す。

ここ数年、過去の運動を追体験し総括を試みようと考え、『遙かなる一九七〇年代‐京都』『思い出そう!一九六八年を!!』『一九六九年 混沌と狂騒の時代』『一九七〇年 端境期の時代』と出版してきましたが、今年も11月頃に「一九七一年」版(タイトル未定)を発行する予定です。上記のような内容が中心に成ります。ご期待ください。

尚、上記書のうち『一九七〇年~』を除いて品切れとなっております。申し訳ございません。

渾身の一冊!『一九七〇年 端境期の時代』(紙の爆弾12月号増刊)

《NO NUKES voice》福島県でのモニタリングポストの配置存続を「復興の邪魔」と全否定した原子力規制委員会初代委員長・田中俊一氏の「復興」とは?

2月13日夜、「3・11」から3627日に福島県沖を震源として起きたM7・3の大地震は、廃炉作業中の原発への不安とともに、万が一の際の空間線量確認手段としてのモニタリングポスト(リアルタイム線量測定システム、以下MP)の必要性を改めて認識させられた。3年前、原子力規制委員会が避難指示区域外のMP約2400台を撤去する方針を示した際、反対した住民の多くが「有事の際の『知る権利』を保障して欲しい」と訴えていたが、その想いが図らずも証明された形になった。

福島駅西口のモニタリングポスト。今回の大地震で多くの人が必要性を再認識した

だが、住民の想いを当初から全否定していた人がいる。。田中氏はどんな言葉で原発事故後の福島県民を愚弄して来たのか。筆者の取材に対する発言を振り返っておきたい。

MP撤去計画は震災・原発事故から4年後の2015年にさかのぼる。

同年11月25日の原子力規制委員会第42回会合で当時の田中委員長が、会合の終盤に「私の方から少し御報告したいことがある」として、次のような発言をしている。

「原子力規制員会は、これまで(中略)モニタリングの実施とかデータの公表を行ってきましたが、事故から5年が経過しようとする中で、これまでの取組をもう少し整理した上で、先ほどの帰還困難区域の問題もありますので、それを少し見直していく必要があろうかと思います。今までどおりのモニタリングでいいかどうかということも含めてです(中略)是非事務局で、どうすべきかを含め、関係省庁との協議も含めて取り組んでいただくよう、私からお願いしたいと思います。それを受けて、また原子力規制委員会でどうすべきか議論させていただきたいと思いますので、よろしくお願いします」

翌2016年1月6日の第48回会合でも「事故から5年が経過しようとする中で、これまでの取組を整理し、必要な見直しを行う、よい機会であると考えています。事務局においては3月をめどに福島第一原発のリスクマップの改訂と総合モニタリング計画における規制委員会のモニタリングの見直しが行われるよう、検討を進めていただくようにお願いしたい」と改めて発言。それを受ける形で2018年3月、2021年までの撤去方針が正式に示された。MP撤去は3年越しの〝悲願〟だったのだ。

モニタリングポストに対する福島県民の想いを否定し続ける田中俊一氏

撤去反対の声が高まり始めた2018年7月、飯舘村で田中氏は筆者にこう強調した。

「あんな意味の無いものをいつまでも配置し続けたってしょうがない。数値がこれ以上、上がる事は無いのだから。早く撤去するべきだよ。廃炉作業でどんなアクシデントが起こるか分からない?そんな〝母親の不安〟なんて関係ないよ。そんな事ばかりやっているから福島は駄目なんだ」

「福島県庁にしたって非科学的な人間ばっかり。不安があるからMP配置を続けるなんて単なるポピュリズムだよ。ガバナンスが無い。おたくはどこの会社? フリーランス? そんな事も分からないようじゃジャーナリストをやめた方が良いよ」

筆者の資質にまで言及してくださる姿勢には、違う意味で〝感服〟した。

住民説明会では、ほぼ全ての意見が「撤去反対」「配置継続」だった

その年の10月には、福島市内で開いた講演会に登壇。「不安を抱いている事が復興の妨げになっている」と語気を強めた。

「復興のキーワードは『さすけね』。福島の方言で、そんな事は気にしなくて良いよという意味です。今の福島の状況は『さすけね』なんです。全国の皆さん、変な言葉ですけど福島の方言ですので、ぜひ覚えて帰っていただいて、これから福島のものを買うときは『さすけね』と言っていただければありがたい」

終了後に田中氏を直撃すると、再び住民たちの想いを踏みにじる発言に終始した。

「MPを撤去しても『さすけね』だ。設置を継続して欲しいと言っているうちは復興出来ない。不安を抱いている事を美学のように思っているのが間違いなんだよ。それをまた、あなたたちが煽り立てるところもいけない」

「不安に思うのはしょうがないが、福島の復興を考えたら不安に思っていても何の意味も無い。前に進まなくて良いんだったら別に放っておけば良いんだけど。MPなんか値は下がるしか無いんだから。『廃炉作業で何があるか分からない』なんていうのも何の根拠も無い。中通りも双葉町も、廃炉作業でのアクシデントで環境中の放射線量が上がるなんて事は無い。それに(設置し続けるには)お金がかかるんだよ」

もう止まらない。

「MPの撤去も、汚染土壌の再利用も、汚染水の海洋放出も、反対する方がおかしいんだよ。それしか方法が無いんだから…。それしか無いですよ。陸上保管なんてあり得ないですよ」

「当たり前の事が出来ないとね。そんな事をやってたらあんた、『いちえふ』の廃止(廃炉)なんて出来やしないですよ。廃棄物は山ほどあるし、もっともっとリスクの大きい事がいっぱいある。MPもそう、汚染土壌の再利用もそう。もっとリスクを合理的に考えないと。反対してたら福島の復興なんて出来ないですよ。原発事故は原発事故なんだけれども、それをどう克服するかという視点が全く無いのが、あなたとは言わないけど、あなたたちマスコミの…およそ大学で学んだ人たちとは思えない思考力しか無い」

そして、次のような言葉で住民たちにとどめを刺した。

「まるで反対している人が悪いみたいだって? そうですよ。反対するのは構わないけれど、福島の復興の妨げになるような事はやめなさいって。妨げてますよ、ものすごく」

中通りの女性からはこんな言葉が聞かれた。

「地震の後、『MPの値がいつもより高い。原発大丈夫かな?』という声を聞きました。やはり意識して見ているんですよね」

こういう想いも、田中氏には「復興の邪魔」なのだろう。

▼鈴木博喜(すずき ひろき)

神奈川県横須賀市生まれ。地方紙記者を経て、2011年より「民の声新聞」発行人。高速バスで福島県中通りに通いながら、原発事故に伴う被曝問題を中心に避難者訴訟や避難者支援問題、〝復興五輪〟、台風19号水害などの取材を続けている。記事は http://taminokoeshimbun.blog.fc2.com/ で無料で読めます。氏名などの登録は不要。取材費の応援(カンパ)は大歓迎です。

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大阪「髪染め」訴訟──「地毛が茶色でも黒染め強要」とデマを広めながら、しらばくれるマスコミ、著名人たちの偽善と不遜 片岡 健

「生まれつき茶色い髪について、学校で何度も黒く染めるように指導されて精神的苦痛を受けた」

大阪府羽曳野市の府立懐風館高校に通っていた女性(21)がそのように主張し、府に約220万円の慰謝料などを求めていた訴訟で、大阪地裁(横田典子裁判長)が16日、府に33万円の賠償を命じる判決を出した。

報道によると、判決は「教師たちは女性の髪を直接見て、地毛が黒色だと認識して指導していたため、違法性があったとはいえない」と認定。一方で、女性が2年生の9月から不登校になったのをうけ、学校側が出席名簿から女性の名前を消したことなどについて「女性の心情に配慮したものといえない」と違法性を認めたという(FNNプライムオンライン16日17時21分配信)。

私はこの訴訟について、裁判記録を閲覧するなどの取材をし、当欄でも2018年の時点で以下のような原稿を書いている。

◎大阪「髪染め強要」訴訟 ほとんど報じられない学校側の主張を伝える
・2018年1月18日【前編】 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=24417
・2018年1月22日【後編】 http://www.rokusaisha.com/wp/?p=24423
私は現時点でまだ判決を見ていないので、判決の当否について踏み込んだことは言えない。しかし、取材で把握した「確定的な事実」によって認められる限りでも、この訴訟を取り巻く現状には見過ごしがたいことがある。

◆教師たちは女生徒に「髪を黒く染め直す」ように指導していた

それは、この訴訟が2017年に最初に話題になった当時の報道に「重大なデマ」があったことだ。

「女生徒の髪は生まれつき茶色なのに、学校側は黒く染めさせていた」

マスコミ各社は当時、女性側のこのような主張を揃って鵜呑みにし、懐風館高校で生徒へのとんでもない人権侵害が行なわれているように報じた。あたかも同校の教師たちが女性の髪は生まれつき茶色だと認識しつつ、校則通りに黒く染めるように強要していたように伝えたのだ。

こうした報道をうけ、ジャーナリストや学者、評論家、弁護士らがSNSなどで一斉に同校で理不尽な指導が行われていたかのように批判した。ツイッターで個人的にそのような批判をしている新聞記者も見受けられた。ひいては、これに同調した有名・無名の無数の人たちによって、同校の教師たちに対する凄絶なバッシングが巻き起こったのだ。

しかし訴訟で本格的な審理が始まると、女性の生まれつきの髪の色が本当に茶色だったか否かは大きな争点になった。つまり、同校の教師たちは「女生徒の髪が生まれつき茶色でも黒く染めさせる」という指導はしておらず、あくまでも「女生徒は生まれつきの髪の色が黒なのに、茶色に染めている」と判断し、黒く染め直すように指導していたのである。

前掲の報道では、判決は「教師たちは女性の髪を直接見て、地毛が黒色だと認識して指導していたため、違法性があったとはいえない」と判断したと伝えられているのに対し、女性側の代理人弁護士が判決の事実認定を不服とし、控訴を検討しているという報道もある。

ただ、いずれにしても、同校の教師たちは「女生徒の髪が生まれつき茶色でも黒く染めさせる」という指導をしていたわけではないので、同校の教師たちがそのような指導をしているように伝えた報道はデマだ。また、報道のデマを信じ、同校の教師たちをSNSなどで批判した者たちは、同校の教師たちを侮辱し、その名誉を不当に傷つけたのである。

◆デマ被害者である教師の方々、そのご家族に伝えたいこと

さらに見過ごしがたいのは、こんな重大なデマが明らかになったのに、デマを報じたマスコミや、デマを信じて同校の教師たちを侮辱したジャーナリストや学者、評論家、弁護士、個人の新聞記者らが何ら訂正もせず、謝罪もせず、しらばくれていることだ。一体、どういう倫理観をしているのか、頭の中をのぞいてみたい思いだ。

これだけ酷いデマ被害を目の当たりにしつつ、被害回復のために何もできない私自身、無力さを痛感している。しかし、せめて理不尽なデマによって傷つけられた同校の教師の方々、そしてそのご家族の方々に「世の中には、この酷いデマに気づいている人間もいないわけではありません」ということを伝えたく、この原稿を書いた。

問題の訴訟が行なわれた大阪地裁

▼片岡健(かたおか けん)
全国各地で新旧様々な事件を取材している。近著に『もう一つの重罪 桶川ストーカー殺人事件「実行犯」告白手記』(著者・久保田祥史、発行元・リミアンドテッド)など。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

《NO NUKES voice》3月1日いよいよ判決が下される「子ども脱被ばく裁判」!井戸謙一弁護団長が語る裁判概要とその意義

3月1日に判決が下される「子ども脱被ばく裁判」について、2月6日(土曜日)東京の茗台(文京区)で開催された緊急集会で、「子ども脱被ばく裁判」の弁護団長・井戸謙一弁護士がその概要と意義について講演を行いました。以下はその書きおこしです。(構成=尾崎美代子)

 

◆はじめに──大河陽子弁護士(進行)

本日のシンポジウムの趣旨を説明します。2014年8月29日に提訴された子ども脱被ばく裁判の判決が3月1日に出されます。この裁判は、大人が起こしてしまった原発事故において、子供たちの被害を最小限度に食い止めるには、今、国や県は何をなすべきか? また国や福島県の情報の隠ぺいにより、私たちは本来避けることのできた無用の被ばくを受け、今も受け続けているのではないかということを問題にした裁判です。子どもとその親たちが原告になりました。前例のない裁判ですが、テーマは「未来」です。今日は裁判のなかで明らかになったことをお伝えし、この裁判の意義を皆さんと考えていきたいと思います。

以下、井戸謙一弁護士による報告「裁判の概要と意義について」です。

◆「こども人権裁判」と「親子裁判」という2つの訴訟

この裁判は、2014年8月29日に一次提訴し、三次提訴までしました。2つの訴訟を併合提起して同時進行しています。1つは行政訴訟で、もう一つは国家賠償請求訴訟です。私たちは、行政訴訟を「こども人権裁判」と、国賠訴訟は「親子裁判」と呼んでいます。原告の数はこども人権裁判は14名です。当初は40人位の子どもが原告になりましたが、福島県内の小・中学生でなければならないという制限がありますので、多くの子どもが中学を卒業し、14名になりました。親子裁判は親も子供も原告になれるのですが、現在170名ほどいらっしゃいます。弁護団は19名ですが実働は6名で、東京、大阪、京都、滋賀に点在していまして、地元の福島にいないことが一つ残念なことです。全国にたくさんの支援団体があり支援していただいております。脱被ばく実現ネットもその中の大きな団体のひとつです。裁判所は福島地裁、裁判長は遠藤東路裁判長が担当しています。昨年の7月28日に弁論を終結しまして、きたる3月1日が判決です。

「子ども脱被ばく裁判」弁護団長の井戸謙一弁護士

◆なにを請求しているのか?

この裁判で何を請求しているのか。行政訴訟は、福島県内の公立の小・中学生である原告らが、被告である県内の市町に対して、被ばくという点において、現在の学校施設は健康上のリスクがあるから、安全な環境の施設で教育を実施することなどを求めています。国家賠償請求訴訟は、3・11当時、福島県内で居住していた親たちと子どもたちが原告で、被告は国と福島県です。国と福島県が不合理な施策をしていたことによって、子どもたちに無用な被ばくをさせて、原告らに精神的苦痛を与えたことによる損害賠償(1人10万円)を求めています。

被ばくによって健康被害が生じたということではなくて、いつ健康被害が発生するかもしれない立場に置かれた、そのことによる精神的苦痛を理由に損害賠償を求めています。

では「不合理な施策」とはなにかというと、1つめは情報の隠蔽、スピィーディやモニタリングなどの必要な情報を隠蔽したということです。2つめは安定ヨウ素剤を子どもたちに服用させなかったことです。3つ目は、年20ミリシーベルト基準で学校を再開させたこと。一般公衆のそれまでの基準の1ミリシーベルトの20倍の基準で学校を再開させたこと。4つ目は、事故当初、子どもたちは集団避難させるべきだったのに、それをさせなかったこと。5つ目は山下俊一氏などを使って「被ばく状況は安全だ」などとウソの宣伝をさせたことです。

2020年3月5日、山下俊一が出廷した裁判の前に福島地裁前でアピール(写真提供=水戸喜世子さん)

◆なぜ、裁判を起こしたか

次になぜこういう裁判を起こしたかについてです。私たち弁護団は「福島集団疎開裁判」という、郡山の子どもたちが郡山市に対して「集団疎開させてくれ」と訴えた仮処分事件を担当していた弁護士が中心です。その事件は仙台高裁で「このままでは福島の子どもたちに由々しい事態が生ずる恐れがある」ということを決定のなかで書かせることができました。

ただ、避難したければ自分で避難しろという理屈で、請求は棄却されました。それが終わったあと、何か次の裁判の申し立てをしたいということで、弁護団、福島の方々、そして支援する方々で何度も何度も話し合いをしました。そのなかで、福島の親たちの思いを少しづつ理解するようになりました。これは私個人の理解ですけれども、私は福島の親御さん、とくに避難区域外のお父さんお母さんがのたうちまわってきたという印象を受けています。強制避難の方も大変な被害ですが、避難するしかなかった。でも避難区域外の親たちは、避難するのかしないのかを、自分自身で決断することが迫られていた。

そのなかで、まずそれまで被ばくに対する知識がなかった。必要な情報が与えられなかった。ベクレルもシーベルトも最初はほとんどの人がわからなかった。「〇シーベルトだ」と数値を伝えられても、その意味がわからなかった。

他方、情報のある人がどんどん消えていく。東電とつながりがある人、知識のある人は早く逃げるので、だんだんそういう人が自分の周りから消えていく、そういう環境の中におかれていた。テレビをつけると「ただちに健康に影響はない」という枝野元官房長官の話ばかりが聞こえてくる。ただちに健康に影響ないというならば、将来影響がでるのではとどうしても思ってしまう。

行政はというと、安全宣伝しかしない。家庭だけでは守ることはできないが、学校はなにもしてくれない。3月の入試の合格発表も例年通り行われ、クラブ活動なども制限されずに行われたところがたくさんあった。4月の新学期も例年通り始まった。そういうなかで子どもの健康不良がでてくる。鼻血問題は、雁屋哲氏の漫画「美味しんぼ事件」で大問題になりましたが、現実にこの頃から、それまで経験したこともないような鼻血を出す子どもがたくさんでてきた。いろんな体調不良を訴える声も聞こえてきた。避難しなくてはと思うが、現実的にはなかなかできない。やはり行政の支援がなければ、避難は簡単にはできません。重大な決意をして避難しても、政府から「避難した人は子どもたちを被ばくリスクから守るために避難したのだから、避難先の人たちはそういう人たちを支えてほしい」というメッセージがなければ「必要もないのに、避難して来た。神経質なやつだ。」と避難先で差別の対象になってしまう。

そして親たちは、自分を責めるのです。「何故あのとき子どもをクラブ活動に行かせたか?」「なぜ給水車の列に子どもを並ばせたか?」「なぜ親からもらった地元の野菜を子どもに食べさせたのか?」と自分を責めるのです。

そして時間が経つと、だんだんわかってくる。いろんな知識を身につけることになる。例えば一般公衆の被ばく限度はもともと年1ミリシーベルトと定められていたこと。3月15日から、とくに福島の中通りには大変な量の放射性物質が飛散していたということがあとになってわかった。スピーデイという情報があったのに、それが隠されていたこともわかった。子どもを甲状腺がんから守る安定ヨウ素剤という薬があったが、これを飲ませてもらえなかった。しかも県立医大の関係者だけはこれを飲んでいたということがわかってきた。そして偉い先生だと思っていた山下俊一氏の言っていたことは、じつは嘘だったということがわかった。いざとなったら、行政は子どもたちや私たちを守ってくれないんだ。そういう行政によって子どもたちは無用な被ばくをさせられたのだ、結局私たちは捨てられたのだという、そういう思いがどんどん募ってくる。

福島の親たちは、もちろん事故を起こした東電に対する怒りも持っていますが、それ以上に国や福島県に対する怒りが大きいということがよくわかりました。そしてこの問題を司法の場で明らかにしたいという、そういう思いを多くの方がもっている。避難者の損害賠償請求訴訟は全国で多数ありますが、これらは事故を起こした東電の責任あるいは、規制権限を適切に行使しなかった国の責任を問うているものです。

これに対し、事故が起こったあとの被ばく対策、子どもたちを守るための被ばく対策が不十分だったことを問うた訴訟はなかった。これをぜひ司法の場で明らかにしたいという思いを、皆さんが持っていることがよくわかって、その思いに答える訴訟ということで、この裁判が起こされることとなりました。

同上

◆裁判の特徴と意義

この裁判の特徴を申し上げると、事故発生直後の行政の責任を問う裁判であること、しかも混乱状態の中で適切な措置をとれなかった過失責任を問うているのではなくて、意図的な被ばく軽視政策、意図的な法律無視が行われたと主張していることです。

なお、訴訟のテーマになっているわけではありませんが、これらの政策の背景には、IAEA(国際原子力機構)やICRP(国際放射能防護委員会)などの国際的な原子力利用推進勢力(国際原子力マフィア)の意思があると考えています。原子力推進勢力は、チェルノブイリでは避難させすぎたと評価している。原発事故の影響を小さく抑えるべきであり、そういう意味では福島では成功したと、恐らく評価していると思います。この「成功体験」は、今後世界で原発事故が起こった場合のモデルケースになるでしょう。更に、被ばくの問題を軽視するということは、最終的には小型核兵器使用の容認にまでつながる問題でもあります。

そしてこの訴訟の意義としては、

(1)翻弄された人々のくやしさ、怒りを見える化する。
(2)国や県の政策の問題点を白日にさらず。
(3)心ある科学者の方々が多数おられるので、そういう方々の仕事をつなぎ、社会に伝える。
(4)被ばく問題に心を痛めている人たちの希望の灯台になる。
(5)判決自体はどういう判決になるかわかりませんけれども、この被ばくの問題というのは、ヒロシマ・ナガサキから始まる長い長い闘いですから、次の闘いの橋頭保をつくる、

以上のような点を指摘できると考えています。

2020年3月5日、山下俊一が出廷した裁判の前に福島駅前でチラシ配り(写真提供=水戸喜世子さん)
原告団代表の今野寿美雄さん

◆前代未聞の裁判

このような経緯で始めたこの裁判ですが、前代未聞の裁判なので、裁判所も最初は面食らったとおもいます。当初被告は、特に行政裁判において、そもそもこんな裁判は審理する必要すらない、門前払い却下しろと主張していて、裁判所もそちらの方向でいこうと考えていたようです。

それに抵抗して、なんとかそれを乗り越えて、低線量被ばくの問題、内部被ばくの問題、そして国や県の具体的な行為内容の是非などの議論にはいりました。県民健康調査の問題や、セシウム含有不溶性放射性微粒子の問題に焦点をあてて主張してきました。そして我々の側で、意見書を書いていただいた郷地秀夫先生と河野益近先生の尋問を実施し、そして鈴木眞一氏、山下俊一氏という2人のキーマンの証人尋問を実施したことは大きな成果だったと思います。

内容的にはこちらの主張に対して、被告側はまともな反論ができてないに思っていますが、判決がどうなるかはふたを開けてみなければわかりません。今の段階でやれることはやりましたので、いい判決を期待して待っています。

■掴む勝訴! 第28回 子ども脱被ばく裁判 (判決)■
いよいよ判決です!!
6年半に渡った「子ども脱被ばく裁判」に判決が出されます。
ぜひご注目ください。
http://datsuhibaku.blogspot.com/2021/02/28.html

◎日時◎
2021年03月01日(月)12:00-17:00

◎会場◎
ラコパふくしま 5F 多目的ホール
〒960-8105 福島県福島市仲間町4-8 ℡024-522-1600
福島地方裁判所
〒960-8512 福島市花園町5-38 ℡024-534-2156

◎プログラム(予定)◎
12:00 福島地裁前集合・地裁前集会
13:00 傍聴券配布
13:30 開廷 判決
14:15 閉廷
15:00 記者会見
16:00 報告集会
17:00 閉会
*アオウゼにて報道関係者は必ず腕章を付けてください。

◎判決前記者会見及び記者レクチャー◎

東京会場:東京司法記者クラブ
2月26日(金)13:00から13:30
〒100-0013 東京都千代田区霞が関1-1-4 東京裁判所2F

福島会場:アオウゼ大活動室
2月28日(日)17:00から19:00
〒960-8051 福島県福島市曽根田町1-18 MAXふくしま4F


◎[参考動画]シンポ「子ども脱被ばく裁判」3.1判決迫る(脱被ばく実現ネット2021年2月6日)

▼尾崎美代子(おざき みよこ)

新潟県出身。大学時代に日雇い労働者の町・山谷に支援で関わる。80年代末より大阪に移り住み、釜ケ崎に関わる。フリースペースを兼ねた居酒屋「集い処はな」を経営。3・11後仲間と福島県飯舘村の支援や被ばく労働問題を考える講演会などを主催。自身は福島に通い、福島の実態を訴え続けている。
◎著者ツイッター(はなままさん)https://twitter.com/hanamama58

『NO NUKES voice』Vol.26 小出裕章さん×樋口英明さん×水戸喜世子さん《特別鼎談》原子力裁判を問う 司法は原発を止められるか
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「暴力は圧倒的にわたしたちの側にない」── 東アジア反日武装戦線ドキュメンタリー『狼をさがして』 小林蓮実

武装闘争は、どのような思いで実行されたのか。そしてそれを、どのように考えるのか。今回、東アジア反日武装戦線を取り上げたドキュメンタリー作品が完成した。それが、2000年代初頭に釜ヶ崎で日雇い労働者を撮影していた韓国のキム・ミレ監督作品『狼をさがして』だ。

© Gaam Pictures

◆「東アジア反日武装戦線」とメンバーのその後

東アジア反日武装戦線とは1970年代、明治以降の帝国主義を批判し、企業爆破を実行したグループ。この名称は同志が使用できるようにされていたため、各「部隊」は自分たちを「狼」「大地の牙」「さそり」と名乗った。

1968-69年の全共闘を経て、大道寺将司(だいどうじまさし)さんは70年、帝国主義の研究会を発足させる。キューバ革命などに関しても学ぶなか、武装闘争の路線が固まっていく。あや子さんも研究会に加わった。72年、東アジア反日武装戦線の名称が決まり、大道寺将司さん・大道寺あや子さん・片岡利明(かたおかとしあき・現在は益永)さん・佐々木規夫(ささきのりお)さんらのメンバーは、「狼」を名乗る。74年、小冊子『腹腹時計』を発刊。同年8月14日、太平洋戦争でアジア人民を殺した「大犯罪人」たる昭和天皇・裕仁が乗車する列車を爆破する「虹作戦」実施のための行動が開始されたが、完遂できなかった。その翌日、韓国では、在日韓国人で朝鮮総連活動家・文世光(ムン・セグァン)が大統領・朴正煕(パク・チョンヒ)を暗殺しようとする。「狼」は、これに刺激を受けて30日、三菱重工業東京本社ビルを爆破、8名が死亡、376人の負傷者が出た。その後、11月25日に帝人中央研究所を爆破。

いっぽう71年、齋藤和(さいとうのどか/かず)さんは浴田由紀子(えきた/えきだゆきこ)さんらと知り合い、のちに「大地の牙」を結成。同「部隊」は74年10月14日、三井物産の本社屋「物産館」を爆破、16人の負傷者が出た。その後、12月10日に大成建設を爆破。

翌75年2月28日には、「狼」「大地の牙」「さそり」合同で、間組本社と間組大宮工場とを爆破、5人の負傷者が出た。

「大地の牙」は75年4月19日に、オリエンタルメタル製造の本社と韓国産業経済研究所も爆破している。

大道寺将司さんに会った黒川芳正(くろかわよしまさ)さんは74年に「さそり」を結成。宇賀神寿一(うがじんひさいち)さんや桐島聡(きりしまさとし)さんとともに12月23日、鹿島建設のプレハブハウス工場の資材置場を爆破。75年には2月28日以外にも、4月28日に間組京成江戸川作業所を爆破して1人の負傷者が出、5月4日にも間組の京成江戸川橋鉄橋工事現場を爆破した。

逮捕後、75年のいわゆる「クアラルンプール事件」で佐々木規夫さんが、77年の「ダッカ日航機ハイジャック」で大道寺あや子さんと浴田由紀子さんが釈放。大道寺将司さんは死刑確定の後、2017年5月24日に多発性骨髄腫のため東京拘置所で病死。益永利明さんは確定死刑囚として東京拘置所に、黒川芳正さんは宮城刑務所に収監されている。大道寺あや子さんと佐々木規夫さんは国際、桐島聡さんは全国指名手配中。斎藤和さんは取調中に服毒自殺。宇賀神寿一さんは懲役18年が確定した後、2003年6月11日に出所した。浴田由紀子さんは95年にルーマニアで身柄を拘束・日本に移送されて懲役20年が確定し、2017年3月23日に出所している。

© Gaam Pictures

◆「東アジア反日武装戦線」を辿る

『狼をさがして』は、2004年8月の、釜ヶ崎で亡くなった仲間の慰霊祭の場面から幕を開ける。山谷でも同様の「イベント」があるが、おそらく15日に実施される「釜ヶ崎夏祭り慰霊祭」だろう。1972 年、「暴力手配師追放釜ヶ崎共闘会議(釜共闘)」によって始められ、活動家や日雇い労働者を弔うものだ。作品には、喜納昌吉(きなしょうきち)さん作詞・作曲の『花』を歌う人も映し出される。監督は韓国の建設産業史をめぐって釜ヶ崎を訪問し、そこで「資本と国家にあらがう人たち」を目にして、東アジア反日武装戦線を知る。

評論家で東アジア反日武装戦線メンバーの支援活動もおこなう太田昌国(おおたまさくに)さんは、旅先で集めた絵はがきやパンフレットを大道寺将司さんに送っていた。太田さんはFacebookなどにも、「私にできたことは少ない。ほとんどなかった、と言ったほうがよい。旅行が叶わぬ彼に、せめても旅先から絵葉書を送った」と記す。新潟県松之山温泉近くに広がる雲海の絵葉書や観光案内書を送った際には、大道寺将司さんから以下のような句が返ってきた。

雲海に落人(おちゅうど)の影消えにけり

マスコミは当初、「思想もない爆弾魔」「爆弾マニア」として報道したという。だが本作には、東アジア反日武装戦線メンバーの主張も取り上げられている。「日帝中枢に寄生し」ている企業に対し、「世界の反日帝闘争」に参加する仲間と連帯し、「新大東亜共栄圏」を実現しようと海外や発展途上国の植民地化をもくろむ者たちを打倒すること。それこそが、「戦死者を増やさぬ唯一の道」だという。だが、1人ひとりの感覚や心情は、素朴なものだったりする。それにショックを受け、共感を抱く人が多く存在してきたし、現在も存在し、本作によってそれを知る人もいるだろう。女性の運動を経て、大道寺将司さんの妹となって支援を続けた大道寺ちはるさんも登場する。

1975年に「狼」グループの一員として逮捕され、87年に出所後、福祉の仕事に携わっている荒井まり子さんも登場。姉は「公安警察の尾行をまこうとして亡くなった」そうだ。荒井さんは獄中でも「東アジア反日武装戦線獄中兵士」を名乗っていたが、密かに猫や他の人との交流も楽しんでいたらしい。荒井さんの母親も、支援者という「友だちを増やしてくれたから、今もまわりにお友だちがいっぱい」などと口にする。

電光掲示板や派手なアニメの看板などが乱立する東京では、東アジア反日武装戦線が単なる殺人者として露骨に嫌悪されていると説明されるシーンもある。ただし実際には、ほとんどの人は詳細などまったく知らず、また忘れ去られている部分もあるだろう。

また監督は、大道寺将司さんの故郷、北海道釧路市にも足を運ぶ。

© Gaam Pictures

◆朝鮮・中国・アイヌ侵略と彼らの犠牲

韓国の監督作品として観るからこそ、印象に残るシーンもある。荒井さん親子が朝鮮民謡『アリラン』を歌い、哀愁を語らう。朝鮮から強制連行された方々を追悼する様子も描かれる。

東アジア反日武装戦線の主張にも当然、日帝による「35年間に及ぶ朝鮮の侵略・植民地支配」への批判が含まれる。自らは「日本帝国主義者の子孫であり」これを「許容、黙認し、再び生き返らせた、この認識より始めなくてはならない」というものだ。

「大地の牙」が爆破した大成建設の前身は、大倉財閥系の企業だ。大倉財閥は軍需産業で成長し、東アジア反日武装戦線は「大成建設が1922年に信濃川水力発電所で朝鮮人労働者を大量に虐殺した」ことも、爆破の理由にあげている。韓国の新聞『東亜日報(トンアイルボ)』によれば、「惨殺された者100人以上」ともいう。

同様に「大地の牙」によるオリエンタルメタル社・韓産研爆破の日程として選ばれた4月19日とは、1960年3月15日の韓国大統領選挙における不正を糾弾し、民衆デモが発生。大統領を下野させたこのデモのなかでも最大規模だった「革命の日」の日程に合わせたものだ。

齋藤和さんは学生時代、「朝鮮革命研究会」に相談役として加わり、その後、日雇い労働をしながら4回韓国へ渡航。彼の友人の中野英幸(なかのひでゆき)さんは、歴史を知ることなく、本気でないなら、恥ずかしいので支援はやめてくれといわれたことが心に残っている。

また、東アジア反日武装戦線は朝鮮同様、アイヌへの侵略の歴史にも言及していた。本作では、アイヌのイベントの様子も取り上げられている。筆者には以前、アイヌへの侵略と北海道への進出の歴史に先祖が関わった知人がおり、残された記録を目にしたことがあった。彼らは「アイヌと友好的に関わった」などと主張していた。そんなことも思い出した。まったくアジア侵略と同様だ。

さらに、「さそり」が爆破した鹿島建設には、戦時中に強制連行した986人の中国人労働者が、過酷な労働や虐待による死者の続出に耐えかね、1945年に一斉蜂起し鹿島組の現場責任者らも戦後に重刑を宣告されたことが背景にある。事件後の拷問も含め、45年までに400人以上の中国人労働者が死亡した。

彼らの犠牲のうえで、現代のわたしたちは「平和で安全で豊かな小市民生活を保障されている」と、東アジア反日武装戦線は訴える。

本作には、8月15日の「反『靖国』行動」と、それに対する右派の様子も映し出されていた。

© Gaam Pictures

◆「すべての人が対等に生きられる世界」に向かうために

だが、東アジア反日武装戦線メンバーが、「非合法・武装闘争として実行」したことに対する「自らの反革命に落とし前をつける」と語るシーンなどもおさめられている。監督は、武装闘争について、冷静なスタンスを変えない。

浴田由紀子さんの出所は最近で、筆者も集会に参加したので、よく覚えている。『週刊金曜日』に報告文も寄稿した。その際、浴田さんは、「世の中を変えたいと思い、これだけ長く刑務所にいた女性は、ほかにいないと気づいた。(当事者として)犯罪者・出獄者の気持ちを理解する私が、出獄した女性たちが助け合い、人間性を奪う刑務所に行かずに済むネットワークをつくりたい。これがわたしの新たな役割」「当時、大切な人・大切なこと・自分もないがしろにしたことが一番の間違いだった。開かれた世界で自由に交流し、人間らしい日常をわたしから実践したい」と語っていた。

内田雅敏弁護士は本作で、「日本・天皇の戦争責任に関し、十分でないが終わったという認識が強かった時代に、企業の戦争責任を問うて企業爆破をすることで、日本の近現代史における未精算の問題、植民地支配や戦争責任について、徐々に理解されるようになった」という旨のことを述べている。

本作では、「反日亡国論」とは、国家や民族的な結合をなくすことであるというのも説明される。

さまざまな運動とその歴史に関わる筆者としては、武装闘争を単純に批判できない。そこで、本作ラスト近くの京都大学名誉教授・池田浩士(いけだひろし)さんの「暴力は圧倒的にわたしたちの側にない」からはじまる言葉には、ぜひ、耳を傾けていただきたい。そのうえで個人的には、やはり現代日本においては、武装闘争は倫理・道徳的な視点からというより、市民の共感や賛同を得られないものは運動にはなりえず、それは運動として成功しないという考えから否定的ではある。

個人的には、救援連絡センターの山中幸男さん、足立正生さんをはじめ、知人・仲間が多く登場し、そこも楽しませていただいた。現在、救援で働く宇賀神寿一(シャコ)さんがパーキンソン病であることを、本作で初めて知った。エンドロールに意外な方の名前も連なっていた。運動関係者の方なども、ぜひ最後までじっくりと、ご覧いただきたい。

最後に。「世界同時革命」はわたしたちの知る以外でも一部実行され、一部実現し、現在にいたると筆者は考えている。現在、政治に嘘がまかり通り、新自由主義は暴走し、格差は拡大し続けている。わたしたちは今こそ、東アジア反日武装戦線や60年代以降の運動に改めて注目し、今と未来を変えるために彼らからも学ぶことができるだろう。知り、行動する。本作で語られる「闘う人々と一緒に、お互いの国も世界も変えて、すべての人が対等に生きられる世界」「先祖がアジアの人々に対しておこなった過去の誤りを正し、償う」ことを実現するために、「自分も今のままではいけない、平和も豊かさも否定し、疑い、自己否定の時代の反日武装戦線の立場」を生かすことができるのではないだろうか。

キム・ミレ監督 © Gaam Pictures

【映画情報】
『狼をさがして』
(2020年/韓国/モノクロ・カラー/DCP/74分)

監督・プロデューサー:キム・ミレ
出演:太田昌国、大道寺ちはる、池田浩士、荒井まり子、荒井智子、浴田由紀子、
内田雅敏、宇賀神寿一、 友野重雄、実方藤男、中野英幸、藤田卓也、平野良子ほか
企画:藤井たけし、キム・ミレ
撮影:パク・ホンヨル
編集:イ・ウンス
音楽:パク・ヒュンユ
配給・宣伝:太秦株式会社

公式サイト:http://www.eaajaf.com
2021年3月27日(土)よりシアター・イメージフォーラムにて公開

▼小林 蓮実(こばやし・はすみ)

1972年生まれ。フリーライター、編集者。労働・女性運動等アクティビスト。映画評・監督インタビューなど映画関連としては、『週刊金曜日』『情況』『紙の爆弾』『デジタル鹿砦社通信』などに寄稿してきた。2000年代以降、ブント(共産主義者同盟)の知人も多い。K-POPと韓流ドラマ好き。訪韓1回、訪朝3回。『neoneo』向けにも朝鮮関連のドキュメンタリー、ドラマ評などを執筆してきた。月刊『紙の爆弾』2021年4月号には「パソナが淡路につくる『奴隷島』(仮)」寄稿。

2021年開幕戦から必見のNJKF! 堀田春樹

メインイベンター、健太は長らくNJKFのエース格を務めてきた90戦を超えるベテランだが、2019年6月の勝利以降2敗1分、高橋一眞は現在2連敗中と勝ち星から遠ざかった中での両者の対戦ではあるが、置かれた両団体でのエース格的立場として興味深いカードであった。

両者は5年前なら戦う運命には無かった階級から61.3kg契約で対戦するに至った。

NJKFスーパーフェザー級王座決定戦は過去、HIROが勝利している中での再戦は梅沢武彦が雪辱を果たした。

圧力かけて出る健太のハイキック

◎NJKF 2021.1st / 2月12日(金)後楽園ホール17:00~20:10
主催:ニュージャパンキックボクシング連盟 / 認定:WBCムエタイ日本協会、NJKF

◆第9試合 61.3kg契約 5回戦

健太(=山田健太/E.S.G/1987.6.26群馬県出身/61.25kg)
    VS
高橋一眞(真門/1994.9.7大阪府出身/61.3kg)
勝者:健太 / 判定2-0
主審:宮本和俊
副審:竹村49-49. 中山49-48. 少白竜49-48

健太はNJKFでウェルター級、スーパーウェルター級で王座獲得や、WBCムエタイ日本ウェルター級王座獲得の実績あり。現在はWBCムエタイ日本スーパーライト級1位。高橋一眞はフェザー級でデビュー後、階級を上げNKBライト級チャンピオンとなる。

高橋一眞のローキックで健太の脚は傷だらけ

互いのローキック主体の攻めが主導権支配に流れそうな序盤、健太の脚は蹴られた跡がクッキリ残る。しかしどちらの戦略も主導権支配に至らない展開。

第4ラウンド終了時、「ヒジでカットしたでぇー!」とアピールした高橋一眞。健太の額からは薄っすらとした小さい流血。第5ラウンド、健太もヒジ打ちを出してくるがクリーンヒットは無い。しかし健太のパンチ、距離を詰めての猛攻にはやや押されてしまった高橋。これが運命を分け、健太が僅差で判定勝利。

「今回は勝ちに行くこと重点に倒しに行くことはあまり考えなかったです。また一からやり直しや!」と反省の高橋一眞。終盤に健太の圧力でロープを背負ってしまうのは勿体無い見映え悪さだった。

打ち合い避けたい高橋一眞だが、健太のパンチもヒットする
「ヒジでカットしたでぇー!」とアピールする4ラウンド終了時の高橋一眞

◆第8試合 60.0 kg契約3回戦

国崇(=藤原国崇/拳之会/1980.5.30岡山県倉敷市出身/59.6kg)
    VS
琢磨(=沼崎琢磨/東京町田金子/1992.8.25神奈川県愛甲郡愛川町出身/59.9kg)
勝者:琢磨 / TKO 2R 2:53 / カウント中のレフェリーストップ
主審:和田良覚

国崇は多くの王座獲得実績の中、ISKAムエタイとWKAムエタイの世界フェザー王座獲得実績有り。

琢磨はNJKFとWBCムエタイ日本のスーパーフェザー級王座獲得実績有り。現在WBC日本同級7位。

ベテランらしい攻防があった試合。小気味いい打ち合いを続けていく中、第2ラウンドには琢磨のパンチ攻勢が強まり国崇は下がり気味。琢磨が右ストレートをヒットさせ国崇からノックダウンを奪うと続けて連打から右ストレートで倒し、カウント中にレフェリーが止めた。

徐々に琢磨のパンチでダメージが溜まり、右ストレートで崩れる前の国崇
倒された国崇と立ちはだかる琢磨

◆第7試合 第9代NJKFスーパーフェザー級王座決定戦 5回戦

1位.HIRO YAMATO(大和/2000.6.25名古屋市出身/58.96kg)
    VS
2位.梅沢武彦(東京町田金子/1993.8.12東京都町田市出身/58.85kg)
引分け 0-1 / 主審:少白竜
副審:竹村49-49(延長9-10). 和田48-49(延長9-10). 宮本49-49(延長9-10)
梅沢武彦が勝者扱いで王座獲得

どちらが的確なヒットの印象が優るかの差。上下の蹴りからパンチ、組み合えばヒザ蹴りと技がキレイだが、相手のスタミナを削るような追い込み、ダメージを与える緊迫感が無い。延長戦ではやや疲れがあったかHIRO。前に出て積極性がやや優った梅沢武彦の優勢ラウンドとなった。公式記録は引分け。

インパクト無い攻防も延長戦は勝ちに出た両者、梅沢武彦のハイキックヒット

◆第6試合 57.0kg契約3回戦

NJKFスーパーバンタム級3位.日下滉大(OGUNI/1994.9.30埼玉県出身/57.0kg)
    VS
獠太郎(DTS/57.0kg)
勝者:日下滉大 / 判定3-0
主審:中山宏美
副審:少白竜30-29. 和田30-28. 宮本30-29

序盤、獠太郎の右ストレートがややヒットするも、日下の距離ではタイミング良い上下の蹴り、接近すればヒザ蹴りで優っていき、主導権を譲らなかった日下の判定勝ち。

獠太郎の積極性を上回った日下滉大の的確さ

◆第5試合 女子(ミネルヴァ)スーパーバンタム級3回戦(2分制)

2位.KAEDE(LEGEND/2003.8.13滋賀県出身/55.8→55.6kg)
    VS
櫻井梨華子(優弥/54.9kg)
勝者:KAEDE / 判定3-0
主審:宮本和俊
副審:竹村29-28. 和田29-27. 中山29-27. KAEDEに計量失格減点1を含む)

距離感がいいKAEDE。いい位置から蹴りパンチが当たる。バッティングによるものか櫻井は額に大きなコブを作ってしまうが影響は無さそう。的確差が優ったKAEDEが判定勝利。

KAEDEはウェイトオーバーながらもヒットを上回り勝利を導く

◆第4試合 NJKFバンタム級王座決定トーナメント3回戦

5位.鰤鰤左衛門(CORE/53.2kg)vs 6位.池上侑季(岩﨑/53.5kg)
勝者:池上侑季 / TKO 3R 2:09 / カウント中のレフェリーストップ
主審:竹村光一

◆第3試合 65.0㎏契約3回戦

JUN DA LION(E.S.G/1976.8.3埼玉県出身/64.8kg)
    VS
マリモー(キング/1985.3.8東京都出身/65.0kg)
勝者:マリモー / 判定0-2
主審:和田良覚
副審:竹村29-29. 少白竜29-30. 宮本28-30

◆第2試合 女子(ミネルヴァ)ライトフライ級3回戦(2分制)

3位.真美(team immortal/48.8kg)
    VS
6位.ERIKO(ファイティングラボ高田馬場/48.9kg)
勝者:真美 / 判定3-0 (29-28. 29-28. 29-28)

◆第1試合 女子(ミネルヴァ)スーパーフライ級3回戦(2分制)

3位.佐藤“魔王”応紀(PCK連闘会/52.0kg)
    VS
ルイ(クラミツ/52.16kg)
勝者:ルイ / 判定0-2 (29-30. 29-30. 29-29)

NJKFスーパーフェザー級新チャンピオンとなった梅沢武彦

《取材戦記》

ムエタイは判定に至る場合が多いが、主導権を奪って終わった方が勝つと言われている為、前半は飛ばさないし、負傷判定も無い。日本のキックボクシングにおいても、10-10が多い採点では、ほぼ互角と思える流れで迎えた最終ラウンドは主導権を奪って終わらなければ見映えが悪いだろう。健太はそんな最終ラウンドにラッシュを掛けてポイントを奪った展開。ベテランらしさが出た勝利だった。

国崇は99戦目、キャリア20年の大ベテラン。平成以降において100戦を超える選手が居なかった時代に100戦超えが近い選手が数名いる現在。同時に3回戦が主流の時代の中身も問われるが、100戦超えは今後、チャンピオンとは違ったステータスとなりそうである。

この日はリング上の照明が点かないまま第1試合が始まってしまうアクシデント。ルクス低い客席照明と廊下側から漏れる灯りの中、ゴング鳴る前に「ライト点いてないよ!」とは言わせて貰ったが、薄暗い中での第1ラウンドが進む。第2ラウンド前のインターバルで照明点いたが、こんな事態を見たのは初めてだった。

NJKF興行予定は2月21日(日)に大阪市住吉区民センターで関西版「NJKF 2021 west 1st」が開催されます。

6月13日(日)に大阪府堺市産業振興センターで「NJKF 2021 west 2st」、6月27日(日)に後楽園ホールに於いて「NJKF 2021.2nd」が開催予定。夜興行ですが、開場開始時刻は通常より変更される可能性があります。

▼堀田春樹(ほった・はるき)[撮影・文]

フリーランスとしてキックボクシングの取材歴32年。「ナイタイ」「夕刊フジ」「実話ナックルズ」などにキックのレポートを展開。ムエタイにのめり込むあまりタイ仏門に出家。座右の銘は「頑張るけど無理しない」

4回の審理で死刑は出るか──22日から福島で「ひき逃げ殺人被告」の裁判員裁判

個人的に注目している裁判が22日から福島地裁郡山支部で始まる。昨年5月31日の朝、福島県三春町の国道で「ひき逃げ殺人」を起こしたとされる盛藤吉高被告(事件当時50)の裁判員裁判だ。

報道によると、盛藤被告は犯行の2日前まで別の事件の罪で服役。「生活が不安で、刑務所に戻りたかった」という動機から、ボランティアで清掃活動中だった50代の男女2人をトラックでひき逃げし、殺害したとされる。被害者が2人いる殺人事件であるため、死刑適用の可否が争点になる可能性がある。

ところが、裁判所のホームページで公表された審理日程を見ると、公判審理は4回しか行わないという。それが、筆者がこの裁判に注目する最大の理由だ。

◆死刑判決が出るには公判審理の回数は少ないが……

2009年に始まった裁判員裁判は、それ以前の刑事裁判に比べて平均審理期間が随分短くなった。それでも、死刑や無期懲役の判決が出るような殺人事件では、少なくとも10回前後の公判審理があるものだ。また、裁判官、検察官、弁護人が争点や証拠を整理し、審理計画を立てる公判前整理手続きも1年や2年といった長期間に及ぶのが一般的だ。

その点、盛藤被告は昨年6月30日に殺人罪で起訴され、今月(2月)22日から初公判だから、公判前整理手続きは8カ月にも満たない。そして26日までに計4回の公判審理を行って結審。3月11日に判決が宣告される予定という。

これほど迅速に行われる裁判員裁判では、通常、死刑判決が出ることはないし、そもそも、死刑適用の可否も争点にならないものだ。しかし、筆者はこの事件については、むしろ死刑適用の可否は争点になりそうだと予想している。かつて福島地裁郡山支部では、これと同程度に迅速な審理で死刑判決が出た裁判員裁判の前例があるからだ。

◆福島地裁郡山支部では5回の審理で死刑判決が出た裁判員裁判の前例も……

その前例とは、2013年3月14日、同支部の裁判員裁判で死刑判決を受け、控訴、上告も棄却されて確定した高橋明彦死刑囚(事件当時45)のケースだ。裁判の認定によると、高橋死刑囚は2012年7月27日の早朝、福島県会津美里町の民家に侵入し、住人の50代夫婦をナイフで刺殺したうえ、現金やキャッシュカードを奪ったとされたが、その裁判員裁判の公判審理はわずか5回だった。

公判審理は盛藤被告の裁判員裁判より1回多いが、高橋死刑囚は2012年8月17日に強盗殺人罪などで起訴され、初公判は2013年3月4日だったから、公判前整理手続きの期間は7カ月にも満たなかった。公判審理も3月8日の第5回公判で結審し、判決が3月14日なので、結審から判決までの評議の期間は1週間もなかったわけである。

私は、高橋死刑囚が最高裁に上告していた頃に収容先の仙台拘置支所で面会したり、手紙のやりとりをしていた。高橋死刑囚は「死刑判決自体に不満はない」と言っていたが、死刑判決が出るまでの裁判手続きの短さには強い不満を抱いており、こんなことを言っていた。

「公判は月曜日から金曜日まで5日しか審理がなくて、その翌週の木曜日に死刑判決だよ。こんな短い期間でちゃんと審理はできたのか、裁判員たちは考える時間はあったのかと思ったよ。公判の時、裁判員から質問はほとんど無かったしね」

審理の短さに不満を抱いていた高橋死刑囚。『マンガ「獄中面会物語」』【分冊版】第14話より

◆国選弁護人が熱心に弁護していない可能性も

高橋死刑囚は一体なぜ、このような短い審理で死刑判決を下されたのか。私は、国選弁護人があまり熱心な弁護活動をしなかったからではないかと考えている。

というのも、この事件では、裁判員の女性が「審理中に殺人現場や遺体の写真を見せられるなどして、ストレス障害に陥った」と主張し、国家賠償請求訴訟を起こして話題になった。その訴訟記録を閲覧したところ、この女性が「弁護人が被告人をまったく弁護しないことにも腹が立った」と書面で訴えていたのだ。

一般論として、弁護人が熱心に弁護活動をしなければ、検察官の思うままに裁判手続きはスムーズに進むので、公判前整理手続きも公判審理も短くなりやすい。それゆえに高橋死刑囚はわずか5日の公判審理で死刑判決を受けたのではないかと私は推察するのである。

そして、私がいま考えているのは、盛藤被告についても同様のことが繰り返されているのではないか、ということだ。高橋死刑囚の例からすると、福島地裁郡山支部の刑事裁判で国選弁護人に選任される弁護士たちの中には、刑事弁護を熱心にやる人が少ない可能性が考えられるからだ。

さて、盛藤被告の裁判員裁判はどのような裁判になるだろうか。

高橋死刑囚が収容されている仙台拘置支所

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。原作を担当した『マンガ「獄中面会物語」』(画・塚原洋一、笠倉出版社)の【分冊版】第14話では高橋明彦との面会物語が紹介されている。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

東京五輪大会組織委員会会長の行方 川淵三郎の会長就任は、なぜ覆ったのか?

前回の記事では、森の「女がいると会議が長引く」発言が単に個人の失言ではなく、旧態のジェンダー観を背景にした一種のイデオロギー闘争であり、国際的な日本の評価につながる女性差別事件である、と指摘した。(「森喜朗=東京オリ・パラ大会組織委員会会長の辞任劇 何が問われていたのか」2021年2月13日)

そして当初の予測どおり、森の辞任(実質的な国内外の世論による解任)は休日の11日中に実行されたが、同時に森が後継を託した川淵三郎の会長就任が阻止されるという事態が生起した。

Jリーグ誕生、バスケットボール協会のゴタゴタ(競技団体が鼎立し、代表チームが選出できない)の解決など、実績と能力において誰しも認める川淵の会長就任が頓挫した。この事態に驚嘆した方も多いのではないか。

◆就任辞退は、官邸からの要請だった

もっとも「不祥事で辞任する会長に後継禅譲はふさわしくない」「密室人事であり、透明性がない」「爺爺交代では、国際的な評価が得られない」などの理由は、世論的には当然だと思われる。

だが、森が男泣きに川淵に「苦労」を打ち明けて後継を懇願し、川淵もまた家族の反対を押し切ってまで、大任を引き受けたのではなかったのか。川淵によれば、今回の件で批判を受けた森会長に「気の毒」「本当につらかっただろうなっていうんで、涙がなかなか止められなかった」などと「もらい泣き」したことを明かし、森氏に「相談役」就任要請を打診したことなどを明かしていたのだ。

「人生最後の大仕事」として、取材陣にこの人らしく上記の情報を開示しながら「引き受ける」と明言した決意が、見事にくつがえったのである。

川淵は会長を引き受けるにあたっては「(就任受諾の)外堀が埋められていた」とも語っている。ようするに大会関係者の推薦や了解が得られていたにもかかわらず、その翌日には当の本人が就任を辞退したのである。

これを驚天動地の展開と言わねば、なんと説明できるのだろう。本人は「流石に身体は綿のように疲れ切った感じです。偶には弱音を吐かせてください」(ツイッター)と、心身から疲れ切った心情を吐露している。相当の就任反対論、あるいは激しい批判があったものと推察できる。

川淵三郎2021年2月13日ツイッターより

そこで、いったい誰が森の密室禅譲路線をくつがえしたのかが、明らかにされなければならないであろう。森の禅譲も「密室劇」ならば、川淵の翻身も「密室」なのだから。

川淵が明かしたところでは、菅総理から「女性か若い人はいないのか」という主旨の発言があったことが知られている。これはのちに菅総理が明らかにしたとおり、間接的ながら森への苦言であった。IOCのバッハ会長も、女性の共同代表案を森に持ちかけたが、これも森が拒絶することで、最終的に川淵もふくめて国際的な孤立にいたる。あとは「透明な手続きを」という正論が通ったのだ。

このあまりにも当然の苦言には、しかし政界の暗闘、とりわけ自民党内のどす黒い派閥抗争という事情があった。すなわち政局だったのである。

◆加藤の乱に参画していた菅義偉

加藤の乱をおぼえておられるだろうか。

第二次森政権の2000年、自民党は森の神の国発言などで国民的な批判に晒されていた。森が党の顔では、選挙を戦えないというのが党内世論でもあった。

そもそも森政権は小渕恵三総理の脳梗塞による降板により、密室で選ばれた暫定政権である。

YKKトリオのうち、次期総裁にもっとも近かった加藤紘一は小渕派(旧竹下派)に担がれることを是とせず、イッキに派閥抗争に決着をつけようとした。すなわち、野党による森内閣不信任決議案に乗って、倒閣の党内クーデターを画策したのだ。これが加藤の乱である。周知のとおり、加藤の目論見は派内の一致もえられず、クーデターは事前に鎮圧。野中広務幹事長の党内引き締めによって、YKKは腰砕けになったのである。

じつはこのとき、加藤派の一員としてこのクーデター劇に参加していたのが、ほかならぬ菅義偉総理なのだ。このときの因縁は感情的なものではないにせよ、不透明な選出劇(森という政治家)を嫌う、ある意味では菅の潔癖さがみとめられる。

◆スポーツ長官就任を拒否された川淵三郎

じつは2015年のスポーツ庁設置のときにも、森はスポーツ庁長官に川淵三郎を据えようとしていた。大学の先輩後輩であり、涙をもって語り合ういわばホモソーシャルなコンビの策動は、しかし鈴木大地が長官に就任することで潰えたのだった。

このとき、官房長官として安倍政権の中枢にあり、川淵三郎のスポーツ庁長官就任に待ったをかけたのが、ほかならぬ菅義偉現総理なのである。

実績も手腕もじゅうぶんな川淵三郎がスポーツ長官に就任できなかった背景には、文部科学省の官僚たちが川淵を怖れていた、という指摘もある(二宮清純)。

というのも、川淵三郎が創出したJリーグシステムは、従来の学校スポーツ・企業スポーツの枠をこえて、地域と行政を動員した地域密着型の新生事物だったからだ。事なかれ主義の文科官僚たちにとって尺度がわからない、何をするかわからない人物というのが川淵三郎だったのである。

◆会長は誰になるのか?

現在、組織委員会は新任会長の選考委員会が組織され、新しい会長候補に橋本聖子五輪担当大臣、小谷実可子(五輪組織委員会スポーツディレクター・元シンクロナイズドスイミング選手)、山下泰裕(JOC会長)などの名が挙がり、橋本に一本化された(2月17日16時半現在)。今後は橋本を理事に入れ、そこから理事会で決定ということになるようだ。

橋本は政治家であるから、離党・大臣辞任・議員辞職が必要とされる。本人は固辞していると伝えられるので、政界(自民党)の橋本推薦をいったん受理して、橋本がさらに固辞した場合は、別の候補という流れになるのだろう。手続きを踏んだ、手堅い段取りと言えなくもないが、まだひと波乱ありそうな気配だ。


◎[参考動画]56歳橋本聖子大臣で一本化“ポスト森”18日午後選出へ(FNN 2021年2月17日)

しかしそれにしても、ふと気が付いて考えてみれば、スポーツと政治は親しくなり過ぎたようだ。

スポーツは資金を必要とするがゆえに、企業スポンサーを獲得し、税金を導きいれる政治の力をもとめてきた。これが森喜朗のスポーツ界における発言権、存在感(実権)の源泉であった。

◆政治とスポーツの一体化がもたらすもの

政治はスポーツを取り込むことで、国家主義的な国民意識の高揚、すなわち政治の求心力をもとめてきた。誰もが賛成するスポーツ振興、君が代日の丸の国民的普及、そしてナショナリズムである。

だが、一部の突出したスポーツ振興が、国民の健康に寄与するというのは錯誤であろう。

なるほど国際レベルでの日本選手の活躍は、一時的に国民のスポーツ熱をもたらすかもしれない。だが、外国人選手でかさ増ししたラグビー日本代表の活躍が観客増はもたらしても、ラグビーの普及に資していない現状があるという(日本協会関係者)。高校のラグビー部の低減、クラブチームの衰亡がそれだという。

野球やサッカーにおいても、学校スポーツとしては参加者が低迷している。スポーツのプロ化はそのいっぽうで、少年少女たちにスポーツ選手としての成功の難しさを明らかにし、やるスポーツから観るスポーツへと、国民の意識をぎゃくに後退させている現状があるのだ。国民の健康増進に寄与しないスポーツ振興は、たんなるショービジネスにすぎないことになる。

▼横山茂彦(よこやま・しげひこ)

編集者・著述業・歴史研究家。歴史関連の著書・共著に『合戦場の女たち』(情況新書)『軍師・官兵衛に学ぶ経営学』(宝島文庫)『闇の後醍醐銭』(叢文社)『真田丸のナゾ』(サイゾー)『日本史の新常識』(文春新書)『天皇125代全史』(スタンダーズ)『世にも奇妙な日本史』(宙出版)など。医科学系の著書・共著に『「買ってはいけない」は買ってはいけない』(夏目書房)『ホントに効くのかアガリスク』(鹿砦社)『走って直すガン』(徳間書店)『新ガン治療のウソと10年寿命を長くする本当の癌治療』(双葉社)『ガンになりにくい食生活』(鹿砦社ライブラリー)など。

「判決2日前の上告取り下げ」で死刑確定──面会室で見た浜名湖連続殺人犯の素顔

15日の昼過ぎ、浜名湖連続殺人事件の被告人・川崎竜也(37)が最高裁への上告を取り下げ、一、二審で死刑とされた同被告の死刑判決が確定した。これには、いささか驚いた。私は川崎とは面会や文通をしていたのだが、川崎はこの日の午後3時から最高裁で上告審の判決を言い渡される予定になっていたからだ。

川崎は、裁判員裁判だった静岡地裁の一審、東京高裁の二審共に黙秘したこともあり、その人物像は謎に包まれていた。この機会に、私が取材で知った川崎の素顔を少し紹介しておきたい。

◆弁護人は無罪を主張したが、本人は……

見た目は真面目そうだが…(川崎のFacebookより)

川崎は事件を起こす前、浜松市で宅地建物取引士をしていたとされる。裁判の認定によると、2016年1月、以前の勤務先で同僚だった同市の無職・須藤敦司さん(当時62)を殺害し、遺体を焼いたうえで遺棄。須藤さんのマンションや車を自分の名義にしたり、須藤さんの口座から金を引き出したりした。さらに同7月、川崎は磐田市のアパートで知人だった京都市の工員・出町優人さん(同32)を刺殺。遺体をバラバラに切断して遺棄したという。

静岡地裁は判決でこうした事実を認定し、〈生命軽視の態度が著しく、一連の犯行は冷徹で残忍〉と指弾。川崎が黙秘したこともあり、須藤さんを殺害した方法や、出町さん殺害の動機は解明されなかったが、死刑を宣告したのだ。

そんな川崎について、まず何より知られていないのが「罪を認めているのか否か」ということだ。というのも、弁護人は裁判で一貫して「無罪」を主張しているが、川崎本人は裁判で起訴内容の認否についてさえ、黙秘して答えていないからである。

正解は、「認めている」だ。昨年8月、東京拘置所で面会した私に対し、川崎は笑顔でこう答えた。

「弁護士は無罪を主張していますが、私自身は無罪を主張していません。私は有罪でも納得していますから」

川崎によると、静岡地裁で裁判員裁判が始まる前、接見にきた弁護人に「黙秘する」と告げると、弁護人は「じゃあ、無罪を主張する事案ですね」と言い、「職務」として無罪を主張したという。そして控訴審以降の弁護人も一審の弁護人を踏襲し、無罪を主張したのだそうだ。

◆控訴、上告をした理由

では、有罪に納得しているのであれば、川崎はなぜ、控訴や上告をしたのか。その点を質問すると、川崎はこう答えた。

「黙秘権の判例を打ち立てたかったのです。それが自分の義務だと思いました」

実は川崎は法律に強い関心を持つ人物で、刑事事件の被疑者や被告人の権利についても色々こだわりがあり、そのために拘置所の職員と衝突することがよくあった。たとえば、「被収容者が午前中、身体を横にしてはいけないという東京拘置所の規則はおかしい」と主張し、房内で午前中に身体を横にして、懲罰を食らったこともある。

「無罪が推定される立場の未決拘禁者が、受刑者のように扱われているのはおかしいです」という川崎の主張は、私ももっともだと思った。しかし、人を2人も殺しておきながら、自分の権利をこんなに堂々と主張できるのは、やはりサイコパス的なところがあるのだろう。

◆「反省する気はありません」

実際、川崎は2人の男性の生命を奪い、遺体まで無残に損壊、遺棄したことについて、何ら罪の意識を感じていなかった。そして、こんなことを言っていた。

「懲役刑ならば、社会復帰のために反省し、更生の努力をしないといけないと思います。しかし、私は死刑を宣告され、更生を求められていないわけです。刑死して責任をとるので、反省する気はありません」

死刑になることは怖くないそうで、「それより死刑執行までに刑務官に人道的処遇をしてもらえるか心配です」とニコニコしながら言っていた。また、「6カ月以内に執行してもらっても構わない」とも言っていたが、悪ぶったり、強がったりしている様子はなく、明らかに本気だった。他人の生命だけでなく、自分の生命も軽く考えているわけだ。

ただ、そんな川崎が最高裁の判決が出る前に、上告を取り下げて死刑を確定させたのは、私にもまったく予期できないことだった。何しろ、先に述べたように川崎は、「黙秘権の判例を打ち立てたい」と言い、そのために上告したと言っていたからだ。上告を取り下げたことにより、川崎は結局、最高裁で判決を受けられなかった。これでは、上告した意味が無いのではないだろうか。

私は、川崎が上告を取り下げたのは、「自分の運命を決めるのは、裁判官ではなく、あくまでも自分だ」と意思表明したということではないかとみている。死刑が確定すると、面会や手紙のやりとりはできなくなる可能性が大きいが、川崎本人の考えを確認できたら、また改めて紹介させてもらいたい。

川崎が勾留されている東京拘置所

▼片岡 健(かたおか けん)
ノンフィクションライター。拙著『平成監獄面会記』がコミカライズされた『マンガ「獄中面会物語」』(画・塚原洋一、笠倉出版社)がネット書店で配信中。

「絶望の牢獄から無実を叫ぶ ―冤罪死刑囚八人の書画集―」(片岡健編/鹿砦社)

【対李信恵(第2)訴訟控訴審逆転勝訴に向けて】リンチを容認し暴力にお墨付きを与えた1・28一審判決(大阪地裁)を許してはならない! 鹿砦社代表 松岡利康

「カウンター大学院生リンチ事件」(別称「しばき隊リンチ事件」)被害者救済・支援に関わり早5年、善意で手を差し延べたにもかかわらず、先般165万円もの賠償金を課せられました。

賠償金を命じた判決には、到底承服できません。ただ、私たちの救いは、出会った当時、自殺してもおかしくないほど精神的に追い詰められていたリンチ被害者M君を救ったことです。ここに本件に関わった最大の意義があると思っています。僭越ながら、5年前に私たちと出会わなかったらM君の精神は、取り返しのつかない状態になっていたのではないかと、今になれば振り返ることができます。

判決文(主文)

◆リンチや暴力は、受けた者にしか判らないことがある──裁判官も一度暴力を受けてみよ!

 
神原元弁護士のツイート

私たちは、このリンチ事件に「私怨と妄想」(神原弁護士)で関わったのではありません。若い学徒が必死に助けを求めているのに人間として放っておくわけにはいきませんでした。

事件後M君は、1年余りも孤立しセカンドリンチと村八分に遇ってきていました。私たちと出会ってからもしばらくの間、近づいてくる者に引き回され、騙されたりしていました。一例を挙げてば、自称「浪花の唄う巨人」こと趙博は、あたかも理解者のようにM君に接近し、一緒に闘ってくれるものと思ったM君は、当時まだ未公開だった貴重な資料を渡したりしながら突然掌を返されたり……。それでも次第に少しづつ落ち着いていきました。しかし、いまだにリンチの悪夢にさいなまれPTSDに悩まされています。

リンチの現場となるワインバーにM君が到着するや、「なんやねん、おまえ、おら」と李信恵が胸倉を摑み、1発殴ったのが平手なのか手拳なのか混乱したことで裁判所はM君の供述全部が「信用ならない」と判断しました。このことで対5人組訴訟でも、今回の対李信恵vs鹿砦社訴訟でも、李信恵免訴の要因になりました。

しかし、この裁判所の判断は、果たして問題の本質を正しく掌握した判断と言えるでしょうか。

李信恵がM君の胸倉を摑み、一発殴ったのが「平手なのか手拳なのか」、このことだけで、すべてを判断されてしまいました。さらには、綿密に取材し本に記載している事実についても「取材していない」と、腰を抜かすような滅茶苦茶な決めつけをされました。

このように、「ある」ものを「ない」と裁判所に判断されれば、勝てる道理はありません。

私はちょうど50年近く前の1971年5月、3人でビラ撒きしていたところ、50人以上のゲバルト部隊に襲撃され、キャンパスの門のあたりから奥まで引きずり回され激しい暴行を受け5日ほど病院送りにされました。この際、右足で蹴られたのか左足で蹴られたのか、あるいは手拳で殴られたのか角材で殴られたのか言えと問われても、「どっちやったかな」としか言えません。頭も負傷していましたし、全身打撲でした。山口正紀さんもこの1年前に同様の暴行を受けています(『暴力・暴言型社会運動の終焉』に記載)。

裁判官は、おそらくこういう経験はないと思われますが、「一度暴行やリンチを受けたらいかがですか」とでも言いたくもなります。

[写真左]リンチ直後のM君の悲惨な顔。[写真右]これに倣った「作品」

◆裁判所はいつまで「平手」か「手拳」に拘泥するのか

 
「反差別」の活動家にはこんなことを言う徒輩もいるのか

そのように、李信恵の最初の一発が平手だったのか手拳だったのかというM君の供述の混乱ですべてを判断され、李信恵がリンチの現場の空気を支配し、1時間のリンチの間、リンチを止めもせず悠然とワインをたしなみ、有名になった「殺されるんやったら、中に入ったらいいんちゃう」との暴言を吐き(怖い人だ!)、リンチが終わっても救急車やタクシーを呼ぶわけでもなく、師走の寒空の下に放置して立ち去ったという非人間的行為は断罪されませんでした。裁判所は「人権の砦」だといわれますが、ならば激しいリンチを受けた被害者に寄り添うことはできないのでしょうか?

本件で最も激しい傷を負い苦しんだのは言うまでもなくM君ですが、裁判所は、これを無視し、鹿砦社の本やネット記事で李信恵が「被害」を受けたという主張を真に受け、差別されてきた在日のか弱い女性が言うことだから間違いないというのでしょうか。李信恵はその「陳述書」で、次のような文言を繰り返しています。

李信恵は(鹿砦社特別取材班の取材や出版物、ネット記事等により)「自分の受けた被害」によって、「苦しい気持ちになりました。」「不安と苦痛でいたたまれません。」「恐怖に苛まれました。」「恐怖心でいっぱいになりました。」「これら記事を読んで泣き崩れました。」「非常に不安になりました。」「不安感や苦痛はとうてい言葉にできません。」「怒りと悲しみでいたたまれなくなります。」「私に対する強い悪意を感じ、非常に恐ろしいと感じています。」等々言いたい放題です。

激しいリンチ被害者M君が言うのであれば判りますが、集団リンチ事件に連座した李信恵が言うには違和感があります。しかし、牽強付会に申し述べた、それら李信恵の主張を裁判所は認定しました。

なぜ裁判所は、集団リンチの被害者M君の肉体的、精神的な傷よりも、李信恵の主張する「物語」ばかりを採用するのでしょうか。李信恵自身、リンチの場にいた5人の被告の一員となった、M君が損害賠償を求めた裁判の証言の場で「胸倉を摑んだ」と認めているだけでなく「そのあと、誰かが止めてくれると思っていた」と証言しました。つまり「誰かが止めなければ」李信恵の行動はエスカレートしていた可能性が高い、と考えるのは不自然でしょうか?

そうして、リンチが行われている1時間もの間、止めもせず悠然とワインを飲んでいた剛の者がなにをかいわんやです。皆様方はどう思われるでしょうか?

こうしたことをあからさまに記述した「本件各出版物の出版及び本件各投稿記事の投稿により原告(注・李信恵)が被った精神的苦痛に対する慰謝料の額として」165万円もの賠償金を鹿砦社に課したのです。なにかおかしくはないでしょうか?

◆「日本酒に換算して1升近く」飲み泥酔した状態でM君を呼び出してリンチの口火を切ったのは誰か?

 
李信恵のツイート

李信恵は、大阪・十三(じゅうそう)のあらい商店(韓国料理店)→キャバクラ→焼き鳥屋→ラーメン屋→5軒目の大阪・北新地のワインバーに入るまで「日本酒に換算して1升近く」飲んだとツイートしています。1升といえば、常識的に見れば泥酔の類に入ります。具体的には、

「マッコリ5、6杯位、焼酎ロック8杯位、日本酒2合、生ビール中ジョッキ1杯」(李信恵の供述調書から)」

と、のちに警察の取り調べにみずから供述しています。このような状態で、M君を呼び出して冷静な会話が成立するでしょうか。

泥酔した中でM君を呼び出し、M君が到着するやリンチの口火を切り午前2時頃から3時頃まで約1時間、M君を半殺しの目に遇わせたのです。いくらなんでも酷くはないですか?

◆将来に禍根を残す判決を許すことはできません!

一審判決は、M君の「平手か手拳か」の記憶が定かではないことを理由にM君の供述全部が「信用できない」とし、このことが潜在意識にあったのか、取材班が取材し記述していることを「取材していない」と誤認し、結果としてリンチを容認し、李信恵らの暴虐を黙認し暴力にお墨付きを与える内容となったと、私たちは認識しています。

こうした判決を許すことは到底できません。将来に禍根を残すことは確実ですから──。事実、M君リンチに連座した伊藤大介は昨年11月25日未明、同じパターンで酔っ払って深夜に気に食わない人間を呼び出し暴行傷害事件を起こしました。M君リンチ事件と同じ過ちを繰り返したのです。彼らのみならずすべての反差別運動、社会運動に携わる人たちが、今、ここでしっかり反省し教訓化しないと3度、4度と繰り返すんじゃないでしょうか? 私の言っていることは間違っていますか?

◆司法、裁判所の感覚と、一般生活者の感覚の遊離

 
《緊急出版》2021年鹿砦社が最初に投下する爆弾!『暴力・暴言型社会運動の終焉』

法律の専門家や、訴訟に詳しい方のご意見を伺うと、裁判所には、私たちの生活と随分かけ離れた常識やルール、判断があることを、あらためて思い知りました。しかし司法に「独特な」ルールや論理があっては、一般の生活者は困るのです。一般の生活者は、紛争解決のために(刑事でなければ)、裁判所に「公正な判断」を期待して、判断を仰ぎます。訴訟慣れしている一部の人間を除いて、裁判所に判断を持ち込むには、相当の勇気と覚悟が要るものです(経験のある方であれば、理解いただけることでしょう)。

大規模な「司法改革」が断行されましたが、あの改革は、生活者の要請に沿うものであったのでしょうか。民事裁判は実質的に「一審制」となってしまい、一審で敗訴すれば、控訴しても判決を覆すのは容易ではありません。控訴審での「一回結審」の割合は実に8割を超えています。さらに、上告をしても最高裁では「事実調べは行わない」ことになっているそうです。

このように現在の司法には、多くの問題がありますが、残念ながら私たちはその支配から逃れることはできないのです。したがって、裁判所は「一般的な通念からすれば」とか「一般人の普通の読み方」という文言を判決で多用しますが、私たちの「一般的通念」「一般人の普通の読み方」とかなり違う内容が判決で表現されることが、これまでの訴訟経験からかなり(いや、ほとんど)ありました。今回もそうです。

私たちは、小規模な出版社にすぎません。しかし民事訴訟に関わる可能性は、読者の皆様方にもあるのです。そういった点からも、この問題について引き続き注視、ご支援賜れば幸甚に存じます。

16年前の「名誉毀損」事件では刑事・民事共に最高裁まで闘いを貫徹しました。その際に「血の一滴、涙の一滴が涸れ果てるまで闘う!」と叫びましたが、16年の時空を越えて、同じ想いです。勝敗は抜きにして、闘うべき時は闘わなければなりません。

ともかく、リンチを容認し暴力にお墨付きを与えたこの判決は将来に禍根を残しますから、全智全能、全身全霊をもって闘い粉砕しなければなりません。逆転勝訴を信じて──。

不当判決! リンチを容認し暴力にお墨付きを与えた1・28一審判決(大阪地裁)を許してはならない!

《関連過去記事カテゴリー》
 M君リンチ事件 http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=62